愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

芥川龍之介

AI時代の文学で最初に消える文豪は芥川龍之介、芥川賞はたぶん残る

この前書いた『ナンバーワンラップ』をChatGPTちゃんに投げて、人間製かAI製か予想してもらった。すると90%以上人間が書いた物という答えが返ってきた。長文ならたぶんまだ人間かどうかをAIは判断できる。ただブログ程度の長さだと人間の確率は7~80%に下がる。Xにポストする140字以内の文章なら50%ぐらいだ。

今年の始めはAIの文章はまだAIっぽいなと分かったが、AIの進化はすさまじく、いま読んでいる文章が人間かAIかは分かりづらくなった。上の『ナンバーワンラップ』だって100%人間ではなく90%以上人間という予想であって、完全に人間だとは言い切れないのである。真実が分かるのは私だけだ。「あれは私が書きました」と言ったところで、それを証明するものは何もない。

かつてワープロで書いたか手書きで書いたかが問題になる時代があった。いま聞くと信じられないだろうが昔の本を読むとそういう話が出てくる。はてさて、では『ナンバーワンラップ』がワープロ(ワープロなんてないからwordにしよう)か手書きか分かる人がいるだろうか。いないはずだ。考えたことさえないはずだ。それと同じように未来では、それが手書きかAIかが問題にされることさえないだろう。

AI文学には致命的な弱点がある。AIは2万字の壁を越えられないのだ。1発で2万字近くの小説を吐き出すプロンプトが先日発見されたが、それを5回繰り返して10万字書いたという続報はない。

AIで小説を書く時、分割して書かせる方法がある。しかしそれでも2万字あたりでボロが出始める。5万字に届くころにはもうめちゃくちゃだ。今の性能でまともな質を保った10万字のAI小説が出ることはないと断言できる。でも2万字なら?

来年はAI短編小説がたくさん生成されるだろう。プロンプトは磨かれ、ときたまバズる小説が出てくるかもしれない。ChatGPTo1 Pro modeは数分でPDCAを回せる。人間が2万字の短編を書くのに必要な時間は? もしかしたら1日で書ける人はいるかもしれない。でも、明日もあさっても続けられるだろうか? 1か月続けられる人は1人もいないだろう。

AIの性能はまだ限界に到達していない。芥川龍之介は短編の名手だが、このさき新作は出ない。AI短編小説は出続ける。いつかどこかでAI短編小説が芥川龍之介をすべての意味で追い抜く日が来る。そして保守的な文化人が死んでしまえば芥川龍之介は文学から消える。もしかしたら芥川賞は残るかもしれないが文学賞としての名前だけだ。直木賞の元ネタが誰かなんて言える人がほとんどいないように。

かつてあこがれた1人の文豪が消えてしまうのは寂しいけど、芥川龍之介を超える短編を私は読んでみたいと思う。

(おわり)

※:上に出した2万字のプロンプトを参考にして書いてみた小説(18,244字)
人間失格。俺はAIギャルと恋に落ちる/うしP - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16818093090193577641/episodes/16818093090193626969

ナンバーワンラップ
牛野小雪
2024-11-28


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イラスト3





1人の小説家の最高傑作は20年かけて書かれる、のかもしれない

 光文社版の『老人と海』はIT革命の後に新訳されただけに解説も豊富だ。その解説によると『老人と海』の俗にいう執筆期間、つまりタイプライターを叩いて文章を書くような行為は2ヶ月だが、構想からを含めると20年かかっているらしい。20年といえばガルシア・マルケスの『百年の孤独』もたしか20年だったはずだ。もしかしたら一人の小説家の最高傑作は20年かけて書かれるのかもしれない。(その二つは最高傑作じゃないっていう人もいるだろうけど)

 そういう目で見れば夏目先生も芥川龍之介も小説家になってから20年もしない内に死んでいる。私が思うに、この2人が日本の小説家で群を抜いているような気がするのは、もちろん彼らの作品の素晴らしさもあるだろうが、それ以上に、もし2人があと10年生きていたらどれだけの物を書いていたのだろうかという可能性を見ているからではないか。こんなことを言うとファンに怒られそうだけど、太宰治があと20年生きたとしても『人間失格』以上のものを書けたとは思えない。(これまた『人間失格』は最高傑作じゃないという人がいるだろう。きっと文学オタクだ)

 こんなことを考えるのも、私の中にもずっと書けずに胸の中に留まっているものがあるわけで、時折書こうと試みるもどうにも筆が進まないからだ。もしそれを書くのに20年も必要とするのなら、まだ折り返し地点も過ぎていないわけで、あと10数年先なんて小説を書いているどころか生きていることさえ想像できない。そりゃあそうだ。夏目先生も芥川龍之介も20年書く前に死んだのから私が死なない道理もない。2人に限らず、腹に一物を抱えて死んだ作家なんてごまんといるだろう。でももし20年後も小説を書いていたとしたら、私はどんなものを書くのだろうと想像してみた。が、何にも思い浮かばなかった。最高の小説は二十歳で世に出ると仮定すれば、まだおむつが取れたばかりで、将来どうなりたいかなんて聞いても、おつむが足りないので何にも答えられないだろう。車になりたい、運転手さんになりたい?、ううん車になってビューって走りたい、と大真面目に語って大人を笑わせることはあるかもしれないが、実際にそうなる可能性はかなり低い。

20nenn

 20年……20年って長いなぁ。たぶんヘミングウェイもガルシア・マルケスもまさか20年かかるなんて思ってもいなかったに違いない。それだけのあいだ胸に秘めたものを書いた後にまた小説を書くことなんてできるんだろうか。

(おわり)

『裸娼門/芥川龍之助平』

『暴っちゃん』で味をしめたのか今度は芥川龍之介の『羅生門』をパロッた小説。

キモ金おじさん(元イケメンという設定だが)が主人公で、原作と同じように悪に身を落とそうかどうか煩悶しているということ(既に小悪党だけど)を下敷きにしているのだが、ここでもう少し踏み込んで悪に身を染めても救われないところまで書いている。羅生門ではまだ他に着物はあるし、老婆の抜いた髪もあるのに下人は老婆の着物だけを奪い、裸娼門ではギャルの下着や体がその辺に転がっているのにオッサンは老婆の下着だけを奪う。悪で身を立てるなら、もっと大きな収穫がすぐそばにあるのに小悪を犯しただけで舞台から消えてしまうのだ。ゆえに羅生門では下人の行方は知れないし、裸娼門でもオッサンは行方知らずとなってしまう。

ところどころにネットのネタが散見されて、最後は正義パンチの論考になるのだが、ここを中心のテーマに持ってくるとパロディ小説として一歩踏み込んだ内容となったのに、と書いている途中で、ふと下人もオッサンも最終的には悪に身を染めたのではなく、ただ単に老婆への正義パンチをかましただけではないかという疑念が湧いた。そして正義パンチをかましても老婆は生きているし、下人とオッサンは消える。

正義パンチは全方位へ向けられている。それは自分の心にも。自分で自分に正義パンチをすることによって、下人とオッサンは自分の中にある悪を消すのだが、それによって彼らは悪に身を染めても生き抜くという選択肢を潰してしまう。そう考えると『老婆はお前で、お前は老婆』という言葉が意味を持ってくる。老婆を否定するということは己の死に繋がっているのだ。

下人は羅生門を登り、オッサンは居酒屋のビルを見上げたように、悪の舞台は彼らより高い場所にある。悪は彼らより上回っていることが示されているのだが彼らは下界へ下りて老婆は最後まで上界に残っている。一見悪に染まったような下人とオッサンだが悪をぶん殴って正義に殉じていくようでもある。悪は命よりも上だが、それなら正義の下界で死ぬ方が良いという心意気だ。

この小説は単なる『羅生門』パロディ小説ではなく新しい解釈を提示した啓蒙小説だと言えるだろう。原作と同じように短い小説なので興味があればさっと読むのがおすすめ。


裸娼門
芥川龍之助平
2018-07-12
 昨今「正義とは何か」という論争が飛び交う中、本当の意味での正義を若者に考えさせる助平文学の原点として注目される予定であり、高校国語教科書に採用されるカオスな未来も遠からず予想される。

『蜘蛛の糸/芥川龍之介』〜自分で自分を救うことはできない〜

 お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸を垂らして大泥棒カンダタを救おうとするお話。小学校の教科書にも載っているので読んだことがある人は多いはず。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿って極楽へ行こうとするが蜘蛛の糸は途中で切れてしまう。切れたのは地獄の亡者たちが糸を登ろうとしたのを見たカンダタが、この糸は俺のものだと叫んで切れたことになっている。
 
 しかしこの蜘蛛の糸は極楽から地獄まで何万里(里:日本では約4km、中国の里でも500m)の距離も垂れていて、しかも地獄においても体は疲れるみたいなので、どう考えてもカンダタがこの蜘蛛の糸を上って地獄から抜けるのは不可能だということが伺える。それではお釈迦様は何を思って蜘蛛の糸を垂らしたのだろう。地獄の亡者をからかうためか。なぜワイヤーやハシゴにしなかったのだろう。いや、極楽から地獄までは何千里もあるのだからエレベーターか、せめて階段にしなければカンダタが登りきることは不可能だ。

 一般的な解釈ではカンダタが自分だけが助かろうとしたので蜘蛛の糸が切れたということになっている。私は蜘蛛の糸を読み直して、カンダタが極楽へ登れなかったのは『自分だけが助かろう』としたからではなく『自分で助かろう』としたからではないかと思った。

 カンダタは罪人である。地獄へ落ちたのはそれなりの罪を犯したからである。それなのに地獄から抜け出そうとするのは罪人自身が「俺の罪は許された」と言い張るようなもので、とんでもないことである。罪は自分で許すものではなく誰かに許されるものではないか。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿れば極楽へ行けると思い込んでいた。お釈迦様は登ってこいとも何とも言っていない。ただ蜘蛛の糸を垂らしただけだ。私は糸を掴むだけで良かったのではないかと思っている。極楽と地獄の距離は何万里もあるので仮に糸が切れなかったとしても途中でカンダタは力尽きてしまう運命にある。事実彼はもう一たぐりも登れなくなったので、一休みしている最中に下から登ってくる亡者達を見たのだ。

 謝ったのに許してくれなかったと怒る人がいる。許さない相手もちょっと強情にすぎると思うこともあるけれど、もし仮に謝れば許してもらえるだろうという相手の心根が透けて見えた時、相手を許すことはできるだろうか。謝ったから俺を許せとは傲慢なやり方ではないか。むしろ怒りに火を注ぎそうな気もする。「お前、謝ればいいと思っているんだろう!」と。

 カンダタは糸を登れば極楽へ行けると思い込んでいたが、それは謝れば許してもらえるという性根と同じではないだろうか。許されるかどうかを自分で決めることはできない。謝ったからこれでいいや、とはならないのだ。

 謝れば許されると思い込むのは、許す許さぬの権利を相手に渡さずに自分で握っていることと同じで、相手は許す権利がないので許すことはできない。本当に謝るのなら自分の運命を一度相手に預ける勇気を持たなければならない。

 そういう風に考えていくとカンダタは自力で極楽へ登ろうとせず、ただ糸を掴み蜘蛛に自分の運命を委ねていれば良かったのではないだろうか。たとえ地獄の亡者が地獄から抜け出そうとカンダタより先に蜘蛛の糸を登っていったとしても、彼らはいつか力尽きて地獄に落ちてくる運命にある。何度か再挑戦する亡者もいるだろうがいつかは彼らもこれは地獄の新しい拷問ではないかと疑い始めるに違いない。こうして亡者達が救われることを諦め地獄に静寂が降りた時、ようやく蜘蛛は糸を巻き始め、糸を掴み続けたカンダタを極楽へ引き上げたのではないだろうか。
 
 カンダタは何をすれば良かったのかではなく、何もしなくて良かった。むしろ何もしてはいけなかったのだ、彼が救われるまで。ここで大事なのは蜘蛛の糸を掴み続けていることで、もしカンダタが蜘蛛の糸から手を離していたら、やっぱり彼は極楽へ行けなかっただろう。蜘蛛の糸は誰も連れず静かに巻き上げられたはずだ。何だかおかしな話だが今はそんな気がしている。

(2017/04/02 牛野小雪 記)


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