物理の教科書を閉じた瞬間、俺は机の上に置かれていたLEDライトを手に取った。
いや、正確には「ライト」じゃない。これは俺の怒りの矢だ。
何百年も人類が積み上げた物理学、その頂に鎮座している神──光速不変の原理。
あれが許せない。
許せない理由は単純だ。
俺がどんなに走っても、どんなに自転車を漕いでも、光は俺より速くならない。
こっちが努力しても結果が変わらないなんて、それは人生でさんざん味わったはずなのに、物理法則にまで押し付けられるとは思わなかった。
だから俺は決めた。
光を投げる。思いっきり。
この手から離れた瞬間、やつは俺の速度を背負って加速する──はずだ。
大学の講義で、教授が笑いながら言ったことがある。
「もし君たちが光速を越えるものを作れたら、ノーベル賞どころか歴史に名を刻むだろうね」
その言葉は冗談だった。
でも俺は笑えなかった。
歴史に名を刻むのは面倒だが、歴史に穴を開けるのは面白そうじゃないか。
夜の川辺に立つ。
ポケットの中にはLEDライト。
空は月が半分溶けたように欠けて、星々は相変わらず悠然と光を送ってくる。
あいつらは何千年も光速で走っている。退屈じゃないのか。
いや、退屈だから俺が混ぜてやるんだ。
呼吸を整える。
高校の陸上部で覚えたフォームを作る。
肩甲骨を引き、腰をひねり、全身をばねのように巻き上げる。
光速に、俺の秒速30メートルを足す瞬間を想像する。
それはちっぽけな数値だ。でもゼロじゃない。
ゼロじゃないなら、ひょっとしたら世界は歪むかもしれない。
俺は叫んだ。「行けえええええ!」
腕がしなる。ライトが空に弧を描く。
その瞬間、俺の中で何かが確信に変わった。
今、光は確かに加速した。
もちろん、現実は残酷だ。
光速は変わらない。
俺がどれだけ投げようが、LEDから出る光の速度は秒速30万キロのまま。
地球が自転していようが、俺が全裸で走ろうが、結果は同じだ。
でも、それがどうした。
俺が投げた瞬間の感触は、確かに法則を裏切っていた。
それは科学では測れない速度だった。
翌日、研究室でその話をすると、友人は鼻で笑った。
「お前、それ相対性理論を理解してないだけだろ」
彼の言葉は正しい。
だが正しさは、世界をつまらなくする麻酔だ。
みんなそれを打って眠っている。
俺は覚醒していたい。眠っているやつの見ている夢に、俺の人生を合わせたくない。
数日後、俺は光を投げることに飽きた。
光は無関心だ。投げられても、蹴られても、褒められても、速度を変えない。
人間で言えば、いつでも時速0キロで歩いてるやつと同じだ。話が通じない。
だから俺は次の相手を探した。
音だ。
音は速度を変える。風向きで遅くなるし、温度で速くなる。
ああ、なんて人間的な奴だろう。
俺はギターを持って公園へ行き、全力で弦をかき鳴らした。
それは夜空へと広がり、冷えた空気に押し戻され、耳へ帰ってくる。
音は裏切ってくれる。だから愛せる。
しかし、音もまた限界を持っている。
時速1200キロ程度の壁を越えると衝撃波が生まれ、それ以上は音速を名乗れない。
この世界は何から何まで制限だらけだ。
それを「自然」と呼び、ありがたがるのは何かの宗教か?
俺は悟った。
物理法則とは、神の戒律だ。
破る者は地獄──いや、虚無に落ちる。
だが地獄も虚無も、まだ見たことがない。
最後に俺は、自分自身を投げてみることにした。
深夜、人気のない橋の上から走り、欄干を蹴って飛ぶ。
空気が裂け、重力が引き寄せ、世界が俺を地面に押し付けようとする。
だが、その瞬間だけは確かに俺は自由だった。
自由とは、加速度の中にしかないのかもしれない。
着地の衝撃で膝を打ち、息が詰まる。
見上げた夜空に、光があった。
変わらない速度で俺を見下ろしている。
許せない。
だから、また投げる。
次はもっと遠くへ。もっと速く。
たとえ法則が笑っても、俺は笑い返す。
光速は変わらない。
それでも、俺は変われる。



