誰にでも、自分の輪郭をなぞるために奇妙な定規を欲しがる時期がある。僕にとってその定規は、物理的に分厚く、インクの匂いがする「辞書」だった。そう、あれは忘れもしない、僕が「趣味は辞書を読むことです」と公言し、それを自らのアイデンティティに据えていた、愛しくも赤面必至の時代である。
きっかけは、ありふれた自己紹介への反発だった。「趣味は音楽鑑賞と映画です」と言うクラスメイトたち。悪くない。だが、その他大勢に埋もれてしまう気がしてならなかった。僕は、もっとこう、知的で、孤高で、一口では説明できないような深みのある人間だと思われたかったのだ。自意識がエベレスト級に高かったのである。
そんな時、本棚で圧倒的な存在感を放つ『広辞苑』の背表紙が目に飛び込んできた。これだ、と僕は思った。これを趣味にすれば、僕はもう凡庸な高校生ではない。「言葉の海を旅する、若き探究者」になれる。そう信じて疑わなかった。
僕の「辞書ライフ」は、実に生真面目に始まった。まず「あ」の項目から読破しようと試みた。「ああ」だけで数ページを費やす事実に早くも心が折れかけ、この計画は三日坊主ならぬ「あ行坊主」で終わった。
しかし僕は諦めない。次に編み出したのが「言葉のランダム・サーフィン」だ。適当に開いたページから、気になる言葉を拾い、その説明文に出てくる知らない言葉へ、またその言葉のページへと飛び移っていく。これは面白かった。「蓋然性(がいぜんせい)」から「蓋(ふた)」に飛び、そこから「鍋蓋(なべぶた)」という驚くほど生活感のある言葉に着地したかと思えば、「阿鼻叫喚(あびきょうかん)」の隣に「阿父(あふ)」(=父ちゃん)が静かに鎮座しているのを発見したりする。カオスと秩序が同居するこの紙の宇宙に、僕は完全に魅了された。
当然、仕入れた知識は使いたくてたまらない。
友人との会話で、「それ、マジありえなくない?」と言われれば、すかさず「つまり、君の意見ではその事象の蓋然性は極めて低いと、そう言いたいわけだね?」とメガネをクイッとやる。
教室がテスト返却で騒がしくなれば、「やれやれ、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ」と一人ごちて、窓の外を眺める。
周囲の反応は、まあ、お察しの通りだ。大抵は「え?何?」という顔をされ、親切な友人だけが「ああ、うん、そうそう」と話を合わせてくれた。だが、当時の僕にはそれが快感だった。「凡人には届かぬ知性のきらめき…!」と、脳内で勝利のファンファーレを鳴らしていたのだから、救いようがない。
僕のアイデンティティがピークに達したのは、大学生になって初めて参加した合コンでのことだった。自己紹介のターンが回ってくる。僕は、この日のために用意した最高のキメ台詞を放つべく、息を吸った。
「趣味は、辞書を読むことです。言葉の源流をたどる旅は、何物にも代えがたい喜びがありまして」
ドヤ顔、120点。これで僕の知的でミステリアスな魅力に、皆がひれ伏すはずだ。
しかし、返ってきたのは、女子学生の一人が放った、あまりにも無垢で、残酷な一言だった。
「へえー!じゃあ、『ウーパールーパー』って、広辞苑に載ってますか?」
僕は凍りついた。「ウ、ウーパールーパー…?」
知らない。そんな言葉、僕の旅の航路には一度も現れなかった。僕が誇っていたのは「蓋然性」や「阿鼻叫喚」といった、いかにもな“教養ワード”ばかり。日常に潜む、生きた言葉へのアンテナが絶望的に欠けていたのだ。
「ええっと…おそらく、外来語だから…その…」
しどろもどろになる僕を、誰もが「ああ、この人、面倒くさいタイプだ」という目で見ている。僕が必死に築き上げてきた「辞書のアイデンティティ」は、一匹の両生類によって、いとも容易く叩き壊されたのだった。
あの日を境に、僕は「趣味は辞書です」と公言するのをやめた。それは敗北宣言であると同時に、ある種の卒業でもあった。
今でも、僕は時々辞書を開く。だが、もう誰かに見せるためではない。ただ純粋に、言葉の面白さを味わうために。それは、アイデンティティという重苦しい鎧を脱ぎ捨てた、静かで心地よい時間だ。
本棚の『広辞苑』は、今も変わらずそこにある。それはもう僕のアイデンティティの盾ではない。少し風変わりな趣味に熱中した、青くて、痛くて、どうしようもなく滑稽だった自分を思い出させてくれる、頼もしい旧友のような存在なのである。
ちなみに、後日こっそり調べたら、『ウーパールーパー』はちゃんと載っていた。ちくしょう。











