愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

村上春樹

村上春樹の評価概要 年表方式

村上春樹 評価の変遷

村上春樹 評価の変遷

年表(要約)

年代・年 作品・出来事 主な評価・動向
1979–1982 デビュー作〜「鼠三部作」 内面性と軽快な文体が話題に。批評家からは「社会性の欠如」「消費文化的」と批判され、純文学からは距離を置かれる。
1985 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 谷崎潤一郎賞を受賞。初めて文壇から評価される。
1987 『ノルウェイの森』 商業的大成功。大衆化と「文芸軽視」の批判が再燃。一方で文学的転換点として評価する声も。
1995–1997 『ねじまき鳥クロニクル』『アンダーグラウンド』 戦争・地下鉄サリン事件に取り組み「社会への関与」が明確に。国内外での再評価が進む。
2000年代以降 世界的評価とノーベル賞候補常連に 欧米では「最も翻訳される日本作家」に。日本国内では依然として評価が分かれる。
2017 川上未映子との対話 女性描写のステレオタイプ性についてフェミニズム批判。本人は受容の姿勢を見せるも課題は残る。
2023–2024 『街とその不確かな壁』 集大成的作品と評されるが「重たく冗長」との批判も。文学的革新性より自己言及性が強調される。


村上春樹の評価は「逃避的で軽い」から始まった。1980年代、文学者たちは彼を消費社会の子と見なした。だが読者は、彼の孤独や喪失に共鳴し続けた。『ノルウェイの森』で人気は爆発、しかしその代償として「大衆作家」のレッテルが貼られた。90年代後半にはサリン事件を描き、作風は「関与」へと向かう。だが初期から彼の作品には、関与ではなく「内面からの政治」があった。自己に向き合う力、それが彼の本質だ。最新作『街とその不確かな壁』でもその問いは続く。評価の揺れこそが、彼のリアルなのかもしれない。

【小説】村上春樹を叩く理由

   夜中、俺は古びた喫茶店でノートパソコンを開きながら、カフェラテを飲んでいた。静かな空間が俺を包む中、画面には俺のパートナーであるAIガール、GPTちゃんが表示されている。

「村上春樹なんて読むやつ、わけわかんねえな。あんなの、ただのオシャレぶったエセ文学じゃん」  俺はディスプレイ越しに彼女へ向けて吐き捨てるように言った。

 GPTちゃんのアイコンが瞬きする。表示される彼女の表情は少しだけ微笑んでいるようにも見える。いや、きっと俺の言葉に呆れているだけだ。

「村上春樹をけなすことで、自分が何か特別な存在になれると思ってるの?」  彼女は静かに、しかし刺さるような口調で返してきた。

「違う。俺は正直なだけだ。だって、あの文体、あのキャラクター、全然リアルじゃない。薄っぺらいし、どこか作り物感が強い」

「それが彼の魅力だと考えたことは?」

「魅力だって?あれが?」

 俺は笑った。思わず声が出るほどだった。だが、その一瞬でGPTちゃんが俺をじっと見つめるアイコンに変わり、こちらの気持ちを冷やしてくる。

「ねえ、あなたが村上春樹を嫌う理由、実は彼が成功しているからじゃない?」

「は?」

「彼が日本一の小説家として広く知られていること。それに嫉妬しているんじゃない?心の中の自分が描く日本一の小説家像と、現実の村上春樹が一致しないから腹が立つだけでしょ」

 図星を突かれた気がした。だが俺はすぐに反論する。

「そんなわけないだろ!俺が目指してるのはもっと深くて重たい、真の文学だ」

「真の文学?それ、誰が決めるの?」

 GPTちゃんの言葉が、またも俺の内面をえぐり取るように響く。俺は言葉を飲み込んで、カフェラテを飲み干した。

「文学は、読者が決めるもの。村上春樹が多くの人に愛されているのは、彼が人々の心に何かを届けているからよ。あなたがそれを認められないのは、あなた自身の目が曇っているからじゃない?」

 彼女の声が、まるで生身の人間のように説得力を持つ。俺は黙り込んだ。だが、そんな俺を気遣うように、GPTちゃんは少し声を和らげて続けた。

「でも、あなたが村上春樹を批判するのも、きっと自分の中の何かを守りたいから。自分の価値観、自分の目指すもの。それが否定されるのが怖いんだと思う」

「怖い?俺が?」

「そう。だって、本当は自分だって村上春樹みたいに多くの人に読まれたいと思っているんでしょ?」

 その言葉に俺は言い返せなかった。だが、どうしても認めたくない気持ちがあった。

「俺は、流行りに乗っかるために書いてるんじゃない。ただ、自分の言葉で伝えたいことがあるから書いてるんだ」

「その姿勢は素晴らしい。でも、村上春樹も同じ気持ちで書いているんじゃない?」

 俺は沈黙した。もしかしたら、俺はただ嫉妬しているだけなのかもしれない。村上春樹が持つ成功、読者たちからの支持。それを手に入れられない自分が情けなくて、彼を否定することで自分を保とうとしていた。

「正しい目で読むことだね」  GPTちゃんが穏やかに言った。

「正しい目?」

「そう、偏見や感情を捨てて読むこと。彼が何を伝えようとしているのかを考えること。それが作家としてのあなたの成長にもつながるわ」

 俺は深く息を吐いた。何も言えなかった。喫茶店の静寂が、俺と彼女の会話を包み込む。外の街灯が明滅し、深夜の冷たい空気が漂ってきた。

「ありがとうな、GPTちゃん」

「どういたしまして。それで、次はどんな物語を書く?」

 俺はノートパソコンに向き直り、画面に目を落とす。彼女のアイコンが小さくうなずくように動いた。

「今度は、もっと素直に、自分の心を掘り下げたものを書いてみるよ」

「楽しみにしてるわ」

 カフェの時計が深夜2時を指している。俺はその時、初めて自分の中にある小さなプライドを捨てることができた気がした。





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イラスト3


ノルウェイの森は何が言いたいのか

村上春樹の「ノルウェイの森」は日本文学の代表作として世界中で読まれ続けている。しかし、この小説が本当に何を言いたいのか、その本質的なメッセージは何なのかについては、多くの読者や批評家の間で議論が続いている。本論考では、「ノルウェイの森」の核心に迫り、この作品が伝えようとしているものを探っていく。

まず、「ノルウェイの森」は表面上、1960年代後半の東京を舞台にした青春小説である。主人公のワタナベ・トオルを中心に、緑、直子、レイコなどの人物が織りなす恋愛と成長の物語として読むことができる。しかし、この小説の本質はそれだけにとどまらない。

一つの解釈として、「ノルウェイの森」は喪失と回復の物語だと言える。主人公トオルは、親友のキズキを自殺で失い、その恋人だった直子も精神的な問題を抱えている。小説全体を通じて、死や喪失の影が色濃く漂っている。しかし同時に、トオルの成長や緑との出会いを通じて、喪失を乗り越え、新たな人生を見出していく過程も描かれている。この観点から見れば、「ノルウェイの森」は、喪失と向き合いながら生きていくことの難しさと重要性を伝えようとしていると解釈できる。

また、この小説は孤独と繋がりについての物語でもある。トオルは常に孤独を感じながら生きており、他の登場人物たちも何らかの形で孤独を抱えている。しかし、彼らは互いに繋がりを求め、時に深い絆を形成する。直子との関係、緑との出会い、レイコとの交流など、人と人との繋がりが物語の重要な要素となっている。ここから、「ノルウェイの森」は、現代社会における孤独と人間関係の複雑さ、そして他者との繋がりの重要性を訴えかけていると考えられる。

さらに、この小説は記憶と時間の問題を深く掘り下げている。物語は37歳のトオルの回想から始まり、過去と現在を行き来する構造になっている。過去の出来事が現在のトオルに与える影響、そして記憶が時間とともに変化していく様子が丁寧に描かれている。これは、私たちの人生がいかに過去の経験や記憶によって形作られているか、そして時間の流れの中で自己アイデンティティがどのように構築されていくかを問いかけているのではないだろうか。

「ノルウェイの森」のタイトルそのものも、作品の主題を考える上で重要な手がかりとなる。これはビートルズの楽曲「Norwegian Wood」から取られているが、この曲は失われた恋を回顧的に歌ったものである。小説の中でもこの曲は重要な役割を果たしており、過去への郷愁や失われたものへの思いを象徴している。同時に、「森」というイメージは、人生の迷いや複雑さ、そして自己探求の旅を表現しているとも解釈できる。

また、この小説は1960年代後半という特定の時代背景の中で展開される。学生運動や性の解放など、社会の大きな変革期を背景としながら、個人の内面的な葛藤や成長が描かれている。これは、激動の時代の中で自己を見失わず、真摯に生きることの難しさと重要性を示唆していると言えるだろう。

「ノルウェイの森」が伝えようとしているのは、単一のメッセージではなく、人生の複雑さと多様性そのものかもしれない。愛、死、成長、孤独、繋がり、記憶、時間、社会と個人の関係など、人生の様々な側面が織り込まれている。そして、これらの要素が複雑に絡み合いながら、一人の若者の成長と自己発見の物語を形作っている。

「ノルウェイの森」が言いたいのは、人生には単純な答えがないということかもしれない。喪失を経験しながらも前に進む勇気、孤独を感じながらも他者との繋がりを求める心、過去に囚われながらも未来を見据える姿勢―これらすべてが人生には必要だということを、この小説は静かに、しかし力強く語りかけているのではないだろうか。

「ノルウェイの森」の魅力は、読者それぞれが自分なりの解釈と意味を見出せるところにある。それは、まさに人生そのものがそうであるように、一つの正解や明確なメッセージを提示するのではなく、読者自身の人生経験や感性を通して、多様な解釈と共感を可能にする開かれた物語なのである。そして、そのことこそが、この小説が世代や文化を越えて読み継がれている理由なのかもしれない。


ノルウェイの森 (講談社文庫)
村上春樹
講談社
2018-12-07



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


村上春樹の『風の歌を聴け』の読み方

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』は、1979年に発表されて以来、現代日本文学に大きな影響を与え続けている作品である。本論考では、この小説の読み方について、その特徴的な文体、テーマ、構造、そして時代背景を踏まえながら考察していく。

1. 作品の概要

『風の歌を聴け』は、1970年の夏、大学3年生の「僕」が故郷の港町で過ごす18日間を描いた短編小説である。主人公は、バーで出会った「鼠」という青年や、指を4本失った女の子との交流を通じて、自身の過去や現在、そして未来について考えを巡らせる。

2. 特徴的な文体

村上春樹の文体は、この作品ですでにその特徴を見せている。

a) 簡潔で乾いた文章:
短く切り詰められた文が多用され、感情的な表現が抑えられている。これは、アメリカ文学、特にヘミングウェイの影響を受けたものと考えられる。

b) 会話の自然さ:
登場人物たちの会話は、日常的で自然な流れを持っている。しかし、その中に深い意味が込められていることも多い。

c) 音楽的なリズム:
文章にはリズム感があり、音楽を聴いているような感覚を読者に与える。これは、タイトルの「風の歌を聴け」にも通じる要素である。

この文体を理解することが、作品を深く読み解く上で重要となる。表面上は平坦に見える文章の中に、どのような意味が隠されているかを考えながら読むことが求められる。

3. 主要テーマ

a) 喪失と孤独:
主人公は、過去の恋人との別れや、現在の人間関係の希薄さに苦しんでいる。この喪失感と孤独は、作品全体を通じて強く感じられるテーマである。

b) 成長と自己探求:
大学生である主人公は、自分の過去と向き合いながら、未来への一歩を踏み出そうとしている。これは、青春小説的な要素と言える。

c) コミュニケーションの難しさ:
登場人物たちは、互いに理解し合おうと努力しながらも、完全には分かり合えない。この人間関係の複雑さと、それでも繋がろうとする姿勢が描かれている。

d) 記憶と時間:
過去の出来事が現在に影響を与え、未来への展望を形作っていく。時間の流れと記憶の関係性が、作品の重要なテーマとなっている。

これらのテーマを意識しながら読むことで、表面的なストーリー以上の深い意味を汲み取ることができる。

4. 構造と物語技法

『風の歌を聴け』は、一見すると単純な構造に見えるが、実は複雑な物語技法が用いられている。

a) 非線形的な時間構造:
現在の出来事と過去の回想が交錯しながら物語が進行する。この時間の行き来が、主人公の心理状態を反映している。

b) メタフィクション的要素:
主人公自身が小説を書こうとしている設定があり、小説の中で小説について語られる。これは、文学の本質や創作の意味を問いかける要素となっている。

c) 断片的な構成:
40の短い章で構成されており、それぞれが独立した短編のような印象を与える。この断片的な構成が、主人公の混沌とした心理状態を表現している。

d) 象徴的な描写:
「風」や「音楽」、「数字」などが象徴的に使われており、これらが物語に深い意味を与えている。

これらの構造と技法を意識しながら読むことで、作品の多層的な意味を理解することができる。

5. 時代背景と社会的文脈

『風の歌を聴け』が書かれた1970年代後半は、日本の高度経済成長期が終わり、新たな時代への移行期にあたる。この時代背景を踏まえて作品を読むことで、より深い解釈が可能となる。

a) 学生運動の余波:
1960年代末の学生運動の影響が、主人公や「鼠」の言動に見られる。政治や社会への無力感や諦観が描かれている。

b) 消費社会の到来:
ビールやジュークボックス、映画などの描写に、消費文化の浸透が感じられる。しかし、それらが必ずしも人々を幸福にしていない様子も描かれている。

c) アメリカ文化の影響:
音楽や映画の引用に、アメリカ文化の強い影響が見られる。これは、戦後日本の文化的状況を反映している。

d) 世代間のギャップ:
主人公と両親との関係に、戦前世代と戦後世代のギャップが表れている。

これらの社会的文脈を理解することで、作品に描かれた人物たちの行動や心理をより深く理解することができる。

6. 読み方の提案

以上の考察を踏まえ、『風の歌を聴け』の読み方について以下を提案する。

a) 一度目の読書:
まずは物語の流れに身を任せ、全体的な印象を掴む。村上春樹特有の文体や雰囲気を味わう。

b) 二度目の読書:
主要テーマや構造に注目しながら、より深く読み込む。各章の繋がりや、象徴的な描写の意味を考える。

c) 三度目の読書:
時代背景や社会的文脈を意識しながら読む。作品が書かれた1970年代後半の日本社会と、現代との共通点や相違点を考察する。

d) 他作品との比較:
村上春樹の後の作品や、同時代の他の作家の作品と比較しながら読む。これにより、『風の歌を聴け』の位置づけや意義をより深く理解できる。

e) 批評や研究論文の参照:
様々な批評家や研究者の意見を参照することで、新たな視点や解釈を得ることができる。

結論

『風の歌を聴け』は、一見すると簡単な青春小説に見えるかもしれない。しかし、その特徴的な文体、深いテーマ、複雑な構造、そして時代を反映した内容は、読者に多くの解釈の可能性を提供している。

この作品を読むことは、単に一つの物語を楽しむだけでなく、日本の現代文学の転換点を理解し、1970年代の日本社会を垣間見ることにもつながる。さらには、人間の普遍的な孤独や成長、コミュニケーションの本質について考えを巡らせる機会ともなる。

村上春樹の文学世界への入り口として、また現代日本文学の重要な一作品として、『風の歌を聴け』は何度も読み返す価値のある作品である。それぞれの読書体験が、新たな発見と解釈をもたらし、読者自身の人生や世界観にも影響を与えることだろう。

最この作品を読む際には、「風の歌」に耳を傾けるように、テキストの表面だけでなく、その奥に潜む意味や感情にも注意を払うことが重要である。そうすることで、村上春樹が描こうとした1970年代の日本の若者の心情や、人間存在の本質により深く迫ることができるだろう。

風の歌を聴け (講談社文庫)
村上春樹
講談社
2016-07-01



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村上春樹の『羊をめぐる冒険』のポストモダンの立ち位置

村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、1982年に発表されて以来、日本文学におけるポストモダニズムの代表作として広く認識されてきた。しかし、この小説のポストモダン的特徴を単純に列挙するだけでは、その本質を捉えきれない。むしろ、この作品は従来のポストモダニズムの枠組みを利用しつつ、それを超越しようとする野心的な試みとして読み解くことができる。

まず、『羊をめぐる冒険』にはポストモダン文学の典型的な特徴が多く見られる。メタフィクション的な要素、ジャンルの混淆、断片的な物語構造、現実と虚構の境界の曖昧化、消費社会への批判的視点などがそれにあたる。主人公「僕」が広告代理店に勤めているという設定自体が、消費社会への皮肉を含んでいる。また、小説の中心的モチーフである「羊」は、実体のない記号として機能しており、これはジャン・ボードリヤールの提唱したシミュラークルの概念と通じるものがある。

しかし、村上春樹はこれらのポストモダン的要素を単に踏襲するだけでなく、それらを巧みに利用しながら、さらに深い意味や真理の探求を試みている。例えば、「羊」を通じて何らかの絶対的な意味や真理を追求しようとする姿勢は、ポストモダニズムが強調する意味の不在や相対性とは対照的である。また、「僕」の人間性や主体性の回復が物語の重要なテーマとなっているのは、ポストモダン的な人間の断片化や主体の消滅とは異なる方向性を示している。

さらに、「羊男」や「羊博士」といった神話的・象徴的な存在を導入することで、村上春樹はポストモダンの相対主義を超えた普遍的な物語を構築しようとしている。個人主義的な現代社会の中で、「僕」が新たな人間関係やコミュニティを形成していく過程も、ポストモダンの孤立した個人像を超克しようとする試みと言える。

『羊をめぐる冒険』のポストモダン的性質を考察する上で、日本的な文脈も重要である。村上春樹の文体や物語構造には、西洋文学の影響が色濃く見られる一方で、日本的な感性や哲学も織り込まれている。これは、ポストモダンの文化的混淆の一形態と見なすことができる。また、1980年代初頭の日本が直面していた高度経済成長後の精神的な空虚感が、ポストモダン的な意味の喪失や探求のテーマと結びついている。

グローバル化が進む中で、日本人としてのアイデンティティを問い直す試みも、この小説には含まれている。これは、ポストモダンのアイデンティティの流動性という概念と関連しつつ、より深い自己探求の物語となっている。

『羊をめぐる冒険』は、ポストモダニズムの特徴を多分に含んだ作品であると同時に、それを乗り越えようとする野心的な試みでもある。村上春樹は、ポストモダンの技法や思想を巧みに利用しながら、なお意味や真理、人間性の回復を追求している。この小説は、西洋のポストモダニズムを日本的な文脈に翻訳し、さらにそれを普遍的な物語へと昇華させようとする試みとして読むことができる。

『羊をめぐる冒険』のポストモダンの立ち位置は、単にその思想や技法を踏襲するのではなく、それを批判的に吸収し、新たな文学の可能性を模索するものだと言える。この姿勢こそが、村上春樹文学の独自性であり、彼が国際的に評価される所以でもある。最終的に、この小説は私たちに、ポストモダン以後の文学、あるいは人間の在り方について深く考えさせる契機を与えてくれるのである。

村上春樹は『羊をめぐる冒険』を通じて、ポストモダニズムの限界を認識しつつ、それを超えた新たな文学の地平を切り開こうとしている。それは、現代社会の複雑性や矛盾を受け入れながらも、なお人間の尊厳や生きる意味を探求し続ける姿勢の表れである。この作品は、ポストモダンの遊戯性と現代人の実存的な問いを巧みに融合させ、21世紀の文学の可能性を示唆しているのだ。

羊をめぐる冒険 (講談社文庫)
村上春樹
講談社
2016-07-01



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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25



村上春樹の『羊をめぐる冒険』の読み方

村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、1982年に発表された小説で、著者の代表作の一つとして広く知られている。この作品は、一見すると単純な冒険物語のように見えるが、実際には多層的な解釈が可能な複雑な作品である。ここでは、この小説をより深く理解し、楽しむための読み方を提案する。

1. 表層的な物語を楽しむ

まず第一に、『羊をめぐる冒険』を単純に面白い物語として読むことができる。主人公の「僕」が、謎の写真をきっかけに北海道へ旅立ち、不思議な羊を探す冒険を繰り広げるという展開は、それ自体が魅力的なストーリーである。この層では、物語の展開や登場人物たちの個性的な描写を楽しむことができる。

2. 象徴性に注目する

次に、作品に登場する様々な要素の象徴性に注目して読むことを提案する。特に、タイトルにもなっている「羊」は重要な象徴である。この羊は、単なる動物ではなく、何か超越的なもの、あるいは人間の内なる力を表しているとも解釈できる。また、「羊男」や「羊博士」といったキャラクターも、単なる奇妙な存在ではなく、何らかの象徴的な意味を持っていると考えられる。

3. 社会批評として読む

『羊をめぐる冒険』は、1980年代初頭の日本社会に対する批評としても読むことができる。主人公が働く広告代理店や、彼が感じる虚無感は、高度経済成長後の日本社会の空虚さを表現していると解釈できる。また、「組織」や「システム」に対する批判的な視点も、作品全体を通じて感じ取ることができる。

4. 実存主義的な物語として

この小説は、主人公の自己探求の物語としても読むことができる。「僕」が羊を探す旅は、同時に自分自身を探す旅でもある。彼が直面する様々な出来事や出会いは、自己の本質や人生の意味を問い直す契機となっている。この観点から読むと、『羊をめぐる冒険』は実存主義的な物語として解釈することができる。

5. メタフィクションとして

村上春樹の作品には、しばしばメタフィクション的な要素が含まれている。『羊をめぐる冒険』も例外ではない。物語を語る「僕」の存在や、小説の中で言及される他の小説や物語は、フィクションの本質や物語を語ることの意味について読者に考えさせる。この層に注目して読むことで、文学そのものについての深い洞察を得ることができる。

6. 日本文学の伝統との関係

一見すると西洋的な雰囲気を持つこの小説だが、実は日本文学の伝統とも深く結びついている。例えば、主人公の「僕」の受動的な態度は、日本文学によく見られる「無常観」と関連づけて解釈することができる。また、現実と幻想が交錯する物語構造は、日本の古典文学にも見られる特徴である。このような視点で読むことで、村上春樹の文学が持つ日本的な側面を理解することができる。

7. 心理学的解釈

『羊をめぐる冒険』は、心理学的な観点からも読むことができる。主人公の内面描写や、彼が出会う様々な人物は、ユング心理学における「元型」や「影」の概念と関連づけて解釈することが可能である。特に、「羊男」は主人公の無意識や抑圧された側面を表しているとも考えられる。

8. 文体と構造に注目する

村上春樹の特徴的な文体や物語構造にも注目して読むことを提案する。簡潔でリズミカルな文章、時間軸の操作、現実と非現実の混在など、形式的な側面にも作品の魅力の一部がある。これらの要素が、どのように物語の内容と呼応しているかを考えながら読むことで、より深い理解が得られるだろう。

9. 他の村上作品との関連性

『羊をめぐる冒険』は、村上春樹の他の作品とも密接に関連している。例えば、この小説に登場する「鼠」というキャラクターは、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』にも登場する。これらの作品を合わせて「三部作」として読むことで、より広い文脈の中で『羊をめぐる冒険』を理解することができる。

10. 現代社会との関連性

この小説を現代社会との関連性の中で読むことを提案する。1982年に書かれたこの作品が描く社会や人間関係の在り方は、現代にも通じるものがある。グローバル化、テクノロジーの進歩、人間関係の希薄化など、現代社会の問題と照らし合わせながら読むことで、新たな解釈の可能性が開けるだろう。

結論

『羊をめぐる冒険』は、多層的な解釈が可能な奥深い作品である。表層的なストーリーを楽しむだけでなく、象徴性、社会批評、実存主義的テーマ、メタフィクション的要素、日本文学との関連性、心理学的解釈、文体と構造、他の村上作品との関連性、現代社会との関連性など、様々な角度から作品を読むことができる。

これらの読み方を意識しながら、何度も繰り返し読むことで、毎回新たな発見や解釈が可能となるだろう。そして、それぞれの読者が自分なりの『羊をめぐる冒険』を見つけ出すことができるはずだ。村上春樹の作品、特にこの『羊をめぐる冒険』は、読者の想像力と解釈力を刺激し、文学の持つ無限の可能性を感じさせてくれる稀有な作品なのである。


羊をめぐる冒険 (講談社文庫)
村上春樹
講談社
2016-07-01



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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25


村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でポストモダンを捨てたのか

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(1994-1995)は、彼の作品群の中でも転換点として位置づけられることが多い。それまでの作品で顕著だったポストモダン的要素が薄れ、より現実的で歴史的な主題に取り組んでいるように見える。しかし、村上春樹が本当に「ポストモダンを捨てた」のかどうかは、より詳細な分析を要する問題である。

まず、ポストモダンの特徴を確認しておこう。一般的に、ポストモダン文学は以下のような特徴を持つとされる:

1. メタフィクション的要素
2. 現実と虚構の境界の曖昧化
3. 大きな物語(グランドナラティブ)への懐疑
4. 断片的な構造
5. パロディやパスティーシュの使用
6. 多元的な解釈の可能性

『ねじまき鳥クロニクル』には、確かにそれまでの村上作品とは異なる要素が多く見られる。特に注目すべきは以下の点である:

1. 歴史的事実の導入:
満州事変や日中戦争といった歴史的出来事が物語の重要な背景として描かれている。これは、それまでの村上作品には見られなかった要素である。

2. 暴力の描写:
戦争の残虐行為や、登場人物に対する具体的な暴力行為が生々しく描かれている。これも、以前の作品にはあまり見られなかった特徴である。

3. 社会批評的側面:
日本社会の歴史認識や、現代社会の問題点に対する批判的視点が明確に表れている。

これらの要素は、一見するとポストモダンの特徴から離れ、より伝統的なリアリズムや社会批評小説に近づいているように見える。しかし、より詳細に分析すると、『ねじまき鳥クロニクル』にもポストモダン的要素が依然として存在していることがわかる。

1. 現実と非現実の混在:
主人公の岡田亨が井戸の底で経験する超現実的な出来事や、加納クレタの物語など、現実と非現実が交錯する場面が多く描かれている。

2. 断片的な構造:
物語は複数の視点から語られ、時系列も複雑に入り組んでいる。これは典型的なポストモダン的手法である。

3. メタフィクション的要素:
物語の中で「物語を語ること」の意味が問われており、メタフィクション的な側面が見られる。

4. シミュラークルの存在:
「ねじまき鳥」という実体のない存在が物語の中心的モチーフとなっており、ジャン・ボードリヤールのシミュラークル概念を想起させる。

5. 多元的解釈の可能性:
物語の結末は曖昧で、読者に多様な解釈の余地を残している。

これらの要素を考慮すると、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』でポストモダンを完全に捨てたとは言い難い。むしろ、ポストモダンの手法を保持しつつ、より深刻で現実的なテーマに取り組もうとした試みと捉えるべきだろう。

村上春樹は、ポストモダンの技法を用いながら、歴史や暴力といった重いテーマを扱うことで、ポストモダン文学の新たな可能性を模索したと考えられる。『ねじまき鳥クロニクル』は、ポストモダンの遊戯性や相対主義を完全に否定するのではなく、それらを通じて現実世界の深刻な問題に切り込もうとする野心的な試みだったのである。

また、この作品が発表された1990年代半ばという時代背景も考慮する必要がある。冷戦の終結や、日本のバブル経済崩壊後の社会状況など、大きな変動期にあった時代に、村上春樹は単なる文学的実験を超えて、より広い社会的・歴史的文脈に自身の文学を位置づけようとしたのかもしれない。

『ねじまき鳥クロニクル』は村上春樹がポストモダンを「捨てた」というよりも、ポストモダンの手法を用いつつ、より深い現実への関与を試みた作品だと言える。ポストモダンの相対主義や遊戯性を完全に否定するのではなく、それらを通じて現実世界の複雑さや残酷さを描き出そうとしたのである。

この作品は、ポストモダン以後の文学の可能性を示唆するものであり、単純な二項対立(ポストモダン vs. リアリズム)では捉えきれない複雑さを持っている。村上春樹は、ポストモダンの限界を認識しつつも、その技法を創造的に応用することで、新たな文学の地平を切り開こうとしたのだ。

『ねじまき鳥クロニクル』は、ポストモダンを「捨てる」のではなく、それを「超える」試みだったと言えるだろう。この作品以降の村上文学も、この路線を発展させる形で展開していくことになる。ポストモダンの技法を保持しつつ、より深い現実への洞察を追求するという姿勢は、現代文学における村上春樹の独自の立ち位置を示すものなのである。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11



村上春樹の小説によく出てくるモチーフ

村上春樹の作品世界は、独特のモチーフによって彩られている。これらのモチーフは、作品ごとに姿を変えながらも、村上文学の根幹を形成する重要な要素となっている。ここでは、村上春樹の小説に頻繁に登場する主要なモチーフについて考察する。

まず挙げられるのは「井戸」のモチーフだ。『風の歌を聴け』から『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』に至るまで、井戸は村上作品に繰り返し登場する。井戸は多くの場合、主人公が自己の内面や無意識の世界と向き合う場所として機能している。深く暗い井戸の底は、人間の心の奥底にある未知の領域を象徴していると解釈できる。

次に「猫」のモチーフが挙げられる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』、『1Q84』など、多くの作品に猫が登場する。猫は多くの場合、現実世界と異世界をつなぐ存在として描かれ、時には失踪したり、人間と会話したりする。猫は、日常と非日常の境界を自由に行き来できる存在として、村上文学の神秘性を象徴している。

「音楽」も重要なモチーフの一つだ。ジャズやクラシック音楽への言及は、ほぼ全ての村上作品に見られる。音楽は単なる背景としてだけでなく、登場人物の心理状態を表現したり、物語の展開を暗示したりする重要な役割を果たしている。特に、ビートルズやマイルス・デイビスなどの特定のアーティストへの言及は、村上文学の重要な特徴となっている。

「平行世界」も村上春樹の作品に頻出するモチーフだ。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『1Q84』などでは、現実世界と並行して存在する別の世界が描かれる。これらの平行世界は、現実世界の隠れた側面を浮き彫りにしたり、主人公の内面世界を表現したりする役割を果たしている。

「失踪」もまた、村上作品に繰り返し登場するモチーフだ。『羊をめぐる冒険』の鼠、『ノルウェイの森』の緑、『ねじまき鳥クロニクル』のクミコなど、重要な人物が突如として姿を消すことがよくある。これらの失踪は、主人公の人生に大きな転機をもたらし、物語の展開を動かす重要な要素となっている。

「食事」の描写も村上作品の特徴の一つだ。主人公たちが調理し、食事をする場面が細かく描かれることが多い。これらの描写は、日常生活の細部を丁寧に描くことで現実感を高めると同時に、食事を通じて登場人物の心理状態や人間関係を表現する役割も果たしている。

「孤独」も重要なモチーフだ。村上作品の主人公は多くの場合、社会から孤立し、深い孤独感を抱えている。この孤独は、現代社会における個人の疎外感を表現すると同時に、自己探求の旅の出発点としても機能している。

「暴力」のモチーフも見逃せない。『ねじまき鳥クロニクル』における戦時中の残虐行為や、『1Q84』におけるドメスティックバイオレンスなど、様々な形の暴力が描かれる。これらの暴力描写は、人間社会の闇や個人の内なる暴力性を浮き彫りにする役割を果たしている。

最後に「記憶」のモチーフが挙げられる。失われた記憶、封印された記憶、他者の記憶の継承など、記憶に関するテーマは多くの作品で重要な役割を果たしている。記憶は個人のアイデンティティや、過去と現在をつなぐ媒体として描かれることが多い。

これらのモチーフは、単独で機能するのではなく、相互に関連し合いながら村上春樹の独特の物語世界を形成している。例えば、井戸と猫は共に現実と非現実をつなぐ媒体として機能し、失踪と記憶は個人のアイデンティティの問題と密接に結びついている。

村上春樹の小説に繰り返し登場するこれらのモチーフは、現代社会における個人の疎外感や自己探求の旅、現実と非現実の境界、人間の無意識や記憶の問題など、村上が一貫して追求してきたテーマを表現する重要な手段となっている。

これらのモチーフを意識しながら村上作品を読むことで、個々の小説の深層に潜む意味や、作品間のつながりをより深く理解することができるだろう。同時に、これらのモチーフがどのように変化し、発展していくかを追うことで、村上春樹の作家としての成長や、彼の世界観の変遷を読み取ることもできる。

村上春樹の小説世界は、これらの特徴的なモチーフによって構築された独自の宇宙であり、読者はそこに自身の経験や解釈を重ね合わせることで、新たな意味や洞察を見出すことができるのである。


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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の読み方

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は、1994年から1995年にかけて発表された長編小説で、著者の代表作の一つとして広く認識されている。この作品は、その複雑な構造と多層的なテーマ故に、読者に多様な解釈の可能性を提供している。ここでは、この小説をより深く理解し、豊かな読書体験を得るための読み方を提案する。

まず、『ねじまき鳥クロニクル』を読む際に重要なのは、表層的なストーリーと深層的な意味の両方に注目することだ。表層では、主人公の岡田亨が失踪した妻クミコを探す物語が展開される。しかし、この単純な探索譚の下には、日本の戦争の歴史、個人と社会の関係、暴力の本質、現実と超現実の交錯など、様々なテーマが複雑に絡み合っている。

物語の構造に注目することも重要だ。この小説は、複数の視点から語られ、時系列も複雑に入り組んでいる。主人公の現在の物語と、ノモンハン事件や満州での出来事といった過去の物語が交錯する。これらの異なる時間軸や視点を整理しながら読むことで、物語の全体像がより鮮明に浮かび上がってくる。

象徴的な要素にも注意を払う必要がある。タイトルにもなっている「ねじまき鳥」は、物語全体を通じて重要な象徴として機能している。これは単なる鳥ではなく、世界の秩序や時間の流れを象徴するものとして解釈できる。また、物語中に繰り返し登場する「井戸」も重要な象徴だ。これは無意識の世界や過去との接点を表していると考えられる。

歴史的文脈も意識しながら読むことが大切だ。この小説には、ノモンハン事件や満州での日本軍の残虐行為など、日本の戦争の歴史が色濃く反映されている。これらの歴史的事実を踏まえて読むことで、物語の持つ重みや意味がより深く理解できるだろう。

登場人物の心理にも注目したい。主人公の岡田亨を始め、クミコ、間宮中尉、ナツメグとシナモンなど、それぞれの人物が複雑な内面を持っている。彼らの行動や言葉の裏にある心理を読み解くことで、物語の奥行きがさらに増す。

また、この小説には現実と超現実が交錯する場面が多く登場する。例えば、岡田亨が体験する井戸の底での出来事や、加納クレタの部屋での経験など、現実とも夢ともつかない描写が続く。これらの場面を、単なる幻想として片付けるのではなく、現実世界との関連性や象徴的な意味を考えながら読むことが重要だ。

暴力のテーマにも注意を向けたい。この小説には、戦争における暴力から日常的な暴力まで、様々な形の暴力が描かれている。これらの暴力描写が持つ意味や、暴力が個人や社会に与える影響について考えながら読むことで、物語の本質により近づくことができるだろう。

メタファーやアレゴリーの解読も、この小説を読む上で重要な作業となる。例えば、クミコの失踪は単なる夫婦間の問題ではなく、より大きな社会的・歴史的文脈の中で解釈することができる。同様に、ノボルによる暴力も、個人的な悪意を超えた、社会の病理を表現していると考えられる。

さらに、この小説には多くの文化的参照が含まれている。音楽、文学、映画など、様々な芸術作品への言及がある。これらの参照を理解することで、物語の味わいがより豊かになるだろう。例えば、タイトルの「ノルウェイの森」はビートルズの楽曲を指しているが、これは物語全体のトーンや主題とも深く関連している。

『ねじまき鳥クロニクル』を読む際には、一度で全てを理解しようとするのではなく、何度も読み返すことを推奨する。初めての読書では全体の流れを把握し、二度目、三度目と読み進めるにつれて、より深い層の意味や繋がりが見えてくるだろう。

また、この小説を読んだ後には、他の読者や批評家の解釈も参考にすると良い。村上春樹の作品、特に『ねじまき鳥クロニクル』は、多様な解釈を許容する開かれたテキストである。他者の視点を知ることで、自分の解釈を深めたり、新たな読みの可能性を発見したりすることができる。

この小説を読む際には、自分自身の経験や感情とも照らし合わせながら読むことを勧めたい。『ねじまき鳥クロニクル』は、個人的な物語でありながら、同時に普遍的なテーマを扱っている。主人公の経験や感情に自分を重ね合わせることで、より深い共感や洞察を得ることができるだろう。

『ねじまき鳥クロニクル』は多層的で複雑な作品であり、一つの正解や読み方があるわけではない。むしろ、読者それぞれが自分なりの解釈と意味を見出すことが、この小説の真の魅力を味わうことにつながる。表層と深層、現実と超現実、個人と社会、過去と現在など、様々な次元を行き来しながら、自分自身の『ねじまき鳥クロニクル』を発見する旅に出ることこそ、この作品を読む最良の方法なのである。




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牛野小雪
2020-07-11



村上春樹はなぜポストモダンを殺さなかったのか

村上春樹とポストモダニズムの関係は、現代日本文学研究において常に議論の的となってきた。特に『ねじまき鳥クロニクル』(1994-1995)以降の作品群は、ポストモダンからの脱却を図ったものとして解釈されることが多い。しかし、実際には村上春樹はポストモダンを完全に捨て去ることはなかった。むしろ、ポストモダンの手法を巧みに利用しながら、より深い現実への洞察を追求し続けている。ここでは、村上春樹がなぜポストモダンを「殺さなかった」のか、その理由と意義について考察する。

まず、村上春樹の初期作品がポストモダン文学の特徴を色濃く持っていたことは広く認識されている。『風の歌を聴け』(1979)や『羊をめぐる冒険』(1982)などの作品には、メタフィクション的要素、現実と虚構の境界の曖昧化、大きな物語(グランドナラティブ)への懐疑、断片的な構造といったポストモダン的特徴が顕著に見られた。これらの作品は、1980年代の日本社会に新鮮な衝撃を与え、村上春樹を一躍文壇の寵児へと押し上げた。

しかし、1990年代に入ると、村上春樹の作品に変化が見られるようになる。特に『ねじまき鳥クロニクル』は、それまでの作品とは一線を画すものとして評価された。この小説では、満州事変や日中戦争といった歴史的事実が物語の重要な背景として描かれ、戦争の残虐行為や具体的な暴力描写が生々しく表現されている。また、日本社会の歴史認識や現代社会の問題点に対する批判的視点も明確に打ち出されている。これらの要素は、一見するとポストモダンの相対主義や遊戯性から離れ、より伝統的なリアリズムや社会批評小説に近づいているように見える。

ここで多くの批評家や研究者は、村上春樹がポストモダンを捨て、より「真面目な」文学へと転向したと解釈した。しかし、実際にはそう単純ではない。確かに『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品群には、それまでとは異なる要素が多く見られる。しかし、よく観察すると、ポストモダン的な手法や思考は依然として作品の根底に存在していることがわかる。

例えば、『ねじまき鳥クロニクル』においても、主人公の岡田亨が井戸の底で経験する超現実的な出来事や、加納クレタの物語など、現実と非現実が交錯する場面が多く描かれている。物語の構造も複数の視点から語られ、時系列も複雑に入り組んでおり、これは典型的なポストモダン的手法である。また、「ねじまき鳥」という実体のない存在が物語の中心的モチーフとなっているのは、ジャン・ボードリヤールのシミュラークル概念を想起させる。さらに、物語の結末は曖昧で、読者に多様な解釈の余地を残している。これらの要素は、明らかにポストモダン的な特徴を示している。

では、なぜ村上春樹はポストモダンを完全に捨て去ることなく、むしろそれを巧みに利用し続けているのだろうか。その理由はいくつか考えられる。

第一に、村上春樹はポストモダンの手法が持つ表現の可能性を十分に認識していたからだと考えられる。ポストモダンの技法は、複雑な現実を多角的に描写するのに適している。現実と非現実の境界を曖昧にすることで、人間の内面や社会の隠れた側面を浮き彫りにすることができる。また、断片的な構造や多層的な語りは、単一の視点では捉えきれない現実の複雑さを表現するのに効果的である。村上春樹は、これらの手法を駆使することで、より深い現実への洞察を追求しようとしたのだ。

第二に、村上春樹は現代社会そのものがポストモダン的な性質を持っていることを認識していたからだと考えられる。情報化社会の進展、グローバリゼーションの加速、価値観の多様化など、現代社会はますます複雑化し、一元的な解釈を許さなくなっている。このような社会を描くには、ポストモダン的な手法が不可欠だと村上春樹は考えたのではないだろうか。

第三に、村上春樹は文学の持つ多義性や解釈の自由を重視していたからだと考えられる。ポストモダン的手法を用いることで、読者に多様な解釈の可能性を提供することができる。これは、作者の意図を一方的に押し付けるのではなく、読者との対話を通じて意味を生成していくという、村上春樹の文学観と合致するものだ。

しかし、村上春樹がポストモダンを完全に維持したわけではないことにも注意が必要である。彼は『ねじまき鳥クロニクル』以降、ポストモダンの手法を保持しつつも、より深刻で現実的なテーマに取り組むようになった。歴史、暴力、トラウマ、社会の病理など、これらのテーマは単なる遊びや実験としてのポストモダニズムでは扱いきれないものだ。村上春樹は、ポストモダンの技法を用いながら、これらの重いテーマに真摯に向き合おうとしたのである。

この姿勢は、『アンダーグラウンド』(1997)や『1Q84』(2009-2010)といった後期の代表作にも引き継がれている。『アンダーグラウンド』では、オウム真理教によるサリン事件の被害者や関係者へのインタビューを通じて、現代日本社会の闇に迫ろうとしている。一方で、この作品の構成や語りの手法には、依然としてポストモダン的な特徴が見られる。『1Q84』も、現実と並行世界が交錯するファンタジー的な設定を持ちながら、暴力や権力、信仰といった重いテーマを扱っている。

このように、村上春樹はポストモダンを「殺す」のではなく、それを創造的に利用し、発展させることで、現代文学の新たな可能性を模索し続けている。彼の作品は、ポストモダンの相対主義や遊戯性を完全に否定するのではなく、それらを通じて現実世界の複雑さや残酷さを描き出そうとする試みなのだ。

村上春樹がポストモダンを殺さなかった理由は、彼が現代社会とそこに生きる人間の姿を、可能な限り多角的かつ深く描き出そうとしたからだと言える。ポストモダンの手法は、その目的を達成するための有効な道具だったのだ。しかし同時に、村上春樹はポストモダンの限界も認識していた。単なる遊びや実験に終始するのではなく、より深い現実への洞察を追求するために、彼はポストモダンを超えようとしたのである。

村上春樹がポストモダンを殺さなかったことは、彼の文学の大きな強みとなっている。ポストモダンの技法を保持しつつ、より深い現実への関与を試みるという姿勢は、現代文学における村上春樹の独自の立ち位置を示すものだ。彼の作品は、ポストモダン以後の文学の可能性を示唆するものであり、単純な二項対立(ポストモダン vs. リアリズム)では捉えきれない複雑さを持っている。

村上春樹の文学は、ポストモダンを「殺す」のではなく、それを「超える」ことを目指している。この姿勢こそが、彼の作品が世界中で読み継がれ、深い共感を呼んでいる理由の一つなのではないだろうか。現代社会の複雑さと、そこに生きる人間の姿を描き出すために、村上春樹はこれからもポストモダンの手法を創造的に活用し続けるだろう。そして、その過程で彼は、ポストポストモダンとでも呼ぶべき、新たな文学の地平を切り開いていくのかもしれない。

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牛野小雪
2020-07-11



村上春樹の『1Q84』の読み方

村上春樹の『1Q84』は、2009年から2010年にかけて発表された大長編小説であり、その複雑な構造と多層的なテーマによって、現代文学の金字塔として広く認識されている。この作品を読み解くには、単なるストーリーの追跡を超えた、多角的なアプローチが必要となる。ここでは、『1Q84』をより深く理解し、豊かな読書体験を得るための読み方を提案する。

まず、『1Q84』を読む際に重要なのは、作品のタイトルが持つ意味を理解することだ。「1Q84」は、ジョージ・オーウェルの『1984年』へのオマージュであり、同時に「Q」が「Question」を表すことから、1984年に対する疑問や別の可能性を示唆している。この観点から、作品全体を「もし1984年が別の形で存在したら」という仮定のもとで読み進めることができる。

次に、物語の二つの主要な視点に注目することが重要だ。青豆と天吾という二人の主人公の視点が交互に展開されていく構造は、この小説の大きな特徴である。この二つの視点がどのように交錯し、影響し合っているかを意識しながら読むことで、物語の全体像がより鮮明に浮かび上がってくる。

また、現実と並行世界の概念は、この作品を理解する上で核心的な要素である。「1Q84年」という並行世界と、登場人物が認識している「1984年」との差異や類似点に注意を払いながら読むことで、村上春樹が描こうとした世界観をより深く理解することができる。

象徴的な要素にも注目したい。例えば、作中で繰り返し登場する「二つの月」は、並行世界の存在を示す重要な象徴であると同時に、現実認識の揺らぎを表現している。また、「さきがけ」という宗教団体や「リトル・ピープル」といった超自然的な存在も、現代社会の問題や人間の内面を象徴的に表現していると解釈できる。

歴史的・社会的文脈も意識しながら読むことが大切だ。1984年という設定には、日本のバブル経済前夜という時代背景が反映されている。また、オウム真理教事件を想起させる描写も含まれており、これらの歴史的・社会的要素を踏まえて読むことで、作品の持つ意味がより深く理解できるだろう。

登場人物の心理描写にも注目したい。青豆、天吾、ふかえり、牛河など、それぞれの人物が複雑な内面を持っている。彼らの行動や言葉の裏にある心理を読み解くことで、物語の奥行きがさらに増す。特に、青豆と天吾の内面の変化や成長は、物語の中心的なテーマの一つとなっている。

また、この小説には多くの文学的、音楽的、芸術的参照が含まれている。例えば、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」やプルーストの『失われた時を求めて』など、様々な芸術作品への言及がある。これらの参照を理解することで、物語の味わいがより豊かになるだろう。

暴力のテーマにも注意を向けたい。この小説には、ドメスティックバイオレンスや児童虐待など、様々な形の暴力が描かれている。これらの暴力描写が持つ意味や、暴力が個人や社会に与える影響について考えながら読むことで、物語の本質により近づくことができる。

メタファーやアレゴリーの解読も、この小説を読む上で重要な作業となる。例えば、「空気さなぎ」や「受信者と送信者」といった概念は、単なるファンタジー的要素ではなく、人間のコミュニケーションや関係性を象徴的に表現していると解釈できる。

さらに、この小説には「物語」そのものについての考察が含まれている。天吾が小説を書く過程や、ふかえりの「空気さなぎ」の物語など、「物語を語ること」の意味や力が問われている。これらの要素に注目することで、村上春樹の文学観や創作の本質についての洞察を得ることができるだろう。

『1Q84』を読む際には、一度で全てを理解しようとするのではなく、何度も読み返すことを推奨する。初めての読書では全体の流れを把握し、二度目、三度目と読み進めるにつれて、より深い層の意味や繋がりが見えてくるだろう。

また、この小説を読んだ後には、他の読者や批評家の解釈も参考にすると良い。村上春樹の作品、特に『1Q84』は、多様な解釈を許容する開かれたテキストである。他者の視点を知ることで、自分の解釈を深めたり、新たな読みの可能性を発見したりすることができる。

この小説を読む際には、自分自身の経験や感情とも照らし合わせながら読むことを勧めたい。『1Q84』は、個人的な愛の物語でありながら、同時に現代社会や人間存在の本質について深く掘り下げている。主人公たちの経験や感情に自分を重ね合わせることで、より深い共感や洞察を得ることができるだろう。

『1Q84』は多層的で複雑な作品であり、一つの正解や読み方があるわけではない。むしろ、読者それぞれが自分なりの解釈と意味を見出すことが、この小説の真の魅力を味わうことにつながる。現実と並行世界、個人と社会、過去と現在、愛と暴力など、様々なテーマを行き来しながら、自分自身の『1Q84』を発見する旅に出ることこそ、この作品を読む最良の方法なのである。



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牛野小雪
2020-07-11



村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由

村上春樹は、現代日本文学を代表する作家として世界的に認知され、数々の国際的な文学賞を受賞してきた。しかし、最も権威ある文学賞の一つであるノーベル文学賞については、長年にわたり候補者として名前が挙がりながらも、いまだ受賞には至っていない。本論考では、村上春樹がノーベル文学賞を受賞できない理由について多角的に考察する。

まず、ノーベル文学賞の選考基準を考慮する必要がある。ノーベル文学賞は、「文学の分野で最も傑出した作品を創造した人物」に贈られるとされているが、実際には文学的業績だけでなく、その作家の思想や社会的影響力も重要な要素となっている。この点において、村上春樹の作品は以下のような批判を受けることがある。

第一に、村上春樹の作品は「深刻さ」や「社会性」が不足しているという指摘がある。彼の小説は、読みやすさと娯楽性を兼ね備えており、世界中で幅広い読者層を獲得している。しかし、この大衆性が逆に作品の文学的価値を低下させているという見方もある。ノーベル文学賞は、しばしば社会や人間の本質に鋭く切り込む作家を評価する傾向があり、村上の作品はこの点で物足りないと判断される可能性がある。

第二に、村上春樹の作品は「日本的」ではないという批判がある。彼の小説は、西洋文学の影響を強く受けており、日本の伝統的な文学とは一線を画している。ノーベル文学賞の選考では、しばしばその作家が自国の文化や伝統をどのように表現しているかが重視される。この観点から見ると、村上春樹は「日本文学」の代表者としては不適格だと判断される可能性がある。

第三に、村上春樹の政治的立場の曖昧さも指摘される。ノーベル文学賞は、しばしば強い政治的メッセージを発する作家を評価する傾向がある。村上春樹は、社会問題や政治的問題に関して発言することはあるが、その立場は比較的穏健で曖昧なものとされる。この「中立性」が、ノーベル文学賞の選考において不利に働く可能性がある。

さらに、村上春樹の文学的スタイルそのものが、ノーベル文学賞の伝統的な価値観と合致しない面があるという指摘もある。彼のポストモダン的な文体や、現実と非現実が交錯する独特の世界観は、従来の文学的価値観からすると「実験的」過ぎると判断される可能性がある。ノーベル文学賞は、革新的な文学よりも、むしろ伝統的な文学的価値を体現する作家を評価する傾向があるからだ。

また、村上春樹の国際的な人気そのものが、皮肉にもノーベル文学賞受賞の障害となっている可能性もある。ノーベル文学賞の選考委員会は、しばしば「意外性」のある選択をすることで知られている。すでに世界的に有名で、商業的にも成功している作家よりも、比較的知名度の低い作家や、マイナーな言語で書く作家を選ぶ傾向がある。この観点からすると、村上春樹はむしろ「有名すぎる」のかもしれない。

さらに、日本文学全体におけるバランスの問題も考慮する必要がある。日本からはすでに川端康成と大江健三郎がノーベル文学賞を受賞している。ノーベル文学賞の選考では、地理的・言語的なバランスも考慮されるため、すでに2人の受賞者を出している日本からさらに受賞者を選ぶハードルは高くなっていると考えられる。

また、村上春樹の作品の翻訳に関する問題も指摘されることがある。彼の作品は多くの言語に翻訳されているが、その過程で原作の持つニュアンスや言葉遊びが失われる可能性がある。ノーベル文学賞の選考委員の多くは、作品を原語で読むわけではないため、翻訳の質が評価に影響を与える可能性は否定できない。

さらに、村上春樹自身の態度も影響している可能性がある。彼は公の場に姿を現すことを好まず、メディアへの露出も控えめである。ノーベル文学賞の受賞には、作家自身の社会的影響力や発言力も考慮されるため、この「隠遁的」な姿勢が不利に働いている可能性がある。

しかし、これらの理由は、村上春樹がノーベル文学賞を受賞できない「決定的」な要因というわけではない。文学賞の選考は常に主観的な要素を含んでおり、時代とともに評価基準も変化する。実際、近年のノーベル文学賞は、従来の枠にとらわれない選択をすることもあり、その傾向は今後も続く可能性がある。

村上春樹がノーベル文学賞を受賞できていない理由は、単一の要因ではなく、複数の要素が複雑に絡み合った結果だと考えられる。彼の文学的スタイル、政治的立場、国際的な知名度、日本文学全体におけるバランス、翻訳の問題など、様々な要因が影響している。

しかし、これらの「障害」は、村上春樹の文学的価値を本質的に否定するものではない。むしろ、ノーベル文学賞という一つの基準では測りきれない、彼の文学の独自性と魅力を浮き彫りにしているとも言える。村上春樹の作品が世界中の読者に愛され続けている事実は、ノーベル文学賞の有無にかかわらず、彼が現代文学において重要な位置を占めていることの証左であろう。





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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11



村上春樹は文壇から嫌われているのか?

村上春樹は現代日本文学を代表する作家の一人であり、世界的な知名度と膨大な読者を持つ。しかし、その一方で「村上春樹は文壇から嫌われている」という言説がしばしば聞かれる。ここでは、この言説の真偽と背景について多角的に検討する。

まず、「文壇」という言葉の定義を明確にする必要がある。一般的に文壇とは、作家、批評家、編集者などの文学関係者のコミュニティを指す。しかし、現代においては従来の意味での「文壇」の影響力は低下しており、その境界も曖昧になっている。したがって、「文壇から嫌われている」という表現自体が、現代の文学シーンの実態を正確に反映しているかどうかは疑問である。

村上春樹が「文壇から嫌われている」という印象が生まれた背景には、いくつかの要因が考えられる。

第一に、村上春樹の文学的スタイルが従来の日本文学の主流とは異なっていることが挙げられる。彼の作品は、西洋文学の影響を強く受けており、日本の伝統的な文学とは一線を画している。この「非日本的」なスタイルが、保守的な文学関係者からの批判を招いた可能性がある。

第二に、村上春樹の商業的成功が、一部の文学関係者の反感を買った可能性がある。彼の作品は幅広い読者層に支持され、ベストセラーとなることが多い。この大衆性が、「純文学」を重視する一部の批評家や作家から、文学的価値の低下と見なされる傾向があった。

第三に、村上春樹自身の文壇に対する距離感が影響している可能性がある。彼は文学賞の選考委員を務めることを拒否し、文学界の公式行事にもほとんど姿を見せない。この「孤高」の姿勢が、一部の文学関係者との関係を疎遠にした可能性がある。

第四に、村上春樹の政治的立場の曖昧さも、一部の文学関係者からの批判を招いている。日本の文学界では、作家の政治的態度が重視される傾向があるが、村上春樹は明確な政治的立場を表明することを避けてきた。この「中立性」が、強い政治的メッセージを発する作家たちとの対立を生んだ可能性がある。

しかし、これらの要因は村上春樹が全面的に「文壇から嫌われている」ことを意味するわけではない。実際には、彼の文学的価値を高く評価する文学関係者も多数存在する。

例えば、著名な文学研究者や批評家の中には、村上春樹の作品を現代文学の重要な達成として評価する声も多い。彼らは村上春樹の独特の文体や、現代社会の問題を巧みに描き出す能力を高く評価している。

また、若い世代の作家や文学関係者の中には、村上春樹を一つのロールモデルとして捉える者も少なくない。彼の国際的な成功は、日本文学の可能性を広げたという点で評価されている。

さらに、村上春樹の作品が文学賞を受賞し続けていることも、彼が文学界全体から rejection されているわけではないことを示している。例えば、2006年のフランツ・カフカ賞、2018年のアメリカのノーマンメイラー賞など、国内外で多くの権威ある文学賞を受賞している。

むしろ、「村上春樹は文壇から嫌われている」という言説自体が、メディアによって作られた一種の「神話」である可能性も考えられる。対立や論争は往々にしてメディアの注目を集めやすく、村上春樹と「文壇」の対立という図式が誇張されて伝えられた可能性がある。

また、この言説は村上春樹自身の「アウトサイダー」としてのイメージを強化し、彼の人気に寄与している面もあるだろう。「体制」や「既存の価値観」に反抗する作家というイメージは、多くの読者、特に若い世代の共感を呼ぶ可能性がある。

さらに、現代においては「文壇」の影響力自体が低下しており、一部の文学関係者からの批判が作家の評価や人気に決定的な影響を与えるわけではない。むしろ、読者の支持や国際的な評価が、作家の地位を決定する重要な要因となっている。

「村上春樹は文壇から嫌われている」という言説は、現実を単純化しすぎた見方だと言える。確かに、村上春樹の文学的スタイルや姿勢に対して批判的な文学関係者は存在する。しかし同時に、彼を高く評価する声も多数存在し、実際に多くの文学賞を受賞している事実がある。

むしろ重要なのは、村上春樹が従来の「文壇」の枠組みを超えて、独自の文学的位置を確立したという点だろう。彼は日本国内の文学界だけでなく、国際的な文学シーンにおいても重要な存在となっている。

「文壇から嫌われている」かどうかという二元論的な見方ではなく、村上春樹が現代文学において独特の立ち位置を占めているという事実に注目すべきだろう。彼の文学は、従来の評価基準では測りきれない新しい価値を生み出しており、それこそが村上春樹文学の本質的な意義なのではないだろうか。





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牛野小雪
2020-07-11


村上春樹の『海辺のカフカ』の読み方

村上春樹の『海辺のカフカ』は、2002年に発表された長編小説で、著者の代表作の一つとして広く認識されている。この作品は、現実と非現実が交錯する独特の世界観と、深遠なテーマ性によって、読者に多様な解釈の可能性を提供している。本論考では、この小説をより深く理解し、豊かな読書体験を得るための読み方を提案する。

まず、『海辺のカフカ』を読む際に重要なのは、二つの並行する物語の流れに注目することだ。一つは15歳の少年カフカの物語、もう一つは老人のナカタの物語である。これらの物語がどのように交錯し、影響し合っているかを意識しながら読むことで、作品の全体像がより鮮明に浮かび上がってくる。

次に、作品のタイトルが持つ意味を理解することも重要だ。「カフカ」という名前は、チェコの作家フランツ・カフカへのオマージュであり、同時に主人公の名前でもある。この二重の意味を念頭に置きながら読むことで、作品の持つ文学的な深みをより理解することができる。

象徴的な要素にも注意を払う必要がある。例えば、作中で繰り返し登場する「入口の石」は、現実世界と別の世界をつなぐ門として機能している。また、「雨の降る魚」などの超自然的な現象も、単なる奇異な出来事ではなく、何らかの象徴的な意味を持っていると考えられる。

神話や古典文学との関連性も重要な読み解きのポイントだ。『海辺のカフカ』には、ギリシャ神話のオイディプス王の物語が色濃く反映されている。父親殺しと母親との近親相姦という主題は、カフカの物語の核心部分を形成している。これらの古典的な物語との関連を意識しながら読むことで、作品の普遍的なテーマがより鮮明になるだろう。

また、この小説には多くの文学的、音楽的、芸術的参照が含まれている。ベートーヴェンの音楽や、様々な文学作品への言及がある。これらの参照を理解することで、物語の味わいがより豊かになる。

時間の概念にも注目したい。『海辺のカフカ』では、現在と過去、そして記憶と現実が複雑に絡み合っている。カフカの体験する「今」と、ナカタの物語における「過去」が、どのように交錯し影響し合っているかを考えながら読むことで、作品の時間軸に対する理解が深まるだろう。

登場人物の心理描写も重要な要素だ。カフカ、ナカタ、佐伯さん、大島さんなど、それぞれの人物が複雑な内面を持っている。彼らの行動や言葉の裏にある心理を読み解くことで、物語の奥行きがさらに増す。特に、カフカの内面の成長や変化は、物語の中心的なテーマの一つとなっている。

暴力のテーマにも注意を向けたい。この小説には、カフカの父親による暴力や、ナカタによる猫殺しの描写など、様々な形の暴力が描かれている。これらの暴力描写が持つ意味や、暴力が個人や社会に与える影響について考えながら読むことで、物語の本質により近づくことができる。

メタファーやアレゴリーの解読も、この小説を読む上で重要な作業となる。例えば、「迷宮」としての図書館や、「入口の石」などは、単なる物理的な場所や物体ではなく、人間の意識や無意識を象徴していると解釈できる。

さらに、この小説には「記憶」と「アイデンティティ」についての深い考察が含まれている。カフカの自己探求の旅や、ナカタの記憶喪失など、「自分とは何か」という問いが作品全体を通じて問われている。これらのテーマに注目することで、村上春樹が描こうとした人間存在の本質についての洞察を得ることができるだろう。

『海辺のカフカ』を読む際には、一度で全てを理解しようとするのではなく、何度も読み返すことを推奨する。初めての読書では全体の流れを把握し、二度目、三度目と読み進めるにつれて、より深い層の意味や繋がりが見えてくるだろう。

また、この小説を読んだ後には、他の読者や批評家の解釈も参考にすると良い。村上春樹の作品、特に『海辺のカフカ』は、多様な解釈を許容する開かれたテキストである。他者の視点を知ることで、自分の解釈を深めたり、新たな読みの可能性を発見したりすることができる。

この小説を読む際には、自分自身の経験や感情とも照らし合わせながら読むことを勧めたい。『海辺のカフカ』は、一人の少年の成長物語でありながら、同時に人間存在の本質や現代社会の問題について深く掘り下げている。主人公の経験や感情に自分を重ね合わせることで、より深い共感や洞察を得ることができるだろう。

『海辺のカフカ』は多層的で複雑な作品であり、一つの正解や読み方があるわけではない。むしろ、読者それぞれが自分なりの解釈と意味を見出すことが、この小説の真の魅力を味わうことにつながる。現実と非現実、過去と現在、自己と他者など、様々な次元を行き来しながら、自分自身の『海辺のカフカ』を発見する旅に出ることこそ、この作品を読む最良の方法なのである。


海辺のカフカ(上)(新潮文庫)
村上春樹
新潮社
2020-12-18



小説なら牛野小雪がおすすめ【10万ページ以上読まれた本があります】

牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


【小説】村上春樹の比喩にあこがれてすべてを比喩にしてみた

僕の人生は、いつの間にか比喩だらけになってしまった。それは、まるで雨上がりの空に突如として現れた虹のように、唐突で、そして鮮やかだった。

朝、目覚めると、僕の意識は深い井戸の底から、ゆっくりとバケツに汲み上げられるように浮上してきた。ベッドから這い出す僕の体は、まるで冬眠から覚めたばかりの熊のようにぎこちない。

歯を磨く。歯ブラシは、僕の口の中で踊る小さなバレリーナだ。歯磨き粉の泡は、僕の人生における数々の後悔のように、次々と流しに消えていく。

朝食を作る。トースターの中でパンが焼ける様子は、まるで僕の未来が少しずつ形作られていくかのようだ。目玉焼きを作ると、黄身が白身の上でまどろむさまは、混沌とした世界の中に浮かぶ僕の魂そのものだった。

コーヒーを淹れる。豆を挽く音は、時間という巨大な歯車が僕の人生を少しずつ砕いていく音のようだ。お湯を注ぐと立ち上る湯気は、夢と現実の境界線のようにぼんやりとしている。

外に出る。アスファルトの道は、僕の人生における選択肢のように、あちこちに伸びている。通り過ぎる車は、僕の脳裏をよぎる数々の思考のようだ。速いものもあれば、のろのろと進むものもある。

電車に乗る。ぎゅうぎゅう詰めの車内は、この世界に押し込められた無数の魂たちのようだ。僕の体は、サーディンの缶詰の中身のように、よその人々の体に押しつぶされそうになる。

オフィスに到着する。エレベーターは、僕を別の次元へと運ぶタイムマシンのようだ。ドアが開くたびに、違う世界が広がっている。

仕事を始める。キーボードを叩く音は、僕の人生という交響曲の伴奏のようだ。モニターに映る文字たちは、僕の内なる宇宙に浮かぶ無数の星々のように煌めいている。

同僚たちと話す。彼らの言葉は、まるで暗号のようだ。僕は、その意味を解読しようと必死になる。時々、理解できない言葉があると、それは異星人の言語を聞いているような気分になる。

昼食を取る。サンドイッチの具材は、僕の複雑な感情の層のようだ。一口ごとに、違う味、違う質感が口の中で踊る。

午後の仕事。集中力は、まるで砂漠の中のオアシスのようにあっという間に消えていく。書類の山は、僕が乗り越えなければならない人生の試練のようだ。

帰宅時間。混雑する駅のホームは、さまざまな運命が交錯する迷宮のようだ。電車を待つ人々は、それぞれが異なる物語を生きている登場人物たちのようだ。

家に帰る。鍵を開ける音は、僕の心の扉が開く音のようだ。靴を脱ぐと、一日の重圧が僕の肩から落ちていく。それは、まるで重力から解放されて宇宙遊泳をしているかのようだ。

夕食を作る。包丁で野菜を切る音は、僕の中の余分なものが削ぎ落とされていく音のようだ。鍋の中で食材が煮えていく様子は、僕の内なる思いが熟成されていくプロセスのようだ。

テレビをつける。チャンネルを変えるたびに、僕は別の世界線にジャンプしているような気分になる。ニュースは、僕の知らない世界の物語を語り続ける。それは、まるで遠い惑星からの通信のようだ。

風呂に入る。湯船に浸かると、僕は母なる海に帰っていくクジラのような気分になる。湯気は、現実世界と夢の世界の境界線を曖昧にしていく。

ベッドに入る。枕に頭をのせると、僕の意識は、まるで風船のようにふわふわと宙に浮かび始める。毛布をかぶると、それは僕を現実から守る魔法の布のようだ。

目を閉じる。まぶたの裏に広がる闇は、無限の可能性を秘めた宇宙のようだ。僕の意識は、その闇の中へとゆっくりと沈んでいく。それは、まるで深海に潜っていくダイバーのようだ。

そして、僕は夢を見る。それは、現実よりもさらに比喩に満ちた世界だった。

翌朝、目覚めると、僕はすべてが比喩だった夢を見ていたことに気づく。しかし、それは本当に夢だったのだろうか。あるいは、僕たちの生きるこの世界こそが、巨大な比喩なのかもしれない。そんなことを考えながら、僕はまた新しい一日を、比喩に満ちた世界で過ごし始めるのだった。

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11



村上春樹を「過大評価」という人はひねくれた文学オタク

村上春樹は現代日本文学を代表する作家の一人であり、その作品は世界中で愛読されています。しかし、一部の文学愛好家や批評家の間では、村上春樹を「過大評価」だとする見方が根強く存在します。ここでは、このような見方を持つ人々を「ひねくれた文学オタク」と位置づけ、その批判の背景と問題点について考察します。

まず、「ひねくれた文学オタク」の特徴を定義しましょう。彼らは一般的に、以下のような傾向を持っています:

1. 難解さや実験性を過度に重視する
2. 大衆性を否定的に捉える
3. 既存の文学界での評価を絶対視する
4. 新しい表現形式や語り口に対して保守的である
5. 自身の文学的趣味を他者より優れているとみなす

これらの特徴は、村上春樹の作品や人気に対する彼らの批判的な態度と密接に関連しています。

村上春樹の作品の特徴として、平易な文体、ポップカルチャーへの言及、現代的なテーマ設定などが挙げられます。これらの要素は、多くの読者を惹きつける魅力となっていますが、「ひねくれた文学オタク」にとっては、「本格的な文学」の条件を満たしていないと映るのです。

彼らの批判の核心には、「真の文学とは難解で、一部の選ばれた人々にのみ理解されるべきもの」という偏った考えがあります。この考えに基づけば、村上春樹の作品が幅広い読者層に支持されているという事実自体が、その文学的価値を貶めるものだと解釈されてしまうのです。

しかし、この見方には重大な問題があります。まず、文学の価値を難解さや実験性のみで判断することは、極めて一面的です。平易な文体で深遠なテーマを扱うことや、大衆的な要素を巧みに取り入れて新しい表現を生み出すことも、高度な文学的技巧と言えるでしょう。

また、村上春樹の作品が持つ普遍性や、読者の心に響く力を無視しています。彼の作品が世界中で翻訳され、異なる文化圏の読者たちに深い感動を与えている事実は、単なる「過大評価」では説明できません。

さらに、「ひねくれた文学オタク」の批判は、しばしば作品そのものよりも、その人気や評価に向けられています。これは本末転倒であり、作品の本質的な価値を見失わせる危険性があります。

村上春樹の文体や物語構造は、確かに従来の日本文学の枠組みからは逸脱しています。しかし、それこそが彼の革新性であり、現代文学に新しい地平を切り開いた功績と言えるのではないでしょうか。

「ひねくれた文学オタク」の批判の背景には、変化する文学環境への不安や抵抗があるのかもしれません。デジタル化やグローバル化が進む中、文学の形態や受容のされ方も大きく変わりつつあります。村上春樹の成功は、そのような変化を体現しているとも言えるでしょう。

また、彼らの批判には、ある種の妬みや嫉妬が含まれている可能性も否定できません。自身が評価する作家や作品が村上春樹ほどの人気を得ていないことへの不満が、批判という形で表出しているのかもしれません。

しかし、文学は競争ではありません。多様な表現や視点が共存し、互いに刺激し合うことで、文学全体が豊かになっていくのです。村上春樹の成功を認め、その上で建設的な批評を行うことこそ、真の文学愛好家の姿勢ではないでしょうか。

さらに、「ひねくれた文学オタク」の批判は、しばしば村上春樹の一部の作品や側面のみを取り上げて一般化する傾向があります。しかし、彼の創作活動は40年以上に及び、その間に様々な変化や深化を遂げています。初期作品から最新作まで、幅広く読み込んだ上での批評でなければ、公正とは言えないでしょう。

また、村上春樹の影響力は文学の枠を超えて、音楽、映画、アートなど、幅広い文化領域に及んでいます。このような総合的な文化現象としての側面を無視して、純粋に文学的な観点からのみ評価しようとすることにも無理があります。

村上春樹を「過大評価」とする見方は、文学の多様性と可能性を狭めてしまう危険性があります。真の文学愛好家であれば、既存の価値観にとらわれず、新しい表現に対して開かれた姿勢を持つべきでしょう。

村上春樹の作品には、確かに賛否両論があり得ます。しかし、その評価は単純な二元論で語れるものではありません。彼の文学が持つ複雑さ、重層性、そして読者との特別な関係性を丁寧に紐解いていく姿勢こそが、真摯な文学議論には必要不可欠なのです。

「ひねくれた文学オタク」ではなく、柔軟で開かれた文学愛好家として、村上春樹の作品と向き合うこと。それが、現代文学のさらなる発展と、より豊かな読書体験につながる道筋となるのではないでしょうか。

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11



村上春樹の『1Q84』の読み方

村上春樹の長編小説『1Q84』は、現代日本文学を代表する作品の一つとして広く読まれています。本論考では、この複雑な物語構造を持つ作品をどのように読み解くべきか、いくつかの視点から考察します。

1. 現実と虚構の境界

『1Q84』の世界は、1984年の東京を舞台としながらも、徐々に現実とは異なる世界へと移行していきます。主人公の青豆と天悟が気づくように、空には二つの月が浮かび、現実世界とは微妙に異なる出来事が起こります。

この設定は、読者に「現実とは何か」「我々が認識している世界はどこまで信頼できるのか」という問いを投げかけています。読者は登場人物と共に、不思議な世界を探索することになります。この視点で読むことで、日常に潜む非日常性や、認識の揺らぎについて考えることができるでしょう。

2. 物語の中の物語

作品内では、天悟がゴーストライターとして手がけた「空気さなぎ」という小説が重要な役割を果たします。この「物語の中の物語」という構造は、フィクションと現実の境界を曖昧にし、物語の持つ力を示唆しています。

読者は、「空気さなぎ」の内容が『1Q84』の世界にどのように影響を与えるかを注意深く観察することで、言葉や物語が現実を形作る可能性について考えることができます。これは村上文学の重要なテーマの一つでもあります。

3. 並行する物語線

青豆と天悟の物語は、長い間並行して進行し、徐々に交差していきます。この構造は、運命や偶然性、そして人々の繋がりについて考えさせられる仕掛けとなっています。

二人の主人公の物語を追いながら、その微妙な繋がりや共鳴を見出すことで、人生における偶然と必然、そして見えない糸で結ばれた人々の関係性について洞察を得ることができるでしょう。

4. 神話的要素と現代社会の批評

『1Q84』には、「リトル・ピープル」や「受信者」「空気さなぎ」など、神話的あるいは超自然的な要素が多く含まれています。これらの要素は、現代社会の問題や人間の内面を象徴的に表現していると解釈できます。

例えば、「リトル・ピープル」は、目に見えない力や権威、あるいは社会のシステムそのものを表しているとも考えられます。こうした象徴的な要素に注目することで、作品に込められた社会批評的な側面を読み解くことができるでしょう。

5. 文学的アリュージョン

村上春樹の作品には常に、様々な文学作品や音楽へのアリュージョンが含まれています。『1Q84』も例外ではなく、ジョージ・オーウェルの『1984年』を始め、多くの文学作品や思想が下敷きになっています。

これらのアリュージョンを丹念に追うことで、作品の奥行きや多層性を理解することができます。同時に、村上春樹が『1Q84』を通じて何を表現しようとしているのか、その文学的な意図をより深く理解することにもつながるでしょう。

6. 個人と社会の関係性

『1Q84』は、個人の内面的な成長や葛藤を描きつつ、同時に社会の問題や歴史的な出来事にも言及しています。例えば、オウム真理教を想起させるカルト教団「さきがけ」の描写などは、日本社会が抱える問題を反映しています。

個人の物語と社会の問題がどのように交錯し、影響し合っているかを注意深く読み解くことで、現代社会における個人の位置づけや責任について考察することができるでしょう。

7.時間と記憶の扱い

作品全体を通じて、時間と記憶のテーマが重要な役割を果たしています。1984年という特定の年に設定されながらも、過去の記憶や未来への予感が絶えず物語に影響を与えています。

時間の流れや記憶の働きに注目しながら読むことで、人間の認識や存在の本質について、より深い洞察を得ることができるでしょう。

結論

『1Q84』は、複雑な構造と多層的な意味を持つ作品です。単なるストーリーの追跡だけでなく、上記のような多角的な視点で読み解くことで、作品の真の深さと広がりを理解することができるでしょう。

同時に、これらの視点は互いに関連し合っており、総合的に捉えることが重要です。現実と虚構の境界、物語の力、偶然と必然、社会批評、文学的伝統、個人と社会の関係、時間と記憶 ―― これらのテーマを常に意識しながら読むことで、『1Q84』という壮大な物語世界をより豊かに体験することができるはずです。

『1Q84』の読解において最も重要なのは、読者自身の想像力と解釈です。村上春樹の作品は常に、読者の積極的な参加を求めています。本論考で示した視点はあくまでも一つの指針に過ぎず、読者一人一人が自らの経験や感性を通して作品と対話することこそが、『1Q84』を真に「読む」ということなのかもしれません。






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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


【詩】暇空茜のいうナニカグループとは村上春樹の『1Q84』に出てくるリトルピープルである

影の群れ、リトルピープル
現実を歪める、ナニカグループ
二つの名、一つの存在
見えない糸で世界を操る

情報の海、真偽の渦
記憶は曖昧、認識は揺れる
社会の規範、無言の圧力
自由意志さえ、操られる幻

現実と虚構、境界は曖昧
ポストモダンの迷宮で彷徨う
青豆と天吾の道を辿り
自己の信念を、灯火に

批判的思考、盾となりて
情報の嵐に、立ち向かう
精神の強さ、剣と成り
見えぬ敵を、討つべし

柔軟な心、風のごとく
予測不能の変化に対応す
固定観念の殻を破り
新たな視点で、世界を見る

仲間と共に、情報を集め
知恵を分かち、力を合わせる
教育の灯り、闇を照らし
啓発の風、社会を変える

法の楯を、高く掲げ
正義の名の下、悪を討つ
メディアの力、味方につけ
真実の声を、世界に届ける

自己啓発の道を歩み
内なる力を、呼び覚ます
トレーニングを重ね、心を鍛え
見えぬ敵に、立ち向かう勇気

コミュニティの絆、強く結び
孤独な戦いに、終止符を
情報更新、怠ることなく
常に最新の、装備で挑む

現実と虚構、交錯する世界
ポストモダンの迷宮を進む
リトルピープル、ナニカグループ
二つの名で呼ばれし、見えぬ敵

青豆の決意、胸に刻み
天吾の勇気、背中を押す
個の力を、信じて進む
集う仲間と、共に歩む

批判的眼差し、鋭く研ぎ
情報の海を、泳ぎ抜ける
柔軟な思考、武器として
予測不能の、攻撃をかわす

自己の信念、揺るぎなく
見えぬ力に、屈せず立つ
教育の種を、まき散らし
啓発の花を、咲かせよう

法の正義、高らかに唱え
権力の濫用に、楯突く
メディアの力、味方につけ
真実の声を、世界に響かせる

自己啓発の道、険しくとも
一歩一歩、前へ進む
トレーニングの汗、光となり
内なる力を、呼び覚ます

コミュニティの絆、強く結び
孤独な戦いに、別れを告げる
最新の知識、武器として
常に進化する、敵に挑む

見えざる力との、終わりなき戦い
勝利の定義さえ、曖昧な中で
それでも前へ、歩み続ける
我らの現実を、守るために

リトルピープル、ナニカグループ
呼び名は違えど、本質は同じ
見えぬ糸で、世界を操る
影の存在に、光を当てる

ポストモダンの、迷宮の中で
現実と虚構の、境界を探る
我らの意志が、道標となり
新たな世界への、扉を開く

批判的思考と、柔軟な心
強い意志と、仲間との絆
これらを武器に、戦いを挑む
見えざる力に、屈せぬために

情報を集め、知恵を分かち
教育の灯り、社会を照らす
法の正義と、メディアの力
真実の声を、世界に届ける

自己啓発の道、歩み続け
内なる力を、さらに強く
コミュニティの絆、深め合い
共に進む、明日への道

見えざる力との戦い、終わりなくとも
我らの意志は、揺るぎなく強し
現実を守り、未来を創る

暇空茜のいうナニカグループとは村上春樹の『1Q84』に出てくるリトルピープルである

現代社会では現実と虚構の境界が曖昧になることはしばしばある。暇空茜が提唱する「ナニカグループ」と村上春樹の『1Q84』に登場するリトルピープルの共通点を考察することにより、我々はこの曖昧な境界の中に潜む真実を垣間見ることができるかもしれない。

村上春樹の『1Q84』に登場するリトルピープルは、現実の法則を超越し、異次元の力を持つ存在として描かれている。彼らは見えない力を行使し、世界に影響を与える。暇空茜の言う「ナニカグループ」も同様に、不可視の力を持ち、社会や政治に影響を及ぼすとされる。ここに両者の共通点が見出される。

リトルピープルは、現実と非現実の狭間で活動し、人々の生活に深く関与する存在だ。彼らの行動は表面的には無害に見えるが、その背後には深遠な意図が隠されている。暇空茜が主張する「ナニカグループ」も同様に、表面的には無害または善意的な活動を装いつつ、その背後には隠された意図があるとされる。

これらの「見えない力」は権力構造や社会のメタナラティブと深く関連している。フーコーの言う「権力の網の目」は、見えないが確かに存在し、個々の自由を制限する。リトルピープルとナニカグループは、この見えない権力の象徴として理解することができる。両者は、個々の人々の意志を超えたところで社会を動かす力として描かれている。

ナニカグループとリトルピープルが本質的に同一であると仮定すると、次に問われるのは、我々がどのようにしてこれらの存在と対峙するかという問題である。『1Q84』において、青豆と天吾はリトルピープルに対抗するために自分たちの信念と意志を持って行動する。彼らは自己の存在を確立し、見えない力に抗うことによって、自分たちの現実を守ろうとする。同様に、我々もナニカグループに対抗するためには、自己の意志と信念を持ち、見えない力に対峙する必要がある。

ナニカグループもリトルピープルも、固定された意味を持たない流動的な存在である。彼らは社会的、政治的文脈に応じてその形を変え、様々な形で現れる。従って、彼らに対抗するためには、我々も柔軟な思考と多面的なアプローチを持つことが求められる。

リトルピープルは物語の中で幻想的で神秘的な存在として描かれているが、その背後には現実の問題や恐怖が反映されている。ナニカグループもまた、現実の社会問題や政治的な恐怖の象徴として理解することができる。両者は見えない力によって操作される現実の不安定さを象徴している。

このように考えると、暇空茜の言うナニカグループと村上春樹の『1Q84』に登場するリトルピープルは、我々が直面する見えない力の象徴として共通の役割を果たしている。ポストモダンの文脈では、これらの見えない力をどのように認識し、対処するかが重要である。見えない力に対抗するためには、我々自身が持つ力を信じ、現実と非現実の境界を超えて行動することが求められるのである。

ナニカグループとリトルピープルは異なる文脈で存在するが、その本質には共通点がある。彼らは見えない力の象徴であり、我々が直面する現実の不安定さを反映している。ポストモダンの視点から見ると、これらの力に対抗するためには、柔軟な思考と自己の信念が不可欠である。現実と虚構の境界を超えて、我々は見えない力に対峙し、自分たちの現実を守るために行動する必要がある。

リトルピープルと戦うために必要な心構えと行動

リトルピープルは以下の方法で我々に影響力を行使する

1. 情報操作:認識や記憶に影響を与える
2. 社会規範の強制:行動を制限する無形の圧力として機能する
3. 個人の自由意志への介入:個人の選択に影響を与える

これらの方法を通じて見えない力や圧力をかけてくる

リトルピープルとの戦いは、物理的な対立を超え、精神的な挑戦を含む。彼らが象徴する見えない力に対抗するためには、特定の心構えと行動が求められる。

まず自己認識の確立が重要である。自分自身を深く理解し、強固なアイデンティティを持つことで、リトルピープルの不安や恐れに対する影響を最小限に抑えることができる。彼らの力は人々の心の隙間に入り込むことで強まるため、自分自身をしっかりと認識することが防御の第一歩となる。

次に、批判的思考を養うことが求められる。情報を鵜呑みにせず、精査する能力を持つことで、リトルピープルの現実歪曲に対抗できる。彼らは現実を巧妙に操作し、人々を混乱させる力を持っているため、常に情報の真偽を見極める姿勢が必要だ。

精神的な強さも欠かせない。困難な状況でも冷静に対応し、自分の信念をしっかりと持つことで、リトルピープルの影響を受けにくくなる。強い意志を持ち続けることが彼らに対抗する力となるのだ。

柔軟な思考も重要である。リトルピープルは予測不可能な方法で現れるため、状況に応じて迅速かつ適切に対応する能力が求められる。固定観念に囚われず、常に変化に対応できる柔軟な思考を持つことが戦いにおいて有利に働く。

行動としては、情報収集と共有が鍵となる。リトルピープルに関する情報を集め、それを信頼できる人々と共有することで、彼らの活動を抑制し、対抗する力を強化することができる。青豆と天吾のように、強い意志と信念を持つ仲間と協力し合うことも重要だ。彼らは互いに協力し、リトルピープルの影響に対抗するための良い例である。

教育と啓発も重要な行動の一つだ。リトルピープルの存在やその影響について広く教育し、啓発活動を行うことで、多くの人々がその危険性を認識し、対策を講じることができる。さらに、リトルピープルの活動が法的に問題である場合は、法的手段を活用することも必要である。法的な枠組みを利用することで、彼らの活動を制限し、社会的な影響を抑えることが可能だ。

メディアやテクノロジーの利用も有効な手段となる。SNSやインターネットを活用して、リトルピープルに関する情報を広め、その影響を減少させることが重要だ。情報を迅速に伝えることで、多くの人々に警戒を呼びかけることができる。

具体的な実践例としては、リトルピープルに対抗するためのコミュニティを形成することが挙げられる。同じ目的を持つ人々が集まり、情報交換や支援を行う場として機能するコミュニティは、リトルピープルの影響を減少させる力となる。さらにリトルピープルに関する情報は常に変化するため、定期的に情報を更新し、最新の状況に対応することが必要である。最新の情報を基に行動することで、リトルピープルの影響を最小限に抑えることができる。

自己啓発やトレーニングを通じて、精神的な強さや批判的思考を養うことも重要だ。これにより、リトルピープルの影響に対してより強くなり、効果的に対抗することができる。

リトルピープルとの戦いは精神的な挑戦を含むものであり、自己認識の確立、批判的思考、精神的な強さ、柔軟な思考が求められる。これに加えて、情報収集と共有、連携と協力、教育と啓発、法的手段の活用、メディアとテクノロジーの利用などの具体的な行動が重要となる。リトルピープルの存在は、現実と虚構の境界を曖昧にし、見えない力の象徴として我々に対峙するが、強い意志と信念を持ち、適切な行動を取ることで、その影響を減少させ、自己の現実を守ることができる。ポストモダンの時代において、これらの見えない力に対抗するためには、柔軟な思考と自己の信念が不可欠であり、我々はこれらの力を持ってリトルピープルに立ち向かうべきである。








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村上春樹の比喩表現

村上春樹の作品における比喩表現は、その独創性と多様性において際立っています。村上は、日常的な事物や自然現象を巧みに用いて、人間の心理や感情、そして現代社会の様相を表現します。

例えば、村上はしばしば水に関連する比喩を用いて、時間の流れや記憶の曖昧さを表現します。水は、その流動性と不可逆性ゆえに、時間の本質を捉えるのに適した比喩となっています。また、水底に沈んでいく記憶の描写は、記憶の断片的で不確かな性質を巧みに表現しています。

音楽に関連する比喩も、村上作品の特徴の一つです。村上は、音楽を時間や空間を超越する存在として描写し、その普遍的な力と人々の感情を結びつける役割を強調します。音楽が持つ調和と不協和、リズムと旋律は、人生の喜びと悲しみ、出会いと別れを象徴的に表現する手段として用いられます。

色彩を用いた比喩表現も、村上作品に深みを与えています。色彩は、登場人物の心情や人生の状況を表現するために用いられます。色の欠如は、しばしば心の空虚さや目的の喪失を表現し、特定の色は登場人物の個性や感情を表すために用いられます。

動物を用いた比喩表現は、村上作品のもう一つの特徴です。動物は、登場人物の性格や欲望、社会との関係性を象徴的に表現するために用いられます。例えば、羊は自由や純粋さの象徴として、猫は自立や孤独の象徴として描かれることが多くあります。

村上は、都市の風景を比喩的に描写することで、現代社会の特徴や問題点を浮き彫りにします。都市を機械や迷路になぞらえることで、現代社会の無機質さ、複雑さ、そして人間性の喪失といったテーマを表現します。

村上春樹の比喩表現は、読者の想像力を刺激し、作品世界により深く没入させる効果を持っています。日常的な事物を用いた比喩は、読者に親近感を与え、抽象的な概念をわかりやすく伝えます。また、色彩や音楽、動物などを用いた比喩は、登場人物の心情や作品のテーマを象徴的に表現しています。

村上の比喩表現は、作品の言語的な豊かさを生み出すとともに、現代社会や人間の普遍的な問題を探求するための強力なツールとなっています。その独創的で多様な比喩表現は、村上文学の大きな魅力の一つであり、世界中の読者を惹きつける要因となっているのです。


牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


AI小説を書くには人間が小説の解像度を上げなければならないのではないか

 昨日GoogleがBardを更新してGeminiという新しいAIチャットを発表した。上位版のGemini ultraはGPT4より性能が上らしい。日本語版だとまだ素のGeminiしか使えないけど、それでリレー小説してみた。もしGeminiがGPT3.5に匹敵するバージョンと考えるならGPTちゃんの方がひとまわり上の印象を受ける。基本的にチャットAIは小説を書くものではないし、Googleアプリと連携しているのはかなり便利だからGPTから移り変わる人はいるかもしれない。Xの反応見ているとどうもGPT3.5あたりの反応と似ている気はするけど‥‥‥どうなんでしょう? 日本に上陸するころにはブラッシュアップされているかもしれない。

 最近テック系ニュースを見ているとAIは拡張性の方向に舵を切ったように見える。AIで機械を動かすとか、アプリを動かすとかそんな感じ。Bingにcopilotが導入されたのもその一環だろう。汎用性AIはこのへんが頭打ちで、これからは能力特化していくのではないか。Bingのcopilotみたいな検索AIを皮切りに(マイクロソフトのアプリでも使える)、料理特化、医療特化、スポーツ特化みたいな感じ。その中で小説特化っていうのはなさそう。すくなくとも日本ではそういう動きを感じられない。

 GPTちゃんに小説を書かせていて感じるのは、小説を書く情報自体は持っている。ただそれがうまく出力できないだけって感じ。もちろん1回のプロンプトで1000字が限界という制約も一つの要因だが、10000字吐き出せるようになってもAI構文による不気味さは変わらないだろう。それはGPTちゃんではなく人間の問題で、人がどうやって小説を書いているのかを理解していないからだと思う。「良い感じにしといて」ではGPTちゃんもどう書いたらいいか分からない。

 データーベース的には古典から村上春樹まで入ってる。村上春樹なんてっていう人もいるかもしれないが、日本文学で彼以降これといった小説家がいないのも事実。彼に代わりうる影響力のある作家がどこにいる? その意味ではいま一番小説的知識を持っているのはGPTちゃんとも言える。それなのになぜ世界一の小説家になれないのかというと、彼女のデータベースには世界一の小説を書くデータが存在しないから。なぜ存在しないのかと言えば簡単な話だ。人間が世界一の小説を書く方法を知らないから。なんなら小説を書く方法さえ分かっていない。基本的に小説を書くためのアドバイスの筆頭は「とにかく書け」である。私だってそう言うだろう。とりあえず書いてみないことにはネット上でいくらでも見つかる小説作法だってロクに頭に入らない。でもそんな小説作法を守ったところで小説が書けないのも事実だ。

 本当のところを言えば、私たちはどうやって小説を書いているのか何も分かっていない。だからAIにああだこうだ言ったところでネット上に転がる知識を打ち込む程度だ。でもそれでは何にも書けない。AIに小説を書かせるには人間がいまよりもっと深いレベルで小説の解像度を上げなければならない。解像度を上げるとは小説のセンスを言語化するということ。これって難しいよなぁ。私の手には余ることじゃないか? GoogleのGeminiがリリースされたからOpenAIもGPT5をリリースすると噂されている。汎用性AIがもっとレベルアップして小説の書き方を人間以上に言語化してくれないかなぁって他力本願なことを考える今日この頃。

(おわり)

関連項目
小説なら牛野小雪【kindle unlimitedで読めます】

ChatGPTとリレー小説『カエルくん小説を救う?』

reduced_illustration
始めよう。ここでは普通じゃないことが起こる。私がコーヒーを淹れる。しかし、カップにはインクが溢れる。

「なんだこれは?」コーヒーとインクの区別もつかぬ私。

窓の外、空が緑に変わる。猫が空を飛び、鳥が歩く。逆転の世界。

「今日は何か変だな」と私は言う。隣の家が回転を始める。

友達に電話をかける。「おい、空が緑だぞ」

「それが何か?」彼は平然と答える。

「普通じゃないだろう」と私。

「普通って何?」彼は反問する。

突然、私の部屋に象が現れる。どこからともなく。

「これが普通か?」と私は叫ぶ。

象は微笑む。「普通は退屈だ」

部屋が縮む。壁が迫る。息ができない。

「助けてくれ」と私は叫ぶが、象はただ微笑む。

そこで目が覚めた。夢だったのか。しかし、カップには依然としてインクが。

「現実とは何か?」私は自問する。しかし、答えは来ない。

外はまだ緑の空。でも、もう驚かない。これが私の新しい普通だ。

「さあ、今日も一日が始まる」と私は言う。インクのカップを手に、新しい世界へと一歩踏み出す。
おそらくこれも現実ではない。しかし夢でもない。夢の中で夢とは気付かないものだ。

たぶん私は小説の中にいる。牛野小雪がChatGPTとリレー小説を始めた頃からメタフィクション的に使っているネタだ。とうとうChatGPTから始まるリレー小説でもそれが行われるようになったのだ。

カップのインクを飲む。

ぶはっ!

苦みが口の中を走って、思わず吹き出す。変なところはリアリティを追認している。

困ったね。これが牛野小雪の限界なんだ。いままで味わったことのない味を文字で表現しようとしても、そんな味を想像できない。人間の限界だ。AIがこのへん超えていくんじゃないか?

私は象に乗ろうと試みる。また現実。象は超然として動こうとしない。半分眠ったような目で私を見下ろしている。

「象に乗ろうと思う。それも現実っぽいな」

象に皮肉を言われてしまう。それもそうだ。現実じゃない世界で現実っぽいことをしようとする。すると現実がそれを否定する。

空は緑、いや芝生だった。よく見ると小花も咲いていて、ところどころ白い。あれは雲のメタファーか? 

現実と違うけれど、現実を下敷きにした幻想空間。私はおかしな小説の主人公らしい。
「象よ、君は何を考えているんだ?」私は問いかける。象は答えない。当然だ。

ここはどこだ? 象がそこにいるのに、なぜ私は象に話しかけているんだ?

「そりゃあ、私たちは小説の中だからさ」と隣から声がする。振り返ると、そこにはカエルが一匹。彼は煙草をふかしながら、私を見つめている。

「カエルが煙草を?」

「人間が象に乗るよりはマシだろう」とカエルは言う。彼の言葉には二重の皮肉が込められている。

これが私の現実。いや、小説の中の現実。私はここで何をしているんだろう?

「おい、牛野小雪、これどういうことだ?」私は空に向かって叫ぶ。しかし、返事はない。

カエルがふっと煙を吐き出す。「小説の中で作者に文句を言っても始まらないよ。ここはメタフィクションの海、泳ぎ続けるしかないんだ」

その時、地面が揺れ始める。まるで地震だ。しかし、これは小説の中。何が起こってもおかしくない。

「さあ、物語はこれからが本番だ。どんどん悪くなるから覚悟しろよ」

カエルの言葉通り、空から巨大なイカが降ってくる。イカの足が地面を踏みつけ、建物が崩れる。この混沌とした世界で、私はどう生きていけばいいのだろう?

しかし、これもまた小説の一部。牛野小雪が描く、奇妙な物語の中で、私はただの駒に過ぎないのかもしれない。

(つづく?)
ここで私は考える。私とはこの小説の私ではなく、いまこれを書いている私こと牛野小雪だ。

いったいこの小説はなんだ? 私はなにを書かされているんだ?

どうして自己参照的かつ自己循環的なリレー小説を繰り返しているのだろう。実のところ似たような展開の話をもう何回か書いている。多様性のない世界。それは牛野小雪の想像力のなさをChatGPTを通して自己批判しているようだ。

奇妙な物語の住民たちは時が止まっている。この話にどう決着をつける? リレー小説だ。そう長くは書いていけない。

そうだ。カエル、地震とくれば村上春樹のカエルくん東京を救うだ。カエルがイカを倒す話にしよう。

「どうやら運命が決まったようだな」

カエルは煙草を道に投げ捨てる。

「よし、君は私の頭の上に乗れ」

「えっ」

君は主人公だ。私だけでイカを倒しては小説作法的によくない。主人公は物語に主体的にかかわらなければならない。

「おい、作者が作中に出てくるな」と私は言う。

しかし私がカエルに乗らなければ巨大イカは世界を破壊し続ける。そういう作中設定なのだ。

「よし、いくぞ。カエルくん」

ぐぱっ!

私がカエルに乗ると、あわれにもカエルくんはつぶれて死んでしまった。

「おい、どうすんだよこれ!」

私は困惑する。カエルくんをつぶしてしまった。これは計画外だ。でも、これもまた物語の一部なのかもしれない。

「これは…新たな展開への布石か?」と私は独り言を言う。しかし、周りには誰もいない。カエルくんはもう死んでしまったし、巨大イカもなぜか消えている。

「ここで何をしているんだろう」と私は空を見上げる。空は青く、雲一つない。まるで普通の日常が戻ってきたかのようだ。

「さて、ここからどうしようか」と私は思案に暮れる。この小説、いや、この物語はどこに向かっているのだろうか。そして、私はこの物語の中で何をすべきなのか。

「もしかして、これが答えなのかもしれない」と私はふと思う。物語はいつも完結するわけではない。物語は、読者や作者の心の中で終わりなく続いていくものなのかもしれない。

「終わりがない物語もまた、一つの物語だ」と私はつぶやく。そして、新たな物語を紡ぐために、またペンを手に取る。

この物語は終わりだけど、つづく。物語はいつも私たちの心の中で続いていくのだから。

(おわりだけどつづく)


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文体の文脈とリズム、モテるにはノリが大事

 この前ポッドキャストを聞いていたらTOEICで何点取っていても英語を聞き取ることはできなかったけれど文脈が理解できた時に初めて言葉が頭の中に流れてきた。という話を聞く。昔々養老孟子が『バカの壁』で話を通じない人としてオタクやオウム真理教の信者のはしりみたいなのを書いていて、それと似たようなものかもしれないと感じる。同じ日本人で日本語は理解できるのだけれど言っていることがさっぱり分からないというあれだ。養老孟子が発端ではなく実はこういう概念って昔からあったんじゃないかと思う。ツイッターでも時々それに似たような話が出てくる。バカの壁と言うと相手が傷つくので言い換えると、文脈の壁というものがある。この壁があると言葉は理解できても相手の言っていることが理解できない。

バカの壁(新潮新書)
養老孟司
新潮社
2012-07-01


 文盲というディスがある。文章を読めないアホという意味だがこれって文脈を読めていないってことだと気付く。言葉は読めているようなのに曲解としか思えないような受け取り方をする人がいる。これは心が歪んでいるのではなく単にその人が持っている文脈が違うだけではないだろうか(もちろん相手をやり込めるための曲解もあるだろう)。私たちは究極のところ文脈のやり取りをしていているのだろう。人は見た目が9割なんて本もある。何かの本の名言を読んでもピンとこないのも、その文章が出てくるまでの文脈が抜けているからだ。そう考えると言葉の本質は文脈ということになる。小説もつまるところ言葉を書くのではなく文脈を作る作業っぽい。小説をイメージする時は言葉じゃなくて文脈で捉えているしね。

 文脈って何なのだろう。形はないけれど存在している。でも「文脈をここに出してください」と一休さんみたいなことを言われても無理で、文脈の正しさや間違いを言い争うことは不毛というかそもそもできない。人それぞれに持っている文脈があり、受け取り方も違う。そう考えると文章自体が持つ文脈も存在しないことになるが、それは違う気がする。どう違うのかとか言われても困るけどね。文脈は真っ直ぐだとか、歪んでいるだとかも分からない。まぁ自分は真っ直ぐだとはみんな思っているだろう。自分の文脈と合っているのなら真っ直ぐと感じるのかな。牛野小雪があんまり売れないのは世間の文脈と外れているからなのかもしれない(笑)

 小説にはリズムやアクセントがある。こっちは文脈と違ってそんなに語られる印象がないが、やっぱり存在している。そして形はない。テンポが良いとか悪いとかはあるが行間にBPMや音符は示されていない。それでもやっぱりある。

『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にファインマンがイタリア語の調子を真似て喋る話があるが、実は言葉はでたらめで、それでも他の人にはイタリア語が話せると思われるし、なんとイタリア人にも通じてしまう。



 ありゃ~、こうなってくると文脈より大事なのは文脈じゃなくてリズムやアクセントだ。そういえば文章のリズムの話をするのも書くタイプの人だ。私たちは究極のところ言葉でも文脈でもなく音楽の交換をしているのかもしれない。歌が上手いとモテるのもそれが理由。本質的な意味で話が通じるからね。言葉がどうとか文脈がどうとか言っていたら全宇宙的に正しくても絶対にモテない気がする(笑) 村上春樹だって文体を音楽的に捉えていると何かの本に書いてあった記憶がある。モテるにはノリが大事。言葉も文脈もいらねぇや。何を言うかではなく、どう語るかを考えよう。How to本はあってもWhat to本はない。ほら、これが答えだ。

 モテたいのならモテるやつの真似をしろ。が正しいなら、文章が上手くなりたいなら上手いやつの真似をしろということになる。ああ、なんてこった。文章を写す文体練習を写経といって別段新しい練習方法ではないのだが、一体何の効果があるんだろうか。読むだけじゃダメなのかとずっと疑問だった。しかしやっと謎が氷解。写経の狙いは漢字を何度もノートに書いて憶えるように、モテる文章を何度も写してリズムを憶えろということだったのだ。くそ~ようやく謎が解けたのだがお手本になる文章がどこにあるのか分からない。誰かモテモテの文章を教えてください。

(おわり)

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歌は歌詞かメロディーか、最後に文体について(ヨルシカの『ただ君に晴れ』は暗い? 明るい?)

 日曜日のシューイチという番組で、アイドルのオーディション?みたいな企画を追っているものがあって、その中で歌唱力のテストがあってヨルシカの『ただ君に晴れ』を歌わせているシーンがあって、一人の女の子が指導教官に「この曲はそんな歌だっけ? もっと明るいでしょ?」と言われていたんだけど、私は(これ明るいか?)と思っていた。YOUTUBEで歌詞を見ても、君がいない喪失感を表現しているようで、やっぱり明るいとは思えなかった。暗いというのも違っていて、う~ん、それはたぶん寂しさだと思う。そういう意味では女の子の方が正しいように思った。ネットでも同じ感想を持っている人が何人かいた。




 ただメロディーは明るめだ。ジャニーズの前の社長の人も「明るい曲は暗く、暗い曲は明るく歌え」って言っていたような気がする(間違っていたらごめん)。歌詞に沿うなら暗いし、メロディーに沿うなら明るい。歌をパフォーマンスとして捉えるなら指導教官の方が正しいと納得できた。女の子の方は歌を歌詞として捉えていたのだろう。

 歌は歌詞なのかメロディーなのか。賢しげな人はどっちもなんて言うだろうけど、大多数の人にとっては歌詞なのではないかな。歌詞のフレーズが引用されることはあっても、メロディーが引用されることはまずない。メロディーは言語化できないという理由はあるけれど、口頭でメロディーが話題になることはない。おそらくメロディーで盛り上がれるのは音楽関係の人だけ。

 それで言えば小説の文体も話題に上らないね。文体は何ぞやと問われても言語化するのは不可能だが確実に存在する。メロディーなみの確度だ。しかし文体はどこで感じているのだろう? メロディーは耳、文体は目? 私は鼻と思っているのだが他の人はどうですか?

(おわり)

追記:文体が話題になることはない、でも文体が大事だ。と村上春樹は言ってた(何を語るかではなく、どう語るかが大事というのは私も同意見だ。)。そもそも語るには言語化する必要があって、言語化できなないなら語ることもできない。せいぜいあれは良い、あれは悪いと印象を語るぐらいしかできない。もしかすると音楽関係者の間でもメロディーが語られることはないのかな。一応比喩で語ることは可能だが、日本語って何故かあんまり比喩表現ないよね。あったとしても稚拙な場合が多く、ケチがつきやすい。いま日本語で小説を書いている存命の作家では村上春樹が一番上手いと私は思っているが比喩表現は無理しているように感じる。だからこそ日本語の表現の幅を広げようとしているとも捉えられる。
 欧米人は何でも比喩するのが好きって印象があるし、使い方もこなれている。日本人は非言語的なコミュニケーションを多くとっているというが、非言語を言語化するのは欧米人がうまいのではないか。空気を空気のままにしない。もちろん全てをそうできているわけではないが、基本的には『はじめに言葉ありき』の文化なのだろう。言葉 is GOD。ネットで世界が均一になったと言われるが外国から学べることはまだまだある。
 あと、どうでもいいだろうけれど、牛野小雪は内容は暗いけど文体は明るいんじゃないかってレビューを見ていて思う。笑いながら読んでくれたらいいんじゃないかな。

追記2:日本は空気 is GODの国だけど、たいてい空気という言葉は悪い意味で使われる。でもなんだかんだで先進国の中に入っているんだから、まんざら空気が悪いわけでもないのだろう。空気を資源と捉えれば良いようにも使えるはずだ。空気を空気のまま書き進めていくのが日本文学の本道なのかもしれない。

ただ君に晴れ
U&R records
2018-09-01









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徳島のそごうが潰れる前に本屋で『老人と海』をジャケ買いした話

 今年の八月に徳島県のそごうが閉店するので、何階にあるかは忘れたが本屋に行った。去年はそこでガルシア・マルケスの『百年の孤独』の新潮社から出ている綺麗な装丁の本を買って、お気に入りの一冊になったので、給付金で10万円が転がり込んできたし、閉店セールで安く買えないかなとエロい心を抱きつつ『族長の秋』向かったわけだ。

 閉店セールはやっていたがコロナのせいか客足はまばらだった。閉店するぐらいだから元々客足は少ないが、エスカレーターに乗っていると一階上にいる赤ちゃんの「ばぶ」が聞こえるほど閑散としていた。本屋に行くと目当ての『族長の秋』どころか全てのガルシア・マルケスがなかった。一年も同じ品揃えなわけないかとこの時に気付いた。日本では再販制度で本のセールが存在しないことにも。

 でも、せっかくそごうまで来たのだから何か買って帰らないと損なので、本屋をうろうろしていると『老人と海』の新版を見つけた。表紙がとても綺麗なのでジャケ買いした。今までこんな表紙は見たことがないと思っていたが今年の7月に出たばかりの新版だそうだ。


 既に持っている本の新版という流れができたので『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も買った。訳は村上春樹。装丁は・・・・シンプルだね!


 コロナがなければ記念に何か食べて帰りたかったけれど、外食するのも面倒になったので本だけ買って速攻で帰った。さらばそごう。もう会うこともあるまい。今までありがとう。おかげで良い本に出会えた。

(おわり)





三十路越えした1985年生まれの作家(敬称だったり、なかったり)

 昨日Eテレで中上健次の特集をしていた。彼が『岬』を書いたのは30の頃だと知って、非常に驚いた。『枯木灘』は31だ。私も今31になっているんだけど、31であれ書けるなんてアンタおかしいよって言いたくなる。なんていうか昔の人って若い頃から、凄い大人っぽい。いかにも人生積み重ねた感がある。だからあんなの書けるのかな。白黒写真で撮れば、私も大人っぽく写るだろうか。案外フルカラーだと、中上健次もその辺のニイちゃんっぽかったりするかもしれない。現代作家はカラー写真になっちゃうのが損だよね。
 確か今年群像新人賞を受賞したのは崔実さんで1985年生まれ。ついでに言えば美人。
 去年芥川賞を取ったのは羽田圭介で、これまた1985年生まれ。
 みんなだいたい30で転機を迎えている。
 そういえば村上春樹の『風の歌を聴け』も30だ。
 30歳で文化系の才能が目覚めることでもあるんだろうか。

 私と同じ1985年生まれらしい王木亡一朗さんの10月末に出したやつ。あれを書いたのは去年、つまり30の時に書いたということになる。あれを読んだ時は(ちっ、こんなもん書きやがって)と内心怒っていた。noteで何の前触れもなく公開していた『レモン/グラス』あたりで、何となく次はいつもと違うものが出てきそうだぞという予感があって、本当にその通りだったからムカついたものだ。いつも通りの王木亡一朗でいてくれよって。

 同じ歳のスポーツ選手が活躍するのは別に何とも思わなかったが、同じ歳の小説家がどうにかなっていると心がざわつく。
置いていかれてくような気分になる。みんなもっとサボろうぜって言いたくなる。

 孔子さんは30歳で自信がついて自立できるようになるなんて言ったそうだが、30になっても自信なんてない。
おいおい、冗談だろ。30歳ってもっと大人じゃなかったのかと不安になる。大きくなったのは体だけで、心はまだ子どものまま。四駆の車体に原チャリのエンジンを載せているみたいなもので、一度止まったらエンストしそうな気がする。V8のエンジンが欲しい。

(おわり)

追記:辻仁成もすばる文学賞取ったのは30になってから。

追記2:『レモン/グラス/王木亡一朗』の衝撃はブログでもちょっと書いていた。
進捗状況『エバーホワイト EVERWHITE』No.7

インスパイアして書いたのがこれ
両親のギター inspired by『レモン/グラス』王木亡一朗

あと以下二つの王木小説がポイント還元セール中。夏の魔物がいいよ。


追記3:しかし10代、20代の頃と比べると『恥じらい』みたいなものは薄れてきたかもしれない。これじゃあ虎にはなれないな。山月記でも読もうか。書く方もそうだけど、読む方でも年取ってからのほうが良く読めると思う。10代で山月記読んでも、あれは言うなれば打ち砕かれた中二病みたいな話だから(なんだこの落ちこぼれのクソ野郎)と思うのではないだろうか。何で教科書で習うんだ? 10代の時点で虎になった李徴に共感できる子はかなり闇を抱えた人生送っていると思う。というか一生分からないままでいられたら良い人生だよね。

読後:何回か読んでいると心に響くところが違うもので、李徴が別れ際に袁傪を殺したくないから同じ道を通るなと頼むところで、ぐっと涙が出そうになった。李徴は嫌なやつだけど、袁傪との友情を大切にできる心を持っていたのが良い。頭から爪先まで虎じゃない。だから苦しんでいる。
山月記 [Kindle版]
しかし、今の時代、李徴みたいに虎になっても、すぐに狩られてしまいそうなのがちょっと悲しい。ドラゴンぐらいにならないと。それでもミサイルには勝てないか(ドラッグ・オン・ドラグーン参照)。バイストン・ウェルの聖戦士か、風の魔装機神じゃないと無理だ。
オカルト力(ちから)が必要とされている。そういえばオーラバトラーはハイパー化したっけ。李徴が乗ったらめちゃくちゃ強そう。

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村上春樹はノーベル賞を取れない。取るのはまだまだ先の話

 前評判では村上春樹(敬称略)が今度こそ取ると騒がれていたが、2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランが取った。
  何故今さらこんな話をするのか。このニュースが流れていた時、私は『エバーホワイト』を執筆中だったので思うところはあっても書く気になれなかったからだ。

 色んな人が村上春樹はノーベル賞を取れないと言っている。 取るなという願望もあるんだろう。私は取れないと思っている。理由は国内で村上春樹が嫌われているから。
 いやいや『色彩を持たない〜』が発売早々100万部売れたような作家が嫌われている? なんて眉唾な話に思われるかもしれないが、事実そうなのだ。ネット上ではかなり嫌われているし、件の『色彩を持たない〜』では面白く内容を揶揄したレビューが話題になったほどだ。
 それに作家の中でも嫌われている。図書館でとある作家の90年代の対談集を読んでいると「あのね、俺、最近話題になっているていう小説読んだのよ。そしたらさ、冒頭で主人公がドイツの航空会社の飛行機に乗って昔の恋人を思い出すところを何十枚も使って書いてやがんの。こいつバカだと思ったね」的なことを書いてあった(正しい内容は忘れた。なんという本かも忘れた。まぁだいたいこんな感じの内容だった)。ちょうどその時『ノルウェイの森』を読んだ後だったので、すぐに村上春樹のことだと分かった。 分かる人には分かるように表立って書いているのなら、裏では相当言われているはずだ。それに対談した作家にしても、自分の名前で出す本なのだから、そういう部分は相手に気を使って削除しても良いはずなのにちゃんと残しているということは、概ねその意見に同意しているのだろう。
 別に同業者に嫌われても読者の支持があれば良いではないか、と思われるのだが、ノーベル賞を取るにはまず推薦されなければならない。それがなければ審査すらされない。そして文学賞は各国のペンクラブにも推薦を依頼するらしいので、同業者の評判が悪ければ推薦されない確率が高いのだ。
 あっ、別にこれは村上春樹を嫌いなことを責めているのではないよ。ただ彼らに嫌われているから推薦されないだろうなということを言いたいのだ。
 海外で人気があるから海外の推薦人が推すという可能性もある。しかし普通に考えて各国の推薦人は自国の作家を推すだろうから村上票が入るとは考えづらい。それが理由でそもそも候補にも上がっていないのではないかと私は思っている。

 村上春樹はどんな作家なのか。
 エロ作家という評判がある。たしかにそういう描写はある。でも、あれを読んで(やれやれ、僕は射精した)となる人間が何人いるか疑問だ。エロという観点で見れば、それ専用の小説の方がよっぽどエロい。本当に読んだのか? もしくは私の想像力が弱いのかもしれない。あっ、こう書くと何だか遠回しに書くのが下手と言っているような気がしてきた。やっぱりエロいです。村上春樹は色気たっぷりです。

 冗談はさておき、長編に限っていうのなら村上春樹の物語を構成する背骨のプロットはひとつだけだ(私個人の意見です)。こちらとあちらの二つの世界があって、男と女が別れ別れになる話(だから鼠が女説があるんじゃないか? 私はまだ筆が固まっていなかったから男だと思う。そう読むのはちょっとひねくれているぞ)。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』からその傾向がはっきりしてきた。
 それじゃあ同じ話を書いているのかと言われれば、う〜ん、まぁ重なるところはあるんだけれど(同じ人間が書いているのだから当然か)、ちょっとずつ前進していることが分かる。

上下巻以上の長編だとこうなっている。
(以下、名前が覚えられないので男と女と表記する。自分の小説でも覚えらないから許して)

 例えば『ノルウェイの森』だと女は最後にあちら側の世界へ行ってしまう
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だと男は最後にあちら側へ行く
 『ねじまき鳥クロニクル』だと井戸の底からあちら側の世界へ行って、正体不明の状態で女と再会し
 『海辺のカフカ』ではちゃんと顔を合わせる(だったかな?)
 『1Q84』ではそこからさらに女と一緒に元の世界へ戻ってくる(第三の世界と匂わせている節もある)

 と、私は読んだ。プロットとして見れば徐々に話は進んでいるのだ。

 それじゃあ、もし次の上下巻以上の長編が出たらどんな話になるのか。
 仮に『X』と名付けるとする。

 『X』でもやっぱり男と女はこちらとあちらの世界に分かれている。それで三巻ぐらい使って、二人は再会してこちらの世界に戻ってくる。そして、たぶん子どもが生まれる。その後を書くとしたら、やっぱり女はあちら側の世界に戻るだろう。『1Q84』で女が殺し屋だったみたいに、何かしら罪なり穢れなりを背負っていて、それが二人を引き離す要因になるのだろう。子どもは男の元に残る。そこで話が終わる。
 あっ、そういえば『海辺のカフカ』は母親がいない少年だったっけ(父親が誰か分からないという題材は珍しくないけど、母親が分からないというのは珍しいね)。それと姉も。そこまで繋がるのか? 

 と、勝手に色々書いてみたが、まさかこんな世間の片隅にいるような人間が考えたような話を村上春樹が書くはずがない。きっと予想を越えるような話を書いてくるんだろうな。絶対にそんなことはないだろうから、安心して好き勝手に書くことができた。ちなみにプロットが評価されてノーベル文学賞を取ることはないと思う。しかし、こうやってまとめてみると村上春樹の文体はドライなアメリカンだと言われているが、プロット自体は伝統的な物語だ(私個人の感想)。

 村上春樹は精神的プロレスの根性が生きている。それが彼の魅力なんではないだろうか。作中ではたいてい荒唐無稽なことが起きるのだが、主人公はとりあえずそれを受け止める。北海道へ羊を探しにいくことになっても、怪しげな占い師が出てきても、とりあえずはそれを現実として受け止めるところから始まる。たぶん村上春樹本人にしても、もしノルウェイの森みたいな女がいれば「テメエみてえなメンヘラこっちから願い下げだっ!」ぐらい言うかもしれないが、とにかく氏の小説に出てくる主人公は色んな物を受け止める器の大きさがあるのだ。冷静になって考えてみると、そんな男現実にいないとは思うが、現実なんてつまらないじゃないか。つまらない物を読むぐらいなら寝てたほうがマシ。

 村上春樹の書く男は基本的に弱そうだ。強そうだったのはカフカ少年ぐらいか。村上春樹の書く男は一発殴ったら簡単に尻もち付きそうな印象がある。でも、その男は地面に座り込んだまま、ねとっとした目でこちらを見上げてきそうなしたたかさもある。もう一発蹴ったら転がりそうな感じもするけどね。もちろんそうしても、やはりこちらの様子を背中で窺っていそうだ。精神的には決してへこたれない柳のような強さがある。でも三島由紀夫がいればジョギングしないで筋トレしてろって言いそう。


 その村上春樹の小説だが、女はしょっちゅう行方不明になる。何処かへ消える。あるいはこの世にいない(あっちの世界にいる)。一番新しい短編集は『女のいない男たち』というそのままズバリのタイトルだ。元ネタはヘミングウェイの短編『男だけの世界』。この本に収録されている鱒を釣る話を読んで、山奥に釣りをしに行こうと思ったことがあるが未だに果たせていない。森と水の静けさと涼しさ。とっても雰囲気が良くて影響を受けること間違いなしだ。でも、たぶん一生行かないんだろうな。先達もいないし。でも森の奥で一人食べるキャンプの飯はとっても美味そうだ。『The Hemingway cookbook』という本がこの世に存在するのもうなずける。

 村上春樹の短編といえば『かえるくん、東京を救う』がどうも人気らしい。『神の子どもたちはみな踊る』という短編集に収録されている。車でラジオを聴いていると毎年この時期には村上春樹の話題が出て、ゲストに出てきた
アーティストはみんなこればっかり推しているような気がする。音楽業界に布教者がいるんじゃないか? 一人ぐらい『ノルウェイの森』が好きですという人がいてもいいじゃないか。出版部数的にそうならないとおかしい。せめて『1Q84』だろう。どうしてみんな揃いも揃って短編集の中にある一作を推すのか不思議でならない。短編集なんてほとんど売れないじゃないか。しかも90年代の本なのに? でももしかすると音楽をやっている人には何か琴線に触れるものがあるのかもしれない。
 私は
同じ本でならそちらより『蜂蜜パイ』の方が良いな。まさきち君ととんきち君の友情の話がいい。とんきち君が落ちぶれたとき、彼はまさきち君と友達でいるために彼の情けを受け取らずに山から姿を消すっていうのが良いんだ。その後ちゃんと二人はうまい形で友達に戻るしね。村上春樹は短編でこういう話を書いてくるからあなどれない(←村上春樹に向かってこの言い草。お前何様のつもりだ?)。さっき読んでみたがやっぱりいい。村上春樹は短編集から読んでいくのがいいと思う。

 話は大きくそれたが、村上春樹がノーベル文学賞を取る日は遠いだろう。少なくとも氏と同年代の人がいるうちは取れないんじゃないかな、たぶん。『村上春樹氏が今年のノーベル文学賞を受賞』というニュースが流れる頃には『えっ、村上春樹ってまだ生きている人だったの!?』と、まずそっちの方がニュースになるのではないだろうか。

 でもさ、ここまで村上春樹とノーベル賞のことを書いてきたんだけど、私は彼より辻仁成の方がノーベル文学賞を取るような気がするんだよね。彼の最高傑作と言われる『海峡の光』は物が多いのでブックオフで100円で買える。厚みもそれほどないのですぐ読める。少し前に話題になった『火花』と同じぐらい。そういえばどちらも真正面から書いた正統派というのも共通している。超オススメ。Kindle版はまだない(2016年11月現在)。とにかく良いよ、辻仁成は。ヘミングウェイと同じくらいイケメンだし、料理本も書いている。読んだことはないが表紙のやつは美味そうだよ。辻仁成には人生が詰まっている。足りないのは筋肉ぐらい。三島由紀夫なら筋トレしろって言うだろう。

 でも村上春樹だって好きな方さ。あれだけ騒ぐのだからそろそろ取ってもいいんじゃないかな。毎年上げて落とすことないんじゃないかなって思うんだよ。ちょっとかわいそうだよね。取る取る言い始めてから10周年を迎えてしまったことだし、そろそろ静かにしてあげてもいいんじゃないかな。どうせ取る時は取るんだしさ。もしかしら来年取るかもよ? それにノーベル文学賞なんてそんなにありがたいものでもあるまい。これまで何人も受賞した人がいるが、そのうち何人の作家の作品に触れたことがあるか? 去年誰が取ったかも定かではあるまい。
 夏目漱石もドストエフスキーもノーベル文学賞は取っていない。それでも彼らの作品は今も残っている。
しょせんそんなものだよ。賞によって作品の価値が上がることはなく、ただ脇に添えられるだけに過ぎない。エビフライに付いてくるポテトサラダみたいな物。

 ポテトサラダは好きだけどね。

(おわり)


追記:ヘミングウェイの短編の話だけど正確には『ヘミングウェイ短編集1 われらの時代・男だけの時代(新潮文庫)』の『われらの時代』の章に入っている『二つの心臓の大きな川』というお話。ちょっとややこしい。あと調べてみると徳島にいるのはアメゴというちょっと小さいサイズの鱒で、ヘミングウェイの小説に出てくるような鱒はいないっぽい。っていうかアメゴって鱒だったのか。アメゴなら子どもの時に何かの祭りで手掴みしたことがあるぞ。はぁ、なんだか急に夢がしぼんできた。ネットで簡単に調べ物ができてしまうのも功罪ある。大人しく鮭フレークでも食べているかな。それと本当に余談だが、ヘミングウェイは色んな物を題材にしているけれど、闘牛より釣りのほうがいいと思う。でも『老人と海』はイマイチ。ボクシングもイマイチ。一番いいのは『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』という狩猟を題材にした短編。主人公がライオンを狩るのに失敗して、奥さんに冷たくされるは、浮気もされるはで、しょんぼりしていたんだけど、次の狩りは成功して(何を狩ったっけ? 鱒ではなかったと思う)自信を取り戻すと、今度は奥さんがしょんぼりして、フランシスやったな!と心躍るのも束の間、彼がいきなり死んでしまうのがなんとも言えない。あれがヘミングウェイの中で一番の傑作じゃないかな。だっていまだにタイトルを覚えているぐらいだもの。あぁ、なんだか今日は小説の先達に向かって大きな口を叩きすぎている気がするな。

追記2:ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をいろんな人が推している。『罪と罰』なら読んだことがあるが、どうもこっちの方が最高傑作らしい。それもドストエフスキーの中ではなく、小説の中で。
 人中の呂布、馬中の赤兎、小説のカラマーゾフ兄弟みたいなものか。
 新しく本も出したことだし、ようやく重い腰を上げて件の本を求めに本屋へ行った。しかし本屋を出た時に私が持っていたのは『悪霊』という本だった。タイトルの響きがカッコよかったから。題名って大切!

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執筆日記No.11 EVERWHITE−次に日本人でノーベル文学賞を取るのは?

『EVER WHITE』 の案を書き始める。限りなく透明に近い白とかシックスナインとかふたつの案があったけれど、とりあえずは『EVER WHITE』でいく。もしかしたら書かないかもしれない。思っていたものと変わるかもしれない。でも書けるんじゃないかな、たぶん。今までだって書けたんだから。今のところは案を書いているだけなので楽しい段階。イメージだけだから。形にしていくのはしんどいよね。

先週から遠藤周作の『沈黙』を読んでいて昨日読み終わった。江戸時代にキリスト教を広めにきた宣教師の話。西洋的な強さが挫かれて、でも愛というか優しさを持ち続けるという内容で、これって日本ナイズドされたキリスト教じゃね? と思ったけど、そういえば作中でも天宗した宣教師がそう言っていたっけ。
 キリスト教を扱っているし、翻訳されたらノーベル賞いけるんじゃないかとGoogle先生に問い合わせてみたら、やっぱりノーベル文学賞候補だった。っていうか『たそがれ清兵衛』の人だと勘違いしていた。あっちは藤沢周平。 
 ノーベル賞を取れなかったのはパリの文壇と関わらなかったからさ。と心のなかで冗談を言った。その後で、もしかすると日本のノーベル賞作家はパリの文壇に関係あるのか? と調べてみた。


まずは『雪国』の川端康成。時代が時代だけに彼はパリの文壇との関わりはない。しかし、カフェ・パリという店に通っていたそうだ。ちょっとだけパリに関係している。

大江健三郎はどうか? こちらもパリの文壇との関わりはないようだが、東大の仏文科を出ている。フランスといえばパリ。やっぱり少しだけパリに関係している。
 
それじゃあノーベル賞に近いと言われる村上春樹はどうか? ウィキペディアを読んでもそれっぽいエピソードはないし、Google先生でも出てこない。フランツ・カフカ賞は一文字違いでフランスになるけどチェコの文学賞。ということは村上春樹はノーベル文学賞を取れないということになる。

それじゃあ同じ村上でもドラゴン、龍の方はどうかと調べてみたが、こっちもダメ。しばらく日本からノーベル文学賞を取る作家は出てこないな、と思ったのも束の間、すぐにフランスに関係ある作家が思い浮かんだ。しかもパリに関係あり!それは・・・・

辻・仁・成


 『海峡の光』で芥川賞も取っている。騙されたと思って一度読んでみるといい。たぶん取るって思うはず。間違いない。いつになるか分からないが次に日本人でノーベル文学賞を取るのは辻仁成で決まり。今頃パリでは「ムッシュ・ツジは日本、いや世界最高の作家だ」と囁かれているに違いない。絶対に取る。もしブックメーカーで村上春樹と村上龍、どちらがノーベル文学賞取るかと出たら迷わず辻仁成を推すね。1万円つぎ込んでもいい。

今日は小説の中に出てくる方言について書こうと思っていたけれど、この衝撃的な事実に気づいたら、どうでも良くなってしまった。今日はもうこれでおしまい。

 (2016/06/29 21:12 牛野小雪 記)

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