脳が死んでます。正確には、死んでるふりをしている。私が「シニフィエ」と「シニフィアン」の違いを説明できと迫られるたび、脳は机の下へ潜り込み、ランドセルに入った小学生のふりをする。鈴のような沈黙が鳴る。私の口は開く。なにも出ない。蝉だけ鳴く。八月の図書館は、紙の匂いでできた海だ。
言葉は船だと誰かが言った。沈む船もある。今日は沈む番の日である。私はページをめくる。ページは薄い氷だ。そこに「能記(シニフィアン)」と「所記(シニフィエ)」が並んでいて、二人は夫婦の顔をしているが、寝室は別だと書いてある。仮面夫婦、という言葉が頭に浮かぶ。浮かんだ瞬間、仮面が先で夫婦があとか、夫婦が先で仮面があとか、とにかく順序に頸椎が折られる。ばきっ。
脳が机の下から出てこない。私は懐柔策としてコーヒーを買い、砂糖を二つ落とす。甘さは言葉を柔らかくする。するはずだ。カップの中で角砂糖が崩れる音はしない。かわりに「ざらっ」という概念が舌に広がる。擬音語の暴力。自然は言う――音と意味はくっついている。ほら、熱いものは「はっ」と言わせるし、冷たいものは「ひゃっ」と言わせる。幼児は世界の翻訳家だ。幼児こそ真理であり、私は堕落した翻訳家である。そう思うと、脳は少しだけ机の下から鼻を出す。ああ、単純さの誘惑。危ない。私は危ない。
とにかく、図を描くことにした。円を二つ描く。左が音形、右が概念。二つの円は重ならない。重ねると楽になるが、学問は楽をさせない。両者をむりやり結ぶ線を引く。鉛筆が震える。私は震えの理由を説明しようとする。これはメタ言語だ。ここから泥沼が始まる。言葉を説明する言葉を説明する言葉を説明する、という化けダルマ。私は語尾に螺旋を付けて回す。回りすぎて、机が回る。椅子も回る。目が回る。語彙が倒れる。お手上げ、というジェスチャー(これもシニフィアン)を天井に掲げる。天井は返事をしない。天井はいつも沈黙を守る。見習いたい。
幼い頃、母が私に「りんご」と教えた日のことを思い出す。母の口は丸く、私の目も丸く、テーブルの上の果物は赤かった。音と色と味がひとかたまりになって、溶けた飴みたいに舌の上に広がった。私が「りんご」と言えば、甘さが来た。呼べば来る犬のように。あれが幸福だった。幸福は誤解の別名だ。誤解はぬくい。私はぬくさに戻りたい。だが戻れない。学問は冬である。凍った地平の向こうに、黒い板でできた「恣意性」という看板が立っている。風に鳴る。がたん。がたん。列車は行かない。線路だけが遠のく。
恣意性。そう、音形と概念の結びつきは偶然で、社会的な取り決めに過ぎない、という冷たい宣告。冷たいので、私はマフラーを巻くふりをする。ふりはよく効く鎮痛剤だ。もし「犬」を「ねこ」と呼ぶ村があって、村人がみんな頷くなら、それが正しい。正しさは点呼で作られる。私は点呼が苦手だ。朝礼で声が小さいと言われ続けた人生は、概念に向かっても声が小さい。概念は聞こえないふりをする。私の声はにじむ。ああ、言葉もにじむ。にじむと言えば、詩もにじむ。詩は許しだ。学問は赦さない。
私は救いを求めて、付箋を大量購入した。世界に札を立てていけば、意味の草原が整地される気がしたのだ。机の上のペンに「書く棒」、スマホに「触るやつ」、窓に「外とのうすい関係」、自分の胸に「未定」。貼る。貼る。貼りながら、私は貼っている行為そのものに札を付けたくなる。「貼る」には何が貼り付いている? 指? 意図? 不安? 「不安」と書いた付箋はよく剥がれる。剥がれやすい概念だ。不安は粘着力が低い。だが皮膚には残る。ややこしい。私は付箋の海に溺れ、コーヒーをこぼし、「うわ」と言う。うわ。これが最も真実に近い発話である。意味と音が肩を組んでいる。短い。強い。救いだ。救いは三文字で来る。
私は机に額を置き、額の冷たさに「額」という字の無力を思う。骨と皮と神経の集合にたった二文字。人類はミニマリストだ。いや、浪費家だ。どっちでもいい。脳が少し笑う。机の下から半分出てきた。私はノートを開く。書く。書ける気がする。私は物語を始める。「言語が分からなすぎて脳が死んでます」。書き出しは悲鳴でよい。悲鳴は説明を要らない。説明を要らないものは強い。強さはときどき暴力だが、今日は許す。許すのもまた言葉で、私はすでに言葉の監獄から出られないことを、監獄の中から書き記す囚人みたいに理解する。理解だって囚人だ。
メタ言語の誘いが来る。「今あなたが書いている『理解』という語は、どの階の理解ですか?」と階段が訊く。階段はいつも質問する。私は踊り場で座り込む。踊り場は休戦地帯だ。そこに「沈黙」を置いてみる。沈黙は重い。重いものは安心させる。私は沈黙を抱いて、言葉の背骨を一本一本触る。頚椎。胸椎。腰椎。言葉にも骨があると信じたいが、実際はゲル状だ。ゲルは器に従う。器は社会だ。社会は顔色だ。顔色は天気だ。天気は恣意的だ。つまり、大抵のことは雲ゆきで決まる。こんなふうに連想が勝手に歩き出すと、私の小さな脳は息切れして、膝に手を置き、ゼエ、と言う。ゼエ。これは擬態語か。いや、擬音語か。どちらでもいい。どちらでもいいと言える瞬間が、意外に勉強のご褒美である。
午後、図書館を出る。蝉。暑さ。コンビニで水を買う。ボトルに「天然水」とある。どこまでが天然で、どこからが名札か。名札を剥がせば水は水で、名札を貼れば水は商品になる。私は名札まみれの町を歩く。歩くたび、靴底に小さな言語が潰れる音がする(気がする)。交差点で信号が青になる。青は進め。これを学んだのは幼稚園で、つまり青は経験のシニフィエであり、光は物理のシニフィアンで、でも本当は逆かもしれず、いやそもそもこの二分法を見送るべきで、などと考えているうちに、車がクラクションを鳴らし、私は跳ねる。跳ねた身体が勝手に「すみません」と言う。謝罪は反射だ。反射のうちに意味は宿る。私はやっと笑う。ありがとう、危機。あなたは哲学の家庭教師だ。
夜。部屋。扇風機の回転は世界の回転と等速だと信じたい。私は机に戻る。頁をもう一度開く。恣意性、差異、線条。頭に針金を巻くような言葉たち。私は今日で諦めるべきか、いや続けるべきか、と自問する。自問はいつだって多弁で、答えは一語だ。たいてい「まあ」。私は「まあ」と言って、ノートをめくる。すると、白紙が出てくる。白紙は最大の比喩だ。白紙は最強の皮肉だ。白紙は全ての概念を招くホテルで、チェックアウトはない。私は白紙に、一本の線を引く。線は単独で意味を持たない。持たないから美しい。私はもう一本引く。交差。交差すると、そこが事件になる。事件は物語を呼ぶ。物語は、意味しようとする衝動の温室だ。温室のガラスは曇る。指で円を描く。円の中に「り」と書く。「り」はどこへも行かない。「ご」もどこへも行かない。私が呼ばない限り。
呼ばない、という選択肢。説明拒否。これは乱暴で、しかし慈悲でもある。私は今日、いくつかの言葉を呼ばないことにする。「定義」「厳密」「一次性」。代わりに呼ぶ。「うわ」「まあ」「ふう」。それらは床に落ちて、転がり、ベッドの下に消える。また机の下か。脳は笑って、今度は出てくる。机の上に座る。小さな足をぶらぶらさせている。私は聞く。「まだ死んでますか?」 脳は首をふる。「死ぬふりは飽きました」と脳は言う。飽きる、という語の曖昧さを脳が持ち出さないのは、きっと優しさだ。
深夜、窓を開ける。風。風という語はうまい。音形が軽く、意味が軽い。軽いものは飛ぶ。飛ぶものに私は弱い。飛ぶものは自由だという誤解を、人は長く大切にしてきた。誤解の維持には共同体が要る。私は一人だが、誤解を守るために、机、ノート、脳、扇風機、窓、夜と共謀する。共謀者は少ないほうがいい。人数が増えると、名札が増える。増えすぎた名札は、のぼり旗みたいに風景を窒息させる。だから小説にする。小説は名札の減圧装置だ。物語は、世界の説明を少しだけ遅らせる。遅延は知のマナーである。
私は書く。「意味と形が離婚した世界で、主人公は面会日を決められた」。いいぞ。皮肉が笑う。笑いはラベルを嫌う。笑いはたいてい、誤読の上に咲く。私は誤読の庭師になり、じょうろで意味に水をかけたり、わざとこぼしたりする。こぼれたところから芽が出る。芽の名はまだない。名前を与えない喜びが、ようやく私に与えられる。
最後のページに、私は短い行を置く。短い行は宣言であり、ため息であり、鈴。行はこうだ。
――呼べば来るものだけが、私の言葉じゃない。
そしてもう一本。
――来なくても、いてほしいものを、私は書く。
扇風機が回る。窓が少し鳴る。遠くの犬が、犬とも別のものともつかない声で吠える。私はそれを「わん」と書かない。書かないことが、今夜の私のシニフィアンである。意味は、たぶん、どこかで眠っている。起こさなくていい。いいのだ。そう決める私の小さな権力が、今夜だけは許される。許されるうちに、私はペンを置く。置く音はしない。見えないところで、鈴だけが鳴った。









