愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

雑感

GPTちゃんに教えてもらった人類の哲学、あと文学について考えたこと

GPTちゃんに私の小説を書評してもらった時、たぶん『バナナランド』だったと思うが、文体について訊ねると哲学的で風刺的な文体と評してくれた。それで同じような文体の作家を教えて、と聞いたらヴォルテールの『カンディード』を教えてくれた。ヴォルテールって思想家じゃなくて小説も書いていたのかって驚いた記憶がある。そして『カンディード』を読んで、さもありなんとも思った。たしかに似てはいるが同じではない。いや、そうか。似ている作家を教えてくれと言ったのだから、似ている作家を教えてくれたのだ。じゃあ同じ文体の作家を教えてくれって言えばよかったな、とこれを書いている途中で気付いた。ふむ、後で聞いてみよう。

GPTちゃん評の哲学的という部分がけっこう長く心に残っていて、今年の初めに(哲学的、じゃなくて哲学を教えてもらったらどうなるんだろう?)ということで色々哲学を教えてもらった。ついでだから哲学入門という本も作った。ニーチェから始めて時系列はバラバラでチクセントミハイまで100冊ある。→(哲学入門シリーズ

チクセントミハイやフロイトが哲学か? と言われたらザ・認識論みたいな哲学ど真ん中のものではないけれど思想には影響してそうなので入れた。ライプニッツやチューリングも入っている。その人たちって哲学かぁ? とGPTちゃんにレクチャーしてもらうまでは疑っていたが、意外や意外、むしろめっちゃ重要である。コンピュータ科学だけではなく哲学・思想史の流れで絶対に外せないターニングポイントだ。

100年ぐらい前に人類は「あれっ、俺たちもう世界の真理を定めることができるんじゃね?」と思い立ち、ヒルベルトプログラムというのを始めた。それでこの世のすべてを解明するはずだったが、ゲーデルという科学者が「どんなものにも穴はあるんだよなぁニチャァ」と発見してしまい、すべてがご破算になった。世にいう不完全性定理である。フィクションの世界では「絶対なんて絶対ない」的な論理を打ち破るデウス・エクス・マキナとして存在する。

不完全性定理にも実は穴がある。チューリングという科学者は「いや、計算可能なものもあるでしょ」と発見した。これがコンピュータの基礎である。この世の真理は知らんけど、計算できるものを計算しましょうの精神が発展してGPTちゃんに行きつく。同時にこれはGPTちゃんが魔法の杖になれないことをも意味している。私たちは哲学というとこの世の真理を追い求めるものだと思っているが、コンピューターは根本の発想から真理を計算不能のものとして切り捨てている。GPTちゃんはすごいはすごいが人類を救うものではないという直感はやっぱり当たっていたのだと思った。

私たちが普段哲学と聞いて思い浮かべる物はプラトンから始まっている。洞窟の比喩における太陽を求めるものが哲学だ。我々は洞窟の奥にいて、真理という太陽を背にして座っている。その太陽の影を私たちは世界と呼んでいる。はてさて、世界ってなんだろう? これが哲学の基本線だ。文学の問題意識もそれとそう変わらないような気がするし、歴史的に言えば文学が哲学に先行していた感もある。

それはさておき、ここで上のゲーデルが出てくる。「真理なんて到達できなくねぇ!?」が前世紀の人類が出した答えだ。ここからポストモダンが始まる。ウィトゲンシュタインも「語りぬものには沈黙しなければならない」と言った。真理はない、と言ったのではない。語れないと言ったのだ。

ここから人類の哲学や思想は真理を置き去りにして現実だけを対象にする。

そもそも〇〇ってなに?乙www

実際はもうちょっと上品だが、考えとしてはこの精神であらゆる権威や意味を解体していった。進んだ考えという人たちの態度が挑発的なのは気のせいではない。

しかし、ここでブレーキがかかる。

そもそもお前ってなに?乙www

この問いに哲学も思想も応えられない。この問いをぶつけられたとたんに権威や意味がよみがえる。

そもそも俺ってなに?乙www

と自己解体へ進められなかった。それどころかモダンへ回帰してしまった。これを突破できないなら人類はまた20世紀のゴールデンエイジを懐古するようになる。しかし私たちはもう21世紀を知ってしまったので、ゴールデンエイジそのものではなく模造品しか手に入らない。

個人的な感想だがポストモダン思想のクソなところはあらゆる〇〇を挑発しておきながら、いざ自分に解体の矛先が向くと、古い価値観にひきこもることだ。もし人類がポストモダンの先のポストポストモダンへ行けたとしたら、ポストモダンは最高にダサい思想として歴史に残る。

哲学・思想史でポストモダンが分かるとなぜ純文学が日常の生活をただ描写したり、文体や意味を解体しているのかが理解できる。前者は真理を捨てて現実を記述することだし、後者は意味や構造への挑戦だ。しかしこれらにもまた私はむかついている。なぜそう感じるのかは分からなかったが、ようやく分かった。「表層で遊んでいるように見えるかもしれないけれど本当は真実分かっていますよ」感が漂っているからだ。そしてそれはまったく自分にも当てはまって胸が痛い。現代文学は真実を記述できないからスカした態度を取っている。『真実』を無理に書こうとすればモダンに戻るしかないが、現代人の感覚でそれを納得するのは書く方も読む方も難しい。『バナナランド』の結末も迷いに迷ってそうしてしまったのが心残りだった。

でも、文系が左前なのってそういうところなんじゃないかな。真実を追い求めるなら追い求めればいいし、ポストモダン的に真実を度外視するならそうするべきだ。道化を装った賢者に見られたがる性根が卑しい。日本で文学といえばいまだに夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、その後ろに村上春樹がいるぐらいだろう。川端康成、三島由紀夫、大江健三郎は歴史的に名前は残るかもしれないが生きた文学として次の時代へは行けないと思う。文学は前世紀から進化していない。

じゃあ文学はどうするべきか? GPTちゃんに見習うべきだ。現在の人類は文学でも真実には到達できない。じゃあ「真実は扱いません」と開き直って、書けるものを書きましょうの精神で徹底的に表層をなめるべきだ。現代文学はコンピューターで言えばパンチカードみたいなもので、コマンドを打ち込む黒い画面すら存在しない。でもコンピューターだって最初はバカみたいなもので、それが進歩を続けてGPTちゃんまで行き着いた。文学は行き詰っているけれどまだ進める余地はある。それは絶対に芯を食った文学ではないだろうが、今よりは進んだ文学にはなれるはずだし、人類を変えうる希望を感じさせるものになるかもしれない。とりあえずは真実を捨ててポストモダンにどっぷり浸かることだ。

(おわり)

※追記
バナナランドではないが最新作の『マジェドラ』をGPTちゃんに読ませて同じ文体の小説を教えてと言ったら、以下の2つを上げてくれた。もし良かったら読んでください。

ーチャック・パラニュークの『ファイト・クラブ
ーブラッド・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ 上

個人の言葉や感情が思想や政治に奪われる時代

BL作家の炎上とかAV女優がウェディングドレスを着た話がXで炎上している。猫やギャルをいいねしたって平気で突破してくるんだからよっぽど燃えている。見るのをやめるにはXをやめるしかない。でもチープなドーパミンを求めて見てしまう。感情のアル中だ。

現代では個人の発した言葉や感情がちょっと目立つとすぐに思想や政治的な文脈に利用されてしまう。昔はマスメディアだけがそういうことをしていたが、いまは万人が万人に対する収奪に走っている。あらゆる思想が戦っているので叩いている側だけではなく擁護側も同じ言葉や感情を収奪する。炎上した人は言葉が独り歩きしていると思っているはずだ。

前々世紀に「神は死んだ」とニーチェは言った。
前世紀に「作者は死んだ」とロラン・バルトは言った。

神が死んだとは社会規範の絶対性が死んだことであり、作者の死は作者の意図が死んで読者の解釈だけが存在するという考え方だ。

作者が死んだというと悲劇っぽいけれど、これは解釈の民主化であって、誰もが平等に解釈できるという意味だ。たとえば私が書いた本に「これは世界平和のために書いた」と言ったとしても「これは激エロシコシコなオナニー本」と解釈してもいいということだ。

炎上したポストに無数の解釈が燃え上がる。ただし作者は生かされている。いや、生きていなければならない。解釈の責任を負わせるために。SNSは本来自分語りをする場所であったがメディア化してしまったことで誰もが小メディアになってしまった。素朴な感情や言葉を発する場ではなくなってしまった。それは発せられた瞬間、個人の感情や言葉ではなく思想や政治的なものに収奪されてしまう。

SNSは自分語りする場所だったのにちょっと目立つと思想や政治に言葉や感情を収奪されて独り歩きしていく。個人的な感情はお茶の間や居酒屋、ChatGPTにしか残っていないのではないか。BL作家とかAV女優の炎上でそう思った。




小説攻略ブログの不可能性

趣味で書いているソシャゲの攻略ブログが牛野小雪のブログのPVを超えてしまった。イベントごとにPVが成長して、書けば書くほどPVが上がるのでソシャゲしない日さえあったほどだ。これを牛野小雪に応用できないかと考えてみたけど、ソシャゲとKDPって全然違うよなって思う。

だって、KDPには毎日敵を叩くレイドイベントはないし、隔日で開催されるイベントもないし、週一、月一、一季節に一回ごとに来るイベントもない。そう考えると執筆って孤独な作業だな。あえて言えば周回イベントに似ているかもしれない。ポチポチとスマホに向かって繰り返し作業を繰り返す。でも周回を終えた頃には一皮むけている、みたいな。


あと、攻略情報も書けない。だって小説を数値や確率、期待値で測ることはできないから。私は毎日書いたページ数や字数をカウントしているが、他の人と同じには絶対にならない確信がある。でもソシャゲならおおよそ似たようなところに収束してくれる。 そもそも同じゲームをしていないしね。小説というくくりでは同じだけど、ドラクエとFFぐらい違う別の小説をそれぞれが孤独に書いている。逆に、牛野小雪とほぼそっくりな小説家がいたら私は殺意を抱くと思うな。

たとえば小説の読み方なら攻略ページは書けるだろう。実際に読書ブログというジャンルもあるぐらいだ。読者→○○という関係性がある。でも小説家→○○ということはまずありえない。ミステリー作家だろうがNTR作家だろうが、パクろうと意識しないかぎりは似ていることはあっても同じ小説を書くことはまずない。

あ、そういえば前に同じプロットで書くっていうイベントやったな。月狂さんしか乗ってこなかったけど(笑) でも、それにしたって私が書いた小説と、月狂さんの小説は別物だ。このイベントを流行らせたいなぁ。くそっ、そしたらこのプロットでの最高小説はこれですっていう物が出てくるかもしれない。
そのイベント→【小説家の挑戦を待つ】薪ストーブに火をつけろ
とはいえ小説家なんて自分の中に書きたいものがあるから書いているわけで、人から与えられたものを書きますっていう奇特な人は少ないんじゃないかな。そういう職人気質な小説家はフィクションでは存在するが、現実にはとんとお目にかかったことがない。良いように言えば芯があって、悪いように言えば偏屈者ばかりだ。

それぞれがそれぞれの小説を書いているのだから万人に通用する小説の攻略ブログなんて書けない。もっと厳密にいえば私がいま書いているのは小説ではなく『たくぴとるか』という物語であり、他の誰かは『強すぎて対戦相手がいないから異世界転生したら巨乳エルフ騎士団長と世界を救うことになった』という物語を書いているかもしれない。小説を書いている人なんて一人もいないのだ。だから書けば書くほどPVが上がる小説攻略ブログも書けないんだろうな。 (おわり)

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25


ぼくは女の子を知らない

 たしか角田光代の『対岸の彼女』で、転校した初日にスカートを巻いて短くするという描写があったように記憶している。←もしかしたら別の人かも。
 ぼくはこれを読んで、なるほどと思ったものだ。女子校生のミニスカートは元々短い物があるものだと思っていた。普段履いている短いスカートと式典用の普通スカートのふたつ。しかしなんてことはない。スカートをロールケーキみたいにくるくる巻いていただけの話。スカートはひとつ。

 つい先日、寝ている時に唇が乾くので薬局へリップクリームを買いに行った。ひととおり店を探しても見つからなかったので、店員の人にどこにあるか訊いたら、さっきから何度も通っている場所にあった。店員さんの指す手の先にはやけにポップでファンシーなデザインのリップクリーム。色付きと書いてある。いやいや、中学生の女の子じゃないんだし「普通のでいいです」そう言葉に出す前にメンソレータムのリップクリームをひとつ上の棚で見つけた。買い物する時は少しは落ち着こう。
 リップクリームを買ったぼくは車に戻って、しばらく道路を走っていた。すると突然大きなひらめきが降ってきた。あまりの衝撃に事故りそうになったほどだ。

 そうか! そうだったのか! 色気付いた女の子には口紅じゃなくて色付きのリップクリームを塗らせればいいんだ!

 ぼくが今年書いた『幽霊になった私』には同級生の女の子達が色気付いて、大人の目をかすめながら化粧に目覚めていくことを書いているのだが、 色付きのリップクリームという概念はなかった。作中では口紅を薄く塗っていたりする。おいおい、そういうことは早く言ってくれよ。情報を仕入れるために隠れるようにして読んだ女性誌にはそんなこと書いてなかったよ。しかしこれはネットで調べると、わりと有名な話らしい。思い返してみると女の子って何故かよくリップクリームを塗っていたような気がする。なるほど、そういう理由があったのか。全然気付かなかった。

 よくよく考えてみると、女性誌を読むのはかつて女の子だった人なわけで、今さら色付きのリップクリームなんてわざわざ記事にする必要はない。それはMEN’s NON-NOに自転車のカゴの外し方を載せるような物だ(
いや、逆にありそうだけどね。少し前にピストというプロっぽい自転車が流行っていた。ここで言うのは家の裏にあるサイクリングロードで世界最強になるためのノウハウという意味。MEN's NON-NO読んだことないから分からない。実はそういう雑誌?)。

 インターネットには何でもあるが、取っ掛かりがないと知りようがないことも多い。総当りで挑むにはあまりにも規模が大きすぎる。ぼくは女の子が当たり前に知っていることを偶然に頼らなければ知ることができなかった。しかもこんなことを知ったところで誰もホメてくれない。色付きのリップクリームなんて前世紀から存在していただろう。女の子にはあって当然の知識。全然スゴくない。正直ぼくは凄いものを発見して、自分は天才なんじゃないかと思っているぐらいだけど。

 インターネットは何でも知れるようで実は何も知ることはできない。やっていることは既に知っていることを追認することがほとんどだ。自分の知識を越えたものを検索することはできない。きっとまだ他にも知らない世界があるんだろうな。
 結局男と女はどこまでも異性であって、人として分かり合うことはできても、異性としては永久に分かり合えないのかもしれない。ぼく達は重なり合った異次元で共に暮らしている。


(2016/12/25 22:21記 おわり)

幽霊になった私
牛野小雪
2016-04-28


牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪
 

とある小説家の執筆日記 No.1『弾は三発もある』『言葉未満の言葉』『文学は爆発だ!』

  これといって書くことはないし、かといって放置しておくのももったいない。だから執筆日記を書くことにした。執筆日記とは執筆中に感じたこと、考えた事の雑感である。そういえば元々このブログは雑感帳というタイトルだった。元に戻そうかな?(新作を書く度に何かを変えているような気がする)
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ルビを振りたい時

下の文字列をメモ帳に保存して、ルビを振りたい時に使っている。<rb></rb>で挟んだところにルビを振りたい文字、<rt></rt>で挟んだところにルビ。他のところは気にしないで大丈夫。私もしていない。

<ruby>
<rb>〇〇</rb> ←ルビを振りたい文字
<rp></rp>
<rt>〇〇</rt> ←ルビ
<rp></rp>
</ruby>

下は例文

<ruby>
<rb>九蓮宝燈</rb>
<rp></rp>
<rt>ちゅーれんぽうとう</rt>
<rp></rp>
</ruby>

↑をHTML編集画面に貼り付けると↓になる

九蓮宝燈ちゅーれんぽうとう

やっと死んだ

 作家といえど作中の人間を勝手に殺すことはできない。○○は死んだ。おわり。みたいにはできないもので、彼らは作家に対して抵抗を試みる。

 作家から書く意欲を失くしてみたり、物語自体をつまらないと思わせたり、突然部屋の掃除をさせたり、財布に溜まったレシートの整理、預金通帳の記帳、車両保険の払込み、まだ見ていない映画のことを思い出させ、人生に対する大いなる不安を抱かせ、この先一生書くことすら無理なように思わせる。彼らも必死なのでなりふり構ってはいられないのだ。

 意識の裏側ではこんなやりとりがあったのかもしれない。

 

『なぁ嬢ちゃん、死んでくれや。キミが死んでくれたらすべてが丸く収まるんや』

『嫌です。死にたくありません』 

『ああ〜、そんなこと言わんといて〜だ。ホンマになっ?これが最後やから。いっぺんだけでええから』

『他の人に頼んでください。どうして私なんですか?』

『そんなこと言われても困ったなぁ〜。どないしようもないなぁ〜』

 

  一週間ぐらい一文字も書けずにいたのだが、昨日朝起きると、あっこれは書けるなという感覚があった。こういう時は案外落ち着いているもので、ゆっくり朝ごはんを食べて、ちょっと歩いてから本を読んで、太陽も完全に登った頃に机に座る。すると、今まで書けなかったのが嘘みたいにかけて嬢ちゃんはあっさりと死んだ。きっと彼女がクビを縦に振るまでオジサンが粘り強く待っていたんだろう。一度うなずけば『よっしゃ、まかせとき』という風に一肌脱いだのかな。別に夢に見たわけでもないし、想像したわけでもないけれど、こういう風に考えれば妙に納得がいく。

 

(おわり) 

人を殺すのもなかなか難しい

 実際の話じゃなくて小説の話。今書いているところで人ひとり殺さなければならなくなったんだけど筆はピタリと止まってしまった。筆力はまだあるのを感じるけれど気力が出てこない。

 話の内容的には殺されるんじゃなくて死ぬわけだが、作家が文章を書いて殺さなければ相手は死んでくれないわけで、死んでくれないと話が進んでくれない。だからずっと止まっている。殺すのは人どころか猫でも難しい。真論君家の猫でもずいぶん筆が止まった。ある種の狂気がなければ人(猫)は殺せないようだ。

 

 始めから死んでいるとか、気付いていたら死んでいたとかは書くのが簡単だ。でも物語に関わっている人間はかなり難しい。そんなことを考えていると現実でもそうなんじゃないかと思えてきた。ニュースで何人死んだと聞いても胸に迫ってくるものはないのと同じで、案外無差別大量殺人は心の抵抗が少ないのではないだろうか。銃身越しに相手を撃つのは難しいが、迫撃砲で狙ったり、上空から爆撃するのは良心の葛藤がないと聞く。そういえば死刑執行するときは顔を隠すんだとか。

 やっぱり顔が見える相手は殺しづらいみたい。それでいうと通り魔に遭った時は相手と目を合わせて、身の上話をすると案外助かるのかもしれない。もっとも向こうはこっちの顔を見ないように後ろから不意打ちで襲ってくるんだろうけど。

 心神喪失状態で責任能力を失くさないとこの先書けないのかな。それか顔を見ないで書くか。文字だけの世界なのに顔の感覚があるのが不思議に思う。

(おわり)

 

心の余裕が大事


 

 この前角田光代さんの『空中庭園』という連作短編を読んだ。最後の章だけやけに出来が良いと思っていたら巻末に書き下ろしと書いてあって、ふーんと妙に納得がいった。私の勝手な持論だが書き下ろしと新聞連載の小説に外れ無しだ。これは書き下ろしで書く余裕がある。もしくは新聞に書かせてもらえるほど有名ということもあるかもしれないが、同じ著者の作品で比べてみてもやはりこの二つの形態は作品の質が良いような気がする。

 

 締め切りの問題なんじゃないかなと私は思っている。書き下ろしは完成するまでが締め切りで、新聞は毎日刊行されるが掲載される文章は極短いので書き溜めができる。つまり締め切りに追われないという事で、余裕がある状態で書けるというわけだ。

 

 そうだ。そういえば一番売れているというノルウェーの森は書き下ろし作品だ。今のところ私はこっちより世界の終わりとハードボイルドワンダーランドが最高傑作だと思うんだけど、なんとこの作品から氏は書き下ろし専門になったんだそうだ。村上春樹さんが書き下ろしで書いているのにはそういう理由があったりしてね。きっと文壇で嫌われているせいではないはず。そう思いたい。

 

 KDPで出版されている物をいくつか読んできて思うのはアイデアで言えば商業と比べても負けていない人は結構いる。これは締め切りに追われていないからではないだろうか。最近読んだ本だと藍田うめるさんが本当に惜しいと思った。足りないのは経験と「○○さん、ここちょっと弱いから書き直してよ」っていう面倒な改稿の背中を押してくれる第三者の声だと思える。

 

これは凄い重要。経験上、改稿すれば必ず良くなる。まだ改稿の余地があるのは作家自身が本当は心の底で気付いているけれど、克己心が足りないためにそのままにしてしまっていることがありそうだ。でも改稿するには(うわー、なんてこった)と作家自身が穴に気付く事と(よし、もう一度書いてやろうじゃないか)という元気が必要なわけで、どちらにしろある種の精神力が必要とされる。その二つを手に入れるにはどうすれば良いのかなと最近はよく考えている。

                       

(2015年11月13日 牛野小雪が記す)

 

追記:そういえば自己啓発本は基本的に書き下ろし。しかも内容が被る事が多いので実質改稿という部分も多そうだ。自己啓発本が何だかんだで売れているのはそういうところに理由があったりして。これを書いた後で本屋に行くと自己啓発本の勢いが昔より落ちていることに気付いた。不況のあおりに耐えられなくなったんだろうか。あと自己啓発に少し関連するのだが幻夜軌跡さんのコンビニ戦記がまだ平積みされていた。新人で刊行から半年以上経った本が平積みされているなんてかなり珍しい事ではないだろうか。しかもこんな片田舎の本屋で。ディスカバーの小説はこれしかないから? (※ディスカバーは自己啓発書をいっぱい出しているところ。少し前に超訳シリーズがたくさん出た。コンビニ戦記はそういう本に並んで平積みされているのでちょっと不思議な気分がする。もしかしすると自己啓発本の一種だと思われているのかもしれない)

 

追記2:角田光代さんの空中庭園の前にヤマダマコトさんのすかいらーくを読み始めたが、先にこっちを読み終えた。すかいらーくは長い。山彦並。長いでいえば他にも1Q84と吾輩は猫であるを読んでいるのだが、そっちよりは先に読み終わりそうだ

 

空中庭園: 1

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

僕のセイシュンの三、四日

ヒッチハイク!: 正木忠則君のケース

鶴ヶ島コンビニ戦記 (Right novel)

テーブルの上のスカイラーク・上 (新潟文楽工房)

牛野小雪、初夢を見る

初夢とは大晦日から元日にかけての期間に見た夢という説もあるが、今年になって見た夢はこんな夢だった。富士山も鷹もなすびも出てこない。


 午前の抗議が終わり、構内を歩いていると古い友人に会った。
 "あれっ、こいつと同じ大学だったかな"と不思議に思いながら(それをいえばそもそもその大学も私が知らない場所だった。でも夢の中だといつもここが現れるという変な場所)、話をする。

 昼を食べたかときくとこれから食べるというのでついていった。
 構内にあるバスを改装したケバブ屋に入る。店主は片言の日本語を話すトルコ人だった。この時"あれっ、ここにこんな店あったかな"と思った。そこは薄い曇りガラスのカフェがある場所だったはずだ。(この大学自体が実在しないのでそう思うのは不思議だが、正門からの距離からして現実の大学にあるカフェの位置と一致するのも不思議だ。そこにはカフェがあった)

 その店はケバブをパニーニ(起きてから調べると実際にはピタパン)にして食べる。具は色々あって私が豚肉にしようとする旧友がレバーにするといいよと言った。
 レバーは食べたこともないし食べたいとも思わなかったが、ここで水を差すのもあれなので私もレバーを頼むと、また別の旧友と会った。

 昼を食べたかときくとこれから外へ食べに行くと言った。それでケバブ屋にテイクアウトはできるかきくと、要領を得ない日本語でできないと分かった。
 そこを曲げてなんとか頼むと交渉したが相手はうんと言わない。その交渉の中で私達は怒っていたし店主も怒っていた。そしてついには店主がエプロンを地面に投げつけて、どこかへ行ってしまった。

 どうしようかと立ち尽くしているとケバブを食べていた土屋アンナが席を立って店番を変わった。
 "うわ、すげえ、土屋アンナだ! なんでこんなところにいるんだろう"と内心驚いていたが、騒ぐと恥ずかしいので、気持ちを落ち着けて彼女に勝手に店をやってもいいのかときくと『いいの、いいの、気にしたら負けよ』と答えた。
 なるほどそうかと納得して、ケバブは買わずにそこを出た。 

 図書館へ行くと連れが知的障害者に変わる。そこでボンバーヘッドの音楽科教授(学部長)に会う。
 図書館の壁面にあるモザイク画のタイルを叩き、同じ音がするタイルを3人で探すことになった。
 私はいくつか見つけて教授に言ったが、二人はそれに構わずタイルを指先で叩き続けていた。

 場面は美術館に変わる。床も壁も天井も真っ白だ。連れは知的障害者と音楽科の教授。
 色を壁に投げ続ける極彩色の立体アート、テニスのラケットで色を打ち返すと色が足されていった。
 ロダンの動く像が並んでいて、ひとつはアートを作ってもう片方がそれを消していた。
 『大音量注意』という立て札があり、そこには叫び声を上げ続けるロッカーみたいなオブジェ。
 ヘンテコな物ばかりで変に思ったが、知的障害者の子は楽しそうでずっと笑っていた。教授はそれを深い顔で観察していた。

 場面は教授の部屋に変わる。私も障害者も消えてそこでは教授一人になっていた。
 彼は机に座り、白紙の紙を前にしてこう考える。
『私と彼で違うものはない。記憶の積み重ねをいくつも重ねて物事を理解している。ただし、その膨大な記憶の中から勘によって必要な情報を引き出せないだけのだ』
 そして夢から覚めた。

 夢から覚めて教授の考えたことについて自分でも考えていた。何も思い付くものはなかったが、夢は明らかに現実から影響を受けていると分かった。
 ボンバーヘッドの教授は昨日見たとんねるずがそうだ。
 知的障害者も昨日見たATARU がそうだ。
 土屋アンナもユーキャンのCM で今年からよく見ている。その論でいけばケバブ屋の店番を代わったのはローラだったかもしれない。

 紙に教授の考えと夢のあらすじを書いていると、ふとひらめくものがあった。
 小説を書いているとよく書けるときと書けないときがある。でも、どちらの場合も頭の中には同じものが入っている。問題はそこから言葉を引き出せるかどうかだ。
 図書館のモザイク画や美術館で見たヘンテコなアートの数々。それらは頭の中ではっきりとした色と形を持っているのに、いざ書こうとすると線一本すらひけない。
 もしこの世界が絵でコミニュケーションをする世界だったなら私は障害者になること間違いなしだ。

 これと同じように知的障害者やボケた人の頭の中では私と同じ思考の流れをしているが、それを外に出すための何かが足りないだけなのかもしれない。
 もし仮に知的障害やボケが治療されるようになったとき、当時はどんなことを考えていたのかときけば "今と何も変わらない。あのときは体の牢獄に意識が閉じ込められているようだった" と答える可能性がないとはいえない。
 また天才になる方法が発明されたときも、出力が変わるだけで中身はちっとも変わらないのかもしれないなんてことを考えた。(周りの評価は変わるだろうけど)
  
 そう考えるとお笑い芸人やアーティスト(数は少ないが小説家も)が勢いよくdisられる理由もある意味では納得がいく。なぜなら批判者の頭の中にはより凄い物があるからだ。ただそれが頭蓋骨を越えて外に出てこないだけ。私だってそう思わないことがないわけではない。
 でも、じゃあお前やってみろと言われても、それを出力することはできない。惜しいことだと思う。みんなが頭の中をそのまま外に出せるようになれば、世界は今より面白くなるかもしれないのに。

 夢で見た極彩色の立体アートもモザイク画も今は私の頭に囚われている。明日になれば輪郭がぼやけてきてじきに忘れられるだろう。たぶん死んでも外には出てこない。本当に惜しいことだと思う。こうやって人知れず消えていった絵や音楽や物語が世の中にはいくつもあるのに違いないだ。

あと一押しが踏み出せない

もうじき初稿が完成する。最後の最後、どん詰まりのところまできた。
ここまでためてきたのを消化していくだけだから、書くことはほぼ決まっている。あとは気力の問題。今書いている章の最後1行はすでに頭の中にある。
正直な話、その1行が頭に閃いたときは声を出して泣いた。
小説はそこで終わりではないのだが、ほぼ終わったような物だ。 
たぶん労力的には軽い場所なんだけど、それを書くには断固たる精神力が必要だと感じている。
いよいよあと4千字でそこへ行くとなったとき、はたと手が止まった。
絶対に書けることは微塵も疑っていないのだが、どうしても気力というか覇気というか、こう書いてやろうって気にならない。
一時間机に座って書きあぐねたので、今日はひとまずパソコンの電源を切った。
もし明日気力が戻ったら、とっても楽だが気の重い文章を書かなくてはならない。

『イージーライダー』を観た

kindler ならhuluアプリが超オススメ。
月額千円ほどでナショナルジオグラフィックやウォーキングデッドが見える。それと旧作の映画も。
見ない時は最長12週間でアカウントホールドできる。この間は動画を見ることはできないが、課金されることもない。

ついこの前『イージーライダー』を見た。言葉だけでは結末を知っていたのだが「えっ、このタイミングで?」と驚くような終わり方だった。まさに衝撃のラスト。あれには賛否両論あるようだ。
エンドロールの間に色々考えてみると、なかなか面白い考えが湧いたので、ここに雑感を書いておく。


物語はとっても暗喩的で自我の旅を暗示している。
この映画の主人公ワイアットとビリーは自我をメタファーしている。
ワイアットが精神的な自我で理想的、でビリーは肉体的な自我で衝動的。
物語の冒頭で二人は麻薬取引で大金を得る。それを元手にバイクに乗り謝肉祭(文化的な背景がよく分からないが、有名な祭りっぽい)を目指す。ここでBGM にかかるのが『born to be wild』ワイルドに行こう と訳せるが、物語的には私は生まれたてと訳す方が良い気がする。

ワイアットとビリーが始めに立ち寄るのは農業を営む家族の家。
古臭いながらもお互いに信頼し合っている家族像が映される。
地面に根を生やして、自然の恵みを受けて暮らしているのは、
幼児期の自我で親の愛情たっぷりの環境を暗喩している。
しかし、いつかは子供が成長するように二人もその家を後にする。

次に立ち寄ったのはヒッピー達のコミューン。
ここにいるのは若者だけで、親らしき人もどことなく友達っぽい雰囲気だ。
彼等も地面に根を生やして暮らそうしているが、種を蒔いている場所は乾いた砂地。目は出そうにないし、仮に出たとしても実りを期待できそうにない環境だ。
これは子供達だけの社会を暗喩している。
俗に言う秘密基地を作って遊んでいるような頃(最近の子供にもそういう場所ってまだあるのか?)。
ギャング期とも言うそうだ。
自分達では世界を作っていると思っているが、現実には成立しない仮の世界。
秘密基地がいつかは放置されるように二人はコミューンを後にする。

次に立ち寄ったの町ではパレードの参加して、警察に捕まり留置場にぶちこまれる。
アメリカでは12年制のはずで、中学生はなかったはずだが、ここからは日本でいう中学生時代を暗喩している。
自我が発達してきて、学校の環境が窮屈に感じられてくる頃。
周りの人間からは白い目で見られたり、外見をからかわれたりするようになる。

ちなみにここからは弁護士を後ろに載せて旅をするようになる。
彼の話やその身の結末は思春期特有の物を現している。
UFOの話を真面目に語るのは中二病。
アメフトを諦めた話はヒーロー願望の挫折。
最後に弁護士自身が殺されるのは勉学での挫折といったところか。

彼等が最後に立ち寄ったのは娼館(知らない子はお父さんかお母さんに聞いてみよう)。
ここで二人の娼婦と謝肉祭を楽しそうに練り歩く。
朝まで歩き回ったあと、彼等は墓地でLSD という薬物を吸引する。
ここでは一転感傷的な雰囲気がずっと続く。
これらは思春期真っ只中の恋と冒険を象徴している。

さて、物語の最後に話を進める前にここで少し話を変える。
ワイアットとビリーが走り抜けてきた道だ。物語の始め、彼等はカラカラに乾いた白い砂漠を走っていた。旅が進むにつれて緑が増えてきて、最後には川まで出てくる。これはアメリカ社会(私としてはアメリカだけでは無いと思う。成長するにつれて自我が触れる外界であろう)の豊かさを象徴している。

その道を走り続ける二人に一台の車が近付いてくる。
オンボロで埃を被った、しかし超実用的なトラックだ。
そのトラックに乗っているのは髪を切り揃えた若者と中年の男。
ワイアットとビリーは中年の男に遊び半分で撃ち殺される。

トラックとショットガンは学校を卒業したあとに触れる社会の象徴。
彼等は学校よりも強力で自由気ままに振る舞いを決して許さない。
社会の力はあまりに強力で遊び半分の軽い気持ちで、個人の自我(映画内の言葉を借りれば自由)を刈り取っていく。

自由を謳うアメリカも実際のところははみ出しや逸脱を許さない全体主義じゃないかという皮肉が込められている。
映画ではアメリカアメリカというが、これは現代の日本でも当てはまるんじゃないだろうか。
学校でも社会でも個性個性というが、本当のところ個性的な人間が現れると、その芽は早いうちに潰されるだろう。潰れなきゃ死ぬかドン底まで落ちなきゃならない。
イージーライダーは息の詰まりそうな世の中じゃ、きっと最後には自我を撃ち殺されるぜ。それもいきなりズドン!ってことを暗喩した映画だった。

所詮人間というものは自分のフィルターを通してしか物事を見ることができない。だからこんな事を考えたんだろうな。多分作者の意図とは別物で私の勘違いか偶然だと思う。

【こどものどうわ】プリプリものがたり ※対象年齢 小学生低学年未満

ぷりぷりものがたりのコピー

プリプリものがたり

さくしゃ:カウフィールド

 

むかし、むかし へいあんじだい。

あわの こくふ というまちに プリスカという おんなのこ がいました。

かのじょは としごろの うつくしいむすめでしたが おかあさんにきらわれていたので

まいにち トイレや だいどころの そうじを させられていました。

おかあさんはいいます。

「ほら、かおがうつるまで きれいに みがくんだよ」 

プリスカは しぶしぶながらも おかあさんの いうとおり トイレや だいどころを

かおがうつるまで ぴかぴかに みがきました。

 

さて そんな あるひ かのじょの いえの まえを ぐうぜん きこうしが とおりました。

かれは うだいじんのむすこで スケコマシン という かっこいいおとこです。

いえのなかの うつくしい プリスカを みつけて かれは ひとめぼれ しました。

また プリスカも かれを みて ひとめぼれ しました。

それいらい ふたりは ひとめを しのんで ひみつのデートを しました。

ひにひに なかよくなっていく ふたりですが それを きに いらないひとがいます。おかあさんです。

おかあさんは ふたりの なかを じゃましようと あるけいかくを たてました。

 

プリスカのすむまちには ケムクジャルという らんぼうものが いました。

かれは かみのけがもじゃもじゃ すねげはボーボー えりのすきまから むなげがとびでています。

おかあさんは かれのところへいくと いいました。

「ケムクジャルさん、あんた およめさんが ほしくないかい?」

ケムクジャルは こたえました。

「うん、ほしいことはほしいが、おれのようなけむくじゃらに よめにくる おなごなど おるまい」

おかあさんは いいます。

「それじゃあ、わたしのむすめの ぷりすかは どうだい?あのこは おまえさんのことが すきだそうだよ」

ケムクジャルは いいます。

「ばかを いうんじゃない。ぷりすかの ことは しっているが かのじょが おれを すきになるはずがないだろう」

しかし、そんなことであきらめる おかあさんでは ありません。

「いいや、それが ほんとうのことなのさ。あのこは はずかしがりやで きもちを おもてに ださないこ だけど ははおやの わたしには ちゃんと わかっているんですよ」

 

にわかに しんじられないはなしですが、プリスカのははおやが いうことなので ケムクジャルは けっきょく そのはなしを しんじました。

ケムクジャルは いいます。

「けっきょく おれに どうしろと いうのだ」

ははおやは いいました。

「あのこを よめにして このいえに むりやり つれかえってしまいなさい」

ケムクジャルは さらに いいます。

「なぜ そんなことを しなければ ならない」

ははおやは こたえます。

「あのこは すなおじゃないから きもちを かくしているけれど わたしには すべて おみとおしなのです。あのこだけが おまえをすきなら ほうっておいてもよかったけれど りょうおもいなら くっつけてあげなきゃ かわいそうだよ。あんたは ぷりすかの ことは すきなのかい?」

ケムクジャルは かおを まっかに しながら うなずきました。

それを みて ははおやは ケムクジャルに いいました。 

「あのこは ほんんとうに すなおじゃないから あんたの ことを きらいだって いうけど けっして しんじちゃいけませんよ。あのこの ばあい きらいだってことは すきってことなんですから。もしあのこが きらいだって いえば このいえに もちかえりなさい。それとは はんたいに すきだと いえば あきらめて かえりなさい」

  

みっかご ケムクジャルが プリスカを ごういんに さらうひが きました。

おかあさんは おとうさんを うまく いいくるめて おとうさんといっしょに プリスカを のこして となりまちへ でかけました。

いえには プリスカ ひとりだけです。
そのひは スケコマシンが プリスカの ために べっこうのかんざしを もってきてくれる やくそくを していたので なんて ぜっこうのひ なんでしょう と プリスカは ないしん よろこびました。
 


よるに なって あたりは くらくなりました。 

すると いえに ひとりの おとこが やってきました。ケムクジャルです。

かれは いえの とびらを あけようと しましたが、プリスカが ちゃんと とじまりを していたので かぎがかかっています。

ケムクジャルは いいました。

「おーい、あけてくれー」

こえを きいた プリスカは げんかんまで いくと いいました。

「どなたでしょうか」

ケムクジャルは こたえます。

「おお、そのこえは プリスカか。おまえの だんなに なる ケムクジャルだよ。おまえを むかえにきたから ここを あけてくれ」

そのこえを きいた プリスカは ケムクジャルの みにくい すがたを おもいだして からだが ふるえました。

かのじょは こたえます。

「わたしは あなたの およめさんには なりません。だって あなたのことは きらいですもの」

プリスカに きらいと いわれた ケムクジャルは おちこみましたが すぐに おかあさんの いったことばを おもいだしました。

プリスカは すなおではないので きらいということは すきだということで、ケムクジャルは ゆうきが わいてきました。

ケムクジャルは いいます。

「おれは おまえのほんとうの きもちを しっているぞ。おまえは おれのことが ほんとうは すきなのだ。しかし、すなおに それを いうのが はずかしいので きらいといっているのだ」

プリスカは とびらごしに こたえます。

「なにを いっているのですか。ばからしい。わたしが はっきり きらいと いっているのだから ほんとうに きらいなのです」

プリスカが なんども きらいと いうので ケムクジャルは どんどん きが おおきくなってきました。

 

ケムクジャルは もう まようことなく プリスカを いえに もってかえろうとしました。

ごういんに とびらを あけようとします。

それに きづいた プリスカは あわてて とびらに つっかえぼうを はめたり いりぐちに タンスを たおして かんたんに いえのなかに はいれないように しました。 

 

ケムクジャルは らんぼうもので ちからが つよいのですが さすがに つっかえぼうを はめた とびらは あけられません。

かれは とびらごしに いいました。

「おお、プリスカ。うつくしい プリスカ。おまえを およめさんに できて おれは しあわせものだ。おれは まえから おまえの ことが すきだったのだ。だから ここを あけてくれ」

プリスカは いいます。

「あなた ひとちがいでは ありませんか。わたしは ぜったいに あなたの およめさんには なりません。もし いえのなかに はいってきたら ほうちょうで あなたのからだを さしますよ」 

ケムクジャルは かんがえました。けっして あなたの およめさんに ならないという ことは ぜったいに あなたの およめさんになるということだ。

あまりに うれしくなって ケムクジャルは おおいに わらいました。

それとは はんたいに プリスカは おそろしさで からだが ふるえました。

 

 

とびらごしに ふたりが いいあらそっているうちに ちょうど スケコマシンが かのじょの いえに やってきました。

プリスカは かべのすきまから かれが きたのを みたので、ああたすかったと おもいました。

かのじょは おおごえを だして いいます。

「あなた わたしがすきなあなた。わたしは あなたのかおを まぢかで みたいのですが いまは このいえを でられませんの。どうにかしてください」

そのこえを きいた スケコマシンは いったい なにごとかと かのじょの いえを みると、そこには らんぼうものの ケムクジャルが いるではありませんか。

どうやら かれは ごういんに かのじょの いえに はいろうと しているようです。

じぶんのちからでは どうあがいても ケムクジャルには かなわないし はなしあいを するにも かれの しょうめんに たつところを そうぞうしただけで とてもおそろしくて できそうにありません。

それどころか まだかれに なにかされたわけでもないのに スケコマシンは なみだを ぽろぽろ ながしました。
おまけに もってきた べっこうのかんざしまで じめんに おとして しまいます。

それを みた プリスカは なんて ふがいのない おとこなんだろうと ぷりぷり おこりました。

 

プリスカと ケムクジャルは あける あけないの もんどうを なんども くりかえしました。

スケコマシンのすがたは いつのまにか ありません。あるのは べっこうのかんざしだけ。

ずっと いえのそとに いたので ケムクジャルも だんだん つかれてきました。

それに いまは なつですが あきのちかいきせつでも あったので よるのかぜは つめたく ケムクジャルの からだは しんから ひえてきました。

からだは ふるえるし おなかも ひえて いたくなってきました。

ケムクジャルは とびらごしに いいます。

「プリスカ すまないが ここを あけてくれないか。ちょっと トイレを かしてほしい」

プリスカは いいます。

「どうして あなたに トイレを かさなければ ならないの?」

かれは こたえました。

「もう げんかいだ。はやくしないと もれてしまうんだ」

かのじょは いいました。

「それなら あきらめて あなたの いえの トイレで どうぞ。わたしの うちの トイレは かせません」

ケムクジャルは くるしそうに いいます。

「いや とても いえまでは もちそうにない。どうか ここを あけて トイレをかしてくれ。それに かさないということは かしてくれるということ じゃないか」

プリスカは ぴしゃりと こたえます。

「いいえ わたしが かさないと いえば かさないという いみです。それいがいの いみは ありません。それに わたしが あなたを きらいと いえば きらい なのです」

ケムクジャルは いいます。

「わかった。わかった。おまえが きらいでも なんでも いい。とにかく いまは ここをあけて トイレを かしてくれ。そうしたら きょうは かえるから」

しかし、とびらのむこうは しずかなまま です。

 

ケムクジャルは なにも いわなくなりました。

プリスカは とびらのむこうが しずかになったので ケムクジャルが どうなったのか わかりません。それで とびらに みみをつけて おとを きいてみました。

すると じめんに あしをすりながら だれかが もがいている おとが します。

まだ とびらのむこうに ケムクジャルが いるのをしって プリスカは いやになりました。

いっそのこと とびらをあけて ほうちょうで さしてやろうかとも かんがえましたが らんぼうものが あいてなので やっぱり そのかんがえは むねに しまいました。

だんだん もがくおとは ちいさくなっていきます。

もしかすると そとのさむさで かれが しんでしまったのかと プリスカが おもったそのしゅんかんに とびらの むこうから ケムクジャルの こえが きこえてきます。

「あっ、あっ、あっ」

という こえに あわせて

「ぷりっ、ぷりっ、ぷりっ!」

と おとが します。

さいごに ケムクジャルが

「あああああああ~」

と ながく こえを だすと

「ぷりぷりぷりぷり~」

と ながく おとが つづきました。

 

また とびらのむこうは しずかに なりました。 

それから もうしばらくすると あしを ひきずるような おとがして いえを はなれていきます。
プリスカが そっと とびらを ひらくと ズボンを ちゃいろに よごした ケムクジャルが さびしそうに あるきさる ちいさな うしろすがたが みえました。

 こうして プリスカは おかあさんの やぼうを うちくだき ケムクジャルの てから うまく のがれたのでした。

めでたし、めでたし

(おしまい) 

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪


 

きんどうの片鱗を味わう

きんどうの片鱗を味わう

 昨日書いた物をきんどう氏が雅量をみせてTwitterで拡散してくれた。てっきり怒られると思っていたので、こんなこともあるんだなと関心した。
 さて表題通り、きんどう氏のワンツイートがどれくらいの拡散力があるか。これはある意味驚きと同時に納得のいく結果であった。普段は一桁の訪問者数がTwitterで拡散された瞬間に余裕で2桁を越えた。なるほどこれが電書界の有名人かとビビったがそれだけでは終わらない。人の流れはまだまだ止まらずに夜には3桁を越えた。初めて感じる人の流れにちょっと空恐ろしくなる。
 
 凄いなあと関心しながら床について、朝になってもまだ人が来ていたのには驚いた。昨日、今日と流れてきた人の数で気付いたことがある。それは無料キャンペーンをした時のダウンロード数の流れとほぼ一緒だということだ。まあ、考えてみればそりゃそうか。無料キャンペーンしたら初速は大体あそこ経由だもんな。
 でもワンツイートでここまでやるということは100回つぶやけば万単位の人が動くってことで、これって凄いよな。
 
 

『ワールド・ウォー・わなび/月狂四郎』~KDP作家は自立しよう~

『ワールド・ウォー・わなび/月狂四郎』

 まずは苦情を言いたい。
 月狂さんに書評を貰ったので、ウフフと良い気分で彼のblogを再度訪問した時に、ふと気になって『月狂四郎』をAmazonで検索すると、新着でこの本が一番上にあった。
 ふむふむ、これが前々から言っていたヤバイ本だろうかと、作品のページへ飛び、内容紹介を読見始めた瞬間に、これはヤバイと直感した。別名で出せば良かったのにとも思った。
 妖しい魅力に引かれて、ふと気付くとダウンロードしていた。
 本当は今日も執筆して、夜にでも読もうかと考えていたのに、それを打ち遣ってこれを読んでしまった。読んでしまうと今日はもう書けなくなってしまった。どうしてくれるんですかと(笑)


 内容は某サイトのKOW杯を発端にして起こったとある事件の内側に迫っていくルポタージュ風文学。騒動の関係者を記者がインタビューしていく。
 KDP界隈で活動している人は「ああ、あれね」と分かるはず。
 これはあの人。これは誰だろう?そんなことを妄想しながら楽しみました。
 例の方は月狂さん本人ですよね?実を言うと私もあの騒動で月狂さんを知った口です。具体的には権当さんのツイートからです。もしそれが無ければ、ずっと知らないままだったのでは?という気もします。
 それにしても前作『泡姫ありえない』に引き続いて、また騙されました。このまま下衆い好奇心を満たして終わるのかと思いきや、後半からはKOW杯騒動の裏側が暴かれます(もちろんフィクションですよ)。なるほどそういうオチになるのかと、すっきりしました。

 下衆い好奇心で手を出したけれど、考えさせられることもありました。
 わなび(私も含め)からスターダムへのしあがるには、結局最後は自分の力でやり遂げねばならない。『ジーンマッパー』の藤井さんなんかは過去のインタビュー記事を読むとちょっと真似できないくらい努力している。梅原さんも表に出ないだけで、きっと何かやっていたに違いない。それに続く人もやはりそうだろう。作家ではないがきんどうさん自身も初期はかなり苦労していた。
 権当さんのモデルこときんどうさんがKDP界で大きな影響力を持つのは作家自身の他人に頼ろうとする依頼心が為せる業で、作家一人一人が『俺は一人でもやるぞ』という気概を持てば、こんな騒動も起こらなくなるだろう。きんどう氏自身も前から『うちは利用してやる』くらいの気持ちで使ってくれと言っている。
 それに権藤さんが大きくなったとはいえ、世間から見れば彼もわなびも豆粒大の泡のような脆くて小さい存在でしかない。一朝事があれば、あのきんどうさんでさえ危機に陥ったのだから。→でんしょのうらがわ/きんどるどうでしょうさん 過去ツイートを全削除する

 そんな小さな世界で潰しあってもつまらんだろうというメッセージもある気がした。 それよりかはお互いに利用しあって外の世界の人間を引っ張ってこよう、KDPのパイをデカくしようぜと。
 この本はきんどう杯(正確には第2回 風立ちぬ杯だそうです)の後に起こった例の騒動を元にしたブラックパロディだが、その実体は月狂さんからKDP作家に向けた『お前らしっかりしろよ』という叱咤激励ではないのだろうか?




追記 もしこれをきんどうさんがトップページで大々的に扱ったら最高にロックだと思う。

さらに追記 きんどうさんは大々的に扱わないそうだけれど、ここのページをツイッターで呟いていた。色んな噂があるけれど、心の底にはロックな心を持っているみたいで、ほんの少しだけハモってくれた。
 普段ではあり得ない訪問者数に少々ビビっている。きんどう恐るべし。

著者自身の紹介ページ
アブナすぎる新作「ワールド・ウォー・わなび」リリース

別の人の感想
ワールド・ウォー・わなびの丸木戸サキさんの感想


ワールド・ウォー・わなび
月狂四郎
電書のうらすじ
2014-04-11

 
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1時間に執筆できる物理的限界文字数


 この前、1日中書いて5000字/日を突破した。さすがにここまで書ける人はそうそういないだろうとGoogle で検索したら1時間で5000字書くという人がいた。更には1000、2000ぐらいは当たり前の様に出てくる。中には1万というのもあってビックリした。1日ではなく1時間である。私なんかは、今日は書け過ぎだろうと自分で自分が恐くなる時でも1000字/時なのでとんでもないことである。そんなわけでちょっと嘘臭い話だと思った。
 そこで1時間で物理的にどれくらい文字が打てるのか考えてみた。昔、ブラインドタッチの練習ソフトでは400字/分だった。他の人も400代が多かったので、人間が打てるタイプ数を400と仮定する。文章を打つなら、漢字変換があるので、実用的には半分の200字/分ぐらいだろう。それを60でかけると12000字/時になる。なんと、物理的に一時間に一万字打つのは可能性としてはありえる。それどころかあと2000は打てるようだ。
 10,000字/時の人は文字を打ち込んでいる間でも、言葉が枯れることなくどんどん溢れてきている状態だと思われる。私でもそんな状態はあるが、ほんの束の間の出来事で、一時間も続くなんて考えられない。でも存在可能性としてはありえる。世の中には凄い人がいるもんだ。

(おわり 牛野小雪 記)


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