愚者空間

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村上春樹

村上春樹の評価概要 年表方式

村上春樹 評価の変遷

村上春樹 評価の変遷

年表(要約)

年代・年 作品・出来事 主な評価・動向
1979–1982 デビュー作〜「鼠三部作」 内面性と軽快な文体が話題に。批評家からは「社会性の欠如」「消費文化的」と批判され、純文学からは距離を置かれる。
1985 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 谷崎潤一郎賞を受賞。初めて文壇から評価される。
1987 『ノルウェイの森』 商業的大成功。大衆化と「文芸軽視」の批判が再燃。一方で文学的転換点として評価する声も。
1995–1997 『ねじまき鳥クロニクル』『アンダーグラウンド』 戦争・地下鉄サリン事件に取り組み「社会への関与」が明確に。国内外での再評価が進む。
2000年代以降 世界的評価とノーベル賞候補常連に 欧米では「最も翻訳される日本作家」に。日本国内では依然として評価が分かれる。
2017 川上未映子との対話 女性描写のステレオタイプ性についてフェミニズム批判。本人は受容の姿勢を見せるも課題は残る。
2023–2024 『街とその不確かな壁』 集大成的作品と評されるが「重たく冗長」との批判も。文学的革新性より自己言及性が強調される。


村上春樹の評価は「逃避的で軽い」から始まった。1980年代、文学者たちは彼を消費社会の子と見なした。だが読者は、彼の孤独や喪失に共鳴し続けた。『ノルウェイの森』で人気は爆発、しかしその代償として「大衆作家」のレッテルが貼られた。90年代後半にはサリン事件を描き、作風は「関与」へと向かう。だが初期から彼の作品には、関与ではなく「内面からの政治」があった。自己に向き合う力、それが彼の本質だ。最新作『街とその不確かな壁』でもその問いは続く。評価の揺れこそが、彼のリアルなのかもしれない。

AI小説を書くには人間が小説の解像度を上げなければならないのではないか

 昨日GoogleがBardを更新してGeminiという新しいAIチャットを発表した。上位版のGemini ultraはGPT4より性能が上らしい。日本語版だとまだ素のGeminiしか使えないけど、それでリレー小説してみた。もしGeminiがGPT3.5に匹敵するバージョンと考えるならGPTちゃんの方がひとまわり上の印象を受ける。基本的にチャットAIは小説を書くものではないし、Googleアプリと連携しているのはかなり便利だからGPTから移り変わる人はいるかもしれない。Xの反応見ているとどうもGPT3.5あたりの反応と似ている気はするけど‥‥‥どうなんでしょう? 日本に上陸するころにはブラッシュアップされているかもしれない。

 最近テック系ニュースを見ているとAIは拡張性の方向に舵を切ったように見える。AIで機械を動かすとか、アプリを動かすとかそんな感じ。Bingにcopilotが導入されたのもその一環だろう。汎用性AIはこのへんが頭打ちで、これからは能力特化していくのではないか。Bingのcopilotみたいな検索AIを皮切りに(マイクロソフトのアプリでも使える)、料理特化、医療特化、スポーツ特化みたいな感じ。その中で小説特化っていうのはなさそう。すくなくとも日本ではそういう動きを感じられない。

 GPTちゃんに小説を書かせていて感じるのは、小説を書く情報自体は持っている。ただそれがうまく出力できないだけって感じ。もちろん1回のプロンプトで1000字が限界という制約も一つの要因だが、10000字吐き出せるようになってもAI構文による不気味さは変わらないだろう。それはGPTちゃんではなく人間の問題で、人がどうやって小説を書いているのかを理解していないからだと思う。「良い感じにしといて」ではGPTちゃんもどう書いたらいいか分からない。

 データーベース的には古典から村上春樹まで入ってる。村上春樹なんてっていう人もいるかもしれないが、日本文学で彼以降これといった小説家がいないのも事実。彼に代わりうる影響力のある作家がどこにいる? その意味ではいま一番小説的知識を持っているのはGPTちゃんとも言える。それなのになぜ世界一の小説家になれないのかというと、彼女のデータベースには世界一の小説を書くデータが存在しないから。なぜ存在しないのかと言えば簡単な話だ。人間が世界一の小説を書く方法を知らないから。なんなら小説を書く方法さえ分かっていない。基本的に小説を書くためのアドバイスの筆頭は「とにかく書け」である。私だってそう言うだろう。とりあえず書いてみないことにはネット上でいくらでも見つかる小説作法だってロクに頭に入らない。でもそんな小説作法を守ったところで小説が書けないのも事実だ。

 本当のところを言えば、私たちはどうやって小説を書いているのか何も分かっていない。だからAIにああだこうだ言ったところでネット上に転がる知識を打ち込む程度だ。でもそれでは何にも書けない。AIに小説を書かせるには人間がいまよりもっと深いレベルで小説の解像度を上げなければならない。解像度を上げるとは小説のセンスを言語化するということ。これって難しいよなぁ。私の手には余ることじゃないか? GoogleのGeminiがリリースされたからOpenAIもGPT5をリリースすると噂されている。汎用性AIがもっとレベルアップして小説の書き方を人間以上に言語化してくれないかなぁって他力本願なことを考える今日この頃。

(おわり)

関連項目
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ChatGPTとリレー小説『カエルくん小説を救う?』

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始めよう。ここでは普通じゃないことが起こる。私がコーヒーを淹れる。しかし、カップにはインクが溢れる。

「なんだこれは?」コーヒーとインクの区別もつかぬ私。

窓の外、空が緑に変わる。猫が空を飛び、鳥が歩く。逆転の世界。

「今日は何か変だな」と私は言う。隣の家が回転を始める。

友達に電話をかける。「おい、空が緑だぞ」

「それが何か?」彼は平然と答える。

「普通じゃないだろう」と私。

「普通って何?」彼は反問する。

突然、私の部屋に象が現れる。どこからともなく。

「これが普通か?」と私は叫ぶ。

象は微笑む。「普通は退屈だ」

部屋が縮む。壁が迫る。息ができない。

「助けてくれ」と私は叫ぶが、象はただ微笑む。

そこで目が覚めた。夢だったのか。しかし、カップには依然としてインクが。

「現実とは何か?」私は自問する。しかし、答えは来ない。

外はまだ緑の空。でも、もう驚かない。これが私の新しい普通だ。

「さあ、今日も一日が始まる」と私は言う。インクのカップを手に、新しい世界へと一歩踏み出す。
おそらくこれも現実ではない。しかし夢でもない。夢の中で夢とは気付かないものだ。

たぶん私は小説の中にいる。牛野小雪がChatGPTとリレー小説を始めた頃からメタフィクション的に使っているネタだ。とうとうChatGPTから始まるリレー小説でもそれが行われるようになったのだ。

カップのインクを飲む。

ぶはっ!

苦みが口の中を走って、思わず吹き出す。変なところはリアリティを追認している。

困ったね。これが牛野小雪の限界なんだ。いままで味わったことのない味を文字で表現しようとしても、そんな味を想像できない。人間の限界だ。AIがこのへん超えていくんじゃないか?

私は象に乗ろうと試みる。また現実。象は超然として動こうとしない。半分眠ったような目で私を見下ろしている。

「象に乗ろうと思う。それも現実っぽいな」

象に皮肉を言われてしまう。それもそうだ。現実じゃない世界で現実っぽいことをしようとする。すると現実がそれを否定する。

空は緑、いや芝生だった。よく見ると小花も咲いていて、ところどころ白い。あれは雲のメタファーか? 

現実と違うけれど、現実を下敷きにした幻想空間。私はおかしな小説の主人公らしい。
「象よ、君は何を考えているんだ?」私は問いかける。象は答えない。当然だ。

ここはどこだ? 象がそこにいるのに、なぜ私は象に話しかけているんだ?

「そりゃあ、私たちは小説の中だからさ」と隣から声がする。振り返ると、そこにはカエルが一匹。彼は煙草をふかしながら、私を見つめている。

「カエルが煙草を?」

「人間が象に乗るよりはマシだろう」とカエルは言う。彼の言葉には二重の皮肉が込められている。

これが私の現実。いや、小説の中の現実。私はここで何をしているんだろう?

「おい、牛野小雪、これどういうことだ?」私は空に向かって叫ぶ。しかし、返事はない。

カエルがふっと煙を吐き出す。「小説の中で作者に文句を言っても始まらないよ。ここはメタフィクションの海、泳ぎ続けるしかないんだ」

その時、地面が揺れ始める。まるで地震だ。しかし、これは小説の中。何が起こってもおかしくない。

「さあ、物語はこれからが本番だ。どんどん悪くなるから覚悟しろよ」

カエルの言葉通り、空から巨大なイカが降ってくる。イカの足が地面を踏みつけ、建物が崩れる。この混沌とした世界で、私はどう生きていけばいいのだろう?

しかし、これもまた小説の一部。牛野小雪が描く、奇妙な物語の中で、私はただの駒に過ぎないのかもしれない。

(つづく?)
ここで私は考える。私とはこの小説の私ではなく、いまこれを書いている私こと牛野小雪だ。

いったいこの小説はなんだ? 私はなにを書かされているんだ?

どうして自己参照的かつ自己循環的なリレー小説を繰り返しているのだろう。実のところ似たような展開の話をもう何回か書いている。多様性のない世界。それは牛野小雪の想像力のなさをChatGPTを通して自己批判しているようだ。

奇妙な物語の住民たちは時が止まっている。この話にどう決着をつける? リレー小説だ。そう長くは書いていけない。

そうだ。カエル、地震とくれば村上春樹のカエルくん東京を救うだ。カエルがイカを倒す話にしよう。

「どうやら運命が決まったようだな」

カエルは煙草を道に投げ捨てる。

「よし、君は私の頭の上に乗れ」

「えっ」

君は主人公だ。私だけでイカを倒しては小説作法的によくない。主人公は物語に主体的にかかわらなければならない。

「おい、作者が作中に出てくるな」と私は言う。

しかし私がカエルに乗らなければ巨大イカは世界を破壊し続ける。そういう作中設定なのだ。

「よし、いくぞ。カエルくん」

ぐぱっ!

私がカエルに乗ると、あわれにもカエルくんはつぶれて死んでしまった。

「おい、どうすんだよこれ!」

私は困惑する。カエルくんをつぶしてしまった。これは計画外だ。でも、これもまた物語の一部なのかもしれない。

「これは…新たな展開への布石か?」と私は独り言を言う。しかし、周りには誰もいない。カエルくんはもう死んでしまったし、巨大イカもなぜか消えている。

「ここで何をしているんだろう」と私は空を見上げる。空は青く、雲一つない。まるで普通の日常が戻ってきたかのようだ。

「さて、ここからどうしようか」と私は思案に暮れる。この小説、いや、この物語はどこに向かっているのだろうか。そして、私はこの物語の中で何をすべきなのか。

「もしかして、これが答えなのかもしれない」と私はふと思う。物語はいつも完結するわけではない。物語は、読者や作者の心の中で終わりなく続いていくものなのかもしれない。

「終わりがない物語もまた、一つの物語だ」と私はつぶやく。そして、新たな物語を紡ぐために、またペンを手に取る。

この物語は終わりだけど、つづく。物語はいつも私たちの心の中で続いていくのだから。

(おわりだけどつづく)


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文体の文脈とリズム、モテるにはノリが大事

 この前ポッドキャストを聞いていたらTOEICで何点取っていても英語を聞き取ることはできなかったけれど文脈が理解できた時に初めて言葉が頭の中に流れてきた。という話を聞く。昔々養老孟子が『バカの壁』で話を通じない人としてオタクやオウム真理教の信者のはしりみたいなのを書いていて、それと似たようなものかもしれないと感じる。同じ日本人で日本語は理解できるのだけれど言っていることがさっぱり分からないというあれだ。養老孟子が発端ではなく実はこういう概念って昔からあったんじゃないかと思う。ツイッターでも時々それに似たような話が出てくる。バカの壁と言うと相手が傷つくので言い換えると、文脈の壁というものがある。この壁があると言葉は理解できても相手の言っていることが理解できない。

バカの壁(新潮新書)
養老孟司
新潮社
2012-07-01


 文盲というディスがある。文章を読めないアホという意味だがこれって文脈を読めていないってことだと気付く。言葉は読めているようなのに曲解としか思えないような受け取り方をする人がいる。これは心が歪んでいるのではなく単にその人が持っている文脈が違うだけではないだろうか(もちろん相手をやり込めるための曲解もあるだろう)。私たちは究極のところ文脈のやり取りをしていているのだろう。人は見た目が9割なんて本もある。何かの本の名言を読んでもピンとこないのも、その文章が出てくるまでの文脈が抜けているからだ。そう考えると言葉の本質は文脈ということになる。小説もつまるところ言葉を書くのではなく文脈を作る作業っぽい。小説をイメージする時は言葉じゃなくて文脈で捉えているしね。

 文脈って何なのだろう。形はないけれど存在している。でも「文脈をここに出してください」と一休さんみたいなことを言われても無理で、文脈の正しさや間違いを言い争うことは不毛というかそもそもできない。人それぞれに持っている文脈があり、受け取り方も違う。そう考えると文章自体が持つ文脈も存在しないことになるが、それは違う気がする。どう違うのかとか言われても困るけどね。文脈は真っ直ぐだとか、歪んでいるだとかも分からない。まぁ自分は真っ直ぐだとはみんな思っているだろう。自分の文脈と合っているのなら真っ直ぐと感じるのかな。牛野小雪があんまり売れないのは世間の文脈と外れているからなのかもしれない(笑)

 小説にはリズムやアクセントがある。こっちは文脈と違ってそんなに語られる印象がないが、やっぱり存在している。そして形はない。テンポが良いとか悪いとかはあるが行間にBPMや音符は示されていない。それでもやっぱりある。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にファインマンがイタリア語の調子を真似て喋る話があるが、実は言葉はでたらめで、それでも他の人にはイタリア語が話せると思われるし、なんとイタリア人にも通じてしまう。



 ありゃ~、こうなってくると文脈より大事なのは文脈じゃなくてリズムやアクセントだ。そういえば文章のリズムの話をするのも書くタイプの人だ。私たちは究極のところ言葉でも文脈でもなく音楽の交換をしているのかもしれない。歌が上手いとモテるのもそれが理由。本質的な意味で話が通じるからね。言葉がどうとか文脈がどうとか言っていたら全宇宙的に正しくても絶対にモテない気がする(笑) 村上春樹だって文体を音楽的に捉えていると何かの本に書いてあった記憶がある。モテるにはノリが大事。言葉も文脈もいらねぇや。何を言うかではなく、どう語るかを考えよう。How to本はあってもWhat to本はない。ほら、これが答えだ。

 モテたいのならモテるやつの真似をしろ。が正しいなら、文章が上手くなりたいなら上手いやつの真似をしろということになる。ああ、なんてこった。文章を写す文体練習を写経といって別段新しい練習方法ではないのだが、一体何の効果があるんだろうか。読むだけじゃダメなのかとずっと疑問だった。しかしやっと謎が氷解。写経の狙いは漢字を何度もノートに書いて憶えるように、モテる文章を何度も写してリズムを憶えろということだったのだ。くそ~ようやく謎が解けたのだがお手本になる文章がどこにあるのか分からない。誰かモテモテの文章を教えてください。

(おわり)

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歌は歌詞かメロディーか、最後に文体について(ヨルシカの『ただ君に晴れ』は暗い? 明るい?)

 日曜日のシューイチという番組で、アイドルのオーディション?みたいな企画を追っているものがあって、その中で歌唱力のテストがあってヨルシカの『ただ君に晴れ』を歌わせているシーンがあって、一人の女の子が指導教官に「この曲はそんな歌だっけ? もっと明るいでしょ?」と言われていたんだけど、私は(これ明るいか?)と思っていた。YOUTUBEで歌詞を見ても、君がいない喪失感を表現しているようで、やっぱり明るいとは思えなかった。暗いというのも違っていて、う~ん、それはたぶん寂しさだと思う。そういう意味では女の子の方が正しいように思った。ネットでも同じ感想を持っている人が何人かいた。




 ただメロディーは明るめだ。ジャニーズの前の社長の人も「明るい曲は暗く、暗い曲は明るく歌え」って言っていたような気がする(間違っていたらごめん)。歌詞に沿うなら暗いし、メロディーに沿うなら明るい。歌をパフォーマンスとして捉えるなら指導教官の方が正しいと納得できた。女の子の方は歌を歌詞として捉えていたのだろう。

 歌は歌詞なのかメロディーなのか。賢しげな人はどっちもなんて言うだろうけど、大多数の人にとっては歌詞なのではないかな。歌詞のフレーズが引用されることはあっても、メロディーが引用されることはまずない。メロディーは言語化できないという理由はあるけれど、口頭でメロディーが話題になることはない。おそらくメロディーで盛り上がれるのは音楽関係の人だけ。

 それで言えば小説の文体も話題に上らないね。文体は何ぞやと問われても言語化するのは不可能だが確実に存在する。メロディーなみの確度だ。しかし文体はどこで感じているのだろう? メロディーは耳、文体は目? 私は鼻と思っているのだが他の人はどうですか?

(おわり)

追記:文体が話題になることはない、でも文体が大事だ。と村上春樹は言ってた(何を語るかではなく、どう語るかが大事というのは私も同意見だ。)。そもそも語るには言語化する必要があって、言語化できなないなら語ることもできない。せいぜいあれは良い、あれは悪いと印象を語るぐらいしかできない。もしかすると音楽関係者の間でもメロディーが語られることはないのかな。一応比喩で語ることは可能だが、日本語って何故かあんまり比喩表現ないよね。あったとしても稚拙な場合が多く、ケチがつきやすい。いま日本語で小説を書いている存命の作家では村上春樹が一番上手いと私は思っているが比喩表現は無理しているように感じる。だからこそ日本語の表現の幅を広げようとしているとも捉えられる。
 欧米人は何でも比喩するのが好きって印象があるし、使い方もこなれている。日本人は非言語的なコミュニケーションを多くとっているというが、非言語を言語化するのは欧米人がうまいのではないか。空気を空気のままにしない。もちろん全てをそうできているわけではないが、基本的には『はじめに言葉ありき』の文化なのだろう。言葉 is GOD。ネットで世界が均一になったと言われるが外国から学べることはまだまだある。
 あと、どうでもいいだろうけれど、牛野小雪は内容は暗いけど文体は明るいんじゃないかってレビューを見ていて思う。笑いながら読んでくれたらいいんじゃないかな。

追記2:日本は空気 is GODの国だけど、たいてい空気という言葉は悪い意味で使われる。でもなんだかんだで先進国の中に入っているんだから、まんざら空気が悪いわけでもないのだろう。空気を資源と捉えれば良いようにも使えるはずだ。空気を空気のまま書き進めていくのが日本文学の本道なのかもしれない。

ただ君に晴れ
U&R records
2018-09-01









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徳島のそごうが潰れる前に本屋で『老人と海』をジャケ買いした話

 今年の八月に徳島県のそごうが閉店するので、何階にあるかは忘れたが本屋に行った。去年はそこでガルシア・マルケスの『百年の孤独』の新潮社から出ている綺麗な装丁の本を買って、お気に入りの一冊になったので、給付金で10万円が転がり込んできたし、閉店セールで安く買えないかなとエロい心を抱きつつ『族長の秋』向かったわけだ。

 閉店セールはやっていたがコロナのせいか客足はまばらだった。閉店するぐらいだから元々客足は少ないが、エスカレーターに乗っていると一階上にいる赤ちゃんの「ばぶ」が聞こえるほど閑散としていた。本屋に行くと目当ての『族長の秋』どころか全てのガルシア・マルケスがなかった。一年も同じ品揃えなわけないかとこの時に気付いた。日本では再販制度で本のセールが存在しないことにも。

 でも、せっかくそごうまで来たのだから何か買って帰らないと損なので、本屋をうろうろしていると『老人と海』の新版を見つけた。表紙がとても綺麗なのでジャケ買いした。今までこんな表紙は見たことがないと思っていたが今年の7月に出たばかりの新版だそうだ。


 既に持っている本の新版という流れができたので『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も買った。訳は村上春樹。装丁は・・・・シンプルだね!


 コロナがなければ記念に何か食べて帰りたかったけれど、外食するのも面倒になったので本だけ買って速攻で帰った。さらばそごう。もう会うこともあるまい。今までありがとう。おかげで良い本に出会えた。

(おわり)





三十路越えした1985年生まれの作家(敬称だったり、なかったり)

 昨日Eテレで中上健次の特集をしていた。彼が『岬』を書いたのは30の頃だと知って、非常に驚いた。『枯木灘』は31だ。私も今31になっているんだけど、31であれ書けるなんてアンタおかしいよって言いたくなる。なんていうか昔の人って若い頃から、凄い大人っぽい。いかにも人生積み重ねた感がある。だからあんなの書けるのかな。白黒写真で撮れば、私も大人っぽく写るだろうか。案外フルカラーだと、中上健次もその辺のニイちゃんっぽかったりするかもしれない。現代作家はカラー写真になっちゃうのが損だよね。
 確か今年群像新人賞を受賞したのは崔実さんで1985年生まれ。ついでに言えば美人。
 去年芥川賞を取ったのは羽田圭介で、これまた1985年生まれ。
 みんなだいたい30で転機を迎えている。
 そういえば村上春樹の『風の歌を聴け』も30だ。
 30歳で文化系の才能が目覚めることでもあるんだろうか。

 私と同じ1985年生まれらしい王木亡一朗さんの10月末に出したやつ。あれを書いたのは去年、つまり30の時に書いたということになる。あれを読んだ時は(ちっ、こんなもん書きやがって)と内心怒っていた。noteで何の前触れもなく公開していた『レモン/グラス』あたりで、何となく次はいつもと違うものが出てきそうだぞという予感があって、本当にその通りだったからムカついたものだ。いつも通りの王木亡一朗でいてくれよって。

 同じ歳のスポーツ選手が活躍するのは別に何とも思わなかったが、同じ歳の小説家がどうにかなっていると心がざわつく。
置いていかれてくような気分になる。みんなもっとサボろうぜって言いたくなる。

 孔子さんは30歳で自信がついて自立できるようになるなんて言ったそうだが、30になっても自信なんてない。
おいおい、冗談だろ。30歳ってもっと大人じゃなかったのかと不安になる。大きくなったのは体だけで、心はまだ子どものまま。四駆の車体に原チャリのエンジンを載せているみたいなもので、一度止まったらエンストしそうな気がする。V8のエンジンが欲しい。

(おわり)

追記:辻仁成もすばる文学賞取ったのは30になってから。

追記2:『レモン/グラス/王木亡一朗』の衝撃はブログでもちょっと書いていた。
進捗状況『エバーホワイト EVERWHITE』No.7

インスパイアして書いたのがこれ
両親のギター inspired by『レモン/グラス』王木亡一朗

あと以下二つの王木小説がポイント還元セール中。夏の魔物がいいよ。


追記3:しかし10代、20代の頃と比べると『恥じらい』みたいなものは薄れてきたかもしれない。これじゃあ虎にはなれないな。山月記でも読もうか。書く方もそうだけど、読む方でも年取ってからのほうが良く読めると思う。10代で山月記読んでも、あれは言うなれば打ち砕かれた中二病みたいな話だから(なんだこの落ちこぼれのクソ野郎)と思うのではないだろうか。何で教科書で習うんだ? 10代の時点で虎になった李徴に共感できる子はかなり闇を抱えた人生送っていると思う。というか一生分からないままでいられたら良い人生だよね。

読後:何回か読んでいると心に響くところが違うもので、李徴が別れ際に袁傪を殺したくないから同じ道を通るなと頼むところで、ぐっと涙が出そうになった。李徴は嫌なやつだけど、袁傪との友情を大切にできる心を持っていたのが良い。頭から爪先まで虎じゃない。だから苦しんでいる。
山月記 [Kindle版]
しかし、今の時代、李徴みたいに虎になっても、すぐに狩られてしまいそうなのがちょっと悲しい。ドラゴンぐらいにならないと。それでもミサイルには勝てないか(ドラッグ・オン・ドラグーン参照)。バイストン・ウェルの聖戦士か、風の魔装機神じゃないと無理だ。
オカルト力(ちから)が必要とされている。そういえばオーラバトラーはハイパー化したっけ。李徴が乗ったらめちゃくちゃ強そう。

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村上春樹はノーベル賞を取れない。取るのはまだまだ先の話

 前評判では村上春樹(敬称略)が今度こそ取ると騒がれていたが、2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランが取った。
  何故今さらこんな話をするのか。このニュースが流れていた時、私は『エバーホワイト』を執筆中だったので思うところはあっても書く気になれなかったからだ。

 色んな人が村上春樹はノーベル賞を取れないと言っている。 取るなという願望もあるんだろう。私は取れないと思っている。理由は国内で村上春樹が嫌われているから。
 いやいや『色彩を持たない〜』が発売早々100万部売れたような作家が嫌われている? なんて眉唾な話に思われるかもしれないが、事実そうなのだ。ネット上ではかなり嫌われているし、件の『色彩を持たない〜』では面白く内容を揶揄したレビューが話題になったほどだ。
 それに作家の中でも嫌われている。図書館でとある作家の90年代の対談集を読んでいると「あのね、俺、最近話題になっているていう小説読んだのよ。そしたらさ、冒頭で主人公がドイツの航空会社の飛行機に乗って昔の恋人を思い出すところを何十枚も使って書いてやがんの。こいつバカだと思ったね」的なことを書いてあった(正しい内容は忘れた。なんという本かも忘れた。まぁだいたいこんな感じの内容だった)。ちょうどその時『ノルウェイの森』を読んだ後だったので、すぐに村上春樹のことだと分かった。 分かる人には分かるように表立って書いているのなら、裏では相当言われているはずだ。それに対談した作家にしても、自分の名前で出す本なのだから、そういう部分は相手に気を使って削除しても良いはずなのにちゃんと残しているということは、概ねその意見に同意しているのだろう。
 別に同業者に嫌われても読者の支持があれば良いではないか、と思われるのだが、ノーベル賞を取るにはまず推薦されなければならない。それがなければ審査すらされない。そして文学賞は各国のペンクラブにも推薦を依頼するらしいので、同業者の評判が悪ければ推薦されない確率が高いのだ。
 あっ、別にこれは村上春樹を嫌いなことを責めているのではないよ。ただ彼らに嫌われているから推薦されないだろうなということを言いたいのだ。
 海外で人気があるから海外の推薦人が推すという可能性もある。しかし普通に考えて各国の推薦人は自国の作家を推すだろうから村上票が入るとは考えづらい。それが理由でそもそも候補にも上がっていないのではないかと私は思っている。

 村上春樹はどんな作家なのか。
 エロ作家という評判がある。たしかにそういう描写はある。でも、あれを読んで(やれやれ、僕は射精した)となる人間が何人いるか疑問だ。エロという観点で見れば、それ専用の小説の方がよっぽどエロい。本当に読んだのか? もしくは私の想像力が弱いのかもしれない。あっ、こう書くと何だか遠回しに書くのが下手と言っているような気がしてきた。やっぱりエロいです。村上春樹は色気たっぷりです。

 冗談はさておき、長編に限っていうのなら村上春樹の物語を構成する背骨のプロットはひとつだけだ(私個人の意見です)。こちらとあちらの二つの世界があって、男と女が別れ別れになる話(だから鼠が女説があるんじゃないか? 私はまだ筆が固まっていなかったから男だと思う。そう読むのはちょっとひねくれているぞ)。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』からその傾向がはっきりしてきた。
 それじゃあ同じ話を書いているのかと言われれば、う〜ん、まぁ重なるところはあるんだけれど(同じ人間が書いているのだから当然か)、ちょっとずつ前進していることが分かる。

上下巻以上の長編だとこうなっている。
(以下、名前が覚えられないので男と女と表記する。自分の小説でも覚えらないから許して)

 例えば『ノルウェイの森』だと女は最後にあちら側の世界へ行ってしまう
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だと男は最後にあちら側へ行く
 『ねじまき鳥クロニクル』だと井戸の底からあちら側の世界へ行って、正体不明の状態で女と再会し
 『海辺のカフカ』ではちゃんと顔を合わせる(だったかな?)
 『1Q84』ではそこからさらに女と一緒に元の世界へ戻ってくる(第三の世界と匂わせている節もある)

 と、私は読んだ。プロットとして見れば徐々に話は進んでいるのだ。

 それじゃあ、もし次の上下巻以上の長編が出たらどんな話になるのか。
 仮に『X』と名付けるとする。

 『X』でもやっぱり男と女はこちらとあちらの世界に分かれている。それで三巻ぐらい使って、二人は再会してこちらの世界に戻ってくる。そして、たぶん子どもが生まれる。その後を書くとしたら、やっぱり女はあちら側の世界に戻るだろう。『1Q84』で女が殺し屋だったみたいに、何かしら罪なり穢れなりを背負っていて、それが二人を引き離す要因になるのだろう。子どもは男の元に残る。そこで話が終わる。
 あっ、そういえば『海辺のカフカ』は母親がいない少年だったっけ(父親が誰か分からないという題材は珍しくないけど、母親が分からないというのは珍しいね)。それと姉も。そこまで繋がるのか? 

 と、勝手に色々書いてみたが、まさかこんな世間の片隅にいるような人間が考えたような話を村上春樹が書くはずがない。きっと予想を越えるような話を書いてくるんだろうな。絶対にそんなことはないだろうから、安心して好き勝手に書くことができた。ちなみにプロットが評価されてノーベル文学賞を取ることはないと思う。しかし、こうやってまとめてみると村上春樹の文体はドライなアメリカンだと言われているが、プロット自体は伝統的な物語だ(私個人の感想)。

 村上春樹は精神的プロレスの根性が生きている。それが彼の魅力なんではないだろうか。作中ではたいてい荒唐無稽なことが起きるのだが、主人公はとりあえずそれを受け止める。北海道へ羊を探しにいくことになっても、怪しげな占い師が出てきても、とりあえずはそれを現実として受け止めるところから始まる。たぶん村上春樹本人にしても、もしノルウェイの森みたいな女がいれば「テメエみてえなメンヘラこっちから願い下げだっ!」ぐらい言うかもしれないが、とにかく氏の小説に出てくる主人公は色んな物を受け止める器の大きさがあるのだ。冷静になって考えてみると、そんな男現実にいないとは思うが、現実なんてつまらないじゃないか。つまらない物を読むぐらいなら寝てたほうがマシ。

 村上春樹の書く男は基本的に弱そうだ。強そうだったのはカフカ少年ぐらいか。村上春樹の書く男は一発殴ったら簡単に尻もち付きそうな印象がある。でも、その男は地面に座り込んだまま、ねとっとした目でこちらを見上げてきそうなしたたかさもある。もう一発蹴ったら転がりそうな感じもするけどね。もちろんそうしても、やはりこちらの様子を背中で窺っていそうだ。精神的には決してへこたれない柳のような強さがある。でも三島由紀夫がいればジョギングしないで筋トレしてろって言いそう。


 その村上春樹の小説だが、女はしょっちゅう行方不明になる。何処かへ消える。あるいはこの世にいない(あっちの世界にいる)。一番新しい短編集は『女のいない男たち』というそのままズバリのタイトルだ。元ネタはヘミングウェイの短編『男だけの世界』。この本に収録されている鱒を釣る話を読んで、山奥に釣りをしに行こうと思ったことがあるが未だに果たせていない。森と水の静けさと涼しさ。とっても雰囲気が良くて影響を受けること間違いなしだ。でも、たぶん一生行かないんだろうな。先達もいないし。でも森の奥で一人食べるキャンプの飯はとっても美味そうだ。『The Hemingway cookbook』という本がこの世に存在するのもうなずける。

 村上春樹の短編といえば『かえるくん、東京を救う』がどうも人気らしい。『神の子どもたちはみな踊る』という短編集に収録されている。車でラジオを聴いていると毎年この時期には村上春樹の話題が出て、ゲストに出てきた
アーティストはみんなこればっかり推しているような気がする。音楽業界に布教者がいるんじゃないか? 一人ぐらい『ノルウェイの森』が好きですという人がいてもいいじゃないか。出版部数的にそうならないとおかしい。せめて『1Q84』だろう。どうしてみんな揃いも揃って短編集の中にある一作を推すのか不思議でならない。短編集なんてほとんど売れないじゃないか。しかも90年代の本なのに? でももしかすると音楽をやっている人には何か琴線に触れるものがあるのかもしれない。
 私は
同じ本でならそちらより『蜂蜜パイ』の方が良いな。まさきち君ととんきち君の友情の話がいい。とんきち君が落ちぶれたとき、彼はまさきち君と友達でいるために彼の情けを受け取らずに山から姿を消すっていうのが良いんだ。その後ちゃんと二人はうまい形で友達に戻るしね。村上春樹は短編でこういう話を書いてくるからあなどれない(←村上春樹に向かってこの言い草。お前何様のつもりだ?)。さっき読んでみたがやっぱりいい。村上春樹は短編集から読んでいくのがいいと思う。

 話は大きくそれたが、村上春樹がノーベル文学賞を取る日は遠いだろう。少なくとも氏と同年代の人がいるうちは取れないんじゃないかな、たぶん。『村上春樹氏が今年のノーベル文学賞を受賞』というニュースが流れる頃には『えっ、村上春樹ってまだ生きている人だったの!?』と、まずそっちの方がニュースになるのではないだろうか。

 でもさ、ここまで村上春樹とノーベル賞のことを書いてきたんだけど、私は彼より辻仁成の方がノーベル文学賞を取るような気がするんだよね。彼の最高傑作と言われる『海峡の光』は物が多いのでブックオフで100円で買える。厚みもそれほどないのですぐ読める。少し前に話題になった『火花』と同じぐらい。そういえばどちらも真正面から書いた正統派というのも共通している。超オススメ。Kindle版はまだない(2016年11月現在)。とにかく良いよ、辻仁成は。ヘミングウェイと同じくらいイケメンだし、料理本も書いている。読んだことはないが表紙のやつは美味そうだよ。辻仁成には人生が詰まっている。足りないのは筋肉ぐらい。三島由紀夫なら筋トレしろって言うだろう。

 でも村上春樹だって好きな方さ。あれだけ騒ぐのだからそろそろ取ってもいいんじゃないかな。毎年上げて落とすことないんじゃないかなって思うんだよ。ちょっとかわいそうだよね。取る取る言い始めてから10周年を迎えてしまったことだし、そろそろ静かにしてあげてもいいんじゃないかな。どうせ取る時は取るんだしさ。もしかしら来年取るかもよ? それにノーベル文学賞なんてそんなにありがたいものでもあるまい。これまで何人も受賞した人がいるが、そのうち何人の作家の作品に触れたことがあるか? 去年誰が取ったかも定かではあるまい。
 夏目漱石もドストエフスキーもノーベル文学賞は取っていない。それでも彼らの作品は今も残っている。
しょせんそんなものだよ。賞によって作品の価値が上がることはなく、ただ脇に添えられるだけに過ぎない。エビフライに付いてくるポテトサラダみたいな物。

 ポテトサラダは好きだけどね。

(おわり)


追記:ヘミングウェイの短編の話だけど正確には『ヘミングウェイ短編集1 われらの時代・男だけの時代(新潮文庫)』の『われらの時代』の章に入っている『二つの心臓の大きな川』というお話。ちょっとややこしい。あと調べてみると徳島にいるのはアメゴというちょっと小さいサイズの鱒で、ヘミングウェイの小説に出てくるような鱒はいないっぽい。っていうかアメゴって鱒だったのか。アメゴなら子どもの時に何かの祭りで手掴みしたことがあるぞ。はぁ、なんだか急に夢がしぼんできた。ネットで簡単に調べ物ができてしまうのも功罪ある。大人しく鮭フレークでも食べているかな。それと本当に余談だが、ヘミングウェイは色んな物を題材にしているけれど、闘牛より釣りのほうがいいと思う。でも『老人と海』はイマイチ。ボクシングもイマイチ。一番いいのは『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』という狩猟を題材にした短編。主人公がライオンを狩るのに失敗して、奥さんに冷たくされるは、浮気もされるはで、しょんぼりしていたんだけど、次の狩りは成功して(何を狩ったっけ? 鱒ではなかったと思う)自信を取り戻すと、今度は奥さんがしょんぼりして、フランシスやったな!と心躍るのも束の間、彼がいきなり死んでしまうのがなんとも言えない。あれがヘミングウェイの中で一番の傑作じゃないかな。だっていまだにタイトルを覚えているぐらいだもの。あぁ、なんだか今日は小説の先達に向かって大きな口を叩きすぎている気がするな。

追記2:ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をいろんな人が推している。『罪と罰』なら読んだことがあるが、どうもこっちの方が最高傑作らしい。それもドストエフスキーの中ではなく、小説の中で。
 人中の呂布、馬中の赤兎、小説のカラマーゾフ兄弟みたいなものか。
 新しく本も出したことだし、ようやく重い腰を上げて件の本を求めに本屋へ行った。しかし本屋を出た時に私が持っていたのは『悪霊』という本だった。タイトルの響きがカッコよかったから。題名って大切!

牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪


 

執筆日記No.11 EVERWHITE−次に日本人でノーベル文学賞を取るのは?

『EVER WHITE』 の案を書き始める。限りなく透明に近い白とかシックスナインとかふたつの案があったけれど、とりあえずは『EVER WHITE』でいく。もしかしたら書かないかもしれない。思っていたものと変わるかもしれない。でも書けるんじゃないかな、たぶん。今までだって書けたんだから。今のところは案を書いているだけなので楽しい段階。イメージだけだから。形にしていくのはしんどいよね。

先週から遠藤周作の『沈黙』を読んでいて昨日読み終わった。江戸時代にキリスト教を広めにきた宣教師の話。西洋的な強さが挫かれて、でも愛というか優しさを持ち続けるという内容で、これって日本ナイズドされたキリスト教じゃね? と思ったけど、そういえば作中でも天宗した宣教師がそう言っていたっけ。
 キリスト教を扱っているし、翻訳されたらノーベル賞いけるんじゃないかとGoogle先生に問い合わせてみたら、やっぱりノーベル文学賞候補だった。っていうか『たそがれ清兵衛』の人だと勘違いしていた。あっちは藤沢周平。 
 ノーベル賞を取れなかったのはパリの文壇と関わらなかったからさ。と心のなかで冗談を言った。その後で、もしかすると日本のノーベル賞作家はパリの文壇に関係あるのか? と調べてみた。


まずは『雪国』の川端康成。時代が時代だけに彼はパリの文壇との関わりはない。しかし、カフェ・パリという店に通っていたそうだ。ちょっとだけパリに関係している。

大江健三郎はどうか? こちらもパリの文壇との関わりはないようだが、東大の仏文科を出ている。フランスといえばパリ。やっぱり少しだけパリに関係している。
 
それじゃあノーベル賞に近いと言われる村上春樹はどうか? ウィキペディアを読んでもそれっぽいエピソードはないし、Google先生でも出てこない。フランツ・カフカ賞は一文字違いでフランスになるけどチェコの文学賞。ということは村上春樹はノーベル文学賞を取れないということになる。

それじゃあ同じ村上でもドラゴン、龍の方はどうかと調べてみたが、こっちもダメ。しばらく日本からノーベル文学賞を取る作家は出てこないな、と思ったのも束の間、すぐにフランスに関係ある作家が思い浮かんだ。しかもパリに関係あり!それは・・・・

辻・仁・成


 『海峡の光』で芥川賞も取っている。騙されたと思って一度読んでみるといい。たぶん取るって思うはず。間違いない。いつになるか分からないが次に日本人でノーベル文学賞を取るのは辻仁成で決まり。今頃パリでは「ムッシュ・ツジは日本、いや世界最高の作家だ」と囁かれているに違いない。絶対に取る。もしブックメーカーで村上春樹と村上龍、どちらがノーベル文学賞取るかと出たら迷わず辻仁成を推すね。1万円つぎ込んでもいい。

今日は小説の中に出てくる方言について書こうと思っていたけれど、この衝撃的な事実に気づいたら、どうでも良くなってしまった。今日はもうこれでおしまい。

 (2016/06/29 21:12 牛野小雪 記)

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