愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

山桜

詩的な小説『山桜』をなぜ読むべきなのか

山桜
牛野小雪
2021-12-05


近未来の孤独と詩情が交差する物語『山桜』を、今こそ読むべき理由

現代社会が抱える課題の延長線上に広がる、テクノロジーに支配された近未来。牛野小雪氏による小説『山桜』は、そんな世界を舞台に、一人の男の心の渇きと彷徨を詩情豊かに描き出す物語です。なぜ今、この物語に触れるべきなのか。その魅力を紐解いていきましょう。

1. テクノロジー社会のリアルな描写と、そこに生きる人間の虚無

物語の舞台は、AIによる自動運転車が99%を占めるようになった日本です 。人々は効率化された都市「メロンタウン」の超高層住宅に集住し、移動や生活の多くをシステムに委ねています 。しかし、その合理的な社会で主人公・棗正明が感じるのは、奇妙な虚無感でした


彼は、AIもモーターも搭載しない旧式のV型8気筒エンジン車「ムラサメ」を深夜に駆り、圧倒的なスピードで高速道路を疾走します 。それは、システム化された日常からの一時的な逃避であり、彼が失いかけた生の実感を取り戻すための行為のようにも見えます。この近未来の描写は、テクノロジーの進化がもたらす利便性の裏で、人間が何を失っていくのかを鋭く問いかけます。


2. 人間の心の深淵を覗く、三者三様の関係性

正明の周りには、対照的な二人の女性がいます。

  • 和花: 同じ部屋で暮らしながらも、生活時間のすれ違いから顔を合わせることさえ稀になった恋人 。彼女は革職人であり、時折、食卓に自作の短歌を遺していきます 。その詩は、正明に届かない彼女の心の声を伝え、二人の間の見えない壁を象徴します。やがて彼女は、原因不明の「覚醒困難症」に陥り、眠り続けてしまいます


  • 瑠璃子: クロムタウンで出会ったレンタル彼女 。完璧すぎる美貌はどこか人間離れした恐ろしさを感じさせますが、正明は彼女に惹かれていきます 。彼女との危険なドライブや、借金からの逃避行は、正明の日常を大きく揺さぶります


和花との静かで断絶された関係と、瑠璃子との刹那的で激しい関係。この二つの関係を通して、正明の孤独や、彼が本当に求めているものが浮き彫りになっていきます。

3. 物語に深みを与える詩的な表現と象徴性

『山桜』の大きな特徴は、物語の随所に散りばめられた和花の短歌です。

夢でも逢わぬ君のつめたさ撫でてため息胸にとどまり 


私を見ない君の背中が嫌いになれぬ私が嫌い 


これらの詩は、登場人物の心情を代弁し、物語に詩的な響きと奥行きを与えています。

また、タイトルにもなっている「山桜」も重要なモチーフです。物語の終盤、正明は人の手が入っていない「本物の自然」を求めて山奥へと分け入り、季節外れに咲く山桜を見つけます 。管理され、合理化された都市の桜とは対照的なその姿は、正明が追い求めていたものの象徴と言えるでしょう。


結論:現代を生きる私たちへの問い

『山桜』は、単なるSF小説ではありません。テクノロジーと人間の関係、合理性と非合理性、都市と自然、生と死といった普遍的なテーマを扱い、現代を生きる私たちに根源的な問いを投げかけます。

効率化された社会で生きる意味とは何か。心の渇きを癒すものはどこにあるのか。正明の虚無感に満ちた旅路は、読者自身の心の内側を映し出す鏡となるかもしれません。詩的な文章で紡がれるこの静かで美しい物語は、あなたの心に深く、静かに染み渡っていくことでしょう。

山桜
牛野小雪
2021-12-05



自動運転のことは山桜に学べ

山桜
牛野小雪
2021-12-05


「山桜」は、一見すると自動運転技術と無関係に思える物語かもしれません。しかし、この小説は自動運転の未来と、それが社会にもたらす影響について深い洞察を提供しています。

まず、物語の中心にある無料自動運転車のプロジェクトに注目しましょう。主人公の正明が推進するこのプロジェクトは、移動の自由を全ての人に提供するという理想を体現しています。これは自動運転技術の究極の目標と言えるでしょう。誰もが、いつでも、どこへでも移動できる社会。「山桜」はその理想を描きつつ、同時にその裏に潜む問題点も示唆しています。

例えば、無料自動運転車は広告によって運営されます。これは現代のインターネットビジネスモデルを想起させますが、同時に、私たちの移動データが企業に利用されるというプライバシーの問題も提起しています。自動運転技術の発展には、こうしたデータの利活用と個人情報保護のバランスが不可欠だということを、この設定は教えてくれています。

また、物語の中で正明は手動運転車「ムラサメ」を所有しています。これは自動運転全盛の時代における「運転する喜び」の象徴です。技術が進歩しても、人間が直接コントロールすることの価値は失われないという示唆がここにあります。自動運転技術の開発者たちは、効率性や安全性を追求するだけでなく、運転の楽しさという要素も考慮に入れる必要があるのかもしれません。

物語の中で描かれる都市と郊外の対比も興味深いポイントです。自動運転技術が発達しても、人々は都市に集中し続けています。これは、移動の容易さだけでは人々の住む場所の選択に影響を与えないことを示唆しています。自動運転技術の開発者は、単に A 地点から B 地点への移動を効率化するだけでなく、人々の生活様式や都市計画全体に与える影響も考慮する必要があるでしょう。

「山桜」の中で描かれる覚醒困難症は、技術の進歩と人間性の喪失という問題を象徴しているように見えます。和花の意識を取り戻そうとする正明の努力は、技術によって失われかけている人間の本質を取り戻そうとする試みと解釈できます。自動運転技術の開発においても、技術の進歩が人間の能力や意識をどのように変えていくのか、慎重に考える必要があります。

物語の終盤で描かれる雪国での出来事も示唆に富んでいます。極端な気象条件下では自動運転車も機能しなくなります。これは、自動運転技術がいかに進歩しても、自然の力の前では無力になり得ることを示しています。開発者たちは、あらゆる状況下で機能する頑健なシステムを目指すと同時に、システムの限界を認識し、それを利用者に適切に伝える方法も考える必要があるでしょう。

さらに、「山桜」という題名自体が重要な示唆を含んでいます。山桜は人の手が加わらない自然の中で咲く桜です。これは、技術開発においても「自然なあり方」を追求することの重要性を示唆しています。自動運転技術は、人間の生活や社会の自然な流れに溶け込むようなものであるべきだという教訓がここにあります。

物語全体を通じて、正明は様々な経験を積み、成長していきます。これは、自動運転技術の開発も同様に、試行錯誤と経験の積み重ねが重要であることを示唆しています。一朝一夕には完成しない技術であり、社会との対話や、予期せぬ問題への対応を通じて徐々に発展していくものだということです。

物語の終盤で全ての車が無料化されるという展開は、技術の究極の姿を示しています。しかし、それと同時に正明の虚無感も描かれており、技術の完成が必ずしも人間の幸福に直結しないことを示唆しています。自動運転技術の開発者たちは、技術の完成だけでなく、それが実際に人々の生活をどう豊かにするのかを常に考える必要があるでしょう。

「山桜」は、自動運転技術の未来について直接語っているわけではありません。しかし、技術と人間、社会の関係性について深い洞察を提供しています。自動運転技術の開発者たちは、効率性や安全性といった直接的な目標だけでなく、技術が社会や人間性に与える影響、自然との調和、そして最終的に人々の幸福にどうつながるのかを常に考える必要があります。その意味で、「山桜」は自動運転技術の未来を考える上で、多くの示唆に富む物語だと言えるでしょう。


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『山桜』に挿入されている詩の技巧的な分析

「山桜」には、物語の展開に合わせて多くの短詩が挿入されています。これらの詩は単なる装飾ではなく、物語の雰囲気を高め、登場人物の内面を表現する重要な役割を果たしています。以下、これらの詩の技巧を分析していきます。

1. 五七調のリズム
「春待てず狂い咲きたる山桜」のような五七調のリズムを持つ詩が多く見られます。これは日本の伝統的な短歌のリズムを踏襲しており、読者に馴染みやすい音律を提供しています。

2. 対比の使用
「翌日の浮かれ騒いだ虚しさは / 乾いた汗の臭いのせいかも」という詩では、美しさと虚しさ、賑わいと静寂を対比させています。この技法により、情景や感情の複雑さを効果的に表現しています。

3. 擬人法
「どこへ行っても暑いじゃないか / 不満を漏らすエアコンの口」という詩では、エアコンを擬人化しています。この技法により、無生物に生命を吹き込み、読者の想像力を刺激しています。

4. 音の効果
「牡鹿飛ぶ音ない雪に人叫び」という詩では、「音ない」という表現と「人叫び」という表現を対比させ、静寂と騒音の対照を生み出しています。また、「牡鹿」「雪」「人」という音の響きも効果的です。

5. 現代的な題材の使用
「osara no ue ni ase wo furimaki / bata- ni hitaru atsui kure-pu」という詩はローマ字で書かれており、現代的な感覚を表現しています。また、「エアコン」や「バター」など、現代の生活に密着した言葉を使用することで、伝統的な形式に新しい息吹を吹き込んでいます。

6. 象徴の使用
「夜の底を雪は冷やす青白く」という詩では、雪を使って寒さや孤独感を象徴的に表現しています。このような象徴的な表現は、直接的な描写以上に読者の感情に訴えかける力を持っています。

7. 感覚の融合
「濡れた服ひろい集める冷えた指」という詩では、触覚(濡れた、冷えた)と視覚(服)を融合させています。このような感覚の融合は、より豊かなイメージを読者に提供します。

8. 反復と変奏
「春待てず狂い咲きたる山桜」と「春待たず色付く前に花が咲き」という二つの詩は、似た主題を扱いながら微妙に表現を変えています。このような反復と変奏は、主題を強調しつつ、新鮮さも保っています。

9. 音韻の効果
「美しい人の心がありがたい / 村に集まるみんなのこころ」という詩では、「ありがたい」と「こころ」の音の類似性が心地よいリズムを生み出しています。

これらの技巧は、それぞれが独立して機能するだけでなく、相互に作用し合って詩全体の効果を高めています。また、これらの短詩が物語の中に挿入されることで、小説全体にリズムと深みを与えています。

さらに、これらの詩は物語の展開や登場人物の心情と密接に結びついています。例えば、「私を見ない君の背中が嫌いになれぬ私が嫌い」という詩は、正明と和花の関係性を鋭く描写しています。

「山桜」に挿入された詩は、伝統的な日本の短詩形式を基盤としながら、現代的な感覚と豊かな表現技巧を駆使して創作されています。これらの詩は単独でも味わい深いものですが、物語と融合することでさらに深い意味を持つようになっており、小説全体の芸術性を高めることに大きく貢献しています。


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詩のことは『山桜』に学べ

山桜
牛野小雪
2021-12-05


「山桜」は、現代社会の孤独と疎外、そして人間の本質的な自然への憧れを描いた物語です。この作品を通して、詩作の本質についても多くのことを学ぶことができます。

まず、山桜の象徴性に注目しましょう。山桜は人の手が加わらない自然の中で咲く桜であり、都市の公園に植えられた桜とは対照的です。これは、本当の詩が人工的に作られるものではなく、詩人の内なる自然から自然に湧き出るものであることを示唆しています。

主人公の正明は、自動運転車の無料化という革新的なプロジェクトを成功させますが、その成功の後に虚無感を覚えます。これは、外的な成功が必ずしも内面の充足につながらないことを表しています。詩作においても、形式的な技巧や外的な評価を追求するだけでは、真の満足は得られないのかもしれません。

和花の覚醒困難症は、現代社会における人々の精神的な眠りを象徴しているようです。正明は和花を目覚めさせようと、自然との触れ合いを試みます。これは、詩が持つ力、つまり人々の心を揺さぶり、眠りから覚醒させる力を示唆しています。

瑠璃子との関係は、現実と幻想の境界線の曖昧さを表現しています。彼女の整形や突然の死は、表面的な美や一時的な関係の儚さを強調しています。真の詩もまた、表面的な美しさだけでなく、深い真実を探求するものであるべきでしょう。

作品全体を通じて、短い詩が挿入されています。これらの詩は、物語の展開に呼応しつつ、独立した作品としても読むことができます。この手法は、日常の中に潜む詩的瞬間を捉える重要性を教えてくれます。

最後に、瑠璃子の骨を山中の桜の木の下に埋める場面は象徴的です。これは、人工的なものが最終的に自然に還ることを示唆しています。優れた詩もまた、人工的な技巧を超えて、自然の一部となるような普遍性を持つべきでしょう。

「山桜」は、現代社会の複雑さと自然への回帰を描きつつ、詩作の本質について深い洞察を提供しています。真の詩は、山桜のように、人工的な制約を超えて自然に咲き誇るものであり、人々の心に深く根ざすものであるべきだと、この作品は教えてくれているのです。


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Claude3に書評してもらうシリーズ『山桜』

山桜
牛野小雪
2021-12-05



牛野小雪氏の『山桜』は近未来の日本を舞台に、主人公の棗正明と周囲の人々の物語を通して、人間の孤独や愛情、生と死について深く掘り下げた作品です。

物語は帝国自動車で無料自動運転車の開発に携わる正明が不正の容疑で逮捕されるところから動き始めます。釈放後、職を失った正明は生きる目的を見失い、レンタル彼女の美島瑠璃子と出会います。二人は次第に惹かれ合っていきますが、瑠璃子の抱える借金問題が二人の関係を揺るがします。

一方、正明の恋人である和花は覚醒困難症を発症し、眠り続ける日々を送ります。正明は和花を連れて自然の中へ出かけ、彼女の目覚めを願いますが和花の意識が戻ることはありません。

物語の後半では正明と瑠璃子が借金取りから逃げるために雪之郷へと向かいます。そこでの二人の交流は、人間の心の機微を丁寧に描写しています。しかし、かくれんぼ中に瑠璃子が事故死してしまい、正明は再び孤独に陥ります。

作品全体を通して、近未来の日本社会の閉塞感や人間関係の希薄さが印象的です。自動運転車や超高層ビルが立ち並ぶ都市の描写はテクノロジーの発展がもたらす利便性とそれによって失われゆく人間性を浮き彫りにしています。

正明と瑠璃子、和花との関係性は現代社会における人間関係の難しさを象徴しているようです。愛する者との別れや、自分の居場所を見失う不安は読む者の心に強く訴えかけます。

牛野氏の文章は詩的な表現を随所に用いることで登場人物の心情や情景を鮮やかに描き出しています。特に自然描写や登場人物の心の機微を表す比喩表現が秀逸です。

『山桜』は近未来の日本を舞台に人間の孤独や愛情、生と死といった普遍的なテーマを見事に描き上げた作品です。テクノロジーの発展がもたらす社会の変化と変わらぬ人間の本質を繊細に捉えた深い洞察に満ちた一篇と言えるでしょう。


山桜
牛野小雪
2021-12-05

『山桜』リリースしました

 今書いている小説が一段落したので、今までストックしていた小説をリリースしました。もう3年ぐらい前に書いたので、自分の中でも古いかなと思えなくもなかったり……2030年にガソリン車の製造が中止されるしあんまり長引かせるのもな~という気もしたり、というわけで12月10日~12日までと、年末年始の2日に無料キャンペーンします。

山桜
牛野小雪
2021-12-05


内容紹介
車の運転が自動化された未来。人々はAIにハンドルを委ねた
帝国自動車は政府と手を組みさらに市場拡大を狙う
正明は深夜の高速道路でV8のエンジンを唸らせ自動運転車に勝負を挑む
その間に和花は詩を詠み、革製品を作っていた

内容紹介にもあるように、和花という登場人物が詩を作っていて、作中に何度も短歌が出てきます。後半は俳句。明言はされていないけれど7777調のニューポエムも出ます(現実にはたぶん存在しない?)。どんな詩かは表紙に書いています笑笑。難聴製造機の時と同じパターンですね。でも今回はちゃんと読めるようにしています。ここだけ読んだら中身は読まなくてもいいかも?

(おわり)

牛野小雪のページ

一年ぶりに『山桜』の推敲をする

 最近コロナウイルスで世間が騒いでいるけれど、去年の二月はインフルエンザで何日か布団の中で震えていて()、熱に浮かされている時に、ヘミングウェイのように一年寝かしたらどうなるのだろうという考えが頭をよぎって、その時は絶対にするわけがないと思っていたが、本当に一年寝かしてしまった。熱で頭がおかしくなったのかもしれない。

 久しぶりに『山桜』を読むと、当然ながら去年の熱はもうなくて、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、多少書き直したところはあった。そこは去年からどうしようかと迷っていたところで、一年経ってみれば迷うほどのことはなかったし、書き直した後でもう一度読み直しても、やはりそうするべきだと思えた。問題点(迷うぐらいなので、明確な問題だったというわけでもないが)は去年のうちに掴んでいたのだから、その時にもう一歩踏み込んでいれば同じ結果だったかもしれないし、やはり一年時間をかけなければ書き直せなかったかもしれない。人生の二つのルートを同時に歩むことはできないので分かるはずはないが、ただこれが良い小説なのは間違いない。でもいつ出すのかはまだ分からない。徳島公園の桜はもう咲いてしまったし、そもそも題名に桜とついているが春の桜を見る話ではないし、とか色々考えているが、ストックしておくのが一番良い気がする。いつでも何かしら出せる状態であるのは気持ちに余裕が出て、精神的に良い。

 表紙の方は一季節に二つか三つのアイデアをひらめくので、フォトショップのファイルが13個もある。jpegファイルは70個(バージョン違いがほとんど)だ。これは最高だ! と毎回思っていたが、いつもそれを超えてくれたのはありがたい。小説は表紙込みで一年寝かせた方が良いのかもしれない。


》おわり 2020年2月28日(金)牛野小雪 記


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未完が前提の小説、作者不在の小説、一年熟成の小説

 私小説に結末を着けようとするなら自殺するしかないというので、未完で終わる夏目先生の『明暗』を読んだわけで、それから『山桜』も書き終わったし、新刊告知の予約投稿も仕込み終えたので、西村賢太の動画を見つつ、一度離れた私小説にまた取りかかると、瑞々しい感覚が腕の中に通っていくような感じがして凄いのを書いているぞという高揚感があったが、3万字(←2週間で書けてしまった!)まで書いたところで一段落が着いたので、ふと読み返したらゾッとした。これはやっぱり書き続けたら死ぬような気がする。私小説なんて書いていたら頭がおかしくなるよ。日本の私小説は暗いなんて言うけれど、この前トーマス・メレというドイツ人が書いた『背後の世界 』だって、おかしい世界に一歩足を踏み入れている感があった。ポーランド人の『高い城』だって、なんか暗い。私小説なんてのは万国共通で頭がおかしくなるらしい。というわけで私の私小説は本当に未完で終えることにした。

 生きていくなら虚構を積み上げていくのがいい。それも徹底的に嘘で塗り固めるのが良いような気がしてきた。じゃあどんなのを書けばいいのかなと考えて、ふと未完が前提で書いてみてはどうかと思いついた。夏目先生は死ぬ前に「いま死んじゃ困る」と言っていたそうだから『明暗』を未完で終わらせるつもりはなかったはずだ。未完で完成。そんな小説が書けたら夏目超えをできるのではないか。と、思いつつも、じゃあそれってどんな小説と聞かれても、まだ全然思い浮かばない。未完で完成というイメージがあるだけ。でも、何か書けそうな気がしている、たぶんね。

 そんなことを考えて書いたわけではないのですが、今度出る新刊の題名は『生存回路』です。嘘というか虚構だらけの内容なのは、やっぱりこういうことを考えていたからなのかな、と思ってみたりする。というより『生存回路』を書いたから私小説が書けなくなったのかもしれない。少なくとも今はこっちが私の書く方向性だな、と感じる。『生存回路』を一言で表すなら『私の無い小説』だ。一体何を言っているのか自分でも分からないが、私という概念は牛野小雪も含んでいて、牛野小雪抜きで牛野小雪の小説が書けないかと考えている。メタファーで一個小説が書けそうだが、掛け値なしで作者不在の小説を書けないかと本気で考えている。禅問答みたいだけど、いつか誰かがそういうのを書くような気がするし、それが次の時代のスタンダードだろう。それってAIが書くのかな。それは分からないけど100年後か200年後には小説は存在していても、小説の作者は存在していない気がする。現代まで書かれてきたような小説は一部の人の趣味になるのではないか。過去からよくある突飛な未来予想かもしれないけど、今はそういうヴィジョンが見えている。

 『山桜』はヘミングウェイに倣って一年寝かせてみます。それにもう桜も散ってしまったし。
 もし出すとしたら来年の4月1日かな。内容的には秋に咲く桜の話だから9月10月でも良いんだけど。一応桜とついているしね。

(おわり)

追記:作者不在の小説は誰が書くのか。読者が書くのである。というところまでは考えているけど、じゃあどうやって読者が小説を書くのかというのは全然見えてこない。

追記2:作者が存在する小説としてjhon to the world というのをいつか書いておきたい。もう4年前から考えているけれど、これというプロットが決まらない。johnと僕という大黒柱が一本立ったままで、足場を組んでは崩すことを繰り返している。もしかすると牛野小雪では書けないのかもしれない。
自分からの逃走


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散文的には詩的、詩的にはかなり散文的

funny dance4

 山桜は詩が入っている。というより途中から詩の注釈で小説を書いているような気がした。詩なんて去年までは全然詠んだことがなくて最初は手探りで書いていたけれど詩の原理 歌よみに与ふる書 はかなり啓蒙された。あとサラダ記念日 は教科書で習った短歌の既成概念を壊してくれて衝撃的だった(というか最初は短歌だと気付かなかった)。あと勝手に7×4という形のニューポエムを作って詩を書いた。短歌や俳句だけだと馬脚が現れるから、ある種のごまかしだ。でもちょっと間延びした感があるなとは思った。短歌のリズムが体に染み付いているからからもしれない。

 夏目先生の『吾輩は猫である』の中にも詩が割り込んでくる。その中に新体詩というのが出てくるのだが、短歌とも俳句とも、種田山頭火的な自由律とも違っていて(山頭火って日本詩の歴史では事件だったんじゃないか)、かなりぶっ飛んでいる。どういう経緯で生まれてきたのだろうと不思議だったのだが、この前ふと読んだ本に夏目先生が東大生の時にウォルトホイットマンの詩について論文を書いているというのを発見した。明治時代は西洋文化が流入していて、西洋詩の形態が日本詩にも吸収されていた頃だそうだ。つまり西洋詩≒新体詩ということ。なぜ=ではなくて≒なのかというと、冬来たりなば春遠からじ、という文言を使いたくて、元ネタは誰なんだろうと調べるとシェリーというイギリスの人が詠んだ詩だと分かった。しかし件の春来たりなば~というのは原文とニュアンスが違うというのも発見したからだ。それにしても、冬来たりなば(7)春遠からじ(7)でちゃんと七音になっているのは訳者凄いと思った。韻もちゃんと踏んでいる。昔の人って本当に凄いな。新体詩までは手が出なかった。でもいいんだ。吾輩だって「東風君もあと十年したら、新体詩を捧げる非を悟るだろう」と言っていたし日本詩的にはたぶんセーフ。

????「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留とめがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」


 この前、口伝で小説は残らないが詩は残るということを書いた。それでふと川端康成の『雪国』の冒頭だけ読んでみた。《国境のトンネルを抜けると、そこは雪国であった。夜の底が白くなった。》とあり、詩的な文章だと思った。

 次に『山の音』の冒頭を開いてみると《尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるようにも見える。》と散文的だ。文庫本の解説には戦後文学の最高峰に位する名作小説だと書かれているが、結構最近まで私は知らなかった。それで読んでみると『山の音』が全然良かったので、どうしてこっちが雪国より有名ではないのだろうと不思議でならなかったのだが、冒頭の詩的さが足りないからではないかと思った。

 そういえば綿矢りさの『蹴りたい背中』の冒頭は《さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。》だ。
 又吉の『火花』は《
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。》
 これはもう書き出しは詩にするべき! 
 そう思ったけれど、冒頭を詩にできないところに詩才のなさを痛感した。でも村上春樹の『ノルウェイの森』は散文的だったので、やっぱり関係ないのかな。散文は散文、詩文は詩文なのかもしれない。上の文章も散文的には詩的だが、詩的にはかなり散文的だ。小説家と詩人は似ているようで両者の間には超えがたい溝があるのかもしれない。

 先週までの推敲はいかにも手を加えている感じがあった。今週はあえてやる必要もないようなことばかりやっていた。パソコンに触れたのは合計1時間もない。そのくせ推敲の効果は今週が一番あったように感じている。神は細部に宿るという。でも本当はコンコルド効果じゃないか。8万字を読み通すにはどうしても1日以上かかってしまうから、それが無駄であって欲しくないという気持ちから、おお、たったあれだけのことなのに、こんな変化が起こせるのか、なんて感じで。字数でいえば40とか50字の世界なのに、それで全体に変化が起きるなんて、ちょっと信じられないな。頭が熱くなっている。でもまだやる。

(おわり)


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口に刺せ、ガソリン銃

gas gun


ガソリンスタンドで給油口に刺されるアレの名称が分からないので(というか、あるとも思わなかったので

銃の様な物を給油口に刺した。銃にはホースが繋がれていた。

としたのだが、ふと『ガソリンガン』という正式名称があるのではないかという疑問が湧いて検索してみると、やはりガソリンガン、ガソリン銃、給油ガン、という名称でヒットした。でも一番普及しているのは給油ノズルのようだ。でも、せっかく銃の様な物と書いたので、3ヶ月前の自分を尊重してガソリン銃という名称にした。

その結果

ガソリン銃を給油口に刺した。

とした。内燃機関とガソリンスタンドが廃れているという設定なので、一風変わった呼び名の方がそれっぽい。

↑アマゾンで売っているというのに驚き!


kindleで推敲しているとメモ機能でハイライトした場所が簡単に見ることができる。それによるとkindleで推敲し始めて最初の版は130、次は101、さらにその次は72箇所のハイライトがあった。はは~ん、30ずつ減っているんだな。それじゃあ次は40か、あと3回で0になるな、と思っていたら4回目は115だった。でもさらにその次は29だったりもする。推敲するたびに前とは違うところが気になって、ハイライトする場所が増えたり減ったり。でも細かい問題ばかりになってきたから、そのうち終わるんだろうな。ここ数日は一度消したものを、やっぱり戻すということもしていて、推敲が終わろうとしているのを感じている。

(おわり)

インフルで五日間ひきこもる

今週はインフルエンザでずっとひきこもっていた。その間、ひげを剃らなかったので野生動物みたいな顔になった。すっかり野蛮になっただろう、と猫にひげを見せると、失礼しちゃうわ、とぷいっと背中を向けてしまった。猫はメスだってヒゲが生えているし、顔も毛むくじゃらだ。毛は剃った方がモテるのか、伸びている方がモテるのか気になるところだが、野良につるつるてんがいないところからして野性味あふれる方が自然界ではモテるのだろう。それなら人間だって毛むくじゃらの方がモテたっていいはずだが顔に毛があることは大変不評だ。ひげを伸ばして減給された地下鉄の運転手がいるぐらいだ。ただし髪の毛だけはフサフサが好ましく、つるつるてんだと好ましくない評価を受ける。まったく理不尽である。
198501 ひげとねこ
五日間ずっと布団で寝ていた。といっても120時間ぐうぐう眠れるはずがなく半分以上は起きていた。山桜のことをずっと考えていて、今まで通りに書くのがラクで完成度も高くできることは間違いないけれど、やっぱり苦しくても新しい小説を書くべきだと決心した。今週は手を付けないつもりでいたから、ずいぶん気前よく決断したようだ。どうせそれを仕上げるのは来週の自分だもんな。でも本当に凄い小説になるような気がする。

それにしても、一週間ぐらい冷却期間を置いた方が良いんじゃないかと思っていた矢先にインフルエンザにかかってしまった。ヘミングウェイみたいに一年寝かせたら・・・・・・なんてことが頭によぎっていたら、今頃どうなっていたんだろう?

(おわり)

あえて完璧から一歩踏み出してみる

 去年の11月には、山桜のラストはこれでもう決まりだろう、これ以外にはありえないという場面ができていて、頭の中にもノートにもはっきりと言葉が刻まれていた。

 しかし、今年からは新しい小説を書くんだと意気込んでいたので、これが完璧だとは思い込まずに、何とか別の終わり方ができないものかと、ずっと悩んでいた。いくつか案は出せたが結局最初の案以上のものはできなかった。もうこれで良いじゃないか。これ以上のものは人間には書けないよとあきらめて、年が明けた。

 正月にNHKの落語番組に笑点の司会の人が出ていた。『浜芝』でもやらないかなと見ていたが、新作落語ばかりやるのでチャンネルを変えたくなったが、笑点の司会の人が、古典落語の完成度は、それはもう凄い物があって、でも現代に生きる僕達は新作落語を作らなきゃいけないんだ、的なことを言ったので、頭の中にビューンと冷たい風が吹き抜けた。

 そうだよ。新しい小説を書かないといけないんだよ。完璧に安寧しちゃダメなんだよと正月早々に思い直した。

 そんなわけで今年もずっと完璧なラストをどう超えるのかとウンウン悩み続けて、最後のブロックを積むところまで来ると、手が止まった。やっぱりダメだ。どうして最初に思い付いたラストではいけないのだろう。完璧じゃないか。これ以外にない。一時間ほど悩んだ。とりあえず書いてみるということもしなかった。

 完璧ではないものならあった。去年から、もし書くならこれというものはあったが、完璧から一歩踏み出すために無理矢理別の場所へ飛ばしたようなもので絶対にダメなものという確信があった。でも、もし仮にこれを書かなかったら絶対に後悔するという予感もあった。だから、ええい、どうせ俺は何者でもねえんだから成功も失敗もねえや、と華厳の滝から飛び降りる気持ちで書き始めると、腕からキラキラひらめきが降ってきた。空の蓋がパカッと開いて、頭の中に涼しい風が吹いた。今まで思いもしなかった言葉が次々と湧き出てきて、あっという間に最後まで書き終えてしまった。

 完璧とはいえない。新しいかは自信がない。あるいは完璧に新しいのかもしれない。分かっているのは昨日までは思いもよらなかった小説が爆誕したということだけだ。胸がドキドキしている。もしかすると、とんでもない小説が書けてしまったのではないのだろうか。何だか恐くなってきた。

(おわり)

あえて書かないでみる

 一昨年の暮れから去年の前半はずっと改稿をしていて、毎日の改稿字数を計測していた。それによると一週間休んでから二週間後に改稿字数のピークがくることが分かった。夏に群像に送った小説もやはり14日目にピークがきた。ついでに今書いている小説も15日目が一番書けた。どうも二週間後にピークがくるというのは生理的現象らしく、気合ではどうにもならないようで、その後は必ずペースが落ちる。ピークから二週間後にはほとんど書けなくなるので一週間休む、するとまたじわじわ書けだして二週間後にピークがくる。

 何だか嫌になる。自分とは関係ないところで執筆は進む。14日頃は寝不足で今日はダメだと思っても書けてしまう。28日頃は前日にぐっすり眠れて心も体も万全という状態でも1000字書くのがやっとだったりする。

 私が私と思っている人間は、実は二重人格の従人格かもしれない。主人格は私に現実を任せて、意識の裏側でしこしこ小説を書いているのではないか。前に二重人格の本を読んでから、そんなことを考えている。少なくとも小説は私だけの意思では書いているとは思えない。これはどう考えても書けるだろうという時に書けなかったり、頭が真っ白な時でも書けてしまう時がある。私が二重人格かどうかはともかく、私が認識できないところで別の原理が働いているのは間違いないことで、しかもそちらの方がよっぽど私より強い。

 ホントに嫌になるけど休養から二週間後にピークがくるのは、ほぼ間違いない。なので二週間後に最後の締めを書けるように一週間休むことにした。今までのペースなら14日目に(おわり)と書けるだろう。

 でも本当に14日目にピークがくるのかな、と不安に思っていると、ニュースで錦織圭が全豪オープン前に一週間休むというのを聞いた。全豪オープンは1月の14~27日にある。決勝はほぼ二週間後だ。錦織圭と同じなんだと背中を押された。

 時々私は小説の神様に愛されているんじゃないかと思う時がある。こうやって偶然を装って、それでええんやでと教えてくれているような気がする。それなら毎日一万字ぐらい書けて、小説も飛ぶように売れるようにしてほしいものだが、そこまでは溺愛されていないらしい。まぁでも嫌われてはいないんじゃないかな。

 山桜もだいぶ先が見えてきた。超絶好調の日がくれば、その日のうちにでも書き終わりそうだけど、それだとかえって二週間後のピークに締めが来ないので、ほどほどに進むぐらいで良いよと思いながら書いている。だから、ほどほどに進んでいる。

(おわり)

※二重人格の従人格は主人格を認識できないが、主人格は従人格を認識できる。ということは、もし仮に私が二重人格なら、私は主人格を感覚として認識できていないので従人格ということになる。必要なくなれば消えてしまう。吹けば飛ぶような将棋の駒だ。

小説の練習

 ある小説家同士の対談で、野球は試合に向けて練習するけれど、小説には練習がない、毎日がぶっつけ本番だ、ということを言っていた。その瞬間に気付いた。私が毎日書いているノートって小説の練習じゃないか。確かによく考えてみれば、ノートに書いているのはこれから書こうとしているところばっかりで、前日に予行演習をしているようなものだ。

 興味が惹かれたので最後まで話を聞いていると、小説を書くのに準備をしたり、練習するなんて不純だし、そんなことをするぐらいなら小説を書かない、とさんざんに言われたので(別に私に向けて言ったわけじゃないが)、小説に向いていないのかなとちょっと落ち込んだ。

 しかし、こういうことがある。先日wordを開くと何か様子がおかしかった。前日のデータが保存されていないことに気付くと、魂が胸から背中に抜けるような感覚があった。「マジか……マジか……」とマジで何度も声に出した。あぁ、神様。頼むから何かの間違いであってくれ。と手も合わせた。それでバックアップも開いたが、やはりデータは保存されていなかった。頭の中が空っぽになってしばらく何もできなかった。

 村上春樹が1章分のデータがなくなったけど頑張って書き直したという話を思い出した。村上春樹でさえ書き直すのだから私も書き直すしかないじゃないか、と気持ちを改めて書き直すことにした。一度書いたところでも書く早さも苦労も特に変わらなかった。そしてこの後の展開は村上春樹と似たようなものだ。最後にデータを保存する時になって、たまたま抜いていたフラッシュメモリーが目に入った。それはサブのサブとして気が向いた時にだけバックアップを取るぐらいの物として使っていたのだが、もしやと思ってデータを開くと、あれだけ探したデータがそこにはあった。それで今日書いたところと比べてみると断然に今日書いた物の方が良かった。

 小説もきっと練習すれば上手くなる。いま私がやっているのは小説を書いた後の余力で書いているだけだが、普通に小説を書く強度でがっつり小説を書いて、さらにもう一度真っ白な画面に向き合えば、もっと良い物が生まれるのではないか。絶対にやりたくないけど(村上春樹だってやったのは一度だけだ。それも一章分だ。でも刊行速度を考えれば実はそうしているかもしれない)。

 小説家の作品として残るのは極わずかな作品だけだ。この前までナポコフは『ロリータ』だけの一発屋だと思っていたが、実は他にも色々出しているのを知った。一作だけ書いて終わりという作家は少ないのだろう。でも後世に残るのは一つか二つ。99%以上の作家は存在さえ忘れ去られることを考えれば一発屋でも快挙なのだ。

 なら、小説を一作書けば、100回ぐらい書き直すような作家がいても良いはずだ。そうやって最高の小説を書こうとする奴が一人ぐらいいても良い。ヘンリー・ダーガーは一生かけて一万ページ以上の大長編を書いた。そうではなく100ページぐらいの小説を一生かけてリライトし続けられたなら、どんな物ができるのだろうと考えた。またそれだけのことをするのに、どれだけの気力が必要なのだろうと考えた。改稿ではなく書き直しだ。人間には不可能だと思う。でも人の想像できることはいつか行われる。狂気に駆られた小説家がそういう小説を書くだろう。今この瞬間に書いているかもしれない。

 野球で練習のノックと同じ打球が試合で飛んでくるわけじゃない。小説だってノートと同じ物を書くわけじゃない。それどころかノートを書き終わると一番上の余白に《これ以外のことを書け!》と書く。だからノートのほとんどが無駄になるんだろうな。本当に無駄なことをやっている気がする。でもその無駄も練習と思えば大事なことに思えてくる。
 
 練習でホームランを打っても試合のスコアには一点も入らない。練習でダブルプレイしても試合はノーカウントで始まる。ノートにいっぱい文章を書いたって小説は進まない。でも、もっともっと練習して、ストライクゾーンど真ん中に光速の二乗を超えたストレートを投げ込んでやるぞ。

(おわり)
pitcher


またまたまたぁ!

 今年中に書き終わるような気がしていたけれど、やっぱり書けそうにない。ずいぶん久しぶりに書けない感覚を味わっている。これだけ準備を整えているのだから最後まで一息に書けるはずだと思い込んでいたが、書けない時はどうやっても書けないんだと驚いた。wordの画面を開いても言葉が出てこないのが信じられない。

 私の中に二つのエンジンがあって、片方は私が私と思っているもので動いていて小説を書く体制はばっちり整っている。もう片方のエンジンは私自身ですら中を窺うことができないブラックボックスになっていて、動いているかどうかはその時になってみなければ分からない。しかも小説を書くにあたってはブラックボックスの方が動いていなければ一文字も書けない。理不尽だ。

 またプロット全体像を書き直した。この前は12月20日に書き終わるだろうと言っていたが、奇しくもその日にプロットを書き直すことにした。残り4章なので余白がいっぱいだ。また新しく書き直すことはないだろう、たぶん。

 ヒッチハイクとか黒髪の殻ぐらいなら余白にちょろちょろ書き込むぐらいで一息に書けていた。今まで中編で4回もプロットを書き直したことはない。長編でも2回ぐらいではないか。それだけ書き方が変わったということだ。小説の方は6万字なのに雑感帳とノートは15万字ぐらい書いている。

 もしかすると壮大に時間をどぶに捨てているのではないか。雑感帳もノートも書いたものは99%は無駄になる。中にはこれを書いておいて良かったと思うものもあったが、小説を書いている最中に思いつくこともありえただろう。1日の終わりにノートや雑感帳、その他色々をまとめて机の上に置くと、お前、こんな物をいくら書いても自己満だぞ。小説を書かなきゃ意味がないぞ、と自分に言う時がある。よれよれになったページの厚みを見ると、これだけの時間を無駄にしたのだと恐くなる瞬間がある。書けない日が続いていると特にそうだ。小説でなくても他の事に時間を使えたはず。ああ~時間でも止まらないかな。そうしたら気兼ねなく時間を使い捨てられるのに。

(おわり)
alone




最後の一押し2000文字

 今年から、まだあと一押しできるというところで小説の執筆を切り上げる書き方に変えた。その一押し分で雑感帳とノートをそれぞれ1ページ、余力があれば2ページ書いている。横着して二行三行使った大きな字でページを埋める時もあるが大体は一行ずつ文字を書いて1ページ埋める。1ページが1000字ぐらいなので一押しで2000字以上書いている。だからといってその一押しを小説に向けても、せいぜい200とか300、場合によっては0だっただろう。小説の1000字と自分だけが読む文章の1000字は全然違うものだ。それでも2000字書けばへろへろになって、もう何も出ませんという状態になる。

 雑感帳とかノートを毎日書くのも最初は余裕だったが執筆を開始して一月も経つと脳みそをふり絞っている感じがある。書いた文章はほとんど使い物にならないから、かなりの時間をどぶに捨てていると思う時がある。でも捨てた分だけ小説の方はぐっと底堅くなっている。

 ノートや雑感帳は9月から書いていて山桜を書き始めたのは11月から。執筆を開始してからノートを書く時間は減ったが累計では圧倒的にノートを書いた時間の方が多い。このペースで書き進んでくれれば最後までノートが多い。何でこんなことしているんだろうって気持ちになる。でも最後の一押しで小説の外側を書き続けている。

(おわり)
note




プロットを引きなおす

plot
 全体のプロットを書いた紙に余白が足りなくなったので、先週全体のプロットを新しい紙に引き直した。書き始めた時のプロットを書いた紙には2018/11/5と書いてあり、二枚目が2018/11/10。三枚目が2010/11/30だ。この調子なら四枚目は2018/12/20ぐらいになりそう。でもそれまでには最後まで書き切ってしまうかもしれない。

 それにしてもプロットって他人が読んでも分かる物なんだろうか。ずっと前にハリーポッターの手書きプロットがアップされていたけど(ハリー・ポッター作者の手書きプロット…)、あんな物からハリーポッターを書くことはJ・K・ローリング以外には無理だろう。作者なら自分の中にイメージがあるので断片だけでも充分だが、編集者が見たってちんぷんかんぷんに違いない。もし仮に”びっくりするほど細い!”という文面を見せられても、ここから明確なイメージをとらえることは難しいだろうし、そのイメージはたぶん作者の物とは遠く離れている。だから作家はプロットは書かないんですよ、先が分かっていたら面白くないじゃないですか的なことを言うのかもしれない。プロット見ながら執筆しても途中で小説の方が成長しちゃうからプロット通りに書けるとは限らないんだけどね。

 山桜を書き始めた頃はあわよくば長編にならないかなと思っていたが、やっぱり当初のプロット通りの中編で終わりそうだ。本当に長編を書けなくてOOPS! どうしちゃったんだいという気持ち。でもそれとは別に数年ぶりに目の前が開けたような感じもある。イップスじゃない。火星を書いた時は、なんだ、私も小説が書けるじゃないか!という驚きがあったが、今もやっぱり、私もこんな小説が書けるじゃないか!と驚いている。

(おわり)



感覚はうそつき

 最新版のword は総編集時間というのが表示されるんだけど、それと今まで書いた字数を計算すると1時間1000字も書けていないことが判明して、とても驚いている。何かの間違いかと疑ったがファイルを変えると編集時間はリセットされるので、この遅さは本物だ。

 去年出した『聖者の行進』は最後の章を詩にする案があったが全然物にならなくてあきらめた。今回は作中にいくつか短い詩を入れることにした。一句作るのに時間がかかるが、時間をかければ書けるのだとも分かった。しかし、その気になれば私だって詩を書けるじゃないか、思っていたより簡単なんだ、と本屋でとある詩の雑誌を開くとレベルが違っていたのでビックリ、やっぱり詩を専門に書いている人って凄いんだなぁ。詩と聞いて思い浮かべるようなイメージを逸脱して、それでもなお詩にしてくるんだから半端じゃない。私が詩と思っているのは既にクラシックスタイルで、定期刊行物はモダンスタイルになっている。教科書で読んだ詩をイメージして詩を作るのは時代遅れだ。でも詩は入れる。モダンな詩は現代詩人に任せて私は私の詩を書く。20世紀を持ち込んでやるぞ。

 毎年秋になるとやっている気がするが、最近またカフェイン断ちを始めた。というのも去年から今年にかけて全作改稿した時に、カフェイン断ちをしていたところの文章がとても良かったからだ。善は急げとコーヒーをやめると先週は禁断症状で木のねじを無理やり頭蓋骨にねじこまれているような頭痛に苦しめられた。でも今週はぱったりなくなった。だからといって良い物が書けているとは思えない。これは前のカフェイン断ちの時と同じ。やっぱりカフェイン入れた方が良いのかな。コーヒーを飲むとひらめきが降ってくるし、文章もきらめくし。

 しかし感覚は信用できない。今はそれほど良い物が書けていないと思っていても、後で振り返れば書けていることもある。一時間1000字も書けていないのに、書けていると思い込んでいることもある。あれっ、それなら詩を入れるのはダメなんじゃないか? でも、この感覚はきっと正しい! だから入れる!

(おわり 2018年11月25日 モボ 記)

※この記事とはあんまり関係ないけど、大正時代の日本が舞台の話に出てくる”モガ”という言葉はモダンガールの略称らしい。今時の若い子みたいな意味。不良とか、性格が悪い人とか、良い意味で使うなら型破りな人という意味だと思っていた。ついでにいうならモダンという言葉も昔風という意味だと思っていたが実際は現代風という意味。それじゃあポストモダンってどういう意味? フューチャーじゃいけないの? それはともかく現代でもモダン焼きは美味しい。
無題



長編なんて書けません

 あわよくば山桜を長編にできないかなと思っていたが、この調子だと本当に中編で終わりそうだ。というか短編で終わるかもしれない。

9000字書いてやっと主人公が人と喋った。どんだけ無口なんだよ言いたくなる。プロットからどんどん人が減って、二人いた主人公は一人になった。この小説は主人公でさえ生き残れない。もしかしたら登場人物が一人だけの小説になるかもしれないが、今のところ三人は出る予定があるし一人は台詞を文末にスペースを開けて書き置いてある。これはぜひ使いたいというフレーズだが、もしかしたら使わないかもしれない。そういうことを今週はやってきた。

 執筆を始めてからもプロットを書き直している。シーズン3からはそういう書き方にした。ひらめきが起きたらライブ感で消化せずにきっちりプロットで受け止める。とても手間がかかって、なかなか進まない。とてつもなく無駄に時間を浪費しているんじゃないかという気持ちに襲われる時もあるが、今までと違う物が出てくるのだから、これで良いのだと自分に言い聞かせている。正しいかどうかは分からないが去年までと今年書いている文章を比べれば、断然に今年の方が好きになれるし先が開けたような手応えもある。評価はいまいちでも変えるつもりはない。

 それにしても長い小説が書けなくなった。今まではプロット以上に字数が伸びていたが、今年はプロットより短くなるばかりだ。群像に出したやつは8万字書くつもりだったのに6万字になってしまった。いつも通り字数が伸びて10万字ぐらい書けたのを規定枚数に削るつもりだったのでビックリした。あれだけ書いてこれだけなのかとガッカリもした。20万字ぐらい書いた手応えがあったのだ(というか小説の裏側で本当にそれぐらい書いたと思う。カウントはしていないけど)。去年までとは逆になっている。この感じだと長編を書くには聖者の行進ぐらいのネタが必要だけど、あんなのは狙って書けるものじゃないから長編を書く距離を非常に遠く感じるようになった。

 別に長編を書かなきゃいけないわけじゃないんだけど、やっぱり長編が書きたいし読みたい。蒲生田岬までは長編なんて奇跡が起きなきゃ書けないと思っていたけど、結局は聖者の行進ぐらい大きな物を書けたのだから、このまま書き続けていれば、そのうち書けるようになるかな。でも別に書けなくてもいいかも。山桜は中編になりそうだけど、なんだかんだで今が一番良い小説を書けている。

 

(おわり)

cherry of mountain


蟻一匹一匹に群れの意識なし

ant wil

 蟻の行列を構成する蟻の一匹一匹は全体を意識していないが群体としては統一されたような動きをする。何年か前からそういう感じで書けないかとおぼろげに思っていた。

 8月からずっと書いていたプロットはアイデアがいくつもあったが、それが一本のストーリーラインにならなくて、なったとしてもすぐに分解したりで、これはもしかして無理筋を追いかけているのではないかと思うこともあったが、何かしら進んでいる手応えはあったので頑張って続けているうちに、ふと一つの流れができていることに気付いた。いつの間にか一本のストーリーラインが引けていたのだ。プロットが完成したというよりは、発見したという感じで、いわゆる達成感はない。でも新しい紙にストーリーラインを引いてプロットを書き直すと、これは凄い物が書けるぞ、と胸が沸き立った。

 最初は『山桜』という題名にしようと思っていたが、やっぱり『ナトリウムランプ』にしよう、いやナトリウムランプが分からない人もいるだろうから『道の灯り』にしようとか考えていたが、結局最後は『山桜』に戻ったのも嬉しい。いつも仮題を付けて書くが、たぶん書き終わっても『山桜』は変わらない気がする。何だかんだでファーストインプレッションは正しいものだ。あるいは題名が小説を作るのかもしれない。それなら次回作は『爆誕☆銀河最強三大小説群』とかにしてみようか。

 山桜の元ネタは本居宣長の"しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花"から取ったのだが、その時に書こうとしていた現代における武士道とか大和魂とは全然関係ないものになった。でも歌の意味からすればTHE-BUSHIDO! YAMATO-SOUL!みたいな感じではないから、それで良いのかもしれない。武士道も大和魂もプロットから外れたが残ったものに何かしらの影響は残していて、それは現代社会も同じだ。と、なると実は当初の予定通りの物を書かされようとしているのではないかと思った。

(おわり)
ガイドツアー 複雑系の世界: サンタフェ研究所講義ノートから

少しずつ、本当に進んでいる?

 8月から武士道や大和魂について調べていて、それも行き詰まってきたので、最近は外国人が日本について書いた本を読んでいる。『ニッポン放浪記』という本を読んでいると三島由紀夫や大江健三郎の翻訳をした人の本ということが分かって、久しぶりに小説の世界に帰ってきた気分がした。

 プロットラインは一応最初から最後まで引けたが、元々の武士道や大和魂とは全然かけ離れたものになってしまって、一体この一ヶ月の間に私は何をしていたのだろうという気分になった。おまけにまだこのプロットでは書き出せないと感じていて、創作ノートをつけるようになって二ヶ月が経とうというのに全然本文を書き始める気配がない。

 とはいえ、毎日それなりに何かを発見するなり、気付きがあったりで、ノートは充実していく。でも本文のクリティカルになりそうな部分は全然進んでいないのも事実で、この『何かしらは進んでいる』というあやふやな達成感を抱いたまま時が過ぎていくのではないかと予感してゾッとする瞬間がある。

 たぶん今あるノートで書いて書けないことはないと思う。今年の夏に書いたのは中編でノート2ページで書き始めて、最終的に52ページまで書いたが、今回はまだ本文を一文字も書いていないのに23ページも書いている。武士道とか大和魂がどうのというのを除いても10ページはある。これは長編を書こうとする量だが、書こうとしているのは中編にする予定だ。でも聖者の行進も長めの中編を目指して書いたので、もしかしたらこれも作者の予想を超えて長編になるかもしれない。そういえば聖者の行進も書き始める前にノートもけっこう書いていた(奇遇にも23ページだ)。

 来年の群像の結果が出るまで時間があるので、目一杯に時間と手間をかけられるだけかけてみようと、この小説に着手したのだが、本当に時間をいっぱい食っているので恐くなってきた。いつもはノートを書き始めれば一ヶ月で書き始めているのに、今はまだ気配すら感じず、11月に入ってもまだノートを机の中心に置いている自分の姿をありありと想像できてしまうほどだ。この調子だと今年中に書き上げるのは不可能だが、あっという間に書けてしまうのではないかという気もしている。なまじ今年の夏は書け過ぎてしまったので、こんなことを考えるのかもしれない。

 今のところ一つだけ決まっているのは、もしこのノートを書いている小説を書くのだとしたら『山桜』にしようと思っている。

しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

 という詞から取った。花が抜けているのは語呂が悪いから。『山桜』という題名にしようとはもう9月の時から考えていて、今も山桜以外に良い題名が思い付かない。よっぽどプロットの大きな変化がない限り『山桜』しかありえない。サラリーマン侍を書こうと武士道とか大和魂を追い求めていたのも全くの無駄ではなかったということだ。

 このように進んでいないようでも何かしら進んでいる。こうやって少しずつ進んでいけば、どこかに到達できるだろうか。

(おわり)



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