反出生主義(アンチナタリズム)総合解説
反出生主義(アンチナタリズム)とは、「この世に生まれてくること自体が害悪であり、したがって新たな生命を生み出すべきではない」という主張を普遍的な道徳原理として掲げる思想です。端的に言えば、「生まれてこないほうが良い」という考え方であり、現代では南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターの著書『生まれてこないほうが良かった(原題: Better Never to Have Been)』(2006年) を通じて広く知られるようになりました。以下では、この思想の哲学的背景や主要な提唱者、その主張と論拠、批判・反論、および現代社会への影響について、適切にセクション分けしながら詳述します。
1. 哲学的・倫理的背景
反出生主義の根底には、人間の生存や出生に対する悲観主義・厭世思想があります。歴史的に見ると、「生まれてこないのが最善である」という観念自体は古くから存在していました。例えば、古代ギリシャの悲劇詩人ソポクレスの『コロノスのオイディプス』や古代ヘブライの『コヘレトの言葉(伝道の書)』などに「生まれざるが最上」という格言が見られます。実際、古代の格言詩人テオグニスやソポクレスは「生まれて来ないことが人間にとって最善」だと述べており、これは古今東西の文学や宗教にも脈々と流れるテーマでした。仏教も「人生は苦である」と説き、釈迦は出家前に自ら子をもうけたものの、経典『スッタニパータ』では「子を持つなかれ」と述べたと伝えられています。こうした思想的伝統が、反出生主義の哲学的背景として横たわっています。
中世・近世においても、存在への否定的見解は散見されます。グノーシス主義の一部(マニ教、ボゴミル派、カタリ派)では物質世界=悪とみなし、「魂が肉体に囚われる」生を否定的に捉えて生殖を拒否する思想がありました。近代では、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーが著名です。ショーペンハウアーは徹底した人生の悲観主義を唱え、「世界には喜びよりも苦しみの方が多く、生命は生まれない方がより良い」と述べました。彼は、生の根源である「盲目的で不合理な生存への意志」が無限の欲望を生み出し、その決して満たされない渇望が苦しみを生むと考えました。したがって倫理的に最も合理的なのは子供をこの世界に生み出さないことだとし、「この地球上に人間を生み出す行為は道徳的に疑わしい」とまで主張しています。
20世紀前半には、ノルウェーの哲学者ペーター・W・ザプフェが人間の存在を分析し、人間は生物学的な逆説だと指摘しました。ザプフェによれば、人間は他の動物と比べ意識が過剰に発達しすぎた結果、自分たちの置かれた状況(死の不可避性や世界の無意味さ)に耐えられなくなっているといいます。我々は未来を予見し正義や意味を求めますが、この高度な意識ゆえに人生は本質的に悲劇になっているというのです。人類が今も存続しているのは、この過酷な現実から目を逸らし「思考停止」しているからに他ならず、自己欺瞞をやめて出産を止め人類を終焉させる必要があるとザプフェは述べました。このように、人生否定(誕生否定)の思想そのものは古代から現代まで思想史の底流として存在してきました。
ただし「反出生主義」という名称でこれらを総称し、体系的な哲学議論として展開する動きは21世紀に入ってから明確になります。早稲田大学の森岡正博教授は、反出生主義を「下層(1階)に古代からの『生まれてこない方がよい』思想があり、その上に20世紀以降の『子どもを産まない方がよい』という反生殖主義の要素が乗った二階建て構造」と説明しています。つまり、人間の出生そのものを否定する伝統的厭世観と、積極的に生殖を倫理的に否定する現代的主張とが合わさって、現在の反出生主義という思想が形作られているのです。
2. 主な提唱者とその著作
反出生主義的な思想を提唱・体現した代表的人物を、歴史順に挙げます。
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アルトゥル・ショーペンハウアー(1788–1860年): 上述したように、徹底した悲観主義哲学を展開し、**「この世に生をもたらすべきではない」**と主張しました。主要著作『意志と表象としての世界』において、生存への意思を否定し禁欲による解脱を説いており、子を作らないことが合理的だと示唆しています。
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ペーター・W・ザプフェ(1899–1990年): ノルウェーの哲学者で、1933年のエッセイ「最後のメシア」などで人類の自己意識の過剰を批判しました。人間は過度の意識ゆえに不幸を免れない逆説的存在であるとし、人類存続の結末として**自発的絶滅(生殖停止)**を提案しています。
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エミール・シオラン(1911–1995年): ルーマニア出身のフランスの思想家・作家。著書『苦悩の権利』『生誕の災厄』などで強烈な厭世観を示しました。シオランは自らについて「20歳という早い段階で『人は子供を産むべきではない』と悟った」と述べており、「自分の欠陥や苦痛を他者に継承させる出産行為は犯罪である。すべての親は無責任であり殺人者だ」とまで断じています。彼の苛烈な言葉は反出生主義の文脈でしばしば引用されます。
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デイヴィッド・ベネター(1966年~): 南アフリカの哲学者で、現代反出生主義を代表する人物です。2006年刊行の著書『生まれてこないほうが良かった(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』で、**「誕生それ自体が生まれてくる本人にとって常に深刻な害悪である」**との誕生否定論を提唱しました。ベネターは後述する「存在の非対称性」論を筆頭に、緻密な論理で「あらゆる人間は生まれてこないほうが良い」という結論を導いています。彼の議論は反出生主義を哲学的に正面から論じたものとして大きな影響を与え、反出生主義という言葉自体を哲学用語として定着させました。
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フリオ・カブレラ(1968年~): アルゼンチン出身でブラジルで活躍した哲学者で、「負の倫理学」を提唱する人物です。著書『生の倫理学への序説』などで、生まれることそのものが道徳的に問題含みであると論じました。カブレラは「出産とは、生まれてくる人を危険で苦痛に満ちた世界へ送り込む行為であり、子供はそのような苦痛と死に満ちた人生を望んでいないかもしれない」と指摘しています。また、生まれてくる当人の同意なく他者の人生を始めさせてしまうこと自体に倫理的疑義があるとし、**「本人の同意なしに子を産む権利など我々にはない」**と主張しています。
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ヤン・ナーヴェソン(1936年~): カナダの倫理学者で、厳密には「反出生主義者」というより人口倫理の議論における先駆的思想家ですが、その唱えた「非対称仮説」はベネターの議論に通じる重要な概念です。ナーヴェソンは1970年代に、「たとえ将来幸福になる子供であってもそれを産む義務はないが、将来不幸になるかもしれない子供をあえて産むことは倫理的に問題である」という立場を示しました。すなわち「幸せな人をわざわざ作る義務はないが、不幸な人を作らない義務はある」という主張です。この考え方は後述する「快苦の非対称性」の直感を先取りしたもので、反出生主義的思考と親和性があります。
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テオフィル・ド・ジロー(1968年~): ベルギーの作家・活動家で、ベネターと同じ2006年に反出生主義的著作『L'art de guillotiner les procreateurs(生殖者をギロチンにかける技術)』を発表しました。彼は**「子どもを産むことは子に対する権利侵害である」との観点から、生殖否定を訴えています。また世界中に多くの孤児がいる事実に触れ、「新たに子を産むくらいなら保護を必要とする孤児を養子にすべき**だ」と述べるなど、倫理的・社会的観点から出産を批判しています。
(※この他にも、19世紀の詩人・思想家であるフィリップ・メインレンダー(自殺ほう助的無存在論の提唱者)や、フランスの小説家ミシェル・ウエルベック(小説『島の可能性』で人類淘汰の未来を描写)、さらには日本の哲学者永井均(「生まれる/生まれないは本来自分で選べないこと自体が悪である」と指摘)など、反出生主義に関連して論じられる人物・作品は多岐にわたりますが、本稿では主要な提唱者に絞って紹介しています。)
以上のように、反出生主義の思想的系譜には哲学的厭世主義の代表者から、現代の分析哲学者や倫理学者、さらには社会活動家的思想家まで幅広く含まれています。それぞれが表現や動機は異なるものの、「生まれてこないほうが人には良いのではないか」という共通の問題意識で結ばれている点が特徴です。
3. 反出生主義の主張と論拠
反出生主義者は、「なぜ生まれてこないほうが良いのか」について様々な論拠を提示しています。主な主張とその論理を以下に整理します。
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(1)人生は避けられない苦痛に満ちている(苦痛回避の原理)
反出生主義の根幹にあるのは人生の価値に対する悲観的評価です。すべての生は大小様々な苦しみ(肉体的痛み、病気、老い、死別、心理的苦悩など)を伴い、それらは不可避だと考えます。南アフリカの反出生主義者ケリム・アケルマは、「人生で起こり得る最良のこと(喜びや成功)が、起こり得る最悪のこと(激痛、重病、死による苦しみ)を相殺することはない」と指摘し、それゆえ新たな出生は控えるべきだと論じます。つまり、どれほど人生に幸福な瞬間があろうとも、最悪の場合に味わう地獄のような苦しみ(例えば拷問の痛みや難病の苦しみ)を帳消しにできない以上、生を始めさせないほうがリスク回避として合理的だという主張です。 -
(2)快楽と苦痛の非対称性(ベネターの提唱する非対称命題)
デイヴィッド・ベネターは、生の善悪には決定的な非対称性があると論じました。その内容は以下の通りです:① 苦痛の存在は悪である。② 快楽の存在は善である。
③ (誰も存在しない場合の)苦痛の不在は「善」である。
④ (誰も存在しない場合の)快楽の不在は「悪い」とは言えない。つまり、存在すればその人には苦しみ(悪)と快楽(善)の両方が生じますが、存在しなければ苦しみも快楽もありません。しかし重要なのは、「生まれなければ苦しみを避けられる」という善は成り立つ一方で、「生まれなかったことで享受できなかった快楽」はそもそもその人が存在しない以上悪とはみなさない、という点です。この非対称な価値評価により、「苦痛を避ける善」を確実に実現するために、我々は生殖を控えるべきだという結論が導かれます。ベネター自身、この非対称性を支持する直観的な例として「生む義務の非対称」を挙げています。すなわち「我々には不幸になる人を作らない義務があるが、幸福になる人を作る義務はない」という点で、人々の倫理感覚は非対称であり、これは彼の命題③④と合致すると述べています。加えて、「生まれてきた子が不幸になるかもしれないという理由で子作りをやめるのは普通だが、生まれてきた子が幸福になるかもしれないという理由で子作りをするとはあまり言わない」という日常感覚も、苦痛回避を優先する非対称性の現れだと指摘されます。
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(3)「同意なき存在」への倫理的疑義(生まれることへの consent の欠如)
誰しも自ら生まれてくるか否かを選ぶことはできません。反出生主義者はここに重要な倫理問題を見出します。つまり、生まれてくる本人の合意なしに、その人の人生を始めさせてしまうことの是非です。アルゼンチンの哲学者フリオ・カブレラや、英国の哲学者ジェラルド・ハリソン&ジュリア・タナーらは、親が子を産む行為は結果的に「他者の人生に一方的に影響を与える」行為であり、本来であれば当人の同意が必要だがそれは不可能である、と指摘します。彼らは「本人の同意なく他人の人生を決定づける権利を我々は持たない」と述べ、生殖行為の道徳的正当性に疑問を呈しています。極端な例ですが、2019年にインドで実際に起きた出来事として、ある27歳の男性が「自分の同意なしに産んだのは不当だ」として両親を提訴しようとしたケースが報じられています。彼は熱心な反出生主義の支持者で、「苦しみばかりの世界に自分を産んだのは親のエゴだ」と主張しました。この男性の母親は「ではどうやって生まれる前のあなたから同意を得られたというのか、合理的に説明できるなら非を認める」と皮肉を込めて返したそうですが、このエピソードは**「産まれる本人の意思はどこにも存在しない」という問題**を端的に示していると言えます。 -
(4)人類絶滅・環境倫理的な動機(反生殖主義/博愛的・人類否定的アンチテーゼ)
反出生主義には、大きく分けて二つの動機があるとも言われます。一つは上記のように**生まれてくる本人の利益のため(博愛的アンチナタリズム)に「産まないほうが良い」とする立場、もう一つは他者や環境への害悪を減らすため(人類否定的アンチナタリズム)に「産むべきでない」とする立場です。後者の観点では、人間という存在そのものが他の人間や動物、自然環境に多大な苦痛や損害を与えているという事実が強調されます。例えば、人類がこれ以上増えなければ戦争・犯罪・虐待など人間同士の苦しみも増えず、環境破壊や気候変動による他生物の大量死も抑えられる、という論理です。その極端な例として自発的人類絶滅運動(VHEMT)があります。VHEMTは「みんな長生きして、そして(子孫を作らず)いなくなろう」をスローガンに、人類が自主的に繁殖を止めて絶滅することで地球環境を回復させようと訴える環境運動です。創始者のレス・ナイトは「人類の絶滅こそ地球が直面する問題群への最善の解決策」とまで述べています。このように、人類全体を「加害者」**と見立ててその消滅を良しとする論調も、反出生主義の中には存在します。 -
(5)「オメラス」を去る者の論理(構造的暴力への拒否)
哲学者の中には、SFや寓話を援用して反出生主義の倫理直感を説明する者もいます。ブルーノ・コンテスタビーレはアーシュラ・K・ル=グウィンの短編小説『オメラスから歩み去る人々』に注目しました。この物語の中の理想都市オメラスでは、都市の繁栄のために一人の子供が地下に幽閉され惨めな苦痛を強いられています。住民の大半はその事実を受け入れて幸福に暮らしますが、中にはそのような幸福を良しとせず街から立ち去る者もいる、という寓話です。コンテスタビーレは「現実の社会も同様に、社会の存続には常に虐げられる者の存在が付随している。それでも幸福な多数のために生殖を続け社会を維持すべきなのか?」と問いかけ、反出生主義者とはオメラスの在り方を良しとせず歩み去る人々に等しいと述べました。すなわち、「万人の幸福はたった一人の甚大な苦しみを正当化できるのか?」という問題設定です。反出生主義はこの問いに「NO」と答え、たとえ大多数が幸福でも一部の深刻な犠牲者を出すような生命システムへの関与そのものを拒否する倫理だ、と説明されます。
以上のような論拠を総合すると、反出生主義は功利主義的な苦痛の最小化(苦痛回避・負の功利主義)や個人の尊厳・権利の尊重(同意無き加害の禁止)、さらには広義の慈悲・正義(弱者や他生物への加害防止)といった価値観に立脚していることが分かります。要約すれば、「生は必ずしも贈り物ではなく、時に加害や賭博に等しい。不確実で制御不能な苦しみを他者に背負わせるくらいなら、最初から生み出さない方が良い」というのが反出生主義の根本的なメッセージなのです。
4. 反出生主義への批判や反論
反出生主義は近年注目を浴びる一方で、多方面からの批判や反論にもさらされています。その主なものをいくつか挙げます。
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(A)「人生にはポジティブな価値もある」
最大の反論は、「反出生主義は人生の良い面を過小評価しすぎているのではないか」という点です。多くの人は自らの人生に何らかの喜びや意味を見出しており、「生まれてきて良かった」と感じる人も多数派でしょう。心理学者のジェフリー・ミラーは、世界中の幸福度に関する研究から「ほとんどすべての人は幸福度が中立点よりはるか上にある。ベネターは人生が苦痛に支配されているという点で経験的に誤っている」と指摘しています。統計的にも主観的幸福感がプラスである人の割合は高く、進んで自殺する人が少数である現実が示すように、大半の人間は生を肯定しています。そのため「生は常に害悪」という断定には無理があり、「少なくとも幸福な人生もあり得る以上、生むことが必ず悪とは言えない」と批判されます。 -
(B)価値基準の偏りへの批判
反出生主義の議論はしばしば快楽=善/苦痛=悪という単純化に依存しています。しかし哲学的には「快・苦こそ唯一の価値尺度」とは限りません。ニューヨーク市立大学の哲学者マッシモ・ピリアッチは、「ベネターの前提とする快楽のみが善で苦痛のみが悪という価値観自体が偏っている」と批判しています。ストア派などの思想では快苦は道徳的に中立(無差別)とされ、むしろ徳(virtue)こそ善とみなされます。また人生には苦楽では測れない価値――例えば愛すること、知ること、芸術や探究や成長など――があり、苦労や悲しみも意味や物語を与える要素と捉える見方もあります。反出生主義は功利主義的尺度に偏重して人間経験の豊かさを狭く捉えている、との批判がここにあります。 -
(C)論理的帰結の過激さ・実行不可能性
反出生主義を突き詰めると極端な帰結に至る点も批判されます。まず、「生まれてこない方が良い」という主張を敷衍すれば「今生きている人も速やかに消滅した方が良いのではないか(自殺や他殺を容認すべきか)」という疑問が生じます。しかしベネターら反出生主義者は一般に自殺の推奨や現存人類の虐殺を肯定してはいません。彼らは「すでに存在してしまった人を殺すことはさらなる苦痛や悪を生むため不道徳だが、新しく人を生み出さないことは誰も傷つけず善である」という立場です。とはいえ、生まれる前と後で倫理判断が逆転するこの立場に対し、「本気で苦痛をなくしたいなら現存する人間も含めて消し去るべきでは?」「自分自身はなぜ生き続けるのか?」といった論理的整合性への指摘がなされています。また仮に人類が生殖を停止し絶滅したとしても、それで苦しみが消える保証はないという意見もあります。進化生物学的に見れば、人類がいなくなっても他の動物が進化して知性や痛覚を獲得し、新たな苦痛の担い手が出現する可能性があります。事実、地球上のあらゆる生物を絶滅させない限り「苦痛の完全な根絶」は叶いませんし、仮に地球を無生物化しても将来他の天体で生命が発生しうるという宇宙的視点まで含めるとキリがないとも言えます。このように、反出生主義が究極的には**「生命そのもの」との果てしない戦い**を宿命づける点は非現実的であり、「机上の空論に過ぎない」「観念的すぎて現実とかけ離れている」という批判が加えられます。 -
(D)「生殖は悪」という道徳判断への反論
反出生主義は出生行為そのものを道徳的に断罪しますが、これには反発も大きいです。特に宗教的・伝統的価値観では子孫を残すことは善きこと・義務とされる場合も多く、その立場からは反出生主義は反自然的・反倫理的な暴論に映るでしょう。例えばキリスト教やイスラム教では「産めよ増やせよ」は神の祝福であり義務(生殖は神聖)とされますし、儒教的な価値観でも「不孝の極みは後継ぎを残さぬこと」とも言われます。こうした価値観からは、「出生は悪」という命題自体が受け入れ難いものです。また、親の側から見れば**「子を持つ喜び」や「家族愛・人間愛」**の価値も無視できません。「自分が愛し育てたいから子供をもうける」という動機は決して利己的な悪意ではなく、ポジティブな価値と感じる人も多いでしょう。反出生主義はそうしたポジティブな動機や価値までも否定してしまう点で、「人間性への不信が強すぎる」「愛や希望といった価値を考慮しない偏狭な見方だ」と批判されます。実際、インドの「親を提訴しようとした男性」のケースでも、世間の反応は否定的なものが多数を占めたと報じられており、一般的な倫理観とのギャップが浮き彫りになっています。 -
(E)その他の批判・議論
上記以外にも専門的な議論としては、ベネターの非対称性論に対する反論(「快楽の不在もまた残念な悪とみなせるのではないか」「存在しないことを『本人にとって善い/悪い』と評価するのはカテゴリーミステイクではないか」等)や、同意の問題に対する反論(「生まれてくるかどうか事前に同意を取れないのは当たり前であり、それをもって非倫理的とするのは不当」など)もあります。さらには「反出生主義は人生の苦しみに対する一つの感情的反応に過ぎず、哲学というより心理的現象ではないか」という見方や、「出生を避けることを普遍道徳とするのは個人の価値観の押し付けではないか」といったメタ倫理的な指摘もあります。森岡正博は著書『生まれてこないほうが良かったのか?』(2020年)において、反出生主義に共感しつつも「そこからどう抜け出すか」を模索する立場を示しました。森岡は「生まれてこない方が良いかもしれない」と感じる現代人の**「生きづらさ」に理解を示しながらも、そこにとどまらず「誕生肯定」**の視点を提唱しています。このように、反出生主義は近年の倫理思想として盛んな論争の的となっており、支持・共感の声と同時に多様な批判が投げかけられている状況です。
5. 現代社会における影響
反出生主義は21世紀に入り学術思想に留まらず大衆文化や社会運動にも影響を与え始めています。その影響を、文化(文学・映像)と社会的動向の両面から概観します。
文学・思想への影響
反出生主義的なテーマは、古典から現代文学まで広く見られます。古代の例は前述したソポクレスの悲劇や『コヘレトの言葉』ですが、日本文学にも出生否定のモチーフが存在します。例えば芥川龍之介の小説『河童』(1927年)は、河童の世界に迷い込んだ人間の視点で、出生について風刺的に描いた作品です。河童の社会では、子供は生まれる前に親が胎内の子に「産まれたいか?」と問い、**「産まれたくない」**との答えがあれば即座に中絶してしまいます。作中で河童たちは「人間の産児制限は親の都合ばかり考えていて身勝手だ」と嘲笑し、産まれる側の意思を考慮しない人間社会を皮肉っています。この物語には晩年の芥川自身の厭世観が投影されていると言われ、反出生主義の先駆的表現としてしばしば言及されます。
また太宰治の小説『斜陽』(1947年)には、主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と漏らす有名な一節があります。さらに太宰は別の作品で「生まれて、すみません」との言葉を残しており、これらは戦後日本の文学における人生否定の印象的フレーズとなっています。これらの表現は当時は個人の厭世的感慨として受け取られましたが、現代の読者の中にはここに反出生主義的メッセージを読み取る向きもあります。
近年では、反出生主義そのものを正面から扱った文学作品も登場しています。川上未映子の長編小説『夏物語』(2019年)では主要人物の一人が反出生主義者として描かれ、作中で「生まれてこないほうがいいという考え」が議論されます。品田遊の小説『ただしい人類滅亡計画』(2021年)も副題に「反出生主義をめぐる物語」とある通り、登場人物たちが**「人類をこのまま存続させてよいのか?」**について討論する筋立てになっています。このように文学の分野では、フィクションを通じて出生否定の問題を問い直す試みが行われており、反出生主義が一つの思想テーマとして定着しつつあることがうかがえます。
映画・映像作品への描写
映像作品にも反出生主義的テーマが見られます。特に話題になったのがレバノンの映画『存在のない子供たち(原題: Capharnaüm/カペルナウム)』(2018年)です。この作品では貧困家庭に生まれ虐待同然の境遇で育った少年が、自分をこの世に生んだ両親を**「僕を産んだ罪」で告訴するというストーリーが展開されます。少年は「生まれてきたせいでこんな苦しみを味わっている」と主張し、これにより社会の無責任や貧困の連鎖を告発する物語になっています。フィクションとはいえ、この筋書きは前述の実際のインドの青年の事件とも相まって大きな反響を呼び、「産むことの是非」を観客に突きつける**ものとして評価されました。
また、意外なところではディズニー/ピクサーのアニメ映画『ソウルフル・ワールド(原題: Soul)』(2020年)も反出生主義的要素を含むと指摘されています。この作品では、生まれる前の「魂(ソウル)」たちが登場し、ある魂は地上に行って**「生まれる」**ことをひどく嫌がります。作中で直接「生まれない方がいい」と語られるわけではありませんが、「生まれたくない魂」というキャラクター設定自体がユニークであり、一部の視聴者の間で「これは反出生主義を想起させる」と話題になりました。
日本のアニメ・漫画にも反出生主義と関連付けられる描写があります。有名なのはアニメ映画『ミュウツーの逆襲』(1998年)です。ポケットモンスターシリーズのこの作品では、人間に生み出された人工ポケモン「ミュウツー」が自我に目覚め、自らの存在意義に苦悩します。ミュウツーは人間たちに向けて「誰が産めと頼んだ。誰が作ってくれと願った。私は私を産んだすべてを恨む」と叫び、「これは私を生み出した者たちへの逆襲だ」と宣言します。このセリフは極めて印象的で、「自分が望んだわけでない命を勝手に創造された怒り」という意味で反出生主義的な怨嗟と受け取られました。インターネット上では「ミュウツーはアンチナタリストではないか?」と話題になり、精神科医の香山リカがコメントする事態にもなりました(香山は「ミュウツーの怒りは反出生主義というよりアイデンティティの葛藤だろう」と評し、哲学者の森岡正博も「少し違うのでは」と応じています)。
さらに、諫山創による人気漫画『進撃の巨人』(2009-2021年)には「エルディア人安楽死計画」と呼ばれるエピソードが登場します。これは作中の登場人物ジーク・イェーガーが、自らの民族(エルディア人)の苦難の歴史に終止符を打つため**「すべてのエルディア人が子供を作れないようにする(民族の断種)」ことを企図するものです。ジークは「自分たちは生まれてこなければ苦しまなくて済んだ」と考えており、自民族の将来世代を絶つことで苦痛の連鎖から解放しようとします。この計画は作中で「安楽死計画」とも呼ばれ、明確に特定集団に適用した反出生主義**と言えます。批評家の杉田俊介はこれを「反出生主義の特殊なモード」であり、人種・民族的文脈と結びついた異質な例と指摘しています。大衆向け作品でこのようなテーマが描かれたことは注目に値し、物語を通じて反出生主義的な問いが読者に提示された好例でしょう。
社会運動・思想的潮流
思想運動の面では、反出生主義はインターネット時代に特有の広がり方を見せています。英語圏では2010年前後からRedditなどネットコミュニティで反出生主義グループが活発化し始めました。ベネターの著書出版(2006年)をきっかけに英語圏の有志がオンライン上で議論を行い、徐々にコミュニティを形成していったのです。2017年にはチェコのプラハで世界初の反出生主義に関する学術会議が開催され、2020年には複数の国の活動家が集まり**「アンチナタリズム・インターナショナル(Antinatalism International)」という国際団体が設立されました。これは反出生主義の理念を広報し各国の活動を連携させることを目的とした団体で、同年にはオンラインで国際会議も行われています。こうした動きは、反出生主義が単なる個人の哲学的意見ではなく国境を超えた社会的運動へ発展しつつある**ことを示しています。
各国の具体的な社会現象としては、前述のインドの青年のように極端な行動で注目を集めるケースのほか、少子化や子どもを持たない生き方の議論と結びつく例もあります。特に近年、「子どもを作らない人生」を選ぶ人々(いわゆるチャイルドフリー)が増えつつある傾向との関連で反出生主義が語られることがあります。経済的不安やキャリア志向、地球環境への配慮といった理由で自発的に無子の人生を望む人もいますが、中には「子を持たない理由」を哲学的に突き詰めて反出生主義に共感する層も出てきています。森岡正博の指摘によれば、現代日本で反出生主義への共感が広がる背景には「格差社会や将来不安など、生きづらさのなかで**『自分と同じ苦痛を子供に味わわせたくない』**と考える人が増えていること」があるとされます。実際、SNS上では「#反出生」や「#アンナタ(antinatalismの略)」といったハッシュタグが若者を中心に使われ始めており、「産まないこと」に肯定的な意見や、生まれたこと自体への苦悩を語る声が散見されます。
日本において反出生主義が紹介され広まったのはここ数年の出来事です。2017年にベネターの主著が『生まれてこないほうが良かった』の邦題で初訳出版されると、それを機にネット上でも議論が活発化しました。2019年11月号の雑誌『現代思想』で「反出生主義を考える」特集が組まれたことで思想界でも注目され、2020年には森岡正博が単著を刊行、2021年前後からは朝日新聞など大手メディアでも取り上げられるようになりました。こうした流れの中で、日本でも反出生主義という言葉と概念が一般読者に浸透し始めたといえます。もっとも、森岡は日本での広がり方について「本来の反出生主義(出産否定)が誕生否定の思想として受け取られてしまっている」と分析しており、やや概念の独り歩きも指摘されています(つまり、生まれてきたことそのものへの恨み・後悔という文脈ばかりが注目され、本来の「これから産まない」という倫理的決断の文脈が弱い傾向)。この点も含め、反出生主義は今なお定義やカテゴリについて議論が続く発展途上の思想と言えるでしょう。
一方で、反出生主義的な主張は賛否両論を巻き起こすため、社会運動としては慎重な面もあります。前述のAntinatalism Internationalは過激なスローガンではなく倫理的対話を重視していますし、VHEMTのような運動もあくまで自発的・非強制の姿勢を取っています。反出生主義を掲げる人々自身、「自分たちが少数派である」ことは自覚しており、「決して命を粗末にしようとか無責任で言っているのではない」と弁明する声もあります。むしろ「誰よりも世界や人間を祝福したいと願ったがゆえに、その高すぎる理想に絶望して反出生主義者になるのだ」という分析さえあり、彼らを一概に「冷笑的なニヒリスト」と見るのは誤りかもしれません。
おわりに
反出生主義は、「生まれること」「生むこと」に対して根源的な問いを投げかける挑戦的な思想です。「生きることは良いことだ」「子どもを持つのは自然だ」という当たり前に見える前提を覆し、あえて逆を主張することで、人類の在り方や倫理の根底を考え直させます。その主張には耳を傾けるべき真摯な論点(例えば不必要な苦痛を減らしたいという慈悲の念や、人間のエゴへの批判)が含まれる一方、極端に過ぎる・実現困難だという反発も根強いです。現代社会において反出生主義が注目される背景には、若者を中心に将来への不安や現状への閉塞感があるとも指摘されます。思想としての評価は定まっていませんが、文学や映画に姿を現し、ネット世論や学術討論の俎上にも載せられた今、反出生主義は21世紀の人間が直面する**「生の価値」問題**を象徴するテーマの一つとなっています。私たちはこのラディカルな問いかけから、「より良く生きること」「次世代へ何を残すべきか」という問題を逆照射的に考える契機を得ているのかもしれません。
【参考文献・出典】
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デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった――存在してしまうことの害悪』小島和男・田村宜義訳、すずさわ書店、2017年(原著 2006年)
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森岡正博「反出生主義とは何か――その定義とカテゴリー」『現代生命哲学研究』第10号、2021年
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朝日新聞デジタル「「反出生主義」への共感、背景は 森岡正博さんに聞く」2021年5月7日
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Business Insider Japan「私たちは『生まれてこないほうが良かったのか?』森岡正博氏が『反出生主義』を新著で扱う理由」2020年10月21日
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Wikipedia日本語版「反出生主義」(最新閲覧2025年7月)
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Wikipedia日本語版「自主的な人類絶滅運動 (VHEMT)」(最新閲覧2025年7月)
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Newsweek日本版「「同意なく僕を産んだ」インドの男性、親を提訴へ」2019年2月13日













