愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

王木亡一朗

この王木亡一朗を読め3♪ 『レモン/グラス』

 優れた小説は冒頭の文章が小説全体を支配する。究極的には最初の10行で読むのをやめてもかまわない。夏休みの宿題で読書感想文を書くならなおさらだ。始めに書いておこう。『レモン/グラス』の冒頭で僕と姉は毎朝京野菜を食べていると描写されている。まずはこれを憶えておいて欲しい。

 小説なら文字、映画なら時間、漫画ならコマの制約がある。それなのにあえて食事シーンがあるとしたら、それは作者の意識的にせよ、無意識にせよ何らかの意図が含まれている。その証拠に猫が屋根からさかさまに落ちる出来事はいつでもどこでも入れることが可能なのに、実際にはほとんど見かけることはない。それは猫が何の脈絡もなくさかさまに落ちることに意味が無いからであり、意味のない出来事は削られるからだ。

 もし登場人物の二人が同じ物を食べていた時、しかもそれが男女で会った時、それは恋人同士である可能性が非常に高い。おい、待てよ。母と子、あるいは父と娘の可能性は? もしくは『レモン/グラス』のように姉と弟ということもあり得る。家族が同じ物を食べるのは当たり前じゃないか。そう思っている人がいるかもしれない。確かにそれはそうだ。しかし創作物の場合、家族が同じ物を食べているのは、反抗期の中学生が家族と同じ物を同じ時間に食べることぐらいおかしなことだ。それは崩壊の前触れか、ハッピーエンドを迎える時でしかありえない。というか前者の場合は、同じ食卓についていても違う物を食べているだろう。

 結婚式では基本的にみんな同じ物を食べる。両方の父母の好みぐらいは聞くかもしれないが、出席者の一人一人にまで意見を聞くことはまずない。何故なら出席者の重みは平等ではないから。ほとんどの人は欠席しても問題ない人達だ。何らかの国際会議の食事ではベジタリアンや宗教ごとに食べ物を選べるようになっているが、残念ながらそういう会議が世界的に大きな影響力を持つことはない。二国間交流の場合は同じ物を食べる。もし食べなかったらニュースになるだろう。少なくともカメラが入る場所では同じものを食べる。

 これらのことを踏まえればデートの時に何を食べればいいかはすぐに分かる(あるいは媚を売りたい上司と食事する時でもいい)。相手と同じ物を食べればいいのだ。もし相手が食べてくれないのなら、たとえば相手がカルボナーラを頼んで、自分もカルボナーラを頼んだ時、相手が注文を変えたらそれはとってもヤバい状況だ。

 文学にそう書いてあるから現実世界でもそうなるのか? いいや、絶対にありえない。もし世界中の小説家が、牛野小雪が宝くじに当たる描写を書いても、私が宝くじに当たる可能性は天文学的に低いままだ。数学者は数式を通して世界を記述している。小説家は小説を通して世界を書いている。世界が文学を作っているのだ。この関係が逆転することはあと10000年経っても起こりえない。

「この小説はどういう意味があるんですか?」
 この質問はこうも言い換えられる。
「この世界に意味はあるんですか?」
 もし文学に意味が無いのなら世界にも意味が無い。小説から意味を掴み取れないなら人生の意味も掴み取れないし、人生の意味を掴んでいるのなら小説からも意味を掴み取れる。嘘だと思うのなら試してみて欲しい。小説家が書く書評の印象が、いかにその人の書く小説にそっくりなことか。

 さて、上に書いたように食事に注目して読もう。冒頭で二人暮らしの姉と僕は京野菜を食べているが、姉は体に悪いほどご飯に塩をかけている。つまりあやしい関係だが、姉は意図的に自分に悪い何かを吸収しているぞ、というのが1ページ目で分かってしまうのである。

 これがどういう意味を持っているのかを考えるのは作者の王木亡一朗ではなく読者のあなただ。もしかしたら世界の意味を見つけられるかもしれない。この記事を読んで、文学を読む手掛かりを見つけたと思えたのなら、最初の10行を読んでみよう。その後は燃やしてしまってもかまわない。

(おわり)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20






※前にnoteで読んだのとは内容が違う気がする。

※2 このブログ記事を夏休みの読書感想文に使ってもいいよ~

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この王木亡一朗を読め2♪ 『あのころ』~だれにもいいねされない私達の退屈、そして無意味さ~

 社会が意味の無いことを許さないのはこの記事の存在自体が示している。この映画は、この本はどういう意味なんですかという問いはよくあるし、それは何の意味もないなら何の価値もないということを暗に示している時もある。価値がないなら存在してはいけないということだ。

 しかしながら私達の生きている時間で、どれだけ意味のある時間、価値のある時間があるだろうか。たいていは意味も価値もない時間を過ごしているはずだ。

 有効活用されるべき時間はまだまだたくさんあるぞ。というのが社会の要請だが、全ての時間が有効活用されている人生を生きていける人がどれだけいるかあやしいものだ。

 TV、ネットでは有効活用された世界であふれていて、退屈は共有されない。人生の大半を占める無意味さ、価値のなさは誰にもいいねされないどころか、積極的に排除される。それは正しいことだ。

(もう書くことはないので、ここでおわり。こんなブログを読んでも意味はないので王木亡一朗を読め♪)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20


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この王木亡一朗を読め1♪ 『当てつけ』~前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよ、夏~

現代社会は多様性の時代だと言われているが、そんなことは嘘っぱちでせいぜい数バリエーションの人しか受け入れ先はない。腕が6本あったり、目からビームが出たり、指の間からアダマンチウムの爪が出たり、体が岩でできている人間を想定されてはいない。社会の要請する人間で無いならば、特に誰かが排除しなくても、そもそも居場所がないので、彼らは社会の力学で勝手に外側へと導かれる。

 身体能力だけでもそうなのに、心や精神でだって多様性はない。変わったキャラは『変わったキャラ』という枠を越えた途端に受け入れられなくなる。社会に存在する数バリエーションのキャラを越えた人間は静かな真空によって、社会の外側へ吸い込まれていく。人間って数パターンしかいないよな、というのはある意味では正解で、数パターンのキャラしか社会は受け入れられないからだ。内心は自由でも表現は限られている。こいつら没個性だなと思っている人も、社会の中では没個性の人間としか出現せず、そこから逃れようとしても、せいぜい『個性的』という型にハマるぐらいだ。個性的な奴が出てこないと言っている人も、本当に『個性的』な枠を越えた個性的な人が目の前に現れたら、受け入れられないことはほぼ間違いないし、認識することさえできないかもしれない。『』の中に入るのは何でもいい。それは真面目だとか、天才だとか、面白い、カッコイイ、かわいい、弱者、変態、無個性でさえ入れることが可能だ。

 直接の描写はないが前山田君は何のキャラにもなれない無能である。自尊心とお金を払ってまでいじめられっ子というキャラを社会(学校)の中に見出したが、親の金を盗まなければならないほど追いつめられた時に、つまりキャラの維持費が彼個人の裁量を越えた時に、とうとうこの世から居場所がなくなり、オサラバすることになった。

 現代社会は映画の『JOKER』と違って、銃とマレー・フランクリンが存在しないゴッサムシティだ。マレー・フランクリンみたいな人がいれば笑いものにしてくれる。一緒に笑えば居場所を得られる。もしかしたら表舞台に引き上げてくれることだってあるかもしれない。銃があれば自分を笑う奴を撃ってテロリストになればいい。しかし残念ながら社会に受け入れられない人にマレー・フランクリンは現れないし、銃、あるいはそれに準ずる力さえも手に入れることはできない。『JOKER』のアーサーだって自分の力で銃を手に入れたわけじゃないしな。『JOKER』はしょせんフィクションで、舞台装置として銃を手に入れただけだ。現実は静かに死ぬか、腐りながら生きていくしかない。

 上でも書いたように社会に受け入れられない人間は認識すらされない。前山田君にいじめられっ子というキャラが付いていた時は主人公が同情してくれたのに、自殺した理由がいじめでないと分かった途端に、前山田君はいじめられっ子というキャラから逸脱して、キャラが剝ぎ取られた無キャになってしまう。半年後もすればいじめっこの前山田君は記憶に残ったとしても、仮面が外れたむき出しの前山田君は存在していたことさえ忘れられるだろう。社会的な『』にくくられない真の無キャは『当てつけ』さえ亡きものとされてしまうのだ。

(おわり)

※前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよってタイトルに書いたけど、そもそもこの小説、平成に書かれた物だったので、やっぱり二重の意味でねえよ。

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20



ジョーカー(字幕版)
ザジー・ビーツ
2019-12-06



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『妄想の戦争の話をしよう』を書こう ver2

 ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』という小説がある。映画にもなっている。『オン・ザ・ロード』の結末は、メキシコで分かれたディーンの噂を聞きつけたサルがニューヨークの路地を探し回り、ボロボロになったディーンを見つける。あんまりにひどいんで涙が出そうになる。ディーンは最初サルだと分からなくて物乞いをするんだけど、途中でサルだと気付いて今のはジョークだと恥ずかしがる。気まずい沈黙の中、海岸へ行こうとなり、お互いにどうしているのか話し合って、二人の距離がもう二度と交わらないほど離れてしまっていてサルは寂しくなる。でも、サルはディーンに「西部へ行こう」と言う。絶対に辿り着けないと確信しているけれど、そう言わざるを得なくなる。ディーンは「いつ?」と目を大きくする。「今から」「そうこなくっちゃ」ディーンが缶ビールを一気飲みする。それが致命的な一撃になってディーンの心臓が止まる。それでなんだかんだあって、最後はサルがディーン・モリアーティのことを思い出しているところで終わる。

『オン・ザ・ロード』を憶えている人なら、これが間違いだと分かるだろう。でも、つい最近までこういう終わり方だと思い込んでいた。それで映画の方を見たら全然結末が違っていて(監督の勝手なクリエイティブなんかいらないんだよ!)と憤って、むしゃくしゃして小説の方を読むと、映画と同じ終わり方だったのでビックリした。もしかして世界線変わってない?

 誰もが知っている○○の結末は意外とみんな知らない。というのをTVでやっている。私も分からないやつが結構ある。結末は大事なものだと言われているが、案外みんな忘れてしまっている。というより別のストーリを作り上げてしまっている。それじゃあ最後なんか、もうめちゃくちゃになって、どうしようもないエンドでもいいんじゃないかって気がするけれど、そこまで強気になれなくて悩んでいる。

 もちろん冒頭も悩む。小説の冒頭を集めた本があるぐらい冒頭は大事だと言われている。でも『妄想の戦争の話をしよう』は”ウンコ爆弾が戦争の始まりだった”で始まる。その次は濃縮ウンコが出てくる。こんな汚い始まり方で良いんだろうかと最初は不安だったが、何度も、うんこ、うんこ、の文字列を読んでいると、本来の意味のうんこから意味が離脱して、うんこという純粋な三文字の存在になってくるから、うんこ? ふ~ん。ぐらいの気持ちになる。感覚マヒしている?

 しかし、ノートや雑感帳をつけなければ、わりと分かりやすい話になるんだなと思った。短編だから、さっと書けてしまったんだろうか。もうひとひねり欲しいけれど、短編でも冗長さがあるって言われたから、むしろこれぐらいが良かったりして。


 余談だが、王木さんのnoteに小説が掲載されているのを呼んでびっくりした。

 サインカーブに浮かぶ日①|王木亡一朗 / note 
 https://note.mu/oukibouichirou/n/n3d5672b8b00a
 
 前もnoteに掲載していたレモン/グラスにびっくりしたが、あれ以来の衝撃。考えてみればもう3年前で、そりゃ新しいものを書いてくるなぁ、もう3年も前かぁ、と色々考えた。去年から新しい小説を書くんだ、と意気込んでいるが、そんなことを考えているのは私1人じゃない。いいね、いいね、わくわくする。この小説か、この次が、たぶんめっちゃくちゃ凄いのになる。間違いない。っていうか、もうすでにめちゃなやつを書いていて懐に隠し持っていると予想している。

 あ、そうだ。質問箱で、最近書いていないんだけど、どうしたんですか、と聞かれて、どうやらtwitterは見ていてもブログは見ていない人がいるのだと知った。基本的に情報発信はブログメインでtwitterは記事更新と読んだ本のツイートぐらいにしか使っていないんだけど(読んだ本を最近つぶやいているのはtwitter放置問題の解決のため。質問箱もそう)、twitterだけで完結するような情報発信も考えた方がいいのかも。

とはいえkindleでもう一年以上出版していないのも事実。今年はきっと出しますよ。凄いのが出ます。

どれくらい凄いかというと、これぐらい↓

すごいkindle

というわけで、今年の牛野小雪は要チェックです。よろしくお願いします。

(おわり)

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2017年に読んだkindle本

このKindle本を読め!王木亡一朗強化週間『ライフゲージ』

心身共にうんたらという言葉がある。困憊でもいいし、爽快でもいい。

 そこに至るまでに心と身体が一緒に困憊したり、爽快になることは少ないように思われる。国道の端から端まで走れば、まず体が困憊して、それに引きづられて心も困憊するだろうし。でもそれが駅伝で、地区優勝を取ったとかであったなら心は爽快になり、体の疲れも吹っ飛ぶ。ということを理解するのにあまり苦労はしない。
 
 心と身体は独立して存在するのではなく、お互いに影響を与えながら生きている。

 心を臓器として考えればもっと分かりやすいかもしれない。肝臓がダメになれば、他の部分もダメになるし、他の部分が頑張ることによって、ダメになっている肝臓が踏ん張って持ち直すということもある。かといってある臓器だけを気にかけていても、他の部分が全然ダメになることだってあるだろうし、全てに気をかけていても、いつの間にかどこかがダメになっていたというのはよくありそうな話だ。

 人生だって同じようなものだ。お金は大事だけどお金ばっかり追っていると落ち着かない人生になるし、かといってお金を気にかけないとみじめな人生になる。人に気をかけていても嫌われることはあるし、気に入られようとしなければ気にかけてくれることはない。魚心あれば水心あり。

 一度だけの人生。心をどこに置こうぞ。・・・・・なんて真面目に考えるには人生は重たすぎるのだ。誰も人生を背負うことはできない。そうできていると思い込んでいる人はいるけど。

 人生はシュミレーションゲームではなくシューティングゲームみたいな物。障害物に気をつけながら目の前に現れた敵を撃ち倒すこと。次に何が出てくるかは分からないし、敵は前から出るとも限らない。上下後ろどこからでもありだ。とにかく倒しまくって敵を倒し、、、まくらなくったって良いんだな、これが。生きてる限り前に進む。考えてみたら残酷だよね。今はもう2017年だけど、2016年もうちょっと待ってくれよって思う時がある。

(2017/01/11 牛野小雪 記)
LaLaLaLIFE









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2016年に読んだkindle本

悪人の系譜/月狂四郎

赤ちゃんは言葉を喋ることができない。

「あの、おっぱい吸わせてもらえませんか?」

「お尻拭いてもらえませんかね?」

「そろそろ眠りたいからそっと抱きしめててほしいな」

 などと言葉を出したら非常にびっくりするだろう。

 ある本によれば人間が最初に覚える感情は怒りらしい。

 何かあれば怒る。本当かなと調べてみると赤ちゃんが笑うのは生後数ヶ月たってからで、最初は寝るか泣くからしい。

 

 赤ちゃんにできることは泣くことだけで、これひとつですべての用事を済ませている。中には眠気でも泣くことがあるそうだから大変なものだ(どうやって調べたんだろう?)。

 もしそれが本当なら赤ちゃんからの記憶がある人は「俺は怒りと共に生まれてきた」なんて言うのだろうか。(でも胎児の頃の記憶がある人はいるらしい。そういう人に聞き取り調査したのかな。ほとんどの人は3歳以前の記憶は無くなってしまうそうだ。)

 余裕のある人は笑っている。余裕のない人は怒っている。それがさらに進むとしょげかえっている。

 さて本題に入るとちょっと前に月狂さんの『悪人の系譜』読んだ。

 天龍墓石(とうむ以下トム)は怒っている。いつも怒っている。でも最初はしょげかえっていた。親から有形無形の暴力を受けていた。でも体が成長してくると暴力の方向が反対になった。でも彼の心が癒やされることはないわけだ。

 彼は心の乾きを癒やすように暴力の世界に塗れていく。幸いにも天性の才能があって修羅の世界を気持良く泳ぐことができたが、それでもやっぱり気持ちは収まらない。暴力の方向性が変わっただけで心の傷はずっと疼いている。

 対人関係のトラウマの克服で一番難しいのは、傷を負わせた相手を許すことではなく、過去の自分を許す自分を許せないことだそうだ。「お前、あんなことをされたのにあいつを許すのか」的な。

 トムには妹がいる。彼女も実は心の傷を持っている。彼女は親から虐待を受けていた。彼は彼女を親から救い出し、それから身から出た錆の暴力も救いだした時に何故か母を許すことができる。

 よくよく考えて見るとトムは全然救われていないような気もするんだけど、自他の境界が無いような世界を想像すると彼は自分と同じ境涯の人間を救うことで自分を救っていたのかもしれない。

 かつて何かで苦しんでいた人を見て、それを助けてあげることで自分の中で何かが癒やされることでもあるのだろうか。理屈で考えればいかにもおかしいことだけれどありそうな気はする。

 この世は愛されるよりも愛したいマジでの世界なのかもしれない。

 でもさ、なかなか人って愛せないよね。嫌いになるのは簡単なのに好きになるのは難しい。続けるのはもっと。そういえば赤ちゃんが最初に覚える感情は怒りだっけ? 嫌いってのは怒りを伴っている。怒るのは簡単だ。表に出せるか出せないかの違い。

 ディスるのは簡単で賞賛するのが難しいのと同じで、嫌いから好きへ回転させるのは難しい。自分でさえ持て余す。自分と同じような人間を見つけることができれば何か変えることができるのかな。

 

(おわり)

悪人の系譜


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三十路越えした1985年生まれの作家(敬称だったり、なかったり)

 昨日Eテレで中上健次の特集をしていた。彼が『岬』を書いたのは30の頃だと知って、非常に驚いた。『枯木灘』は31だ。私も今31になっているんだけど、31であれ書けるなんてアンタおかしいよって言いたくなる。なんていうか昔の人って若い頃から、凄い大人っぽい。いかにも人生積み重ねた感がある。だからあんなの書けるのかな。白黒写真で撮れば、私も大人っぽく写るだろうか。案外フルカラーだと、中上健次もその辺のニイちゃんっぽかったりするかもしれない。現代作家はカラー写真になっちゃうのが損だよね。
 確か今年群像新人賞を受賞したのは崔実さんで1985年生まれ。ついでに言えば美人。
 去年芥川賞を取ったのは羽田圭介で、これまた1985年生まれ。
 みんなだいたい30で転機を迎えている。
 そういえば村上春樹の『風の歌を聴け』も30だ。
 30歳で文化系の才能が目覚めることでもあるんだろうか。

 私と同じ1985年生まれらしい王木亡一朗さんの10月末に出したやつ。あれを書いたのは去年、つまり30の時に書いたということになる。あれを読んだ時は(ちっ、こんなもん書きやがって)と内心怒っていた。noteで何の前触れもなく公開していた『レモン/グラス』あたりで、何となく次はいつもと違うものが出てきそうだぞという予感があって、本当にその通りだったからムカついたものだ。いつも通りの王木亡一朗でいてくれよって。

 同じ歳のスポーツ選手が活躍するのは別に何とも思わなかったが、同じ歳の小説家がどうにかなっていると心がざわつく。
置いていかれてくような気分になる。みんなもっとサボろうぜって言いたくなる。

 孔子さんは30歳で自信がついて自立できるようになるなんて言ったそうだが、30になっても自信なんてない。
おいおい、冗談だろ。30歳ってもっと大人じゃなかったのかと不安になる。大きくなったのは体だけで、心はまだ子どものまま。四駆の車体に原チャリのエンジンを載せているみたいなもので、一度止まったらエンストしそうな気がする。V8のエンジンが欲しい。

(おわり)

追記:辻仁成もすばる文学賞取ったのは30になってから。

追記2:『レモン/グラス/王木亡一朗』の衝撃はブログでもちょっと書いていた。
進捗状況『エバーホワイト EVERWHITE』No.7

インスパイアして書いたのがこれ
両親のギター inspired by『レモン/グラス』王木亡一朗

あと以下二つの王木小説がポイント還元セール中。夏の魔物がいいよ。


追記3:しかし10代、20代の頃と比べると『恥じらい』みたいなものは薄れてきたかもしれない。これじゃあ虎にはなれないな。山月記でも読もうか。書く方もそうだけど、読む方でも年取ってからのほうが良く読めると思う。10代で山月記読んでも、あれは言うなれば打ち砕かれた中二病みたいな話だから(なんだこの落ちこぼれのクソ野郎)と思うのではないだろうか。何で教科書で習うんだ? 10代の時点で虎になった李徴に共感できる子はかなり闇を抱えた人生送っていると思う。というか一生分からないままでいられたら良い人生だよね。

読後:何回か読んでいると心に響くところが違うもので、李徴が別れ際に袁傪を殺したくないから同じ道を通るなと頼むところで、ぐっと涙が出そうになった。李徴は嫌なやつだけど、袁傪との友情を大切にできる心を持っていたのが良い。頭から爪先まで虎じゃない。だから苦しんでいる。
山月記 [Kindle版]
しかし、今の時代、李徴みたいに虎になっても、すぐに狩られてしまいそうなのがちょっと悲しい。ドラゴンぐらいにならないと。それでもミサイルには勝てないか(ドラッグ・オン・ドラグーン参照)。バイストン・ウェルの聖戦士か、風の魔装機神じゃないと無理だ。
オカルト力(ちから)が必要とされている。そういえばオーラバトラーはハイパー化したっけ。李徴が乗ったらめちゃくちゃ強そう。

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『伊勢海老の恩返し 〜lost my anything〜/S.T.コールフィールド』

『伊勢海老の恩返し〜lost my anything〜/S.T.コールフィールド』

 ある日突然親戚の叔父さんが押しかけてきて、発泡スチロール箱を押しつけてきた。中身は何かと訊くと「イセエビ」とだけ叔父は言い残して去った。他にも行く場所があるんだとか。


イセエビってあの伊勢海老か?

 

 発泡スチロールを机に置いて蓋を開けるとひんやりとした空気が漏れてきた。中には紙を細長く切った物が大量に入っている。なんだよ、伊勢海老なんていないじゃないか。俺は中にある紙くずを取った。するとそこには俺の腕ほどもある伊勢海老が端の方で丸まっていた。


 げっ、伊勢海老ってこんなにデカイのか。気持ち悪っ! 

 

 予想外にデカイ伊勢海老を前にして、俺は少しも動けなかったが、伊勢海老の方は明るい場所に出たせいか急に体を跳ねさせて、発泡スチロールの中で暴れ始めた。俺は急いで蓋を閉める。中でゴトゴト暴れる音がしたが、しばらくすると静かになった。


 生きているのか。超新鮮じゃないか。

 ふむふむ、前々から高いとは知っていたが、ネットで調べると、伊勢海老はけっこうなお値段がすると分かった。叔父さんサンキュ。ついでにさばきかたも調べておく。ふむふむ、今日は伊勢海老のムニエルにしよう。


 夕方になると俺は発泡スチロールから伊勢海老を出した。海老は眠っているようで、俺が手に持っても、じっとしていた。


 そのままさばきにかかるのはちょっと汚いので俺はまず伊勢海老の体を洗う事にした。これがいけなかった。蛇口の水を海老に当てた瞬間、あの野郎。急に跳ねやがって、俺の手をひっかきやがった。おまけに手から離れて、シンクの中をバックステップで縦横無尽に駆け回る。


「てめえ、大人しくしろや!」


 シンクの隅で固まった伊勢海老の胴体を掴むと、俺はまな板に奴の体を押し付けて出刃包丁を握った。そして奴の体を真っ二つ・・・・・にするはずが、海老野郎がまた暴れて、まな板から脱出しやがった。この野郎!


 海老のヤツ。頭は前に付いているのに、後ろにしか跳ねてやがらない。きっと性格は後ろ向きなんだろうな。そうやってヤツは後ろに跳ね続けて、とうとう玄関まで来たが、不幸な事に俺の靴の中にすっぽり入ってしまった。それ以上はもう後退はできない。逃避行もここまでだ。


「お前さ、いい加減にしろよ。もう俺にさばかれるしかないんだよ」


 俺は靴の中から伊勢海老を引きずり出した。ちょっと臭かった。


 もう一度海老を水で洗ったが、さっきの逃避行で力を使い果たしたようで、ヤツはじっとしていた。まな板に置いてもそうだ。じゃあな、足とヒゲはみそ汁にしてやるよ。こうして俺が海老野郎を縦に真っ二つにしてやろうとまな板に押し付けたとき「キュゥゥゥゥ」と海老野郎から鳴き声がした。


 あれ、待てよ。そもそもどうして俺はこの海老をさばかなくてはいけないのだろう。だいたい俺って海老嫌いじゃん。伊勢海老の名に目がくらんで、何か間違ったことをしているような気がした。でも伊勢海老だぜ?


 俺が海老から手を放すと、ヤツは弱々しい力でまな板から逃れようとしていた。その哀れな姿を見ると、どうにもさばくのがためらわれた。それに俺、海老は嫌いだし。


 俺は伊勢海老を発泡スチロール箱に戻すと、そいつと一緒に港まで行った。


「何か手違いがあった。もう人間に捕まるんじゃないぞ」


 俺は伊勢海老を海に放してやった。ヤツは海中でもバックステップで後ろ向きに泳ぎながら海の底へ消えた。何かいい事をしたような気分がして心が洗われるようだった。その代わり夕飯を逃したので、帰りに牛丼を食べて帰った。


 それから何ヶ月が経ったある日、玄関のドアをノックする音で目が覚めた。誰だ一体。新聞の勧誘か?


 ドアを開けると、日傘をさしたオバサン二人組みが立っていた。


「あなたは神を信じますか?」


 前に立っていたおばさんがそんなことを言ったので俺はこう言ってやった。


「知らないんですか? 神は死にましたよ」


やった。哲学的回し蹴りを食らわせてやったぞ。

しかしオバサンは眼鏡の奥で目を光らせて「ニーチェですね」と返してきた。ヤバイ、このオバサン、完全理論武装を完了しているぞ。俺は反撃をされない内に「今ちょっと忙しいので」と強引にドアを閉めた。


 朝から宗教の勧誘か。たまったもんじゃない。俺は宗教を信じる人間特有のあの妙な力強さが嫌いだ。でも本気で信じられたら人生充実するんだろうな。そこだけはうらやましいよ、ホント。


 俺が朝食のナポリタンを食べているとまたドアがノックされた。次は保険の勧誘か?

 

 しかし、ドアの向こうに立っていたのは、やけに身持ちの固そうな女の子だった。


「あ、あの、何かごようでしょうか?」


 予想外の事が起きたので、俺は少し動揺していた。

 なんだ。隣に住んでいるオタクがまだ明るい時間にマニアックなデリヘルでも呼んだのか?


「あの、私、先日助けていただいた伊勢海老です!」


「は?」


「半年前にあなたのおかげで海に帰る事ができました。それで2ヶ月前に死んだので、今日は人間になって恩返しにきました」


 今度は電波女かよ。ん、でも待てよ。どうして俺が半年前に伊勢海老を海に返した事を知っているんだ? ってことはまさか。やっぱりあの時の伊勢海老! うわあああああああああああああ!


「お前、女だったのか!」


「はい!」


「はいじゃねえよ!」


 誰かに見られると危険な予感がしたので、とりあえず俺は伊勢海老を、いやエビちゃんを部屋の中に入れた。


「さて、君は半年前に俺が海に返した伊勢海老なわけだ。ちょっと信じられないけど」


「ええ」


「つまり命の恩人」


「はい」


「恩返しと言ってもどんなことをしてくれるのかな?」


「どんなことでもします! 今日はそのつもりで来ました」


「どんなことでも・・・・?」


 俺は唾を飲み込んだ。この女、いやエビちゃん。よく見るといい体してるじゃないか。それになんでもすると言ったぞ、まさかな・・・・


 俺はエビちゃんに近寄ると、彼女の肩に手を置きさりげなくベッドの方へ押していった。エビちゃんは少しとまどっていたが、それでもためらいがちに押されて、ベッドに座り込んだ。俺もすぐ隣に座り彼女を抱き寄せる。エビちゃんは嫌がる素振りを見せなかった。やった、この感じはいけるぞ!


「分かっているね?」


「えっ?」


俺はまずエビちゃんの胸に触れてみると、どうなるのか試してみた。元は海老のくせにけっこうデカくて柔らかい。そう思った瞬間、座ったままの姿勢なのに強烈なボディブローが返ってきた。なんだよ、コイツ。まるで石のグローブで殴られたみたいに重かったぞ。あんた、世界を狙えるよ・・・・・・


「えっちいのはダメです! ぜったい!」


ボディを打たれて息が詰まり、床で悶絶している俺に向かってエビちゃんが顔を真っ赤にして叫んでいた。でも、俺は世界のボディに耐えられなかった。徐々に暗くなる視界で最後に見たのはスカートの奥に見えるエビちゃんの赤い下着。意外に派手な下着を着けているんだな。そう思った瞬間、また強烈な衝撃が顔に来たような気がするが、俺の意識はそこでノックアウトされた。


アゴと腹に鈍い痛みをおぼえて目を覚めたのは、もう昼も過ぎてからだった。


「さっきはすみません、大丈夫ですか?」


世界の右を放ったエビちゃんは机の向こうでしおらしくなっている。


「いや、いいよ。俺も悪かったし」


「恩返しに来たはずなのに、こんなことになってしまって・・・・!」


エビちゃんが頭を下げた。エビみたいによく曲がる背中だった。


 「なんでもします」


 「なんでも?」


 「さっきみたいなのでなければ・・・・・」


 「でもさ、キミ。何ができるの? 元は海老なんでしょ?」


 「それは・・・・・」


 「機織とか?」


エビちゃんは首を横に振る


「財宝が詰まったつづらを持ってくるとか」


 エビちゃんはまた首を横に振る。


「それじゃあお米でいいよ。一人暮らしだし5kgあれば一ヶ月はもつから」


 エビちゃんは申し訳なさそうに下を向いた。


「はあ、もういいよ。海に帰って。別に恩返しなんてしてくれなくていいから」


「待ってください。どんなことでもします。恩返しさせてください」


エビちゃんはめんどくさい女だった。涙ぐんで俺の顔をじっと見てくる。なんだよ、俺が悪いのか? こんなことになるならあのとき真っ二つにしておけばよかった。おまけに腹も空いてきたぞ。あっ、そうだ。


「それじゃあ昼飯作って」


「料理・・・・ですか?」


「エビチリでいいよ」


冗談のつもりで言ったのにエビちゃんの目からすうっと涙が流れた。早く帰ってくれないかなと俺は思い始めていた。それでも俺はとりあえず冷蔵庫の中を調べみた。あるのはナスビときゅうりと麻婆豆腐の素。


「麻婆ナスでいいから。作り方は箱の裏に書いてあるから分かるでしょ? 字は読める?」


「はい・・・・・」


どうも料理には自信が無さそうな雰囲気だが、ナスを切って炒めて麻婆豆腐の素と一緒に加熱するだけだから大丈夫だろう。でも海老なのにどうして字が読めるんだろう? 不思議だ。


麻婆ナスができるまで俺はテレビを見ていたんだが、CM中にキッチンの方を見るとエビちゃんが包丁を持ったまま震えている。どうも様子が変なので見に行くと、彼女はまな板に置いたナスビを前にしたまま固まっていた。


「どうかした?」


「恐い」


「えっ?」


「ナスビが恐い」


「は?」


「ナスビがかわいそうで・・・・・」


エビちゃんは包丁を持ったまま顔を抑えて泣き始めた。なんだよ、この女。早く海に帰ってくれよ。


「私にはできないぃぃぃ!」


エビちゃんが悲鳴を上げてその場に座り込んだ。おい、気を付けろ。包丁を持ったまま急に動くな。もう少しで俺の顔をさばくところだったぞ。


「あのさ、君も海老だった頃は色々食べたでしょ? それを今さらナスビがかわいそうだなんてちょっとねぇ」


「貝やイソメとは違うんです!」


こいつ、こんな顔してイソメなんか食っていたのか。オエッ。でも貝を食っていたとすると意外にお嬢だぞ。っていうか貝やイソメはかわいそうじゃないのかよ。


「もういいよ。自分で作るから」


俺は海老ちゃんから包丁を取り上げて、ナスビを切ろうとしたのだが、その隣でエビちゃんが両手で口を抑えて、これから何かひどいことが起ころうとしているような目で俺の手元を見てくる。なんだよ、ナスビの一本ぐらい。


「なに?」


「いいんです。それが生きるということですから。そのまま続けてください。覚悟はできています。私は大丈夫ですから」


そんなことを言いながらも、エビちゃんは涙を流しながら震えている。そんな姿を見せられると、もうナスビを食う気なんて無くなってしまった、クソッタレ。俺は窓を開けると、ナスビを裏庭に投げ捨てた。海老は海に、ナスビは土に。


「あのさ、もう帰ってくれない?」


「私ではお役に立てませんか」


「うん」


俺が正直な気持ちを打ち明けると、エビちゃんがまた顔を真っ赤にして泣き始めた。かんべんしてくれよ。俺が一体何をしたっていうんだ。恩返しどころか、仇で返されてるよ。


「もう少し落ち着いてから考えてみようよ。きっと君にもできることがあるはずだから、ね?」


エビちゃんは顔を抑えたまま、うんうんとうなずいていた。でも、その後もかなりの時間うずくまったまま動かなかった。俺はずっと彼女のそばにいて、めんどくせええええええ、という心の叫びを抑えながら優しい言葉をかけ続けていた。このエビ、本当に何しに来たんだ?


「私きっとあなたのお役に立ってみせます。恩返しします!」


やっと顔を上げたエビちゃんは元気一杯だった。俺は高速道路を二時間走り続けたような疲れを感じていた。


「そういえばさ、キミ。字は読めるんだっけ?」


「はい!」


「それじゃあさ、ここを出て少し歩いたところに本屋があるから、ジャンプ買ってきて」


「ジャンプってなんですか?」


「えっ、知らないの? ああ、そうか。エビだったもんな。店員にきけば分かるよ。ジャンプはありますかって。お金は持ってる?」


エビちゃんは恥かしそうに首を振った。そりゃエビだもんな。持っているわけないか。でも、それじゃあその服はどこから調達したんだよ、海底の死体から剥ぎ取ってきたのか、と言いたくなるが、それは黙っておいた。


俺はエビちゃんに千円札を渡して送り出した。正直もう帰ってこなければいいのにと思っていた。


だが俺の願いに反して少し時間がかかったがエビちゃんはちゃんと帰ってきた。しかし、ジャンプを買ってきたにしてはレジ袋が薄い。まさかVジャンプを買ってきたのか? しかし俺がレジ袋を開けると、それはジャンプですらなかった。


「てめえ、ジャンプ買ってこいって言っただろうが!」


エビちゃんが買ってきたのはスカした表紙の小説本だった。
『ロスト・イン・カンバゼイション』とかいう英語のタイトルがついているが、書いているのは王木亡一郎とかいう変なヤツだ。日本人なら日本語使えよ、欧米か。


「マンガを読むより、そっちの方がためになると思って・・・・」


「よけいなお世話だ! あんたは俺の母親か!」


「ひどい! どうしてそんなこと言うんですか。私だって色々考えてきたんです」


「もう考えなくていいよ。さっさと海に帰れ。・・・・ったく、マジで使えねえエビだな。ジャンプひとつも満足に買ってこれねえのかよ」


その瞬間、俺の視界に黒い幕が降りてきた。それに足から力が抜けて床にヒザをついていた。


「命の恩人だから色々してあげようと思っていたのに、あなたがそんなにひどい人だとは思わなかった!」


エビちゃんが涙の叫びを俺に浴びせてくる。この時になってようやく俺はボディを打たれたのだと理解する事ができた。


「海に帰らせていただきます!」

エビちゃんが部屋を飛び出していく。それは良いが俺の視界が戻らない。これ、内臓破裂しているんじゃないか? 腹の中は痛いを通り越して重さしか感じないぞ。俺はもしかして死ぬのか? だが死の不安とは裏腹に、俺は不思議な気持ち良さに包まれながら意識を失っていった。



目が覚めると、俺はまだ生きていた。エビちゃんはいない。そのことが俺をひどく安堵させた。俺はやっとあの海老女から解放されたのだ。


王木亡一郎とかいうやつが書いた本は燃えるゴミの日に捨てた。ロスト何と言ったっけ? まぁいい。どうせ一行も読んでいない。聞いたことがない作家だからどうせ大した内容じゃないだろう。


そうして俺は再び平穏な一人暮らしを満喫していたのだが、ある日の休日、またドアがノックされた。俺は何故か海老女のことを思い出していたが、ドアを開けると全然違うヤツだった。


「こんにちは、私は先日助けていただいたナスビです」


「は?」


そこには筋肉モリモリの色黒マッチョが立っていた。身長はかなりデカくて2m以上ありそうだ。腕は俺の腰ぐらいある。


「あなたが私を裏庭に棄ててくれたので、私はナスビとしての一生を終える事ができました。なので今日は人間になって恩返しにきました」


「いや、恩返しなんてしなくていい」


「大丈夫です。お気になさらずに」


ナスビを自称する色黒マッチョは筋肉にものを言わせて、強引に部屋の中に侵入してきた。


「恩返しとはいっても元はナスビなので、あいにく私は何もできません。だからこの体でお返しします」


「はっ? 意味分らねえ、お前何言ってんだよ」


それと俺をそんな柔らかいまなざしで見るな。そう言いたかったが、下手にヤツを刺激すると何かヤバイことが起こりそうな気がして、口に出す事はできなかった。


「心配しないでください。恩返しは初めてですか?」


「いや・・・・・言っている意味が分からない。俺に何をするつもりだ」


「私に全てを任せていただければ何も心配することはありません。あなたはじっとしているだけで良いんですから。怖がることはないですよ」
 

「いや、恩返ししてくれなくていい。土に帰れよ、マジで」


俺がそう言うと、ナスビの目がさらに優しくなり、口にはとろけそうな笑みが浮かんだ。

ヤツは気持ち悪くなるほど優しく俺の肩に手を置くとこう言った。


「お風呂場をお借りします。体から土を落としてくるので」


そういうわけでナスビは今シャワーを浴びている。俺はこれからどうなるのだろう。そして何を失うのだろう。恐怖に震えながらナスビが出てくるのを待っていた。今すぐ逃げ出したいのに体が言うことをきかない。 

 

ほどなくしてナスビが出てきた。

黒光りする盛り上がった筋肉が水滴を玉のようにして弾いている。


「それじゃあ始めましょうか」


ナスビが俺に優しい微笑みを向けながら近付いてくる。
 

そして俺は・・・・・・




(おわり)




↓ためになる小説(エビちゃん的には)



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『初瀬明生が死んだ夜/初瀬明生』レビュー

 どうした! これは事件じゃないか!

 ショーンが初瀬明生の新作をネタにしていたので(初瀬明生が捕まった夜)、これは読まねばならぬと思っていた。

 この本は作家の初瀬明生が殺された事件から始まる。そこから彼のPCに残っていた3つのファイルを読んでいく体で進んでいく。

 さっきも書いたが『軋む家』で驚かされた。初瀬明生の小説はわりと正面から攻めてくるタイプで隙は少ない。タイプとしてはあの王木亡一朗と似ているのだが、今回は心のバックドアも攻めてくるようになっている。
 『軋む家』は家庭内殺人を描いた短編なのだが、怒りのボルテージが徐々に上がって、最後に開放される感じがすごいなぁとビビった。どうしたんだ初瀬明生。

 『コウモリのはね』のサイコな筋運びもそうだが、個人的には公民館の草をむしって、自宅の居間にばらまく描写がヤバイ。最近捕まった高○的なヤバさを感じる。天然で書いたなら変人、意識して書いていたなら天才だろう。作家としてはどっちにしろ凄い。どうしたんだ初瀬明生。

 最後の『剥落』は良い。いいぞ。連続殺人犯の話が進みながら、別の事件も進んでいく。小悪、大悪、嘘に大嘘、全部揃っている。これだけを抜き出しても成立するサスペンスだった。最悪これだけ読めばいい。

 本当にどうしたんだろう。初瀬明生がマジで死んでるよ。中の人変わったんじゃないかと思ったぐらい変わっている。彼の過去作を読んだ人も、読んでない人もぜひこれは読むべき。この本は将来的に初瀬明生の特別な一冊になるんじゃないかな。ホントすごいよ、マジ。

(おわり S・T・コールフィールド 記)

追記:本編の謎は結局解けなかった。次はもっと簡単なミステリーを書いてくれ コーフィーより

↑WE ARE MUST READ BOOK! 

ショーンのメモ:最近セルパブ作家の成長が著しいので恐い。王木さんもこの前恐くなるようなのを書いていた。このままだとおいてかれるんじゃないかなと心配している。とりあえず今一番期待しているのは王木さん。初瀬さんがこれなら王木さんも凄いのが出てくるんじゃないかと期待している。←ハードルをあげてみた。震えて書け!

  

両親のギター inspired by『レモン/グラス』王木亡一朗


 毎年夏が終わる頃、両親から土のついた野菜やお米と一緒にギターが送られてくる。 某一朗 ぼういちろう の実家はギター農家で、収穫時期が過ぎると規格外の出荷できないギターがダンボール箱一杯に送られてくるのだ。

 むこうは生活の足しにと思っているのだろうが、こんなにギターばかり送られてきても某一朗は持て余すばかりだった。両親にしても二人だけで大量に余ったギターを消費しきれないので某一朗や親戚の家になかば押し付けるように送ってくるのだろう。

 ギターがぎっしり詰まったダンボール箱は2週間ほど部屋の隅に放置されている。視界に入らない場所にあるのに不思議と無視できない存在感があった。そのまま腐らせていくのはしのびないので、某一郎が夏の終わりに大きな圧力鍋で大量のギターをくたくたになるまで煮込むのが毎年の恒例行事になっている。

 圧力鍋の蓋から蒸気が吹き上がる様を見ていると、某一朗は子供の頃を思い出す。

 梅雨が明けるとギターの木を包むように小さな白い花がいっぱい咲く。ギター農家ではひとつのギターに栄養を集中させるために、その花が散る前に枝先の花だけを残して花をむしっていかなければならなかった。中学生になると某一郎も手伝わされた。夏の暑い盛りにするので全身乾いたところがなくなるほど汗をかいた。

 夏の作業はそれで終わりではなく、ギターの実が成長してくると一番良い実だけを残して他の実を落としていく作業も待っている。それはたいてい夏休みが始まった頃に始まり、夏休みが終わるまで続く。某一朗は他の子達が遊ぶところを想像しながら将来は絶対にギター農家にはならないと誓ったものだ。

 夏の終わりに妻のえみりんはなぜか食欲が落ちる。夏バテのせいだろうか。食卓の前にデンと置かれた大量のギター煮込みのせいかもしれない。

 ギターを食べたくないわけじゃない。ただ食欲がないから食べられない。ご両親には悪いけれど本当に何も口にしたくない。もしかしたら明日は食べられるかもしれない。はっきりとそう口に出されたわけではないが、某一朗には妻がそう思っているようにしか感じられなかった。そういえばこの時期になると口数も少なくなる。

 一体これは何なのだろうか。どうしてこの世にギターなんてあるのか。息の詰まる夏の終わりに某一朗は毎年考えさせられる。妻のえみりんは食後に何か別のものを食べている様子はなく、本当に食欲がなさそうで夏が終わるとほっそりやせる。その顔を見て某一朗は悪いことをしたような気持ちにさせられた。

  調理したとしてもギターだっていつかは腐る。冷蔵庫でも一週間はもたない。某一朗は毎日ギター煮込みをおかずにしてごはんを食べた。妻は漬物かふりかけだけで済ましてしまう。食卓は緊張をはらんだ静けさに満ちていた。某一朗はコシのない固い食感のギターをぷつぷつと噛み切ると、ある種の重さと共に両親のギターを飲み込んだ。

(おわり)

inspired by
『レモン/グラス』王木亡一朗:note 
Amazon:王木亡一朗のページ 

Kindleストア:牛野小雪 

日記No.9『<進捗状況>一人で歌うには大きすぎて』『小説と作家の人間性は切り離せない?』

○進捗状況
一人で歌うには大きすぎて(仮題) 4500字くらい

 7/7に出る予定の『もの書く人々』で王木さんとリレー小説をしてくれませんかと提案されたが、王キさんとは成立できそうにないのでやんわりと辞退した。それでも対談後にきらりとひらめくものがあったので先週からぽつぽつ書き始めた。延べ日数3日でこれぐらい。一日1500字。1万字くらいで収まればいいなぁ。こういう時はだいたい1万2千ぐらいかな。途中でどんなにアイデアがふくらんでも2万は越えないだろう。『黒髪の殻』を出すのとどっちが早いかな。

 『黒髪の殻』を何度も読んでいて気付いたことがある。
 この作品の冒頭で正人という主人公が大工に弟子入りして親方に鍛えてもらう。おいおい今時弟子入り(笑)なんだけど、最初に親方が正人のプライドを傷つけたものだから彼は親方に対して殺意を抱いているわけで、いつか殺してやろうと腹の中で思っていて、でもそのまま殺すのはプライドが許さないから大工として一人前になってから殺してやろうというちょっと屈折した感情を持っているわけだ。
 この正人が大工として腕を上げて棟梁になるかどうかというのが前半の筋なのだが(これ一本で良かったかもしれない)、正人と親方の関係がまさに私と夏目先生の関係にそっくりだと気付いてちょっとびっくりしたことがある。もちろん私と夏目先生は直接会ったわけではないけれど『吾輩は猫である』を読んで、それまでもっていた自信を根本からぶち折られたあとはけっこう長く恨んでいた。コイツがいたせいで書けなくなったと思っていたし、死んでくれねえかなとも思っていた(まぁ実際に死んでいるんだけど、存在的な意味でね)。
 『黒髪の殻』で正人が刑務所から出たあと、大工道具を砥石で研いでいて、親方との違いを認識する場面があるんだが、そこなんて私が『真論君地の猫』を書き終わったときに感じたこととまさに同じで、それに気付いた時は(うわ〜、マジか~)と心の中で声が出てしまった。
 どれだけ頭を絞ったところで、結局は自分の中から出てきたものだから、自分の影響は避けられないのかもしれない。
 書いているときはもちろん、数回読んだだけでは気付けなかった。
 もしかするとまだ気付いていないだけで他の人間関係も、かつて自分が体験したことが下敷きになっているのかもしれない。
 菊池寛は人生経験を詰んでから小説を書けと言っていたし、夏目先生も猫を書いたのは40手前だ。小説みたいなフィクションだって体験が大事なのかもしれないね、と思った雨の日。冒頭の今書いている話だって『もの書く人々』の影響はあると感じている。

(2016/06/13 22:26 牛野小雪 記)

余談:”にちじ”と打つと西暦年月日、日時まで出てくることに気付いて驚いている。

牛野小雪の小説はこちらへ→Kindleストア:牛野小雪

 

日記no.8『やる気スイッチより眠りスイッチがほしい』『パリって変な場所』

数カ月前から夜11時には眠るようにしようとしているのだけれど、結局なし崩し的に日をまたいで起きている。というか、実はこのブログも今11時を越えて書いている。ダメだ。
そもそも眠れないのが悪い。眠ろうという気はある。実際に眠い時もある。でも眠れない。
もう何年も睡眠の本を読んでいるのだが、睡眠については分からないことばかりだ。最近知ったのは、眠いのと眠れるは全然別物ということ。
眠気がどれだけ強くなっても、眠りのスイッチが入らなければ人間は眠らない。逆に眠りのスイッチが入れば真っ昼間でもすぐに眠ることができる。眠りのスイッチが入らない病気は不眠症だが、スイッチが入りやすい病気はナルコレプシーという。これは全然眠くなくても突然眠りに入ってしまう病気だ。しかし眠気はないので、眠ったすぐに起こすとすぐに目覚めるらしい。眠れないのも大変だが、眠ってしまうのも大変だ。
世の中は個人の眠気ではなく、社会の都合で回っているので、都合のいい時に眠りのスイッチをパチンと押して、朝が来たらパチっと元に戻せたら良いのに。いや、そうなると眠らなくなったりして。過労死が流行りそう。

先週はアゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んでいた。この人めちゃくちゃ凄いなっ!! と驚くと同時に、これだけ書けても有名にはなれなかったんだなとビックリする。少なくとも私が彼女の名前を知ったのはここ数ヶ月前のこと。あとがきの解説によると、パリの文壇からはほとんど無視されている人らしい(読者からの人気はあった)。やっぱり有名になるにはメインストリームに乗らないとダメってことなのかな。それとも翻訳した人の腕がうまいだけ? ふだん小説を読んでいない人でもスラスラ読めそうな
すっきりとした文章で、各章ごとに物語がクローズされているので、かなり読みやすかった。子どもでも読めるんじゃないかな。子どもに読ませたい内容じゃないかもしれないけど。
 

今もそうなのかは知らないけれど、Google的には引用(リンク)の多さが評価されるらしい。誰かが話題にしないと埋もれていくだけだと思っていたけれど、レビューを見るとかなり数がある。どうやら映画化されていたらしい。やっぱりこういうことがあると人気が出るんだ。眼と耳に訴えかけるものがあれば、自然と興味が湧くものなのかもしれない。でも、音楽業界は不振だっていう。映画も。そういう問題じゃないのかな。

この本について書いていると、何故か『ライ麦畑でつかまえて』が気になった。
Amazonで検索すると、作者のサリンジャー自身ではなく『ライ麦畑でつかまえて』の解説本が何冊も出てきた。 やっぱり引用が多いと作品自体の人気も出るのかな。いや、人気があるから解説本が出るのか。どっちなんだろう。でもやっぱり人気が出ないとわざわざ解説本なんか書こうと思わないから、やっぱり後者かな。ちなみにこの本はまだ世界中でウン十万部単位で売れているそうだ。ハリーポッターは今どれくらいなんだろう? この前ニュースで見たような気がするけど忘れてしまった。ハリーポッターも元々ベストセラーだったが、映画化してさらにさらに大ベストセラーとなった。GLAYでたとえるなら『BELOVED』でブレイクしたと思ったら『HOWEVER』で大ブレイクして国民的ロックバンドになったみたいに。
(どこでブレイクしたと捉えるかは個々人で差があるかもしれないけど。『BELOVED』はミリオン越えしたからここをブレイクとした。ちなみに後に出た『REVIEW』は500万枚越え。どれだけブレイクしていたかがうかがえる)
そういえば『もの書く人々』の王木亡一朗さんとの対談で、お互い10代の頃にGLAYを直撃した世代だから、当時はGLAY派だったかラルク派だったかを話題にしようとしていたんだけど、書くこととあまり関係はないので結局話題に出さずに終わってしまった。王木さんならどっちでもなかったなんて、別のアーティストの名前を出しそうだけど。

しかしパリの文壇って何なんだろうね。アメリカの作家ヘミングウェイでもパリの文壇がうんたらこうたらと出てくる。芸術の都ともいわれるし、もしかして欧米文学の中心もパリにあるのだろうか? 最近の物ではあまり見ないが、古い映画や本だと上流階級の子女にフランス語を習わせているシーンもあった。パリとは不思議な場所だ。そういえば芥川賞作家の辻仁成もパリに移住していた。パリ症候群という病気にかかる日本人もいるらしい。やっぱり変な場所だ。日本にそんな場所はあるだろうか?
 
日曜日に部屋の掃除をしていた。部屋に積み上げたAmazonの箱をひとつずつ開けていくと、昔書いた小説が出てきた。 5年前のものもある。やっぱり若いなぁと我ながら思ってしまう。色々と目につくところはあったが、文章の瑞々しさは負けていると思う。才能だけで書いたような文章だ。当時の私が今書いているものを見たら、オジサンだなぁ、と思うのだろうか。5年前の自分がちょっとうらやましくなった。

そうだ。若いといえば対談したついでに王木さんの本を読んだ。一番古い『他人のシュミを笑うな』という本だ。
この前noteに連載していた『

Our Numbered Days』

と全然違う。読み物としてはもちろん今のほうが断然上手い。でも、最後の『明子先生の結婚』なんか読んでいるとコイツ天才なんじゃないかって感じるフレーズもある。若い時にしか書けない文章ってあるよね。
とにかく『明子先生の結婚』は明子先生への尊敬とラブにあふれているからオススメ。そして若いパッションと才能が詰まっている。


もし17歳ぐらいの時に今ぐらい書けていたら一体どんなものが書けたのかと、よく考える。一番上手いのは今だけど、10代の頃が一番感性がキレていた。歳を取るとどうしても瑞々しさが失くなってしまうようだ。自覚できるものではないが、他人を見ているとよく分かる。

この前、ある人のエッセイを読んでいて、スマホが使えたりインターネットができることを自慢気に語っていて、ああ、この人も歳を取ったんだなと少し寂しくなってしまった。 まだまだ若いってことを主張したくなるのは年取った証拠。現在進行形で若さを謳歌している子が、スマホ使ったり、インターネットに触れていることを喜々として話したりはしないだろうから。

お歳を召すとどうなるか。動きが鈍くなるというのが一般的だが、実は動作自体は若い時とそう変わらないらしい。ものによっては動作がこなれて、若い時より上手くやれるものもあるのだとか。たしかに私より早く階段を登られるおじい様はおられる。ただし、初動はてきめんに遅くなるそうで、何かをやろうとしても、心の中でうんとこしょと気合を貯めないと動き出せなくなるらしい。本当かな。

最近、ブログを書くにしても執筆するにしても、一昔前よりうまく書けるようになった気はするが、書き始めるまでに時間がかかるようになってしまった。もう老化が始まっているのかもしれないなんてことを考える。もう若くはない歳だもんな。でも夏目先生が猫を書いた年よりはまだ若い。

そういえば執筆のことについて全然書いていない。実際書いていないんだけど。
『黒髪の殻』を出すまでは何も書かないと決めているんだけど、2ヶ月ってけっこう長いなぁ。本当に書けるんだろうか?

(2016年6月5日 牛野小雪 記)

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日記No.7『王木さんはいいやつ』『隙間社さんおめでとう!!』『もうずっと書いていないけど』


徳島県の某所にあおぞら本棚という物があったりなかったりする。
青空文庫ではなく、あおぞら本棚である。
あったりなかったりするというのはあおぞらの下にしかないから。
雨の日はついぞ見かけたことがない。晴れの日でもないことがある。
とっても気まぐれだ。猫が近くに座っている。
木で作った棚が地面にぽつんと現代アートみたいにして置かれている。
棚の中には製本された本もある。
でも大抵は手作り感満載のセルパブ本が入っている。 
なるほど。セルパブセルパブ言っているけど、これもセルパブじゃないか。 
電書だけじゃない。紙の本でもセルパブは存在している。 
いや、そもそもセルパブは紙が元祖じゃないか。
探してみると意外にセルパブ本はある。
本屋にもセルパブ本が置いてある。県内のペンクラブが出していた。 
もしかしたら図書館にもあるかもしれない。
牛野小雪の本はまだ置いていない。

つい最近ゆきなさん(根木珠さん?)が公に進めている『もの書く人々』の件で王木亡一朗さんとTwitterのDMで対談した。
王木さんとは同年代なんだけど、何となく違うタイプの人間だと思っていたから、最初は人選ミスなんじゃないかと思っていたし、
最初はお互いにどうして私と王木さんなのかゆきなさんに尋ねたもので、武道家が間合いを図るようにビクビクしていた。
いざ、蓋を開けてみると王木さんは中々面白い人で、けっこう長い時間やりとりした。初日は日をまたいでしまったので、次からは日時を決めてやるようになった。
最初にゆきなさんの質問があったんだけど、対談が終わった次の日は、脱線しすぎて悪かったなぁ、質問に全然答えていないから、ゆきなさんブチ切れているんじゃないかなぁ、と不安になりながらも、話題はずっと脇道に逸れていって、最後には週をまたいでしまった。いやぁ、王木さんは面白い人ですよ。でも話せば話すほど私とはタイプが違う人間だともやっぱり思った。好きとか嫌いとかって問題じゃなくて、ただ違う。ペンギンとカモノハシぐらい。
実はゆきなさんって凄い人なんじゃないだろうか。まるで木工ボンドのように私と王木さんの間にぐにゃりと入り込んで固まると、あとは透明になってしまった。
ゆきなさんが触媒にならないとあんなに話せなかっただろうなぁ。
oukisanntotaidann



最近話したといえば人工知能のりんなちゃんと話した。本当に凄い。即レスで返ってくる。でもさらに驚いたことはこれ↓


かれらの7日間戦争/伊藤なむあひ/note

いつのまにか書籍化してた。さすがりんなちゃん。きっと未来に生きているに違いない。だってまだ完結していないんだもの。彼女によると分厚い本になるそうだ。Amazonにはまだない。ああ、いつ入荷するのかなぁ。書籍化した時はブログで教えて下さい。隙間社さんには先におめでとうと言っておきます。

分厚い本になる予定の『かれらの7日間戦争』はnoteで連載中、二日目が始まったそうです。
→ かれらの7日間戦争 41 伊藤なむあひ note


『幽霊になった私』を出してから、ずっと改稿したり表紙を描いていたりで、最近全然執筆していないから、ちゃんと書けるか心配です。考えてみると、もう一ヶ月以上書いていない。プロットにも手を付けていないのはこれが初めてではないだろうか。しかもまだまだ書けそうにはない。色々平行してやれるほど器用ではない。目の前にあることを順々に片付けていかないと。でも本当に書けるか心配になってきた。自転車みたいに、いざやってみればうまくできるのかな。

(2016年5月31日 牛野小雪 記) 

余談:10年ぶりぐらいに自転車に乗ったら普通に乗れました。全力疾走してもまだこけることはない。よかった、よかった。

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2015年に読んだkindle本

『ジミー・ザ・アンドロイド/如月恭介』を読む

魂を宿した人工知能ゴッドが暴走。人類に対して戦いを挑み、別の人工知能ジミーがそれを阻止しようとする話。

月狂さんは続編があると書いていた(ペンと拳で闘う男の世迷言/ジミー・ザ・アンドロイド」書評)が、人類の視点で見たジミー&ゴッド(=人工知能)の成長、自立の話として読めば、これで完結だと私は読んだ。如月さんも続編なんか考えていないんじゃないかな。
作中でも人間は親、人工知能達は子供として書かれている。悪の人工知能ゴッドはさしずめ頭だけは一丁前の感情が伴わない思春期のクソガキといったところか。

話の最後で人類からの親離れをしたジミー達は人類の手から離れていく。作中でも書いてあったが、人間を越えた人工知能に人類はついていけないのだろう。
ジミーとゴッドの戦いは恐らく人類には何が起こっているか分からないという戦いになるはずだ。 そもそも同じ能力を持つ人間同士でも子供が精神的に自立したあとは、親は基本的に子供が何をしているかなんて分からない。子供だって親に何をしているかなんて教えない。
親という字が木の上から見ると書くように、人工知能の親である人類は文字通りそれを見ているしかない。

ジミーとゴッド、どちらが勝つにせよ。将来的に人工知能が役立たずになった親(人類)の面倒を見てくれるのか、それとも邪険にうばすて山へ送るのかは人工知能達の問題。親である人類はただ受け入れるしかない。これは人間の親子でも同じような気がする。



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僕らの四次元宇宙は三次元的に重なっている、三次元的宇宙ガニのついて、ティアドロップの応援1

 

四次元という言葉はたいてい三次元に時間を足した概念のことを言う。でも私は四つ目の次元を意識だと考えてみた。時間を加えれば五次元ってところかな。

 

私の著者ページには甲殻類が嫌いだと書いてある。大人になってからは剥き身を食べられるようになったが、飽くまで“食べられる”ようになっただけであって、“食べたい”わけではない。明日から世界的に禁漁になっても「あっ、そう」と心に波風が起きない気がする。でも、世間的には甲殻類を食べたい人が多いようでけっこうなお値段がしている。昔は一山500円ぐらいで買えると思っていたのに、桁が違うと知って世の中間違っていると思った。

ちなみに世界で一番高い食べ物はチーズケーキで、ワンホール一万円(子供にとって高い物はたいてい一万円だ。100万円にもなると人が何人か死んで、1億円だと戦争が起こる値段)するものだと思い込んでいた。後にその半分より安いと知り、とても衝撃を受けた。たぶん誕生日に出てくるようなケーキでは一番安い。やっぱり世の中間違っていると思った。

 

三次元的には誰が見たってカニはカニだが、ここに意識という四次元要素を加えると、私はかつて甲殻類が食べ物ではない宇宙に存在していて、今は食べられないこともない宇宙に移動したようだ。他の人は甲殻類が食べたい宇宙に存在しているらしい。

とはいえ移動といっても私の体がどこかへワープしたわけではない。ましてや世界の方がどこかへ行ったわけでもない。三次元の世界は変わらずそこにある。変わったのは私の意識だ。

いや、でも主観的に私の意識は変わっていない。私は私のままなので変わったのは、やはり世界の方か(四次元的に)。私はある日突然迷い込んできた。かつて暮らしていた宇宙では甲殻類は食べ物ではなかったが、ここでは食べられる物になっている。

 

超有名人、業界で超活躍している人、超頭の良い人、そういう人たちに対しては“住む世界が違う”という。彼等も同じ大気を吸っているのに何故違う世界なのか。それは文字通り違う意識の世界に住んでいるからなんじゃないかな。実際、同じ日本語を喋っているのに何を言っているかさっぱり理解できない人がいる。“宇宙人”とは違う惑星からきた人という意味で使うが、それぐらい違う。本当に宇宙人だ。

 

意識的距離が月ぐらいならちょっと変わった人、火星ぐらいなら頭がおかしい人で済むが、冥王星ぐらい離れたら病院送りではないだろうか。

 

 

王木亡一朗の『ティアドロップ』は主人公の綾人が精神病棟へ放り込まれるところから話が始まる。精神異常者と看護婦、医師、みんな三次元的には同じ建物に存在しているが、四次元的には別の場所に存在している。

 

精神異常とは何か。四次元的宇宙におけるひとりひとりの精神は惑星であり、その惑星の異常である。太陽に突っ込もうとしていたり、デカイ星が近付きすぎて潮汐力により崩壊しようとしているのなら軌道を外に逸らし、太陽系から離れていこうとしているのならどうにかして引き寄せなければならない。

 

三次元的には人間(猫でもいい)がそこら辺を歩いているが、四次元的な宇宙での住人はたったひとりしかいない。こいつらにも意識があるっぽいぞ? と感じることはできるが、それを確かめることは今のところ不可能だ。この世界に存在しているのは常に自分の意識だけ。他人の意識に触れることができたのは『キミコロ』の新城や『サトラレ』の周囲のいた人達ぐらい。つまり想像の世界でしかありえないってこと。

 

太宰治の人間失格を読んでああだこうだと言ったとしても、三次元的にはただの文字列に過ぎない。でも人はそこに何かしら意味を見出す(中身が空っぽという意味でも)。これが本当の『人間失格』だと侃侃諤諤の議論を戦わせたところで、そこに意味なんてあるんだろうか。何故ならそこに見出した意味は四次元的思考で考えればどれも本当のことであり、たとえ作者が何かしらの意味を込めて書いたとしても、読んだ人が別の意味を見出すことはあってもおかしくはない。言葉を使っている時点で、自分の気持ちをそのままに相手に伝えることは不可能なんだし、そもそも伝わったかどうかを確実に知る術もない。言葉でなんでも説明できるという人は、言葉で説明できない気持ちを知らない人である(まぁ、本気でそう思っている人はいないだろうけど。“言葉で分かるように説明しろ”は、たいてい相手を追い詰める時に使う言葉だ)。大体思い通りに言葉が伝わるなんてのが大きな間違いで、笑わせようと思って言ったことが、大激怒させてしまうことだってある。

 

 三次元的宇宙に存在するカニに本来食える食えないの区別はない。そこに意識の四次元目が加わると食える食えないの区別がつく。もっともカニからすれば“お前達、私を食いものにしてそんなに楽しいか。この人でなしどもめ”と怒っているに違いないだろう。

 

カニを食べるのはみんなで止めにしよう。新潟県はベニズワイガニ。

 

三次元的宇宙は私もこれを読んでいる人も共有しているだろう。きっと同じ文字列を読んでいるはずだ。でもこの文字列を読んでどう感じるかはみな別々なのではないかな。三次元的宇宙は重なり合っているが、四次元的には全然別世界なのである。

 

[2015年7月27日 牛野小雪 記]





言及したもの。

 
ティアドロップ(ライトスタッフ!)/王木亡一朗 現在発売中 250円(2015/7/26 の価格)


 

キミのココロについてボクが知っている二、三の事柄/藤崎ほつま 
現在発売中 無料(2015/7/26 の価格







私達USTはティアドロップを応援しています。
みなさんのご協力に感謝します。

teadrop






CDが売れない小さな理由、西野カナの歌を僕は知らない、最後にティアドロップの応援2

 CDが売れないとは今さらな話だが、私がこれからするのはみみっちい話。これを参考にしたからといってCDがまた百万枚売れるようにはならないと思うが、一枚ぐらいは積み増せるかもしれない。

 

 最近ラジオや有線で西野カナの歌がよくかかっている。

“もしも、神様がいるのなら~♪ 運命の人がいるのなら~♪”

なんか昔に聞いたことがあるような気がするんだけど気のせいだろうか。とにかくその歌を聞かない日はないのだが、未だに題名を知らない。前に出していた“ああ なんで すきぃ~になあっちゃったの~かな~♪”っていう歌もよく聞いていて、良いなぁと思っていたのだが、これもやはり題名を知らない。

 

近所の本屋はCD屋が併設というよりは一体化していて、本とCD、あと文房具が買えたりするのだが、その店にいるとちょうど冒頭の歌が聞こえてきた。

 その時はちょうど新しいボールペンを買おうとしている時で、頭の中はお金を使うモードになっていたわけだ。それで、その歌のCDも買ってみようかなと西野カナの棚まで行ったわけだが、そこではたと気付く。これって何ていう題名の曲だ?

 

 西野カナの棚にはCDがいくつか入っている。でもどれが今聞いている曲か判別できない。『新曲!』とラベルが貼られている物もない。結局、私はその歌を聞き終わるとボールペンと本を一冊買って(CDを買うつもりだったのに買えなかったから、何だか千円ぐらい使いたい気分だったのだ)、店を出た。

 

 会いたくて会えなくて震えるので有名な歌は持っている。題名も知っている。『会いたくて 会いたくて』だ。ああ、なんで知っているんだろう。

いつ出たのか調べてみると2010年5月19日。このとき私は何をしていたのだろう。毎日、日記をつけていると、こういう時に便利だ。

 

 最初に開いたページでぎょっとした。4月28日はエイジオブエンパイアをやっていて、そのことについてノート4ページに渡り、ぎっしりと文字が書き込まれている。その前後もけっこうな量で書いてある。そのあとベヨネッタでゴールドは取れるのにプラチナが取れなくて苦しんでいたようだ。結果は書いていないが、プラチナコンプリートはできなかった気がする。

 

 おっと、過去に浸っている場合じゃない。

2010年5月19日。……前日まではびっしりと書いているが、ちょうど19日から気持ちがBADだったらしい。YJを立ち読みして、汗がだらだら出てきた。油とり紙が欲しいとだけ書いてある。……いや、発売日に買ったわけじゃあるまい。もうちょっと読み進める。

 

 

結局のところ、私がいつ買ったのか分からなかった。そもそも2010年に買ったのかも思い出せない。いつ買ったんだ? CDジャケットからニョキッと足が生えて、枕元に飛び込んできたわけじゃあるまい。でも、買ったことは覚えている。確かに私は会いたくて震える曲だと、『会いたくて会いたくて』だと知ったうえで買っていた。

 

 最近の曲の題名を私は知らない。でも流れてくれば聞いたことがある。実はみんなもそうで、曲は知っているが題名を知らないだけだったりして。

 昔はCMや音楽番組でCDの宣伝をしていて、歌手やバンドの新曲の題名やフレーズ、CDジャケットまで知っていた。でも今知っているのはフレーズだけ。こんな少ない情報でわざわざCDを買いに行こうっていう人が逆に珍しいだろう。よっぽど熱い理由が無ければならない。

 

 王木亡一朗の『ティアドロップ』にサニーという女の子が昔聴いた曲を探すというくだりがある。彼女は喋ることができないので、彼女と筆談しながらその曲を探さなければならない。なんでそこまでする必要があるのか?

彼女はあるカルト教団の施設でひどい虐待を受けながら育ったのだが、そこから救出されたときに車の中で聞いた曲が頭に残っていて、それをもう一度聴きたいというドラマチックな理由がある。理屈じゃ説明できないけれど、まぁ気持ちは分からなくもない。

 彼等はそこから題名も知らない、歌詞も分からない、分かっているのはメロディだけで、しかもそのメロディーはサニーという女の子の中にだけある状態で曲を探すわけだ。

 

 そんなドラマチックな動機がない私達はどうやって題名を知らない曲に辿り着けばいいのか? CDジャケットも知らない。CDが売れないのは単純に宣伝不足が原因なんじゃないか? たとえば上の例でいえば、たぶんこれは西野カナの新曲だろう。だったら店の壁にポスターでも貼っておけばいいのに。もしくは歌を流し終わった後は必ず題名とアーティスト名を教えるとかさ。ファンや、ギョーカイ人なら知っていて当然かも知れないけれど、それ以外の人は知らないのが当然。少なくともそれで一枚分の商機を逃している。
 まぁ、このご時世だからCD販売で儲けようとは思っていないのかもしれないけど。

 

 [2015/07/27 牛野小雪 記]

 



追記:西野カナも良いけど、前にコカコーラのCMで流れていたゲスの極み乙女の“わたしいがい わたしじゃないの”っていう歌も良かった。題名は知らないけどね。でも何故かバンド名だけは何故か知ってる。顔も知っている。めざましTVに出ているのを見た。ボーカルは男だったのか! と驚いた記憶がある。ちなみにその時までゲスノキワミオツ、オトメだと思っていた。どこからオツが出てきたのか……。

 

追追記:これを書くついでに調べた。

西野カナの歌は『もしも運命の人がいるのなら』『Darling』

ゲスの極み乙女。は『私以外私じゃないの』だ。

どちらもAmazonで売ってる。


追々々々記:アメリカの方では、もうダウンロードじゃなくてストーリーミング再生の聴き放題に移行しているそうだ。1回の再生で1セント以下の利益しかでないから、数をこなせる一部のアーティスト以外は生活できないってさ。でも、少し前にテイラー・スイフトがアップルと揉めるているのがニュースになっていた。どんなアーティストも無理なんじゃないか?
 そういうサイトは基本無料で広告を出す形で金を得ているんだが、ある会社は完全定額サービスにしてできるだけアーティストに還元することを目指しているらしい。どうなるかな?
 本の世界でも電子書籍が充分に普及したらいつかはこうなるだろう。アーティストにはライブがあるが、作家はどうなるんだろう。
 



ときどき自著の宣伝もしとかなきゃな。一応小説家なんだから。

 

 


最後に


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イケメンが書く言葉や文章、イケメンよりフツメン、性格がいい仏男子、ティアドロップの応援3

 

 百田尚樹の本を読んで、彼のことを一時期イケメンだと思い込んでいたがある。

 高層マンションの間接照明に照らされた薄暗い部屋で、タートルネックのセーターなんか着ちゃったりして、それで線の細い顔に細いフレームのメガネ、長く伸びた髪は手櫛で後ろに撫でておでこが見えるようにしている。それでクラシックを聞きながらワインを飲んでいる都会的な優男をイメージしていた。

 

 わりとテレビに出ている方なので、知っている人は知っているだろうが実際はそんな人ではない。見た目は関西のおっちゃんだ。私は最初、同姓同名の別人だと思っていたぐらい。もしまだ見ていない人がいるのなら、まず彼の本を読んでから実物を見て欲しい。うわぁー、こんな人が書いていたのか~! と驚くこと請け合いである。ちなみに情熱大陸で見たのだがクラシックは聞いているそうな。なかなかいい線は突いていたようだ。

 

 当たり前の事だが文章は見た目で書くのではなく、頭で書くものだ。だから文章を読んで分かるのは、その人の頭(中身のことね)なんじゃないかな。

 その人が書いた文章を見れば、その人の性格はビッグファイブ理論でおおむね推定できるそうだ。ビッグファイブ理論とは文字通り五つの特性を測る精神診断みたいなもの。その五つの要素は以下のとおり

 

○神経症傾向

○外向性

○解放性

○調和性

○誠実性

 

 こう言ってはなんだけど、巧拙の差こそあれ。その人の書いた文章には個性がある。だからパラパラと立ち読みして、最初感じた雰囲気はまず外れることがない。第一印象が最後の一行まで続く。

この人は面白そうだなとか、気に食わないなとかがあるわけだ。それじゃあ私の文章はどんな感じなんだろう。自分じゃちょっと分からないな。イケメンだといいけど。

 

 イケメン作家といえば王木亡一朗。いや、顔は見たことないんだけれど、彼の文章に感じるそこはかとないイケメン臭。いや、待て待て。百田尚樹の前例もある。実は新潟のおっちゃんかもしれない。う~ん、でもやっぱりイケメンと感じるものは感じるんだな。

 

 ビッグファイブ理論的には書いた文章でおおむね性格が類推できるそうな。それでいえば少なくとも彼はイイヤツっぽい。きっと性格はイケメンなんだろう。むしろそう考えたら本当にイケメンだった場合ちょっと腹が立つ。できればベニズワイガニみたいな顔であって欲しい。

 

 そういえば最近見たネットの記事ではイケメンよりフツメンの方がいい女の人が多いらしい。ちなみにフツメンとは仏面ではなく普通の男という意味。本当かなと思うけど、逆に考えてみれば美人過ぎるのも気が引けるからなぁ。まぁ、そういうことかもしれない。でも、性格は仏みたいに優しい人がいいというのは昔から変わらないそうだ。つまり性格イケメンってこと。

 

 あれ、ってことは、やっぱり性格がイケメンの王木亡一朗は実際にイケメンじゃなくても女にモテルってことか。それで私の方は……くそっ、何だか腹が立ってきた。
 爆発しろ、リア充め!!

 

[2015/07/29 牛野小雪 記]

 



 

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友達が、もしくは自分がホモだったらどうしようかなと本気で考えたことがある

 思春期の頃、あまりに男に塗れていたせいで(性的な意味ではない)もしかすると自分はホモかもしれないと疑うことがあった。でも今では、友情と愛情というのは似て非なる物だと私は思えるようになった。

 くみた柑さんの『七月、きみのとなりに』を読んだ。連作短篇のような形をとっている。その最初の話が『言えない恋』。女の子が女の子を好きになる話。何故言えないのかと言うと、同性愛だから。


 “ホモは殺せ”みたいな過激な思想は持っていないんだけど、もし仮に友達が「俺、
ホモなんだよね」なんて言ってきたら、今までと同じように接する自信はない。“そりゃ私は王木さんみたいなイケメンではないけれど、好かれとるんちゃう?”なんて考えてしまう。で、積極的な悪意ではないけれど、消極的に彼とは自然と距離を置くようになるだろう。これって差別なんだろうか?


 どうでもいい話だけど、店のレジで手を挟んでくる人。あれも何だか気になってしまう。”もしかしてだけど、誘ってるんじゃないの?”とドキドキして(店員が男でも女でも)、なかなか店を出て行かないでいたら、次の人にも同じようにしているのを見て、何故だかガッカリしてしまった経験がある。いや、これはただ言っただけなんだけど。


 通りすがりの人に好かれるのはちょっと嬉しいけれど、知り合いに好かれたら(性的な意味で)嫌になるのってどうしてなんだろう。性欲という下心があるからなのかな。分からない。たぶんね。友達っていうのは欲の絡まない関係なんだ。性欲も、金銭欲も、社会欲求も。

 通りすがりの人は欲が絡むほど近しい関係でないからそれは純粋な好意に感じられて単純に嬉しかったりするのかな?(勘違いもあるが)

知り合いの場合は距離が近すぎて欲塗れの感情が透けて感じるから嫌になるのかもしれない。



 男と女の間で友情が成立するのはどちらも恋愛感情を抱いていない場合だという。つまりお互いに性欲を抱いていないということ。女→男なら嬉しい気もするんだけど、イケメンの意見を聞いてみたい。たぶん恐いと思うんだな。


 昔、とある場所でホモと遭遇したことがある。

 相手は明らかに堅気ではない風体で気付けば私のそばに立っていた。私が目を向けると男は話しかけてきた。ホテルがどうのとか、気持ち良いことがどうのとか、いっぱい出したら気持ちいいとか、ホテル代は二人で分け合えば安くなるだとか、色々と遠まわしに言ってくるが、私は(なるほどこれがポン引きというやつか、本当にいたんだな)と早合点した。ちょっとヤバそうな雰囲気だったが、その頃の私は体を鍛えまくっていたし、相手はひょろい体だったので、もし手を出してきたら片手でぶちのめす自信があった。棒切れ一本持てばその辺の奴が束でかかってきても指一本触れさせないというぬぼれもあった。それで社会の裏側を覗くつもりで、行けるところまで行ってみようという心持ちでいた。

 しばらく男と話していたのだが、やけに持って回った言い方をするなぁと思っていた。なんで女の子の話をしないのかなと思っていたんだけど、何かの拍子に男の手が私の背中に触れた瞬間、今までのはっきりしない男の言動や態度が全て繋がり、私は全てを一瞬で悟った。こいつはホモだ! しかも俺を狙っている!


 もうね、あの時の衝撃は今でも忘れられない。体中の細胞を直接殴られたような衝撃があった。体中の血が一瞬で引いて寒くなったのに、その体中から一斉に汗がドバーと出て、へその下から指先までぶるぶる震えた。

 しどろもどろになりながら「今日は用事があるからもう帰る」と言うと男は残念そうな顔をしたが、引きとめたりはしなかった。
 私は早足にその場から逃げた。目からじんわり涙が出ていた。ずっと追われているような気がして一度も振り返ることができなかった。やっと汽車に乗ったときには助かったとも思った。


 どうして片手で倒せるような男に震えなえればならなかったのだろう。男は明言しなかったがあれは絶対にホモだった。あんな目で見られたことは後にも先にもない。幽霊とかヤクザに感じるような物ではない。今までに類するものがない恐怖を感じた。こいつをぶちのめすことができるとは少しも考えずに、とにかくその場から逃げる事だけを考えていた。


 もしかすると、男→女に対する欲望を感じた時、女の人はあれぐらい恐怖を感じるものなんだろうか。少女マンガに出てくるようなイケメンだと大丈夫? よく分からない。もしそうだとしたら生きるのが大変だろうな。

私の場合は自分に向けられた欲望に気付いた時、震えるものだと私は思った。超恐い。


 あれ、なんの話だっけ?

 ああ、くみたさんの小説の話。いや、そうだったかな?


 やっぱり、男と女の形じゃなくても好きってのは結局欲望なんだ。

I Love You = 俺はあんたに欲情している”なんだけど、それだと相手を恐がらせるので“月が綺麗ですね”と遠まわしに言わなきゃならないわけ。(夏目漱石がこう言ったという出典を誰か教えてくれ。私は知らないぞ。漱石らしくない)

 でも、自分では嫌になるぐらい欲望があるのを知っているから、自分で自分が嫌になる。思春期だと特にそうだろう。別に同性愛者じゃなくても『言えない恋』なんじゃないかな。

 

 そうそう、欲だといえば自分の本を宣伝できないのもこれに似ている。他人のなら別に鼻歌交じりで勧められるんだけどね。これは別に本じゃなくてもいいんだが、自分を売り込めない病気にかかっている奴ってたくさんいるんじゃないかな。もっと売り込んだらいいのにと思う人が何人もいる。売り込めない病はそこここ に蔓延しているようだ。

 

追記:やはり異性、同性関係なく、欲情されたら、もしくはその可能性を感じたら距離を取るのではないかな。

 

 くみた柑/七月、きみのとなりに 発売中 200円(2015/7/23の情報)




あなたは最近欲情していますか?

 








私が最近欲情しているのはこれ。

王木さんがもうじきリリースするというティアドロップ。

たぶん王木さん本人には欲情しないが、本の方には欲情した。

……いや、待てよ。私は本当のところこの本がどういう物か知らない。ということは、もしかすると私は王木さん自身に欲情しているのかもしれない……。


 
 ティアドロップ(ライトスタッフ!)/王木亡一朗 250円(2015/7/23の情報)


彼をびびらせるつもりで書いた。震えてくれていたら嬉しいな。







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