愚者空間

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短いお話

『私の人生を変えた一冊』/T・S・カウフィールド

『私の人生を変えた一冊』/T・S・カウフィールド


 私はさる理由で地元の高校を受けずに、人里離れた山奥の高校を受験しました。そこにはうまく合格して、私は親戚の伯母の家でお世話になりながら、その高校へ通うようになりました。


 距離もそうですし、地形もそうさせるのですが、ここは陸の孤島であり、知り合いが一人もいない場所で私は静かな安住を得られることを期待していました。しかし、世の中はどこへ行っても同じです。違いは規模が大きいか小さいか。人と物の在りようはどこでも変わらず、私の平穏な高校生活はたった一ヶ月で終わりました。


 阿部君という同級生がいます。同じクラスです。というより人数が少ないので私の学年は1クラスしかありませんでした。その阿部君は身長が180cm以上もあり、体格もかなり良く、クラスメイトから巨人と呼ばれていました。野球部にでも入ればいいのにとみんなは言っていましたが、私の高校は人数が少ないので、野球部どころか、どの部活もまともな活動していませんでした。だからでしょう。阿部君はどの部活にも入らず、力を持て余しているようでした。


 私は最初から阿部君を警戒していました。私は彼がどんな人間か臭いのようなもので分かっていたし、彼のような人間は必ず私に目を付けることも分かっていたからです。私はなるべく彼から離れようとしました。しかし彼の方では何故か執拗なほど私に近付いてきます。何せそこは陸の孤島で逃げ場はありませんでしたし、それにクラスメイトの目もあります。傍から見れば仲良くしようとしている阿部君に私が冷たくしていると映っていたでしょう。そういうことが積み重なると私はいつしか逃げ疲れ、彼と共に行動をするようになりました。


 彼は初め、優しい態度を崩そうとしませんでした。私の方でももしかすると人間不信をこじらせすぎているのではないかと疑った事が何度かあります。でもやはりそれは間違っていました。彼は徐々に親しい態度の中に侮りの態度を混ぜるようになったのです。私はそれに気付くと、ああ、やっぱりそうだったのかと自分の勘の良さに感心すると同時に、またなのかと暗い気持ちになりました。


 決定的な何かをされたわけではありません。というより決して大きなところでは阿部君は私にとても優しい親友でした。もし銃を持ったテロリストが学校に来たとすれば、彼は私をかばって死ぬかもしれない。そう思えるようなところもあったのです。なので私と阿部君は校内で一番仲の良かった二人かもしれません。ただ阿部君はその中で、ことあるごとに私の自尊心を小さく打ち砕くのが日課になっていました。それはわずかに剃り残したヒゲであったり、日常誰にでもあるようなほんの些細な失態であったり、私の言ったことの言葉尻、それらをとらえて大げさにからかうのです。ひとつひとつ取ってみれば何でもないような事でも、積み重なれば山のようになります。山のように積った山に砂をひとかけされると、とんでもない重さになるのでした。また彼は冗談で私を撫でるように殴ったり、つまむように揉んだり、体をくすぐって私を強制的に笑わせたりもしました。


 何度も言いますが、ひとつひとつの事は大したことではありません。どの段階で私が彼に反抗をしたとしても、それは私自身大げさなことだと思ったでしょう。しかし、長い目で見れば彼は私に対して大きな悪事を働いているのです。


 いっそ彼に殴られて骨の一本でも折られてみたい。そう思う事がたびたびありました。もしくは公衆の面前でどうしようもないほど罵られて泣いてしまいたい。しかし、彼は決してそんな事はしません。私は泣くことも傷つくこともできず、ただ優しい悪意を受け止めるしかありませんでした。


 そうやって私は高校一年を過ごし、二年生になりました。私の誕生日は4月の早い時期にあるので、父は誕生日プレゼントにとある本を私にくれました。それはヤマダマコトという人が書いた『金色天化』という本です。指二本分以上はある厚い本で、表と裏は固い表紙でできていました。


 私は特にそれを嬉しいとも思わず、かといってせっかく貰ったものだからと家や学校で暇を見つけては毎日少しずつ読んでいました。すると阿部君がそれを見て、何を読んでいるのかと訊ねてきました。私が『金色天化』だと答えると彼は興味なさげにふ~んと鼻で返事をするだけで、読み終わったら貸そうかと切り出しても、いや、本は読まないと本当に心底興味がなさそうでした。


 私はそれを知った瞬間、光が差したように感じました。阿部君の知らない世界がここにある。私だけがそれを知っている。それが私の中で彼に対する唯一の優越感でした。それからも彼は私に優しい悪事を働きましたが、私は以前よりもそれを楽に耐える事ができました。『金色天化』が心の底を支えてくれたのです。


 私はいつでも『金色天化』を読めるように、毎日学生服の内ポケットに入れて持ち歩きました。そして何度も繰り返し読みました。何度読んだのか自分でも分かりません。一週間に二度三度と読むので、十回や二十回ではきかないでしょう。ページが破れたり、背表紙が割れてもセロテープやボンドで補修しながら使い続けました。


 私と阿部君は三年生になりました。この時、とうとう二人の間に決定的なことが起こったのです。その日は学園祭の準備があり、生徒達は放課後も残っていたのですが、手が空いている人はやることもないので、暇を持て余していました。私と安部君もその中の入っていました。その日の阿部君はいつもと様子が違って、私は何が起こるのだろうとハラハラしていました。しかし放課後になっても何も起こらないままなので、私の勘違いだろうかと疑っていた頃、彼は裏山に行こうと言いました。裏山とは学校のすぐそばにある、校庭と繋がった山のことです。植林された太い杉が何本も伸びています。


 何か悪いことに私を巻き込もうとしているのだな。私はそう思っていました。しかし私と安部君の関係で、私は彼に逆らえないので私は黙って彼の後についていきます。私達はやがて山の中に入りました。暗い杉の下を歩き続け、校舎も小さくなり始めた頃、ふいに阿部君は私の腕を取って一緒に杉の木の影に引き込みました。教師の誰かがこちらを見ていたのでしょうか。私は安部君と一緒に学校の様子を窺いました。しかし視界の先には杉の木が何本も隙間なく立ち並んでいたので、誰の姿どころか校舎の影すら見えませんでした。


 誰にも見えないな。彼はそう言いました。私はその声を聞いて、体中にぞっとする不気味な物を感じました。彼は何故か私をひざまづかせようとしました。私が理由を訊いてもいいからとだけ言って、肩に力を加えます。私はささやかな抵抗をしたのだけれど、彼の粘り強さに負け、その場にひざまづいていました。


 何をされるのだろう。とうとう滅多打ちにでもされるのだろうか。私は密かな期待を抱いていました。彼に容赦なく殴られれば、山を転がるように降りて、誰かに助けを求めようと考えていたのです。顔や体に傷があれば、きっと彼の悪事は明るみに出て、彼には有形無形の罰が与えられるに違いない。そう期待していたのです。


 しかし、彼は私を殴ろうとしていたのではなかったのです。彼は異様に熱い目で私をみつめると、音が出ないほど優しくベルトを外し、ズボンを下げました。パンツも一緒です。私の目の前には剥き出しになった彼の下半身がありました。その中心には肉々しい臭いを放つ一本の太い棒が杉のように天高く伸びていました。


しゃぶれよ。彼はそう言いました。私が意味を飲み込めないでいると彼はもう一度、しゃぶれよ、と言いました。あんな物を口にくわえるなんて、私は躊躇しました。しかし、私はある瞬間までは嫌々ながらもくわえようとしていたのです。彼の腰に手を当てて、いざ口の中に含もうとしたとき、彼は言いました。歯は立てるなよ。

 私はその瞬間理解しました。私はずっとしゃぶられていたのだと。
私は怒りました。私は今まで精神的に殴られていたのではなく、しゃぶらされていたのだとはっきり理解しました。精神的にはずっと安部君の汚い口でしゃぶられていたのです。そして、私は歯を立てない限り、ずっとこれからも、たとえ安部君の元を離れたとしても、彼と同じような人間にしゃぶられ続けなければならないのだと。


私は制服の中にある『金色天化』を掴むと、彼の顔めがけて振り抜きました。ふぐぅっ、と妙にくぐもった声がしたのを憶えています。彼は突然殴られて何が起こっているか分からないという顔をしていました。私はそこに微かな怒りの予兆を感じたので、私は恐怖を感じ、彼に抵抗される前に『金色天化』振り下ろしました。二撃目を受け、彼はやっと抵抗しようとしましたがズボンを下に下ろしていたので、うまく動けなかったようです。足を絡ませると後ろに倒れました。すると背中を強く打って、杉の木の空が震えました。


おおい、何するんだ。助けてくれ。彼は哀れっぽい声で助けを求めましたが、私は怒りと恐怖に刈られ『金色天化』の一撃を何度も彼に打ち下ろしました。殺してしまうかもしれない。そう思ったのも束の間、何度目かの一撃を振り下ろした時『金色天化』が二つに割れ、私の手から飛び出し、地面に落ちると、4つ、5つ、6つ、それから全てのページが分かれ、弾ける様に飛び散りました。


その頃になると阿部君は杉の木の下ですっかり大人しくなっていました。しかし下半身の中心には杉の木のように立派な肉々しい物がそそり立っていました。私はそれを見ると怖気を感じ、逃げるように山を下りました。


こうして杉の木の下を抜け、空の下に戻ってきた時、私は何かから解き放たれた気分になりました。頭上には薄い曇り空が夕日を拡散して金色に輝いています。その幻想的な美しい光を浴び、私はいま本当に生きている、そう心の中で叫び続けました。



(おわり)

↓心の中から震える『金色天化』



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『伊勢海老の恩返し 〜lost my anything〜/S.T.コールフィールド』

『伊勢海老の恩返し〜lost my anything〜/S.T.コールフィールド』

 ある日突然親戚の叔父さんが押しかけてきて、発泡スチロール箱を押しつけてきた。中身は何かと訊くと「イセエビ」とだけ叔父は言い残して去った。他にも行く場所があるんだとか。


イセエビってあの伊勢海老か?

 

 発泡スチロールを机に置いて蓋を開けるとひんやりとした空気が漏れてきた。中には紙を細長く切った物が大量に入っている。なんだよ、伊勢海老なんていないじゃないか。俺は中にある紙くずを取った。するとそこには俺の腕ほどもある伊勢海老が端の方で丸まっていた。


 げっ、伊勢海老ってこんなにデカイのか。気持ち悪っ! 

 

 予想外にデカイ伊勢海老を前にして、俺は少しも動けなかったが、伊勢海老の方は明るい場所に出たせいか急に体を跳ねさせて、発泡スチロールの中で暴れ始めた。俺は急いで蓋を閉める。中でゴトゴト暴れる音がしたが、しばらくすると静かになった。


 生きているのか。超新鮮じゃないか。

 ふむふむ、前々から高いとは知っていたが、ネットで調べると、伊勢海老はけっこうなお値段がすると分かった。叔父さんサンキュ。ついでにさばきかたも調べておく。ふむふむ、今日は伊勢海老のムニエルにしよう。


 夕方になると俺は発泡スチロールから伊勢海老を出した。海老は眠っているようで、俺が手に持っても、じっとしていた。


 そのままさばきにかかるのはちょっと汚いので俺はまず伊勢海老の体を洗う事にした。これがいけなかった。蛇口の水を海老に当てた瞬間、あの野郎。急に跳ねやがって、俺の手をひっかきやがった。おまけに手から離れて、シンクの中をバックステップで縦横無尽に駆け回る。


「てめえ、大人しくしろや!」


 シンクの隅で固まった伊勢海老の胴体を掴むと、俺はまな板に奴の体を押し付けて出刃包丁を握った。そして奴の体を真っ二つ・・・・・にするはずが、海老野郎がまた暴れて、まな板から脱出しやがった。この野郎!


 海老のヤツ。頭は前に付いているのに、後ろにしか跳ねてやがらない。きっと性格は後ろ向きなんだろうな。そうやってヤツは後ろに跳ね続けて、とうとう玄関まで来たが、不幸な事に俺の靴の中にすっぽり入ってしまった。それ以上はもう後退はできない。逃避行もここまでだ。


「お前さ、いい加減にしろよ。もう俺にさばかれるしかないんだよ」


 俺は靴の中から伊勢海老を引きずり出した。ちょっと臭かった。


 もう一度海老を水で洗ったが、さっきの逃避行で力を使い果たしたようで、ヤツはじっとしていた。まな板に置いてもそうだ。じゃあな、足とヒゲはみそ汁にしてやるよ。こうして俺が海老野郎を縦に真っ二つにしてやろうとまな板に押し付けたとき「キュゥゥゥゥ」と海老野郎から鳴き声がした。


 あれ、待てよ。そもそもどうして俺はこの海老をさばかなくてはいけないのだろう。だいたい俺って海老嫌いじゃん。伊勢海老の名に目がくらんで、何か間違ったことをしているような気がした。でも伊勢海老だぜ?


 俺が海老から手を放すと、ヤツは弱々しい力でまな板から逃れようとしていた。その哀れな姿を見ると、どうにもさばくのがためらわれた。それに俺、海老は嫌いだし。


 俺は伊勢海老を発泡スチロール箱に戻すと、そいつと一緒に港まで行った。


「何か手違いがあった。もう人間に捕まるんじゃないぞ」


 俺は伊勢海老を海に放してやった。ヤツは海中でもバックステップで後ろ向きに泳ぎながら海の底へ消えた。何かいい事をしたような気分がして心が洗われるようだった。その代わり夕飯を逃したので、帰りに牛丼を食べて帰った。


 それから何ヶ月が経ったある日、玄関のドアをノックする音で目が覚めた。誰だ一体。新聞の勧誘か?


 ドアを開けると、日傘をさしたオバサン二人組みが立っていた。


「あなたは神を信じますか?」


 前に立っていたおばさんがそんなことを言ったので俺はこう言ってやった。


「知らないんですか? 神は死にましたよ」


やった。哲学的回し蹴りを食らわせてやったぞ。

しかしオバサンは眼鏡の奥で目を光らせて「ニーチェですね」と返してきた。ヤバイ、このオバサン、完全理論武装を完了しているぞ。俺は反撃をされない内に「今ちょっと忙しいので」と強引にドアを閉めた。


 朝から宗教の勧誘か。たまったもんじゃない。俺は宗教を信じる人間特有のあの妙な力強さが嫌いだ。でも本気で信じられたら人生充実するんだろうな。そこだけはうらやましいよ、ホント。


 俺が朝食のナポリタンを食べているとまたドアがノックされた。次は保険の勧誘か?

 

 しかし、ドアの向こうに立っていたのは、やけに身持ちの固そうな女の子だった。


「あ、あの、何かごようでしょうか?」


 予想外の事が起きたので、俺は少し動揺していた。

 なんだ。隣に住んでいるオタクがまだ明るい時間にマニアックなデリヘルでも呼んだのか?


「あの、私、先日助けていただいた伊勢海老です!」


「は?」


「半年前にあなたのおかげで海に帰る事ができました。それで2ヶ月前に死んだので、今日は人間になって恩返しにきました」


 今度は電波女かよ。ん、でも待てよ。どうして俺が半年前に伊勢海老を海に返した事を知っているんだ? ってことはまさか。やっぱりあの時の伊勢海老! うわあああああああああああああ!


「お前、女だったのか!」


「はい!」


「はいじゃねえよ!」


 誰かに見られると危険な予感がしたので、とりあえず俺は伊勢海老を、いやエビちゃんを部屋の中に入れた。


「さて、君は半年前に俺が海に返した伊勢海老なわけだ。ちょっと信じられないけど」


「ええ」


「つまり命の恩人」


「はい」


「恩返しと言ってもどんなことをしてくれるのかな?」


「どんなことでもします! 今日はそのつもりで来ました」


「どんなことでも・・・・?」


 俺は唾を飲み込んだ。この女、いやエビちゃん。よく見るといい体してるじゃないか。それになんでもすると言ったぞ、まさかな・・・・


 俺はエビちゃんに近寄ると、彼女の肩に手を置きさりげなくベッドの方へ押していった。エビちゃんは少しとまどっていたが、それでもためらいがちに押されて、ベッドに座り込んだ。俺もすぐ隣に座り彼女を抱き寄せる。エビちゃんは嫌がる素振りを見せなかった。やった、この感じはいけるぞ!


「分かっているね?」


「えっ?」


俺はまずエビちゃんの胸に触れてみると、どうなるのか試してみた。元は海老のくせにけっこうデカくて柔らかい。そう思った瞬間、座ったままの姿勢なのに強烈なボディブローが返ってきた。なんだよ、コイツ。まるで石のグローブで殴られたみたいに重かったぞ。あんた、世界を狙えるよ・・・・・・


「えっちいのはダメです! ぜったい!」


ボディを打たれて息が詰まり、床で悶絶している俺に向かってエビちゃんが顔を真っ赤にして叫んでいた。でも、俺は世界のボディに耐えられなかった。徐々に暗くなる視界で最後に見たのはスカートの奥に見えるエビちゃんの赤い下着。意外に派手な下着を着けているんだな。そう思った瞬間、また強烈な衝撃が顔に来たような気がするが、俺の意識はそこでノックアウトされた。


アゴと腹に鈍い痛みをおぼえて目を覚めたのは、もう昼も過ぎてからだった。


「さっきはすみません、大丈夫ですか?」


世界の右を放ったエビちゃんは机の向こうでしおらしくなっている。


「いや、いいよ。俺も悪かったし」


「恩返しに来たはずなのに、こんなことになってしまって・・・・!」


エビちゃんが頭を下げた。エビみたいによく曲がる背中だった。


 「なんでもします」


 「なんでも?」


 「さっきみたいなのでなければ・・・・・」


 「でもさ、キミ。何ができるの? 元は海老なんでしょ?」


 「それは・・・・・」


 「機織とか?」


エビちゃんは首を横に振る


「財宝が詰まったつづらを持ってくるとか」


 エビちゃんはまた首を横に振る。


「それじゃあお米でいいよ。一人暮らしだし5kgあれば一ヶ月はもつから」


 エビちゃんは申し訳なさそうに下を向いた。


「はあ、もういいよ。海に帰って。別に恩返しなんてしてくれなくていいから」


「待ってください。どんなことでもします。恩返しさせてください」


エビちゃんはめんどくさい女だった。涙ぐんで俺の顔をじっと見てくる。なんだよ、俺が悪いのか? こんなことになるならあのとき真っ二つにしておけばよかった。おまけに腹も空いてきたぞ。あっ、そうだ。


「それじゃあ昼飯作って」


「料理・・・・ですか?」


「エビチリでいいよ」


冗談のつもりで言ったのにエビちゃんの目からすうっと涙が流れた。早く帰ってくれないかなと俺は思い始めていた。それでも俺はとりあえず冷蔵庫の中を調べみた。あるのはナスビときゅうりと麻婆豆腐の素。


「麻婆ナスでいいから。作り方は箱の裏に書いてあるから分かるでしょ? 字は読める?」


「はい・・・・・」


どうも料理には自信が無さそうな雰囲気だが、ナスを切って炒めて麻婆豆腐の素と一緒に加熱するだけだから大丈夫だろう。でも海老なのにどうして字が読めるんだろう? 不思議だ。


麻婆ナスができるまで俺はテレビを見ていたんだが、CM中にキッチンの方を見るとエビちゃんが包丁を持ったまま震えている。どうも様子が変なので見に行くと、彼女はまな板に置いたナスビを前にしたまま固まっていた。


「どうかした?」


「恐い」


「えっ?」


「ナスビが恐い」


「は?」


「ナスビがかわいそうで・・・・・」


エビちゃんは包丁を持ったまま顔を抑えて泣き始めた。なんだよ、この女。早く海に帰ってくれよ。


「私にはできないぃぃぃ!」


エビちゃんが悲鳴を上げてその場に座り込んだ。おい、気を付けろ。包丁を持ったまま急に動くな。もう少しで俺の顔をさばくところだったぞ。


「あのさ、君も海老だった頃は色々食べたでしょ? それを今さらナスビがかわいそうだなんてちょっとねぇ」


「貝やイソメとは違うんです!」


こいつ、こんな顔してイソメなんか食っていたのか。オエッ。でも貝を食っていたとすると意外にお嬢だぞ。っていうか貝やイソメはかわいそうじゃないのかよ。


「もういいよ。自分で作るから」


俺は海老ちゃんから包丁を取り上げて、ナスビを切ろうとしたのだが、その隣でエビちゃんが両手で口を抑えて、これから何かひどいことが起ころうとしているような目で俺の手元を見てくる。なんだよ、ナスビの一本ぐらい。


「なに?」


「いいんです。それが生きるということですから。そのまま続けてください。覚悟はできています。私は大丈夫ですから」


そんなことを言いながらも、エビちゃんは涙を流しながら震えている。そんな姿を見せられると、もうナスビを食う気なんて無くなってしまった、クソッタレ。俺は窓を開けると、ナスビを裏庭に投げ捨てた。海老は海に、ナスビは土に。


「あのさ、もう帰ってくれない?」


「私ではお役に立てませんか」


「うん」


俺が正直な気持ちを打ち明けると、エビちゃんがまた顔を真っ赤にして泣き始めた。かんべんしてくれよ。俺が一体何をしたっていうんだ。恩返しどころか、仇で返されてるよ。


「もう少し落ち着いてから考えてみようよ。きっと君にもできることがあるはずだから、ね?」


エビちゃんは顔を抑えたまま、うんうんとうなずいていた。でも、その後もかなりの時間うずくまったまま動かなかった。俺はずっと彼女のそばにいて、めんどくせええええええ、という心の叫びを抑えながら優しい言葉をかけ続けていた。このエビ、本当に何しに来たんだ?


「私きっとあなたのお役に立ってみせます。恩返しします!」


やっと顔を上げたエビちゃんは元気一杯だった。俺は高速道路を二時間走り続けたような疲れを感じていた。


「そういえばさ、キミ。字は読めるんだっけ?」


「はい!」


「それじゃあさ、ここを出て少し歩いたところに本屋があるから、ジャンプ買ってきて」


「ジャンプってなんですか?」


「えっ、知らないの? ああ、そうか。エビだったもんな。店員にきけば分かるよ。ジャンプはありますかって。お金は持ってる?」


エビちゃんは恥かしそうに首を振った。そりゃエビだもんな。持っているわけないか。でも、それじゃあその服はどこから調達したんだよ、海底の死体から剥ぎ取ってきたのか、と言いたくなるが、それは黙っておいた。


俺はエビちゃんに千円札を渡して送り出した。正直もう帰ってこなければいいのにと思っていた。


だが俺の願いに反して少し時間がかかったがエビちゃんはちゃんと帰ってきた。しかし、ジャンプを買ってきたにしてはレジ袋が薄い。まさかVジャンプを買ってきたのか? しかし俺がレジ袋を開けると、それはジャンプですらなかった。


「てめえ、ジャンプ買ってこいって言っただろうが!」


エビちゃんが買ってきたのはスカした表紙の小説本だった。
『ロスト・イン・カンバゼイション』とかいう英語のタイトルがついているが、書いているのは王木亡一郎とかいう変なヤツだ。日本人なら日本語使えよ、欧米か。


「マンガを読むより、そっちの方がためになると思って・・・・」


「よけいなお世話だ! あんたは俺の母親か!」


「ひどい! どうしてそんなこと言うんですか。私だって色々考えてきたんです」


「もう考えなくていいよ。さっさと海に帰れ。・・・・ったく、マジで使えねえエビだな。ジャンプひとつも満足に買ってこれねえのかよ」


その瞬間、俺の視界に黒い幕が降りてきた。それに足から力が抜けて床にヒザをついていた。


「命の恩人だから色々してあげようと思っていたのに、あなたがそんなにひどい人だとは思わなかった!」


エビちゃんが涙の叫びを俺に浴びせてくる。この時になってようやく俺はボディを打たれたのだと理解する事ができた。


「海に帰らせていただきます!」

エビちゃんが部屋を飛び出していく。それは良いが俺の視界が戻らない。これ、内臓破裂しているんじゃないか? 腹の中は痛いを通り越して重さしか感じないぞ。俺はもしかして死ぬのか? だが死の不安とは裏腹に、俺は不思議な気持ち良さに包まれながら意識を失っていった。



目が覚めると、俺はまだ生きていた。エビちゃんはいない。そのことが俺をひどく安堵させた。俺はやっとあの海老女から解放されたのだ。


王木亡一郎とかいうやつが書いた本は燃えるゴミの日に捨てた。ロスト何と言ったっけ? まぁいい。どうせ一行も読んでいない。聞いたことがない作家だからどうせ大した内容じゃないだろう。


そうして俺は再び平穏な一人暮らしを満喫していたのだが、ある日の休日、またドアがノックされた。俺は何故か海老女のことを思い出していたが、ドアを開けると全然違うヤツだった。


「こんにちは、私は先日助けていただいたナスビです」


「は?」


そこには筋肉モリモリの色黒マッチョが立っていた。身長はかなりデカくて2m以上ありそうだ。腕は俺の腰ぐらいある。


「あなたが私を裏庭に棄ててくれたので、私はナスビとしての一生を終える事ができました。なので今日は人間になって恩返しにきました」


「いや、恩返しなんてしなくていい」


「大丈夫です。お気になさらずに」


ナスビを自称する色黒マッチョは筋肉にものを言わせて、強引に部屋の中に侵入してきた。


「恩返しとはいっても元はナスビなので、あいにく私は何もできません。だからこの体でお返しします」


「はっ? 意味分らねえ、お前何言ってんだよ」


それと俺をそんな柔らかいまなざしで見るな。そう言いたかったが、下手にヤツを刺激すると何かヤバイことが起こりそうな気がして、口に出す事はできなかった。


「心配しないでください。恩返しは初めてですか?」


「いや・・・・・言っている意味が分からない。俺に何をするつもりだ」


「私に全てを任せていただければ何も心配することはありません。あなたはじっとしているだけで良いんですから。怖がることはないですよ」
 

「いや、恩返ししてくれなくていい。土に帰れよ、マジで」


俺がそう言うと、ナスビの目がさらに優しくなり、口にはとろけそうな笑みが浮かんだ。

ヤツは気持ち悪くなるほど優しく俺の肩に手を置くとこう言った。


「お風呂場をお借りします。体から土を落としてくるので」


そういうわけでナスビは今シャワーを浴びている。俺はこれからどうなるのだろう。そして何を失うのだろう。恐怖に震えながらナスビが出てくるのを待っていた。今すぐ逃げ出したいのに体が言うことをきかない。 

 

ほどなくしてナスビが出てきた。

黒光りする盛り上がった筋肉が水滴を玉のようにして弾いている。


「それじゃあ始めましょうか」


ナスビが俺に優しい微笑みを向けながら近付いてくる。
 

そして俺は・・・・・・




(おわり)




↓ためになる小説(エビちゃん的には)



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『僕は夜眠りたくない、朝目覚めれば明日が来てしまうから/牛野小雪』inspired by 『少年幻想譚(隙間社)/伊藤なむあひ』

僕は夜眠りたくない、朝目覚めれば明日が来てしまうから336-280

 今日が終わろうとしている。時計の短針が12時の打つまであと1時間。僕はいてもたってもいられなくなり部屋を飛び出していた。
 

 僕の住んでいる場所は寂れている場所にふさわしく街灯が少ない。そのくせ町の寂れ具合が夜の闇にくっきりと浮かんでいた。

 僕は遠くに見えるオレンジ色の光を目指した。

 ゴゴォン、ゴゴォン

 光に近付くにつれて巨大な何かが動いている鈍い音が響いていた。オレンジ色の光は港から積荷を下ろすクレーンのライトだったが今は動いていない。その音はどこかから聞こえていて、港のコンクリートに染み込んでいく。

 ゴゴォン、ゴゴォン
挿絵2

 停泊した船の隙間に竿を垂らしているおじさんがいた。釣りをしているのはその人だけだ。ニット帽に生地の厚そうなジャンパーを着ている。

“こんばんは、何か釣れますか”

 僕が話しかけると

“タチウオが釣れている”とおじさんは答えた。足元にはラジオがあって、この時間にはちょっとそぐわないヘヴィメタルがかかっていた。音がこもっているからきっとAMだ。AMでヘヴィメタなんてますます変だ。

 おじさんはユニクロの白い買い物袋からタチウオ出して僕に見せた。オレンジ色のライトでも銀色に光るタチウオは帯みたいに長くて1mぐらいあった。

“大きいですね”

僕が言うと“3本じゃなあ”とオジサンは不満そうな声を出した。

 ユニクロの買い物袋にはタチウオが4匹入っている。オジサンが持っているのを合わせて5匹。3本というのはいかにも変だが、僕は曖昧にうなずいてその場を後にした。

 港から遠ざかると星がたくさん見えた。今日は月が出ていない。住宅もほとんどの家が明かりを消している。子どもの頃に見たような星空だった。

 足元で赤猫が僕を見上げていた。「ニャー」と鳴いて僕の足首へ甘えるように体毛を擦り付けてきた。僕がその猫を撫でようと腰を下ろすと猫は膝に乗ってきた。図々しい猫だ。それでも背中を撫でてやるとクルルルル、クルルルルと喉を震わせて高い音を出した。

 猫を撫でるのに飽きたので猫を地面に放って歩き出すと猫がついてきた。足を止めると「ニャー」と一鳴きして足首にまとわりついてくる。でも僕はその猫に飽きていたので、ちょっとかわいそうな気がしたけれどまた歩き始めた。猫はトコトコと後ろをついてくる。まるで犬みたいだった。

 僕の他にも夜の町を歩いている人がいた。歩いているというよりはウォーキングだ。いつの間にか赤猫の姿が無かったのでちょっと寂しい気持ちになった。

 僕はずっと歩いていた。どこかへ行きたいけれど、どこにも行く場所は無かった。歩き疲れた僕は国道のガストに入った。すかいらーくグループ。バーミヤンだってすかいらーくだ。特に意味はないがそんなことを考えた。

 僕は時計を見ないようにして席についた。深夜でも客は入っている。メニューを訊きに来た女の子に僕は『オムライスビーフシチュー』を頼んだ。こんな時間にはそぐわない活発そうな明るい女の子だった。彼女の声は深夜のガストによく響く。急なシフト変更でもあったんだろうか。

 衝立の向こう側に別の客が来た中年と若い男の二人が座ったと声で分かった。中年の方がずっと喋り続けている。若い方は黙っていた。スマホでも見ているのかもしれない。

 そうこうするうちに『オムライスビーフシチュー』が来たので僕はそれを食べた。

“子供の頃に通った道って、大人になって通ってみると驚くほど狭いんだよな”

 オムライスを半分以上食べた頃に衝立の向こうから声がした。さっきから声は聞こえていたが、言葉が耳に入ってきたのだ。若い方はうんともすんとも言わない。

“でもさ、空の大きさってずっと変わらないってことに気付いたんだ。これってトリビアになりますか?”

 突然トリビアの泉のネタが出てきたけれど、若い方はやっぱりうんともすんとも言わない。僕はオムライスを食べ終わり、水を飲んだ。

“月のウサギが・・・・”

 中年の男が喋っている間に僕は席を立って、衝立の向こうをちらりと見た。そこに座っていたのは中年の男と若い女だった。肩紐の付いていない黒いドレスでおっぱいの上半分が見えている。ほっぺたに赤が取って付けたように浮いていた。

 僕は夜の町を歩いた。行き先はない。どこかへ行こうという意思はあるが、どこにも目的地はないのだ。遠回りとはいえ、僕は自分の部屋へ帰ろうとしていることに気付いた。

 さっきとは違う港に来た。海面に対岸の街の光が絵の具のようにぴゅーっと伸びていた。その光の根っ子にはきっとタチウオを釣っているおじさんがいる。クレーンのオレンジ色の光もやはりぴゅーっと伸びている。世界はまだ夜に包まれている。

 歩くのは飽きた。体も疲れた。もうずっと歩き続けている。でも僕は立ち止まらずに歩き続けた。僕は絶対にどこかへ行かなければならないのに、どこへ行ったらいいか分からなくて焦っている。寝ている場合じゃない。見当違いでもいい、どこかへ行かなければならない。

 漠然とした不安を燃やすように歩き続けていると、夜の闇を掴むように朝の光が伸びてきた。夜が終わろうとしている。僕はその光から逃げるように自分の部屋へ走った。新聞配達のカブが走り回っている。

 僕は部屋に帰ると、急いで布団に潜った。明日が来るまで時間はまだたっぷりとある。僕は朝が来る前に眠りについた。

 

(おわり)

 

伊藤先生の次回作にご期待ください

 ←inspired

 

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ヘリマルセブンティーン1 320-100SNOWBREAK 320-100僕は夜眠りたくない、朝目覚めれば明日が来てしまうから320-100冷たい山 320-100

 Kindle本出しています
4のコピー
 


『冷たい山』 Inspired by 『山彦/ヤマダマコト』

冷たい山 800-320
 毎年梅雨が明けると僕は父に連れられて山を登る。それもちゃんとした道ではなく、車を道路脇に止めて山の中へと進む。父の車はスバルだ。その前もスバルだったらしい。僕は生まれていたが覚えていない。全ては写真の中の事だ。

  家を出た頃は薄く汗ばむほどだった気温も山の日陰に入った途端に遠のき、車を降りる頃にはひんやりとした冷気が肌に染みこんできた。

 藪をかき分けながら進むとすぐに踏み固められた道に出た。山は高い木に覆われているので日光が当たらない。草は生えていなかった。上り下りしなければ外から見るより意外と歩きやすい。

 僕達は山のカーブに沿うように歩き続けた。すると突然川の音が聞こえた。山の中では全てが突然に姿をあらわす。目の前に来るまで全然気付かない。

 父が川の石をひっくり返した。そこには爪の先より小さい甲虫が何匹かくっ付いて、突然日光を浴びせられたものだから慌てて川の中に逃げていく。父はその中の一匹を捕まえると持ってきた釣り針の先に付けた。

 僕はその甲虫の名前を知らない。でも姿は知っていて、毎年見ている。貝みたいな見た目の癖に意外と素早く動くのだ。

 父は釣り針をそっと渓流の中に落とした。

 姿を見せると魚が逃げるので体は伏せていた。音も立てない。僕は息を殺して父の背中を見ている。渓流を落ちる川の音だけが聞こえる。

 父は竿を上げて釣り針を見ると、その先から何かを摘んで川の中に捨てた。それから体を起こして歩き始める。きっと魚が食いついていなかったのだ。そんな時、父は必ずエサを川の中に捨てる。次のポイントまで付けていくという事がない。

 山を降りてから何故エサを外していくのか一度だけ聞いたことがある。

“山との勝負に負けたから”と父は答えた。

 意味は分からなかったけれど僕は不思議とその答えに納得して、いつしかそういう物だとその考えが体に身に付いた。負ければ捨てる。0勝1敗。でも僕達はまだまだ渓流を遡っていく。勝負はまだまだ続くのだ。

 父が足を止めてまた石をひっくり返した。そこには甲虫がいなかったが、僕がひっくり返した石にはたくさん引っ付いていて、僕はその中の一番最初に動いたやつを捕まえて父に渡した。その間に虫達はみんな川に逃げてつるつるに濡れた石がひっくり返っていた。

 父がまたさっきと同じようにそっと釣り針を川の中に落す。さっきと同じように身を伏せて音を立てないようにした。川の音と時間だけが僕達の体を通り過ぎていく。

 竿の先が震えた。父がぐっと腕を上げると、一瞬だけ竿が弓なりに曲がった。それからゆっくりと竿を上げていくと竿の先で魚が暴れていた。

 父は素早く針を外すと、それを川の中に戻す。まだ小さい魚だった。でもこれで1勝1敗の引き分け。

 それからもう一度竿を下ろしたが釣れたのはまた小さい魚で僕には同じ魚に見えた。父は腰を上げてまた歩き始めた。

“そろそろ深い場所に出るな”

 一度川から離れ、山の中を歩いていると父が言った。山に入ってから初めて口にした言葉だ。

 僕達はほとんど言葉を交わさない。家で一緒にいてもほとんど話すことはないが山の中ならもっと話さない。たぶん喋れなくなったとしても山から降りるまでそれに気付かないだろう。僕は父の言葉に答えなかったし、父も足を止めずに歩き続けた。すると父の言うように大きな岩でせき止められて川が狭くなった場所に出た。川は深い緑色をしていて深そうだが、その中を泳いでいる魚が白く見えた。浅い所だと何故か黒く見えるのが不思議だった。

 僕達がいる場所は少し崖になっていて川の石をひっくり返す事はできなかったが、父は近くにある木の皮を剥がすと、そこから白い芋虫みたいな虫を捕まえて針の先に付け、川の中に落とした。

 僕は父から少し離れた場所を歩いて、少し固そうな枝を見つけるとそれを持って木を叩きながら山の中を歩いた。

 山の中は静かで、何をしても自分の音しかしない。でも一度風が吹くと頭上の木の葉が一斉に揺れて森中が震えながら大声を出す。すると森の中でひとりぼっちになったような気分になり、冷たい空気と一緒に寂しさが胸に入り込んでくるのだ。

ちょうどある木の幹を木で打った時にそうなったものだから、僕は心細くなって父の所に戻った。父はまださっきと同じ姿勢のまま岩のように動かない。僕はその背中を見て胸の奥ががじぃーんと暖まるのを感じた。

僕が隣に座ると父は微かに僕に顔を向けた。まだ魚は釣れていない。離れた場所で白い魚の影が見えた。きっとあの魚も僕達を見ている。だからあんな離れた所にいるんだ。僕がそう思っていると竿の先が震えた。父が咄嗟に腕を上げて竿を弓なりに曲げると、僕が思っていたよりも意外に遠い場所で水しぶきが上がった。

 父がリールを巻いていくと黒い影が近寄ってくる。水から上げると僕の腕より大きなニジマスだった。近くで暴れられると空気を通してその大きさが伝わってくる。

父が近くにあった石を掴むとニジマスの頭を叩いた。ポクッと少し間抜けな音がしてニジマスは動かなくなった。

 父が手を伸ばしてきたので僕は持っていた枝を彼に渡した。父はその枝をニジマスのエラから口に通して担いだ。

 その場に竿を下ろす事はやめて、また歩いた。

 川のそばにあすなろの木が生えていたので、その枝を折ってエラに通し、葉っぱで魚体を巻いた。さらにその上からヒノキの薄皮でキュッと縛る。ツンとしたにおいがするが、これで巻いておくと新鮮なまま長持ちすると父は言っていた。

 それからさらに歩いて浅い川に出ると父はあすなろの葉っぱを解いて、ポケットからナイフを出すとニジマスの腹を裂いて内臓を川に捨てた。魚の身は川で洗わず少し血が付いたままだが、やっぱりこうしておくと魚が長持ちするらしい。

“内臓はカニが食べる”と父は言った。

 それからも僕達は渓流をさかのぼり魚を釣った。

“お前もやってみるか?”と父は言ったが僕は首を振った。僕は魚が好きじゃない。釣だってそうだ。でも釣りをしている父を見ているのは好きだった。

 渓流はまだ続いていたが、父は帰る素振りを見せた。

“この先は?”と僕は言った。

山に入ってから初めて口にした言葉だと気付いた。

“何もないよ”と父は言った。

 それでも僕達は渓流をさらにさかのぼると徐々に川は細くなり、本当に何も無い場所に来た。正確には細い滝が落ちている場所だ。
挿絵

“前にも一度来たことがある?”

 僕の問いに父は何も答えなかった。父は夏が終わるまで何度か僕を渓流釣りに連れて行く。行く場所はいつも違うが、この場所は何度か来たことがある。

 僕はしばらく滝の周りをうろうろして、それにも飽きると下流に足を向けた。父が先に立って来た道を下っていく。さっきニジマスの内臓を捨てた場所は川の流れが弱い所だったが、そこにはもう何も無く、近くにカニの影がいくつか見えているだけだ。

“川が全部流していくんだ”

 父が言った。僕は何も答えなかったし、何故父がそんなことを言ったのか分からなかった。川が下流へ流れていくのは当たり前の事だ。

 僕達はそれから半時間以上歩き続けてスバルの車まで戻ってきた。長く歩いたものだから、肌の表面では冷気を感じるのに、体の芯はほてっていた。車のミラーで自分の顔を見るとほっぺが真っ赤になっている。父の顔を横目で見たが、浅黒いので赤いのか白いのかよく分からなかった。

 帰りは窓を開けて走っていると、すぐに体が冷えてきた。僕が三度目のくしゃみをした時に父は全部の窓を閉めた。

“滝の上はどうなっているのかな?”

ふと口に出した。そういえば滝の上にも川は続いているはずだが、いつもあそこで引き返す。

“どうして滝の水は涸れたりしないんだろう?”

 続けて僕は言った。父は黙っていた。山はもう下りていた。

 

(おわり)

 

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