冷たい山 800-320
 毎年梅雨が明けると僕は父に連れられて山を登る。それもちゃんとした道ではなく、車を道路脇に止めて山の中へと進む。父の車はスバルだ。その前もスバルだったらしい。僕は生まれていたが覚えていない。全ては写真の中の事だ。

  家を出た頃は薄く汗ばむほどだった気温も山の日陰に入った途端に遠のき、車を降りる頃にはひんやりとした冷気が肌に染みこんできた。

 藪をかき分けながら進むとすぐに踏み固められた道に出た。山は高い木に覆われているので日光が当たらない。草は生えていなかった。上り下りしなければ外から見るより意外と歩きやすい。

 僕達は山のカーブに沿うように歩き続けた。すると突然川の音が聞こえた。山の中では全てが突然に姿をあらわす。目の前に来るまで全然気付かない。

 父が川の石をひっくり返した。そこには爪の先より小さい甲虫が何匹かくっ付いて、突然日光を浴びせられたものだから慌てて川の中に逃げていく。父はその中の一匹を捕まえると持ってきた釣り針の先に付けた。

 僕はその甲虫の名前を知らない。でも姿は知っていて、毎年見ている。貝みたいな見た目の癖に意外と素早く動くのだ。

 父は釣り針をそっと渓流の中に落とした。

 姿を見せると魚が逃げるので体は伏せていた。音も立てない。僕は息を殺して父の背中を見ている。渓流を落ちる川の音だけが聞こえる。

 父は竿を上げて釣り針を見ると、その先から何かを摘んで川の中に捨てた。それから体を起こして歩き始める。きっと魚が食いついていなかったのだ。そんな時、父は必ずエサを川の中に捨てる。次のポイントまで付けていくという事がない。

 山を降りてから何故エサを外していくのか一度だけ聞いたことがある。

“山との勝負に負けたから”と父は答えた。

 意味は分からなかったけれど僕は不思議とその答えに納得して、いつしかそういう物だとその考えが体に身に付いた。負ければ捨てる。0勝1敗。でも僕達はまだまだ渓流を遡っていく。勝負はまだまだ続くのだ。

 父が足を止めてまた石をひっくり返した。そこには甲虫がいなかったが、僕がひっくり返した石にはたくさん引っ付いていて、僕はその中の一番最初に動いたやつを捕まえて父に渡した。その間に虫達はみんな川に逃げてつるつるに濡れた石がひっくり返っていた。

 父がまたさっきと同じようにそっと釣り針を川の中に落す。さっきと同じように身を伏せて音を立てないようにした。川の音と時間だけが僕達の体を通り過ぎていく。

 竿の先が震えた。父がぐっと腕を上げると、一瞬だけ竿が弓なりに曲がった。それからゆっくりと竿を上げていくと竿の先で魚が暴れていた。

 父は素早く針を外すと、それを川の中に戻す。まだ小さい魚だった。でもこれで1勝1敗の引き分け。

 それからもう一度竿を下ろしたが釣れたのはまた小さい魚で僕には同じ魚に見えた。父は腰を上げてまた歩き始めた。

“そろそろ深い場所に出るな”

 一度川から離れ、山の中を歩いていると父が言った。山に入ってから初めて口にした言葉だ。

 僕達はほとんど言葉を交わさない。家で一緒にいてもほとんど話すことはないが山の中ならもっと話さない。たぶん喋れなくなったとしても山から降りるまでそれに気付かないだろう。僕は父の言葉に答えなかったし、父も足を止めずに歩き続けた。すると父の言うように大きな岩でせき止められて川が狭くなった場所に出た。川は深い緑色をしていて深そうだが、その中を泳いでいる魚が白く見えた。浅い所だと何故か黒く見えるのが不思議だった。

 僕達がいる場所は少し崖になっていて川の石をひっくり返す事はできなかったが、父は近くにある木の皮を剥がすと、そこから白い芋虫みたいな虫を捕まえて針の先に付け、川の中に落とした。

 僕は父から少し離れた場所を歩いて、少し固そうな枝を見つけるとそれを持って木を叩きながら山の中を歩いた。

 山の中は静かで、何をしても自分の音しかしない。でも一度風が吹くと頭上の木の葉が一斉に揺れて森中が震えながら大声を出す。すると森の中でひとりぼっちになったような気分になり、冷たい空気と一緒に寂しさが胸に入り込んでくるのだ。

ちょうどある木の幹を木で打った時にそうなったものだから、僕は心細くなって父の所に戻った。父はまださっきと同じ姿勢のまま岩のように動かない。僕はその背中を見て胸の奥ががじぃーんと暖まるのを感じた。

僕が隣に座ると父は微かに僕に顔を向けた。まだ魚は釣れていない。離れた場所で白い魚の影が見えた。きっとあの魚も僕達を見ている。だからあんな離れた所にいるんだ。僕がそう思っていると竿の先が震えた。父が咄嗟に腕を上げて竿を弓なりに曲げると、僕が思っていたよりも意外に遠い場所で水しぶきが上がった。

 父がリールを巻いていくと黒い影が近寄ってくる。水から上げると僕の腕より大きなニジマスだった。近くで暴れられると空気を通してその大きさが伝わってくる。

父が近くにあった石を掴むとニジマスの頭を叩いた。ポクッと少し間抜けな音がしてニジマスは動かなくなった。

 父が手を伸ばしてきたので僕は持っていた枝を彼に渡した。父はその枝をニジマスのエラから口に通して担いだ。

 その場に竿を下ろす事はやめて、また歩いた。

 川のそばにあすなろの木が生えていたので、その枝を折ってエラに通し、葉っぱで魚体を巻いた。さらにその上からヒノキの薄皮でキュッと縛る。ツンとしたにおいがするが、これで巻いておくと新鮮なまま長持ちすると父は言っていた。

 それからさらに歩いて浅い川に出ると父はあすなろの葉っぱを解いて、ポケットからナイフを出すとニジマスの腹を裂いて内臓を川に捨てた。魚の身は川で洗わず少し血が付いたままだが、やっぱりこうしておくと魚が長持ちするらしい。

“内臓はカニが食べる”と父は言った。

 それからも僕達は渓流をさかのぼり魚を釣った。

“お前もやってみるか?”と父は言ったが僕は首を振った。僕は魚が好きじゃない。釣だってそうだ。でも釣りをしている父を見ているのは好きだった。

 渓流はまだ続いていたが、父は帰る素振りを見せた。

“この先は?”と僕は言った。

山に入ってから初めて口にした言葉だと気付いた。

“何もないよ”と父は言った。

 それでも僕達は渓流をさらにさかのぼると徐々に川は細くなり、本当に何も無い場所に来た。正確には細い滝が落ちている場所だ。
挿絵

“前にも一度来たことがある?”

 僕の問いに父は何も答えなかった。父は夏が終わるまで何度か僕を渓流釣りに連れて行く。行く場所はいつも違うが、この場所は何度か来たことがある。

 僕はしばらく滝の周りをうろうろして、それにも飽きると下流に足を向けた。父が先に立って来た道を下っていく。さっきニジマスの内臓を捨てた場所は川の流れが弱い所だったが、そこにはもう何も無く、近くにカニの影がいくつか見えているだけだ。

“川が全部流していくんだ”

 父が言った。僕は何も答えなかったし、何故父がそんなことを言ったのか分からなかった。川が下流へ流れていくのは当たり前の事だ。

 僕達はそれから半時間以上歩き続けてスバルの車まで戻ってきた。長く歩いたものだから、肌の表面では冷気を感じるのに、体の芯はほてっていた。車のミラーで自分の顔を見るとほっぺが真っ赤になっている。父の顔を横目で見たが、浅黒いので赤いのか白いのかよく分からなかった。

 帰りは窓を開けて走っていると、すぐに体が冷えてきた。僕が三度目のくしゃみをした時に父は全部の窓を閉めた。

“滝の上はどうなっているのかな?”

ふと口に出した。そういえば滝の上にも川は続いているはずだが、いつもあそこで引き返す。

“どうして滝の水は涸れたりしないんだろう?”

 続けて僕は言った。父は黙っていた。山はもう下りていた。

 

(おわり)

 

ヤマダさんの『山彦』をよろしく 

山彦・上: 漂泊の民 (新潟文楽工房) [Kindle版]
山彦・中: 死者の女王 (新潟文楽工房) [Kindle版]
山彦・下: 目覚め (新潟文楽工房) [Kindle版]

 他のWEB短編小説
ヘリマルセブンティーン1 320-100SNOWBREAK 320-100僕は夜眠りたくない、朝目覚めれば明日が来てしまうから320-100冷たい山 320-100
Kindle本出しています
3のコピー