愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

比喩

【小説】村上春樹の比喩にあこがれてすべてを比喩にしてみた

僕の人生は、いつの間にか比喩だらけになってしまった。それは、まるで雨上がりの空に突如として現れた虹のように、唐突で、そして鮮やかだった。

朝、目覚めると、僕の意識は深い井戸の底から、ゆっくりとバケツに汲み上げられるように浮上してきた。ベッドから這い出す僕の体は、まるで冬眠から覚めたばかりの熊のようにぎこちない。

歯を磨く。歯ブラシは、僕の口の中で踊る小さなバレリーナだ。歯磨き粉の泡は、僕の人生における数々の後悔のように、次々と流しに消えていく。

朝食を作る。トースターの中でパンが焼ける様子は、まるで僕の未来が少しずつ形作られていくかのようだ。目玉焼きを作ると、黄身が白身の上でまどろむさまは、混沌とした世界の中に浮かぶ僕の魂そのものだった。

コーヒーを淹れる。豆を挽く音は、時間という巨大な歯車が僕の人生を少しずつ砕いていく音のようだ。お湯を注ぐと立ち上る湯気は、夢と現実の境界線のようにぼんやりとしている。

外に出る。アスファルトの道は、僕の人生における選択肢のように、あちこちに伸びている。通り過ぎる車は、僕の脳裏をよぎる数々の思考のようだ。速いものもあれば、のろのろと進むものもある。

電車に乗る。ぎゅうぎゅう詰めの車内は、この世界に押し込められた無数の魂たちのようだ。僕の体は、サーディンの缶詰の中身のように、よその人々の体に押しつぶされそうになる。

オフィスに到着する。エレベーターは、僕を別の次元へと運ぶタイムマシンのようだ。ドアが開くたびに、違う世界が広がっている。

仕事を始める。キーボードを叩く音は、僕の人生という交響曲の伴奏のようだ。モニターに映る文字たちは、僕の内なる宇宙に浮かぶ無数の星々のように煌めいている。

同僚たちと話す。彼らの言葉は、まるで暗号のようだ。僕は、その意味を解読しようと必死になる。時々、理解できない言葉があると、それは異星人の言語を聞いているような気分になる。

昼食を取る。サンドイッチの具材は、僕の複雑な感情の層のようだ。一口ごとに、違う味、違う質感が口の中で踊る。

午後の仕事。集中力は、まるで砂漠の中のオアシスのようにあっという間に消えていく。書類の山は、僕が乗り越えなければならない人生の試練のようだ。

帰宅時間。混雑する駅のホームは、さまざまな運命が交錯する迷宮のようだ。電車を待つ人々は、それぞれが異なる物語を生きている登場人物たちのようだ。

家に帰る。鍵を開ける音は、僕の心の扉が開く音のようだ。靴を脱ぐと、一日の重圧が僕の肩から落ちていく。それは、まるで重力から解放されて宇宙遊泳をしているかのようだ。

夕食を作る。包丁で野菜を切る音は、僕の中の余分なものが削ぎ落とされていく音のようだ。鍋の中で食材が煮えていく様子は、僕の内なる思いが熟成されていくプロセスのようだ。

テレビをつける。チャンネルを変えるたびに、僕は別の世界線にジャンプしているような気分になる。ニュースは、僕の知らない世界の物語を語り続ける。それは、まるで遠い惑星からの通信のようだ。

風呂に入る。湯船に浸かると、僕は母なる海に帰っていくクジラのような気分になる。湯気は、現実世界と夢の世界の境界線を曖昧にしていく。

ベッドに入る。枕に頭をのせると、僕の意識は、まるで風船のようにふわふわと宙に浮かび始める。毛布をかぶると、それは僕を現実から守る魔法の布のようだ。

目を閉じる。まぶたの裏に広がる闇は、無限の可能性を秘めた宇宙のようだ。僕の意識は、その闇の中へとゆっくりと沈んでいく。それは、まるで深海に潜っていくダイバーのようだ。

そして、僕は夢を見る。それは、現実よりもさらに比喩に満ちた世界だった。

翌朝、目覚めると、僕はすべてが比喩だった夢を見ていたことに気づく。しかし、それは本当に夢だったのだろうか。あるいは、僕たちの生きるこの世界こそが、巨大な比喩なのかもしれない。そんなことを考えながら、僕はまた新しい一日を、比喩に満ちた世界で過ごし始めるのだった。

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11



村上春樹の比喩表現

村上春樹の作品における比喩表現は、その独創性と多様性において際立っています。村上は、日常的な事物や自然現象を巧みに用いて、人間の心理や感情、そして現代社会の様相を表現します。

例えば、村上はしばしば水に関連する比喩を用いて、時間の流れや記憶の曖昧さを表現します。水は、その流動性と不可逆性ゆえに、時間の本質を捉えるのに適した比喩となっています。また、水底に沈んでいく記憶の描写は、記憶の断片的で不確かな性質を巧みに表現しています。

音楽に関連する比喩も、村上作品の特徴の一つです。村上は、音楽を時間や空間を超越する存在として描写し、その普遍的な力と人々の感情を結びつける役割を強調します。音楽が持つ調和と不協和、リズムと旋律は、人生の喜びと悲しみ、出会いと別れを象徴的に表現する手段として用いられます。

色彩を用いた比喩表現も、村上作品に深みを与えています。色彩は、登場人物の心情や人生の状況を表現するために用いられます。色の欠如は、しばしば心の空虚さや目的の喪失を表現し、特定の色は登場人物の個性や感情を表すために用いられます。

動物を用いた比喩表現は、村上作品のもう一つの特徴です。動物は、登場人物の性格や欲望、社会との関係性を象徴的に表現するために用いられます。例えば、羊は自由や純粋さの象徴として、猫は自立や孤独の象徴として描かれることが多くあります。

村上は、都市の風景を比喩的に描写することで、現代社会の特徴や問題点を浮き彫りにします。都市を機械や迷路になぞらえることで、現代社会の無機質さ、複雑さ、そして人間性の喪失といったテーマを表現します。

村上春樹の比喩表現は、読者の想像力を刺激し、作品世界により深く没入させる効果を持っています。日常的な事物を用いた比喩は、読者に親近感を与え、抽象的な概念をわかりやすく伝えます。また、色彩や音楽、動物などを用いた比喩は、登場人物の心情や作品のテーマを象徴的に表現しています。

村上の比喩表現は、作品の言語的な豊かさを生み出すとともに、現代社会や人間の普遍的な問題を探求するための強力なツールとなっています。その独創的で多様な比喩表現は、村上文学の大きな魅力の一つであり、世界中の読者を惹きつける要因となっているのです。


牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


歌は歌詞かメロディーか、最後に文体について(ヨルシカの『ただ君に晴れ』は暗い? 明るい?)

 日曜日のシューイチという番組で、アイドルのオーディション?みたいな企画を追っているものがあって、その中で歌唱力のテストがあってヨルシカの『ただ君に晴れ』を歌わせているシーンがあって、一人の女の子が指導教官に「この曲はそんな歌だっけ? もっと明るいでしょ?」と言われていたんだけど、私は(これ明るいか?)と思っていた。YOUTUBEで歌詞を見ても、君がいない喪失感を表現しているようで、やっぱり明るいとは思えなかった。暗いというのも違っていて、う~ん、それはたぶん寂しさだと思う。そういう意味では女の子の方が正しいように思った。ネットでも同じ感想を持っている人が何人かいた。




 ただメロディーは明るめだ。ジャニーズの前の社長の人も「明るい曲は暗く、暗い曲は明るく歌え」って言っていたような気がする(間違っていたらごめん)。歌詞に沿うなら暗いし、メロディーに沿うなら明るい。歌をパフォーマンスとして捉えるなら指導教官の方が正しいと納得できた。女の子の方は歌を歌詞として捉えていたのだろう。

 歌は歌詞なのかメロディーなのか。賢しげな人はどっちもなんて言うだろうけど、大多数の人にとっては歌詞なのではないかな。歌詞のフレーズが引用されることはあっても、メロディーが引用されることはまずない。メロディーは言語化できないという理由はあるけれど、口頭でメロディーが話題になることはない。おそらくメロディーで盛り上がれるのは音楽関係の人だけ。

 それで言えば小説の文体も話題に上らないね。文体は何ぞやと問われても言語化するのは不可能だが確実に存在する。メロディーなみの確度だ。しかし文体はどこで感じているのだろう? メロディーは耳、文体は目? 私は鼻と思っているのだが他の人はどうですか?

(おわり)

追記:文体が話題になることはない、でも文体が大事だ。と村上春樹は言ってた(何を語るかではなく、どう語るかが大事というのは私も同意見だ。)。そもそも語るには言語化する必要があって、言語化できなないなら語ることもできない。せいぜいあれは良い、あれは悪いと印象を語るぐらいしかできない。もしかすると音楽関係者の間でもメロディーが語られることはないのかな。一応比喩で語ることは可能だが、日本語って何故かあんまり比喩表現ないよね。あったとしても稚拙な場合が多く、ケチがつきやすい。いま日本語で小説を書いている存命の作家では村上春樹が一番上手いと私は思っているが比喩表現は無理しているように感じる。だからこそ日本語の表現の幅を広げようとしているとも捉えられる。
 欧米人は何でも比喩するのが好きって印象があるし、使い方もこなれている。日本人は非言語的なコミュニケーションを多くとっているというが、非言語を言語化するのは欧米人がうまいのではないか。空気を空気のままにしない。もちろん全てをそうできているわけではないが、基本的には『はじめに言葉ありき』の文化なのだろう。言葉 is GOD。ネットで世界が均一になったと言われるが外国から学べることはまだまだある。
 あと、どうでもいいだろうけれど、牛野小雪は内容は暗いけど文体は明るいんじゃないかってレビューを見ていて思う。笑いながら読んでくれたらいいんじゃないかな。

追記2:日本は空気 is GODの国だけど、たいてい空気という言葉は悪い意味で使われる。でもなんだかんだで先進国の中に入っているんだから、まんざら空気が悪いわけでもないのだろう。空気を資源と捉えれば良いようにも使えるはずだ。空気を空気のまま書き進めていくのが日本文学の本道なのかもしれない。

ただ君に晴れ
U&R records
2018-09-01









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ヒッチハイク 推敲、改稿、やってみよう No.2 言い切る比喩

 川端康成はすんごい作家である。

 川端康成といえば『雪国』と『伊豆の踊り子』で語られて、特に前者は”国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。”は百回ぐらいは聞いたことがある。しかしどちらを読んでも肌に合わなくて、しょせん昔の人だからと省みることはなかった。

 それがつい先日何故か本屋にふらりと入り、何故か川端康成の棚を見て『山の音』という本があるのを見つけた。こんな本もあったのかと何故か手に取り、買って帰った。それでぱっとページを開いた瞬間に、あっ、これは『雪国』とは違うぞ、と分かった。それで何ページか読んで、とんでもない物を読まされてしまったなぁと感心した。

 ここ数ヶ月改稿ばっかりしていると(今もしかして私はとんでもない文章を作っているんじゃないか)と思う瞬間があって、内心天狗になる時もあったけれど、川端康成はもう何十年も前にそんな場所を通り過ぎていた。謙虚にならなければならない。まだまだ精進しなければならない。

 その川端康成の文章を読んで、ふと私の中にあるひらめきが降ってきた。比喩は言い切った方が強くなるのではないか。

 そこで『聖者の行進』で試してみた。

 ユリは太陽のように可愛らしい女の子だった。彼女が笑うと世界が明るくなった。

 ↑これをこう変えた↓

 ユリは太陽だった。彼女が笑うと世界が明るくなった。

 もちろんユリは人間の女の子なので太陽ではない。この文章は間違っている。でも、こっちの方が良い気がする。たぶん間違っていない。比喩は言い切る方が強い表現になる。

 というわけで改稿中の『ヒッチハイク!』でも試してみた。

 胸は大玉スイカを詰めたように膨らんでいて、お尻はかぼちゃみたいだ。僕が驚いたのは彼女の顔だ。アスファルトにスイカを叩きつけて、たるんだギョウザの皮を被せたような顔をしていた。

 ↑これを言い切ってみる↓

 胸は大玉スイカで、お尻はかぼちゃだった。僕が驚いたのは彼女の顔だ。アスファルトにスイカを叩きつけて、たるんだギョウザの皮を被せていた。

 ん? う~ん、いまいちか。っていうかスイカで喩えるの好きだな。聖者の行進でも何かをスイカにたとえたような気がする。でもやっぱり下の方が良いような気がするなぁ。明らかにおかしい文章だけど、上より下が良いような気がするなぁ~(←言い切らない)。

 言い切らないことばかり言うけれど、言い切る比喩はもうちょい進化できそうな気がする。でも今のところはひらめきどまりだ。

(2018年4月3日 牛野小雪 記)




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