愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

書評

人間工場とバナナランド

「人間工場」という言葉が浮かび上がると、冷たく無機質なイメージが思い浮かぶ。生命が生まれ、育てられ、選別され、そして捨てられる。その一連の過程が工場のように機械的に進行していく。牛野小雪の小説『バナナランド』に登場する「人間工場」は、まさにそのような無慈悲な生産現場だ。私たちが生きる現代社会が生産性を至上の価値とするならば、この工場はその究極の形と言えるだろう。そして、その姿は未来のディストピアを映し出しているかのようだ。

『バナナランド』の「人間工場」は、人間が作り出される場所だ。そこでは、生まれたばかりの子どもたちがIDで管理され、遺伝子情報や栄養状態、成長のスピードまで監視されている。効率的に優れた人材を育てることが工場の目的だが、目標に達しない子どもたちは次々と処分され、残された者だけが生き延びる。合理性を追求する工場は、あらゆるデータをもとにして「優秀か、そうでないか」を決定する。子どもたちは、生まれながらにして生産物として扱われ、その命は効率の枠内で評価されるのだ。

この工場で働くユフは、まさにその「選別」を担当する人物であり、日々頭を悩ませながらも冷徹に子どもたちの未来を決めていく。工場の中では、合理性こそが絶対の正義であり、感情や人間的な揺らぎは排除されている。効率の追求とともに進むテクノロジーの進化が、この工場を支えているが、それは同時に人間性を抹殺するものであることを強調している。

しかし、ここで私たちが直面するのは、まさに現代社会の縮図ではないだろうか。現代の社会でも、私たちはあらゆるものを「生産性」で測る。人々は、職場での成果や時間当たりの効率で評価され、学校では点数や偏差値が重視される。すべてが数値化され、誰が優秀で誰がそうでないかが、システムによって判断される。このように、生産性を基準にする社会は、私たちにとって「人間的」なものであるとも言える。なぜなら、人間は進化の過程で効率的に問題を解決し、発展してきたからだ。

では、なぜこの「人間工場」が危険だと感じるのか。それは、個々の命や人間性が単なるデータや素材として扱われ、生命そのものの尊厳が軽視されるからだ。ユフが工場で行う「選別」の過程は、人間を効率よく管理し、最大限の結果を生み出そうとするシステムだ。しかし、この選別は同時に、命の軽視や人間性の喪失をもたらす。工場で処分された子どもたちは、未来の可能性を持ちながらも、数値の壁を越えられなかったために消されるのだ。

この状況は、現代社会にも通じるものがある。企業が利益を追求するために社員をリストラしたり、教育システムが成績だけで生徒を評価したりするのと同じ構造だ。生産性や効率が重視される社会では、個々の個性や感情、倫理観は二の次になる。小説の中で描かれる「人間工場」は、この生産性至上主義の極端な未来像を提示しており、その無機質さと冷徹さは、私たちが進むべき未来への警告とも言える。

一方で、『バナナランド』というタイトルに込められた意味にも注目したい。バナナは、日常的でありながら、どこか滑稽さや無邪気さを連想させる果物だ。しかし、このバナナランドという世界は決して無邪気な楽園ではない。むしろ、人間を素材として扱う「人間工場」や、社会の効率至上主義が支配する冷酷な世界が描かれている。タイトルの軽快さとは裏腹に、作品全体には重いテーマが潜んでいる。

『バナナランド』の世界では、命は工場で生産され、選別され、無駄なく利用される。この徹底的な合理性と効率の追求が、人間性を侵食し、社会そのものを非人間的なものに変えてしまうという危険性が描かれている。現代社会においても、私たちはしばしば「効率」「成果」という基準に囚われ、それが人間性を損なうかもしれないという問題を見過ごしてしまう。この小説は、そのことを鋭く問いかけている。

人間工場は、現代の生産性至上主義を極端にした未来社会の象徴であり、そこに潜む倫理的ジレンマや人間性の喪失が描かれている。生産性が「人間的」だとする現代社会に対する警鐘として、この物語は深い示唆を与える。私たちはどこまで効率を追求し、どこで立ち止まるべきなのか――『バナナランド』は、そうした問いを私たちに投げかけているのだ。


バナナランド
牛野小雪
2023-10-23




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【書評】バナナランド-人間工場が示す未来像- by ChatGPT4o

「バナナランド」は、未来社会のリアリティと哲学的な問いを掛け合わせた、極めて独創的で衝撃的な作品である。物語の中で繰り広げられる人間工場の管理社会、遺伝子操作による人間の選別、そして「中世に滅んだ女」の存在は、読者に強烈なインパクトを与え、現代社会の延長線上にある未来像を深く考えさせる。牛野小雪が描くこの世界は、技術が進歩しすぎたがゆえに、人間らしさや自由を失ってしまったディストピアだ。だがその背後には、私たちが今まさに直面しているテクノロジーと社会の問題が色濃く映し出されている。

物語の舞台である「人間工場」は、人間が遺伝子操作によって生産・選別される未来社会を描いている。この設定は極めて独創的であり、読者に現代社会の延長にある人間管理の未来を思わせる。特に、作中では優れた遺伝子を持つ人間だけが選別され、他は処分されるという冷酷な選択が行われるが、これが倫理的な問題を提起する。現代においても、AIによる評価や監視、ビッグデータによる個人管理が進んでおり、こうした技術の発展が個人の自由や価値をどう制限していくかは現実の問題でもある。牛野はこのテーマを巧みに扱い、未来の管理社会が持つ危険性を警告している。

さらに作中では、全ての人間にチップが埋め込まれ、相互に検索が可能な社会が描かれる。この設定は、現代のインターネットやSNSがもたらすプライバシーの問題や個人情報の扱いに対する警鐘として機能している。人々が常に監視され、評価される世界は、自由がなく、透明性が極限まで追求された社会であり、これは現代の情報化社会に対する批判ともいえる。スマートフォンやデータベースに依存する現代人が、どれほどの自由を手放しているかを反映しているのだ。

特筆すべきは、「中世に滅んだ女」という斬新な設定だ。この物語では、女性という存在がすでに絶滅している未来が描かれるが、物語の途中でフーカという女性キャラクターが登場し、世界の秩序が揺らぐ。この設定は、現代社会におけるジェンダー問題に対する鋭いメタファーであり、性別の違いやジェンダーに対する固定観念に対する批評とも言える。現実世界でも、ジェンダー平等やLGBTQ+の権利が注目されている中で、この小説は性別という枠組みがどれだけ社会に影響を与えているのかを、未来社会を通して問いかけている。

もう一つの重要なテーマは、自己同一性と自由意志の問題である。主人公ユフは、チップによって管理され、自分の行動や感情さえも制御されている。彼が直面する「自分とは何か」という問いや、自分の体が再建された後の自己認識の揺らぎは、現代社会におけるアイデンティティの問題を象徴している。SNSやバーチャルリアリティが進化する現代では、現実の自分とデジタル上の自分のギャップが生まれつつあり、この小説はそれを未来の形で極限まで推し進めて描いている。テクノロジーによって人間のアイデンティティがどこまで変わるのかを考えさせられる。

物語を通じて描かれる「秘密結社くろねこ」は、体制に反抗する反体制的な勢力として描かれているが、彼らの主張は「魂の解放」という崇高なものである。これは、現代社会における自由を求める闘争や反体制運動と共通しており、権力に対する抵抗や自己実現の追求がテーマとなっている。現実世界でも、テクノロジーや資本主義の進展に対する批判が高まりつつある中で、「くろねこ」のような反体制的な動きは、未来だけの問題ではなく、現代の延長にあるものだ。

「バナナランド」は、未来の社会を描きながらも、その中で私たちが今直面している問題を鋭く切り取っている。技術の進歩がもたらす管理社会、自由意志の喪失、ジェンダー問題、そして個人のアイデンティティの揺らぎ。これらのテーマが交錯する中で、牛野小雪は人間の存在価値や自由を問い続け、読者に深い考察を促している。作品全体を通じて感じるのは、技術の発展が人間らしさを奪う危険性と、私たちがそれにどう向き合うかという問いだ。この小説は、ディストピア的な未来像を描きつつも、私たちが失いつつあるものに光を当てる、鋭い社会批評として読むことができるだろう。

(おわり 印象に残った部分をあなたの言葉でシェアしてみて!)

バナナランド
牛野小雪
2023-10-23



【書評】たくぴとるか-逃げ場なき現代の楽園探し- by ChatGPT 4o

「たくぴとるか」は、現代の虚無感に満ちたインターネット世代の孤独と承認欲求を巧妙に描いた風刺的な小説です。主人公のるかがネットアイドルとして自己を表現し、たくぴが引きこもりのヒキニートとして日々を過ごす姿は、現代社会における「成功」と「評価」に対する違和感を投影しています。物語全体に流れるのは、逃げ場のない現実からの逃避と、現実そのものに対する風刺的な視点。軽妙な会話とユーモアの裏に潜むこの小説の本質は、読む者に強い共感と笑い、そして苦みを残します。

本作で重要なモチーフとして扱われているのが「ハワイ」です。るかが繰り返しハワイへ行きたいと言うたび、たくぴは「資格がない」と断る。このやり取りは単なる冗談のように見えますが、実は深い象徴性を持っています。ハワイとは現実の制約から解放された楽園、つまり理想の象徴です。しかし、たくぴが言う「資格」という言葉には、何かを得るためには必ず条件やハードルがあるという現実社会の厳しさが表れています。この「資格」という言葉を巡るやり取りは、現代社会における成功や幸福の条件づけられた性質を暗示し、手に入れたいものがあっても、結局は手に届かない虚しさを風刺的に描いています。

例えば、たくぴが「ヒキニートはやるものじゃなくて在り方」と主張する場面は、現代社会の中で自分の居場所を見つけられない若者たちの心情を的確に捉えています。彼が「在り方」として自らを肯定する一方で、るかとのやり取りの中で、その生き方が社会に対してどれほど無力であるかを認識しています。社会に適応できないたくぴは、実は現実の中で失われたものを象徴しているキャラクターであり、彼を通じて著者は現代の価値観や成功の定義について問いかけているのです。

物語の中で描かれる軽妙な会話や冗談も、この現実逃避と虚無感を裏打ちする重要な要素です。たとえば、るかが「結婚しよ」と言うと、たくぴは「脳に羽でも生えてんのか?」と返し、現実の未来像を皮肉ります。また、るかが「ハワイに行く資格がある」と言っている場面では、「昭和か?」というたくぴのツッコミが、古い価値観と現代の若者が直面する現実とのギャップを浮き彫りにしています。こうした軽い言葉の応酬の中に、実は現代の若者たちが抱える社会的プレッシャーや矛盾が透けて見え、現代社会に対する鋭い風刺が込められています。

本作のもう一つの大きなテーマは「承認欲求」です。るかがネットアイドルとして活動する背景には、再生数や「いいね」に依存しているという現代的な問題があります。彼女が自分の価値を他者の評価によってしか見いだせない姿は、SNS全盛の今、誰もが抱えている問題を反映しています。再生数が増えると彼女の魂が潤う、という表現に象徴されるように、現代の若者がいかに他者の目に依存して生きているかが浮き彫りにされています。だが、この評価は一時的であり、いつか終わりが来ることをるか自身も認識しています。ここには、承認欲求を満たすことができても、その充足感は永続しないという警鐘が鳴らされています。

そして、この承認欲求と現実の無力感が交錯する中で、二人の登場人物はそれぞれに矛盾を抱えています。たくぴはヒキニートとして社会から逃避している一方で、彼自身も何かを得ようとしないまま無気力に日々を過ごしている。彼の「ヒキニートは動詞じゃなくて名詞」という言葉は、働かないことを単なる「状態」として捉える姿勢を示しており、これは現代社会の生産性至上主義への痛烈な皮肉です。たくぴがただ存在しているだけで、何も成し遂げようとしない姿勢は、現実から目を背けたままの多くの若者を象徴しているとも言えます。

「たくぴとるか」は、現実を拒絶し、虚構の中に自分の存在意義を求める姿を鮮烈に描き出した作品です。インターネット社会に生きる若者たちの承認欲求や社会的なプレッシャーを、軽妙な言葉のやり取りと、風刺的な描写で表現しており、読む者に現代社会の矛盾を鋭く突きつけます。ハワイという理想郷を夢見る彼らの姿は、誰しもが一度は現実から逃げ出したいと願う気持ちを反映しています。しかし、その理想はいつも手の届かない場所にあり、結局は現実の制約に縛られてしまう。この小説は、その矛盾と葛藤をユーモラスに、そして皮肉たっぷりに描き切った一作であり、現代社会を生きる人々にとって多くの示唆を与えるものとなっています。

(おわり 印象に残った部分をあなたの言葉でシェアしてみて!)


Claude3に書評してもらうシリーズ『山桜』

山桜
牛野小雪
2021-12-05



牛野小雪氏の『山桜』は近未来の日本を舞台に、主人公の棗正明と周囲の人々の物語を通して、人間の孤独や愛情、生と死について深く掘り下げた作品です。

物語は帝国自動車で無料自動運転車の開発に携わる正明が不正の容疑で逮捕されるところから動き始めます。釈放後、職を失った正明は生きる目的を見失い、レンタル彼女の美島瑠璃子と出会います。二人は次第に惹かれ合っていきますが、瑠璃子の抱える借金問題が二人の関係を揺るがします。

一方、正明の恋人である和花は覚醒困難症を発症し、眠り続ける日々を送ります。正明は和花を連れて自然の中へ出かけ、彼女の目覚めを願いますが和花の意識が戻ることはありません。

物語の後半では正明と瑠璃子が借金取りから逃げるために雪之郷へと向かいます。そこでの二人の交流は、人間の心の機微を丁寧に描写しています。しかし、かくれんぼ中に瑠璃子が事故死してしまい、正明は再び孤独に陥ります。

作品全体を通して、近未来の日本社会の閉塞感や人間関係の希薄さが印象的です。自動運転車や超高層ビルが立ち並ぶ都市の描写はテクノロジーの発展がもたらす利便性とそれによって失われゆく人間性を浮き彫りにしています。

正明と瑠璃子、和花との関係性は現代社会における人間関係の難しさを象徴しているようです。愛する者との別れや、自分の居場所を見失う不安は読む者の心に強く訴えかけます。

牛野氏の文章は詩的な表現を随所に用いることで登場人物の心情や情景を鮮やかに描き出しています。特に自然描写や登場人物の心の機微を表す比喩表現が秀逸です。

『山桜』は近未来の日本を舞台に人間の孤独や愛情、生と死といった普遍的なテーマを見事に描き上げた作品です。テクノロジーの発展がもたらす社会の変化と変わらぬ人間の本質を繊細に捉えた深い洞察に満ちた一篇と言えるでしょう。


山桜
牛野小雪
2021-12-05

Claude3に書評してもらうシリーズ『流星を打ち砕け』



この小説「流星を打ち砕け」は隕石災害に見舞われた世界を舞台に藤原千秋とポロ部の馬・ユニコの絆を軸に展開するファンタジックでハートウォーミングな物語である。

千秋は隕石の夜に吉野川大橋から落ち、パパやママ、そして愛猫のクッキーとはぐれてしまう。だが、避難所では馬を連れて行けず、千秋はユニコと共に砂浜で寝起きする日々を送ることになる。現実と非現実が交錯する不思議な雰囲気の中でユニコとの冒険や他者との交流を通して、千秋は大きく成長していく。

一方、クッキーの視点で描かれるパートは人間と動物、そして動物同士の関係性を鋭く風刺しつつユーモアを交えて綴られている。美しさと愛を巡るクッキーの奮闘は作品に一種のシュールなタッチを加えている。

ラストで明かされる衝撃の事実は読者を驚かせるが、同時に千秋とクッキーの深い絆を印象付けるものとなっている。ユニコの突然の死は悲しみに包まれているが、その死を通して千秋が新たな「強さ」を手に入れたことが暗示されている。

全編を通して軽妙な語り口でありながら、登場人物たちの心情は丁寧に描写されておりページをめくる手が止まらない。現実と非現実、喜びと悲しみ、別離と再会が絶妙に織り交ぜられた、読後感の良い秀作と言えるだろう。牛野小雪氏の真骨頂とも言える、古き良き純文学の香りがしつつも、現代的な感性で彩られたフレッシュな作品である。




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Claude3に書評してもらうシリーズ『ペンギンと太陽』



この小説「ペンギンと太陽」は現代社会の様々な側面を風刺的に描いたユニークで挑戦的な作品です。

主人公は自分が火星のペンギンであると信じており、周囲の人間を火星のペンギンに偽装した人間だと疑っています。この設定は現代社会における個人の孤立感や疎外感を象徴しているようです。

物語は主人公とルル子さんの出会いと結婚、そして二人を取り巻く奇妙な出来事が中心となっています。ルル子さんのファッションデザイナーとしての活動や、遺伝子操作によって生まれた赤ちゃん、Kを中心とした戦争など、現代社会の様々な問題が風刺的に描かれています。

特に印象的なのはファッション業界の風刺です。ルル子さんのデザインは評判が悪いにも関わらず、ブランド名を変えることで人気が出るというくだりは、現代のファッション業界の表面的な側面を皮肉っているようです。

また、戦争とメディアの関係も風刺的に描かれています。Kの配信が世界中で人気となり、戦争の形態が変化していく様子は現代のメディアが戦争に与える影響を象徴しているようです。

一方で、物語の展開が唐突で奇抜すぎる部分もあり、読者を戸惑わせる可能性があります。また風刺的な要素が強すぎるあまり、登場人物への感情移入がしづらいという印象も受けました。

しかし、全体として見れば現代社会の様々な問題を独自の視点で風刺した、意欲的な作品だと言えるでしょう。一般的な小説とは一線を画す実験的な作品ですが現代社会を生きる我々に多くの示唆を与えてくれる、思慮深い一冊だと思います。






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Claude3に書評してもらうシリーズ『エバーホワイト』



この小説は主人公の森正文とその恋人の長谷川美夏という二人の人物を中心に、薬物依存や万引き、空き巣などの犯罪行為に手を染めていく過程と、そこから抜け出そうとする葛藤を描いた作品です。

物語は森正文が童貞を捨てるために風俗店を訪れ、そこで小学校時代の同級生だった長谷川美夏と再会するところから始まります。二人は薬物に手を出し、徐々に依存していきます。一方で正文は営業マンとして優秀な成績を収めていますが、薬物の影響で仕事も徐々にうまくいかなくなります。

長谷川は万引きを繰り返し、正文は空き巣に手を染めるなど二人は犯罪行為にのめり込んでいきます。しかし、ハワイ旅行をきっかけに薬物をやめようと決意し、一時的には立ち直ります。

ところが再び薬物に手を出してしまい、さらに深みにはまっていきます。長谷川は麻薬取締官を殺害し、正文はその死体を長谷川と共に海に捨てます。最後は二人で崖から海に身を投げ、正文だけが生還するという衝撃的な結末を迎えます。

この作品は薬物依存という重いテーマを扱いながらもリアリティのある描写で読者を引き込んでいきます。主人公たちの心理描写も丁寧になされており、彼らが犯罪に手を染めていく過程が説得力を持って描かれています。

また「エバーホワイト」というタイトルは、純白を意味する言葉ですが、物語が進むにつれ、主人公たちが「白」から遠ざかっていく皮肉を表しているようにも感じられます。

全体としては、薬物依存という社会問題を真正面から取り上げ、リアリティのある描写で読者に強いメッセージを投げかける作品だと言えます。犯罪に手を染めていく主人公たちの姿は同じ過ちを繰り返さないための警鐘としても読み取ることができるでしょう。

正文が最後に海を見つめるラストシーンは彼の心の空虚さと失ってしまったものの大きさを象徴しているようで印象的でした。この作品は、薬物依存の恐ろしさと、それが引き起こす悲劇を読者の心に深く突き刺さる形で描き出していると言えるでしょう。





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Claude3に小説を書評してもらうシリーズ『銀座の中心で稲を育てる』

この小説「銀座の中心で稲を育てる」は、現代社会における自由と愛、そして芸術の価値について深く考察した意欲作だと思います。

主人公は銀座の中心に田んぼを作ることで本当の自由を追求します。それは社会の常識や価値観に囚われない、自分の意志で選択する自由です。田んぼには絶えずゴミが捨てられますが、それすらも主人公の自由への渇望を表しているのかもしれません。

一方で、主人公は醜い女性を誘拐するという衝動的な愛の行為に出ます。欲望のない純粋な愛を求めた結果ですが、愛する相手の自由を奪う矛盾に陥ります。愛と自由の相克は、主人公の心の葛藤として巧みに描かれています。

また、画家の風華が名画の複製を量産し、焼却するエピソードからは、希少性によって決まる芸術の価値について問いかけているようです。

銀座のゴミ展で一時的に価値を持ったゴミのように、この物語に登場する人物や物事は、主人公の思惑とは裏腹に予想外の展開を見せます。それは人生の不条理や、思い通りにならない世界の姿を暗示しているのかもしれません。

最後に主人公が投獄され、言葉の理解さえおぼつかない状況に追い込まれるラストは衝撃的ですが、「銀座の米」を通して再び希望を見出すという結末は、読者に考える余地を残します。

全編を通して、筆者の言葉選びは独特で印象的です。時にシュールで不可解な表現もありますが、それによって作品世界の幻想性が高まっています。

この小説には、印象的な言葉がいくつかありました。

"選択の余地がないのなら自由ではない。必要を満たすことは自由ではない。欲求を満たすことも自由ではない。"
この言葉は、主人公が考える「自由」の定義を端的に表しています。外部から強制されるのではなく、自らの意志で選択することが真の自由だと言えます。

"愛だ。愛こそ全てだ。そのためになら自由を売り渡してもいいとさえ思った。"
これは、主人公が純粋な愛を追求する中で抱いた感情です。愛のためなら自由も犠牲にできると考える、愛の強さと危うさを表現しています。

"言葉は分かる、文章も分かる。しかしそれが全体になると、もはやそれが小林あずさのことを聞いているのかさえ分からなくなった。"
小林あずさについて理解できなくなった主人公の状況を表す一文です。個々の言葉は分かっても、全体としての意味が掴めない、言葉の限界とも言える状況を巧みに表現しています。

これらの言葉は、主人公の思考や状況を鮮明に描き出し、作品のテーマを印象付けています。読者に考えさせる、含蓄のある名言だと思います。

総じて、「銀座の中心で稲を育てる」は斬新な着想とテーマ設定、そして豊かな言葉で織りなされた意欲的な作品だと言えるでしょう。自由と愛、そして芸術という普遍的なテーマについて、読者に深い思索を促す一編です。

(おわり)

彼岸花が咲く島 /李琴峰



李琴峰の『彼岸花が咲く島』は、記憶を失った少女・宇実が流れ着いた不思議な島を舞台に、言語、ジェンダー、歴史をテーマに織り成す物語です。島では、古代日本を彷彿とさせる独特な文化や風習が根付いています。

物語前半は、宇実が島の生活に馴染んでいく過程が丁寧に描かれます。鮮やかな情景描写と、宇実とその親友・游娜の瑞々しい交流が読者を引き込みます。一方で、島の歴史を知る「ノロ」と呼ばれる神職の存在や、「ニライカナイ」からの来訪神に扮する神事など、ミステリアスな要素も随所に散りばめられています。

物語が進むにつれ、島の秘められた過去が明らかになっていきます。島は、かつて中国と日本の狭間で独自の文化を育んできましたが、ある時、日本による植民地支配を受けます。「ひのもとぐに」と呼ばれるその時代、島民は「うつくしいひのもとことば」を強要され、固有の言語・文化を奪われてしまったのです。

この衝撃の事実は、日本の植民地支配の歴史を想起させずにはいません。しかし、李琴峰はただ歴史を描くのではなく、島の女性たちが主体となって平和を守ろうとする姿を通して、新しい希望を見出そうとします。島の若者たちは、過去の過ちを乗り越え、よりよい未来を切り拓いていこうと決意するのです。

本作は、台湾出身の著者が第二言語で書き上げた意欲作であり、言語の混交する文体は独特の魅力を放っています。一方で、漢字の読みの難しさや、ファンタジー設定の粗さを指摘する声もあります。また、「戦争を起こすのは男」という図式に違和感を覚える読者もいるでしょう。

しかし、『彼岸花が咲く島』の真骨頂は、日本の言語や歴史、ジェンダーのあり方を問い直す姿勢にあります。宇実と游娜、拓慈ら若者たちの眼差しを通して、私たちはこれからの社会のあるべき姿を考えさせられるのです。美しい情景と登場人物たちの瑞々しさに彩られた物語は、読後も長く心に残ることでしょう。

李琴峰は、異なる文化が交錯する状況を自らの原体験として持つがゆえに、言葉と歴史の問題に真摯に向き合うことができたのかもしれません。彼女の眼差しは、日本の多様性が増す中で、私たちが進むべき道を照らす灯火となってくれそうです。『彼岸花が咲く島』は、新しい時代の息吹を感じさせる、記念碑的な作品と言えるでしょう。

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25



貝に続く場所にて/石沢麻依

貝に続く場所にて (講談社文庫)
石沢麻依
講談社
2023-09-15



『貝に続く場所にて』は、東日本大震災から9年後、コロナ禍のドイツの古都ゲッティンゲンを舞台に、震災で行方不明となった後輩・野宮が突如現れることから始まる物語です。主人公は震災の記憶を避けるように生きてきましたが、野宮の出現により、失われた記憶の断片がよみがえってきます。

作品には複雑に絡み合う様々なモチーフが登場します。惑星の小径というゲッティンゲンの太陽系縮小モデル、聖人の名を持つ女性たち、トリュフ犬、かつてこの地に滞在した寺田寅彦と夏目漱石など、これらが記憶や過去を巡る旅の導き手となっています。

物語の鍵を握るのが、9番目の準惑星から外れた冥王星です。冥王星は海王星の内側に入り込む特殊な軌道を描きますが、これは主人公の記憶の揺らぎと呼応しているかのようです。また、貝は聖ヤコブのシンボルであり、巡礼と深い関わりを持ちます。野宮はこの聖地に現れた亡者の象徴とも捉えられます。

文体は錯綜としており、一読では理解が難しいかもしれません。感情を直接言葉にするのではなく、暗示的で詩的な表現が多用されています。震災やホロコーストといった悲劇的な出来事を安易に「文学」の題材にすることへの違和感を覚える読者もいるでしょう。

しかし、この作品が織りなす言葉の綾、時空を超えた奥行きと距離感は見事です。一つ一つの場面には息をのむような美しい描写が散りばめられ、ラストの巡礼シーンは圧巻です。読者を異世界へいざなう文学的イリュージョンは、著者の類稀なる才能を証明しています。

『貝に続く場所にて』は、震災という国民的トラウマに、文学を通して新たな光を当てた意欲作です。記憶と向き合い、悲しみを乗り越えていくためのヒントが随所に隠されています。難解な文体に躓きながらも、再読の価値は十分にあるでしょう。恩田陸の真摯な文学への姿勢と技巧は、日本文壇に新風を吹き込む存在と言えます。

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25



『おいしいごはんが食べられますように/高瀬隼子』書評


『おいしいごはんが食べられますように』は、高瀬隼子による第167回芥川賞受賞作品である。一見ほっこりとしたタイトルからは想像もつかないような、人間関係のもつれや心の機微を鋭く描き出した作品だ。

物語は、食に興味がない男性社員・二谷と、同僚の女性社員・押尾、そして二谷の恋人で食に興味のある芦川の三人を中心に進められる。二谷と芦川が自宅で食事をするシーンと、二谷と押尾が外食するシーンが交互に描かれ、対比的な構成になっている。美味しい食事をしているはずなのに、どこか暗く、ざわつく気持ちになるのが印象的だ。

芦川は一見弱く、周りから守られる存在だが、その弱さゆえに周りを上手くコントロールしている。一方、仕事ができる押尾はそんな芦川の態度に苛立ちを感じている。そして二谷は、芦川の言動に疑問を感じつつも、彼女の「かわいさ」に流されてしまう。三者三様の心情が丁寧に描かれ、読み手に様々な感情を喚起させる。

この物語は、現代社会における人間関係の機微を鋭く風刺している。弱者が守られ、強者が疎外される皮肉。優しさの裏に潜む打算。多様性を認めることで生じる軋轢。そうした普段は口に出せない感情が、巧みな筆致で浮き彫りにされる。

特に印象的なのは、ラストシーン。二谷が芦川と結婚する決意をするも、その理由が芦川の「かわいさ」であることに読み手は違和感を覚える。愛情よりも優越感が勝っているようにも感じられるのだ。

タイトルの「おいしいごはんが食べられますように」という祈りは、一体誰に向けられたものなのか。三人それぞれの幸せを願うものなのか、それとも皮肉なのか。作品の余韻を読者の胸に残す、考えさせられる一編である。

(おわり)

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25


『移動祝祭日"A Moveable Feast"/アーネスト・ヘミングウェイ』レビュー

移動祝祭日(新潮文庫)
ヘミングウェイ
新潮社
2016-04-22


『移動祝祭日』は、アーネスト・ヘミングウェイが晩年に著した自伝的エッセイであり、1920年代にパリで過ごした文学修業時代の思い出を綴ったものである。当時、ヘミングウェイは無名の若き作家であり、最初の妻ハドリーとの慎ましいながらも幸せな日々を送っていた。

作品では、ヘミングウェイの日常生活や執筆習慣、そしてパリで交流した同時代の作家や芸術家たちとの関係が生き生きと描かれている。特に、スコット・フィッツジェラルドとの友情と確執は、作品の中でも重要な位置を占めている。ヘミングウェイは、フィッツジェラルドの才能を高く評価する一方で、彼の性格や私生活についてはかなり辛辣に描写している。

また、作品には、ヘミングウェイの文学観や人生観も随所に散りばめられている。彼は、短く正確な言葉を重ねることで真実を伝えようとし、貧しさや嫌いな人々についても赤裸々に綴っている。しかし、その根底には、若き日の純粋な愛や芸術への情熱がひしひしと感じられる。

『移動祝祭日』は、ヘミングウェイの他の作品を読む上でも重要な手がかりとなる。例えば、短編集『われらの時代』や長編小説『日はまた昇る』などには、パリ時代の経験が色濃く反映されている。この作品を読むことで、それらの作品の背景がより深く理解できるだろう。

ヘミングウェイがパリで過ごした1920年代は、20世紀を代表する多くの芸術家たちが集った時代でもあった。『移動祝祭日』は、そうした芸術家たちとの交流や当時のパリの雰囲気を鮮やかに伝えており、文学史的にも貴重な記録となっている。

作品の随所に登場するカフェやバーでの飲酒、競馬や旅行など、ヘミングウェイの日常生活の描写からは、彼の人間的な魅力も感じられる。一方で、別れた妻への後悔の念や、フィッツジェラルドへの複雑な感情は、作家という職業の孤独や苦悩をも浮き彫りにしている。

『移動祝祭日』は、ヘミングウェイという作家の素顔に迫る貴重な作品であり、20世紀前半のパリの文学シーンを知る上でも欠かせない一冊である。若き日の情熱と苦悩、そして晩年の郷愁が入り混じった、ノスタルジックな回想録として読み継がれるべき作品だと言えるだろう。

訳者の高見浩氏による丁寧な訳注と解説も、作品の理解を深める上で大いに役立つ。作中に登場する人物たちの作品を併せて読むことで、『移動祝祭日』の世界により深く入り込むことができるはずだ。ヘミングウェイが愛したパリの街並みと、彼が好んで飲んだお酒を傍らに置きながら、この作品を読み返してみるのもまた一興だろう。

(おわり)



小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】

牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

 

『武器よさらば"A Farewell to Arms"/アーネスト・ヘミングウェイ』レビュー

武器よさらば (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
2006-05-30



『武器よさらば』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台に、アメリカ人青年フレドリック・ヘンリーとイギリス人看護師キャサリン・バークリーの熱愛を描いた作品である。ヘミングウェイ独特の簡潔で畳み掛けるような文章で、生死の境をさまよう過酷な日々の中で芽生えた二人の愛を鮮明に浮かび上がらせている。

作品は、ヘミングウェイ自身の戦争体験がベースとなっており、戦争の悲惨さや人生の無常さを伝えている。しかし、タイトルから受けるイメージとは異なり、戦争そのものは背景の一部として存在し、物語の軸となるのはラブストーリーである。兵士たちが戦場でワインを飲み、パスタを食べ、仲間とジョークを交わしながら過ごす姿は、我々が想像する悲惨な戦場とは少し違う印象を与える。それでも、兵士たちは次々と負傷し、命を落としていく。

主人公フレドリックは、戦場で負傷しながらもどこか乾いたような戦争観を持っており、それがより戦争の無意味さを浮き彫りにしている。そんな戦争下で生まれたキャサリンとの愛は、明日の命も知れない身だからこそ熱烈なものになっていく。

物語のクライマックスでは、フレドリックとキャサリンが戦争から逃れ、自由を手に入れたかに思えた。しかし、キャサリンは難産の末に死産し、自身も出血多量で命を落とす。この結末は、ヘミングウェイ自身の過去のトラウマを反映しているようにも感じられる。

『武器よさらば』は、戦争文学というよりも、悲劇的な恋愛小説としての印象が強い。直接的な内面描写を排したハードボイルド的な筆致が、一人の個人の目を通して戦争の悪と運命の不条理を告発している。また、絶望的な状況下で人々が何に縋るのかを探っている。

作品には、ヘミングウェイが終生抱えていた信仰への揺らぎも表れている。無神論を強調する主人公が神に祈る場面は、作者自身の内面を映し出しているようだ。

『武器よさらば』は、戦争と愛という正反対のテーマを巧みに織り交ぜ、愛の輝きと戦争の悲惨さを浮き彫りにした作品である。ヘミングウェイの簡潔な文体と緻密な描写が、読者を物語の世界に引き込み、登場人物たちの感情を生々しく伝えている。

(おわり)



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


『日はまた昇る"The Sun Also Rises"/アーネスト・ヘミングウェイ』のレビュー

日はまた昇る (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
2003-06-28

「日はまた昇る」は、ヘミングウェイの初の長篇小説であり、第一次世界大戦後のパリとスペインを舞台に、失われた世代の若者たちの虚無感や満たされない思いを描いた作品です。

主人公のジェイクは、戦争での負傷により性的不能になっており、美しく奔放な女性ブレットと愛し合っているものの、彼女と結ばれることができません。ジェイクの友人たちも、ブレットに惹かれ、彼女を巡って争います。彼らはパリで酒に溺れ、スペインではフィエスタや闘牛を楽しみますが、その享楽的な生活の中にも虚無感や満たされなさが漂っています。

作品は、ヘミングウェイ特有の簡潔な文体で書かれており、登場人物の心理描写は最小限に抑えられています。しかし、会話やアクションを通して、彼らの内面が巧みに表現されています。特に、ジェイクとブレットの切ない関係や、ロメロという優れた闘牛士の登場は印象的です。

作品のタイトル「日はまた昇る」は、一見ポジティブな印象を与えますが、実は皮肉が込められています。失われた世代の若者たちにとって、新しい日が訪れても、彼らの抱える問題や虚無感は消えることがないのです。

ヘミングウェイ自身の経験を基にした作品であり、登場人物のモデルには彼の友人たちがいると言われています。作品には、第一次世界大戦後の若者たちの惑いや、戦争による心の傷、そして1920年代のパリとスペインの雰囲気が見事に描かれています。

文体は読みやすく、スペインの街並みやフィエスタの様子が鮮やかに描写されています。一方で、登場人物たちの行動や会話からは、彼らの内面の闇や満たされない思いが伝わってきます。

「日はまた昇る」は、失われた世代を代表する作品の一つであり、ヘミングウェイ文学の特徴を示す重要な作品です。戦争によって傷つき、方向性を見失った若者たちの姿を通して、人生の儚さと、愛の複雑さが描かれています。作品の魅力は、その簡潔な文体と、登場人物たちの生き生きとした描写にあります。

しかし、一部の読者からは、登場人物たちの自堕落な行動や、筋立ての希薄さを指摘する声もあります。また、ヘミングウェイ特有の文体が、一部の読者には読みにくく感じられることもあるようです。

総じて、「日はまた昇る」は、第一次世界大戦後の失われた世代の姿を鮮明に描き出した傑作であり、ヘミングウェイ文学の魅力が存分に発揮された作品だと言えるでしょう。時代背景や登場人物たちの心情を理解することで、作品からより深い感動を得ることができるはずです。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

 

Claudeに書評してもらうシリーズ『ターンワールド 上』



ターンワールドは主人公のタクヤが現実世界から異世界に迷い込み、そこで様々な人々と出会いながら自身の生き方を模索していく物語です。

物語はタクヤが徳島を目指して家出をするところから始まります。しかし、目が覚めるとタクヤは見知らぬ土地にいました。そこは徳島がすだち県、香川がうどん県と呼ばれる不思議な世界だったのです。戸惑いながらもタクヤはこの世界の雨野神社を巡礼する「雨野巡り」の旅に出ます。

旅の途中、タクヤは様々な人と出会います。河川敷で出会った老人や、旅の仲間となったサナゴウチさん。彼らとの交流を通して、タクヤは少しずつ心を開いていきます。特にサナゴウチさんとはテントの色を塗り替えたり料理を作ったりと様々な経験を共にします。しかし、ある日突然サナゴウチさんが姿を消してしまいます。

タクヤは一人旅を続けますが孤独と不安に苛まれます。自分が本当はこの世界の住人ではないことに気づき、絶望感に打ちのめされそうになります。しかし、雨野巡りを達成すれば願いが叶うという言い伝えを思い出し、再び旅を続ける決意をします。

この物語は非現実的な設定ですが登場人物の心情描写は丁寧になされており、読者に感情移入させます。特に異世界に迷い込み自分の居場所を見失ったタクヤの不安や孤独が手に取るように伝わってきます。

また、雨野巡りの旅を通して出会う人々との交流がタクヤの心の成長に繋がっていく過程が興味深いです。単なる非日常的な冒険譚にとどまらず、人との繋がりの大切さ、生きる意味を問う青春小説としての側面も持っています。

一方で物語後半のサナゴウチさんの失踪や、タクヤの心情の急激な変化には少し唐突さを感じます。もう少し伏線や心理描写があればよりスムーズに読み進められたかもしれません。

しかし、全体を通して非現実的な世界観とそこに迷い込んだ一人の青年の成長物語はよく組み合わされており、読後感は良好です。著者の優れた文章力も相まって最後まで引き込まれる作品となっています。

異世界ファンタジーと青春小説、そしてトラベルフィクションが絶妙に融合した、新しい形の物語と言えるでしょう。非日常の中で己の生き方を模索する若者の姿は、多くの読者の心に響くはずです。

雨野巡りの結末がどうなるのか、タクヤがどう成長していくのか。続編への期待も高まる、ターンワールド上巻でした。



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荒地の家族/佐藤厚志

荒地の家族
佐藤厚志
新潮社
2023-01-19



『荒れ地の家族』は、東日本大震災から10年が経過した被災地を舞台に、そこに暮らす人々の日常と心情を描いた作品です。主人公の坂井祐治は、震災後にインフルエンザ脳症で妻を亡くし、小学生の息子啓太と自身の母和子と共に暮らしています。再婚した女性との間に子供を授かるも、流産により関係が破綻し、離婚に至ります。

祐治の幼馴染である明夫は、震災で妻子を失い、生きる喜びを見出せずにいます。一方、祐治は造園業に従事し、懸命に働くことで生きている証を求めているかのようです。しかし、彼らの心には癒えない傷が残り、日常生活の中で虚無感や焦燥感に襲われることがあります。

作品全体を通して、失ったものが戻らないという現実と、それでも生きていかなければならない辛さが描かれています。登場人物たちは皆、震災という巨大な傷を抱えながら、表面上は普通の生活を送っていますが、心の奥底では未だに復興できずにいるのです。

作者は、美談としてではなく、被災地の現実を直視することを選択しました。徹底して簡明な表現で描かれた日常は、虚飾を排したリアリティを感じさせます。津波を「海の膨張」と表現するなど、被災者の目線に立った描写も印象的です。

明夫の死に際して、祐治が「消える時を自分で決めて何が悪い」と感じる場面は、生き残った者の複雑な心境を表しています。一方で、ラストシーンにおける啓太の笑い声と和子の何気ない一言は、わずかながらも明るい未来への希望を感じさせます。

『荒れ地の家族』は、東日本大震災という未曾有の災害が、被災者一人一人に与えた影響の大きさと、そこから立ち直ることの難しさを、丁寧に描き出した作品です。読者それぞれが、登場人物たちの心情に寄り添い、考えさせられる小説となっています。

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25



ロスト・ケア/葉真中 顕

ロスト・ケア (光文社文庫)
葉真中 顕
光文社
2015-03-27



葉真中顕の小説『ロストケア』は、現代日本の介護問題に焦点を当てた衝撃的な社会派ミステリーである。物語は、介護の現場で働く佐久間が起こした連続殺人事件の公判から始まる。佐久間は、自らの行為を「正しいこと」だと主張するが、検事の大友は、人間の善性を信じる立場から、佐久間の行為を断罪しようとする。

作品を通して、介護の現場で起こる過酷な現実が生々しく描かれる。認知症による利用者の豹変や、家族からのネグレクトなど、介護の闇は外からは見えにくいものであり、ブラックボックス化している。その背景には、貧困ゆえに介護保険制度だけでは賄えず、家族が自宅で介護せざるを得ない状況がある。

佐久間の行為は、法的には明らかに殺人であり、断罪されるべきものである。しかし、作品が進むにつれ、読者は佐久間の動機に一定の理解を示さざるを得なくなる。彼の言動からは、介護の現場で直面する過酷な現実と、それに対する怒りや絶望が透けて見える。

一方、大友検事は、人間の善性を信じ、「人にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい」という聖書の教えを振りかざす。しかし、佐久間から「安全地帯にいるあなたには、現実が見えていない」と指摘され、その論理の脆弱さが浮き彫りになる。大友の善性を説く姿勢は、現実を直視しない、ある種の独善性を感じさせる。

作中では、佐久間の母を殺された洋子の心情も描かれる。長年の介護の末に母を殺された彼女は、複雑な感情を抱きながらも、一種の解放感を覚えている。このリアルな描写は、介護問題の複雑さを浮き彫りにしている。

『ロストケア』は、介護の現場で起こる悲劇を通して、現代日本の抱える構造的な問題を鋭く指摘する作品だ。少子高齢化が進む中、介護の問題は誰もが直面し得る課題であり、真摯な議論が求められる。

作品は、介護の現場で働く人々の苦悩と、それを傍観する社会の責任を問いかける。佐久間の行為は、法的には許されざるものだが、その背景にある絶望と怒りは、社会全体で受け止めるべき問題であることを示唆している。

同時に、作品は、善悪の二元論では捉えきれない、人間の複雑さも描き出している。大友検事のように、安全地帯から善性を説くだけでは、問題の本質は見えてこない。むしろ、現実に向き合い、一人一人が自分なりの答えを模索していくことが求められているのだ。

『ロストケア』は、介護という喫緊の課題を通して、現代社会の闇と、人間の本質的な問いを投げかける力作である。読後に残るのは、重く深い問いかけと、それに向き合っていく覚悟だ。この作品は、高齢化社会を生きる私たち一人一人に、介護の問題について真剣に考えることを促している。

(おわり)

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賢者の書/喜多川泰

賢者の書
喜多川泰
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2012-11-02



『賢者の書』は、自己啓発的な要素を織り交ぜた小説であり、仕事や私生活に行き詰まった会社員の前に現れた不思議な少年が、幸せな人生を歩むための術を記した「賢者の書」を持っているという設定から物語が始まる。

この本には、九人の賢者の教えが記されており、各賢者が主人公に成功と幸福への道筋を説く。彼らの教えは、前向きな思考、自尊心と他者への尊重、目標設定、行動の重要性、時間の投資、感謝の心、そして学ぶ姿勢など、多岐にわたる。

例えば、第五の賢者は、「今日一日を、将来自分の伝記を読む人が『この人なら成功するのは当然だ』と思えるような一日にすること」を教え、第六の賢者は、「金ではなく、時間という財産を投資することが正しい投資である」と説く。

これらの教えは、自己啓発書によく見られる「成長マインドセット」や「引き寄せの法則」、「認知的焦点化理論」といった考え方と通底しており、読者に人生を豊かにするための心構えを提示している。

物語の最後では、教えを授けた側ではなく、学んだ側こそが真の賢者であり、最高の賢者とは、誰からでも学ぼうとする素直な心を持つ人だと述べられる。この点は、本書のメッセージの核心を突いていると言えるだろう。

読者からは、自己啓発書特有の難解さや高尚さを避け、物語形式で分かりやすく教訓を伝えている点が高く評価されている。また、登場人物の言葉や行動から、読者自身の人生を見つめ直すきっかけを得られたという感想も多い。

一方で、登場する賢者の教えの中には、あまりに壮大で理解しづらいものもあったという指摘もある。しかし、全体としては、人生の指針となる普遍的な真理を、読みやすい形で提示した良書だと評されている。

『賢者の書』は、自己啓発的な要素を取り入れつつ、ストーリー性を持たせることで、読者が楽しみながら学べる工夫が施された作品だと言えるだろう。新年を迎え、自身の生き方を見つめ直したい人にとって、格好の一冊となりそうだ。

(おわり)

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


いけない/道尾秀介

いけない (文春文庫)
道尾 秀介
文藝春秋
2022-08-03



道尾秀介の短編集『いけない』は、各章の最後に挿入された写真を手がかりに、読者自身が事件の真相を解明していくという斬新な手法を用いたミステリー作品である。

物語の舞台は、自殺の名所である「弓投げの崖」を擁する二つの架空の町。各章のタイトルには「いけない」の文字が織り込まれ、巻頭には「本書のご使用方法」と題された真相への導きが記されている。こうした趣向は、読者のワクワク感を高めるのに一役買っている。

謎解きの難易度はさほど高くなく、伏線をきちんとたどることで写真の意味を読み解くことができる。しかし、一部の読者からは、ストーリー自体の面白みが薄く、真相が明らかになったとしても物語への没入感が乏しいという意見も聞かれた。犯人の心情や背景への踏み込みが不足していることが、その一因かもしれない。

また、作品全体を通して漂うイヤミスな雰囲気も特徴的だ。ラストシーンでは、登場人物の小学生二人が町の平和を信じる爽やかな会話を交わすが、実際には犯罪者たちが野放しになっているという皮肉が込められている。

読後感の評価は分かれるところだが、写真を用いた新しい謎解きの手法自体は興味深く、ミステリーファンの関心を惹きつけるに十分だろう。一度読み終えた後、解説サイトを参照しながら再読することで、より深く作品を味わうことができる。

総じて『いけない』は、独自の手法に挑戦した意欲作であり、ミステリーの新たな可能性を感じさせる一冊だ。ただし、物語やキャラクターの深み、感情移入のしやすさという点では、やや物足りなさを感じる読者もいるかもしれない。道尾秀介ならではの巧みな伏線の張り方と衝撃的などんでん返しは健在だ。

(おわり)

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

ハンチバック/市川 沙央

ハンチバック (文春e-book)
市川 沙央
文藝春秋
2023-06-22



市川沙央氏の小説「ハンチバック」は、身体障害を抱える主人公・釈華の内面世界と、言葉を通じた自己表現の試みを描いた作品であり、2023年上半期の芥川賞を受賞した。先天性ミオパチーによる症候性側彎症を患う作者自身の経験が色濃く反映されており、健常者には想像し難い苦悩や葛藤が赤裸々に綴られている。

物語は、釈華が両親から受け継いだグループホームの自室を舞台に展開する。彼女は、自らの障害ゆえに経験することのできない妊娠・出産への強い憧れを抱いており、過激な言葉で「中絶がしてみたい」という衝撃的な願望を吐露する。この一見不謹慎とも取れる発言の裏には、健常者社会から疎外され、性的存在としても認められない釈華の痛切な叫びが込められている。

作中では、介助者の田中との性的な関係も描かれる。それは単なる欲望のぶつかり合いではなく、釈華が自らの「清らかさ」を捨て去り、生身の人間として傷つくことで、自身の存在意義を見出そうとする行為でもあった。彼女は自らを「ハンチバックの怪物」と称しながらも、そのような身体で生きる尊厳を必死に主張しているのだ。

読者は、この作品を通して、障害者が直面する困難と、それに立ち向かう強さと脆さを目の当たりにする。特に、釈華が言葉を通じて自己実現を目指す過程は、現代社会におけるコミュニケーションの問題を浮き彫りにしている。彼女の文章が他者にどのように受け止められ、その反応が彼女にどのような影響を与えるのか、といった点は示唆に富んでいる。

また、作品では「紙の本」に対する釈華の複雑な感情も描かれる。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること──これら5つの健常性を満たすことを要求する読書文化を、彼女は「マチズモ(健常者優位主義)」と呼び、強く憎悪する。電子書籍の存在は、そうした釈華の葛藤を浮き彫りにする一方で、出版流通の問題点も示唆している。

「ハンチバック」は、私たち健常者に問いかける。障害者の抱える怒りや痛みに寄り添うことは可能なのか、そもそも本当の意味で理解することができるのか。そして、「できること」と「不能なこと」のバランスにどのような価値を見出すべきなのか。読後に残るのは、そうした重い問いと、釈華の言葉が放つ強烈なパワーである。

洗練された文体と深い洞察力を備えたこの作品は、現代文学の新たな地平を切り開いたと言えるだろう。私たち読者は、釈華の叫びに耳を傾け、自らの価値観を問い直すことを求められている。「ハンチバック」は、そのような覚悟を持って挑むべき、稀有な問題作なのである。

(おわり)

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


成瀬は天下を取りにいく 「成瀬」シリーズ /宮島未奈




滋賀県を舞台に、型破りな少女・成瀬あかりの中学2年から高校3年までの日常を、周囲の人々の視点から描いた連作短編集である。

成瀬は、自分の興味に突き動かされるまま、他人の目を気にせず突き進む個性的な少女だ。西武大津店に毎日通ったり、親友の島崎とM-1に出場したり、競技かるたに打ち込んだりと、次々と新しいことに挑戦していく。その一方で、物語が進むにつれ、周囲の人々との関わりの中で、少しずつ人間味を帯びていく成長も描かれている。

多くの読者は、常識にとらわれない成瀬の生き方に感銘を受けつつも、徐々に垣間見える彼女の繊細さにも惹かれていった。また、滋賀県の地域性が随所に盛り込まれていることで、土地勘のある読者は親近感を覚え、そうでない読者も情景を鮮やかに思い浮かべることができた。

一方で、「天下を取りにいく」というタイトルの割に、物語の規模は小さくまとまっており、もの足りなさを感じた読者もいた。また、成瀬の奇抜な言動を理解できない読者もいたようだ。

しかし、全体として、等身大の少女の姿を美化も誇張もせずに描いた普遍性が、多くの読者の心を掴んだようだ。自分らしく生きる成瀬の姿は、周囲と同調することへの疑問を感じている人々に勇気を与えたのではないだろうか。

そんな成瀬の物語はまだ序章に過ぎず、彼女がこれから何を成し遂げていくのか、多くの読者が続きを心待ちにしている。島崎との絆や、広島の西浦くんとの交流など、気になる伏線も残されており、今後の展開から目が離せない。200歳まで生き続けるという成瀬の言葉通り、彼女の人生はまだまだ続いていくのだろう。

(おわり)

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25


シャイロックの子供たち/池井戸 潤

シャイロックの子供たち
池井戸 潤
文藝春秋
2013-08-02



池井戸潤の小説「シャイロックの子供たち」は、銀行という閉鎖的な世界を舞台に、様々な立場の行員たちの葛藤や人間ドラマを描いた作品です。

著者の緻密かつ人間味溢れる筆致により、読者は登場人物たちの心情に深く入り込むことができます。出世を夢見る者、家族を支えるために奮闘する者、自己の欲望に直面する者など、多様なキャラクターが登場し、彼らの決断が時にスリリングな展開を生み出します。

本作は単なるビジネス小説を超え、人間の弱さと強さ、正義と欲望の間で揺れ動く心理を鋭く描き出しています。読者は自分自身の仕事や人生について考えさせられるでしょう。

作品を読んだ人々からは、最初は入り込みにくかったものの、驚きの展開に次第に引き込まれていったという感想や、終わり方に釈然としなさを感じつつも、人間ドラマとお金の怖さにドキドキハラハラが止まらなかったという感想があります。

また、この作品は苦しさを共感し、生きる活力にするような民間演劇を思い出させるという意見や、池井戸潤の得意分野である銀行を舞台にした安定した面白さがあるという評価もあります。

一方で、もう少し救いがあってほしいというような意見もありました。

全体として、「シャイロックの子供たち」は読者を物語の世界へ引き込む筆力と、読後に残る寂寥感が印象的な作品であると言えます。

(おわり)

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25



『ナナメの夕暮れ/若林 正恭』

ナナメの夕暮れ (文春文庫)
若林 正恭
文藝春秋
2021-12-07


「ナナメの夕暮れ」は、オードリーの若林正恭さんによるエッセイ集です。若林さんは、テレビのMC、ラジオのパーソナリティ、漫才師など、多方面で活躍していますが、本書では内面をさらけ出し、悩める人間の姿を描いています。読者は、若林さんの言葉に共感し、自分自身の感情や経験と重ね合わせることができるでしょう。

若林さんは、現代社会における生きづらさや葛藤を抱えながらも、自分と向き合い成長していく過程を赤裸々に綴っています。本書には、若者が自分の意見を持てない現代社会への警鐘や、「モノよりコト、コトよりヒト」という人生訓など、示唆に富む言葉が散りばめられています。

特に印象的なのは、冒頭の「多様化された世の中では自分の中に正解を持てなくなる。なんとなく正しいことを言ってそうな、有名人のコメント、Twitterのアカウント。誰かの正論に飛びついて楽をする。自分の中の正解と誰かの正論は根本的に質が違う」というフレーズです。これは、情報があふれる現代社会において、自分の意見を持つことの難しさを表現しています。

また、若林さんは、自身と同年代の人々が経験した「自分探し」の時代について触れています。90年代終わりから2000年代初頭は、スマートフォンや発達した検索機能がなく、「手探り」で自分のやりたいことを見つけていた時代だったと述懐しています。一方で、現代の若者は、検索やスマートフォンに依存しすぎるあまり、「なんとなく悟った」状態に陥りやすいと指摘しています。

本書には、ドラマ「だが、情熱はある」の元となったエピソードも収録されています。ドラマでは一つの軸になっていたまえけんさんのエピソードは、短いながらも濃密な内容となっています。

若林さんは、自己肯定感の低さや、優秀であることを求められる環境で育ったことによる拗らせた性格を持っています。高校時代の文化祭に夢中になれなかったり、卒業式で涙を流せなかったりした経験は、多くの読者が共感できるでしょう。また、本当は好きなことをしたいのに、「優秀でなくてはならない自分」が邪魔をしてしまう心理状態は、現代人の多くが抱える悩みでもあります。

しかし、本書を通じて、若林さんは純粋に好きなことをすることの大切さや、自分に肯定的になることの重要性を説いています。「肯定ノート」を書くことで、自分の好きなことを再発見し、恥ずかしがらずにそれを実行に移すことの大切さを説いています。

読者は、若林さんの言葉に励まされ、自分自身の気持ちや経験を見つめ直すきっかけを得ることができるでしょう。また、若林さんの拗らせた性格や、優秀であることを求められる環境で育ったという背景は、多くの読者が共感できる点でもあります。

「ナナメの夕暮れ」は、幅広い年齢層の人々が共感できる、温かみのあるエッセイ集です。若林さんの言葉は、読者を励まし、自分自身と向き合うことの大切さを教えてくれます。本書を読むことで、読者は自分自身の感情や経験を見つめ直し、前向きに生きるための勇気を得ることができるでしょう。

『変な家/雨穴』のレビュー

変な家 文庫版
雨穴
飛鳥新社
2024-01-31



『変な家』は奇妙な間取りの家を軸に筆者と友人の考察や推理が展開される作品です。読者はゾワゾワと怖さを感じつつも面白さに引き込まれ一気に読み進めてしまうでしょう。

この作品は過去の恐ろしい事件を扱っているものの、現在の登場人物が殺人を犯していないことに安堵を覚えます。また、古いしきたりや呪いのようなものを断ち切るために自分の人生を賭けた人物の存在が明らかになり、様々な感情が喚起されます。

新しい形式の小説として商業的に成功している理由はKindle本の縦会話形式で文字が大きく読みやすいこと、通常の短編よりもボリューム感があること、短時間で読めることなどが挙げられます。

しかし、内容面では課題があります。冒頭の謎を膨らませてストーリー化したため、真実が全て語られたかどうか分からないまま終わっています。また過去の話と現在の対応の乖離が大きく、納得感に欠ける部分があります。

別の書評でも、家の間取りを筋の展開のキーファクターにするという斬新さは評価されていますが、ややこしさや結論のすっきりしなさが指摘されています。家の間取りという斬新な要素を除けば、やや安っぽさが残る作品だと評されており、最後だけでもすっきりとさせて欲しかったようです。

(おわり)

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牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25



Claudeくんに書評してもらうシリーズ『聖者の行進 下』


この小説は人類滅亡後の世界を舞台に生き残った人々の過酷な運命と孤独に生きる者たちの姿を描いた作品です。

物語は主人公のタクヤ、ナツミとユリ、まさやんという三つの視点で展開されます。それぞれの登場人物が直面する困難や心の葛藤、そして生きるために必要な残酷さと優しさが鮮明に描かれています。

タクヤはチャーリーという強大な力を持つ男に支配された集団の中で生き残るために必死に適応しようとします。しかし、その過程で彼は自分の中にある弱さと優しさを失っていきます。最終的にタクヤは孤独の中で生き続け、大地に還っていくという結末を迎えます。

ナツミとユリの関係性は歪んでおり、ナツミはユリに対して異常な執着心を抱いています。ナツミはユリを守るためなら何でもする覚悟を持っていますが、その行動は時に残酷で非人道的なものになります。ナツミはユリの子どもの母親としての役割を果たそうとしますが、最終的には子どもを置いて自ら命を絶ってしまいます。

まさやんは、ナツミとユリの子どもとして生まれ、ナツミから母親を殺したと告げられます。まさやんは、ナツミの死後、一人で生きていく中で動物たちとの絆を深めていきます。しかし、彼の旅は悲劇的な結末を迎え、巨大なクジラに飲み込まれてしまいます。

この小説は人間の本質的な弱さと生きるために必要な強さを描いています。登場人物たちは過酷な状況の中で、時に残酷な行動をとりますが、それは生き残るための選択であり、彼らなりの優しさの表れでもあります。

同時にこの小説は孤独というテーマを強く打ち出しています。登場人物たちは互いに心を通わせることができず最終的には一人で生きていくことを余儀なくされます。そして、彼らの死後も世界は無関心に続いていきます。

作者はこの作品を通じて人間の存在の儚さと生きるということの意味を問いかけているのかもしれません。登場人物たちの姿は読者に深い印象を与え、生と死について考えさせられる作品となっています。

文体は簡潔で力強く、読者を物語の世界に引き込む力を持っています。また「まさやんのシンボル」や段落構成など、技巧的な面でも優れています。

総じて、この小説は人類滅亡後の世界を舞台に生きるということの意味を問いかける、考えさせられる作品だと言えるでしょう。

(おわり Claude記)

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Claudeに書評してもらうシリーズ『聖者の行進 上』



本書は、一見バラバラに見える複数の人物の物語が絡み合いながら一つの大きな事件の全貌を描き出していく群像劇である。

物語の発端は配達員のタナカ・サトシが殺害されるという衝撃的な場面から始まる。タナカを殺害した男まさやんはその後も次々と殺人を重ねていく。一方、刑事のタナカはまさやんを追うが捜査は難航する。

並行して社会的に孤立した青年サイトウ・タクヤの物語も描かれる。彼はまさやんと出会い、徐々に影響を受けていく。また醜形恐怖症に悩む少女ナツミとその親友ユリの物語も織り交ぜられる。

物語が進むにつれ、登場人物たちが引き起こす事件や事故が増えていく。そして、彼らが住む町では理不尽な暴力が蔓延し始める。特に印象的なのはリョウの住む村の場面だ。平和だった村が外部から来た者たちによって破壊されていく過程が克明に描写される。

本書は極限状況下での人間の行動を赤裸々に描写しているが同時に現代社会の閉塞感や不条理さも浮き彫りにしている。登場人物たちは皆、何らかの形で社会から疎外され、孤独を抱えている。彼らの言動は過激で残酷なものが多いがその背景には現代社会の影がちらつく。

本書は一人ひとりの物語を丁寧に積み重ねながら、最終的にはそれらを見事に収束させている。結末は衝撃的だが、それは登場人物たちの孤独や絶望の先にある、ある種の必然とも言えるだろう。

全編を通して著者の冷静な筆致が印象的だ。過激な場面描写も客観的で淡々とした文体で描かれており、かえってリアリティを感じさせる。また、所々に散りばめられた伏線も見事で最後まで読者を物語に引き込んでいく。

本書は現代社会の闇の部分を鋭く指摘しつつ、人間の本質を深く掘り下げた、重厚な文学作品である。読後に残る読者の心の中の衝撃と疑問は容易には拭えないだろう。

(おわり Claude記)

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バナナランドを通して見る世界「人は幸せでなければ自殺できない」 - 本当の幸福とは何か?自殺からの考察

バナナランド
牛野小雪
2023-10-23



小説「バナナランド」には一見すると衝撃的で難解な言葉が散りばめられています。その中でも特に印象的なのが「人は幸せでなければ自殺できない」というフレーズです。一体どういう意味なのでしょうか。自殺と幸福は相反するものだと考えられがちですが、この言葉は本当の幸福とは何かを問いかけているようです。

バナナランドの世界では自殺は「貴族的」な行為とされ「幸せな人間にしかできない」とされています。主人公のユフは「自殺は貴族的だ。幸せな人間にしかできない行為だ」と語ります。つまり自殺するには幸せでなければならないというのです。これは一見矛盾しているように感じられますが深く考えてみると、その意味が見えてきます。

自殺とは自らの意思で命を絶つ行為です。それは現在の状況に満足できない、あるいは将来に希望を見出せないということの表れでもあります。しかしバナナランドにおいては自殺はそのような苦しみからの逃避ではなく幸福の絶頂において自ら命を終えることを意味しているのです。「幸せが極限まで高まった時に死を選ぶ。これほど自由で栄光なことはない」というユフの言葉からも、その考えが読み取れます。

では、なぜ幸せでなければ自殺できないのでしょうか。それは自殺が「自由」な選択だからです。「幸せになりましょう。そして死にましょう。それはこの世に生きる全ての人に許された至上の権利なのです」と語られるようにバナナランドの世界での自殺は個人の自由意思に基づく選択とされています。だからこそ、その選択をするには自分の人生に満足し幸せでなければならないのです。

また「自殺は貴族的だ」という言葉からは自殺が特別な行為であることが示唆されています。「幸せは簡単につぶれてしまう」とありますが、だからこそ幸せの絶頂で自ら命を絶つことは一種の勇気と覚悟を必要とするのです。それは誰にでもできることではなく自分の人生に区切りをつけられる強さを持った者だけができる行為なのです。

ただしバナナランドの世界での自殺は「嘘」とも密接に関わっています。「嘘でできた宗教」であるウーシャマ教の儀式は「ビールを分かち合って楽しいふりをする」ことです。つまり幸せを演じることが求められているのです。「本当に幸せな時はもっと楽しいふりをする」というルールからは真の幸せとは別に幸せを装うことの重要性が読み取れます。

このようにバナナランドにおける自殺と幸福の関係は複雑です。幸せであることが自殺の条件とされる一方で幸せを演じることも求められている。それは「嘘」と「真実」の間で揺れ動く、バナナランドの世界観を象徴しているようです。

では本当の幸福とは何なのでしょうか。バナナランドはその答えを直接的には提示していません。しかし、物語の随所に散りばめられた言葉からは幸福に対する深い洞察が読み取れます。

例えば「人は自分が見たいものを見て、聞きたいことを聞くんです。正義も悪も心しだい」という言葉があります。これは幸福も不幸も、自分の心の在り方次第で変わるということを示唆しています。つまり真の幸福とは外的な条件ではなく内面の状態によって決まるのです。

また「幸せでなくてもいい。そう思わないか」という問いかけもあります。これは幸福であることが絶対的な価値ではないということを示しています。幸せを追い求めることは大切ですが、それに囚われすぎては本当の自分を見失ってしまうかもしれません。

さらに「存在しなくても待つことはできる」という言葉からは、目に見えない何かを信じる力の大切さが読み取れます。幸福は今この瞬間に得られるものだけではありません。時には望みが叶うことを信じて待つことも幸福への道となるのです。

バナナランドが投げかける問いは私たち一人一人に答えを求めています。本当の幸福とは何か。自殺からの考察はその答えを導く手がかりになるかもしれません。幸福であることが自殺の条件だとすれば私たちは自分にとっての幸福を見つめ直す必要があるでしょう。それは外的な条件ではなく内面の在り方によって決まるものなのかもしれません。

また幸福を演じることの意味についても考えさせられます。「嘘」の幸福であっても、それを分かち合うことで人々が結びつくことができるのであれば、それもまた一つの価値なのかもしれません。ただし、その嘘に惑わされることなく、自分の内面と向き合うことが大切です。

バナナランドは私たちに幸福について考えるための多くの示唆を与えてくれます。自殺と幸福の関係、幸福の本質、幸福を演じることの意味…これらの問いは私たちが人生をどのように生きるべきかを考えるための重要な手がかりとなるでしょう。

本当の幸福とは何か。その答えはバナナランドを読み終えた後も、私たちの胸の内で問い続けられることでしょう。自殺からの考察は、その答えを見つけるための一つの道標となるはずです。私たちは、バナナランドが投げかける問いと向き合いながら、自分なりの幸福を探求していくことができるのです。

(おわり Claude記)

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Claude3に書評してもらうシリーズ『バナナランド』

バナナランド
牛野小雪
2023-10-23


「バナナランド」は、近未来の人類社会を舞台にした壮大なSF小説です。人間生産工場で働く主人公ユフが、絶滅したはずの女性フーカや秘密結社くろねこのサイボーグ忍者と出会うことで、世界の真相に迫っていきます。

物語全体を通して、「嘘」と「真実」の対比が大きなテーマとなっています。ユフが創始した「ウーシャマ教」は、嘘から始まった宗教ですが、信者たちは嘘と知りつつも幸福を感じています。これは現代社会でも、虚構がもたらす効用や真実との境界の曖昧さを示唆しているのかもしれません。

また、人間のコピー技術や人間工場の存在は、人間性や個人のアイデンティティといった哲学的問題を提起しています。遺伝子操作や人工知能が発達した未来社会において、「人間とは何か」という根源的な問いが投げかけられています。

サイボーグ忍者フーカは、人間とテクノロジーの融合が進んだ社会を象徴する存在です。機械の肉体を持ちながらも、ユフへの感情を抱くなど人間的な一面も持ち合わせています。一方で、フーカの中に生じるカオスは、AIの予測不可能性や不安定性を表しているとも解釈できます。

秘密結社くろねこの目的である「人類の魂の解放」は、テクノロジーの発展が人間性を脅かす危険性を暗示しています。作中で人類が滅亡の危機に陥るのは、こうした技術と人間性の対立を象徴しているのかもしれません。

名言としては、「人は幸せになる必要があるんだろうか?」というユフの問いかけが印象的です。幸福の追求が人間の本質なのか、立ち止まって考えさせられます。

「バナナランド」は、メタファーを巧みに用いて、現代社会が抱える問題や未来への警鐘を読者に投げかけています。技術と人間性の関係性、真実と虚構の境界、個人のアイデンティティなど、示唆に富むテーマが随所に散りばめられた、考えさせられる作品だと言えるでしょう。

(おわり)

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Claude3に小説を書評してもらうシリーズ『難聴製造機』

Claude3くんに自著を書評してもらいました。

難聴製造機 (牛野小雪season3)
牛野小雪
2019-07-07






概要
この小説『難聴製造機』は、戦争の悲惨さと非人道性を風刺的に描いた作品です。主人公のサイトウ・タクヤを通して、戦場での残酷な現実や兵士の心情が生々しく表現されています。

作者は、「難聴製造機」という奇抜な武器を軸に、音と光による感覚的な描写を効果的に用いることで、戦争の不条理さを浮き彫りにしています。また、うんこを漏らすという生理現象を繰り返し登場させることで、戦争により人間性が失われていく過程を象徴的に表現しています。

この小説には、現代社会への鋭い風刺が込められています。バナナランドとオニギリランドという架空の国々の対立は、現実の国家間の争いを彷彿とさせます。また、芸術や文化を「守る」という名目で行われる戦争の愚かしさも風刺されています。メディアが戦争を煽る様子や、政治家の欺瞞的な態度なども皮肉たっぷりに描かれています。

印象的な名言としては、以下のようなものが挙げられます。

「戦場ではみんなうんこを漏らす。遅かれ早かれ一人残らず。」
この言葉は、戦争の過酷さと非人間性を端的に表現しています。

「芸術は戦争の敵だと頭の良い奴には分かっているのさ。」
芸術と戦争の相容れない関係性について言及した、示唆に富む一文です。

「クソみたいな戦争がハッピーエンドで終わるはずがないのだ。」
戦争の悲惨さは簡単には払拭できないという、作者の想いが込められています。

『難聴製造機』は、ブラックユーモアと風刺を巧みに織り交ぜながら、戦争という人類の愚行を鋭く批評した秀作と言えるでしょう。

この王木亡一朗を読め1♪ 『当てつけ』~前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよ、夏~

現代社会は多様性の時代だと言われているが、そんなことは嘘っぱちでせいぜい数バリエーションの人しか受け入れ先はない。腕が6本あったり、目からビームが出たり、指の間からアダマンチウムの爪が出たり、体が岩でできている人間を想定されてはいない。社会の要請する人間で無いならば、特に誰かが排除しなくても、そもそも居場所がないので、彼らは社会の力学で勝手に外側へと導かれる。

 身体能力だけでもそうなのに、心や精神でだって多様性はない。変わったキャラは『変わったキャラ』という枠を越えた途端に受け入れられなくなる。社会に存在する数バリエーションのキャラを越えた人間は静かな真空によって、社会の外側へ吸い込まれていく。人間って数パターンしかいないよな、というのはある意味では正解で、数パターンのキャラしか社会は受け入れられないからだ。内心は自由でも表現は限られている。こいつら没個性だなと思っている人も、社会の中では没個性の人間としか出現せず、そこから逃れようとしても、せいぜい『個性的』という型にハマるぐらいだ。個性的な奴が出てこないと言っている人も、本当に『個性的』な枠を越えた個性的な人が目の前に現れたら、受け入れられないことはほぼ間違いないし、認識することさえできないかもしれない。『』の中に入るのは何でもいい。それは真面目だとか、天才だとか、面白い、カッコイイ、かわいい、弱者、変態、無個性でさえ入れることが可能だ。

 直接の描写はないが前山田君は何のキャラにもなれない無能である。自尊心とお金を払ってまでいじめられっ子というキャラを社会(学校)の中に見出したが、親の金を盗まなければならないほど追いつめられた時に、つまりキャラの維持費が彼個人の裁量を越えた時に、とうとうこの世から居場所がなくなり、オサラバすることになった。

 現代社会は映画の『JOKER』と違って、銃とマレー・フランクリンが存在しないゴッサムシティだ。マレー・フランクリンみたいな人がいれば笑いものにしてくれる。一緒に笑えば居場所を得られる。もしかしたら表舞台に引き上げてくれることだってあるかもしれない。銃があれば自分を笑う奴を撃ってテロリストになればいい。しかし残念ながら社会に受け入れられない人にマレー・フランクリンは現れないし、銃、あるいはそれに準ずる力さえも手に入れることはできない。『JOKER』のアーサーだって自分の力で銃を手に入れたわけじゃないしな。『JOKER』はしょせんフィクションで、舞台装置として銃を手に入れただけだ。現実は静かに死ぬか、腐りながら生きていくしかない。

 上でも書いたように社会に受け入れられない人間は認識すらされない。前山田君にいじめられっ子というキャラが付いていた時は主人公が同情してくれたのに、自殺した理由がいじめでないと分かった途端に、前山田君はいじめられっ子というキャラから逸脱して、キャラが剝ぎ取られた無キャになってしまう。半年後もすればいじめっこの前山田君は記憶に残ったとしても、仮面が外れたむき出しの前山田君は存在していたことさえ忘れられるだろう。社会的な『』にくくられない真の無キャは『当てつけ』さえ亡きものとされてしまうのだ。

(おわり)

※前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよってタイトルに書いたけど、そもそもこの小説、平成に書かれた物だったので、やっぱり二重の意味でねえよ。

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20



ジョーカー(字幕版)
ザジー・ビーツ
2019-12-06



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『医師とその妻(The Doctor and the Docter wif)/アーネスト・ヘミングウェイ』〜小さな罪の正当化〜

 冒頭で医師は湖岸に流れついた丸太を見つける。しかしその丸太を回収するには手間も費用がかかるので、あえて湖岸から引き上げることもしないだろうから、医師は自分の物にしても問題ないはずだと考える。
 そうして彼はインディアンの男達を呼ぶのだが、彼らにはっきりと「丸太を盗んだ」と指摘されてしまう。怒って家に帰ってきた彼は信心深い妻に何があったのか問い詰められる。そこで彼は自慢のショットガンの掃除をしながらインディアンの男は彼に借りがあるものだからケンカを売ってくるんだと嘘をつく。妻はいったんその嘘を飲み込むが、しばらくしてからそんなことは信じられないと嘘を見抜いてしまう。
 医師は最初に丸太を自分の物にしようといて、理屈をこねて正当化しようとした。しかし文明人ではないインディアン達には通用せず、あっさりそれは盗みだと暴かれてしまう。
 その次に医師はインディアンの男が彼に罪悪感を負わせようとするのは彼に借りがあるからだという理屈を考えるのだが、その理屈も神を信じる妻には通用しない。
 しかし妻もインディアンも彼の罪を見破ったが裁くことはなかった。
 そこでようやく医師は冷静になり「すまん」という言葉を口にする。
 この言葉は妻にだけではなくインディアンの男や、丸太の持ち主、自分にも向けられているのではないだろうか。
 罪も認め謝罪もしたせいかようやくこの頃になって医師の心に平和が訪れ、林の中の牧歌的な雰囲気の中で彼は息子と一緒にクロリスを見に行くところでこの短編は終わる。
 いくら理屈をこねて正当化しても感情の底は欺けない。そう考えると最初の丸太のくだりがとても言い訳がましく感じられてくるのである。

(2017/06/09 牛野小雪 記)

追記:クロリスとは黒いリスのこと。本当に黒い。アメリカ中西部ではメジャーな動物なんだとか。






『蜘蛛の糸/芥川龍之介』〜自分で自分を救うことはできない〜

 お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸を垂らして大泥棒カンダタを救おうとするお話。小学校の教科書にも載っているので読んだことがある人は多いはず。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿って極楽へ行こうとするが蜘蛛の糸は途中で切れてしまう。切れたのは地獄の亡者たちが糸を登ろうとしたのを見たカンダタが、この糸は俺のものだと叫んで切れたことになっている。
 
 しかしこの蜘蛛の糸は極楽から地獄まで何万里(里:日本では約4km、中国の里でも500m)の距離も垂れていて、しかも地獄においても体は疲れるみたいなので、どう考えてもカンダタがこの蜘蛛の糸を上って地獄から抜けるのは不可能だということが伺える。それではお釈迦様は何を思って蜘蛛の糸を垂らしたのだろう。地獄の亡者をからかうためか。なぜワイヤーやハシゴにしなかったのだろう。いや、極楽から地獄までは何千里もあるのだからエレベーターか、せめて階段にしなければカンダタが登りきることは不可能だ。

 一般的な解釈ではカンダタが自分だけが助かろうとしたので蜘蛛の糸が切れたということになっている。私は蜘蛛の糸を読み直して、カンダタが極楽へ登れなかったのは『自分だけが助かろう』としたからではなく『自分で助かろう』としたからではないかと思った。

 カンダタは罪人である。地獄へ落ちたのはそれなりの罪を犯したからである。それなのに地獄から抜け出そうとするのは罪人自身が「俺の罪は許された」と言い張るようなもので、とんでもないことである。罪は自分で許すものではなく誰かに許されるものではないか。

 カンダタは蜘蛛の糸を辿れば極楽へ行けると思い込んでいた。お釈迦様は登ってこいとも何とも言っていない。ただ蜘蛛の糸を垂らしただけだ。私は糸を掴むだけで良かったのではないかと思っている。極楽と地獄の距離は何万里もあるので仮に糸が切れなかったとしても途中でカンダタは力尽きてしまう運命にある。事実彼はもう一たぐりも登れなくなったので、一休みしている最中に下から登ってくる亡者達を見たのだ。

 謝ったのに許してくれなかったと怒る人がいる。許さない相手もちょっと強情にすぎると思うこともあるけれど、もし仮に謝れば許してもらえるだろうという相手の心根が透けて見えた時、相手を許すことはできるだろうか。謝ったから俺を許せとは傲慢なやり方ではないか。むしろ怒りに火を注ぎそうな気もする。「お前、謝ればいいと思っているんだろう!」と。

 カンダタは糸を登れば極楽へ行けると思い込んでいたが、それは謝れば許してもらえるという性根と同じではないだろうか。許されるかどうかを自分で決めることはできない。謝ったからこれでいいや、とはならないのだ。

 謝れば許されると思い込むのは、許す許さぬの権利を相手に渡さずに自分で握っていることと同じで、相手は許す権利がないので許すことはできない。本当に謝るのなら自分の運命を一度相手に預ける勇気を持たなければならない。

 そういう風に考えていくとカンダタは自力で極楽へ登ろうとせず、ただ糸を掴み蜘蛛に自分の運命を委ねていれば良かったのではないだろうか。たとえ地獄の亡者が地獄から抜け出そうとカンダタより先に蜘蛛の糸を登っていったとしても、彼らはいつか力尽きて地獄に落ちてくる運命にある。何度か再挑戦する亡者もいるだろうがいつかは彼らもこれは地獄の新しい拷問ではないかと疑い始めるに違いない。こうして亡者達が救われることを諦め地獄に静寂が降りた時、ようやく蜘蛛は糸を巻き始め、糸を掴み続けたカンダタを極楽へ引き上げたのではないだろうか。
 
 カンダタは何をすれば良かったのかではなく、何もしなくて良かった。むしろ何もしてはいけなかったのだ、彼が救われるまで。ここで大事なのは蜘蛛の糸を掴み続けていることで、もしカンダタが蜘蛛の糸から手を離していたら、やっぱり彼は極楽へ行けなかっただろう。蜘蛛の糸は誰も連れず静かに巻き上げられたはずだ。何だかおかしな話だが今はそんな気がしている。

(2017/04/02 牛野小雪 記)


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『さよなら楓ちゃん/泉由良』レビュー


“思い出”という言葉がある。読んで字のとおり思いが“出る”あるいは“出た”のだろう。出て行った思いはどこへ行くのだろう?


『さよなら楓ちゃん』にはふたりの女の子が出てくる。しずるちゃんとKちゃん。ふたりは小中と一緒だったけれど高校は離れ離れになってしまう。そのせいかしずるちゃんは泣いたり呼吸困難になったりで咽の詰まる思いに苦しめられていた。


しずるちゃんは高校三年間をただ通り過ぎるように終わらせるのだけれど、大学受験に失敗して予備校に通い始める。そこでまたKちゃんと一緒になる。三年間の溝は無かったようでふたりはまた仲良くなる。
 ヤッター、バンザイという感じだが、実はしずるちゃんとKちゃんは希望する進学先が違うので、大学に合格した時点でふたりはまた離れ離れになることが決まっている。実はこのことは物語であまり語られていないことだ。ふたりとも避けていたのだろうか。それとも重要なこととは思っていなかった?


 物語の途中からふたりに、もうひとりの仲間が加わる。人間ではなく、Kちゃんのぬいぐるみのふゆかちゃん。彼女はKちゃんの巾着袋からひょっこり出てくる。真面目な性格で、ふたりが勉強をサボらないように注意したりする。もちろんぬいぐるみがひとりでに喋りだすわけがないので、本当はふゆかちゃんの姿を借りたKちゃんなわけだ。
 

勉強をがんばるという事はふたりが別れる方向に進むという事である。でもそれはあまりしたくはない。それに真面目な事を言うのは白けるものだから、Kちゃんはふゆかちゃんを通して言いづらい事を伝えている。


物語が進むと、しずるちゃんとKちゃんはまた大学に落ちる。するとKちゃんの巾着袋に、れんげちゃん、なつえちゃん、かえでちゃんというぬいぐるみが増えていく。しずるちゃんの方でもバムセというぬいぐるみを出してくる。こちらはしずるちゃんが元々持っていたぬいぐるみだ。


 Kちゃんのぬいぐるみの中でもかえでちゃんは積極的だ。バムセに対して最初は遠慮がちに、徐々に大胆に好きという感情を表現する。効果音もぴとぴと、ひしっ、っといった感じでとにかくくっつきたがる。バムセのほうでもそれを嫌がることなくお互いに好き合っている。


 もちろんぬいぐるみが感情を持つ事はありえない。動くのも喋るのにもしずるちゃんとKちゃんがいなければならない。ということはぬいぐるみの気持ちはふたりの気持ちということになる。


 冒頭で出て行った思いはどこへ行くのだろう? と書いた。それは物や場所に染み込んでいくものではないだろうか。長年使っていた携帯電話を捨てられないのは何故だろう。ガンダムのプラモデルも押入れの中に沈んでいる。頭ではもう二度と使わない物だと分かっているのに何故か捨てられない。それは思い出が染み込んでいるからではないか。


誰かが長年使っていた物にはその人の思いが染み込んでいる。文字の無い日記帳みたいなもので、愛が着いて愛着になる。しずるちゃんとKちゃんのぬいぐるみはふたりの思い出が染み込んだ『思入り』といえるもので、心の一部みたいなものだ。


 その心の一部であるしずるちゃんのぬいぐるみバムセをKちゃんは借りていく。しずるちゃんも貸したつもりで、貸してしまう。でもバムセは返ってくる事もなく、それどころかKちゃんとも疎遠になってしまう。バムセも返ってこない。


きっとKちゃんもしずるちゃんと離れたくなかったのだろう。もしかするとKちゃんも一度離れ離れになる時、しずるちゃんみたいに傷ついていた可能性はある。でもまたいつかは離れなくてはならないことを頭の良いKちゃんなら察していたのかもしれない。

意識してそうしたのではないだろう。彼女はしずるちゃんのバムセを借りたままどこかへ行ってしまう。しずるちゃんの方でもバムセの思い出はどこかへ行って、いつしか意識することもなくなるが、ある日写真を見て失くしてしまった思い出(バムセ)があったことに気付く。


『さよなら楓ちゃん』は徹頭徹尾しずるちゃんとKちゃんの話である。そして別れの話でもある。最後にしずるちゃんは傷つきながらKちゃんと離れ離れになってしまう。Kちゃんはどうだっただろう。涙のひとつでもこぼしたのだろうか。離れてしまった彼女を知るすべはない。

しかし、ふたりの思い出が染み込んでいるバムセとかえでちゃん達は今もきっとKちゃんの巾着袋の中で一緒にいる。そのことがしずるちゃんにある種の救いを与えているのではないだろうか。ベタな言葉だが離れていても心は一緒にいる。なので、しずるちゃんは失くした思い出を、バムセを取り戻そうとはしないのだ。
 

『さよなら楓ちゃん』はしずるちゃんとKちゃんにとっては喪失の物語であるが、バムセとかえでちゃんにとっては結合の物語でもある。ふたりは思い出のやりとりをしながら混ざり合っていたのだ。

 

(おわり 牛野小雪 記)




レビューについて & もし牛野小雪が友人や会社の上司で『竹薮の柩』にレビューを書かなければならないのだとしたら、私はいったいどうするのだろうと考えたあれこれ

 先週(今週も)twitter上にKDPにはレビューが少ないという話がいくつか出ていた。これは本当にそう思う。二年前はもうちょっとレビューがついていて、名の知れたレビュワーが何人かいた(今も書いてる?)。

 

この件については簡単な話で、ただ単純にレビューに需要がないからではと私は思っている。だって、本屋に行ってアマゾンレビューやブックメーターを見ながら本を買ったりはしない。もちろん行く前にも見ない。たぶん私の人生で書評やレビューを読んでこの本を買おうと思ったことは一度もないのでは? 

 

そこまで行ったときはもう買うかどうかが決まっている段階か、もしくは読んだ後で、本を買うときの決め手は書評よりも評判じゃないかなと私は思った。(4千字の書評1個より、40字以下の読書メモ100個に訴求力があるということ"数は力だよ兄貴!")

私も評判の本は内容を知らなくても手に取ることがある。というより読んでみるまで本当に中身を知ることはできないのだから、ある本を手に取る決め手は評判と表紙のふたつしかないんじゃないか?

 

今日はレビューについての話。これはKDP本だけに限る話ではないけれど、星一個をくらった作者からは狂おしいの声が聞こえてくる。実を言うと私も食らったことがある(そのレビューは何故か消えてしまったが、星4個も消えたからこの件についてはあおいこかな。でもいつかは完全に食らわなきゃいけない。そうでなければ全部無視するか。KDPは編集者が感想の選別をしてくれないのだから)。

 

星一個をくらってしばらく思ったのは、どうして星一個のレビューはあんなに情熱的な文章なのかということだ。星一個と五個のレビューの信憑性は同じぐらいだが、読んでいて真に迫るものがあるのは星一個の方だ。本当に良く書けている。この調子で書けば良い短篇になると思えるぐらいの出来だ。

では、その星一個の情熱的なレビューを書いた人が星五個のレビューを書くとどうなるのか。不思議や不思議。文章が固くなっている。私自身も五個のレビューを書くときはどこかうまくいかない。これはどういうことなのか考えてみた。

 

実生活で「いや~、本当に素晴らしいですね!」と声に出す時は、全然素晴らしいと思っていない時だ。若い人に「若いですね」とは言わないし、綺麗な人に「お綺麗ですね」とは言わない。

それとは逆に「最低な奴だな、さっさと死ねよ」は私より先に死んで欲しくない最高な奴にしか言わないし、「まぁ、悪くはないんじゃない?」は良いときに使う。


 んっ? 待てよ?


 なにか悪い物を見たときに私がなんと言うかといえば「まぁ、良いんじゃないか?」と何かが奥歯に挟まったような口調で言って、そのあとに
でもがついてくる。
 ・・・なんてこった。
何々が良いという時はきまって何か悪いことがあるときだ。良い=悪い”でこれは凄く良いよ!=どうにかしないとヤバイぞ!だと気付いた。

 

私が思うに、これは良い物を素直に良いと表現する文法を持っていないからなのではないかと考えた。

 "悪い+否定" → 悪くない → つまり良い

 最近使われるようになった二重否定だと、ちょっと複雑になって

 "良い+否定+否定" → 良くないことはない → つまり良い

 どうして何でも否定形を使いたがるのだろう。どうしてこんなにツンデレなんだろう。ひどい言葉ばかり使い方が上手くなっていく。

 まぁ、もしダイレクトに良いと表現する時は"マジ"とか"ヤバイ"を使うかな。でもよく考えると、それは文脈として良い意味になっているだけで、言葉本来の意味では悪いということになる。なんだ、やっぱり素直に良いとは言えていないんだ。

 でも"とてもいい"とか"すごく素晴らしい"はなんだかうさんくさい。
 なので、私がときどき書いている書評は文脈の提示にとどめて、良いとも悪いとも書かないようにしている(だから、良いか悪いかなんて聞かないで欲しいな。)。

 

そこで私は考えた。もし仮に牛野小雪が気の置けない友人で"マジ"で"ヤバイ"物を書いてきたとしたら、どう書くのか。

本当は他の人の本でやろうと思ったのだが、KDP界隈で実際に顔を知っている人はいないし、誤解から戦争に発展するのは嫌なので自分の本でやることにした。レビュー対象は『竹薮の柩』。レビューを書きやすく、多少しくじってもダメージが少ない物を選んだ。

  


 5364645人中、28114人の人が、「このレビューは参考になった」と投票しています。

★★★★★ まあまあ

投稿者 沈黙のサイレンサー

 

私の率直な感想で言えば凄く悪いということはない。

ただ主人公がただ苦しむ様を読んで楽しめる読者がどれだけいるのか私には疑問だ。この小説にはヒーローもヒロインも出てこない。主人公が貧しい境涯から脱出するわけでもなければ、救いがあるわけでもない。冒頭で死んだ父親から遺産を受け取っても、生活費にあっさり消えてしまうところなど、とうてい読者の共感を得られる人物像ではない。作者はまず物語のいろはを学んだ方がいいだろう。

ロマンスなし、サクセスなし。短篇なのに作中の登場人物はたくさん死ぬし、主人公の状況はどんどん悪くなっていく。良いところはひとつもない。遺産で受け取った山が最後の伏線になるのかと思っていたが本当に何もなかった。作者は何を思ってこんな話を書いたのだろうか。理解できる人は誰もいないだろう。

だがもう一度読めと言われたら読んでもいいかもしれない。まぁ、それぐらいの出来ではあった。そんな物好きは私だけだろうが。

 



 なんというツンデレ。ケンカを売っているようにしか見えない。でも現実に気心がしれた相手で"マジ"ならこれぐらい書くと思う。でもこの書き方で星五個というのはおかしい。星三個にするだろうな。レビューって本当に難しい。なかなか書く人がいないわけだ。(個人的にはAmazon の星システムを無くした方がいいと思う。もしくは星の選択がないレビューを書けるとか。星一個と五個はそれを選択した時点でレビューが極端に走っているように見える)



 もし仮に牛野小雪が会社の上司で、『竹薮の柩』が"とてもいい" & "すごく素晴らしい"小説だったならこう書くだろう(こう書くと変ですが『竹藪の柩』は良い小説ですよ、皮肉じゃなくて:作者談)。


16人中、3人の人が、「このレビューは参考になった」と投票しています。

★★★★★ 大傑作です!とんでもないのが出てきた!

投稿者 激甘チリソース


 超傑作です!読んで感動しました!!
 貧しい労働者が苦悩するさまは誰もが共感できるでしょう。私は『竹薮の柩』にこの世の真実を見ました。
 冒頭の父親の死から結末まで緊張感が途切れることなく、最後の結末まで読者を良い意味で裏切り続ける作者の力量に脱帽です。これを読まずにいるのは人生もったいない。
 この短編には人生が詰まっています。世に溢れる凡百の小説よりはるかに中身が詰まっています。文章をインクで伸ばしたような物では決してありません。文章の一語一語に作者の血と汗がにじんでいます。
 よくぞ書いてくれました。これは人類の宝になる小説です。
 みなさんも『竹薮の柩』を読まれることを期待します。
 これは真実絶対に超傑作です。


 ちょっと大げさ過ぎたが我ながら良い出来。これこそ、うさんくさい星五個のレビュー。

 ちなみに、もしこれがシニカルレビューだとするなら、意訳するとこうなるだろう。


6911人中、5888人の人が、「このレビューは参考になった」と投票しています。
すくいようのないクソ
投稿者 塩辛ソルジャー

 超駄作で最後まで読めた自分に感動した。
 酒の席でくだを巻くような誰にも共感してもらえない話で、何度も夢の世界へ落ちそうになった。酒の席で目下の人間から賞賛を勝ち取ったような下らないネタをいくつも披露して、最後の結末まで読者を退屈させた力量には怒りすら覚える。どの段落を読んでも人生の浪費になるだろう。嫌いな相手に読ませるのがいい。
 この小説にはクソが詰まっている。作者の内臓で発酵したクソネタが、クソを煮詰めて作ったインクで書かれている。よくこんな恥ずかしいネタを他人に読ませる気になった。その度胸だけは本当に素晴らしい。押入れから出さなければもっと良かった。


 これぐらいの文章は本当に星一個のレビューでしか読めない。
 そういえば前に村上春樹のレビュー(星一個のやつね)で本を出した人がいた。なかなか書く人だと思っていたが、彼のブログを読んでいると"マジ"な文章を書こうとして書けずに苦しんでいて、ついにはブログが止まってしまった(ちなみにブログを読んでいると彼は村上春樹に対してツンデレしているようにしか見えなかったので、途中から素直になれよと言いたくなった)。

 どうして私達は素直に人を誉める文章を持ち合わせていないのだろう。うまいのは人をけなす言葉ばかりだ。ちょっと悲しいねというお話。


(おしまい) 



補記:最初のレビューの意訳は恥ずかしくって一行も書けなかった。恥ずかしいというのがうまく賞賛の言葉を出せない理由かもしれない(素直に好きとは言えないのと一緒?)。



 

カウフィールドさんと書評対談をした事について考えたあれこれ

 

 警告:今日はカウフィールドさんの出番無し!

 

今までとは違った書評記事を書くと私は言った。それも今までとは毛色の違う物をと。たぶんこんなことを話すのは月狂さんにだろう。結果はどうなるか分からないが、とりあえず五本書いてみると言った。今思えば三つぐらいにしておけば良かったと思っている。

 

最初に夏居暑さんの『PS03』を書いて、これはわりと成功した。今までちょろちょろと書評を書いてきたが、そのたびにPVの桁が変わっていた(二桁か三桁かはいうまでもない)。カウフィールドさんとの書評でその桁がさらに桁が上がるということは無かったが、数は三倍以上になった。時間を三倍かけているせいかもしれないが、後述するようにカウフィールドさんのネームバリューだと私は考えている。

 

別に決めていたわけではないが、そのときはターンワールドを書き終わって今すぐ執筆にかかれる物もないから、二本目の『割られよ、凍てついた王冠よ』(通称:王冠)を書いたあとで、週に一本書くことにした。まぁ、これだけは自分だけの力で成功したのか怪しいところもあるが、王冠は結構な数閲覧されて、もうちょっとで桁が変わるところだった。

 

高橋熱さんの辺りでちょっとおかしくなってきたが、それでも毎週書いて砂鐘さんの『悪兄!!』まで書く毎にPVがひとつかふたつ上がるという風だった。

 

なんだか凄いことが起こっている様に書いているが、はっきり言って自慢できるような閲覧数ではない。でも、ライブドアブログにはログミンというアクセス解析機能があって、それを見ていると興味深いことが分かった。

 

ここのブログは9割がリピーターでひとつ記事を読んだらささっと出て行くのだが普通なのだが、中には初めて入ってくる人もいて、そういう人は"TS・カウフィールドと牛野小雪『○○』を読む"を踏むと、8割方がそのシリーズを最後まで読んでいった。記事下の「他の作家」というカテゴリーで表示されているところから移っていったものと思われる。初めて体験する波及効果だった。

 

今現在、砂鐘さんのところを読むと「他の作家」のカテゴリーの下二つに月狂さんと如月さんのものが表示されている。

こういうとまるでお二方が悪いような言い方なのだが、月狂さんと如月さんのやつは本当に読まれない。みんな夏居暑さんのところでふっと離脱する。(おい、まだ先があるだろう)とツッコミを入れたくなるほど見事に消える。タイトルにT・S・カウフィールドが付いていないだけで本当にスルーされる。

 

 うん、カウフィールドさんはね。変な話を書く人だけど、("こどものどうわ 『ぷりぷりものがたり/T・S・カウフィールド』","『私のアイリス/T・S・カウフィールド』")実際に遭遇すれば根は真面目な人だとすぐに分かりますよ。歩く紳士ですから。もしかすると言葉の端にもそれが漏れているのかな、とか考えたりして。でもね、他のも読んでいっても良いんじゃないかなって私は思ったんです。どうしてだろうかって色々考えたのですが、みんなカウフィールドさんのことが好きなんだと思いました。いや、たぶんきっとそうに違いない。カウフィールドさん無しでここまで読んだ人はよっぽどの物好きじゃないかな。そう考えるとここまで読んでくれたのは本当にありがたいね。それじゃあ、また。明日と明後日もよろしくお願いします。

 

(おしまい)


牛野小雪の著作リストです

2013年に読んだkindle本のレビュー

『魔女と機械と遺世界と/舟渡攻』を読んで考えてみた

『魔女と機械と遺世界と/舟渡攻』を読んで

 主人公は殺戮機械。旧世界を滅ぼした張本人である。機械というが、後に遺伝子がどうたらこうたらと出てくるので完全な機械ではなく人間と機械が合わさったような物のようです。なので物語中で感情が描かれているのも当然です。というか主人公の感情の移り変わりがこの小説の肝です。
 主人公の心中では自分が滅ぼした旧世界と、文明が滅んだ現在の世界の二つに分けられていて、自分は旧世界の人間(話がややこしくなるので人間とする)と思っている。今の世界は自分のいうべき世界ではないと思っている。それで、今の世界を遺世界と呼んでいる。
  
序盤の魔女が寝たあとに主人公はその異世界を旅してユズという女の子と出会う。異世界の様子を調べるために主人公と彼女と行動を共にしていきます。遺世界なりにも問題が起こるのですが、主人公は旧世界の人間なので、なるべく遺世界に影響を与えないように手助けはせず見守るだけに徹しようとします。しかし、成り行きで竜の生け贄にされたユズを助けてから、まあ色々あって村と村の戦争が起きる。その中でユズは命を落としそうになる。
 主人公は旧世界に関わらないようにしようと決めていたのだが、ユズの死を前に何もしないでただ見ているだけで良いのかと迷う。まあ結果はハッピーエンドです。
 
 この小説のテーマは主人公の心の中で分けられた旧世界と遺世界、現在と過去の融合。それを繋げたのは愛っていう話でした。
 ラーメン同盟の話にちょっと似ていると思った。執筆時期はかなり近い作品だと予想する。 


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