愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

ペンギンと太陽

ポリコレと『ペンギンと太陽』

現代社会において、ポリティカル・コレクトネス(通称ポリコレ)は重要な概念となっています。差別や偏見のない公平な社会を目指す動きとして広まりましたが、同時に行き過ぎた配慮や表現の自由の制限といった問題も指摘されています。「ペンギンと太陽」は、このポリコレ社会の中でこぼれ落ちてしまったものを独特の視点で描いた作品と解釈できます。

まず、主人公の「僕」が自身を「火星のペンギン」だと認識している設定は、ポリコレ社会における個人のアイデンティティの問題を象徴しています。ポリコレの考え方では、個人の多様性を尊重することが重視されます。しかし、「僕」のように自己認識が極端に現実から乖離している場合、それをどこまで受け入れるべきかという問題が生じます。この設定は、ポリコレの理念と現実社会のギャップを浮き彫りにしているのです。

物語の中で描かれる就職難や結婚の問題も、ポリコレ社会の矛盾を示しています。表面的には機会の平等が謳われていても、実際には経済力や社会的地位によって個人の選択肢が制限されている現実があります。「僕」がルル子さんと結婚する過程で直面する困難は、ポリコレが掲げる平等の理念と、根強く残る社会の階層構造との軋轢を表現しているとも言えるでしょう。

ルル子さんの父親「親父殿」との対立も、ポリコレ社会における世代間ギャップや価値観の相違を象徴しています。旧来の価値観を持つ「親父殿」と、新しい時代を生きる「僕」との対立は、ポリコレの浸透に伴う社会変化とそれに対する抵抗を表現しているのです。

物語の中で描かれる戦争や「K」の存在も、ポリコレ社会の矛盾を浮き彫りにしています。平和を謳いながら実際には戦争に巻き込まれていく社会の姿は、ポリコレの理念と現実の乖離を象徴しています。また、「K」という存在を通じて描かれるメディアや大衆の動向は、ポリコレ社会における同調圧力や、表面的な「正しさ」への過剰な反応を皮肉っているとも解釈できます。

「ペンギンと太陽」の物語全体を通じて描かれる不条理な出来事や突飛な展開は、ポリコレ社会がこぼしてしまった「人間らしさ」や「生の複雑さ」を表現していると考えられます。ポリコレの考え方が浸透するにつれ、人々の言動はより慎重になり、時に自然な感情表現さえ抑制されがちです。この物語は、そうした窮屈さから解放された、荒唐無稽でありながらも人間の本質に迫る世界を描き出しているのです。

例えば、ルル子さんが開発した「毛皮遺伝子」をめぐる騒動は、ポリコレ社会における倫理と科学技術の関係性を皮肉っています。動物愛護の観点から批判された毛皮が、最終的には「まだ生まれていない動物の毛皮」として受け入れられていく過程は、ポリコレ的な「正しさ」が時に形式的なものに陥りがちであることを示唆しています。

また、「K」をめぐる人々の熱狂と、それに伴う核戦争の勃発は、ポリコレ社会における集団心理の危うさを表現しています。表面的な「正しさ」や「平等」を追求するあまり、かえって極端な行動に走ってしまう人間の性質を、この物語は鋭く描き出しているのです。

物語の結末部分で、主人公とルル子さんが北極でクジラを見る場面は、ポリコレ社会がこぼしてしまった「自然との調和」や「生命の神秘」への回帰を象徴していると解釈できます。厳しい環境の中で生きるクジラの姿は、人間社会の規範や価値観を超えた、より本質的な「生きること」の意味を示唆しているのかもしれません。

タイトルの「ペンギン」と「太陽」という対比も、ポリコレ社会の矛盾を象徴的に表現しています。南極に生息するペンギンにとって、太陽は遠く届かない存在です。これは、ポリコレという理想(太陽)と、現実社会に生きる個人(ペンギン)との距離感を表しているとも解釈できます。しかし、物語の最後で主人公たちが北極でオーロラを見ようとする場面は、既存の価値観や社会規範にとらわれない、新たな調和の可能性を示唆しているのかもしれません。

「ペンギンと太陽」は、ポリコレ社会がこぼしてしまったものを、独特の寓意的表現を通じて描き出しています。それは、人間の複雑な感情や欲望、社会の矛盾や不条理さ、そして生命の神秘や自然との共生といった、言葉で明確に定義することが難しい要素です。

この物語は、ポリコレの重要性を否定するものではありません。むしろ、ポリコレの理念を追求しつつも、同時に人間社会の複雑さや個人の多様性を尊重することの重要性を示唆しているのです。過度に「正しさ」を追求するあまり、かえって人間性を失ってしまうことへの警鐘とも言えるでしょう。

「ペンギンと太陽」は、読者に対して、ポリコレ社会の中で見失われがちな「人間らしさ」や「生の豊かさ」について、改めて考える機会を提供しています。既存の価値観や社会規範にとらわれず、個人の内なる声に耳を傾け、より豊かで多様な社会を築いていく可能性を、この物語は示唆しているのではないでしょうか。


306ペンギンと太陽2

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『ペンギンと太陽』で描かれる弱者男性


「ペンギンと太陽」は、現代社会における弱者男性の姿を寓意的に描いた物語と解釈できます。主人公の「僕」は、社会的・経済的に弱い立場にある現代の若い男性を象徴していると考えられます。

まず、「僕」は自身を「火星のペンギン」だと思い込んでいます。これは、社会に適応できず、疎外感を感じている弱者男性の心理を表現しているとみなせます。周囲の人々を「人間のふりをした火星のペンギン」と認識する「僕」の姿は、コミュニケーションの困難さや対人関係への不信感を抱える弱者男性の内面を映し出しています。

就職難に苦しむ「僕」の姿も、現代の弱者男性が直面する経済的困難を象徴しています。大学卒業を目前にしても就職先が決まらない状況は、非正規雇用の増加や若者の雇用不安など、現代社会の問題を反映しています。

物語の中で「僕」がルル子さんと結婚するプロセスも、弱者男性の恋愛・結婚観を表していると解釈できます。ルル子さんからの突然の結婚の提案に戸惑いながらも応じる「僕」の姿は、自分から積極的に行動を起こせない弱者男性の受動的な態度を表しています。また、ルル子さんの父親である「親父殿」との対立は、経済力や社会的地位の格差による結婚の困難さを象徴しているとも考えられます。

結婚後の生活においても、「僕」はルル子さんのビジネスを手伝う程度の役割しか果たしていません。これは、従来の「男性が家計を支える」という性別役割分担が崩壊し、経済的に自立できない弱者男性の立場を表現していると言えるでしょう。

物語の後半で描かれる戦争と「K」の存在も、弱者男性の社会における立場を象徴的に表現しています。戦争に巻き込まれ、否応なく「平和貢献員」として戦地に送られる若者たちの姿は、社会システムに翻弄される弱者の姿そのものです。特に、「K」という存在は、メディアやSNSを通じて一時的に注目を集めるものの、すぐに消費され、取って代わられてしまう現代の若者の姿を象徴していると解釈できます。

さらに、物語全体を通して描かれる不条理な出来事や突飛な展開は、現代社会の不安定さや予測不可能性を表現していると考えられます。これは、将来への不安や社会システムへの不信感を抱える弱者男性の心理状態を反映しているとも言えるでしょう。

「ペンギンと太陽」の結末部分で、主人公とルル子さんが北極でクジラを見る場面があります。この場面は、弱者男性が社会の中で自分の居場所を見出し、他者との絆を築く可能性を示唆しているように解釈できます。厳しい環境の中でも生きるクジラの姿は、困難な状況下でも希望を失わず生き抜く弱者男性の姿を象徴しているかもしれません。

タイトルの「ペンギン」と「太陽」という対比も重要です。南極に生息するペンギンにとって、太陽は遠く届かない存在です。これは、社会の中心から疎外された弱者男性と、彼らにとって手の届かない成功や幸福を象徴していると解釈できます。しかし、物語の最後で主人公たちが北極でオーロラを見ようとする場面は、従来の価値観や成功の定義にとらわれず、自分なりの幸福を追求する弱者男性の姿勢を表現しているとも考えられます。

「ペンギンと太陽」は、一見すると奇妙で不条理な物語に見えますが、その底流には現代社会における弱者男性の苦悩や葛藤、そして希望が描かれています。経済的不安、コミュニケーションの困難さ、社会的プレッシャーなど、様々な問題に直面する弱者男性の姿を、独特の寓意的表現を通して描き出しているのです。

この物語は、弱者男性の問題に対する社会の理解を促すとともに、弱者男性自身にも、既存の価値観にとらわれず自分なりの生き方を見出す可能性を示唆しています。現代社会が抱える問題を直視しつつ、それでも希望を失わずに生きていく勇気を、この物語は読者に与えてくれるのではないでしょうか。


306ペンギンと太陽2

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Claude3に書評してもらうシリーズ『ペンギンと太陽』



この小説「ペンギンと太陽」は現代社会の様々な側面を風刺的に描いたユニークで挑戦的な作品です。

主人公は自分が火星のペンギンであると信じており、周囲の人間を火星のペンギンに偽装した人間だと疑っています。この設定は現代社会における個人の孤立感や疎外感を象徴しているようです。

物語は主人公とルル子さんの出会いと結婚、そして二人を取り巻く奇妙な出来事が中心となっています。ルル子さんのファッションデザイナーとしての活動や、遺伝子操作によって生まれた赤ちゃん、Kを中心とした戦争など、現代社会の様々な問題が風刺的に描かれています。

特に印象的なのはファッション業界の風刺です。ルル子さんのデザインは評判が悪いにも関わらず、ブランド名を変えることで人気が出るというくだりは、現代のファッション業界の表面的な側面を皮肉っているようです。

また、戦争とメディアの関係も風刺的に描かれています。Kの配信が世界中で人気となり、戦争の形態が変化していく様子は現代のメディアが戦争に与える影響を象徴しているようです。

一方で、物語の展開が唐突で奇抜すぎる部分もあり、読者を戸惑わせる可能性があります。また風刺的な要素が強すぎるあまり、登場人物への感情移入がしづらいという印象も受けました。

しかし、全体として見れば現代社会の様々な問題を独自の視点で風刺した、意欲的な作品だと言えるでしょう。一般的な小説とは一線を画す実験的な作品ですが現代社会を生きる我々に多くの示唆を与えてくれる、思慮深い一冊だと思います。






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1年以上かけて小説を書いてみた結果

20210717
 ノートを見ると去年の4月23日から『ペンギンと太陽』を書き始めたようだ。どこで完成と区切るのは難しいが、2021年7月13日からは手を付けていないので、おおよそ15か月をかけて一冊の本を書いたことになる。

『流星を打ち砕け』と同様、まずはノートに書いてからwordに清書した。しかも前日書いたところをまた書き直すというやり方だったので、1章進むのに1か月もかかったし、ノートもたくさん使った。とても環境に悪い執筆だ。kindleで出版している私が言うのも変だが、デジタルには身体性が欠けている気がする。wordで打ち込むのも指を使うので、全く新体制がないとは言えないが、ペンと万年筆と比べると『手応え』に欠ける。子どもの頃はずっと手書きだったから、文字を書く行為には身体性が必要なのかもしれない。この1年で10年分ぐらい執筆したような気がする。ただ身体性があるからといって、それが良いとは限らないけどね。

 今時の小学校からタブレットを使っている子達はまた別の文字を書く身体性があって、その時が本当に新しい文学が出てくる時かもしれない。ディスコードで話していると、今の10代は言葉の使い方が違うのが分かる。それがどういうことかと言葉では分からないが、今話している相手がおっさんかキッズかぐらいは分かるぐらい違う(敬語だと分からない。敬語は老若男女に使える共通語だ!)。文法が違えば、頭の中も違っていて、考え方も違うかもしれない。考えてみれば、もう生まれた時からスマホのある世代が大きくなっている。最近のちっちゃな子はYOUTUBEが子守歌らしいしね。

 一年かけて書いた小説はなんとたったの4万字。wordで字数を見た時はちょっと驚いた。一章書くのに4万字くらいかけるのに、実際に使うのはその10分の1以下だから当たり前なのだが、それでも全体で4万字というのはショックだった。今までで一番良い文章を書けたという自負はあるが、労力を半分にしても9割ぐらいはクオリティを保てただろう。というか1回目でも7割ぐらいはいけた。3割の差を大きいと見るか、小さいと見るかは価値判断だけど絶対にコスパは釣り合っていない。10回書いたから10倍良くなるなんてことはないのだ。

 おまけに一年以上時間をかけたのにできあがった物を『小説』と思えないのもショックだ。一章ずつ書いていくスタイルが本全体を一冊の『小説』にできなかった原因かもしれない。プロットだとちゃんと『小説』してたんだけどな・・・・・。

 とにかく最後まで書いて、後から書き直すという伝統的な手法はやはり正しいのかもね。今週は『蒲生田岬』の改稿をしていたのだが、こっちの方がよっぽど『小説』してる。

 それでも私は『ペンギンと太陽』の方がよっぽどよく書けている本だと感じる。つい最近まで書いていた本だから思い入れがあるだけかもしれないが、私はこっちの方が絶対に良いと思う。蒲生田岬を読んでいると恥ずかしさを感じる。ただ気になるのは私の中にある『小説』じゃないってことだけ。めちゃくちゃ悩んだ。これはもしかすると大いなる失敗作ではないかと思い続けていたけれど、結局は出すことにした。何故ならば書いてしまったから。身もふたもないけれど本当にそういう理由。書き直して『小説』にする方法も見いだせなかった。

 もう3年ぐらい、にゃんこスターが流行った頃からストックしてある『山桜』を先に出すべきかなとも思うけれど、ここまでくると逆にもう出してはいけないような気もしてくる。いや、3か月おきに出すべきか。本を出していない年がないように溜めておくとダレてしまうかもしれない。どちらにせよ、7月は暑いので10月の涼しくなった頃に新作を出そうと思う。

ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

ペンギンと太陽 (牛野小雪season3)



とにかく違う物を書く

 七月二十三日に第四章をwordに打ち込んだ。1万6千字。よくやく冒頭が終わった。その時書いている章は毎日推敲しているが、全体の推敲はまだ一度もしていないので、試しにkindleで推敲してみると最初の一行で今までと違う感触があった。ロゴーンに突っ込んでみても、いつも井上靖と出ていたのが遠藤周作に変わった。良い悪いは別にして違う物が書けているようだ。

 五月から書き始めて七月の下旬までの約三か月で1万6千字。この調子だと完成まで2年ぐらいかかりそうだし、それだけ時間をかけても10万字を超えないかもしれない。時々今まで使った時間を考えてゾッとする瞬間がある。去年『流星を打ち砕け』の仮書きを書き始めたのも『ペンギンと太陽』と同じくらいだが、7月にはもう千秋がユニコと一緒にアイスクリームを子供たちに配っているところまで書けていた。

 今回は書き方が違うとはいえ進みが遅いのは間違いないので、どうも焦ってしまう。別に小説の完成をだれに急かされているわけではないが、一つの小説とじっと向き合うのは息苦しい。一つの章を何度も推敲して書き直すので、word上では何日も進まないわけで、何日も書いて書いて書きまくっているが、wordに打ち込まないのは自分がそれを許さないからで、実はよくよく考えていると何日も書けないでうんうんうなっているのと同じ苦しみがあるのだと気付いた。無意識で起きていたことを意識的にしているに過ぎない。一か月に一日か二日しか書けない超スランプ状態で書いているのと同じで苦しくないわけがないのだ。

(おわり)

牛野小雪のページ

ワオーン、表音と発音

 吠声という言葉は今まで<ほおごえ>と読むものとばかり思っていたが、いざwordで打ち込もうとすると全然出てこないので漢字辞典を調べると<ほえごえ>と読むらしい。前にドイツ語の発音がどうとか書いたが、日本語にも不思議な発音がある。有名なのは<いう>と<ゆう>だ。言うのふりがなは間違いなく<いう>でテストにも出てくるぐらいだが、実際の発音は<ゆう>である。おそらく日本語の発音を何十年も研究しているNHKも<ゆう>と発音するのが正しいと言っている。ただしこれは言うのふりがなの問題で、口語的な書き方をするギャル語では<ゆう>と書かれていることが多いような気がする。現代の言文一致運動かもしれない。

(おわり)

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びっくりするほど遅い

 ようやく2章をwordに打ち終えた。5月19日から6月18日までかかって約4000字。延べ平均すれば約130字/日となる。原稿用紙一枚より少ない。たぶん今世界で一番遅い小説家は牛野小雪なのではないか。書いていないわけではないけれど、ノートに書いた仮書きの90%以上は使われないので取れ高が少ない。そこまでやってもやっぱりまだまだだと思う。先月の第一章はもうばりばり推敲できてしまった。2章だってたぶん時間を置けば手を加えられるだろう。完璧な文章なんて夢物語のような気がしてきた。

ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

同じものを書いて違う結果を求める

 毎日同じところを書いている。プロットは書く前に引いているので仮書きで何を書くのかも決まっている。5回目ぐらいになると手が憶えている所もあって、こんな書き直しに意味はあるのか? と自分でも疑う時がある。

 同じものを書こうとすれば同じものが出力されるはずだが、不思議なことにまったく同じが出てくるわけではない。もちろん9割くらいは同じだが、わずかな違いもある(推敲してるし当然か)。その違いが積み重なっていくと、ある瞬間にパッと白い稲妻が走って、そこからバババッと水が氷に変わるようにひらめきが広がっていく。こういうことが起きると、ああ、やっぱり間違っていなかったなと思える。
004 kick


 もう小説を一本書いたような気がするし、事実、字数で言えばもう10万字以上書いている(9割は同じだけど)。それなのにまだwordには4000字しか書かれていないというのが凄いよなとビックリする。5月から仮書きを初めて、もう6月も中頃なのに、まだ2章を書き終わっていない。こんな調子でこの小説を書き終えることができるんだろうかと不思議に思う。もしかしたら『ペンギンと太陽』は頓挫するかもしれない。でも今が一番良い小説を書いているような気がしている。

(おわり)

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延べ平均70字/日

 今回は仮書きを毎日推敲して、次の日はまた一から書き直している。賽の河原だ。この書き方だと長編はもちろん短編でさえ書き切ることは不可能なので、一章ごと(原稿用紙10枚ぐらい)に書くことにした。

003 take10


 一章はtake10。つまり10回書き直してからwordに打ち込んだ。約4000字。最初はプロットを書いていた期間もあるので、この先数字が増えることもあるだろうが、プロットを書き始めてからここまで来るのに延べ平均70字/日だと分かった。遅い遅いと思っていた『流星を打ち砕け』でさえ800字/日はあったからとんでもない遅さだ。

 推敲はまず一通り書き終えてからやるべきと色んな作家が言っている。まったくその通りで、毎日推敲していると小説を書き進める力が明らかに弱くなったのを感じる。『生存回路』から書けなかった日は一日もなかったが、今回は三年ぶりに書けない状態を味わっている。

 一文字も書けなかった日の夜なんかは、小説一冊を書くのに、こんなに手間と時間をかけて良いのだろうか。とんでもない浪費をしているのではないかという疑問が湧く時がある。それでもまた一から書き直して推敲する。推敲すればしただけ良くなっているような気がする。疲れで背中にべったりと暗い重力が張り付いていても、そこだけはみずみずしい手応えを必ず感じられる。

 season3の執筆はとことんやるがテーマだ。得るものが労力に見合わなくても、やると決めたのだから、やれるところまではやってみるつもりだ。

(おわり)

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アルファベットと識字障害

 ヨハン・ラインホルト・フォスター(Johann linehold Forster)という鳥類学者について調べていると、lineholdがなぜラインホルではなくラインホルなのか気になってしまったので調べた。dの発音はドイツ語でもダ系の発音だが、音節の最後のくるとtの発音になるらしい。なぜそうなるのかは分からなかった。とにかくtの発音になる。いや、正確には無声音だ。tの口の動きで息を吐くという意味で、たとえばアメリカの大統領ドナルド・トランプ(Donald Trump)をドイツ語で発音したならばドナルト・トランプではなくドナル・トランプになる。怒鳴るは日本語だけど、怒鳴っている印象が彼にはある。ちなみにトランプ大統領はドイツ系らしい。

002 ドナルトランプ


 アルファベット発音って理不尽だよなと思う。英語圏の言葉はこういうのが多い。英語でもknightのkは発音しない。クナイトではなくナイトだ。欧米圏の人は何で読めるのかなと不思議になるが、実は読めない人はそう珍しくない。識字障害は10人に1人もいるそうで、ハリウッドスターのトム・クルーズもそうだ。英語を読むのはミッション・インポッシブル。ネイティブでさえつまづくのだから、日本人が英語が下手なのは仕方がない。どうしてローマ帝国は滅んだのだろう。そうすれば綴りと発音が分かりやすかったのに。

 でも小学校を思い返してみれば、どうして『は』が『わ』になるのか意味不明だった。今でもそうだ。『は』と『わ』の違いは体得しているが、理解はしていない。この時は『は』、この時は『わ』と分かるだけだ(もしかしたら分からない時もあるかもしれない)。探せば、どの国の言葉にも理不尽はある。それを含めて文化なんじゃないかな。明治時代に日本語を作り直そうとした人達はいるが失敗している。変えようと思って変えられるものではないが、変わる時は変わって欲しくなくても変わるものだ。

(おわり)

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万年筆が使えるじゃないか

 今まで雑感帳や仮書きのノートを書く時は1.0mmのボールペンを使っていた。何時間も書いていると0.7mmでは腕が痛くなってくるし、それは後日に持ち越される。本当は1.2mmが良いのだが替え芯の問題がある。店に置いてある替え芯は0.5とか0.3とか細いのばかりでインクが切れたらもう使えなくなってしまうのだ。そもそも1.2mmのペン自体があんまり置いていない。みんな細い字が好きだ。私もそう。

 前作『流星を打ち砕け』で1.0mmの替え芯は全部使い切ってしまった。しかし店へ行くと1.0mmの替え芯どころか、ボールペンも置いていなかった。しかたがないので5Bぐらいの鉛筆で書こうかなと考えていると、ふと万年筆があることに気付いた。

001 万年筆 01


 この万年筆は15年以上前に買った物で、キャップの金具の部分に緑青色の錆が浮いている。一万円もしたので買うのに勇気が要った。太さは中字で1.0mmと同じくらい。私が選んだのではなく店の人が選んだ。ピカピカ光るガラス張りケースの前で「この万年筆をください」と言った時はシュッとしたスタイリッシュな細い字を書ける万年筆を買おうとしていたが、店のおじさんが何を書くのかと訊いてきたので「小説を書く」と答えると、それならこれにしなさいと同じ値段で中字の万年筆に決められた。勧められたのではない。おじさんは声こそ優しかったが、何の説明もなく、もうこれにするからなという雰囲気をぷんぷん放っていたので、細字の万年筆に未練はあったが「じゃあ、それでお願いします」と言ってしまった。平成の時代でも、ひどいことはひどいがおじさんが若い坊主に丁寧な説明なんかしてくれなくても、それはそういうものだと思う時代だった。今でもまだそうなのかな。

 家に帰って箱を開けると、ポクッと優しい音が鳴った。これはいつも買っている筆記用具じゃないぞという感じがした。中には宝石箱のつやつやした布地にリボンで付けられた万年筆。試しにノートに線を引いてみると最初は滑るような感覚に驚いた。でもそれ以上に驚いたのは(やっぱり太い)ということだ。ガラスケースの向こう側で見たスタイリッシュな細い線が頭に浮かんだ。やっぱりあの万年筆に変えてもらおうかと何度も考えたが、結局勇気が出なくて、そのままにした。

 若い坊主が生意気にも万年筆を買いに来たから世間の厳しさを教えてやれ。そういう嫌がらせを受けたのだとずっと思っていたが、あるきっかけで細字の万年筆が手元に転がり込んでくるラッキーがあった。それで細字で執筆していたこともあったが、原稿用紙4枚ぐらいで腕に負担がくるとすぐに気付いた。疲れというかコリも翌日に続く。中字だと20枚近くまでは負担なくいける。そこでようやくおじさんが中字にした理由が分かった。それ以来ノートを書く時もなるべく太い字のペンで書くようにしたら、だいぶ楽になった。

 いや、待てよ。ノートには万年筆使わんのか~い! と思った人がいるかもしれない。そう、事実使わなかったのである。小説を書くために買ったのだから、小説を書く時にしか万年筆を使わなかった。原稿用紙=万年筆である。それ以外にも使えるのではないかと気付いたのは、つい最近のことだ。なんたる頭の固さ。ノートにはボールペンか、鉛筆か、シャープペンシルを使うことしか頭になかったが、万年筆どころか墨を付けた筆で書いてもいい。

 万年筆がボールペンより良いのは、替え芯のmm数を気にしなくてもいいことだ。インクが無くなればカートリッジを代えればいいだけ。どの太さでもインクは同じ。どうして今まで気付かなかったのだろう。頭の固い奴だな、ちょっと笑える話だった。今は何でも万年筆で書いている。これで替え芯を買い溜めしなくてもよくなった。

<おわり>

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本当は知らないのに知っていると思い込んでいることが邪魔になることもある

 ソクラテスが昼間の市中でたいまつをともしながら「人間はどこだ」と探し回る逸話をノートに書いていて、ふとどういう経緯でそんなことをしたのか気になってgoogle検索してみると、全然ヒットしなかった。おかしいな、とwikipediaでソクラテスを見たり、ソクラテスの逸話、小話、とかで検索してもまったく出てこなかった。そんなわけあるか、絶対にこの話を読むか聞くかした記憶があると絶対の自信を持っていたので、一日中その逸話を探していたが、ネットにも本にも見つからない。

 人は自分の見識と違うことが起きると、超現実を信じてしまうようだ。私はソクラテスが人間を探さなかった並行宇宙に迷い込んだとしばらく信じていた。本当に不思議だが、こんなことがありえるのかと、奇妙に納得していた。しかしふと何故かディオゲネスについて調べたくなり、wikipediaを読むと、ようやく答えが見つかった。私が探していたのは彼だった。ディオゲネスがランタンを灯して「正しい人間はどこにいる」と歩き回っていたのだ。
 
 ソクラテスはディオゲネスで、たいまつはランタンだった。でも私は何故か前者の方が正しいと思い込んでいて(でも本当に並行宇宙に迷い込んだのかもしれない)、それがために一日中何もないところを歩き回されていたというわけだ。ソクラテスに「知っていると思い込んでいるが何も知らない人だ」とdisられてもしかたがない。

 本当に名前については信用ならない。自分の小説の登場人物でさえ名前を間違えるくらいダメだ。どうやったらちゃんと名前を憶えられるんだろう。人の名前はもちろん、ペンネームの牛野小雪でさえ思い出せない時がある。

(未完)

※ちなみにディオゲネスが見つけたのは詐欺師とごろつきだったそうな。

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無意識と文学、オートマティズム

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 今年の二月に『流星を打ち砕け』を出してそろそろ一季節が過ぎそうだが、次回作はまだほとんど形になっていない。たぶん今回もまた一年かけて書くつもりなので、書くことだけじゃなくて、書き方まで考えることが多いからだ。相当時間を浪費している感じはあるが気分は悪くない。空振りに終わるかもしれないが良い体験をしている。

 何年か前に文学界で岡崎京子という漫画家の特集があって、それがきっかけで『pink』を読んだ。登場人物にハルヲくんというのがいて、小説を切り貼りして作るという手法で小説の賞を取るというエピソードがあった。ちょっと衝撃的だったの調べてみると、そういう手法は普通にあるらしい(最初から最後までやるのか、一部だけでそうするのかは分からないけど)。たぶんカットなんとかという名前だったはずだが検索しても出てこない。もしかしたら全然違う名前かもしれないし、映画か漫画の手法だったかもしれない。知っている人がいたら教えてほしい。

 それからたびたび考えていることの一つにオートマティズムがある。簡単に言えば無意識を利用した執筆方法だ。別に新しい手法ではなく、絵画の世界(文学が先?)だともう枯れた技術といってもいいぐらいで私にも真似できる物があるほどだ。たとえば『ターンワールド』の表紙は小さくした画面に線をむちゃくちゃ描いただけだし(こうすると描いている時はどうなっているか分からない)、この前出した『流星を打ち砕け』の表紙もコラージュの手法からアイデアを得た。最近(これももう古典化してきたが)はもう無意識さえ排除する動きもあってアーティストが筆を取らないパターンさえある。この前『日曜美術館』で見たのは電車の揺れで絵を描く人が紹介されていた。ここまでくるとそれってアートなの? 芸術ってなに? と思ってしまうので、今のところは無意識だ。

 3000年前のたぶんギリシャの詩人が「今を生きる人間にはもう新しいことは残されていない」と言ったように絵画はもちろん文学の世界でもオートマティズムが注目されていたことがあるそうだ。高速記述とか、ドラッグで意識を朦朧とさせた状態で書くとか、そんなところ。でも芥川竜之介が薬でへろへろになっている頃のは好きじゃないし、この辺りで壁にぶち当たって一度オートマティズムについては頓挫した。大体この道の咲に何かがあるなら今もオートマティズムで書く作家がいるはずだし、手法も発掘されているはず。つまりどん詰まりってこと。

 だいたい無意識を言葉として捉えられるなら、それはもう意識じゃないか? 書くという意識的な行為で無意識を書くなんて不可能だ。とか考えていたんだけど、ふと何かの偶然でフロイトの無意識の記述を読んで分かったことがある。

 無意識なんて存在しない!
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 正確に言えば無意識のイメージに間違いがあった。
 たいていの本では海に浮かぶ氷山があって、海上に出ている部分が意識、海中にある部分が無意識と説明されているが、フロイトによると抑圧は形を変えて現れるので、無意識は必ず意識上に現れる。常に感じ取れるものなのだ。心の四次元ポケットは存在しない。

無意識は自分

 従来の意識無意識の関係は左だが、どうも右の捉え方がしっくりくるように思う。無意識はここにある。ゴミ箱の中にある物が私の無意識かもしれないし、他人の中に私がいるかもしれない(特に嫌な奴)。いや、たぶんそうなのだ。だから嫌なことばかり考えてみた。今まで出会った底意地の悪い人、気持ち悪い物、汚い物、不幸。すると凄く気持ちが落ち込んできた。絶対に何か間違っていると思った。それに自分の中にある醜さや恥を見つめて、人前にさらけ出すなんて古い文学感だ。よくよく考えてみれば無意識にだって良いこともあるはずだし、隠される物は良いものじゃないか。

 でも、だ。抑圧が形を変えて姿を現すのなら、嫌なものは無意識では良いものなのかもしれない。じゃあいいものは悪いもの? いいはわるい、わるいはいい。なんてワルプルギスの夜で歌われそうな歌詞だけど、それもまたしっくりきた。

 結局、それでどうしたというわけなんだけど、結論なんてものはなくて、ただ感じたり考えたりしたことを書いただけで、この記事には何の意味もないし、どこへ行くわけでもない。これ以上書くことは何もないから未完で終わり。

 でも無意識では意味があるかもね。

(未完)

pink 新装版
岡崎京子
マガジンハウス
2016-08-31


精神分析入門(上) (新潮文庫)
フロイト
新潮社
1977-02-01


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