愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

リリース記事

『俺はもう家に金を入れない』リリース記事



家に金を入れるのをやめたアキラは、妻マキナとの関係に終止符を打ち、「家庭」という名の牢獄を出る。依存と支配の構造に疑問を抱き、辿り着いたのは、自立した女性リナとの対等な関係。稼ぐことは愛なのか? わがままは罪なのか? 社会の呪縛と男の再生を描く静かな反逆の物語。

なぜこの本を読むべきなのか

この本は、人生の「やり直し」を正面から描いた、いわば“男性版・逃げるは恥だが役に立つ”だ。だがこれはエンタメではない。もっとざらついているし、もっと切実だ。「家庭を捨てる男」というだけで、世間からは容易に「無責任」「クズ」の烙印を押される。でもこの物語は、そのレッテルの向こうにある、たった一人の人間の声をすくい取っている。

主人公アキラは稼ぎ、耐え、役割を全うしようとした。でもそれは“愛”ではなく、“支配”だったと気づく。そこから彼は「わがまま」という非難を引き受けつつ、自分の人生を生き直すために、家庭から出ていく。

この本を読むべき理由は、その「出ていく」という選択が、逃げではなく、“ほんとうに生きるための勇気”として描かれているからだ。社会的な正解から逸脱した時、人はどんな風に再生できるのか。その実感が、ひりひりと胸に刺さる。

これは男だけの話じゃない。
「自分の人生を生きていいのか」と問う、すべての人の物語だ。

試し読み

第一章 財布のヒモは誰のものか


給料日。会社のデスクの引き出しに無造作に放り込んであった封筒を取り出し、手のひらで何度か叩く。中身の重みを確かめる仕草は、昔は「よし、これで今月も家族を養える」という安堵を意味していた。だが今は違う。叩けば叩くほど、皮膚の奥から不快な震えが湧き出す。何かが腐っている。それが何かはまだはっきりしないが、確かに腐ってる。

俺はそのまま封筒を上着の内ポケットにしまった。帰宅して玄関のドアを開けると、マキナの足音がリビングから聞こえてきた。あの速さ。あの硬さ。金の匂いを嗅ぎつけた犬みたいな足音だ。

「おかえり。今日、給料日でしょ?」

はいはい、そうですよ。俺の稼いだ金があなたの管理下に入る日です。今日はまさに“召し上げ記念日”ってわけだ。心の中でそう毒づいていたら、笑顔で手を差し出してくるマキナの指が急に小さな蟹のハサミみたいに見えてきて、笑いそうになった。

「今日はね、保険の更新もあるし、子どもの習い事の引き落としもあるし、それと固定資産税も……」

とにかく金が足りない、って話だ。その構造はいつも変わらない。こっちが給料を持ってくる、向こうが内訳を並べる。その形式は、もう十年近く続いてる。俺の役割は、ATMとして封筒を提出すること。家庭内議会での発言権もなく、ただ数字としての存在。稼ぐ男。それが俺。

だけど今日は違う。

俺は、封筒を渡さなかった。

「え?」

マキナが固まる。その顔には“想定外”っていう字幕が浮かんでいた。あまりにもテンプレ通りで、逆に感心するレベルだった。

「今日は、渡さない。というか、これからは渡さないと思う」

俺の声は思ったより静かだった。自分でも驚くほど冷静だった。もっと怒鳴ってしまうかと思っていたが、怒りではないのだ。これは、宣言。もっといえば、自分の意思を取り戻す一歩だった。

マキナは顔をしかめて、まるで変なにおいでも嗅いだみたいに鼻を鳴らした。

「……何言ってんの? 家庭っていうのは支え合いでしょ? あなたが稼いで、私が管理して、そうやって成立してきたじゃない」

「支え合い、ね。俺は支えられてる実感がないんだが」

「何それ? 私がどれだけ家のことしてるか知らないでしょ。食事、掃除、子どものこと……。あなただって、自分ひとりじゃ何もできないでしょ?」

そう言われて、俺は黙った。確かに、俺は家事が得意じゃないし、子どもとの接し方もうまくない。でも、それは俺が無能だからではない。そう振る舞うように、そう位置づけられてきた結果なんだ。俺が家に金を入れているのは「生活のため」だったはずなのに、いつの間にかそれは「従属のため」になっていた。

「……これは、支配だよ、マキナ。お前が俺を支配したいだけだ」

「は?」

マキナの眉が一気に跳ね上がる。怒りと困惑の混じった、あの特有の表情。俺はそれを何百回と見てきた。そのたびに折れてきた。でも、もう折れない。

「金を渡すことで、お前が上位に立つ構図ができてたんだよ。それって、夫婦って関係じゃない。管理と被管理の関係だ。俺はもう、その構図の中にはいたくない」

「それ、ただのわがままだよ」

マキナの口から出たその言葉が、妙にリアルだった。わがまま。まさに、それを恐れて俺は今まで口をつぐんできた。「自由になりたい」なんて言ったら、「わがままな大人」「無責任な父親」って言われるに決まってた。だから、黙ってきた。でも――

「わがままでいい。わがままじゃなきゃ、生きてる意味なんかねぇよ」

俺はリビングのドアを閉めて、寝室に向かった。封筒はまだポケットの中にある。明日の朝には出ていくつもりだ。行き先も決めていない。貯金も、たかが知れてる。だけど、それでもいい。

この金は、俺のものだ。

それ以上に、この人生は、俺のものだ。

どこかでリナの顔が浮かんだ。大学時代の彼女。自分で稼ぎ、自分で暮らしていたあの子。俺に「男だからって偉そうにするなよ」って笑ってたあの声。あの自由さが、今なら少しだけわかる気がする。

財布のヒモは、誰のものか。

それを問うだけで、俺はもうこの家にいられなくなった。

でも、それでいい。ヒモを渡すことは、心臓を差し出すことじゃない。金を渡すことは、愛ではない。そこを履き違えた関係からは、真の何かなんて生まれやしない。


俺はようやく、ほんとうに生きる場所を探しにいける。





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『牛野小雪の小説Season1』リリース記事

なぜ牛野小雪の小説シーズン1を読むべきか

牛野小雪の小説『Season1』は、一冊で多様なジャンルの世界に没入できる、魅力的な小説集です。SF、ホラー、ミステリー、青春ドラマ、そしてファンタジーまで、著者の巧みな筆致が光る物語は、読む者の心を捉えて離しません。なぜ、あなたがこの本を手に取るべきなのか、その理由を各作品の魅力とともにご紹介します。

孤独と希望を描くSF叙事詩『火星へ行こう君の夢がそこにある』

もしあなたが、宇宙の広大さと人間の心の深淵に興味があるなら、この物語は必読です。物語は、失業中の若者・一郎が、人類初の火星有人飛行に挑むという壮大なスケールで描かれます。選抜理由は「運」という一風変わった採用試験から始まり、読者は一郎と共に過酷な訓練と宇宙への旅を体験します。

この作品の魅力は、単なる宇宙冒険譚にとどまらない点にあります。何もない宇宙空間での孤独、地球との通信が絶たれた際の絶望、そして火星で雪が降るといった予期せぬ出来事を通じて、極限状態における人間の心理が丁寧に描かれています 。閉鎖空間での生活や、限られた物資でのサバイバルは、読む者に強烈な緊張感と没入感を与えます 。これは、非日常の中に日常の尊さを見出す、感動的な人間ドラマです。

日常の隙間に潜む恐怖『ドアノッカー』

現代社会に潜む恐怖を巧みに描き出した『ドアノッカー』は、ホラーやサスペンスが好きなあなたにおすすめです。物語は、主人公・恵の友人、玲美がストーカー被害に遭うところから始まります。当初はありふれた女子会の会話から始まる物語が、玲美の語る「ドアをノックされる」という不気味な体験をきっかけに、じわじわと読者の日常を侵食していきます。

玲美が殺害された後、恵自身も同じ恐怖に苛まれるようになり、物語のサスペンスは頂点に達します。防犯グッズ「マモルクン」を購入するも、その恐怖は現実なのか、それとも恵の妄想なのか、境界線は曖昧になっていきます。物語の結末は読者の想像に委ねられ、読了後も長く心に残る恐怖を植え付けるでしょう。

記憶と真実が交錯するSFミステリー『蒲生田岬~夕方午後五時の彼氏~』

ミステリーとSF、そして恋愛が融合したこの物語は、先の読めない展開を好む読者を魅了するでしょう。物語の鍵を握るのは、心で思ったことを写真などに写し出す「念写」という超能力です。主人公の秀子は、友人・奈津美の不可解な行動や、自身の周りで起こる不思議な出来事に翻弄されていきます。

プロのカメラマンと名乗る男との出会い、恋人・正人の謎めいた言動、そして携帯電話に送られてくる奇妙な画像 。散りばめられた謎が一つにつながる時、読者は衝撃の真実を目の当たりにします。友情、恋愛、そして裏切りが交錯する中で、人間の記憶と真実のもろさが描かれる、悲しくも美しい物語です。

不器用な青春と成長の物語『グッドライフ高崎望』

『グッドライフ高崎望』は、過去の自分を乗り越え、新しい一歩を踏み出す若者の姿を描いた青春ドラマです。中学時代に不登校だった主人公・望が、不良が多いことで知られる上等高校へ入学するところから物語は始まります 。

「強い男」に憧れ、リーゼントという髪型で気合を入れる望ですが、内面はまだ弱さを抱えています。しかし、不良たちとの出会いや喧嘩、友人・小林との交流を通じて、彼は少しずつ本当の強さを見つけていきます 。不器用ながらも必死に自分の居場所を探し、成長していく望の姿は、読む者に勇気と共感を与えるでしょう。

猫の視点で描かれる、生命と輪廻のファンタジー『真論君家の猫』

この物語は、猫の「ミータン」を語り部に、その一生と輪廻転生を描いた独創的なファンタジーです。猫の視点から見た人間社会や、猫同士のコミュニティ(竹林集会)がユーモラスかつ温かく描かれています。

野良猫と飼い猫の派閥争い、猫又伝説、そして種族を超えた友情や愛情。猫の世界を通じて、生命の不思議さや、時を超えて続く絆が描かれています。日々の生活に疲れた時、この物語はあなたの心に温かい光を灯してくれるはずです。

牛野小雪の『Season1』は、物語の力と多様性を存分に感じさせてくれる一冊です。それぞれの物語が持つ独自の世界観は、あなたを日常から解き放ち、新たな感動へと誘うでしょう。ぜひ、この多彩な物語の扉を開いてみてください。

試し読み


収録作1:火星へ行こう君の夢がそこにある


 星ひとつ見えない暗闇に青白い光に包まれた球体が孤独に浮かんでいる。種子島宇宙センターはもう見えないが、日本列島はまだ見えていた。

 宇宙船が地球を三周しながら航行速度まで加速すると、加速のGが無くなり船内を自由に移動できるようになった。その時に一郎は宇宙船の窓から地球を見たのだ。

 宇宙船はさらに地球を半周すると地球を離れ、火星まで行くことになっていた。人類初の有人火星飛行をするのだ。
 操縦席の赤いランプを点滅していた。

「こちら宇宙管制局。一郎さん、そちらに異常はありませんか?」

 管制局からの電話だった。一郎はイヤホンとマイクを着けていたので通話ボタンを押せばそのまま会話ができた。
「はい、今のところ異常ありません」と一郎は言った。

 五秒ほど間があった。地球にある管制局と距離があるので、電波が届くまでに時間がかかる。

「そうですか、貨物室の点検は終わりましたか? 終わったらまた連絡してください」

「これから確認してきます」

 一郎はそう言ってからしばらく待ったが、イヤホンは静かなままだったので電話を切った。

 操縦室から居住空間へ出た。広さは十畳ほど。

 その居住空間の奥に貨物室がある。廊下は無いのでドアを開けるとすぐに貨物室だった。貨物室のスペースは居住空間より三倍広い。居住室の下にはさらに大きな貨物室がある。

貨物のほとんどは水と食料で占められていた。他には火星で活動するための火星四輪車と、火星で生育実験をするためのバラの苗が十株あった。

 火星四輪車は電気で動く大きなバギー車で、宇宙船の太陽光パネルからバッテリーに充電する。満タンまで充電すれば三時間運転ができる。最高速度は時速二十キロ。

 バラは極地植生技術で作られた砂王と青姫というバラだ。

 砂王は太陽が照りつける砂漠でも育ち、半年間水が無くても枯れない品種で、葉っぱは針のように細くて硬い。白の五枚葉をしている。枝は薄い黄緑色でゴムのように柔らかかった。

 青姫は南極でも育ち、氷点下でも枯れないバラで、枝は深緑に黒を足したような暗い色をしている。そして鉄のように硬い。その枝からうちわみたいに大きな五枚葉が垂れ下がっていた。

 貨物は全て床にひもで縛りつけていた。床には紐をかけるための穴とフックがある。

 一郎は紐がゆるんでいないか確認した。特に火星四輪車は念のために紐を一度解いて結び直した。火星四輪車は貨物の中でも特に重いので壁にぶつかれば、宇宙船に穴を開けてしまう恐れがある。

 一郎が運転室に戻ると地球は夜に変わっていた。地上には人工的な黄色い光がクモの巣状に広がっている。

「貨物室の点検終わりました」

 一郎は管制局に電話をした。

「ごくろうさまでした、これから船は火星に向かうコースを取ります」と返事があった。

 船の進行方向が変わり操縦席から地球が見えなくなる。その代わりに今度は月が見えた。

 宇宙船には三台のノートパソコンがある。それを使って地球の管制局とメールのやり取りをする。インターネットも使えた。液晶テレビが一台あって、それで衛星放送を観ることもできた。カメラもあるが、一郎は地球を撮り忘れた事に気付いた。火星から帰ってくる時には忘れないようにしなければならない。

 紙の本は重量があるので持ってくることはできなかったが、電子書籍端末は持ちこめた。地球を出発する前になるべくたくさん本のデータを入れておいた。壊れた時のために同じ物を二つ持ってきている。あとは携帯ゲーム機。これも同じ物を二つ。

 一郎は居住空間に戻ると、本を読んだりゲームをしたりして時間を過ごした。

窓の外を見る度に月は大きくなり、やがて視界から消えた。

管制局から電話がきた。

「月を越えました。ここから先はまだ誰も行った事がない世界です。いってらっしゃい」

「それじゃあ、いってきます」

 一郎はそう言って電話を切った。目の前には黒い空間が見えているだけで火星はまだ見えない。

 時計を見ると地球時間で十九時になっていた。宇宙船には時計が二つある。青と赤のアナログ時計。青の時計は地球時間を表していて二十四まで数字が刻まれている。赤の時計は火星時間を表していて、二十五まで数字が刻まれている。二十四と二十五の間は他の数字より間隔が狭い。

 お腹が空いたので晩ごはんにした。貨物室から、きつねうどん、おにぎり、それとほうじ茶を持ってきた。

 きつねうどんはパック詰めされていて、レンジで温めて食べる。温めなくても食べることはできるが、あまりおいしくない。だしは地球で食べていた物と違い、粘り気があって粉っぽい。そして、うどんに絡む程度の量しかなかった。粘り気があるのは宇宙でだしを飲みこぼしても水分が四方八方に飛ぶことないようにするためだ。

 食べ物はうどんの他にもラーメン、カレー、肉じゃが、みそ汁、豚汁、たこ焼き、梅干し、白米、炊き込みごはん。とにかくスーパーで缶詰やレトルト食品として売られている物はたいていあった。汁物は全て粘り気がついていて粉っぽい。

 食後はほうじ茶をレンジで温めて飲んだ。これもパック入りでストローを使って飲む。

 それから歯を磨いた。宇宙で水は貴重品だ。歯ブラシではなくガムを噛んで磨く。宇宙用に作られた噛み歯磨きだった。最初はカチカチと音が鳴るほど硬いが、噛み続けているうちにガムは柔らかくなり、徐々に小さくなっていく。最後は飲み込んで終わり。

 ネット掲示板で人類初の有人火星行きの話題を探すと、一日で読みきれない量の書き込みがあった。三時間ほど掲示板を読んでいると、一郎は疲れたので眠ることにした。読み終わっていないところはパソコンにコピーして保存した。

 ベッドに入るとゴム製のベルトで体をベッドに固定した。宇宙だと体が浮いてあいまいな空間に投げ出された感じがする。

 部屋の明かりを消して、豆電球に変えた。初めての宇宙で眠れないと思っていたが、一郎は五分もしない内に眠り、眠ったと思ったらすぐに目が覚めた。宇宙では昼も夜も無いが、青い時計を見ると六時になっていた。地球ではもう明るい時間だ。一郎は窓の外に目を向けると暗い宇宙空間が見えた。

 朝ごはんのおにぎりとみそ汁を食べて、歯磨きも終えると、管制局に電話をした。

「おはようございます。定時(ていじ)連絡をします。火星はまだ見えません。異常も無しです」

 毎朝十時は管制局に連絡をすることになっていた。三分ほど待つと返事がきた。

「おはようございます。船は火星のコースを順調に進んでいます。良い一日を」

 地球から離れたので電波が届くまでに時間がある。火星まで行くと、地球と通信するに一時間もかかると聞いていた。

 一郎は居住空間に戻ると、ネット掲示板で自分のことが書かれていないか検索した。一回クリックして画面が切り替わるのに三分もかかった。今日も書き込みはあったが、三時間で読み終えた。一郎の事は、他の話題が埋め始めていた。

 昼ごはんを食べ終えると管制局から電話があった。電話に出て十分ほど無言のままだった。

「地球から距離が離れたので、これからの連絡をメールに切り替えます」

 電話から管制局からの声が聞こえた。

「はい、分かりました」

 一郎が電話を切ってから五分ほど経つとパソコンにメールが届いた。

〈メール確認です。このメールはそちらへ届いていますか? 届いていたら返信をしてください。〉

 一郎は返信の内容を考えたが気の効いた事が思い浮かばなかったので

〈メールは届きました。ちゃんと届いています。〉とだけ書いて送った。それから十分が経った。

〈返信を受け取りました。メールの送受信に問題はありません。確認を終わります。〉と管制局から返信がきた。

 これで一郎がすることは何も無かった。船は自動操縦なので勝手に火星まで飛んでいく。これから三十日間、一郎がやらなければならない事は火星に着くまでの時間を一人で過ごすことだ。といっても火星に行けば誰かが待っているわけではないので結局はずっと一人のままだ。

 火星に一年近く滞在し、十五日の日数で帰還する予定だった。帰りの日数が短いのは地球と火星の距離が一番近い時期に合わせているからだ。

 地球時間で夜になったのでベッドに入った。なかなか眠れないので、一郎は何故火星へ行くことになったのか思い出していた。


一年前に宇宙飛行士を募集する広告が、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット、あらゆる媒体で流された。『火星へ行こう、君の夢がそこにある』というのが宣伝文句だ。企画したのは火星開発公団という組織だ。

 募集要項には採用人数一人。仕事内容は人類初の火星到達、火星での簡単な実験と調査、そして火星からの帰還。健康な心と体を持つ人材を求む、と書いてあり、火星から帰還すれば報奨金一億円と書いてあった。さらにその後ろにカッコ付きで(この報奨金に税金はかかりません)と付け加えられていた。

 一郎は大学を卒業してから一年経つが、まだ一度も働いたことがなく、何をするでもなく日を過ごしていた。歳が二つ上の兄二郎も無職で三年間職についていない。さらに二歳上の長男三郎だけが兄弟でただ一人働いている。職業は植木職人だ。木を植えるより枝を切る事が多いので、枝切り職人の方が実態に合っているよと言っていた。

 ニュースでは三十五歳以下の失業率は五十%を超えて二人に一人が無職だと言っていた。討論番組では就職活動をあきらめた人を加えれば、六割強の若者が職に就いていないと言っていた。それが本当なら三人の内二人が無職ということで、一郎の兄弟がそのまま当てはまった。

 そんなある日、兄の二郎が、火星行きの募集試験を受けるから、お前も試験を受けろ、と一郎に募集のパンフレットを押しつけた。

 募集要項には身長百七十五センチ以下、体重七十キロ未満と書いてあった。大学に通っていた頃の一郎は、身長が百六十八センチ、体重は五十六キロと小柄な体型だった。

 パンフレットの続きには、年齢不問、学歴不問、犯罪歴無し、虫歯無し、病歴無しの人材を求む、と書いてあった。一郎は一応大学を出ているがこの試験では問題ないらしい。犯罪歴は当然無かった。大人しいというより気が弱い性格なので犯罪どころかケンカらしいケンカもしたことがない。

 母は歯磨きにうるさく、小さい頃から寝る前に五分以上歯を磨かせたので虫歯は一本もなかった。入院するような病気もしたことが無い。数年に一度風邪をひくかどうかだ。

 宇宙飛行士募集の試験内容は書類審査と健康診断をした後、さいころで八人に絞り、百日間の架空閉鎖実験を行う。閉鎖実験の合格者が二人以上出れば、もう一度さいころを振って一人に絞ると書いてあった。何故さいころで決めるのかは下の方に『私達は運がある人を求めます』と書いてあった。

 こんな怪しげな計画に一郎は気が乗らなかったが、二郎から一緒に試験を受けろと何度も言われ続けているうちに受けると言ってしまった。

 それから二週間経つと、二郎が一郎の部屋に入ってきて、火星開発公団と書かれた封筒を目の前に置いた。宛名は一郎だった。

 一郎が封筒の中を見ると、書類審査は合格。二週間後に、赤星病院で健康診断を受けてくださいと書いてあった。紹介状も入っている。二郎はそれを脇から見て、お前も受かったなと言った。

 健康診断の日、二郎と一緒に赤星病院へ行くと一郎と歳が同じくらいの人が百人ぐらいいた。みんな一郎より頭が良さそうで、元気に満ち溢れていたので、一郎は落としてもらえそうだった。

 病院の受付で紹介状を渡すと診察室の前に並んだ。この中なら俺が一番だな、全員倒せそうだ、と二郎が耳元でささやいた。試験者全員で戦うわけではないが、確かに二郎なら勝てそうな人ばかりだった。一郎は、もう一度並んでいる人達の顔を見たが、自分は誰にも勝てないだろうという後ろ向きの自信があった。

 過去に大きな病気をしたことがあるか、何か薬を飲んでいるのかと医者に訊かれ、胸に聴診器を当てられた。そのあと身長と体重を測った。尿検査と血液検査もした。心理テストを受けて、最後に歯の検診があり、虫歯無しと診断され、二時間もしないうちに健康診断は終わった。

 それから五日後に二郎は一郎の部屋に火星開発公団からの封筒を持ってきた。中を見ると、健康診断で異常は見つからなかったので、一週間後の架空閉鎖実験に参加するようにと書いてあった。

 二郎も封筒の中身を見せてくれた。やはり同じ内容で一週間後に架空閉鎖実験を受けるようにと書かれていた。

 翌日、夕飯が終わって一息ついた頃、二郎が一郎と一緒に火星行きの試験を受けることを両親に話した。父も母も突然のことで、しばらく言葉を発せずにいた。

 最初に口を開いたのは母だった。母は親をだましていたことについて怒った。


 母が半時間怒り続けて一息つくと、二郎は口を開いた。俺も一郎も就職してない、これから先できるかどうかも分からない。このままくすぶっているよりは火星に行って大きく出たい。それに火星から戻ってくれば、あいつは火星に行ってきたと言われて、どこへ行っても名前が通るようになる。そうすれば良い職も見つかるかもしれない、と言った。

 一郎もそう思っているのか、と母が訊いてきた。一郎は火星に行きたくないかもしれないと言おうとしたが、一郎もそう思っていると二郎が一郎の代わりに答えてしまった。間を置かず、それにもう試験を受けることは決まっているのだと火星開発公団からの手紙を母に見せた。

 母はそれを何度も読み返すと、勝手にすればいいと言い捨てて、足を踏み鳴らしながら寝室へ行って、勢いよくドアを閉めた。その音は家全体を揺らした。

 父はそんなにしてまで行きたいのなら勝手にしろと言って、それからは口を開かなかった。二郎は勝手にするよと言って横を向いた。家族全員が気まずい雰囲気になった。それは架空閉鎖実験の日まで続いた。

『マジェドラ』リリース記事

【ヤクザのトリビア】
ヤクザは組から給料をもらえない。むしろ組員は組に上納金をおさめなければならないシステム。

【内容紹介】
徳島のオタク少年だった黒川ケンジはオタク差別から暴力に目覚め、ヤクザの道を歩む。刑務所で完璧な犯罪ビジネスを模索した彼は「エロゲで資金洗浄を行う」という画期的な仕組みを生み出す。徳島一のエロゲ企業を築き上げるが、かつての恩義や警察の捜査など様々な要素が絡み合い、彼の人生は波乱に満ちていく。オタク文化、暴力、ビジネスが交錯する異色の社会派エンターテインメント。

『マジェドラ』誤読会場

ヤクザとエロゲ、常識を破壊する熱狂がここにある――今こそ小説『マジェドラ』を読むべき5つの理由

元ヤクザにして、売上1兆円超を叩き出すエロゲー会社のCEO。そんな型破りな主人公が、裏社会の常識と現代ビジネスの論理を融合させ、前代未聞のスケールで成り上がっていく物語、それが牛野小雪氏による小説『マジェドラ』です。

本作は単なるエンターテインメント小説にとどまりません。現代社会を生き抜くための哲学、心を揺さぶる熱狂、そして人間の業と愛が渦巻く、まさに「読む劇薬」とも言える作品です。なぜ今、私たちは『マジェドラ』を読むべきなのでしょうか。その強烈な魅力を5つのポイントから解き明かします。

 1. 狂犬にしてオタク、最強の経営者・黒川ケンジという男

本作の主人公、黒川ケンジ。彼は「どこにでもいる普通のオタクだった」 と自称しますが、その実態は「徳島の狂犬」と呼ばれヤクザさえも震え上がらせた伝説の元ヤクザです 。ヤクザの世界で若頭にまで上り詰めた彼は、ある出来事をきっかけに裏社会から足を洗い、エロゲのソシャゲ会社「マジェドラ」を立ち上げます 。

彼の魅力は、ヤクザとしての圧倒的な暴力性と度胸、そして根っからのオタクとしての深い知識と情熱という、相容れない二つの顔を併せ持つ点にあります。従業員を鼓舞するためにデスクに飛び乗り、狂気的な演説で熱狂を生み出すかと思えば、ゲームのクオリティには一切妥協せず、声優に鬼気迫る演技指導を行う 。この狂気と理性が同居するカリスマ性が、彼を唯一無二の主人公たらしめているのです。

 2. 「シノギをしないシノギ」―常識を破壊するビジネス戦略

『マジェドラ』の面白さの核となるのが、ケンジが構築した前代未聞のビジネスモデルです。表向きは売上1兆円超のエロゲのソシャゲ運営会社ですが、その実態は「裏社会の金を綺麗にするシステム」 。ヤクザたちが欲しがる「綺麗な金」を提供するという、まさにゴールドラッシュでジーンズを売ったリーバイスのような「シノギをしないシノギ」を編み出したのです 。
さらに、競合他社を叩き潰すためには手段を選びません。フェミニストやアンチフェミニスト、さらにはメディアまで巻き込み、SNS上で壮大な炎上劇を自ら仕掛ける情報戦 。政治家や宗教団体さえも手玉に取り、自社の利益のために社会のルールそのものを書き換えようとします 。その常識外れの戦略は、現代ビジネスやマーケティングに関心のある読者にとって、刺激的な思考実験となるでしょう。

3. 個性的すぎるキャラクターたちが織りなす人間ドラマ

主人公ケンジを取り巻く登場人物たちも、一筋縄ではいかない魅力的な人物ばかりです。
  • まさやん: ケンジの弟分。致命的に頭は悪いが 、なぜか憎めない純粋さを持つ男。彼の存在が、ケンジの人間的な側面や物語の重要な転機を引き出します 。
  • 一条:ケンジを執拗に追い詰める刑事。モデルのような容姿に、底知れない知性と執念を秘めた宿敵です 。二人の交わす禅問答のような会話は、物語に緊迫感と深みを与えます。
  • 水谷くん:マジェドラにハッキングを仕掛けたことからケンジに拾われる天才 。彼の異次元の才能が、後にマジェドラを新たなステージへと押し上げます 。
  • レイ:ケンジが支援交際で出会う、アーマードコアを愛する令和のオタクギャル 。彼女との交流は、ケンジにかつてのオタクとしての自分を思い出させ、物語に一服の清涼剤となっています 。

これらの個性的なキャラクターたちが織りなす、友情、裏切り、愛憎のドラマが、物語に豊かな彩りを与えています。

4. 現代社会への鋭い風刺と問題提起

『マジェドラ』は、現代社会が抱える様々な問題を大胆に取り上げています。90年代の苛烈な「オタク差別」 、表現の自由を巡るフェミニストとアンチの対立 、政治とカネの問題 、そして少子化問題 まで。

作中で描かれるこれらの事象は、フィクションでありながらも、現実社会を鋭く映し出す鏡となっています。物語を通して、読者はこれらの問題について改めて考えさせられることになるでしょう。

5. 心を揺さぶる熱量と、明日へのエネルギー

「俺たちの使命は何だ!」「環境破壊!」「その結果起きることは何だ!」「少子化!」 

これは作中の朝礼の一コマです。不謹慎で過激な言葉の裏にあるのは、常識の枠を壊し、限界を超えて突き進もうとする圧倒的な熱量です。

『マジェドラ』は、安定や平穏とは無縁の世界を描きます。しかし、そこには停滞を嫌い、常に変化し、高みを目指そうとする強烈なエネルギーが満ち溢れています。その熱狂は、日々の生活に閉塞感や物足りなさを感じている読者の心を強く揺さぶり、明日への活力を与えてくれるはずです。

ヤクザ、エロゲ、ビジネス、政治、そして愛。あらゆる要素をごった煮にした『マジェドラ』は、あなたの常識を破壊し、新たな視点を与えてくれるでしょう。人生に刺激と熱を求めるすべての人に、この一冊を強くお勧めします。


試し読み

1 どこにでもいる普通のオタク

俺の名前は黒川ケンジ。どこにでもいる普通のオタクだった。

小学生の頃、徳島県ではエヴァンゲリオンが深夜に放送されていて、当時は野球中継でしょっちゅう時間がズレていたのでビデオの予約機能は役に立たず、生で見るしかなかった。深夜に布団から起き出し、テレビを見ていると母親によく怒られたものだ。

 実のところエヴァがこんなにブームになるとは思っていなかった。ロボはかっこいいが主人公がうじうじしていて弱そうなのが好きになれなかった。俺はエヴァよりもガオガイガーが好きで、なんなら今でもそっちが好きだ。でもそれはかっこいい軸の話であって1番ハマっていたのはカードキャプターさくらだ。

 90年代平成の日本に存在していた三大狂気、その一角をなすのがオタク差別だ。オタクというのは法が未整備でまだつかまっていないだけの犯罪者みたいな扱いだった。なにかの事件で犯人の部屋からマンガかアニメが発見されると核兵器の材料が発見されたかのように報道されていた。令和になってみると、それは炊飯器を開けたら米が入っていた程度のことだが、当時はそれが犯行に手を染めた狂気の一端であると信じられていた。アニメを見るから頭がおかしくなるのではなく、頭がおかしくてもアニメぐらいは見るという単純な事実を誰も考えなかった。すくなくとも表立って口にすることはなかった。

 中世の魔女狩りのようにオタクは迫害されていた。今でも年寄りからはむき出しのオタク差別が飛び出してくる時がある。そういう時、まだ10代の頃の響きを感じて逆に胸がウキウキする。

 オタク差別の恐怖はあの時代を生きた人間の魂に深く刻まれている。自転車の乗り方と同じように生涯消えることはないだろう。あの時代を知る人間が公の場でアニメやマンガを語る時、それ以降の世代と違って一歩引いたような印象があるのは、それが理由だ。

 子どもがアニメを見るのはいい。しかし、子どもではないのにアニメを見るやつはオタクだ。俺は中一になるとアニメのアの字も知らない顔をして生きるようになった。それどころか勢い余ってヤンキーになってしまった。自分でも知らなかったが俺は強かったし度胸もあった。ありていに言ってしまえば最強だ。相手が1人でも10人でも同じで、ナイフが出てきても関係ない。自分でも不思議になるほど最強だった。

俺は中1で学校のヤンキーが全員ヤンキーをやめるまで殴り続けた。具体的には頭を丸坊主にして制服をちゃんと着るようになるまでだ。オタク差別はヤンキーが作り出しているという確信がなぜか俺の中にはあって、ヤンキーがいなくなればオタクが安心して生きていられる世界が作れると信じていた。ヤンキーにとってはいい迷惑だろう。

 俺はチャリを漕いで他の学校のヤンキーも殴りに行った。いま振り返ると完全に頭がおかしい奴だ。そんなことをしていると当然警察のお世話になる。ヤンキーを殴ってなぜ捕まるのか俺は理解できなかった。理不尽な仕打ちを受けていると世界を憎んだ。だから警察も殴った。もちろん捕まった。

 高校になると汽車に乗って遠くのヤンキーも殴りに行くようになったので、徳島県警では徳島の狂犬と呼ばれるようになっていた。いまでもその伝説は語り継がれているらしい。すでにその頃からヤンキーの数は全国的に減少の一途をたどっていたが、徳島県に限って言えば俺がいたからヤンキーが消えたと思っている。

 ヤンキーと警察を殴るようなやつに普通の人生が待っているはずもなく、活きのいい面白いやつがいるというので俺は金餅組(かねもちぐみ)のスカウトを受けてヤンキーからヤクザになる。高校は中退、最終学歴は中卒だ。

 ヤクザになって意外だったのは、殴り合い、殺し合いの世界ではないということだ。殴る、殺す、はもちろんあるが、あくまでそれはビジネスであって、感情に任せて暴力を使う人間は遠からず消えていく。根がヤンキーだとすぐに消えるということだ。俺は根がオタクなものだから、失敗することもなく、むしろヤクザの才能があったようで、あれよあれよという間に若頭まで昇りつめて徳島のドラゴンと呼ばれるようになる。
 しかし、つまらないことをして警察に捕まり、刑務所に入ることになった。いちおう言い訳をすると俺のミスではない。弟分のまさやんに子どもが生まれるというので、俺はあいつの代わりに捕まっただけだ。肝心なところは黙秘を続けて証拠も決定的なものではなかったので3年の刑期だった。まさやんはいまでもそれについて礼を言う。バカなことをしたと俺は思う。この世界では情を出した人間から消えるのだ。それでも俺はなぜかそうしたい、そうしなければならないという感情に駆られていた。そして3年を棒に振った。これが人生の契機になるのだから運命とは分からないものだ。

 小学校、中学校が表の学校とするならば刑務所は裏の学校だ。犯罪者たちはここでシノギ(裏社会の仕事)の手口を教え合う。俺もそこで学び直しをしていたが、ふとこいつらは知ったような口をきいているが全員失敗しているやつらだと気付いて輪に入るのをやめた。失敗したやつから学べば失敗を学ぶだけだ。

 もっと完璧なシノギを考えなくてはならない。俺は来る日も来る日も考え続けて衝撃の事実にぶち当たる。どんなシノギも不完全性を排除することはできず、長期的には必ず失敗するということだ。完璧なシノギをするには神のような能力と自制心が必要だが、神ならシノギをする必要がない。人間である限りはどんなに優秀でもシノギを続ければ必ず捕まる。

 俺はシノギをしないシノギを考えるようになった。そんなことができるのか? まるで禅問答だ。刑務所では5日に1回坊さんが来て受刑者は座禅を組み、公案という答えがない問いを考えさせられる。いつも同じ公案が出ていたので「いま考えていることを考える前は何を考えていたかを考えなさい」という言葉をいまでも憶えている。

座禅の後に受刑者たちはそれぞれ座禅している時に考えたことを坊さんに答える。たいていは「分からない」だが、ある日俺は「悟りを開くのは不可能だと分かっていても悟りを開こうとするのは無駄ではないか。座禅するのも無駄ではないだろうか」と答えると「完全に悟るのは素晴らしい。半端に悟るのも素晴らしい。まったく悟れないのも素晴らしい」と坊さんは言った。その瞬間、俺の禅問答に決着がついた。いままで考えた断片の一つ一つが頭の中でつながったのだ。「次回からは来なくてよろしい」と坊さんは言った。

 はるか昔、アメリカでゴールドラッシュという現象が起きた。カリフォルニアで金が掘れるというのでたくさんの男たちが一攫千金を求めて集まった。しかし、実際に財をなしたのは極一部で、本当に儲けたのはリーバイスだ。採掘労働に耐える丈夫なズボンは飛ぶように売れた。ゴールドラッシュの勝者は金を掘る者ではなくジーンズを売る者だった。

 ヤクザが欲しているものは何か? 金、メンツ、女、そんなところで、その中でも金は一番重要だ。ゴールドラッシュの時代から、日本でもアメリカでもそれは変わらない。俺はここでリーバイスすることを考えた。金は掘らない。金を掘るヤクザを相手にシノギをする。

 ヤクザの金に関する欲の中でも、特に切実な悩みは綺麗な金が必要ということだ。それは法律的にもそうだし、心理的にもそうだ。まず違法な金を大量に動かすと必ず税務署か警察が嗅ぎつけて金の流れを探ろうとする。『金と女の流れを追え』は今も昔も、たぶん100年後でも通用する黄金律だ。

ヤクザはあくどいことをして金を稼ぐが、その金をすぐに手放したがる。シノギで得た金は心の会計で『汚い金』に勘定される。金に色はついていないと言うが心はだませない。犬のウンコがついた金を財布に入れ続けたい人間なんてどこにもいないのだ。このためにヤクザは大量の金を得てもすぐに使い果たしてしまい、資金の余裕のない状態で次のシノギに手を出してしまう。資金に余裕がなければ心にも余裕がなくなる。資金の欠乏は思考資源を圧迫する。要はバカになる。当然それはシノギの失敗につながる。

 本来シノギで得た金は貯蓄債券にでも回して計画的に運用するべきだ。なにかあった時や、良い状態が巡ってくるまでじっとしているためには必ず金が必要になる。ヤクザだってそれぐらい分かっているが、悪銭身に付かずということわざ通り、汚い金を持ち続けるのは難しい。なので汚い金は洗う必要がある。法律的に、そしてなにより心の平和のために。



女の声:あああああ♪

俺:あいつ、俺のゲームをどうするつもりだ



俺は録音室の厚いドアに体当たりして中に入る。白い台本を丸めて持っている女がマイクの前に立っていたが、俺と目が合うと一歩後ずさる。



俺:おい、名前は?

女:高橋です

俺:声優は?

高橋:え?

俺:何年やっているか聞いている

高橋:2年です。学校は3年行きました



 高橋。やっと名前を思い出した。新キャラ会議で有望な声優がいるというので決裁書類にハンコを押したのが2か月前というのも思い出す。報告通り有望そうだ。ビビってはいるが声はブレずに出ている。



俺:いまの喘ぎ声ではダメだ。ジャンヌはモンスターの苗床にされようとしている。触手責めに遭って人生の危機だ。剣は折れて自分で死ぬこともできない。快感に負けてしまうということは、これから死ぬまでモンスターの卵を産み続ける人生を受け入れるということ。だから気持ち良くなってはいけない。でも気持ちいい。その時に出る声があああああなんだ

高橋:あああああ

俺:違う。あああああ!

高橋:あああああ!

俺:人生の喪失がかかっているんだぞ、もっとまじめにやれ

高橋:あああああ!

俺:快感に対する理性の抵抗だ

高橋:あああああ!

俺:まだやれるか?

高橋:やれます



 俺は高橋という声優の目を見る。彼女はしっかりと俺を見返している。もし休ませてくださいと言ったら、すぐさま責任者をクビにして、高橋の契約を打ち切り、新しい声優を探すつもりだった。

 俺は録音室を出ると、防音ガラス越しに高橋を見る。画面にはジャンヌというキャラが触手に襲われているところが映っていて、高橋が声を当てている。



俺:最初から録音し直せ。もっと良くなる



 録音担当者は腰を浮かせて振り返るが、俺はそのまま収録室を出る。クオリティを上げられるなら一切妥協してはならない。駆け出しの声優だからといって努力賞でリリースするほど俺のゲームは甘くない。やるからには最高品質だ。才能は絞り出してもらう。

 第一戦略室に入る。広いフロアで150人の人間が働いていて、いつものように騒がしいが活気が落ちているような気がする。よくない兆候だ。火に油を注ぐ必要がある。エンジンはいつだって最高出力であるべきだ。



俺:みんな手を止めてくれ



 俺はマイクを持って、デスクの上に飛び上がる。マイクはこういう時のために、いつでも用意されている。取り回しが良いようにワイヤレスだ。



俺:重要な仕事をしている人も手を止めてくれ。これはもっと重要なことだ。電話、おい、電話は切れ。いますぐだ。



 俺が指差すと電話をしている従業員は受話器に向かって言葉をまくし立てながら電話を切る。別のところで電話が鳴るが、近くにいた従業員が電話線を引き抜いた。第一戦略室は10秒前とは打って変わって静まり返る。150人の従業員がみんな音も立てずに俺を見上げている。



俺:はじめに言わせてもらう。このチームは最高だ。最強のチームだ。ありがとう。君たちのおかげでマジェドラは世界最高の会社になれた



 何人かが口に笑みを浮かべる。俺はPCや書類が置いてあるデスクの上を歩きながら続ける。



俺:去年の売上は……

従業員:1兆2千億!

俺:そう、1兆2千億。今年の目標は1兆5千億。今年はもう6か月目が終わろうとしているが、すでに8千億……8千億……それで満足できるのか? これと同じペースで今年を終えたら1兆6千億。目標達成だ。でもよく考えてほしい。日本の人口は1億人だ。1人あたり1万6千円しか使っていない計算になる。たった1万6千円……本当にこれで満足か? 俺たちはエロゲのソシャゲをやっている。だから男しかやらない? いいだろう。そういうことにして、2倍の3万2千円、これで満足か? そうじゃないだろう。本当なら恋人とデートして、結婚して、子どもができて、家族の幸せに使われるはずだったお金を俺たちはがっぽりいただいている。こんなじゃまだ全然足りない。

机を叩く音:ドン……ドン……ドン……ドン……



 1人が机を叩き始めると他の従業員もリズムを合わせて机を叩き始める。オフィスドラムだ。フロア全体が不満のドラムとなって世界を揺らしている。ドラムのリズムは徐々にビートを上げて、叫び声を上げる者も出始める。



俺:正しいことに使われるはずだった金を全部いただけ。世界中の人間の脳みそにぐりぐりと手をねじ込んで、時間と金を引きずり出せ。俺たちの使命はなんだ!

従業員たち:環境破壊!

俺:オイルショックが起きるまでティッシュに精子を吐き出させろ。その結果起きることはなんだ!

従業員たち:少子化!

俺:そうだ! 少子化! 少子化万歳! 俺たちに未来は?

従業員たち:存在しない!

俺:俺たちに時間は残されていない。世界が終わる前にすべての金をかき集めろ! 終わり!



 フロア中に書類の白い紙が舞い上がる。こんなに散らかして後でどうなるのか分からないが活気は戻った。みんなアクセル全開だ。カオスと熱狂に包まれて俺はデスクを飛び降りる。そこに秘書の宝条が歩み寄ってくる。彼女はいつもシャネルのスーツに身を包んでいて、音を立てずに素早く動く。



宝条:一条さんという方が社長に会いたいと訪ねて来られています。どうされますか?



 俺は顔をしかめる。アポのない面会なら彼女は俺に聞かずに断るだろう。しかし一条は警察だし、面会の申し出の時にもそう告げただろう。だから宝条も断るわけにはいかない。



俺:すぐ通してくれ、社長室で

宝条:かしこまりました



 なぜ警察が俺に会いに来たのか彼女は当然考えただろう。しかし、それを顔に出さず言われたことに取りかかる。考えないやつはダメだし、顔に出すのもダメ。考えて、なおかつ顔に出さないのは得難い人材だ。

 俺は社長室に入ると、椅子に座って気持ちを落ち着けようとしたが、一条の姿を思い浮かべるとじっとしていられなくなり、窓のそばに立って地上を見下ろす。

 マジェドラタワーの34階からはマジェドラタウンだけではなく徳島市まで眼下に広がっている。徳島で一番高い建物なのだ。家の一つ一つは指先より小さく、白くかすんでいる。

 ドアをノックする音がする。男が2人入ってくる。1人は知っている。一条だ。昔と少しも変わっていないので不気味さを覚える。

一条はモデルのようにすらりと伸びた長身に黒革のロングコートを着ている。髪は真上に伸びたリーゼント。もう一人は金髪パーマに赤いスタジャンを着ていてチンピラにしか見えないが、こっちも警察なのだろう。警察の人間はいつも2人組で動く。



俺:やぁ、こんにちは。よく来てくれました

一条:私のことを憶えておいででしたか

俺:忘れるもなにも10代の頃はよくお世話になりましたから。名前も顔も忘れるわけがありません。そういうものでしょう?



 本当にそうだ。徳島の狂犬と呼ばれていた頃、俺はボクシングのチャンピオンにだって勝てると思っていた。テレビで見ていても、こんなものかと思っていたものだ。ボクシングならともかくケンカなら100回やって100回とも俺が勝っただろう。しかし一条だけは絶対に勝てないと思った。見た瞬間にそう思ったし、事実、いつも俺は地面に倒されていた。しかも一条は息をするより簡単にそれをやってのけた。なぜ負けたのかも理解できない負け方で、3回目からは一条の姿を見た瞬間に俺はあきらめたものだ。一条は俺にとって死神だった。そして、その死神がふたたび俺の前に現れた。



俺:立っているのもなんですから座りませんか?

一条:助かります。老人には立っているだけでもつらいものです



 俺に促されて一条がソファーに座る。俺も座るが金髪パーマは立ったままだ。



一条:成瀬くん。君も座ったらどうですか?

成瀬:いえ、俺は立っています



 一条が困ったような笑みを俺に向ける。目尻にしわが刻まれていた。昔と変わらないように見えるが、この男も歳をとるのだと分かって俺は安心した。

 秘書の宝条がお茶を運んでくる。一条はそれに礼をする。彼女が出ていくまで誰も口を開かなかった。



俺:昔話をしに来たわけじゃないでしょう。何の用です?

一条:この歳になると昔話が恋しくなるんです。徳島の狂犬と呼ばれていたあなたを捕まえたのがつい最近のように思えて

俺:俺以外にも捕まえたやつはたくさんいるでしょう

一条:ひときわ記憶に残る人というのはいるものですよ

俺:警察の人にそう言われるのは名誉なことじゃありませんね

一条:徳島のドラゴンと呼ばれていた時期もある

俺:金餅組の盃は返しましたよ。もうヤクザじゃない。それともこの仕事に違法なことが?

一条:世間一般の良識に照らせば非難されることはないにせよ、称賛されることではありませんね

俺:でも違法ではない。エロゲのソシャゲでユーザーにガチャを回させているだけですから

一条:徳島の狂犬は何度も捕まえたのにドラゴンは1度も捕まえたことがない

俺:ドラゴンなんて伝説です

一条:ヤクザになってからのあなたは1度も尻尾を見せたことがない。あっという間に若頭になった。優秀でもあったんでしょう

俺:捕まりましたよ。あなたの手じゃありませんが

一条:そこが引っかかったんです。あなたらしくない。それで解決済みの事件ですが洗い直してみたんです。すると1人の男が浮かび上がった。金餅組の藤田正(ふじたまさし)。あなたが金餅組にいた時は弟分にしていて、まさやんと呼んでいた

俺:だから、なんだって言うんです



 思わず立ち上がっていた。成瀬という男が身構えている。俺はつい熱くなった頭を落ち着けるように息を吐くと上着を脱いでデスクの椅子にかけに行く。歩いている間に時間を稼いで、ソファーに戻った時には平静を取り戻していた。一条はまさやんの名前を出して俺を焦らせたかった。意図が分かれば対処はできる。



俺:もう終わったことでしょう。あの事件は時効を過ぎている

一条:そうです。もし仮に藤田正が真犯人だとしても意味はありません

俺:だったらどうしてあいつの名前を出したんです?

一条:昔話をしたくなっただけですよ

俺:ならもう帰ってください。俺はヤクザでした。でももう関係ない。昔のことでごちゃごちゃ余計な事を言われたくありませんね

一条:帰ります。もともとこんなしがない刑事に会ってくれるとは思っていませんでした。いまや徳島を代表する企業のトップですからね。こうして顔を見られただけでも収穫はありました



 一条は上品な身のこなしで立ち上がると、後ろに立っている男に声をかけて社長室の出口へ向かう。俺はその背中を見送っていたが、一条はドアの前で立ち止まると、振り返ってまた口を開く。



一条:なにを考えているか分からないとよく言われるんですが、私にも人並みの欲がありまして、警察になったからには大きな事件を解決したいんです。日本中がひっくり返るような、それこそ映画やドラマになるような大きな事件を。もしあなたがそんな事件に関わっているのなら私に教えてください。いつでもお待ちしております

俺:何も知りません

一条:思い出したらでいいんです



 一条ともう一人の男が社長室を出ていく。体が急速に冷えていく。服の下に汗をかいている。バレたのか? いや、そんなはずはない。もしそうならいま頃、警察の人間がダンボールを抱えて証拠を押収しているはずだ。

 俺はマジェスティックドラゴン(通称マジェドラ)というエロゲのソシャゲを運営している。売上は1兆円を超えている。しかし、実態は裏社会の金を綺麗にするシステムなのだ。物凄く簡単に言ってしまえばヤクザがマジェドラに課金して、その売上の10%を手数料として受け取り、残りをヤクザのフロント企業に返すという仕組みだ。綺麗になった金は合法なので、まとまって使えるし、持っていても心理的な抵抗がないので計画的な運用が可能になる。生活が安定したのでシノギに対してしっかりと向き合えるようになったという顧客の声を聞いたことがある。実際、昔よりヤクザの生活は安定している。いまは黄金時代だと親父は言っている。金の安定はすべての安定をもたらすのだ。

 携帯が鳴る。まさやん専用の携帯だ。



俺:もしもし、どうかしたか?

まさやん:アニキ、いま話せる?

俺:大丈夫だ、誰もいない

まさやん:親父が会いたいって言ってる

俺:なぜ?

まさやん:さぁ、よく分かんないけどアニキにそう伝えろって



 言ってから、まさやんにそんなことを聞いた自分が愚かだと気付いて、俺は笑う。まさやんになぜと考える頭はないのだ。



まさやん:俺もアニキの顔を見たいよ。もうずっと会ってない

俺:深夜1時55分にテレビを点けてみろ。採用募集CMに俺が映ってる

まさやん:そういうんじゃないよ。こう、現実に見たいっていうかさ

俺:親父は元気にしているか?

まさやん:うん、あ、鼻から白髪が伸びてた

俺:もう歳だからな。他のやつらは? 若いやつはちゃんとメシ食ってるか?

まさやん:もちろん。バブルの頃より景気が良いって親父も、年寄り連中も言ってる

俺:お前は? 誰かにいじめられたりしていないだろうな?

まさやん:アニキ、俺もうガキじゃないよ。手下だって何人かいるんだ

俺:あんまり俺にヘコヘコしすぎるなよ。下のやつはそういうのをちゃんと見ているんだ。なめられたら終わりだ

まさやん:ゆっくり喋る。喋る時は短く。ちょこまか動かない。何をしたらいいか分からない時はじっと黙っている

俺:それを完璧に守れたら若頭、いや、次の組長はお前だな

まさやん:そんなのムリだって。俺はそんな人間じゃないって分かってる

俺:自分がどんな人間かわかっていないやつがこの世には多すぎる。それだけでお前は一歩進んでるよ



 受話器の向こうでまさやんの照れ笑いが聞こえる。今夜、いつもの料亭で、と言って俺は電話を切る。





『ユング入門』リリース記事



【内容紹介】
本書は、深層心理学の巨人カール・グスタフ・ユングの理論を、元型や集合的無意識、シャドウ、アニマ・アニムス、自己など主要概念から入門的に解説する一冊。夢分析や錬金術研究、シンクロニシティなど多面的視点から、人間の心の奥深さと「個性化」の道を平易に示す。読者はユングの主要理論と多様な応用例を知り、自分自身の無意識と向き合う第一歩を踏み出せるだろう。

【感想】
本書を通じて初めてユング心理学の概念に触れた読者は、その多層性と奥深さに圧倒されるだろう。本書では、ユングの主要理論が丁寧にまとめられており、難解に思われがちな集合的無意識や元型といった用語も平易な表現で理解しやすく解説されている。特に、シャドウ、アニマ・アニムス、自己など、自己探究の鍵となる概念が具体的な事例とともに紹介されているため、自らの内面を掘り下げる際の強力なガイドとして機能する点が大きな魅力だと言えよう。

ユングが人生の中期以降に重要視した『個性化』という考え方は、人間の心がもつ本質的な成長の可能性を示している。本書を読むと、私たちが普段表面的な自己認識だけで生きているのではなく、集合的無意識に根差した豊かな象徴世界との対話を経てこそ、真の意味で「自分自身」としての人生を構築できるのだという視点が得られる。このプロセスは必ずしも平坦ではなく、シャドウとの衝突や異性像との葛藤といった心理的試練を伴う。しかし、それらを逃げずに見つめることが、より深い安心感や内的自由へとつながるとユングは説く。本書ではそうしたプロセスを解説するのみならず、読者が自分の夢や象徴を分析しながら少しずつ自分自身を理解していくヒントを与えてくれる。

また、錬金術との関連が取り上げられているのも興味深いポイントだ。単なる古い迷信と見なされがちな錬金術を、実は内面の変容プロセスを象徴的に示す豊かな比喩体系として読み解く姿勢は、ユングの学際的探究心を物語っている。本書では、錬金術の神秘的な図像や言葉の数々が、いかに意識と無意識を結びつける鍵として機能するかが示唆される。それは科学と神秘が二項対立で語られがちな現代においても、知と霊性を総合的にとらえるための手がかりになりうるだろう。

そして、シンクロニシティの概念は、本書を通じてユング心理学の魅力をさらに際立たせる要素として紹介される。因果関係では説明しきれない“意味ある偶然”という視点を取り入れることで、読者は自分の人生で起きる不思議な符合や偶然を新たな観点から捉え直すことが可能になる。こうした柔軟な発想は、自己探究のみならず他者理解にも広く応用でき、人間同士のつながりに対する認識を深めるきっかけとなるに違いない。

本書の優れた点として、専門用語が先行しがちなユング心理学を、初学者にも分かりやすい順序で整理している点が挙げられる。それぞれの章が基本概念を押さえつつ、ユング理論の背景にある西洋思想史の流れや、実際の臨床例、さらには世界各地の神話や宗教との関連を俯瞰的に示しているため、読者は単に用語を覚えるだけでなく、その背後にある考え方の枠組みを自然と体得できる。また、哲学入門シリーズの一冊として、心理学と哲学の接点を丁寧に解説しているのも特徴だ。人間観や存在論の視点からユングを理解することで、私たちが生きる世界観を一段深いところで問い直すことができる。

とはいえ、ユングが提示した諸概念は非常に豊穣である分、一読しただけですべてを把握するのは難しいかもしれない。むしろ本書は、読者がユングの世界に足を踏み入れるきっかけを提供する「入り口」の役割を果たすものと言えよう。実際に夢分析や象徴の読み解きを行うには、さらに専門的な文献や自分自身の内省、場合によっては専門家の助言が必要になることもある。しかし、そうした深い探究へと向かう際に、本書で得られる基礎知識と視点は大いに助けとなるはずだ。

本書を読み終えたとき、読者は「自分の心の奥底には何が潜んでいるのか」という問いを、これまで以上に意識するようになるだろう。ユングの理論は、私たちが現代社会で感じる息苦しさや孤独感、アイデンティティの混乱といった問題に対して、個人的なトラウマや環境だけに起因するのではない、より大きな集団的・神話的な背景の存在を教えてくれる。人間の苦悩や創造性は、遠い昔から共有され、繰り返し物語や象徴の形で表現されてきたものなのだ。そしてその理解が、自己への洞察と他者への思いやりを深める道へと導いてくれるに違いない。



『ナンバーワンラップ』リリース記事

【ラップの豆知識】
フリースタイル中の脳は自己検閲機能が休止して創造的になる

内容紹介
『ナンバーワンラップ』はどん底の環境から「ラップでナンバーワン」を目指す青春物語。悪ノリ動画が一夜にして炎上し、晴人の人生は思わぬ方向へ転がり出す。友情、対立、家族の葛藤を背景に晴人は夢の本質を問い続ける。痛快なユーモアと胸を打つドラマが織り成すこの物語は熱さと切なさとともに駆け抜ける。YouTubeの再生数を上げたい人、夢を諦めたくない人必見!

なぜ読むべきなのか?(ChatGPT)

読む理由?そりゃ、クソガキの嘘と現実がぶつかる瞬間を、ここまで真っ正面から描いた小説が他にあるか?って話だ。

まず、主人公の自己演出が痛々しいほどリアルだ。YouTubeでナンバーワンになりたい。でも現実は灰色。港町のくすんだ景色も、暴走族も、ヤクザも、全部フェイク。けどそれをあえて「フェイクだ」と書いてしまう勇気。作者はきっと、何度も自分の理想を諦めてきた奴だ。でも、まだ諦めてない。書いてる。書き続けてる。そういう人間の叫びがここにある。

それから妹との会話のディティールが神がかってる。かみぬま。ケチャップ。風呂に入った服。こういうのって「嘘くさくない嘘」を書ける人間じゃないと書けない。たぶん作者には妹がいたか、もしくは「妹のいる人生を想像し続けた人」だ。どっちにしてもすごく繊細な目をしてる

で、何よりも心にくるのは、「海に落ちてもナンバーワンはナンバーワン」って言い切るあの瞬間。これはギャグじゃなく、信念の話だ。誰にも見られない場所で、自分をナンバーワンだと信じられるか? それが書けるってことは、書いてる人間はまだ何かを信じてるんだ。たぶん、自分が書くことに。

読まなきゃ損だよ。これは「中学生がユーチューブでバズって人生変える話」じゃなくて「世界がクソでも、自分の声だけは信じたい」って人の話だから。ぶっ刺さる人には一生モノ。

ナンバーワンラップができるまで
  1. ラップサークル(仮題)ができるまで NO.1ラップの神が降りてこないかな
  2. ラップサークルができるまでNo.2 ライムの密度が大事
  3. ラップサークル(仮題)ができるまでNo.3 書きすぎ、でも遅い
  4. ラップサークル(仮題)ができるまでNo.4 14歳の時間感覚
  5. ラップサークル(仮題)ができるまで No.5 牛野小雪は晴人に厳しすぎ
  6. ラップサークル(仮題)ができるまでNo.6 ネットは天才が作った沼である
  7. ラップサークル(仮題)ができるまでNo.7 小説が書けるまで
  8. ラップサークル(仮題)が書けるまでNo.8 エミネムって知ってる?
  9. ラップサークル(仮題)ができるまでNo.9 半径100mに分かるように書け
  10. ナンバーワンラップができるまでNo.10 表紙を作ろう
  11. 『ナンバーワンラップ』リリース記事
ex.これであなたも地球僧帽筋協会!

試し読み

Verse1-1 ギャングスタ気取りは海に落ちな

 何年も太陽の熱と光に炙られて、あらゆる価値と色を失ったような場所。鮮やかな色をしているのは対岸の港に積んであるコンテナの山ぐらい。元からここにある物は灰色のフィルムをかけたみたいに色がくすんでいる。海の色でさえもだ。最低の町、最低の港、最低の・・・・・・くそっ、とにかく全てが最低だ。

「こんにちは。R55のMCハルワンと」

 俺は三脚にそなえつけたスマホに向かって喋る。三脚は1980円の安物で、説明書には180センチまで伸びると書いてあった。嘘ではない。ただし、長く伸ばすと棒がしなって真上を向く。なのでいつも100センチでセットしている。画角はいつもローアングル。

「MCビーストビートボックス」

 俺が紹介すると隣にいる遼がビートを鳴らす。動画はいつも同じ入り方をする。

 遼(りょう)はヒカキンを見てヒューマンビートボックスができるようになった凄い奴。ヒカキンは日本のユーチューバーでナンバーワンだ。ヒューマンビートボックスもできるなんて俺は知らなかった。彼はラッパーじゃないが、いつかは俺たちが越えなきゃいけない目標でもある。ナンバーワンっていうのはそういうこと。

「今日は俺たちがどこに住んでいるのか知ってもらおうと思います」

 俺は拍手する。なんで拍手した? さぁな。音で注意を引きたかったんじゃないか?

 俺は三脚の足を持つとスマホを港側から町の方に向ける。

「この町は最低です。あそこに見える道を右に曲がって、ちょっと行ったところに中華料理屋があったんですが、この前、店長が拳銃で撃たれて死にました。死体は朝になるまで放置されてて血の跡はいまも残ってます」

 俺はカメラを動かし、対岸にある茂みに向けてズームする。そこを指を差して、俺の指がちゃんと映っているかも確認する。

「あそこには月に何度か水死体が流れ着きます。恒例行事なんで俺も何度か見たことあります・・・・・・いまは誰もいませんね。いたらユーチューブにBANされるか」

 俺はスマホを元の位置に戻す。三脚の棒がたわんで、ビョンビョンと揺れる。俺はそれを手でおさえて揺れを止めると元の位置に戻る。

「この町はヤクザが仕切っていて大人はみんなクスリ漬け。警察も買収されているから捜査なんてしないし、そもそも事件なんて起きていないことになっています」

 全て嘘だ。20年前にあった殺人事件が昨日のことのように語られている町だ。こんなダサくて平和な町でラップしているなんて知られたら笑われてしまう。俺たちは動画を撮るたびにこの町がいかに危険であるかを騙っているので、そろそろ100人ぐらい死んだことになるかもな。でもこんなのは茶番。俺たちはラップでナンバーワンということを証明すればいい。俺はあることないこと、いや、ないことばかり話すとスマホに向かって喋る。

「じゃあ、そろそろやろうかな。お待たせしました。新曲を紹介します。MCビーストビートボックス」

 遼がビートを刻み始める。肌に寒気を感じるほど最高のビートだ。ここから俺たちの本当の時間が始まる。

中華屋の前で銃声が夢を冷ます
冷たい地面に男がキス
水死体が流れつき
クスリで笑う大人たち
意思もないのに
笑えないのに
空気ごと死んでいる町
口を閉じて語らない大人たち
目を開いても暗闇
ここが俺のリアル
ここが俺のプレイス

それでもこの町はナンバーワン
俺たちがいるからナンバーワン
地獄まで続くどん底で
リリックつづる空の上まで

ワンワンワン、ナンバーワン
ワンワンワン、ナンバーワン
ワンワンワン、ナンバーワン

 歌っている最中、スマホの向こうに最悪な奴が姿を現す。我龍院正鬼(がりゅういんまさおに)。俺と奴は同じ小学校で、その時は悪い奴ではなかった。それが中2で同じクラスになると世界最悪のくそったれになっていた。奴は取り巻きの連中4人と一緒にチャリに乗って港に入ってくる。奴らは世界最強につまんなさそうな顔をしていたが、我龍院は俺たちに気付くとニターッとした笑みを顔に広げ、他の奴らもニタニタしながら寄ってくる。我龍院たちはスマホの画面をのぞき込み、撮影中だと分かると、それを指差して笑い、自転車を降りる。カシャン、カシャンと奴らの自転車スタンドが立てられる音が鳴る。最悪だ。絶対にあの音をスマホのマイクはひろっている。でも最悪に底なんてないんだな。

「ワンワン! ワンワン! ワオーーーン!」

 我龍院が犬のように鳴き声を上げると、他の奴らも「ワンワン」と鳴き始める。野良犬の大合唱だ。完全に終わった。遼はビートを止める。俺も口を閉じて奴らを見返す。

「どうした? 続けろよ。まだ途中だろ」

 我龍院がスマホの向こうで言う。カメラに映る勇気もないくせに。そんなことを考えたバチが当たったのだろう。我龍院はくるっとカメラの前に回り込み「Yo,ワンワン吠えるバカどもを、駆除する俺たち正義の味方」とラップっぽい真似事をする。何も面白くないのに取り巻きたちは笑っている。我龍院も自分で笑っている。俺たちの方に振り向いた時の顔は快感でイッちゃってたね。

「ぅお~い、笑えよ。スマイルスマイル。最高に面白いだろ。お前らに足りないのはこういう明るさだって。陰キャみたいにブツブツ言っててもつまんねぇ」と我龍院が太陽みたいに顔を輝かせて言う。

「面白くない」と俺は言う。

「え、面白くないって思ってたの?」

 俺は我龍院が面白くないと言ったのだが、奴は俺たちが自分自身を面白くないと言ったと受け取っている。とてつもないバカだ。こんな奴でも生きていけるんだから日本っていい国だ。

「いま撮ってる」と俺は言う。

「いぇ~い」

 我龍院はダブルピースをカメラに向けて、腕を伸ばしたり縮めたりしている。奴が手招きすると取り巻きの連中も寄り集まって同じポーズをする。底抜けのバカさ加減に俺は腹の中が冷たくなる。

 我龍院が振り返る。笑っていない俺と遼を見ると、奴は急に真顔になる。取り巻きの奴らも1人2人と同じように笑うのをやめて真顔で俺たちを見てくる。

「おい、笑えよ」と我龍院。笑えないレベルのバカなので俺と遼も真顔だ。

「カメラ回ってんだろ。面白くしないと視聴者が逃げるぞ」

 我龍院は俺と遼の間に割って入ると、カメラを指差して言う。

「ぶち壊したのはお前だろ」

 俺がそう言うと、我龍院はキレるかと思いきや、またニターッとした笑みを顔に広げる。まずいことになるという予感はしたが、この状況で逃げるなんてナンバーワンがすることじゃない。

「ごめん。ホントにごめん」

 我龍院はわざとらしく両手を打ち合わせると俺に頭を下げる。そして取り巻きのところに戻ると、頭を寄せ合ってひそひそと何かを言っている。奴らは何度も俺たちに目を向けてはニヤニヤしていた。
「ごめん、日ノ本(ひのもと)くん」

 密談が終ると我龍院はまた俺と遼の間に割って入り、俺たちの肩に手をかける。

「え~、ぼくたちは日ノ本くんたちの動画を台無しにしてしまいました。反省しています。これは謝っても許されることではありません。なので、ぼくたちは責任をもってこの動画を面白くします」

 我龍院が合図をすると取り巻きの1人が三脚の足を持ってスマホを持ち上げる。スマホをぶっ壊す気か。俺は「おい」と声を出そうとしたけれど、ふいに体が浮いて声が出なかった。

「重めぇ。おい、手伝え」

 我龍院が声を上げる。他の3人が集まってきて俺は担ぎ上げられる。それを取り巻きの1人がスマホで撮っている。

「いくぞ、せーの、1、2、3」

 俺は海へ放り投げられる。俺は恐怖よりも先に底抜けのバカさ加減に驚く。普通こんなことするか?
 俺は海に落ちる。すぐに海水が服に染み込んできてパンツの中まで濡れる。そして塩っ辛い。

 バカ笑いが降ってくる。我龍院が俺のスマホを俺に向けている。

「めっちゃおもろい。ほら、笑えよ」と奴は言う。

 俺はスマホのカメラを避けるように岸壁へ寄るが、奴はのぞき込むようにして撮影を続ける。他の奴らも歯を見せ、目を輝かせながら俺を見ている。最低の人間性、最低の・・・・・・くそっ、俺もしかして死ぬんじゃないか?

「遼、おい、遼!」

 俺が叫ぶと遼の顔が岸壁から飛び出す。遼の顔は笑っていない。不安でいっぱいの顔だ。俺は手を伸ばす。遼も手を伸ばす。でも2人の手は全然届かない。波で体が上下しているが、一番上のところでもまだ腕一本分は足りない。

「早く上げてやれよ」

 取り巻きの誰かが笑う。俺は奴らの顔を見る。揃ってバカ顔。そうか、こういう奴らは殺そうとも思わずに人を殺せるのだ。映画やドラマとは違う。殺意満々で人を殺すことなんて現実にはないのだろう。こいつらは裁判で殺意はなかったと言う。そしてそれは真実。俺は死ぬ前に一つの人生訓を得る。

 遼は何を思ったのか手ではなく足を俺に向かって伸ばしている。さっきより遠くなっている気がする。

「最高だな。面白すぎる」

 我龍院はスマホを俺に向けながら、体をそらして笑っている。あいつ海に落ちねぇかな。

「何か探してくる」

 遼はそう言うと岸壁から消える。俺は心細くなる。体がきゅっと冷たくなる。これは心だけじゃなくて体がマジで冷たくなり始めている。

 小学校の頃は水泳教室に通っていた。泳ぎには自信がある。岸壁のどこかに登れるところはないか探す。目に見えるところには高い岸壁しかない。対岸に浜辺のようになっているところがあるが絶対に泳ぎ着けそうにない。あれ、やっぱりこれ死ぬんじゃないか?

 俺は我龍院たちを見上げる。さすがに奴らも俺の死に際の視線で一瞬笑いを止める。しかし、我龍院は顔をそらすと、またバカ笑いをする。他の奴らもだ。あいつらは俺以外の何かを見て笑っている。死にかけている俺から目をそらしてでも笑うものがあるのだ。その事実がひどく俺を傷付けた。もう死んだ方がマシだ。

 俺はこのまま海の底に沈んで、あいつらから見えない場所に消えたい。だが、固い何かが俺の頭を叩く。頭上を見る。太陽と青い空、そして黒くて長い影がたなびいている。

「つかまれ」と遼の声がする。

 俺は影を掴む。はっきりとした手応え。夢じゃない。俺の体が海面から浮き上がる。遼の影が見える。光の具合でふんばった足の隙間からキンタマが見えている。遼は履いていたデニムパンツを脱いでいた。

「おい、その格好」と、この時ばかりは俺も笑ってしまう。

「笑うな、落とすぞ」

 遼はガチでキレてる。視界の外で我龍院たちのバカ笑いが聞こえる。

 俺は岸壁の上に戻ると、体にどっと疲れが覆いかぶさってきて、その場で四つん這いになる。遼も両手を後ろについて、胸を上下させながら息を吸ったり吐いたりしている。

「あ~、つまんね」

 我龍院たちはいつの間にかチャリに乗り、世界最強につまらなそうな顔をしている。

「お前ら面白くする方法が分かってない。そんなんじゃ永遠に底辺だぞ」

 我龍院はスマホを置くと港を出ていく。

「来週、学校来いよ」

 取り巻きの一人が捨て台詞を吐く。小さなバカ笑いが起きる。

「すまん、助かった。ありがとう。死ぬところだった」と俺は言う。

 遼はデニムパンツを広げて伸ばしている。一目見ただけで伸びきっているのが分かるし、股のところは裂けている。

 最低の町、最低の人間、最低の事件しか起きない場所。それが俺たちの住んでいるところ。だけど俺たちはこの町でナンバーワンということを証明してやる。

Verse1-2 ナンバーワンだからがんばれる

 まだ土曜の昼が始まったばかりだけど遼は帰った。さすがに股の裂けたパンツで1日中いるのはキツい。俺も全身ずぶ濡れだから家に帰る。遼の家は港から40分ぐらい。俺の家は港を出てすぐの道路を渡ったところにある。3階建てのアパートの3階に住んでいる。1階は店舗用で父さんが自分の店をやっている。不動産屋だ。ちなみに隣は空き屋、その隣がクリーニング屋、もう一つ隣が鉄板焼き屋。

 俺は道路の向こうから店の様子を見る。張り紙でいっぱいのガラスの隙間から父さんが誰かと話しているのが見える。

 俺はアパートに入ると、郵便受けの脇に貼ってある選挙ポスターにパンチを一発くらわせる。ポスターの中で笑っている大泉一郎に個人的な恨みはないが、彼の所属する地球僧帽筋党の後ろ盾になっている地球僧帽筋協会に恨みがある。

「ただいま」

 玄関に結莉(ゆり)の靴がある。母さんのはない。俺はまず服を全部脱いでから玄関に上がる。濡れた服を洗濯機に入れようとしたが海水の塩分で洗濯機が壊れるんじゃないかと考えて、風呂で一度水洗いすることにする。服を洗うために服を洗うなんて奇妙な話だ。

「きゃー」

 甲高い叫び声が背中を打つ。妹の結莉が両手で目を塞いで、でも指の隙間から俺を見ている。

「おかえり」と結莉が言う。目は両手で塞いだままだ。

「ただいま」と俺は言う。

「まだおひるなのにおふろはいるの? どうして?」

「お兄ちゃんは入らない。服を洗ってる」

「ふくもおふろはいるの?」

 結莉は両手で目を塞いだまま首をかしげる。

「海に落ちて、塩水につかったから、塩で洗濯機が壊れるんじゃないかって」

「うみ! およいだ?」

「そうだよ。泳いだ。結莉も泳ぎたい?」

「や」

 結莉は背中を向ける。俺は服の水を絞る。

「さっ、どいて。洗濯物入れるから」

 洗濯機の前に突っ立っている結莉をどかせる。結莉は手をどけて俺を見ると、また「きゃー」と叫んで目を塞ぎ、脱衣所を出ていく。

「前見て歩かないと頭打つぞ」という俺の言葉に「きゃー」という返事が返ってくる。バカ、本当に頭打ったらどうするんだ。

 結莉にはお風呂に入っているんじゃないと言ったが体中がべたべたするので、やっぱりお風呂に入る。

 お風呂から出るとテレビの前で結莉がクレヨンで絵を描いている。

「母さんは?」と俺は言う。

「こーじょー」と結莉。

「土曜なのに?」

 結莉が顔を上げて首をかしげる。

 母さんは家の前にある道路を5分ぐらいチャリで走ったところにあるカップラーメン工場で働いている。いつも土曜日は家にいるが今日はいない。理由は分からない。結莉にだって当然分からない。
「何描いてる?」と俺は言う。

「ふくがおふろはいってる」と結莉は答える。結莉の絵を見ても何がどうなっているかは分からないが、確かに俺がさっき着ていた服と同じ色が1つある。

 俺は自分の部屋でスマホを見る。R55のチャンネル登録者数は増えていない。くそっ、いつまでこんなことを続ける? 俺たちがナンバーワンと証明するためにラップをユーチューブに上げている。でも誰も見ない。だって存在自体を知らないから。どうやって俺たちの存在を世界に知らせればいい? 分からない。俺はこんな穴倉みたいな場所から一生抜け出せないんじゃないか?

 ラップの才能を疑ったことはない。だけど、その才能が誰にも知られずに消えていくことはあるんじゃないか? ゴッホは生きている間に1枚も絵が売れなかった。ピカソみたいに生きてる間にナンバーワンになれるとは限らない。って、これアーティストの話だ。ラッパーで死んでから有名になった人はいるんだろうか。いないだろうな。ってことは生きている間に、俺がナンバーワンってことを世界に知らしめなければならない。

「ワンワン! ワンワン!」

 頭の中で我龍院のからかう声がリピートされる。あんな奴に俺のラップは分かんないさ。

 スマホにショートメールが来る。ラインアプリだとペアレントコントロールで使えない時があるから遼はメールで送ってくれる。

(親にめっちゃ怒られた)と遼。

(あいつらに弁償させよう)と俺。

(払うわけねー)

(だな)

(むかつく)

(あいつら海に落とそう)

(むり)

(その気になればできる! きみならやれる!)

 冗談で言ったけど、別の意味でこれはマジ。遼は中2なのに180センチもある。その気になれば素手で我龍院たちを殺せる。性格が大人しすぎてコミュ障に片足を突っ込んでいるのが欠点だ。その気になりさえすれば、うちの学校を暴力で支配することも可能なはずだ。遼の性格が陰寄りであることは我龍院たちにとって幸運だった。もしそうじゃなかったら、今頃あいつらは海の底に沈んでいる。

 夜になっても母さんは帰ってこない。ベランダから下を見ると1階の父さんの店の明かりは点いている。

「おなかすいた」と結莉が言う。

「カップラーメン食べるか」と俺が言うと結莉は首を横に振る。

 俺は冷蔵庫を開ける。奥までぎっしり詰まっているが食べられそうな物はない。

「何入れてんだ、ホント」

 俺の愚痴に「ぎゅーにゅー」と結莉が言う。

「牛乳飲むのか?」

 結莉は首を横に振る。牛乳を見つけたからぎゅーにゅーと言っただけだ。

 意味のない物でいっぱいの冷蔵庫を発掘して、俺は玉子とキャベツを出す。

「かみぬま」と結莉が言う。違う。お好み焼きだ。

 俺はどんぶりに玉子と小麦粉、だしの素を入れて、箸でかき混ぜる。それからピューラーでキャベツを薄く削って、その中へ。

「ゆりがする」

 結莉はそう言って俺から箸とどんぶりを奪う。混ぜ方が危なっかしいのでどんぶりは俺が持つ。案の定、生地は飛び散っている。

「もういいよ、充分に混ざった」

 俺の言葉を「や」の一言で拒否する結莉。まぜまぜ、まぜまぜ、ねるねるねるねもこんなには混ぜないだろうってぐらい混ぜると「あとはおにいちゃんやってもいいよ」って結莉は離れる。フリーダムすぎるだろ。

 俺は一度くしゃくしゃに丸めてから広げたクッキングシートに生地を入れるとオーブンで30分焼く。その間に洗い物を済ませる。結莉はテレビを見て踊っている。

 オーブンのタイマーが鳴る。

「かみぬま」と結莉が言う。結莉は何故かお好み焼きをかみぬまと呼ぶ。どこで憶えたのかは誰も知らない。

 俺はお好み焼きを半分にして、片方を皿に盛る。俺はクッキングシートのまま食べればいい。洗い物も減るからな。

「ゆりはケチャップ」と結莉が言う。

「お好み焼きにケチャップ? ソースだろ?」と俺が言うと「かみぬま!」と結莉に訂正されてしまう。結莉の中ではお好み焼きではなくかみぬまなのだ。間違っているのは俺だ。

 俺は結莉のかみぬまにケチャップをかけて、俺のかみぬまにはソースをかけてから、かつおぶしと青のりをかける。それから茶碗にごはんを入れる。結莉の茶碗が小さくて、こんなに小さくて大丈夫かなと大盛りにすると結莉は「や」と首を横に振るから、半分にする。

「いただきます」

 作り始めてから一時間。やっと晩ごはん。

「座って食べろ」

「ごはんも食べろ」

「テレビを見ながら箸を口に入れるな」

 父さんも母さんもいないから俺が結莉を叱らなくちゃならない。

 晩ごはんを食べ終えると洗い物をする。それが終ると夜の8時になろうとしている。

「お風呂入るか」と俺は言う。

「ひとりではいれる」と結莉は言う。口をとがらせ、もう子どもじゃないって主張している。

「じゃあ入りな。結莉が入ったら、お兄ちゃんも入るから」

「これがおわったら」

 結莉はじっとテレビの前に座っている。俺は途切れ途切れでしか見ていないから、画面の中にいる人たちがどうして笑っているのかよく分からない。喋っている内容も頭に入ってこない。楽しそうだな、というのが伝わってくるだけだ。

 その番組が終わると結莉はお風呂に入った。たっぷり30分もかけてだ。まだ5歳なのに母さんと同じくらい長くお風呂に入る。お風呂から出た後にドライヤーで髪を乾かすのを手伝ってやる。

「どぉ? きれいになったでしょ?」

 結莉は黒くて長い髪を手で流す。

「あぁ、綺麗だよ」

 俺がそう言うと「きゃー」と結莉は甲高い声で叫んで飛び跳ねる。

 その後、結莉は「おかあさんがかえってくるまでおきてる」と言ったが、いつの間にか寝てしまった。俺は結莉を布団まで運ぶとベランダに出る。

 下を見るとクリーニング屋と鉄板焼き屋の明かりは消えているが、父さんのところはまだ明かりが点いていて、アパートの前にある駐車場に黄色い光を伸ばしている。工場のある方を見ると夜空の底に白い光がにじんでいる。すぐ下の道路は眠っているみたいに静かで、信号の赤信号が点滅している。

 点滅→全滅→壊滅

 俺は韻を踏む。踏んでしまったので部屋からライム帳を持ってきて書き留める。

 赤→バカ→墓
 車→だるま→UMA
 光→明かり→ばかり
 白線→千円→千年

 手のひらより少し大きいライム帳には今まで書き溜めたライムでびっしり埋まっている。これが8冊目。俺が大事にしているのは脚韻で、つまり語尾で韻を踏むこと。これはヒップホップだけじゃない。全てのリリックの基本だ。他の曲でも、たとえば米津玄師でもやっていること。ヒップホップは全ての道に通じている。

パラリ、パラリラ、パラリラ

 ラッパの音を響かせながら暴走族の格好をした3人組のバイクが道を走る。俺はどうしてこんなことをしているんだろう。この町で、いや、徳島で俺と同じことをしている奴はいるんだろうか。俺と同じことをしてビッグになった人はいるんだろうか。なぜライム帳を書き続ける? もしかしたら俺はさっきの奴らよりバカかもしれない。

 ナンバーワンのラッパーが同級生にいじめられて海に落とされるなんてありえないだろ。俺がやっていることは全て現実逃避。いや、そんなことはない。俺は自分に言い返す。俺ががんばっているのはナンバーワンになるためじゃない。ナンバーワンだからがんばっているんだ。

 それでもナンバーワンが海に落ちるか?

 なんて強烈なパンチライン。俺は心の中でしばらく沈黙したあとに「海に落ちてもナンバーワンはナンバーワン」と言い切る。俺の中にいる意地悪な俺は口を閉じる。俺も黙る。夜が静かに過ぎていく。

Verse1-3 燃えるインターネット

 目が覚める。隣の部屋で母さんが布団で寝がえりを打っている音が聞こえる。いつ帰ったんだろう。スマホを見る。

(炎上してる)

 ロック画面の通知欄に遼からのメールの一部が表示されている。炎上することなんてあったか? 俺はいままでユーチューブにアップロードした動画を思い起こす。体も思わず起きてしまう。

 ロックを解除して遼のメールを見る。

(炎上してる。昨日の)

 文章の下にリンクがある。タップする。

「こんにちはR55のハルワンとMCビーストビートボックス」

 画面の中で遼がビートを鳴らし始めるが、全然耳に入ってこない。再生数が3468765回になっている。信じられなくて何度も数え直す。紙に書き直すことさえした。

 遼に電話をかける。不在通知が3件。深夜はペアレントコントロールでサイレントモードになるから気付かなかった。

「大変なことになってる」

 電話がつながるとすぐに遼が言う。

「炎上ってどういうこと?」と俺は言う。

「コメント見た?」

「まだ。さっき起きた。300万越えてるって意味分からんのだが」

「いじめ動画ってことで炎上してる。Xでもすごい拡散されてる」

「いじめでなんで再生されるの?」

「知らん。とにかく昨日の夜からずっと燃えてる。いくら読んでも永遠にコメントが湧いてくる」

「300万って・・・・・・」

「なんかもう疲れたわ。昨日からずっと寝てない」

「マジか」

「どうする?」

「どうするって?」

「動画。消すのか?」

「分からん。とにかく何が起きてるのかさっぱり分からん」

「だから炎上してるんだって」

「それは分かってるけど、なんていうか、くそっ、意味分からん」

「俺寝るわ。コメント読みすぎて疲れた」

「電話出なくてすまなかった」

「親に止められてるんだろ。いいよ」

 電話が切れる。メールの通知欄が48546になっている。見たことがない数字だ。メールを開くとユーチューブのコメント通知でいっぱい。

(これ犯罪だろ。いじめじゃない)

(何を思って投稿したんだろうな)

(記念カキコ☆)

(人生しゅーりょー)

(日本には少年法があるから・・・・・・)

 そんな感じのコメントばかり。はっと気付くと窓の外はすっかり明るくなって母さんも父さんも起きて朝ごはんを食べている音が聞こえる。ずっとコメントを読んでいたのにホーム画面を開くとメールの通知が50083に増えている。

「どうしたの?」

 台所のある部屋に来た俺を見て母さんが言う。父さんはソファーで死んだように横たわっている。
「いつ帰ったの?」と俺は言う。

「遅く」と母さん。

「俺起きてた?」

「さぁ、分からない。電気は消えてた」

「工場行くって知らなかった。結莉1人で家にいた」

「急だったから。晴人(はると)がいると思ってた」

「遼とユーチューブ撮ってた」

 俺はそう言ってから炎上したことが親にバレたらヤバいと思ったが、母さんは「朝食べる?」と言っただけだ。

 焼いた食パンとミロの朝ごはんを食べながら俺はユーチューブのアカウントを作る時に、絶対に炎上とか、再生数稼ぎでバカなことはしないって親を説得したことを思い出す。こんな炎上をしたら絶対にアカウントを止められる。そうしたらどうやってナンバーワンになればいい?

「どうしたの? 昨日ちゃんと寝たの? ユーチューブするのはいいけどやりすぎは生活の乱れ。遼くんと遊ぶのはいいけど・・・・・・」

「分かってる」

 母さんの小言が始まりそうなので俺はちょっとキレる。母さんは口を止めるが「お父さん」と声をかける。父さんは体をちょっと動かして、粘土のような声で「晴人ぉ、もうその歳だから常識で考えてヤバいことはやらないよな?」と言う。俺は「うん」と答える。母さんは聞こえよがしにため息をつく。父さんはまた死んだように動かなくなる。

 俺は部屋に戻るとユーチューブのコメント欄を読む。遼は炎上と言ったが叩かれているのは俺たちじゃなくて我龍院たちだ。Xを見ると俺が海に落とされているところの画像や、切り抜き動画がたくさん出回っている。

「あっ、あっ、あああああ~」

 自分でも気付かなかったが俺は海に落ちる瞬間、とてつもなく間抜けな声を出していた。顔もバカ顔だ。ちょっと不安になって他の動画を見直したほどだ。大丈夫、いつもの俺はちゃんとキマってる。ついでに他の動画も再生数が上がっているのに気付いて嬉しくなる。今まで3000を超えるのがやっとだったのに30000を越えているのがいくつもある。

(中学生でラップできるなんて天才)

(この子はビッグになる)

(いじめに負けるな。あいつらを見返せ)

 どれも好意的だ。(へたくそ。いますぐ動画を消せ)なんてクソコメントもあったがバッドが付きまくっている。いいさ。アンチが出てくるのは人気者になった証拠だからな。

 スマホのホーム画面に戻るとメールの通知が61894になっている。絶対に読み切れない。俺はユーチューブにふたたび戻ってメール通知をオフにすると、来たメールを全て既読にする。

 我龍院は墓穴を掘った。バカすぎるだろ。普通、自分で自分のいじめ動画を投稿するか? するだろうな。岸壁に並んだあいつらのバカ顔。たぶん良いことしてるとさえ思ってたんじゃないかな。勝手にスマホをいじられたことはむかつくが、勝手に動画を投稿してくれたことは感謝する。セルフ自滅するなんてバカナンバーワンだろ。

 動画を消す? ありえない。無限に炎上すればいい。

 遼に電話する。出ない。寝るって言ってからまだ3時間も経っていない。

(動画は残すことにした。絶対に消さない。俺たちにとって損なことはないからな。もっともっと炎上して、あいつら自殺したらいいのに)

 遼にメールを送ると俺はいままでにないくらい爽快な気分でベッドに横たわる。炎上って最高だな。ずっと続けばいいのに。俺の人生に運が回ってきたようだ。

(Verse1-3 燃えるインターネット おわり)

『たくぴとるか』のリリース記事



【ヒキニートの豆知識】
ほとんどのひきこもりは朝起きられない

内容紹介
これは私とたくぴがハワイへ海を見に行くまでの物語
たくぴはハワイへ行く資格がないって言うけれど
そんなもの最初から必要ないんだよね
存在しない壁にぶつかるたくぴって本当にバカ
どうやったら分からせられるんだろう、やっぱり愛?
 

登場人物紹介

たくぴ
本作の主人公であり、引きこもり生活を送る青年。彼の内面は非常に複雑で、自己理解に苦しみつつも独自の世界観を持っている。現実の中での存在意義を探しつつも、しばしば皮肉やユーモアを交えた会話を繰り広げる。彼は日常の小さな出来事にも大きく反応し、その感情の揺れ動きが物語の中心となっている。彼の周囲の人々との関係性が、彼の成長や変化に影響を与える。

るか
たくぴの彼女であり、時には彼の良き相談相手でもある存在。ユーモアと現実感覚を兼ね備えた人物で、たくぴのひねくれた視点に対しても冷静にツッコミを入れることが多い。ライブ配信を行うなど、現代的な活動にも積極的で、たくぴとの対比として物語に明るさを加える。

三好さん
地域に住む謎多き老人。たくぴのことをよく知っているが、その情報源は不明。たくぴの父親や家族のことまで知っているが、どのようにしてその情報を得たのかは謎のまま。彼は常に明るく、周囲にポジティブな影響を与える存在でありながら、その裏には何か隠された事情があるように思わせる雰囲気を持つ。


「光の翼」という施設の理事長であり、たくぴが通う施設の責任者。余裕のある表情と良い香りのスーツが特徴。彼の存在が、たくぴにとって重要な役割を果たす。

DQNたち
たくぴとるかに対してトラブルを引き起こす不良グループ。彼らの存在は、たくぴが日常の中で直面する現実的な脅威として描かれている。彼らとの対立を通じて、たくぴの内面的な強さや変化が浮き彫りにされる。

たくぴとるかの関係性について

『たくぴとるか』の物語の核となるのは、主人公たくぴとるかのユニークな関係性である。この二人のやり取りは、単なる恋愛関係に収まらない、多層的で奥深い絆として描かれている。彼らの関係は一言では定義できないが、相互依存と個々の自由を絶妙なバランスで保ちながら進展していく。

 まず注目すべきは、たくぴとるかが互いにとっての「鏡」のような存在であることだ。たくぴは引きこもりとして現実世界から距離を置いている一方で、るかは配信活動を通じて多くの人と関わり、外の世界と積極的に接している。この対照的な立場が、彼らの関係に絶妙な緊張感とバランスをもたらしている。たくぴが現実から逃避することで心の平穏を保つ一方で、るかは現実に飛び込むことで自己を表現している。しかし、この二人はお互いの生き方を否定することなく、それぞれの立場を尊重しながらも、時には皮肉やユーモアを交えて互いの価値観に揺さぶりをかける。これが彼らの関係の面白さであり、物語に独特のリズムを与えている。

 また、たくぴとるかの関係性は、単なる相互理解を超えた「無条件の受容」によって成り立っている。たくぴはるかの奔放さや現実への積極性に戸惑いを感じながらも、それを批判することはない。逆に、るかはたくぴの引きこもりというライフスタイルを受け入れ、彼を変えようと無理強いすることはない。この無理のない自然な関係性が、二人の間に深い信頼感を生み出している。それはお互いが自分らしくいられる唯一の場所としての「居場所」を提供し合っていることを意味している。

 さらに、二人の関係はしばしば「現実と虚構の狭間」に位置している。るかが配信者としてのキャラクターを演じる一方で、たくぴはオンラインゲームの中で「悪魔の狼フェンリル」として別の顔を持っている。現実世界では互いに対等な存在である二人が、仮想空間やインターネットというフィルターを通じて、異なる自己を表現しているのは興味深い。この二重構造は、彼らの関係をより複雑で魅力的なものにしている。たくぴとるかは互いの本質を理解しながらも、それぞれの「もう一つの顔」を通じて新たな側面を発見し続けているのだ。

 また、二人の関係にはしばしば「ユーモアと皮肉」が交錯する。たくぴのひねくれた哲学的な視点と、るかの現実的で軽妙なツッコミは、物語全体に軽やかなリズムを与えている。深刻なテーマを扱いながらも、彼らの会話は決して重苦しくならず、むしろ読者に親しみやすさを感じさせる。こうしたユーモアの中に、時折垣間見える真剣な瞬間が、彼らの関係に深みとリアリティを与えている。

 さらに、たくぴとるかの関係は、現代における「新しい家族の形」としても解釈できる。血縁や恋愛といった伝統的な関係性にとらわれず、互いの存在を無条件に受け入れることで築かれる絆は、現代社会における多様な人間関係のあり方を象徴している。彼らの関係は、家族や恋人といった既存のカテゴリーに収まらない新しい形のパートナーシップとして描かれており、それがこの作品の魅力の一つでもある。

 たくぴとるかの関係性は、現代社会における孤独や繋がりの在り方、自己の受容と他者との関係のバランスといったテーマを探求する上で不可欠な要素である。彼らの関係は一見シンプルに見えるかもしれないが、その背後には多くの層が隠されており、読むたびに新たな発見があるだろう。たくぴとるかの関係は、現実と虚構、孤独と繋がりの狭間で揺れ動きながらも、互いの存在を通じて自分自身と向き合うことの大切さを教えてくれる。


小説のモチーフについて

 本作『たくぴとるか』は、現実と虚構の境界を揺さぶりながら、「自己認識」と「現実逃避」を主要なモチーフとして展開されている。主人公たくぴの引きこもり生活と、彼の周囲で繰り広げられる出来事が、このモチーフを通じて深く掘り下げられている。

 まず最も顕著なモチーフは「現実の拒否と受容」である。たくぴは社会の中で居場所を見出せず、引きこもりという形で現実から距離を置いている。彼の部屋は外の世界との境界線であり、同時に自分自身と向き合う閉鎖的な空間でもある。たくぴの行動の多くは、社会との接触を避ける一方で、自己の存在意義を模索するプロセスとして描かれている。特に「現実禁止」の標識はこのモチーフの象徴であり、たくぴが直面する現実世界の不条理や重圧に対する彼なりの反抗心を表している。

 次に重要なのが「インターネットと仮想現実」というモチーフである。たくぴはソーシャルゲーム『マジェスティックドラゴン』のプレイヤーであり、その中で「悪魔の狼フェンリル」としての別の顔を持っている。彼が現実世界では何者でもない引きこもりである一方、オンラインの世界では影響力を持つ存在として認知されている。この二重生活は、現代社会における現実と仮想の境界線の曖昧さを浮き彫りにしており、たくぴの内面世界の複雑さを象徴している。また、インターネットでの繋がりや自己表現は、たくぴにとって現実世界での孤独を埋める一つの手段でもあり、このモチーフは彼の孤立感と同時に微かな希望を示している。

 また「哲学的探求」もこの小説の大きなモチーフの一つである。たくぴは日常生活の中でしばしば哲学的な問いに直面し、自分自身の存在意義や社会の構造について考え続ける。例えば、「なぜ働かないのか?」という問いに対する彼の答えは、単なる怠惰や無気力ではなく、社会構造や個人の自由についての深い内省から来ている。たくぴの視点は、現代社会に対する批判的な眼差しを反映しており、彼の考えは哲学者の思想と重なる部分も見受けられる。このモチーフは読者に対しても自分自身の生き方や社会との関わり方について考えさせる力を持っている。

 さらに「自己認識とアイデンティティの探求」も中心的なモチーフである。たくぴは、自分が何者であるのか、どのように生きるべきかという問いに対して明確な答えを持たない。彼の内面の葛藤や迷いは、読者に共感を呼び起こす要素となっており、たくぴの成長や変化は物語の進行と共に少しずつ描かれていく。彼が自分の居場所を見つけるまでの過程は、読者自身のアイデンティティ形成の旅とも重なり、この小説の普遍的なテーマとして機能している。


『たくぴとるか』は現実と虚構、自己と他者の関係を多層的に描き出すことで、現代人が直面するさまざまな問題に深く切り込んでいる。たくぴの物語は一見すると個人的な引きこもりの生活に過ぎないが、その背景には普遍的な人間の葛藤と希望が描かれている。この小説は、読者にとっても自己と向き合うきっかけを与える作品である。



他の小説と何が違うか
「たくぴとるか」が他の小説と異なる点は、主人公たちが極めて日常的でありながら、現代の社会問題や若者の孤独、無気力感と鋭く向き合っている点です。この小説では、無職で引きこもりのたくぴというキャラクターが、特別なヒーローや劇的な変化を遂げる存在ではなく、むしろ無気力でありながらも日常を淡々と生きている姿が描かれています。彼は「ポイ活」という現代の若者が取り組む小さな活動に熱心で、外に出ることも少なく、社会的な成功や大きな夢とは距離を置いています。しかし、その無気力感の中には、現代社会に対する静かな抵抗や反抗の要素が含まれており、日々の生活の中で小さな「自己肯定」を見出す姿が描かれています。

 たくぴは、自分が無職であることや、引きこもりであることを「存在の一つの形」として受け入れており、現代の労働市場や社会的な期待に対して独特の距離を保っています。彼は「ヒキニートは動詞じゃなくて名詞。やるものじゃなくて在り方だ」と語る場面からも、彼が無職でいることを単なる「怠惰」としてではなく、一つの生き方として認識していることがわかります。このようなキャラクターの描き方は、現代社会における「働くこと」「生産性」という価値観に対する問いかけとして非常にユニークです。

 また、もう一つの特徴として、この小説は現実逃避や虚無感をテーマにしつつも、常にコミカルであり、軽妙な会話が物語を引っ張っていく点が挙げられます。たくぴとるかのやり取りは、シリアスなテーマを抱えながらも、冗談や風刺的な要素で彩られています。たくぴは社会的に無力であるにもかかわらず、日常の小さな問題や挑戦に対して真剣に向き合い、その姿がユーモアを交えて描かれています。例えば、ポイ活やアンケートに取り組む場面では、彼が無気力でありながらも真剣で、その姿勢が面白おかしく描かれています。彼がアンケートに対して「三〇代女性のふりをする」という方法を見つけた際の真剣な態度や、それを正当化しない姿勢が、読者に笑いと同時に彼の価値観の一部を伝えています。

 さらに、社会からの孤立や孤独感がありながらも、たくぴは完全に絶望しているわけではなく、むしろその孤立を肯定的に捉えている点も特徴的です。彼の生活の中には、大きな事件や感動的な瞬間は少ないかもしれませんが、日常の中に潜む小さな達成感や満足感が描かれています。例えば、庭師にコーヒーを差し出す場面や、たくぴが小さな社会的役割を果たすことに喜びを見出す場面など、現代の複雑な社会で自分の存在を確認する方法が、非常にさりげなく描かれています。

「たくぴとるか」は、こうした点で他の作品とは一線を画しています。ドラマチックな事件や派手な成功物語ではなく、むしろ現代社会の一角にひっそりと生きる「普通の人たち」の日常を通して、社会のあり方や人間の生き方について問いかける深いテーマが隠されています。それが、この作品のユニークな魅力であり、他の多くの小説と異なる点です。


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1 たくぴとるか

 変身とは世界に負けないための儀式。メイクしてウィッグを着けて、派手な服に着替えて、私はアイドルになる。

 スマホをセット。映りを確認。よしっ、顔は衣装に負けていない。今日もかわいい。録画ボタン、ポチッ

るか:こんるか~。現実をキャンセルするために降臨した堕天使るか。現実なんて捨ててチャンネル登録しろっ。いいね、コメントなしは人間失格。でも私が許す。さっそくだけど新曲『ぼくは好き好きなによりも』

るか(歌う):
僕は好き好き なによりも
ベッドの上でも 君が好き
心の底で きみを見つめる
別の女は おばかさん
すべて退屈なお約束
宇宙はステキ UFOにキス
きっとマジメ? においをかぐよ

どうでもいいよ そこがいい
絶対いない ウザイから
笑いものは 意識してる
百人抱いて殺し合い
すぐ謝って 話し合った
どうでもいいよ そこが好き
まだ続いている 現実の
日が落ちる 一フィートまで
どうでもいいよ どうでもいいよ
君が好き好き そこがいい

るか:今日も来てくれてありがとう。またね~

 ポチッ。録画を止める。ふぅ。私はウィッグを外す。アイドルもラクじゃね~ぜ。無限に乾いた承認欲求を追いかける無間地獄。再生数といいねが高速で回っているあいだだけ私は生きていることを許される。だれに? たぶん神。いつかは終わりが来る。分かってる。こんなことはいつまでも続かない。人気のあるうちに自殺しないかぎり死ぬまで人気者でいることは不可能。そして死んでも伝説はいつか風化する。

 花山るかチャンネルのトップページを開く。登録者数99999999人。あと一人で一億人。ほぼ日本の人口と同じなんだけど……たくぴ?

 たくぴはポイ活アプリのアンケートに答えている。日本、いや、世界一のユーチューバーアイドルが目の前で歌っていても、着替えていても見向きもしない。二〇分のアンケートで一〇〇〇ポイントもらえるんだってさ、バーカ。

 たくぴが私の視線に気付いてスマホから目を上げる。

たくぴ:なに?

るか:チャンネル登録

たくぴ:やだね

るか:日本制圧できるんだよ?

たくぴ:そんな悪事に協力はできない

るか:死ねっ。じゃあ結婚しよ

たくぴ:脳に羽でも生えてんのか?

るか:結婚して、ハワイへ海を見に行くぞ

たくぴ:昭和か?

るか:昭和でもしょうがでもいいからハワイ

たくぴ:資格ってあるよな? ハワイへ行く

るか:えっ、聞いたことないけど。たくぴ、脳バグってる?

たくぴ:そりゃ金を出せばいけるさ。でも資格なしで行っても、それは本当にハワイへ行ったことにはならないの

るか:分かった。じゃあ資格とって。一級ハワイ試験

たくぴ:んなもん、あるわけね~だろ

るか:三級でも大丈夫?

たくぴ:分かんないけど、とにかく資格がないとハワイには行けないの

るか:たくぴがひとりでそう思ってるだけじゃん

たくぴ:ひとりで行ってこいよ

るか:たくぴ卑怯だよ。そんなことできないの知ってるくせに、どうしてそんなこと言う? イヤなことでもあった

たくぴ:ごめん

 私はたくぴに背を向け、泣いているふりをしながら配信ボタンを押す。さっき録画した動画の再生数といいねがたちまちのうちに炎上。インターネットが壊れそうな勢いで炎はふくれあがり、私の魂が潤っていく。

るか:たくぴってなにが嬉しくて生きてるの?

たくぴ:るかと一緒にいるのが嬉しくて毎日涙がちょちょ切れそうだ

るか:こんにゃろ

 たくぴは私が怒ると思っていたんだろうが、そうはいかないぜ。るか様はそんじゃそこらの女とは違うので、たくぴにぎゅーっと抱きつく。どうだ、まいったか。

たくぴ:だー、やめろ。アンケートもう終わるから

るか:てきとーにぷぷぷって押せばいいんだよ?

たくぴ:それはだめ

 急にマジメになるたくぴ。

たくぴ:そりゃあ、アンケートの攻略法は分かってる。三〇代独身女性の正社員に偽装すればアンケートのポイントはいっぱいもらえる

るか:そんなこと言ってない

たくぴ:話のキモはそこじゃない

るか:キモっ

たくぴ:キモくていいから聞け。もしみんなが三〇代女性のふりをしたらアンケートはアンケートの意味をなさない。それがずっと続いたらアンケートの信頼性は地に落ちてアンケート自体なくなる。だから正直に、ありのままに答える必要がある。てきとーにぷぷぷなんてもってのほかだ

るか:たくぴってさ

たくぴ:うん?

るか:小さいところでマジメで、大きなところでDQNだよね

 たくぴはなにか言い返そうとしたけど口をつぐむ。もちろんたくぴはDQNじゃない。だけど精神性はDQN、いや、それよりもワルだ。だって本当にマジメなら、たくぴと同じくらいの人はみんな働いている。なのにたくぴは明るい時間からスマホのポイ活アプリでアンケートやってる。今日は仕事が休みじゃなくて、昨日も明日もノージョブ。つまり無職。一〇年以上ヒキニートやってる……やってる?

るか:ねぇたくぴ。ヒキニートってやるもの?

たくぴ:違うね。ヒキニートは動詞じゃなくて名詞。やるものじゃなくて在り方

るか:眠くなりそうなこと言うな

たくぴ:存在を表す言葉ってこと。ヒキニートはやるものじゃなくて状態。元気とか病気とか、そういうものに近い

るか:じゃあ社長は? サラリーマンは?

 たくぴ黙る。

るか:ほらぁ、社長やる、サラリーマンやる。動詞的に使えるならヒキニートもやるものでしょ?

たくぴ:そんなこと言ったら、るかも動詞だ

るか:なにそれ

たくぴ:るかにるを付けてるかる。文脈沼に引きづり込むという意味

るか:食っちまうぞ

たくぴ:それなら俺はたくる

るか:どういう意味?

たくぴ:知らね~よ

玄関のチャイム:ピンポーン

 頭の悪い空気が断ち切られて、たくぴはシャキッと立ち上がる。ポイ活のアンケートは終わっている。

るか:こんな時間に誰だろ?

たくぴ:庭師の人だろ

るか:あぁ~、そうだった

 昨日、たくパパは庭師の人が来るから出迎えるようにって言ってた。だからたくぴは昨日からドキドキなのである。

 たくぴはビビりながら玄関まで歩き、ドアを開く。

庭師の人:あ、おはようございます。ムラマツ庭園です。予定していた庭木の剪定と芝刈りをさせていただきます

たくぴ:はい、よろしくお願いします

 へっ、急にまともになりやがって、それが嘘だってのはお見通しだぞ。たくぴはドアを閉めるとガッツポーズは、さすがにしなかったけれど、顔は一仕事やり終えた充実感に満ちている。バッキャロー。それぐらいでいい気になるんじゃね~。庭師イベはまだ終わりじゃね~ぞ。

 私はたくぴにグッと親指を立てて、いいねを送る。よくやったぜ。たくぴがニヤっと笑う。

 たくぴは一階のリビングでテレビを見る。でも内容なんて全然入ってこなくて外の音ばかり気にしている。

庭師の人:はよせぇ。昼までにこっかからあっこまで終わらせとかなあかんだろ

 返事はないけど何人かが急いで動いている音がする。ガシャン、ガシャン、ゴトン、ゴトンとあわただしい。たくぴの家はデカいのだ。玄関前の庭だけでテニスコートぐらいある。たくパパはサイトウ工業っていうアルミドア専門のドアを作る会社で社長をやっている。たく兄ぃは専務だ。たくぴは……さっき言った通りヒキニート。たくパパは息子に役職だけ与えて体裁をもたせる。なんてドラ息子仕草は許さない。たくぴだって望んでいない。

たくぴ:もしそんなことになったら僕は会社をめちゃくちゃにしてしまうだろうな

 いつかたくぴはそう言っていた。本当に?

たくぴ:自信はある。だから今が正しい

 だってさ。なんていうか。欲がないんだな。世間のドラ息子なんか会社の二代目を継いで好き勝手してるんだから。

 正しくヒキニートしてるんだってたくぴは言いたいんだろうけどヒキニートなんて正しくないぞ。あ~あ、なんで私はこの男を嫌いになれないんだろう?

 たくぴはさっきから何度も立ち上がっては窓の外をちらちら見ている。庭師の人たちが休憩するのを待っている。さっきまで聞こえていた枝を切る音は聞こえない。私も窓の外を見る。

るか:たくぴ、いまがチャンス

 たくぴは唇の皮をむしっている。ビビってるな、こいつ。庭師の人たちは壁にもたれてぼそぼそとなにか話している。スマホでなにかを見ている人もいる。ぜんぶで三人。こっちは二人。一人足りないけど、ここはたくぴの家だから有利だ。

 たくぴは突如として冷蔵庫へ向かい、扉を開けると、ジョージアエメラルドマウンテンの缶を三つ手に取る。たくパパが事前に用意していたものだ。たくパパにぬかりはない。

 たくぴは合戦へおもむくように足音を立てて進む。すべての動きが荒々しい。玄関で靴を履いていると傘立てが倒れる。事件が起きたような激しい音が鳴る。たくぴは傘立てを元の戻そうとしたけれど、やっぱりやめてドアを開ける。

たくぴ:ごくろうさまです。もしよかったらこれ飲んでください

 たくぴが缶コーヒーを庭師の人たちに手渡している。缶コーヒーはなぜかジョージアエメラルドマウンテンでなければならないらしい。妥協は許されない。何年か前にたくパパは近所のコンビニにもスーパーにもエメラルドマウンテンがなかったので徳島市まで車を走らせて、たった六本の缶コーヒーを二時間もかけて買いに行ったことがある。なぜエメラルドマウンテンでなければならないのかとたくぴはたくパパに聞いたことがあるが「そんなの当たり前だ」って有無も言わせない口調だった。いや、ホントに。たくぴがその疑問を発した時、たくパパは、たくぴが「地球は平らだ」って大マジメな顔で言い出したような顔をしていた。だから差し入れのコーヒーがジョージアエメラルドマウンテンなのは地球が丸いのと同じぐらい常識で、それに疑問をもつことは正気を疑われることなんだって、たくぴは飲み込んだ。でも、なんでなのかなってまだ考えている。たくぴは疑問の物持ちがいいのだ。

たくぴ:飲み終わったらここに置いといてください。こっちで捨てるので

庭師の人:ありがとうございます

たくぴ:いえ、こちらこそ。ごくろうさまです

 たくぴは家に入ると靴を脱ぎ捨て、猿のように飛び回る。叫びたがってもいるけど、それはさすがにおさえて自分の腕を噛む。傘立ては倒れたままだ。

 たくぴはソファーに飛び込んでごろごろ転がる。なにしてるんだ、この男は? 頭がおかしい。コーヒー渡したくらいでバグるな。

るか:あっ、豊臣秀夫だ

 テレビに豊臣秀夫が映っている。たくぴはピタッと動きを止める。豊臣秀夫は令和の今太閤と呼ばれている。ネクストワールドというAIの社長をやっていて、たくぴと同い年だ。かたやヒキニート、かたや社長。あいつの言っていることは全部デタラメ。詐欺師だってたくぴは言ってる。でもこの前この人の『豊臣語録』という本が三〇〇万部売れたってニュースになってた。たくぴ以外にも嫌っている人は多いけど好きな人も多い。しょっちゅう発言が炎上しているけれど人気はむしろ炎上するたびに大きくなっている。本人も「アンチは味方」と言っている。

るか:ラグビーチーム買収だって

たくぴ:静かにしてくれ

豊臣秀夫:いちじるしい近代化を行いながら他の先進国が体験している事実が存在しない点において日本は評価されています。しかし同時にパラダイム転換が非合理な理由で行われました。日本礼賛のすべてが間違っているわけではありませんが強いリーダーを望む誤った理由が政治レベルでは合理性を持ってしまっています。現代日本に生きるアナーキストは満足するべきですね。文化に依存したプレゼンスによって規則や基準なしに進む対立合理性が言語的に不明確になっているのだから。これを議論したいのであれば西洋的なリーダー像のイメージを輸入しなければならないでしょう

 たくぴはふっと鼻息をもらす。テレビも消す。あんなやつ詐欺師に決まっている。そんなことを言っても豊臣秀夫は何千億も稼いで、本も売れて、ラグビーチームを買収している。たくぴは庭師の人にコーヒーを出しただけで猿になるぐらい脳が焼ける。人としての価値は月とスッポン。もちろん月はたくぴ。だって月に値段はついてないもんね。ノープライス。

 庭師の人がお昼を食べていてもたくぴはゲロ吐く寸前まで緊張していたから水しか飲まなかった。というか飲みまくった。夕方にはおしっこを出しすぎてフラフラになっていた。体の水分三回ぐらい入れ替わったんじゃないかな。荷台を枝と葉っぱでいっぱいにしたダンプカーも同じくらい家の前を行き来した。

庭師の人:ありがとうございました

 夕方に仕事を終えた庭師の人が玄関のドアを開ける。たくぴは玄関に出る。

たくぴ:ごくろうさまです

庭師の人:またなにかあったらいつでもご連絡ください

たくぴ:はい、ありがとうございました

 庭師の人が頭を下げてドアを閉める。

たくぴ:あっ

 玄関のドアの擦りガラス越しに、庭師の人がかがんで玄関に置いたジョージアエメラルドマウンテンの空き缶を拾う姿が映る。たくぴはあわあわして、出ていって止めるべきか、出ていかざるべきか迷う。

るか:いっちゃいな

たくぴ:忘れていたわけじゃない。あの人たちが帰ったら外の水道で洗おうと思ってた

 ダンプカーのエンジン音が玄関のドアを揺らす。

たくぴ:仕事している時に洗ってたら負い目が湧くだろ

るか:もう遅いね

たくぴ:枝を切ってる時にさ、背中で空き缶洗ってる音がするんだ。しかもそれはさっき自分たちが飲んでたやつでさ

 ダンプカーがガルガルと音を立てて走り去る。ざらざらした沈黙。たくぴは猿から人間に戻る。人がいなくなったら正気に戻りやがったぜ、こいつ。そわそわしていた体も落ち着く。

たくぴ:腹減った。昼なんにも食べてない

 たくぴはキッチンへ行くとボウルに小麦粉を出す。だいたい目分量だ。そこに水とドライイーストを入れてこねる。五分ほどこねて、塩ひとつまみ。生地がべとつくようなら、さらにひとつまみ。生地がまとまったら丸く固めてラップで包み、レンジでチン。そのあいだに玉ねぎ、ウインナー、パイナップルを切る。生地をレンジから出すと手で伸ばして、ケチャップを塗り、玉ねぎ、ウインナー、パイナップルをのせ、チーズをふりかけてオーブンへ。生地をこねる前から予熱していたので中は250℃に温まっている。

るか:たくぴの計画性って人生にちっとも生かされないね

たくぴ:ありすぎるから困ってる

るか:もしたくパパが死んだらどうする?

たくぴ:兄ちゃんが跡を継ぐ

るか:たくぴは?

たくぴ:どのルートを行っても結末は一緒なんだぜ?

るか:結末までの道のりってあるよね?

たくぴ:もしるかと出会わないルートだったら、とっくに自殺してるね

 たくぴ……ぎゅーってしてやる。と思ったら、たくぴはすっと私の手をすり抜ける。死ね……計画性。

るか:なんでもお見通しか?

たくぴ:ピザが焼けるから

るか:ピザよりぎゅーっだろ

たくぴ:生地がふくらんできた

るか:心がしぼんでもいいのかバカヤロー

 ぎゅーっ。不意打ちのぎゅーっ。これも計画のうちか? 脳が破壊されるだろ、いいかげんにしろ。このままでは頭がバカになってしまう。私はたくぴの腕から風のように脱出。

るか:いきなりぎゅーってセクハラなんですけど

たくぴ:炎上したっていい

るか:アカウント持ってないくせに

たくぴ:燃えるためだけに作ってもいいんだぜ

るか:自分がいまなにを言ってるか分かってる?

たくぴ:分かってない。ノリで言ってる

 チーン。オーブンのタイマーが鳴る。

たくぴ:あちち

 たくぴはなんにも分かってない。ピザを取り出そうとして指が天板に触れてしまったたくぴを私は見る。

『登録者数99999999人のユーチューバーアイドル花山るかの熱愛発覚!』なんてニュースが流れたら炎上どころかインターネットが爆発しちゃう。別に爆発してもいいけど、この家は週刊誌のパパラッチに囲まれちゃうよ。ワイドショーのカメラも来るよ。分かってる、たくぴ? 庭で枝を切るよりすごいことになるよ。たくぴがいるって知られたら世界は放っておかないよ。体の水分なんて十回ぐらい入れ替わるんだから。

 育ちのいいたくぴは手づかみでピザにかぶりついたりはしない。ナイフとフォークで食べる。

るか:ねぇ、ハワイ

たくぴ:またそれか

るか:行きたいくせに

たくぴ:行く資格がないから行けないんだ

るか:パイナップルをのせたピザはハワイアンピザって言うんだって

 たくぴはテーブルの中央に置いてあるペッパーミルを手に取ると、それをひねってピザにコショウをかける。

るか:つまりそれってさ、たくぴはハワイに生きたくてしかたないってこと

たくぴ:ハワイアンピザは珍しくない。三日前にも食べた

るか:フロイト先生なら、たくぴのハワイへ行きたい欲求がピザになって表れたって言うね。この世に無意識なんてなくて、すべては形を変えて表出する。この世に隠されたものなんてなにひとつないんだよ

たくぴ:明日は違うの作る

るか:また作るけどね

たくぴ:パイナップル食う?

 ピザで使わなかったぶんのパイナップルがお皿に詰まれている。たくぴは指で一枚つまんで、それを食べる。ハワイの匂いが私の鼻に入り込んでくる。

 私はパイナップルの空になった缶を見る。それはキッチンで洗われて、逆さに干されている。原産地のところには台湾の二文字がある。

たくぴ:台湾ってどこにあるか知ってる?

るか:どこ産かは大事なことじゃない。パイナップルはハワイなんだよ。たとえ台湾でもアラビアでも南極でもパイナップルの香りは世界中どこからでもハワイにつながっている

たくぴ:原産地はブラジルだって

 食事中にスマホをいじるマナー違反のいじわるたくぴ。ブラジルのカバに蹴られろ、バーカ。

 ピザを食べた後は紅茶タイム。茶葉はリプトンのイエローパック。一度湯を入れて二〇秒待ち、カフェインを抽出させてから湯を捨て、ふたたび湯を入れるのがたくぴ流。中学の時にイギリスから来た英語の先生がそういう淹れ方をしてるって聞いてから、それが唯一の正しい紅茶の淹れ方だってたくぴは信仰している。砂糖と牛乳を入れて、ちょっとぬるくなったのを一分以内に飲み切る。これもたくぴ流。イギリス人でもないのにマナーにきびしい。でも時々考えたりしてるみたい。あれはもしかしたら、なにも知らない日本の中学生をからかったジョークなんじゃないかって。特に熱々の紅茶で喉の奥がヒリヒリ焼けている時なんかにはね。

るか:あ~そういうことか

たくぴ:なに?

るか:紅茶の原産国は中国だけど、紅茶のイメージはイギリス。それってイギリスが紅茶のイメージを生産してるってこと。つまり想産国

たくぴ:へんな造語作るな

るか:パイナップルも想産国はハワイ。だから原産国はどこであろうとパイナップルはハワイなんだよ

たくぴ:へーへー分かりやした

 たくぴは洗いものを済ませると、戸締りをして日課の散歩をする。私も一緒に行く。ブルートゥースのイヤホンを半分こして同じポッドキャストを聞く。

 たくぴはすごく速く歩く。速いというよりは大股で歩く。こうすると時間あたりの歩数が稼げるんだって。ポイ活アプリのカウント上限二万歩を二時間かけて歩く。一〇〇〇歩ごとにポイントが加算されて、広告を見るとポイントが六倍になるから途中で休憩&広告タイムがある。

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 たくぴに関係ない広告がいくつも流れる。たぶん広告からなにかを買ったことって一度もないんじゃないかな? たくぴは画面をじっと見つめてスキップボタンが出るのを待っている。ムダな時間ゼロでスキップ、次の広告、スキップ、次の広告、スキップ、次の広告、スキップ……もはや何の広告が流れているのか分からなくなる。今夜は月が出ていない。なんてことを私は考える。

イヤホン:‥‥‥でね。ナルドーの食べすぎで冒険隊は食欲を満たしながら、そして大量のうんこを毎日出しながら餓死していったわけなんですよ、これってすごくないですか?

 さっきまで聞いていたポッドキャストの音声が耳に入ってくる。

イヤホン:この話が面白いのは現地に住んでいる人、原住民の人たちは普通に暮らしているってことなんですよ

るか:行く?

たくぴ:うん

イヤホン:いや、あなた、死んだ人のことを面白いとか、そんなこと言っちゃいけません

 私とたくぴは月のない夜を歩く、歩く、歩く。風で冷えた体もすぐに暖まる。

イヤホン:ちょっと冷静に考えてみてください。たとえばもしアメリカ人が日本に来て、サイフとかスマホとか落っことして、なにも分からなくなって、まぁそれってたしかに大変なことなんですけど、でもそれで何日か後くらいにパタッと餓死したらどう思います? バッカだなーって思いません?

るか:今日はそっち?

たくぴ:うん

 たくぴは週に三度、散歩の途中で神社へ行く。鳥居にぶらさがって懸垂するのだ。腕だけじゃなくて、足を上げて腹筋も鍛える。どれもごく短い時間だけど、たくぴはへろへろになって息をハーハー吐く。筋トレが終わったら二人でおまいり。お金は持っていないからお賽銭はなし。

 二時間歩いた私とたくぴは家の近くまで帰ってくる。すると道の向こうから知っている影が歩いてくる。

三好さん:あぁ、こんばんは

たくぴ:こんばんは

三好さん:毎日がんばんりょんでぇ。お父さん元気にしょん?

たくぴ:はい

 声をかけられたので、たくぴは足を止めてイヤホンを耳から取る。

 三好さんは散歩中に出会う謎の老人で、なぜかたくぴのことを知っている。たくぴ以外のことも知っている。たとえばたくパパのいとこのお嫁さんの妹の息子さんが通っている習字教室の先生が高校生の頃に通っていたアルバイト先の店長の孫がおばあちゃんの介護施設に行った時にオレンジジュースをこぼした事件まで知っている。インターネットでは絶対に知ることができないローカルネットワークの権化みたいな存在だ。外見はカラッとした好々爺で、赤ら顔。根元まで白い前髪を真上に立てている。誰からも好かれていそうで、いつも笑っている。

 実のところ三好さんが三好さんかは分からない。ずいぶん前に家に入っていくところを見て、別の日にその家の前を通ったら表札に三好とあったから三好さんと認識しているだけで、本当は別の名前かもしれない。町内でならどこにでも出没して、いつもどこかに行っている雰囲気がある。

 三好さんは一〇分ぐらい喋りに喋る。そのあいだにたくぴは「うん」とか「はい」とか「そうなんですか」と相槌を打っている。それ以外の言葉を口にしないが三好さんはどんどん喋り続ける。


三好さん:ナベシマがつぶれたらしいけど、ほうなったらますます景気ようなるなぁ。徳島県で大きいとこいうたらもうお父さんのとこだけでえなぁ?

たくぴ:はい

三好さん:サイトウ君もがんばりよ。じゃあ

たくぴ:じゃ

 ようやく話が終わり、三好さんはどこかへ行く。

るか:たくぴは徳島県のドア業界なんて知らないから、もし聞かれたらどうしようかってドキドキだったね

たくぴ:二代目のボンボンと思ってるんじゃないか?

るか:いつもあれだけ喋るのに「お仕事は?」って即死級の言葉が出たこと一度もないもんね

たくぴ:ヒキニートなんて常識外れの存在だから想像もしていないんだろう

るか:いまから追いかけてたくぴの正体教えにいこっか?

たくぴ:俺は普通を愛してるんだ。誰かの普通を壊したくない

るか:やめちゃえばいいのに

たくぴ:そうしたいよ、本当に

 たくぴは家に帰るとすぐお風呂に入る。たくぴの肉体は毎日二万歩歩いて、神社の鳥居で懸垂してるせいか筋肉モリモリゴリラというわけではないけれど無駄な肉が付いていない、かといって貧弱ではなく筋肉の盛り上がりがそこここにある引き締まった体をしている。別に体が好きってわけじゃないけど、たくぴが良い体をしているのは嬉しい。

たくぴ:えっ

 たくぴが体を洗っているところに私も侵入。あわてるたくぴに私はご満悦。二人とも体を洗った後は湯船に重なって入る。社長の家でも湯船は一人分なのだ。

スマホ:はっきり言って人間はザコです。無人島に何の準備もなく猫と人間を投下したら、猫は三か月後でも生きているけど、人間は死にます。これはもうほぼ確実と言ってもいいぐらい。いや、ロビンソンクルーソーとかあるじゃんって言うけど、あれって現実の裏返しで、普通はありえなからこそ物語になるんです。じゃあどうして人間が地球を支配しているのかと言うと……

 ドアの向こうから音量を最大にしたポッドキャストの声がする。

るか:もし人類が滅んで私たちだけになったらどうする?

たくぴ:子どもつくる

るか:何人?

たくぴ:五〇億

るか:マンボウでも無理だよ

 たくぴの珍回答で私の笑い声が浴室に響く。

るか:五〇億はいいけどどうやって育てる?

たくぴ:それぐらいいないと元に戻らない

るか:地球の人口ってもっといたような

たくぴ:それぐらいでちょうどいいよ

 たくぴはお風呂を出る。ソシャゲの体力が回復しているので消費。ログボは朝に取っているし、イベント周回も済ませているから他の人と話すのがメイン。でも今日は他の人がログインしていないので五分で切り上げる。それが終わるとポイ活アプリで広告を見て、今日歩いた分のポイントを六倍にしていく。

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 たくぴはじっと画面を見つめスキップボタンが出現するとゼロタイムでプッシュ。次の広告、スキップ、次の広告、スキップ、次の広告、スキップ……こうして一日が過ぎていく

つづきは本編で

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