書評
(おわり 印象に残った部分をあなたの言葉でシェアしてみて!)
(おわり 印象に残った部分をあなたの言葉でシェアしてみて!)
この小説「流星を打ち砕け」は隕石災害に見舞われた世界を舞台に藤原千秋とポロ部の馬・ユニコの絆を軸に展開するファンタジックでハートウォーミングな物語である。
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
この小説は主人公の森正文とその恋人の長谷川美夏という二人の人物を中心に、薬物依存や万引き、空き巣などの犯罪行為に手を染めていく過程と、そこから抜け出そうとする葛藤を描いた作品です。
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり)
『武器よさらば』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台に、アメリカ人青年フレドリック・ヘンリーとイギリス人看護師キャサリン・バークリーの熱愛を描いた作品である。ヘミングウェイ独特の簡潔で畳み掛けるような文章で、生死の境をさまよう過酷な日々の中で芽生えた二人の愛を鮮明に浮かび上がらせている。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
ターンワールドは主人公のタクヤが現実世界から異世界に迷い込み、そこで様々な人々と出会いながら自身の生き方を模索していく物語です。
『荒れ地の家族』は、東日本大震災から10年が経過した被災地を舞台に、そこに暮らす人々の日常と心情を描いた作品です。主人公の坂井祐治は、震災後にインフルエンザ脳症で妻を亡くし、小学生の息子啓太と自身の母和子と共に暮らしています。再婚した女性との間に子供を授かるも、流産により関係が破綻し、離婚に至ります。
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
葉真中顕の小説『ロストケア』は、現代日本の介護問題に焦点を当てた衝撃的な社会派ミステリーである。物語は、介護の現場で働く佐久間が起こした連続殺人事件の公判から始まる。佐久間は、自らの行為を「正しいこと」だと主張するが、検事の大友は、人間の善性を信じる立場から、佐久間の行為を断罪しようとする。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
『賢者の書』は、自己啓発的な要素を織り交ぜた小説であり、仕事や私生活に行き詰まった会社員の前に現れた不思議な少年が、幸せな人生を歩むための術を記した「賢者の書」を持っているという設定から物語が始まる。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
道尾秀介の短編集『いけない』は、各章の最後に挿入された写真を手がかりに、読者自身が事件の真相を解明していくという斬新な手法を用いたミステリー作品である。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
市川沙央氏の小説「ハンチバック」は、身体障害を抱える主人公・釈華の内面世界と、言葉を通じた自己表現の試みを描いた作品であり、2023年上半期の芥川賞を受賞した。先天性ミオパチーによる症候性側彎症を患う作者自身の経験が色濃く反映されており、健常者には想像し難い苦悩や葛藤が赤裸々に綴られている。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
『変な家』は奇妙な間取りの家を軸に筆者と友人の考察や推理が展開される作品です。読者はゾワゾワと怖さを感じつつも面白さに引き込まれ一気に読み進めてしまうでしょう。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
この小説は人類滅亡後の世界を舞台に生き残った人々の過酷な運命と孤独に生きる者たちの姿を描いた作品です。
(おわり Claude記)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり Claude記)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
(おわり Claude記)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
「バナナランド」は、近未来の人類社会を舞台にした壮大なSF小説です。人間生産工場で働く主人公ユフが、絶滅したはずの女性フーカや秘密結社くろねこのサイボーグ忍者と出会うことで、世界の真相に迫っていきます。
(おわり)
小説なら牛野小雪がおすすめ【kindle unlimitedで読めます】
概要
この小説『難聴製造機』は、戦争の悲惨さと非人道性を風刺的に描いた作品です。主人公のサイトウ・タクヤを通して、戦場での残酷な現実や兵士の心情が生々しく表現されています。
身体能力だけでもそうなのに、心や精神でだって多様性はない。変わったキャラは『変わったキャラ』という枠を越えた途端に受け入れられなくなる。社会に存在する数バリエーションのキャラを越えた人間は静かな真空によって、社会の外側へ吸い込まれていく。人間って数パターンしかいないよな、というのはある意味では正解で、数パターンのキャラしか社会は受け入れられないからだ。内心は自由でも表現は限られている。こいつら没個性だなと思っている人も、社会の中では没個性の人間としか出現せず、そこから逃れようとしても、せいぜい『個性的』という型にハマるぐらいだ。個性的な奴が出てこないと言っている人も、本当に『個性的』な枠を越えた個性的な人が目の前に現れたら、受け入れられないことはほぼ間違いないし、認識することさえできないかもしれない。『』の中に入るのは何でもいい。それは真面目だとか、天才だとか、面白い、カッコイイ、かわいい、弱者、変態、無個性でさえ入れることが可能だ。
直接の描写はないが前山田君は何のキャラにもなれない無能である。自尊心とお金を払ってまでいじめられっ子というキャラを社会(学校)の中に見出したが、親の金を盗まなければならないほど追いつめられた時に、つまりキャラの維持費が彼個人の裁量を越えた時に、とうとうこの世から居場所がなくなり、オサラバすることになった。
現代社会は映画の『JOKER』と違って、銃とマレー・フランクリンが存在しないゴッサムシティだ。マレー・フランクリンみたいな人がいれば笑いものにしてくれる。一緒に笑えば居場所を得られる。もしかしたら表舞台に引き上げてくれることだってあるかもしれない。銃があれば自分を笑う奴を撃ってテロリストになればいい。しかし残念ながら社会に受け入れられない人にマレー・フランクリンは現れないし、銃、あるいはそれに準ずる力さえも手に入れることはできない。『JOKER』のアーサーだって自分の力で銃を手に入れたわけじゃないしな。『JOKER』はしょせんフィクションで、舞台装置として銃を手に入れただけだ。現実は静かに死ぬか、腐りながら生きていくしかない。
上でも書いたように社会に受け入れられない人間は認識すらされない。前山田君にいじめられっ子というキャラが付いていた時は主人公が同情してくれたのに、自殺した理由がいじめでないと分かった途端に、前山田君はいじめられっ子というキャラから逸脱して、キャラが剝ぎ取られた無キャになってしまう。半年後もすればいじめっこの前山田君は記憶に残ったとしても、仮面が外れたむき出しの前山田君は存在していたことさえ忘れられるだろう。社会的な『』にくくられない真の無キャは『当てつけ』さえ亡きものとされてしまうのだ。
(おわり)
※前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよってタイトルに書いたけど、そもそもこの小説、平成に書かれた物だったので、やっぱり二重の意味でねえよ。
牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪
そうして彼はインディアンの男達を呼ぶのだが、彼らにはっきりと「丸太を盗んだ」と指摘されてしまう。怒って家に帰ってきた彼は信心深い妻に何があったのか問い詰められる。そこで彼は自慢のショットガンの掃除をしながらインディアンの男は彼に借りがあるものだからケンカを売ってくるんだと嘘をつく。妻はいったんその嘘を飲み込むが、しばらくしてからそんなことは信じられないと嘘を見抜いてしまう。
医師は最初に丸太を自分の物にしようといて、理屈をこねて正当化しようとした。しかし文明人ではないインディアン達には通用せず、あっさりそれは盗みだと暴かれてしまう。
その次に医師はインディアンの男が彼に罪悪感を負わせようとするのは彼に借りがあるからだという理屈を考えるのだが、その理屈も神を信じる妻には通用しない。
しかし妻もインディアンも彼の罪を見破ったが裁くことはなかった。
そこでようやく医師は冷静になり「すまん」という言葉を口にする。
この言葉は妻にだけではなくインディアンの男や、丸太の持ち主、自分にも向けられているのではないだろうか。
罪も認め謝罪もしたせいかようやくこの頃になって医師の心に平和が訪れ、林の中の牧歌的な雰囲気の中で彼は息子と一緒にクロリスを見に行くところでこの短編は終わる。
いくら理屈をこねて正当化しても感情の底は欺けない。そう考えると最初の丸太のくだりがとても言い訳がましく感じられてくるのである。
(2017/06/09 牛野小雪 記)
追記:クロリスとは黒いリスのこと。本当に黒い。アメリカ中西部ではメジャーな動物なんだとか。
カンダタは蜘蛛の糸を辿って極楽へ行こうとするが蜘蛛の糸は途中で切れてしまう。切れたのは地獄の亡者たちが糸を登ろうとしたのを見たカンダタが、この糸は俺のものだと叫んで切れたことになっている。
しかしこの蜘蛛の糸は極楽から地獄まで何万里(里:日本では約4km、中国の里でも500m)の距離も垂れていて、しかも地獄においても体は疲れるみたいなので、どう考えてもカンダタがこの蜘蛛の糸を上って地獄から抜けるのは不可能だということが伺える。それではお釈迦様は何を思って蜘蛛の糸を垂らしたのだろう。地獄の亡者をからかうためか。なぜワイヤーやハシゴにしなかったのだろう。いや、極楽から地獄までは何千里もあるのだからエレベーターか、せめて階段にしなければカンダタが登りきることは不可能だ。
一般的な解釈ではカンダタが自分だけが助かろうとしたので蜘蛛の糸が切れたということになっている。私は蜘蛛の糸を読み直して、カンダタが極楽へ登れなかったのは『自分だけが助かろう』としたからではなく『自分で助かろう』としたからではないかと思った。
カンダタは罪人である。地獄へ落ちたのはそれなりの罪を犯したからである。それなのに地獄から抜け出そうとするのは罪人自身が「俺の罪は許された」と言い張るようなもので、とんでもないことである。罪は自分で許すものではなく誰かに許されるものではないか。
カンダタは蜘蛛の糸を辿れば極楽へ行けると思い込んでいた。お釈迦様は登ってこいとも何とも言っていない。ただ蜘蛛の糸を垂らしただけだ。私は糸を掴むだけで良かったのではないかと思っている。極楽と地獄の距離は何万里もあるので仮に糸が切れなかったとしても途中でカンダタは力尽きてしまう運命にある。事実彼はもう一たぐりも登れなくなったので、一休みしている最中に下から登ってくる亡者達を見たのだ。
謝ったのに許してくれなかったと怒る人がいる。許さない相手もちょっと強情にすぎると思うこともあるけれど、もし仮に謝れば許してもらえるだろうという相手の心根が透けて見えた時、相手を許すことはできるだろうか。謝ったから俺を許せとは傲慢なやり方ではないか。むしろ怒りに火を注ぎそうな気もする。「お前、謝ればいいと思っているんだろう!」と。
カンダタは糸を登れば極楽へ行けると思い込んでいたが、それは謝れば許してもらえるという性根と同じではないだろうか。許されるかどうかを自分で決めることはできない。謝ったからこれでいいや、とはならないのだ。
謝れば許されると思い込むのは、許す許さぬの権利を相手に渡さずに自分で握っていることと同じで、相手は許す権利がないので許すことはできない。本当に謝るのなら自分の運命を一度相手に預ける勇気を持たなければならない。
そういう風に考えていくとカンダタは自力で極楽へ登ろうとせず、ただ糸を掴み蜘蛛に自分の運命を委ねていれば良かったのではないだろうか。たとえ地獄の亡者が地獄から抜け出そうとカンダタより先に蜘蛛の糸を登っていったとしても、彼らはいつか力尽きて地獄に落ちてくる運命にある。何度か再挑戦する亡者もいるだろうがいつかは彼らもこれは地獄の新しい拷問ではないかと疑い始めるに違いない。こうして亡者達が救われることを諦め地獄に静寂が降りた時、ようやく蜘蛛は糸を巻き始め、糸を掴み続けたカンダタを極楽へ引き上げたのではないだろうか。
カンダタは何をすれば良かったのかではなく、何もしなくて良かった。むしろ何もしてはいけなかったのだ、彼が救われるまで。ここで大事なのは蜘蛛の糸を掴み続けていることで、もしカンダタが蜘蛛の糸から手を離していたら、やっぱり彼は極楽へ行けなかっただろう。蜘蛛の糸は誰も連れず静かに巻き上げられたはずだ。何だかおかしな話だが今はそんな気がしている。
(2017/04/02 牛野小雪 記)
牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪
『さよなら楓ちゃん』にはふたりの女の子が出てくる。しずるちゃんとKちゃん。ふたりは小中と一緒だったけれど高校は離れ離れになってしまう。そのせいかしずるちゃんは泣いたり呼吸困難になったりで咽の詰まる思いに苦しめられていた。
しずるちゃんは高校三年間をただ通り過ぎるように終わらせるのだけれど、大学受験に失敗して予備校に通い始める。そこでまたKちゃんと一緒になる。三年間の溝は無かったようでふたりはまた仲良くなる。
ヤッター、バンザイという感じだが、実はしずるちゃんとKちゃんは希望する進学先が違うので、大学に合格した時点でふたりはまた離れ離れになることが決まっている。実はこのことは物語であまり語られていないことだ。ふたりとも避けていたのだろうか。それとも重要なこととは思っていなかった?
物語の途中からふたりに、もうひとりの仲間が加わる。人間ではなく、Kちゃんのぬいぐるみのふゆかちゃん。彼女はKちゃんの巾着袋からひょっこり出てくる。真面目な性格で、ふたりが勉強をサボらないように注意したりする。もちろんぬいぐるみがひとりでに喋りだすわけがないので、本当はふゆかちゃんの姿を借りたKちゃんなわけだ。
勉強をがんばるという事はふたりが別れる方向に進むという事である。でもそれはあまりしたくはない。それに真面目な事を言うのは白けるものだから、Kちゃんはふゆかちゃんを通して言いづらい事を伝えている。
物語が進むと、しずるちゃんとKちゃんはまた大学に落ちる。するとKちゃんの巾着袋に、れんげちゃん、なつえちゃん、かえでちゃんというぬいぐるみが増えていく。しずるちゃんの方でもバムセというぬいぐるみを出してくる。こちらはしずるちゃんが元々持っていたぬいぐるみだ。
Kちゃんのぬいぐるみの中でもかえでちゃんは積極的だ。バムセに対して最初は遠慮がちに、徐々に大胆に好きという感情を表現する。効果音もぴとぴと、ひしっ、っといった感じでとにかくくっつきたがる。バムセのほうでもそれを嫌がることなくお互いに好き合っている。
もちろんぬいぐるみが感情を持つ事はありえない。動くのも喋るのにもしずるちゃんとKちゃんがいなければならない。ということはぬいぐるみの気持ちはふたりの気持ちということになる。
冒頭で出て行った思いはどこへ行くのだろう? と書いた。それは物や場所に染み込んでいくものではないだろうか。長年使っていた携帯電話を捨てられないのは何故だろう。ガンダムのプラモデルも押入れの中に沈んでいる。頭ではもう二度と使わない物だと分かっているのに何故か捨てられない。それは思い出が染み込んでいるからではないか。
誰かが長年使っていた物にはその人の思いが染み込んでいる。文字の無い日記帳みたいなもので、愛が着いて愛着になる。しずるちゃんとKちゃんのぬいぐるみはふたりの思い出が染み込んだ『思入り』といえるもので、心の一部みたいなものだ。
その心の一部であるしずるちゃんのぬいぐるみバムセをKちゃんは借りていく。しずるちゃんも貸したつもりで、貸してしまう。でもバムセは返ってくる事もなく、それどころかKちゃんとも疎遠になってしまう。バムセも返ってこない。
きっとKちゃんもしずるちゃんと離れたくなかったのだろう。もしかするとKちゃんも一度離れ離れになる時、しずるちゃんみたいに傷ついていた可能性はある。でもまたいつかは離れなくてはならないことを頭の良いKちゃんなら察していたのかもしれない。
意識してそうしたのではないだろう。彼女はしずるちゃんのバムセを借りたままどこかへ行ってしまう。しずるちゃんの方でもバムセの思い出はどこかへ行って、いつしか意識することもなくなるが、ある日写真を見て失くしてしまった思い出(バムセ)があったことに気付く。
『さよなら楓ちゃん』は徹頭徹尾しずるちゃんとKちゃんの話である。そして別れの話でもある。最後にしずるちゃんは傷つきながらKちゃんと離れ離れになってしまう。Kちゃんはどうだっただろう。涙のひとつでもこぼしたのだろうか。離れてしまった彼女を知るすべはない。
しかし、ふたりの思い出が染み込んでいるバムセとかえでちゃん達は今もきっとKちゃんの巾着袋の中で一緒にいる。そのことがしずるちゃんにある種の救いを与えているのではないだろうか。ベタな言葉だが離れていても心は一緒にいる。なので、しずるちゃんは失くした思い出を、バムセを取り戻そうとはしないのだ。
『さよなら楓ちゃん』はしずるちゃんとKちゃんにとっては喪失の物語であるが、バムセとかえでちゃんにとっては結合の物語でもある。ふたりは思い出のやりとりをしながら混ざり合っていたのだ。
(おわり 牛野小雪 記)
先週(今週も)twitter上にKDPにはレビューが少ないという話がいくつか出ていた。これは本当にそう思う。二年前はもうちょっとレビューがついていて、名の知れたレビュワーが何人かいた(今も書いてる?)。
この件については簡単な話で、ただ単純にレビューに需要がないからではと私は思っている。だって、本屋に行ってアマゾンレビューやブックメーターを見ながら本を買ったりはしない。もちろん行く前にも見ない。たぶん私の人生で書評やレビューを読んでこの本を買おうと思ったことは一度もないのでは?
そこまで行ったときはもう買うかどうかが決まっている段階か、もしくは読んだ後で、本を買うときの決め手は書評よりも評判じゃないかなと私は思った。(4千字の書評1個より、40字以下の読書メモ100個に訴求力があるということ"数は力だよ兄貴!")
私も評判の本は内容を知らなくても手に取ることがある。というより読んでみるまで本当に中身を知ることはできないのだから、ある本を手に取る決め手は評判と表紙のふたつしかないんじゃないか?
今日はレビューについての話。これはKDP本だけに限る話ではないけれど、星一個をくらった作者からは狂おしいの声が聞こえてくる。実を言うと私も食らったことがある(そのレビューは何故か消えてしまったが、星4個も消えたからこの件についてはあおいこかな。でもいつかは完全に食らわなきゃいけない。そうでなければ全部無視するか。KDPは編集者が感想の選別をしてくれないのだから)。
星一個をくらってしばらく思ったのは、どうして星一個のレビューはあんなに情熱的な文章なのかということだ。星一個と五個のレビューの信憑性は同じぐらいだが、読んでいて真に迫るものがあるのは星一個の方だ。本当に良く書けている。この調子で書けば良い短篇になると思えるぐらいの出来だ。
では、その星一個の情熱的なレビューを書いた人が星五個のレビューを書くとどうなるのか。不思議や不思議。文章が固くなっている。私自身も五個のレビューを書くときはどこかうまくいかない。これはどういうことなのか考えてみた。
実生活で「いや~、本当に素晴らしいですね!」と声に出す時は、全然素晴らしいと思っていない時だ。若い人に「若いですね」とは言わないし、綺麗な人に「お綺麗ですね」とは言わない。
それとは逆に「最低な奴だな、さっさと死ねよ」は私より先に死んで欲しくない最高な奴にしか言わないし、「まぁ、悪くはないんじゃない?」は良いときに使う。
んっ? 待てよ?
なにか悪い物を見たときに私がなんと言うかといえば「まぁ、良いんじゃないか?」と何かが奥歯に挟まったような口調で言って、そのあとに”でも”がついてくる。
・・・なんてこった。”何々が良い”という時はきまって何か悪いことがあるときだ。”良い=悪い”で”これは凄く良いよ!=どうにかしないとヤバイぞ!”だと気付いた。
私が思うに、これは良い物を素直に良いと表現する文法を持っていないからなのではないかと考えた。
"悪い+否定" → 悪くない → つまり良い
最近使われるようになった二重否定だと、ちょっと複雑になって
"良い+否定+否定" → 良くないことはない → つまり良い
どうして何でも否定形を使いたがるのだろう。どうしてこんなにツンデレなんだろう。ひどい言葉ばかり使い方が上手くなっていく。
まぁ、もしダイレクトに良いと表現する時は"マジ"とか"ヤバイ"を使うかな。でもよく考えると、それは文脈として良い意味になっているだけで、言葉本来の意味では悪いということになる。なんだ、やっぱり素直に良いとは言えていないんだ。
でも"とてもいい"とか"すごく素晴らしい"はなんだかうさんくさい。
なので、私がときどき書いている書評は文脈の提示にとどめて、良いとも悪いとも書かないようにしている(だから、良いか悪いかなんて聞かないで欲しいな。)。
そこで私は考えた。もし仮に牛野小雪が気の置けない友人で"マジ"で"ヤバイ"物を書いてきたとしたら、どう書くのか。
本当は他の人の本でやろうと思ったのだが、KDP界隈で実際に顔を知っている人はいないし、誤解から戦争に発展するのは嫌なので自分の本でやることにした。レビュー対象は『竹薮の柩』。レビューを書きやすく、多少しくじってもダメージが少ない物を選んだ。
5364645人中、28114人の人が、「このレビューは参考になった」と投票しています。
★★★★★ まあまあ
投稿者 沈黙のサイレンサー
私の率直な感想で言えば凄く悪いということはない。
ただ主人公がただ苦しむ様を読んで楽しめる読者がどれだけいるのか私には疑問だ。この小説にはヒーローもヒロインも出てこない。主人公が貧しい境涯から脱出するわけでもなければ、救いがあるわけでもない。冒頭で死んだ父親から遺産を受け取っても、生活費にあっさり消えてしまうところなど、とうてい読者の共感を得られる人物像ではない。作者はまず物語のいろはを学んだ方がいいだろう。
ロマンスなし、サクセスなし。短篇なのに作中の登場人物はたくさん死ぬし、主人公の状況はどんどん悪くなっていく。良いところはひとつもない。遺産で受け取った山が最後の伏線になるのかと思っていたが本当に何もなかった。作者は何を思ってこんな話を書いたのだろうか。理解できる人は誰もいないだろう。
だがもう一度読めと言われたら読んでもいいかもしれない。まぁ、それぐらいの出来ではあった。そんな物好きは私だけだろうが。
なんというツンデレ。ケンカを売っているようにしか見えない。でも現実に気心がしれた相手で"マジ"ならこれぐらい書くと思う。でもこの書き方で星五個というのはおかしい。星三個にするだろうな。レビューって本当に難しい。なかなか書く人がいないわけだ。(個人的にはAmazon の星システムを無くした方がいいと思う。もしくは星の選択がないレビューを書けるとか。星一個と五個はそれを選択した時点でレビューが極端に走っているように見える)
もし仮に牛野小雪が会社の上司で、『竹薮の柩』が"とてもいい" & "すごく素晴らしい"小説だったならこう書くだろう(こう書くと変ですが『竹藪の柩』は良い小説ですよ、皮肉じゃなくて:作者談)。
16人中、3人の人が、「このレビューは参考になった」と投票しています。
★★★★★ 大傑作です!とんでもないのが出てきた!
投稿者 激甘チリソース
超傑作です!読んで感動しました!!
貧しい労働者が苦悩するさまは誰もが共感できるでしょう。私は『竹薮の柩』にこの世の真実を見ました。
冒頭の父親の死から結末まで緊張感が途切れることなく、最後の結末まで読者を良い意味で裏切り続ける作者の力量に脱帽です。これを読まずにいるのは人生もったいない。
この短編には人生が詰まっています。世に溢れる凡百の小説よりはるかに中身が詰まっています。文章をインクで伸ばしたような物では決してありません。文章の一語一語に作者の血と汗がにじんでいます。
よくぞ書いてくれました。これは人類の宝になる小説です。
みなさんも『竹薮の柩』を読まれることを期待します。
これは真実絶対に超傑作です。
ちょっと大げさ過ぎたが我ながら良い出来。これこそ、うさんくさい星五個のレビュー。
ちなみに、もしこれがシニカルレビューだとするなら、意訳するとこうなるだろう。
6911人中、5888人の人が、「このレビューは参考になった」と投票しています。
★すくいようのないクソ
投稿者 塩辛ソルジャー
超駄作で最後まで読めた自分に感動した。
酒の席でくだを巻くような誰にも共感してもらえない話で、何度も夢の世界へ落ちそうになった。酒の席で目下の人間から賞賛を勝ち取ったような下らないネタをいくつも披露して、最後の結末まで読者を退屈させた力量には怒りすら覚える。どの段落を読んでも人生の浪費になるだろう。嫌いな相手に読ませるのがいい。
この小説にはクソが詰まっている。作者の内臓で発酵したクソネタが、クソを煮詰めて作ったインクで書かれている。よくこんな恥ずかしいネタを他人に読ませる気になった。その度胸だけは本当に素晴らしい。押入れから出さなければもっと良かった。
これぐらいの文章は本当に星一個のレビューでしか読めない。
そういえば前に村上春樹のレビュー(星一個のやつね)で本を出した人がいた。なかなか書く人だと思っていたが、彼のブログを読んでいると"マジ"な文章を書こうとして書けずに苦しんでいて、ついにはブログが止まってしまった(ちなみにブログを読んでいると彼は村上春樹に対してツンデレしているようにしか見えなかったので、途中から素直になれよと言いたくなった)。
どうして私達は素直に人を誉める文章を持ち合わせていないのだろう。うまいのは人をけなす言葉ばかりだ。ちょっと悲しいねというお話。
(おしまい)
補記:最初のレビューの意訳は恥ずかしくって一行も書けなかった。恥ずかしいというのがうまく賞賛の言葉を出せない理由かもしれない(素直に好きとは言えないのと一緒?)。
警告:今日はカウフィールドさんの出番無し!
今までとは違った書評記事を書くと私は言った。それも今までとは毛色の違う物をと。たぶんこんなことを話すのは月狂さんにだろう。結果はどうなるか分からないが、とりあえず五本書いてみると言った。今思えば三つぐらいにしておけば良かったと思っている。
最初に夏居暑さんの『PS03』を書いて、これはわりと成功した。今までちょろちょろと書評を書いてきたが、そのたびにPVの桁が変わっていた(二桁か三桁かはいうまでもない)。カウフィールドさんとの書評でその桁がさらに桁が上がるということは無かったが、数は三倍以上になった。時間を三倍かけているせいかもしれないが、後述するようにカウフィールドさんのネームバリューだと私は考えている。
別に決めていたわけではないが、そのときはターンワールドを書き終わって今すぐ執筆にかかれる物もないから、二本目の『割られよ、凍てついた王冠よ』(通称:王冠)を書いたあとで、週に一本書くことにした。まぁ、これだけは自分だけの力で成功したのか怪しいところもあるが、王冠は結構な数閲覧されて、もうちょっとで桁が変わるところだった。
高橋熱さんの辺りでちょっとおかしくなってきたが、それでも毎週書いて砂鐘さんの『悪兄!!』まで書く毎にPVがひとつかふたつ上がるという風だった。
なんだか凄いことが起こっている様に書いているが、はっきり言って自慢できるような閲覧数ではない。でも、ライブドアブログにはログミンというアクセス解析機能があって、それを見ていると興味深いことが分かった。
ここのブログは9割がリピーターでひとつ記事を読んだらささっと出て行くのだが普通なのだが、中には初めて入ってくる人もいて、そういう人は"T・S・カウフィールドと牛野小雪『○○』を読む"を踏むと、8割方がそのシリーズを最後まで読んでいった。記事下の「他の作家」というカテゴリーで表示されているところから移っていったものと思われる。初めて体験する波及効果だった。
今現在、砂鐘さんのところを読むと「他の作家」のカテゴリーの下二つに月狂さんと如月さんのものが表示されている。
こういうとまるでお二方が悪いような言い方なのだが、月狂さんと如月さんのやつは本当に読まれない。みんな夏居暑さんのところでふっと離脱する。(おい、まだ先があるだろう)とツッコミを入れたくなるほど見事に消える。タイトルにT・S・カウフィールドが付いていないだけで本当にスルーされる。
うん、カウフィールドさんはね。変な話を書く人だけど、("こどものどうわ 『ぷりぷりものがたり/T・S・カウフィールド』","『私のアイリス/T・S・カウフィールド』")実際に遭遇すれば根は真面目な人だとすぐに分かりますよ。歩く紳士ですから。もしかすると言葉の端にもそれが漏れているのかな、とか考えたりして。でもね、他のも読んでいっても良いんじゃないかなって私は思ったんです。どうしてだろうかって色々考えたのですが、みんなカウフィールドさんのことが好きなんだと思いました。いや、たぶんきっとそうに違いない。カウフィールドさん無しでここまで読んだ人はよっぽどの物好きじゃないかな。そう考えるとここまで読んでくれたのは本当にありがたいね。それじゃあ、また。明日と明後日もよろしくお願いします。
(おしまい)
牛野小雪の著作リストです
『魔女と機械と遺世界と/舟渡攻』を読んで考えてみた
この小説のテーマは主人公の心の中で分けられた旧世界と遺世界、現在と過去の融合。それを繋げたのは愛っていう話でした。
ラーメン同盟の話にちょっと似ていると思った。執筆時期はかなり近い作品だと予想する。
続きを読む
Googleアナリティクスでアクセス情報を分析しています。






































