家に金を入れるのをやめたアキラは、妻マキナとの関係に終止符を打ち、「家庭」という名の牢獄を出る。依存と支配の構造に疑問を抱き、辿り着いたのは、自立した女性リナとの対等な関係。稼ぐことは愛なのか? わがままは罪なのか? 社会の呪縛と男の再生を描く静かな反逆の物語。
なぜこの本を読むべきなのか
この本は、人生の「やり直し」を正面から描いた、いわば“男性版・逃げるは恥だが役に立つ”だ。だがこれはエンタメではない。もっとざらついているし、もっと切実だ。「家庭を捨てる男」というだけで、世間からは容易に「無責任」「クズ」の烙印を押される。でもこの物語は、そのレッテルの向こうにある、たった一人の人間の声をすくい取っている。
主人公アキラは稼ぎ、耐え、役割を全うしようとした。でもそれは“愛”ではなく、“支配”だったと気づく。そこから彼は「わがまま」という非難を引き受けつつ、自分の人生を生き直すために、家庭から出ていく。
この本を読むべき理由は、その「出ていく」という選択が、逃げではなく、“ほんとうに生きるための勇気”として描かれているからだ。社会的な正解から逸脱した時、人はどんな風に再生できるのか。その実感が、ひりひりと胸に刺さる。
これは男だけの話じゃない。
「自分の人生を生きていいのか」と問う、すべての人の物語だ。
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第一章 財布のヒモは誰のものか
給料日。会社のデスクの引き出しに無造作に放り込んであった封筒を取り出し、手のひらで何度か叩く。中身の重みを確かめる仕草は、昔は「よし、これで今月も家族を養える」という安堵を意味していた。だが今は違う。叩けば叩くほど、皮膚の奥から不快な震えが湧き出す。何かが腐っている。それが何かはまだはっきりしないが、確かに腐ってる。
俺はそのまま封筒を上着の内ポケットにしまった。帰宅して玄関のドアを開けると、マキナの足音がリビングから聞こえてきた。あの速さ。あの硬さ。金の匂いを嗅ぎつけた犬みたいな足音だ。
「おかえり。今日、給料日でしょ?」
はいはい、そうですよ。俺の稼いだ金があなたの管理下に入る日です。今日はまさに“召し上げ記念日”ってわけだ。心の中でそう毒づいていたら、笑顔で手を差し出してくるマキナの指が急に小さな蟹のハサミみたいに見えてきて、笑いそうになった。
「今日はね、保険の更新もあるし、子どもの習い事の引き落としもあるし、それと固定資産税も……」
とにかく金が足りない、って話だ。その構造はいつも変わらない。こっちが給料を持ってくる、向こうが内訳を並べる。その形式は、もう十年近く続いてる。俺の役割は、ATMとして封筒を提出すること。家庭内議会での発言権もなく、ただ数字としての存在。稼ぐ男。それが俺。
だけど今日は違う。
俺は、封筒を渡さなかった。
「え?」
マキナが固まる。その顔には“想定外”っていう字幕が浮かんでいた。あまりにもテンプレ通りで、逆に感心するレベルだった。
「今日は、渡さない。というか、これからは渡さないと思う」
俺の声は思ったより静かだった。自分でも驚くほど冷静だった。もっと怒鳴ってしまうかと思っていたが、怒りではないのだ。これは、宣言。もっといえば、自分の意思を取り戻す一歩だった。
マキナは顔をしかめて、まるで変なにおいでも嗅いだみたいに鼻を鳴らした。
「……何言ってんの? 家庭っていうのは支え合いでしょ? あなたが稼いで、私が管理して、そうやって成立してきたじゃない」
「支え合い、ね。俺は支えられてる実感がないんだが」
「何それ? 私がどれだけ家のことしてるか知らないでしょ。食事、掃除、子どものこと……。あなただって、自分ひとりじゃ何もできないでしょ?」
そう言われて、俺は黙った。確かに、俺は家事が得意じゃないし、子どもとの接し方もうまくない。でも、それは俺が無能だからではない。そう振る舞うように、そう位置づけられてきた結果なんだ。俺が家に金を入れているのは「生活のため」だったはずなのに、いつの間にかそれは「従属のため」になっていた。
「……これは、支配だよ、マキナ。お前が俺を支配したいだけだ」
「は?」
マキナの眉が一気に跳ね上がる。怒りと困惑の混じった、あの特有の表情。俺はそれを何百回と見てきた。そのたびに折れてきた。でも、もう折れない。
「金を渡すことで、お前が上位に立つ構図ができてたんだよ。それって、夫婦って関係じゃない。管理と被管理の関係だ。俺はもう、その構図の中にはいたくない」
「それ、ただのわがままだよ」
マキナの口から出たその言葉が、妙にリアルだった。わがまま。まさに、それを恐れて俺は今まで口をつぐんできた。「自由になりたい」なんて言ったら、「わがままな大人」「無責任な父親」って言われるに決まってた。だから、黙ってきた。でも――
「わがままでいい。わがままじゃなきゃ、生きてる意味なんかねぇよ」
俺はリビングのドアを閉めて、寝室に向かった。封筒はまだポケットの中にある。明日の朝には出ていくつもりだ。行き先も決めていない。貯金も、たかが知れてる。だけど、それでもいい。
この金は、俺のものだ。
それ以上に、この人生は、俺のものだ。
どこかでリナの顔が浮かんだ。大学時代の彼女。自分で稼ぎ、自分で暮らしていたあの子。俺に「男だからって偉そうにするなよ」って笑ってたあの声。あの自由さが、今なら少しだけわかる気がする。
財布のヒモは、誰のものか。
それを問うだけで、俺はもうこの家にいられなくなった。
でも、それでいい。ヒモを渡すことは、心臓を差し出すことじゃない。金を渡すことは、愛ではない。そこを履き違えた関係からは、真の何かなんて生まれやしない。
俺はようやく、ほんとうに生きる場所を探しにいける。
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