すべての始まりは、私の純粋すぎる知的好奇心だった。「ライム(Rhyme)」。ヒップホップ音楽の歌詞カードを眺めるたびに現れるこの言葉。辞書を引けば「押韻」と素っ気なく書かれている。なるほど、言葉の語尾の音を揃えることか。理屈は分かった。だが、魂が分からない。なぜ彼らは韻を踏むのか。韻を踏むと、何がどうなるというのか。
考え始めると、もうダメだった。脳内で「AとBで韻を踏むとは、概念Xにおいてどのような意味を持つのか」といった、哲学のレポートみたいな問いがぐるぐる回り始めたのだ。こうなったら早い。百聞は一体験にしかず。ライムの真髄を知るには、その現場に身を投じるしかない。
かくして私は、ユニクロの感動ジャケットを羽織り、革靴の紐を固く結び、週末の夜、駅前広場の一角で重低音を響かせている若者たちの集団、すなわち「サイファー」へと向かったのである。
現場は、想像以上の異空間だった。スマホから流れるビートに合わせ、キャップを目深にかぶった若者たちが輪になり、即興で言葉を紡いでいる。飛び交う専門用語。「ヤバいフロウ」「パンチラインが効いてる」。私にとっては全てが呪文だ。輪の外側で仁王立ちする私は、完全に不審者。保護者が子供の授業参観に来た時のような、圧倒的なアウェー感が全身を包む。
「帰ろうか…」。心が折れかけた、その時だった。一人のラッパーがラップを終え、次の挑戦者を待つ、一瞬の静寂が訪れた。今しかない。私は、営業で培った度胸を振り絞り、輪の中に一歩、足を踏み入れた。
「「「!?」」」
若者たちの視線が一斉に突き刺さる。ビートが止まった。まずい、完全に不審者から不審人物へとランクアップしてしまった。
「あ、あのっ!」私は震える声で切り出した。「まことに恐縮ですが、皆様に一つ、ご教授願いたいことがありまして…! わたくし、『ライム』の真髄が知りたくて、参上いたしました!」
シン…、と広場が静まり返る。一人の、ひときわ体の大きく、見た目がいかついラッパーが、眉間に深い谷を刻みながら私に歩み寄ってくる。終わった。私の知的好奇心は、ここで社会的に抹殺されるのだ。
「…面白いじゃねえか、おっさん」
彼の意外な一言で、凍りついた空気が一気に溶けた。彼は「MC仏陀(ブッダ)」と名乗った。仏陀はニヤリと笑い、私にペットボトルを差し出す。「言葉で聞くより、体で感じな。ほらよ、マイクだ」。
え、私が?ここで?
DJが気を利かせたのか、ゆったりとしたビートを流し始める。もう後には引けない。私は覚悟を決めて、ペットボトルを握りしめた。
「えー…わたくし、鈴木と申します…/趣味は、休日の園芸と申します…」
…ダメだ。これはラップではない。ただの自己紹介だ。周りからクスクス笑いが漏れる。しかし、仏陀が「聞け!」と目で合図すると、皆が真剣な顔つきになる。この優しい世界に、私は少し泣きそうになった。
開き直った私は、日頃の鬱憤を叫ぶことにした。
「部長の指示は、朝令暮改!/俺の努力は、まるで徒労で崩壊!」
その瞬間だった。
「「「おおぉぉぉぉ!!!」」」
今まで静かだった若者たちが、一斉に沸いたのだ。「崩壊」と「暮改」が、奇跡的に韻を踏んでいたらしい。何だ、この感覚は…! 言葉がビートに乗って、共感を生む。気持ちいい!
私の拙いラップが終わると、仏陀がペットボトルを受け取り、アンサーを返してきた。
「YO、鈴木さんのそのリリック、悪くねえ/だがな、徒労で崩壊? そんなのまるで嘘くせえ!/その悔しさ、その魂、全部ビートに乗せちまえ/そしたら明日も頑張れる、そうだろ、ブラザー、間違いないぜ!」
見事だった。私のちっぽけな愚痴が、彼のライムを通して、一つの物語として昇華されていく。言葉と言葉が繋がり、意味が反響し、グルーヴが生まれる。これか。これがライムの魂か…!
結局、ライムの学術的な定義は分からずじまいだった。でも、そんなことはどうでもよくなった。帰り道、私はスキップしながら、目につくもの全てで韻を踏んでいた。
「光る月/明日はきっと勝つ!」
我ながら悪くない。人生とは、壮大なフリースタイルなのかもしれない。感動ジャケットを揺らしながら、私は最高にハッピーな気分で家路についた。
















