優れた小説は冒頭の文章が小説全体を支配する。究極的には最初の10行で読むのをやめてもかまわない。夏休みの宿題で読書感想文を書くならなおさらだ。始めに書いておこう。『レモン/グラス』の冒頭で僕と姉は毎朝京野菜を食べていると描写されている。まずはこれを憶えておいて欲しい。

 小説なら文字、映画なら時間、漫画ならコマの制約がある。それなのにあえて食事シーンがあるとしたら、それは作者の意識的にせよ、無意識にせよ何らかの意図が含まれている。その証拠に猫が屋根からさかさまに落ちる出来事はいつでもどこでも入れることが可能なのに、実際にはほとんど見かけることはない。それは猫が何の脈絡もなくさかさまに落ちることに意味が無いからであり、意味のない出来事は削られるからだ。

 もし登場人物の二人が同じ物を食べていた時、しかもそれが男女で会った時、それは恋人同士である可能性が非常に高い。おい、待てよ。母と子、あるいは父と娘の可能性は? もしくは『レモン/グラス』のように姉と弟ということもあり得る。家族が同じ物を食べるのは当たり前じゃないか。そう思っている人がいるかもしれない。確かにそれはそうだ。しかし創作物の場合、家族が同じ物を食べているのは、反抗期の中学生が家族と同じ物を同じ時間に食べることぐらいおかしなことだ。それは崩壊の前触れか、ハッピーエンドを迎える時でしかありえない。というか前者の場合は、同じ食卓についていても違う物を食べているだろう。

 結婚式では基本的にみんな同じ物を食べる。両方の父母の好みぐらいは聞くかもしれないが、出席者の一人一人にまで意見を聞くことはまずない。何故なら出席者の重みは平等ではないから。ほとんどの人は欠席しても問題ない人達だ。何らかの国際会議の食事ではベジタリアンや宗教ごとに食べ物を選べるようになっているが、残念ながらそういう会議が世界的に大きな影響力を持つことはない。二国間交流の場合は同じ物を食べる。もし食べなかったらニュースになるだろう。少なくともカメラが入る場所では同じものを食べる。

 これらのことを踏まえればデートの時に何を食べればいいかはすぐに分かる(あるいは媚を売りたい上司と食事する時でもいい)。相手と同じ物を食べればいいのだ。もし相手が食べてくれないのなら、たとえば相手がカルボナーラを頼んで、自分もカルボナーラを頼んだ時、相手が注文を変えたらそれはとってもヤバい状況だ。

 文学にそう書いてあるから現実世界でもそうなるのか? いいや、絶対にありえない。もし世界中の小説家が、牛野小雪が宝くじに当たる描写を書いても、私が宝くじに当たる可能性は天文学的に低いままだ。数学者は数式を通して世界を記述している。小説家は小説を通して世界を書いている。世界が文学を作っているのだ。この関係が逆転することはあと10000年経っても起こりえない。

「この小説はどういう意味があるんですか?」
 この質問はこうも言い換えられる。
「この世界に意味はあるんですか?」
 もし文学に意味が無いのなら世界にも意味が無い。小説から意味を掴み取れないなら人生の意味も掴み取れないし、人生の意味を掴んでいるのなら小説からも意味を掴み取れる。嘘だと思うのなら試してみて欲しい。小説家が書く書評の印象が、いかにその人の書く小説にそっくりなことか。

 さて、上に書いたように食事に注目して読もう。冒頭で二人暮らしの姉と僕は京野菜を食べているが、姉は体に悪いほどご飯に塩をかけている。つまりあやしい関係だが、姉は意図的に自分に悪い何かを吸収しているぞ、というのが1ページ目で分かってしまうのである。

 これがどういう意味を持っているのかを考えるのは作者の王木亡一朗ではなく読者のあなただ。もしかしたら世界の意味を見つけられるかもしれない。この記事を読んで、文学を読む手掛かりを見つけたと思えたのなら、最初の10行を読んでみよう。その後は燃やしてしまってもかまわない。

(おわり)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20






※前にnoteで読んだのとは内容が違う気がする。

※2 このブログ記事を夏休みの読書感想文に使ってもいいよ~

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