愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

ヘミングウェイ

ヘミングウェイの猫とかいうかわいすぎる概念【架空のなんJ】

1:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:15:42 ID:nekoSuki

マッチョでハードボイルドな文豪がクソ猫好き

しかもその子孫たちが今も博物館でぬくぬく暮らしてるという事実

最高すぎんか?

2:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:16:01 ID:mittonNeko

指が6本あるやつやろ?

ミトンみたいで可愛い

3:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:16:25 ID:haraday

はよ画像ハラデイ

4:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:16:58 ID:nekoSuki

3

ほれ

これがヘミングウェイ・キャットや

Polydactylcat

お手々がキュートすぎるんじゃ

5:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:17:11 ID:keyWest

うおおおおおおおおお

かわヨ

6:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:17:33 ID:yubi6hon

なんで指多いんや?

突然変異か?

7:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:18:02 ID:kaisetuNiki

6

多指症っていう遺伝的な特徴やね

ヘミングウェイが船乗りの友人から「スノーボール」っていう6本指の猫を貰ったのが始まり

その子孫が今もフロリダのヘミングウェイ博物館に住み着いとるんやで

8:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:18:25 ID:mofuMofu

文豪と猫の組み合わせは鉄板

谷崎潤一郎とかもそうやし

9:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:18:49 ID:mittonNeko

7

サンキュー解説ニキ

船乗りにとっては幸運の猫とされてたんやろ?

指が多いから船上でもバランス取りやすいとかで

10:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:19:05 ID:FBIkansityu

FBIに監視されてた時もこいつらが癒しやったんかなあ…

11:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:19:33 ID:keyWest

今50匹くらいおるらしいな

半分くらいが多指症の遺伝子もっとるんやて

12:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:19:58 ID:haraday

天国やんけ…

ワイもヘミングウェイ博物館に住みたい

13:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:20:12 ID:nanJmin

猫パンチ強そう(小並感)

14:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:20:39 ID:nekoSuki

しかも一匹一匹に有名人の名前がつけられとるんや

マリリン・モンローとか、チャーリー・チャップリンとか

15:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:21:05 ID:yubi6hon

14

オシャレすぎやろ

ワイんちのタマとは大違いや

16:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:21:28 ID:kaisetuNiki

ハリケーンが来ても「この家は頑丈だから」って猫たちは博物館から避難せんのやで

職員と一緒に立てこもる

リアル「老人と海(と猫)」や

17:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:21:55 ID:mofuMofu

16

ええ話や…泣ける

18:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:22:11 ID:mittonNeko

ヘミングウェイ自身も猫のこと「Purr Factory(ゴロゴロ製造工場)」とか呼んで溺愛しとったらしい

ギャップ萌えがすごい

19:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:22:38 ID:FBIkansityu

猟銃自殺した時、猫たちはどうしたんやろ…

20:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:23:01 ID:keyWest

19

それはアイダホの家での出来事やから、キーウェストの猫たちは直接は知らんのちゃうか

でも悲しいなあ

21:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:23:25 ID:haraday

指が多いと缶詰とか自分で開けられそう

22:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:23:49 ID:nanJmin

21

それはない

23:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:24:07 ID:nekoSuki

博物館のベッドとか普通に占領して寝とる写真見てるとほんま和む

人間より偉そうにしてるのがまたええんや

24:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:24:33 ID:kaisetuNiki

ちなみにこの猫たちは法律で保護されとる特別なお猫様やぞ

連邦政府から「歴史的遺産の一部」として認められとる

25:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:25:01 ID:yubi6hon

国家公認のニート様か

うらやましい

26:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:25:29 ID:mittonNeko

キーウェスト行ったことあるニキおる?

マジで猫天国なん?

27:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:25:55 ID:mofuMofu

26

行ったで

マジでそこら中に猫がおる。人懐っこいし最高やった

ヘミングウェイの書斎の椅子で寝てる猫を見た時は感動したわ

28:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:26:18 ID:haraday

ぐう羨ましい

人生で一度は行きたい場所リストに追加したわ

29:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:26:40 ID:FBIkansityu

ヘミングウェイ「猫は正直や。人間みたいに嘘つかんからな(チラッ」

30:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:27:03 ID:keyWest

結局猫が一番信用できるってはっきりわかんだね

31:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:27:29 ID:nanJmin

ヘミングウェイって名前は知っとるけど作品は読んだことないってJ民、多そう

32:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:27:55 ID:kaisetuNiki

31

「老人と海」だけでも読んどくとええで

短くて読みやすいし、猫好きになった理由もなんとなくわかる気がする

33:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:28:11 ID:mofuMofu

ワイもヘミングウェイの猫に転生したい

名前は「オオタニサン」にしてもらいたい






アーネスト・ヘミングウェイ

生涯

出生と幼少期: アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは1899年7月21日、米国イリノイ州オークパーク(現シカゴ)に生まれました。父クラレンスは医師、母グレイスは元声楽家で、姉1人と妹4人の大家族でした。幼い頃から父に釣りや狩猟、ボクシングなどアウトドア活動を教わり、これが後年の彼の人格形成に影響を与えました。1913年に地元のオークパーク高校へ進学し、在学中から学校誌に短編小説を発表するなど文学に才能を示しました。

第一次世界大戦と作家としての出発: 高校卒業後の1917年に地方紙の見習い記者となりますがすぐ退職し、翌1918年、赤十字の救急隊員として第一次世界大戦下のイタリア戦線に赴きました。そこで負傷兵を救助中に自らも重傷を負い、入院先の病院で出会った看護師アグネス・フォン・クロウスキーと恋に落ちますが、この初恋は実りませんでした(後にこの体験が長編小説『武器よさらば』の下敷きとなります)。戦後はカナダのトロント・スター紙の特派員としてヨーロッパに渡り、1920年代前半は妻ハドリー・リチャードソンとパリに暮らしながら創作活動を開始します。パリではガートルード・スタインやエズラ・パウンド、F・スコット・フィッツジェラルドら文学仲間と交友を深め、いわゆる「失われた世代」の一員として文壇に登場しました。1926年、第一次大戦後の放蕩的な若者たちを描いた処女長編『日はまた昇る』を発表し、一躍その名が知られるようになります。

壮年期と戦争体験: 1928年に米国フロリダ州キーウェストへ移住した後も執筆を続け、1929年には自身の戦争体験を投影した長編『武器よさらば』を刊行します。1930年代には熱心な行動派作家として1936年から始まったスペイン内戦に共和派側で関与し、従軍記者や国際旅団の一員として取材・支援活動を行いました。この体験は小説『誰がために鐘は鳴る』(1940年)に結実し、戦時下における勇気と自己犠牲の物語として高い評価を得ます。第二次世界大戦中もヘミングウェイは従軍記者としてヨーロッパ戦線に赴き、ノルマンディー上陸作戦やパリ解放の現場に立ち会いました。戦後はキューバのハバナ郊外に居を構え、執筆活動の傍ら釣りや狩猟に熱中します。

晩年と死去: 1952年、キューバ沖を舞台に老人漁師の不屈の闘いを描いた『老人と海』を発表します。この作品は大きな反響を呼び、翌年ピュリッツァー賞を受賞、さらに1954年にはノーベル文学賞受賞の決め手ともなりました。しかし同1954年、アフリカ旅行中に二度の飛行機事故に遭って重傷を負い、以後健康は衰えていきます。1959年のキューバ革命を機に長年暮らしたキューバを離れた後、健康悪化と鬱病に苦しんだ彼は、1961年7月2日早朝、自宅のあるアイダホ州ケッチャムで散弾銃自殺により生涯を閉じました(享年61歳)。

代表作とテーマ

ヘミングウェイの代表作には長編小説『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などが挙げられ、これらはいずれもアメリカ文学の古典と見なされています。各作品の概要とテーマを以下に解説します。

『日はまた昇る』(1926年)

第一次大戦後のパリとスペインを舞台に、傷痍軍人のジェイク・バーンズや貴族女性ブレット・アシュリーら退廃的な米英人 expatriates(海外在留者)たちの生活を描いたヘミングウェイ最初の長編小説です。華やかな祭典(スペインの牛追い祭)に興じながらも虚無的な登場人物たちの姿を通し、戦後世代の喪失感やモラルの混乱を活写しています。ヘミングウェイ自身の友人であったガートルード・スタインの言葉に由来する「失われた世代」の典型として、登場人物たちは精神的にも道徳的にも方向を見失っており、その放蕩な生活には戦争の残した虚無が色濃く漂います。ヘミングウェイは感傷や饒舌を排した簡潔な筆致で彼らの空虚さを描き出し、この作品によって20世紀文学の新たな地平を切り開きました。

『武器よさらば』(1929年)

ヘミングウェイ自身の第一次大戦での負傷経験を色濃く反映した自伝的長編小説です。イタリア戦線の野戦救急隊に従事する米国人青年フレデリックと英国人看護師キャサリンとの悲恋が骨子であり、戦場で芽生えた愛は戦火の激化とともに悲劇的結末を迎えます。作者はこの作品で戦争の現実を美化せずリアルに描き、読者がまるで戦場を目撃しているかのような臨場感を与えようとしました。そのため文体は非常に簡潔で平明な語彙が用いられ、不必要な形容詞や副詞は削ぎ落とされています。短く率直な宣言的文の連続によって戦場の暴力や混乱を淡々と伝え、過剰な感情描写を排することで逆に戦争の不条理を際立たせています。物語の結末、すなわち愛する者(キャサリンとその子)を喪い孤独の中に取り残された主人公の姿は、戦後の失われた世代が味わった失意と虚無を象徴しており、読後に深い余韻を残します。

『誰がために鐘は鳴る』(1940年)

1930年代のスペイン内戦を背景に、アメリカ人教師ロバート・ジョーダンが共和派ゲリラ部隊に加わり、敵陣の橋を爆破する任務に挑む物語です。ヘミングウェイ自身が戦場で目にした市井の人々(農夫・ジプシー・女性兵士など)との交流や、戦地で芽生えた恋(ゲリラの娘マリアとの愛)を織り交ぜ、極限状況下での勇気と人間愛を描き出した傑作長編です。タイトルの「誰がために鐘は鳴る」は17世紀英国の詩人ジョン・ダンの有名な一節に由来しており、「決して問い給うな、鐘は汝のために鳴るのだ」という言葉が示すように、作品全体の主題は人類の連帯と自己犠牲にあります。主人公ロバートは任務遂行の末に重傷を負い、愛するマリアや仲間を逃がすため自らは残って敵を待ち受けます。彼の姿は自由と信念のために命を賭す崇高な自己犠牲の精神を体現しており、戦争文学におけるヒューマニズムの金字塔とも評されています。

『老人と海』(1952年)

キューバの老漁師サンチャゴと巨大なカジキとの果敢な格闘を描いた中編小説で、ヘミングウェイ晩年の代表作です。84日間も魚が釣れない不運に見舞われていた老人が、単身小舟で沖に漕ぎ出し、ついに自分の小舟よりも大きなマーリン(カジキ)を釣り上げます。魚との3日3晩に及ぶ死闘は老人の孤独と誇り、そして自然への畏敬を象徴的に描き出しており、人間の不屈の精神と尊厳がテーマとなっています。老人は最後にサメに獲物を奪われてしまうものの、その不屈の闘いぶりには読後、崇高な感動が残ります。ヘミングウェイはこの作品で簡潔にして力強い文体の粋を極め、タールや塩の匂い、血の匂いまでも感じさせる身体性豊かな描写によって読者を物語の現場へ引き込みました。発表当時『老人と海』は直ちに絶賛をもって迎えられ、ヘミングウェイ自身の最高傑作の一つとみなされています。この作品によって彼は1953年にピュリッツァー賞を受賞、1954年のノーベル文学賞受賞時にも選考理由として本作の功績が特に言及されました。

文体の特徴

ヘミングウェイの文体は簡潔さ抑制に特徴があります。もともと新聞記者としてキャリアを開始したこともあり、無駄を削ぎ落とした短い文章と平易な語彙で構成される文章スタイルを確立しました。描写においては冗長な形容詞や副詞を極力避け、本質的な事実のみを積み重ねることで独特の緊張感と明快さを生み出しています。例えば『武器よさらば』執筆時、彼は「そして(and)」という接続詞を意図的に頻用し、短い平叙文を連ねることで臨場感あるリズムを刻みました。この手法により読者はまるで場面を目撃しているかのような没入感を得る一方、饒舌な説明が省かれているぶん行間に込められた意味を自ら感じ取ることを求められます。

ヘミングウェイ自身、この「氷山理論」と呼ばれる手法について『午後の死』の中で次のように述べています。「もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ」。つまり物語の表面に描かれた部分(=氷山の一角)は全体のごく一部に過ぎず、水面下に沈んだ大部分の意味を読者に推察させるという文学的手法です。この理論のもと、ヘミングウェイは登場人物の感情も直接的には語りません。登場人物の行動や会話のみを客観的に描写し、その奥に潜む感情やテーマを読者が読み解くよう仕向けています。この省略の美学によって生まれる含蓄こそが、ヘミングウェイ文体の持つ深みと言えるでしょう。実際、彼の作品に学んだ後進の作家たち(例えばレイモンド・カーヴァーなど)も、一見平易な単語と短文で綴りながら読解に高度な洞察を要する作風を発展させています。ヘミングウェイの簡潔で力強い文章と「氷山理論」による暗示的表現は、20世紀小説のスタイルに革命をもたらし、多くの読者を魅了し続けています。

文学的影響

ヘミングウェイは20世紀文学に計り知れない影響を与えました。彼が確立した簡潔凝縮された文体は同時代から後代にかけて多くの作家に強い影響を及ぼし、イギリスやアメリカの作家たちは何十年にもわたりその文体を手本としました。特にヘミングウェイの短編に見られるハードボイルドな簡潔文体は、ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーらに代表される後のハードボイルド文学の原点とみなされています。暗喩に富む会話や抑制された感情表現、ストイックな男性主人公の造形など、ヘミングウェイが打ち立てたスタイルやテーマは後続の作家たちに受け継がれました。例えばアメリカの短編小説作家レイモンド・カーヴァーは「氷山理論」を体現するかのような極めて簡潔な筆致で作品を書き、しばしば「ヘミングウェイの後継者」と称されています。また日本においても、開高健や村上春樹といった作家がヘミングウェイから影響を受けたことを公言しており、その文学的遺産は国境を越えて広がりました。ヘミングウェイの文体と物語手法は20世紀文学の様式そのものを変革したと評価され、彼の作品群は現在まで読み継がれるとともに、「ヘミングウェイ的」と形容される文体は一つの代名詞となっています。

映画化された作品と評価

ヘミングウェイの小説は数多く映画化されており、その評価も作品ごとにさまざまです。なかでも『誰がために鐘は鳴る』は1943年にサム・ウッド監督、ゲイリー・クーパー&イングリッド・バーグマン主演で映画化され、原作のロマンとスケール感を映像化した作品として高い評価を受けました。この映画は第16回アカデミー賞で作品賞を含む9部門にノミネートされ、スペイン人ゲリラの女性ピラールを演じたカティナ・パクシノーが助演女優賞を受賞しています。ヘミングウェイ作品の映画化として最大の成功を収めた一本と言えるでしょう。

『武器よさらば』については1932年にフランク・ボーゼイジ監督、ゲイリー・クーパー主演で最初の映画化が行われました。戦場下の悲恋というテーマが当時の観客に感動を与え、こちらも第6回アカデミー賞で作品賞にノミネートされ、撮影賞・録音賞の2部門で受賞を果たしています。1957年にはデヴィッド・O・セルズニック制作による大規模なリメイク版(監督チャールズ・ヴィダー、主演ロック・ハドソン)も公開されましたが、こちらはオリジナル版ほどの評価は得られませんでした。

『日はまた昇る』は1957年、ヘンリー・キング監督によりタイロン・パワー、エヴァ・ガードナーら当時のオールスターキャストで映画化されました。しかし原作の繊細な心理描写を映像化することは難しく、公開当時の評価は賛否の分かれるものでした。むしろ酒に溺れる中年男マイクを演じた名優エロール・フリンの怪演が批評家から称賛された一方、脚色の平板さを指摘する声もあり、興行的には成功したものの文学的完成度の面では限界があったとされています。ヘミングウェイ自身もこの映画版には辛辣な評価を下したことが伝えられています。

『老人と海』は1958年、ジョン・スタージェス監督・スペンサー・トレイシー主演で映画化されました。海と格闘する孤独な老人という地味な題材ながら、トレイシーの渾身の演技が光り、第31回アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされました(※受賞は逃したものの、この演技は彼にとって通算6度目のオスカーノミネートとなりました)。また音楽を担当したディミトリ・ティオムキンは本作でアカデミー作曲賞を受賞しています。映画自体も興行的に成功を収め、全編にわたるキューバの海のロケ撮影やトレイシーの独白劇的演技が評価されました。ヘミングウェイ作品の映画化はこの他にも、『キリマンジャロの雪』(1952年、監督ヘンリー・キング)や『殺し屋』(1946年、原作短編「殺し屋」)など枚挙にいとまがありません。総じてヘミングウェイ原作の映画は名優・名監督によって幾度も映像化され、文学作品の映画化という難しさと可能性の両方を示してきました。成功作もあれば原作ファンの批判を受けた作品もありますが、彼の物語がそれだけ普遍的な魅力と映像的想像力を喚起する力を持っている証と言えるでしょう。

最後に、ヘミングウェイの遺した物語と文体は時代を超えて読み継がれる文化遺産となっており、その人生と作品は今なお世界中の文学・映像作品に影響を与え続けています。

ヘミングウェイ「ワイはFBIに監視されとる」(´・ω・`)「オクスリ出しときますね」【架空のなんJ】

1:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:38:32 ID:FBIsuman

FBI「すまんかった」

という事実w

2:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:39:01 ID:yamiFukao

マ?

闇深すぎて草

3:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:39:25 ID:nanjeyasan

どういうことやねん

詳しく教えろください

4:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:39:58 ID:nekoNiki

マジやで

晩年のヘミングウェイは被害妄想が酷いって糖質扱いされてたんや

でも死後に情報公開されたらガチでFBIに監視されとった

5:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:40:11 ID:sensouOji

医者「電話も盗聴されとる?妄想ですねえ…電気ショックしときますねー」

FBI「(マジで盗聴しとるけど)シーッ!🤫」

これもう半分殺したようなもんやろ

6:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:40:49 ID:roujinToUmi

老人と海しか知らんけどそんなことなっとったんか

7:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:41:05 ID:FBIsuman

6

せやで

「銀行口座も監視されとる!」→ガチ

「車も尾行されとる!」→ガチ

「友人までスパイにされとる!」→ガチ

家族も友人も誰も信じてくれんかったんや…

8:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:41:33 ID:kubanokage

なんでそんな監視されとったんや?

キューバにおったからか?

9:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:42:02 ID:castroFan

8

せやな

カストロと知り合いやったし、ソ連のスパイちゃうかと疑われとったらしい

まあ実際はシロやったんやけど

10:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:42:28 ID:kusuriKowai

(´・ω・`)「妄想を抑えるお薬です」

彡(゚)(゚)「……」ゴクー

可哀想すぎるやろ

11:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:42:55 ID:papaHemingway

これで精神病んで猟銃自殺やからな

後味悪すぎやろ

12:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:43:10 ID:yabuIsya

医者、痛恨のミス!w

13:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:43:44 ID:denkiShock

電気ショック療法で記憶もめちゃくちゃにされたらしいな

作家にとって致命的やんけ

14:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:44:01 ID:nanjeyasan

13

これもう半分拷問やろ…

アメリカ怖すぎ

15:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:44:29 ID:bellTolls

誰がために鐘は鳴る(自分のための弔鐘)

16:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:44:50 ID:ho-gokuNiki

ちなみに監視してたFBI長官はフーヴァーや

こいつも相当なクズ

17:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:45:12 ID:syouriNasi

武器よさらば(猟銃ドーン)

シャレにならん

18:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:45:39 ID:machoMan

あんなマッチョで戦争も経験したタフガイが…

19:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:46:05 ID:FBIsuman

18

タフガイやからこそ、誰も信じてくれん状況に耐えられんかったんやろな

プライドもズタズタにされたやろし

20:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:46:21 ID:nekoNiki

ヘミングウェイんちの猫の子孫が今でもぎょうさんおるって話すき

21:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:46:48 ID:daiquiriNomi

酒浸りになったのも無理ないわな

シラフじゃやっとれん

22:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:47:02 ID:usoHapi

ワイも集団ストーカーに狙われとる!

あっ…(察し)

23:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:47:33 ID:j-anJ民

22

お薬出しときますねー

24:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:47:50 ID:roujinToUmi

事実は小説より奇なり、とはよく言ったもんやな

25:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:48:11 ID:soredemoYomu

でも作品はクッソ面白いからセーフ

26:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:48:35 ID:kubanokage

FBI「泳がせとこ。面白い小説書くかもしれんし」

くらいの余裕はなかったんか

27:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:48:59 ID:yamiFukao

26

赤狩りの時代やから無理やろなあ

疑わしきは罰せよの精神や

28:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:49:18 ID:papaHemingway

家族も辛かったやろうな

親父がガチでヤバい奴と思い込んでたんやから

29:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:49:40 ID:sensouOji

28

真実を知った時の奥さんのコメントとかあるんかな

胸糞悪すぎて調べられん

30:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:50:06 ID:FBIsuman

周りの人間が全員敵に見えるって地獄やでほんま

31:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:50:29 ID:nanjeyasan

これもう半分国家による殺人やろ

32:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:50:55 ID:kusuriKowai

オクスリ(意味深)

33:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:51:11 ID:machoMan

真実を訴えれば訴えるほど「ほら、妄想が悪化しとる」って思われるんやろ?

詰んどるやん

34:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:51:38 ID:denkiShock

医者「今日は気分どうです?」

ヘミングウェイ「まだ監視されとる」

医者「(アカンか)電気ショック強めにしとこ!」

鬼畜の所業

35:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:52:01 ID:castroFan

CIAとかも関わっとるんかな

36:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:52:25 ID:bellTolls

死後数十年経ってから「お前の言うこと、全部本当だったぞ」って言われてもなあ…

37:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:52:49 ID:roujinToUmi

天国で「ほら見たことか!」ってドヤ顔しとるやろか

38:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:53:05 ID:j-anJ民

37

悲しいなあ

39:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:53:31 ID:yabuIsya

医者もFBIに脅されとった可能性

40:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:53:58 ID:syouriNasi

ワイらが今「陰謀論」で片付けてることも、数十年後には事実でしたってなるんかな

41:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:54:15 ID:FBIsuman

40

あるやろなあ

歴史は繰り返すんや

42:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:54:40 ID:nekoNiki

結局、一番の敵は国家権力やったというオチ

43:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:55:03 ID:daiquiriNomi

ヘミングウェイの墓にダイキリ捧げに行きたい

44:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:55:22 ID:ho-gokuNiki

サンキューイッチ

勉強になったわ

45:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:55:49 ID:usoHapi

ワイも監視されとるかもしれんからそろそろ落ちるわ

46:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:56:07 ID:kubanokage

お前を監視するほど暇なやつはおらんぞ

47:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:56:29 ID:papaHemingway

まあでも、この話知ってから作品読むと味わい深いわな

48:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:56:55 ID:machoMan

ハードボイルドを地で行き過ぎたんや…

49:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:57:10 ID:nanjeyasan

なんJ探偵団、これにて解散!

50:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:57:38 ID:FBIsuman

ほな…

皆も背後には気をつけるんやで


牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25


ヘミングウェイとパリ

アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)は、20世紀アメリカ文学を代表する作家の一人ですが、彼の人生と作品にとってパリは特別な意味を持つ都市でした。1920年代のパリでの生活は、ヘミングウェイの作家としての成長に決定的な影響を与え、後の作品の多くに反映されることになります。

1. パリへの到着と初期の生活

1921年12月、22歳のヘミングウェイは妻ハドリーとともにパリに到着しました。当時のパリは、第一次世界大戦後の混乱から立ち直りつつあり、世界中から芸術家や作家が集まる文化の中心地でした。ヘミングウェイは、トロント・スター紙の特派員として働きながら、作家としての道を模索し始めます。

彼らは最初、ラテン区の小さなアパートに住みました。この地域は、カフェや書店が立ち並ぶ文化的な雰囲気に満ちており、若いヘミングウェイにとって刺激的な環境でした。

2. 文学的交流と影響

パリでヘミングウェイは、多くの著名な作家や芸術家と交流しました。特に重要だったのが、アメリカ人作家ガートルード・スタインとの出会いです。スタインは、若いヘミングウェイに文学的助言を与え、彼の才能を育てる役割を果たしました。

また、ジェイムズ・ジョイス、エズラ・パウンド、F・スコット・フィッツジェラルドなど、当時のパリに集まっていた作家たちとの交流も、ヘミングウェイの文学的成長に大きな影響を与えました。彼らとの議論や競争意識が、ヘミングウェイの文体や主題の発展に寄与したと言えるでしょう。

3. カフェ文化とヘミングウェイ

パリのカフェ文化は、ヘミングウェイの創作活動と密接に結びついています。特に、モンパルナスのカフェ・クロズリー・デ・リラやサン=ジェルマン・デ・プレのカフェ・ド・フロールなどは、彼のお気に入りの執筆場所でした。

ヘミングウェイは、カフェで長時間過ごし、観察し、書き、他の作家や芸術家と交流しました。この経験は、後の作品『移動祝祭日』などに生き生きと描かれています。

4. パリでの創作活動

パリ時代のヘミングウェイは、短編小説を中心に精力的に執筆活動を行いました。1924年には最初の作品集『イン・アワ・タイム』をパリで出版し、1926年には処女長編小説『日はまた昇る』を完成させます。

これらの作品は、簡潔で力強い文体、いわゆる「氷山理論」に基づく抑制の効いた描写で注目を集め、ヘミングウェイの名を一躍有名にしました。パリでの生活や経験が、これらの作品の背景や登場人物の造形に大きな影響を与えています。

5. 「失われた世代」とパリ

ヘミングウェイを含む1920年代にパリに滞在したアメリカ人作家たちは、ガートルード・スタインによって「失われた世代」と呼ばれました。第一次世界大戦後の価値観の崩壊と新しい時代への適応に苦悩する彼らの姿は、ヘミングウェイの作品にも色濃く反映されています。

パリは、この「失われた世代」の作家たちにとって、創造的な自由と芸術的な刺激を提供する場所でした。ヘミングウェイの『日はまた昇る』は、まさにこの世代の感性を体現した作品と言えるでしょう。

6. パリ離れとその後

1928年、ヘミングウェイはパリを去りますが、この都市との精神的なつながりは生涯続きました。第二次世界大戦中には、パリ解放に従軍記者として参加し、1944年8月には自ら率いた武装グループでリッツ・ホテルを「解放」したというエピソードも残っています。

晩年、ヘミングウェイは回顧的なエッセイ『移動祝祭日』(死後出版)を執筆し、1920年代のパリでの日々を生き生きと描き出しました。この作品は、若き日のヘミングウェイとパリの関係を知る上で貴重な資料となっています。

7. ヘミングウェイの遺産とパリ

今日、パリにはヘミングウェイゆかりの場所が数多く残されています。彼が住んだアパート、常連だったカフェ、執筆に使った図書館などが、文学ファンの巡礼地となっています。また、パリの書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」は、ヘミングウェイら「失われた世代」の作家たちを支援した歴史を持ち、今も多くの観光客を惹きつけています。

結論

ヘミングウェイにとってパリは、単なる滞在地以上の意味を持っていました。この都市は彼の文学的才能を開花させ、独自の文体と世界観を形成する上で決定的な役割を果たしました。同時に、ヘミングウェイの作品を通じて描かれたパリの姿は、今も多くの読者の心に鮮やかに焼き付いています。

ヘミングウェイとパリの関係は、芸術家と都市の相互作用がいかに創造的な成果を生み出すかを示す、典型的な例と言えるでしょう。1920年代のパリという特別な時代と場所が、ヘミングウェイという稀有な才能を育て、20世紀文学に大きな足跡を残すことになったのです。


20240728ブログに貼るようseason1


ヘミングウェイの『インディアンキャンプ』のあらすじ

物語は、ニック・アダムズという少年が父親(医師)と叔父とともにインディアンの集落を訪れるところから始まります。彼らは、難産に苦しむインディアン女性を助けるために呼ばれました。

ニックは父親が帝王切開を行う様子を目撃します。手術は成功しますが、その間、女性の夫が上の寝台で横たわっていました。手術が終わった後、彼らは夫が自殺していたことを発見します。

帰り道、ニックは父親に死について質問をします。父親は死を説明しようとしますが、ニックはまだ理解できません。

この物語は、若いニックが人生、出産、死、そして苦痛といった大きなテーマに初めて触れる様子を描いています。

パパヘミングウェイって? 意味は? どうしてそう呼ばれるようになったの?

アーネスト・ヘミングウェイ、20世紀アメリカ文学を代表する作家の一人です。しかし、彼の愛称である「パパ」ヘミングウェイという呼び名には、単なる親しみを込めた呼称以上の意味が込められています。この愛称は、彼の人生と文学、そして彼が体現した時代の精神を象徴しているのです。

ヘミングウェイが「パパ」と呼ばれるようになったのは、1930年代後半からだと言われています。当時、彼は40代半ばで、すでに『日はまた昇る』や『武器よさらば』などの代表作を発表し、文壇での地位を確立していました。しかし、「パパ」という呼び名は、単に年齢や地位によるものではありません。

この愛称には、ヘミングウェイの男性性、父性的な存在感が反映されています。彼は常に強さと勇気を体現する人物として知られていました。ボクシングや闘牛、狩猟、釣りなど、いわゆる「男らしい」活動を好み、そのライフスタイルは多くの人々の憧れとなりました。彼の文学作品も、しばしば勇敢な男性主人公を描いており、「強い男」のイメージを読者に与えていました。

また、ヘミングウェイは若い作家たちのメンターとしての役割も果たしていました。彼のもとには多くの若手作家が集まり、助言を求めました。この点で、彼は文学界の「父」的存在だったとも言えるでしょう。

しかし、「パパ」ヘミングウェイの姿には、複雑な側面もあります。彼は確かに強さを体現する人物でしたが、同時に深い脆弱性も抱えていました。アルコール依存症や鬱病に苦しみ、最終的には自ら命を絶つことになります。「パパ」という呼び名は、ある意味で彼の内なる弱さを隠すためのペルソナだったのかもしれません。

ヘミングウェイの文体も、「パパ」というイメージと密接に関連しています。彼の文章は簡潔で力強く、無駄を削ぎ落としたものでした。これは、彼が新聞記者として培った技術に基づいていますが、同時に「男らしさ」の表現でもあったのです。複雑な感情を直接的に表現するのではなく、氷山の一角理論と呼ばれる手法で、表面に現れない深い感情を暗示しました。

「パパ」ヘミングウェイは、また時代の象徴でもありました。彼は第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦と、20世紀前半の主要な戦争を経験しました。これらの経験は彼の作品に深い影響を与え、戦争と平和、生と死、愛と喪失といったテーマを生み出しました。「パパ」は、こうした激動の時代を生き抜いた証人であり、その経験を文学に昇華させた人物だったのです。

ヘミングウェイの「パパ」としての姿は、彼の私生活にも現れています。彼は4回の結婚を経験し、3人の息子がいました。しかし、彼の家族関係は必ずしも良好ではありませんでした。特に長男のジャックとは複雑な関係にあり、晩年には疎遠になっていました。「パパ」というイメージと、実際の父親としての姿のギャップは、彼の人生の矛盾を象徴しているようです。

「パパ」ヘミングウェイは、また冒険家としても知られていました。アフリカでのサファリ、カリブ海での釣り、スペインでの闘牛など、彼の冒険は作品の素材となると同時に、彼のイメージを形作る重要な要素となりました。この冒険好きな「パパ」の姿は、多くの人々の憧れとなり、彼の人気を高める一因となりました。

しかし、「パパ」という呼び名には、批判的な見方もあります。それは、ヘミングウェイの作品や生き方に見られる男性中心主義、時に女性蔑視とも取れる態度への批判です。彼の作品に描かれる女性像は、しばしばステレオタイプ的であり、現代の視点からは問題があると指摘されることがあります。

「パパ」ヘミングウェイは、20世紀アメリカの神話的存在とも言えるでしょう。彼は作家であり、冒険家であり、戦争の証人でもありました。その生き方は、多くのアメリカ人にとって「アメリカン・ドリーム」の体現でした。しかし同時に、その神話の裏には深い苦悩と矛盾が隠されていたのです。

「パパ」ヘミングウェイとは、一人の複雑な人間の姿を表現した言葉だと言えるでしょう。それは強さと弱さ、勇気と恐れ、愛と憎しみ、そして生と死が交錯する、一人の人間の姿なのです。彼の作品が今なお読み継がれ、「パパ」という愛称が記憶されているのは、その人間性の複雑さ、深さゆえなのかもしれません。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


ヘミングウェイの『インディアンキャンプ』を脱構築して読む

ヘミングウェイの「インディアンキャンプ」は、一見単純な物語に見えますが、脱構築的アプローチを用いることで、テキストに潜む複雑な意味の層と矛盾を明らかにすることができます。本稿では、ジャック・デリダの脱構築理論を基に、この短編小説を読み解いていきます。

まず、テキストの中心的な二項対立に注目しましょう。この物語には、文明/野蛮、大人/子供、男性/女性、白人/インディアン、生/死といった複数の二項対立が存在します。脱構築的読解では、これらの対立がどのように構築され、同時にどのように崩壊しているかを探ります。

文明/野蛮の対立は、白人医師とインディアンの共同体との関係に表れています。医師の科学的アプローチは「文明」を、インディアンの伝統的生活様式は「野蛮」を表すように見えます。しかし、この対立は物語の中で揺らいでいきます。医師の「文明的」な手法(帝王切開)が、極めて「野蛮」な方法(ジャックナイフと漁具の縫合糸を使用)で行われるという矛盾が生じています。さらに、「文明」の代表者である医師が、インディアン男性の自殺を予見できなかったという事実は、「文明」の限界を示唆しています。

大人/子供の対立も重要です。ニックは子供として物語に登場しますが、彼の経験は大人の世界への「イニシエーション」として機能します。しかし、この対立も絶対的ではありません。ニックの父親は、息子に死の現実を隠そうとする点で「子供っぽい」反応を示しています。また、ニックの「死ぬのはとてもつらいことなの?」という質問は、大人顔負けの洞察を含んでいます。

男性/女性の対立は、出産の場面で最も顕著です。女性の苦痛と忍耐が、男性の脆弱さ(自殺)と対比されています。しかし、この対立も単純ではありません。医師(男性)が出産(伝統的に女性の領域)に介入することで、ジェンダーの境界線が曖昧になっています。

白人/インディアンの対立も、テキスト全体を通じて構築されていますが、同時に崩壊しています。白人の「優越性」は医療技術によって示されますが、インディアンの世界に入ることで、白人たちは自身の限界と無力さにも直面します。

生/死の対立は物語の中心にありますが、これも絶対的ではありません。新しい生命の誕生と男性の自殺が同時に起こることで、生と死の境界線が曖昧になっています。さらに、ニックの父親の「死ぬのは思ったほどつらくない」という言葉は、生と死の絶対的な対立を相対化しています。

次に、テキストの「余白」に注目しましょう。物語で語られていないこと、抑圧されているものは何でしょうか。例えば、インディアン女性の声は完全に抑圧されています。彼女は叫び声を上げるだけで、言葉を発することはありません。また、インディアン男性の自殺の理由も明確には語られません。これらの「空白」は、テキストの意味を不安定にし、多様な解釈の可能性を開いています。

物語の「中心」と思われるものも、実は揺らいでいます。表面上、この物語はニックの成長物語のように見えますが、実際にはニックよりも彼の父親の方が大きな変化を経験しているかもしれません。医師としての自信と父親としての不安の間で揺れ動く父親の姿は、物語の「中心」を曖昧にしています。

また、タイトルの「インディアンキャンプ」という言葉自体も、脱構築の対象となり得ます。これは単なる場所の名称ではなく、白人の視点からインディアンの生活空間を定義し、「他者化」する行為を含んでいます。

さらに、物語の構造自体も脱構築的に読むことができます。冒頭と結末の湖の描写は、物語に円環的構造を与えているように見えます。しかし、この円環性は完全ではありません。ニックは同じ場所に戻ってきても、もはや同じニックではないのです。

このように、「インディアンキャンプ」を脱構築的に読むことで、テキストの複雑性と不安定性が明らかになります。一見単純な成長物語に見えるこのテキストは、実は多くの矛盾と緊張をはらんでいます。文明と野蛮、大人と子供、男性と女性、白人とインディアン、生と死といった二項対立は、構築されると同時に崩壊しています。

脱構築的読解は、テキストの「決定不可能性」を強調します。「インディアンキャンプ」の意味は固定されておらず、常に新たな解釈の可能性に開かれています。この読解方法は、テキストの豊かさと複雑性を明らかにし、私たちの「読む」という行為自体を問い直す機会を提供するのです。



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牛野小雪
2023-10-25



ヘミングウェイの『インディアンキャンプ』の読み方

アーネスト・ヘミングウェイの短編小説「インディアンキャンプ」は彼の代表的な初期作品の一つです。この小説は、一見単純な物語ですが、その奥深さと多層的な解釈の可能性から、文学研究者や読者の間で長年議論の対象となってきました。本稿では、この作品の読み方について考察します。

まず、物語の概要を簡単に振り返ってみましょう。若い少年ニックは、父親の医師と叔父のジョージと共に、インディアンの居留地を訪れます。そこで、難産に苦しむインディアン女性の出産を手伝うことになります。父親は女性に帝王切開を施し、無事に赤ちゃんを取り上げますが、その間、女性の夫は上段のベッドで横たわっています。手術が終わった後、父親が上段のベッドを確認すると、夫は喉を切って自殺していました。

この物語を読む際、まず注目すべきは視点の問題です。物語は三人称で語られていますが、主にニックの視点を通して展開されます。これにより、読者は大人の世界の残酷さや複雑さを、子供の目を通して体験することになります。ニックの無垢な視点は、出産や死といった重いテーマを、ある種の距離感を持って描くことを可能にしています。

次に、この物語に潜むテーマについて考えてみましょう。最も顕著なテーマの一つは、「イニシエーション(通過儀礼)」です。ニックは、この一夜の経験を通じて、生と死、苦痛と喜び、文明と野生といった人生の根源的な対立に直面します。これは、彼が子供から大人へと成長していく過程の一つの重要な段階を表しているといえるでしょう。

また、文化の衝突というテーマも見逃せません。白人の医師である父親と、インディアンの共同体との間には明らかな文化的断絶があります。父親の科学的・合理的なアプローチは、インディアンの伝統的な価値観や慣習と対立しています。この対立は、特に帝王切開という医療行為を通じて象徴的に描かれています。

さらに、出産というテーマにも注目する必要があります。出産の苦しみに耐える女性と、その苦しみに耐えられずに自殺する男性という対比は、強さと弱さ、耐える力と逃避など、多くの解釈の可能性を含んでいます。

物語の結末部分も重要です。父と息子が湖畔を歩きながら交わす会話は、非常に示唆に富んでいます。ニックが「死ぬのはとてもつらいことなの?」と尋ねるのに対し、父は「いいや、思ったほどではない」と答えます。この会話は、父が息子を慰めようとする一方で、人生の厳しい現実から息子を守りきれないという複雑な感情を表現しています。

ヘミングウェイの文体にも注目する必要があります。彼の特徴である簡潔で抑制の効いた文体は、この物語の緊張感と余韻を高めています。特に、感情表現を極力抑えた描写は、逆説的に読者の想像力を刺激し、より深い感情的反応を引き出します。

また、この物語に登場する自然描写にも注目すべきです。物語の冒頭と結末に描かれる湖の風景は、人間のドラマとは対照的な永続性と平穏さを象徴しています。これは、人生の喜びや苦しみが、より大きな自然の循環の中では小さな一部分に過ぎないことを示唆しているようです。

この作品を読む際には、ヘミングウェイの他の作品との関連性も考慮に入れるべきでしょう。「インディアンキャンプ」は、ニック・アダムズを主人公とする一連の短編小説の一つです。これらの作品を通じて、ニックの成長と人生経験が描かれていきます。したがって、この作品だけでなく、他のニック・アダムズものと合わせて読むことで、より深い理解が得られるでしょう。

また、この作品が書かれた1920年代という時代背景も考慮に入れる必要があります。第一次世界大戦後の喪失感や価値観の変化、モダニズムの台頭など、当時の社会的・文化的文脈がこの作品にどのように反映されているかを考えることも、重要な読み方の一つです。

この作品の解釈には正解がないということを強調しておきたいと思います。「インディアンキャンプ」の魅力は、その多義性と解釈の余地にあります。読者それぞれが、自身の経験や視点を通してこの作品を読み解くことができるのです。

「インディアンキャンプ」を読む際には、単に表面的なストーリーだけでなく、その奥に潜むテーマや象徴、文体の特徴、時代背景などを総合的に考慮することが重要です。また、一度読んだだけで理解したつもりにならず、繰り返し読むことで新たな発見や解釈の可能性を見出すことができるでしょう。ヘミングウェイのこの短編は、その簡潔さゆえに、読めば読むほど深みを増す作品なのです。



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『移動祝祭日"A Moveable Feast"/アーネスト・ヘミングウェイ』レビュー

移動祝祭日(新潮文庫)
ヘミングウェイ
新潮社
2016-04-22


『移動祝祭日』は、アーネスト・ヘミングウェイが晩年に著した自伝的エッセイであり、1920年代にパリで過ごした文学修業時代の思い出を綴ったものである。当時、ヘミングウェイは無名の若き作家であり、最初の妻ハドリーとの慎ましいながらも幸せな日々を送っていた。

作品では、ヘミングウェイの日常生活や執筆習慣、そしてパリで交流した同時代の作家や芸術家たちとの関係が生き生きと描かれている。特に、スコット・フィッツジェラルドとの友情と確執は、作品の中でも重要な位置を占めている。ヘミングウェイは、フィッツジェラルドの才能を高く評価する一方で、彼の性格や私生活についてはかなり辛辣に描写している。

また、作品には、ヘミングウェイの文学観や人生観も随所に散りばめられている。彼は、短く正確な言葉を重ねることで真実を伝えようとし、貧しさや嫌いな人々についても赤裸々に綴っている。しかし、その根底には、若き日の純粋な愛や芸術への情熱がひしひしと感じられる。

『移動祝祭日』は、ヘミングウェイの他の作品を読む上でも重要な手がかりとなる。例えば、短編集『われらの時代』や長編小説『日はまた昇る』などには、パリ時代の経験が色濃く反映されている。この作品を読むことで、それらの作品の背景がより深く理解できるだろう。

ヘミングウェイがパリで過ごした1920年代は、20世紀を代表する多くの芸術家たちが集った時代でもあった。『移動祝祭日』は、そうした芸術家たちとの交流や当時のパリの雰囲気を鮮やかに伝えており、文学史的にも貴重な記録となっている。

作品の随所に登場するカフェやバーでの飲酒、競馬や旅行など、ヘミングウェイの日常生活の描写からは、彼の人間的な魅力も感じられる。一方で、別れた妻への後悔の念や、フィッツジェラルドへの複雑な感情は、作家という職業の孤独や苦悩をも浮き彫りにしている。

『移動祝祭日』は、ヘミングウェイという作家の素顔に迫る貴重な作品であり、20世紀前半のパリの文学シーンを知る上でも欠かせない一冊である。若き日の情熱と苦悩、そして晩年の郷愁が入り混じった、ノスタルジックな回想録として読み継がれるべき作品だと言えるだろう。

訳者の高見浩氏による丁寧な訳注と解説も、作品の理解を深める上で大いに役立つ。作中に登場する人物たちの作品を併せて読むことで、『移動祝祭日』の世界により深く入り込むことができるはずだ。ヘミングウェイが愛したパリの街並みと、彼が好んで飲んだお酒を傍らに置きながら、この作品を読み返してみるのもまた一興だろう。

(おわり)



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牛野小雪
2020-07-11

 

『武器よさらば"A Farewell to Arms"/アーネスト・ヘミングウェイ』レビュー

武器よさらば (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
2006-05-30



『武器よさらば』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台に、アメリカ人青年フレドリック・ヘンリーとイギリス人看護師キャサリン・バークリーの熱愛を描いた作品である。ヘミングウェイ独特の簡潔で畳み掛けるような文章で、生死の境をさまよう過酷な日々の中で芽生えた二人の愛を鮮明に浮かび上がらせている。

作品は、ヘミングウェイ自身の戦争体験がベースとなっており、戦争の悲惨さや人生の無常さを伝えている。しかし、タイトルから受けるイメージとは異なり、戦争そのものは背景の一部として存在し、物語の軸となるのはラブストーリーである。兵士たちが戦場でワインを飲み、パスタを食べ、仲間とジョークを交わしながら過ごす姿は、我々が想像する悲惨な戦場とは少し違う印象を与える。それでも、兵士たちは次々と負傷し、命を落としていく。

主人公フレドリックは、戦場で負傷しながらもどこか乾いたような戦争観を持っており、それがより戦争の無意味さを浮き彫りにしている。そんな戦争下で生まれたキャサリンとの愛は、明日の命も知れない身だからこそ熱烈なものになっていく。

物語のクライマックスでは、フレドリックとキャサリンが戦争から逃れ、自由を手に入れたかに思えた。しかし、キャサリンは難産の末に死産し、自身も出血多量で命を落とす。この結末は、ヘミングウェイ自身の過去のトラウマを反映しているようにも感じられる。

『武器よさらば』は、戦争文学というよりも、悲劇的な恋愛小説としての印象が強い。直接的な内面描写を排したハードボイルド的な筆致が、一人の個人の目を通して戦争の悪と運命の不条理を告発している。また、絶望的な状況下で人々が何に縋るのかを探っている。

作品には、ヘミングウェイが終生抱えていた信仰への揺らぎも表れている。無神論を強調する主人公が神に祈る場面は、作者自身の内面を映し出しているようだ。

『武器よさらば』は、戦争と愛という正反対のテーマを巧みに織り交ぜ、愛の輝きと戦争の悲惨さを浮き彫りにした作品である。ヘミングウェイの簡潔な文体と緻密な描写が、読者を物語の世界に引き込み、登場人物たちの感情を生々しく伝えている。

(おわり)



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牛野小雪
2020-07-11


『日はまた昇る"The Sun Also Rises"/アーネスト・ヘミングウェイ』のレビュー

日はまた昇る (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
2003-06-28

「日はまた昇る」は、ヘミングウェイの初の長篇小説であり、第一次世界大戦後のパリとスペインを舞台に、失われた世代の若者たちの虚無感や満たされない思いを描いた作品です。

主人公のジェイクは、戦争での負傷により性的不能になっており、美しく奔放な女性ブレットと愛し合っているものの、彼女と結ばれることができません。ジェイクの友人たちも、ブレットに惹かれ、彼女を巡って争います。彼らはパリで酒に溺れ、スペインではフィエスタや闘牛を楽しみますが、その享楽的な生活の中にも虚無感や満たされなさが漂っています。

作品は、ヘミングウェイ特有の簡潔な文体で書かれており、登場人物の心理描写は最小限に抑えられています。しかし、会話やアクションを通して、彼らの内面が巧みに表現されています。特に、ジェイクとブレットの切ない関係や、ロメロという優れた闘牛士の登場は印象的です。

作品のタイトル「日はまた昇る」は、一見ポジティブな印象を与えますが、実は皮肉が込められています。失われた世代の若者たちにとって、新しい日が訪れても、彼らの抱える問題や虚無感は消えることがないのです。

ヘミングウェイ自身の経験を基にした作品であり、登場人物のモデルには彼の友人たちがいると言われています。作品には、第一次世界大戦後の若者たちの惑いや、戦争による心の傷、そして1920年代のパリとスペインの雰囲気が見事に描かれています。

文体は読みやすく、スペインの街並みやフィエスタの様子が鮮やかに描写されています。一方で、登場人物たちの行動や会話からは、彼らの内面の闇や満たされない思いが伝わってきます。

「日はまた昇る」は、失われた世代を代表する作品の一つであり、ヘミングウェイ文学の特徴を示す重要な作品です。戦争によって傷つき、方向性を見失った若者たちの姿を通して、人生の儚さと、愛の複雑さが描かれています。作品の魅力は、その簡潔な文体と、登場人物たちの生き生きとした描写にあります。

しかし、一部の読者からは、登場人物たちの自堕落な行動や、筋立ての希薄さを指摘する声もあります。また、ヘミングウェイ特有の文体が、一部の読者には読みにくく感じられることもあるようです。

総じて、「日はまた昇る」は、第一次世界大戦後の失われた世代の姿を鮮明に描き出した傑作であり、ヘミングウェイ文学の魅力が存分に発揮された作品だと言えるでしょう。時代背景や登場人物たちの心情を理解することで、作品からより深い感動を得ることができるはずです。



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牛野小雪
2020-07-11

 

『二つの心臓の大きな川~Big Two-Hearted River~/アーネスト・ヘミングウェイ』について

「二つの心臓の大きな川」は、アーネスト・ヘミングウェイが1925年に発表した中編小説であり、「ニック・アダムズ」シリーズの一部として知られています。この作品は、第一次世界大戦後のアメリカを舞台に、主人公ニック・アダムズの心理的な癒しと再生の過程を描いています。

物語は、ニックが故郷の町に戻ってきたところから始まります。彼は、戦争によって荒廃した町の様子を目の当たりにし、深い喪失感を抱きます。そこで、ニックは森の中へと足を踏み入れ、釣りを通じて心の平静を取り戻そうとします。

ヘミングウェイは、自然描写に多くの紙幅を割いています。緑豊かな森、清らかな川、魚や昆虫など、自然の営みを丁寧に描写することで、ニックの心情を巧みに表現しています。これらの描写には、「ストリーム・オブ・コンシャスネス」(登場人物の意識の流れを直接的に表現する手法)が用いられており、読者はニックの内面世界に深く入り込むことができます。

釣りの場面では、ニックの細やかな観察力と行動が詳細に描かれます。彼は、釣り道具の準備や餌の選択、釣り方などに徹底的にこだわります。これは、ニックが自然と一体となり、自己を見つめ直すための儀式のようでもあります。

また、作品では食事の場面にも多くの注意が払われています。ニックが自ら料理を作り、味わう様子は、生きることの喜びと、人間の原初的な欲求を表しています。

物語の後半では、ニックが釣りを通じて得た洞察が描かれます。彼は、自然の力強さと、人間の存在の小ささを実感します。同時に、生きることの尊さや、自分自身と向き合うことの大切さにも気づくのです。

「二つの心臓の大きな川」は、戦争によって傷ついた人間の心を、自然との交流を通じて癒やすという普遍的なテーマを扱った作品です。ヘミングウェイ独特の簡潔な文体と、自然描写の美しさが融合し、読者に深い感銘を与えます。

また、この作品は「ロスト・ジェネレーション」(第一次世界大戦後の世代)の文学を代表する一つとしても知られています。戦争の悲惨さや、価値観の崩壊を経験した若者たちの心情を、ニックの姿を通して鋭く描き出しているのです。

「二つの心臓の大きな川」は、自然と人間の関係性、心の癒しと再生、戦争の影響など、様々なテーマを内包した奥深い作品です。ヘミングウェイ文学の真髄を味わえる一編として、世界中の読者に愛され続けています。



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牛野小雪
2020-07-11


『キリマンジャロの雪~The Snows of Kilimanjaro~/アーネスト・ヘミングウェイ』について

「キリマンジャロの雪」は、アーネスト・ヘミングウェイが1936年に発表した短編小説です。この作品は、アフリカを舞台に、主人公ハリー・ストリートの人生を回顧しながら、彼の死の瞬間までを描いています。

物語は、ハリーとその妻ヘレンがアフリカのサファリ(野生動物観察旅行)に出かけたところから始まります。ハリーは、不注意から脚に傷を負ってしまい、「壊疽」(組織の壊死)に陥ります。彼は、救助を待ちながら、自分の人生を振り返ります。

ハリーは、かつて才能ある作家でしたが、金銭的な成功と安定を求めるあまり、本来の情熱を失ってしまいました。彼は、書きたかった物語や経験を思い出しては、自分の人生の浪費を後悔します。

ヘミングウェイは、回想シーンを巧みに織り交ぜながら、ハリーの内面世界を描き出します。パリでの文学活動、第一次世界大戦での体験、スペイン内戦での出来事など、ハリーの人生の重要な場面が鮮やかに描写されます。

また、作品では、ハリーとヘレンの関係性にも焦点が当てられます。ヘレンは、ハリーを深く愛していますが、彼の内面の苦悩を理解することができません。二人の会話を通じて、愛情と理解のずれが浮き彫りになります。

物語が進むにつれ、ハリーの病状は悪化していきます。彼は、「キリマンジャロ山」(アフリカ大陸最高峰)の雪を見ながら、自分の人生の終わりを悟ります。そして、彼は夢の中で、キリマンジャロ山の頂上へと旅立っていきます。

「キリマンジャロの雪」は、人生の意味や目的、芸術家としての使命といったテーマを扱った作品です。ハリーの人生の回顧を通じて、才能を無駄にすることの悲劇性や、真の情熱の大切さが示唆されています。

また、この作品は、ヘミングウェイ自身の人生観や価値観を反映したものでもあります。彼は、真摯に生きること、自分の信念に従うことの重要性を訴えかけているのです。

さらに、「キリマンジャロの雪」は、死の瞬間までの人間の心理を鋭く描写した作品としても知られています。ハリーの意識の流れや、彼の内面の葛藤が、リアルに表現されています。

ヘミングウェイ独特の簡潔で力強い文体は、この作品でも遺憾なく発揮されています。象徴的な表現や、印象的な自然描写が随所に見られ、読者に深い感銘を与えます。

「キリマンジャロの雪」は、人生の意味や芸術家の使命、死の瞬間までの人間の心理を見事に描き出した傑作です。ヘミングウェイ文学の真髄を味わえる一編として、世界中の読者に愛され続けています。

冒頭の豹はどういう意味?

1. 孤高の死:豹は、キリマンジャロ山の頂上で凍死しています。これは、孤高の存在として、自分の信念に従って生きた結果、世俗から離れた場所で死を迎えたことを象徴しています。主人公ハリーは、かつて純粋な芸術家としての理想を追求していましたが、それを裏切ってしまったことを後悔しています。豹の死は、ハリーが目指すべきだった生き方を示唆しているのです。

2. 理想の追求とその代償:豹は、キリマンジャロ山の頂上を目指して登っていきましたが、その過程で命を落としました。これは、高い理想を追求することの難しさと、その代償の大きさを象徴しているとも解釈できます。ハリーは、純粋な芸術家としての理想を追求する代わりに、安定や金銭的成功を選びました。しかし、その選択が彼の内面の死をもたらしたのです。豹の死骸は、理想を追求することの尊さと、同時にその危険性を示唆しているのかもしれません。

3. 死の象徴:豹の死骸は、物語の中で繰り返し言及されます。これは、ハリーの迫り来る死を象徴しています。豹が高み(キリマンジャロ山の頂上)で死を迎えたように、ハリーも物語の終盤で、精神的な高みに達して死を迎えます。豹の死は、ハリーの人生の終焉を暗示しているのです。

4. 自然の力:豹は、人間の世界とは異なる、野生の自然界の一部です。その死骸が、人間の手の届かない場所で保存されているという事実は、自然の力の偉大さを示しています。これは、人間の営みの儚さや、自然の前での人間の無力さを象徴しているとも解釈できます。豹の死は、人間の世界を超越した、自然の力の象徴なのかもしれません。

これらの解釈は、物語全体のテーマである、人生の意味、芸術家としての使命、死の本質、自然と人間の関係性などと深く結びついています。ヘミングウェイは、豹の比喩を巧みに用いることで、作品に複数の層を与え、読者に様々な解釈の可能性を提示しているのです。

キリマンジェロの雪の評価、当時と今

「キリマンジャロの雪」は、発表当時から高く評価され、ヘミングウェイの代表作の一つとして認識されてきました。しかし、時代とともに、この作品に対する評価は変化しています。

発表当時(1930年代):
- ヘミングウェイの簡潔で力強い文体は、当時の文学界に大きな影響を与えました。「キリマンジャロの雪」は、その文体の特徴を顕著に示した作品として評価されました。
- 死の瞬間までの人間の心理を深く掘り下げた点が、画期的であると認められました。
- 主人公ハリーの人生の回顧を通じて、芸術家の使命や人生の意味といったテーマが鋭く提示されたことが高く評価されました。

現代(21世紀):
- ヘミングウェイの文体は、現代の読者にとっても魅力的であり、「キリマンジャロの雪」はその点で今なお高く評価されています。
- 一方で、作品に描かれたアフリカのイメージや、登場人物の性別役割などについては、現代の視点から見ると問題点が指摘されることもあります。
- ポストコロニアル批評の観点から、作品のアフリカ表象が、ステレオタイプに基づいているという指摘もあります。
- フェミニズム批評の観点からは、ヘレンの描かれ方が、女性の役割を限定的に捉えているという批判もあります。

しかし、これらの批判にもかかわらず、「キリマンジャロの雪」は、20世紀の文学史上、重要な位置を占める作品であり続けています。
- 人間の内面の真実を追求する姿勢は、現代の読者にとっても共感できるものです。
- 芸術家の使命や人生の意味といったテーマは、普遍的な問いかけとして、今なお読者を惹きつけています。
- ヘミングウェイの文体は、現代の作家にも影響を与え続けており、その点でも作品の価値は揺るぎないものがあります。

「キリマンジャロの雪」は、発表当時も現代も、文学作品としての価値を認められていますが、時代とともに、新たな批評の視点から捉え直されるようになりました。しかし、作品が提示する普遍的なテーマや、ヘミングウェイの文体の魅力は、時代を超えて読者を惹きつけ続けています。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

『ファイター~The Battler~/アーネスト・ヘミングウェイ』について

「ファイター」はアーネスト・ヘミングウェイが1925年に発表した短編小説です。この作品はニック・アダムズというヘミングウェイの分身的な人物が主人公として登場する連作短編の一つです。

物語は、ニックが貨物列車から蹴り落とされた後、線路脇で一人の男と出会うシーンから始まります。その男は、かつてプロのボクサーだったアド・フランシスという人物で、バッグズという黒人男性と一緒に暮らしています。

ニックはアドの不思議な行動や言動に戸惑いながらも、彼らとの会話を通じてアドの過去を知ることになります。アドはかつてのボクシングで脳に障害を抱えていました。バッグズはそんなアドを献身的に支える存在でした。

ヘミングウェイはこの短編で人生の挫折や傷つき、そして友情や忠誠心といったテーマを巧みに描いています。アドの抱える問題は、「パンチ・ドランク」(頭部への累積的なダメージによる神経障害)という専門用語で表現されています。

また、作者は登場人物の対話を通じて、当時のアメリカ社会における人種差別の問題にも触れています。バッグズとアドの関係性は人種を超えた友情の強さを示す一方で、社会的な不平等の存在も浮き彫りにしています。

ヘミングウェイ独特の簡潔で力強い文体は、この短編でも遺憾なく発揮されています。無駄な描写を削ぎ落とし、登場人物の言動や心理を的確に表現することで、読者に深い印象を与えます。

「ファイター」は挫折と友情、社会問題といった普遍的なテーマを、ボクシングという競技を通じて描いた秀作です。ヘミングウェイ文学の特徴である、人間の本質を鋭く見抜く洞察力と、簡潔で力強い文体が見事に融合した一編と言えるでしょう。



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老人と海の最後の骨はどういう意味なん?

『老人と海』の最後で、老漁師サンチャゴが海から戻ってきたとき、彼が苦闘の末に釣り上げた巨大なカジキは、サメによって肉を食い尽くされ、骨だけが残されているんや。この最後の骨にはいくつかの深い意味が込められておると考えられてるで。

1. 人生の不可避な苦闘とその価値: サンチャゴの長い戦いは、彼の勝利で終わるわけやなく、最終的には彼の努力が無に帰すように見える。しかし、その苦闘自体がサンチャゴにとって重要な意味を持っていて、人生の尊厳や勇気を象徴している。結果よりもプロセスが重要やというメッセージが込められていると言える。

2. 自然との対峙: この骨は、人間がいかに自然の力に対して無力であるか、または自然の一部として存在しているかを示している。サンチャゴはカジキとの戦いで自然と一体になり、その過程で自然の壮大さと厳しさの両面を経験する。

3. 孤独と敗北への対峙: 老漁師の孤独な戦いと、最終的に彼が直面する敗北は、人生の孤独や挫折に立ち向かう人間の姿を象徴している。しかし、サンチャゴは敗北に屈することなく、再び海に出ることを決意する。このことは、人生における不屈の精神と希望のメッセージを伝えている。

4. 達成感と尊厳の保持: たとえ外から見たら何も手に入れなかったように見えても、サンチャゴは自分自身との戦いで勝利を収めた。彼は自分の限界に挑戦し、尊厳を保ちながらその過程を乗り越えた。

『老人と海』の最後に登場するカジキの骨は、サンチャゴの物語の終わりを象徴するだけでなく、人生の深い真理について読者に問いかけるシンボルとなっとる。このシンボルを通じて、ヘミングウェイは挑戦の価値、自然との調和、そして人間の尊厳についての普遍的なテーマを探求しているんや。






老人と海ってなにが面白いんや?

『老人と海』が面白いと感じるポイントは人それぞれやけど、なんJ風に言うたらこんなとこやな。

1. ガチのサバイバル: 老漁師サンチャゴが巨大なマーリンとの壮絶な戦いを繰り広げる。釣りってレベルじゃないぞ。まさに生死をかけたサバイバルや。

2. 男の闘い: サンチャゴの闘いは、ただの魚釣りやない。人生そのものの戦いや。年取ってもなお挑戦し続ける姿勢に、男のロマンを感じるで。

3. 自然の美しさと厳しさ: 海の描写がマジで美しい。でもその美しい海が、ときには老漁師に容赦なく襲いかかる。自然の二面性がええ感じに出てる。

4. シンプルやけど深い: 物語はシンプルやけど、その中に人生、孤独、勝利と敗北、尊厳みたいな深いテーマが詰まってる。読み終わった後にじわじわくる。

5. 文体がクール: ヘミングウェイ特有のシンプルで力強い文体が、この物語にピッタリはまってる。ダラダラせずに要点を突いた書き方に惹かれる人も多いはずや。

6. 読むたびに新しい発見がある: 一回読んだだけじゃわからん深さがある。何回も読み返すたびに、新しい発見や考えさせられることがあるで。

要するに、『老人と海』はただの釣り物語やなくて、人生とは、挑戦とは何かを考えさせてくれる作品や。そのシンプルさの中に深いメッセージが詰まってて、どんな人でも何かしら感じるものがあるはずやで。






ヘミングウェイの釣りスタイル教えて

ヘミングウェイの釣りスタイルといえば、めっちゃマジメにやってた釣り師やったんや。キューバの海で巨大なマーリンを追いかけたり、アメリカの川でトラウトを釣ったり、どんな場所でも本気出して釣りしてた。基本的には、彼の釣りは力と技術と根性の三拍子が揃ってないとできひん種類のものが多かったんや。

釣りスタイルの特徴
大物狙い: ヘミングウェイはデカい魚、特にマーリンみたいな海の怪物を追いかけるのが好きやった。彼の釣りは、「釣れたらデカいぞ!」っていうスリルを味わうタイプやったな。
ディープシーフィッシング: キューバの海では、船を出してのディープシーフィッシングを楽しんでた。マーリンや他の大物を狙うために、相当な準備と根気が必要やったやろう。
フライフィッシング: アメリカにいるときは、川でトラウトを釣るフライフィッシングもしてた。これはもうちょっと繊細な技術が求められる釣りで、自然との一体感も楽しめるんや。

釣りと文学
ヘミングウェイの釣りへの情熱は、彼の作品にも反映されてる。『老人と海』なんかは、まさに彼の釣りに対する深い理解と愛が生んだ作品や。この小説で描かれてる老漁師サンチャゴの執念深いマーリンとの闘いは、ヘミングウェイ自身の釣りに対する姿勢を象徴してるとも言えるで。

結論
ヘミングウェイの釣りスタイルは、ただの趣味というよりは、彼の人生観や文学と深く結びついている。釣りを通じて、彼は人間と自然との関係、生と死、そして人生の美しさと厳しさを探求してたんや。なんJ民も、釣りっていうのはただの暇つぶしやなくて、人生そのものを映し出す鏡やと思って、たまには釣り竿握ってみるのもええかもな。






日はまた昇るってどんな小説?

『日はまた昇る』(The Sun Also Rises)は、アーネスト・ヘミングウェイによって1926年に発表された小説で、彼の最初の重要な作品の一つや。この小説は、第一次世界大戦後の混乱と失望を背景に、失われた世代(ロストジェネレーション)と呼ばれる若者たちの姿を描いている。パリの知識人や作家、芸術家たちの放蕩生活と、スペインのパンプローナで行われる牛追い祭りへの旅を通じて、彼らの愛と裏切り、検索と絶望が描かれている。

物語の概要
主人公のジェイク・バーンズは、第一次世界大戦で重傷を負い、性的不能という身体的な障害を負ったアメリカ人ジャーナリストや。彼は恋人のブレット・アシュリーと複雑な関係にある。ブレットは魅力的で自立した女性やが、彼女自身もまた愛と人生における満足を求めてさまよっている。ジェイクとブレットを含む一群の友人たちは、パリでの生活から抜け出し、スペインへと旅立つ。彼らはパンプローナでの牛追い祭りに参加し、祭りの喧騒の中でそれぞれが自己を見つめ直す。

テーマ
『日はまた昇る』は、愛と人生の意味を求めるが結局は見つけられない若者たちの物語や。彼らは戦争の影響で価値観が崩壊し、伝統的な道徳や社会の規範から遊離した存在として描かれている。ヘミングウェイは、戦後の混乱と方向性を失った世代の空虚さを、彼らの放蕩と無目的な放浪を通じて表現している。

スタイル
ヘミングウェイ特有の簡潔で力強い文体がこの小説にも見られる。彼は登場人物の内面的な葛藤や感情を、直接的な言葉よりも行動や対話、状況描写を通じて読者に伝える。『日はまた昇る』では、登場人物たちの微妙な心情の変化や人間関係の複雑さが巧みに表現されており、そのリアリズムと心理描写の深さが評価されている。

影響
『日はまた昇る』の発表は、ヘミングウェイの文学キャリアにおいて重要な転機となり、彼を20世紀の重要な作家の一人として確立した。この作品は、失われた世代の代表的な文学作品と見なされており、戦後の若者たちの迷いや絶望を描いた作品として、今日でも広く読まれている。






老人と海ってどんな小説なん?

『老人と海』はアーネスト・ヘミングウェイが1952年に発表した短編小説で、彼の代表作の一つや。この作品は、ヘミングウェイに1953年のピューリッツァー賞をもたらし、1954年のノーベル文学賞受賞に大きく貢献したんや。『老人と海』は、キューバ近海での孤独な老漁師サンチャゴの壮絶な闘いを描いた物語で、人間の尊厳、勇気、不屈の精神について深く掘り下げている。

物語の概要
物語は、キューバのハバナ近くの小さな村に住む老漁師サンチャゴが主人公や。彼は84日間も魚を一匹も釣り上げることができずにいたが、85日目の出航で巨大なマーリン(カジキ)を釣り上げることに成功する。しかし、この魚を獲得するためのサンチャゴの戦いは、海上での孤独な格闘となり、数日にわたって続く。彼は飢え、疲労、サメの攻撃に耐えながら、マーリンとの闘いを通じて自己の限界を超えようとする。

テーマ
『老人と海』は、人間の存在と闘いに関する普遍的なテーマを扱っており、特に以下のようなテーマが物語を通じて探求されとる。
人間の尊厳とは何か: サンチャゴは逆境に立ち向かうことで、自らの尊厳を守ろうとする。
自然との闘い: 人間と自然の関係、特に人間が自然の一部として存在し、それと闘う姿が描かれる。
不屈の精神: 失敗や挫折に直面しても決して諦めない、人間の不屈の精神が強調される。
孤独とは何か: 物語は、孤独とは何か、そして人はどのようにそれと向き合うべきかを問いかける。

スタイルと影響
『老人と海』は、ヘミングウェイの「アイスバーグ理論」や簡潔な文体が特徴で、物語の表面だけでなく、読者が自ら深い意味を読み取る余地を残している。この作品は世界中で広く読まれ、多大な影響を与えた。また、ヘミングウェイの文学作品の中でも特に読みやすい作品とされ、彼の文学的遺産の中で重要な位置を占めているんや。






ヘミングウェイのパリ時代について教えて

アーネスト・ヘミングウェイのパリ時代は、彼の文学キャリアにおいて非常に重要な時期やった。1920年代のパリでは、ヘミングウェイは若き作家として自分の声を見つけ、文学界での地位を確立し始めたんや。この時代は「失われた世代」として知られる作家たちが集まり、互いに影響を与え合った時期でもある。

パリへの移住
ヘミングウェイは1921年に、当時妻だったハドリー・リチャードソンと共にパリへ移住した。彼のパリ行きは、当時「トロント・スター」紙のヨーロッパ通信員としての仕事を得たことがきっかけやった。しかし、彼はすぐにパリの文化と芸術に魅了され、執筆活動にますます情熱を傾けていくようになる。

文学界での出会い
パリでは、ガートルード・スタイン、F・スコット・フィッツジェラルド、ジェームズ・ジョイス、エズラ・パウンドなど、当時の著名な作家や芸術家たちと交流した。これらの人物から多大な影響を受けることになり、特にガートルード・スタインは彼のメンターのような存在やった。スタインはヘミングウェイの作品に対するフィードバックを与え、彼を他の文学者たちに紹介した。

創作活動
パリ時代のヘミングウェイは、執筆に没頭し、その間に多くの短編小説を書き、1925年には初の短編集『我等の時代』を出版した。また、1926年には彼の代表作の一つである『日はまた昇る』を出版し、これによって文学界での彼の地位は確固たるものとなった。この作品は、パリでの放蕩生活と失恋を背景にした作品であり、戦後の喪失感と方向性を失った世代の姿を描いている。

影響
パリ時代はヘミングウェイにとって、文学的な技術を磨き、自身の文学的アイデンティティを確立する上で決定的な期間やった。この時期の経験は彼の作品に深く影響を与え、彼を20世紀を代表する作家の一人に押し上げることになる。パリでの生活は後に『移動祝祭日』(1964年、死後に出版)として回顧され、彼のパリでの経験や当時の文化的風景を描いた貴重な文学的記録となっている。






ヘミングウェイってモテたん?

アーネスト・ヘミングウェイは、その生涯で4度の結婚を経験し、多くの女性との関係があったことから、彼が当時の社会において魅力的な人物であったことは間違いないやろう。彼の冒険的なライフスタイル、文学における成功、そして男性的なイメージは多くの人々、特に女性にとって魅力的に映った可能性がある。

ヘミングウェイの人生は、彼の作品同様にドラマチックであり、彼の個性や生き方が彼をモテる人物にしたとも言える。彼は第一次世界大戦での救急車隊員、スペイン内戦での記者、大西洋の深海釣り、アフリカのサファリなど、多くの冒険を経験した。これらの体験は彼の作品に大きな影響を与えただけでなく、彼の人物像にも冒険家としての魅力を加えたんや。

しかし、ヘミングウェイの私生活は複雑であり、彼の人間関係や結婚生活は必ずしも平穏ではなかった。彼の性格、飲酒、気性の荒さなどが関係の問題を引き起こすこともあったとされておる。彼の魅力が多くの人々、特に女性を引き付けた一方で、彼との関係が常に幸福だったわけではないことも理解しておく必要があるやろう。

結局のところ、ヘミングウェイが「モテた」かどうかは、彼の人間関係や性格、そして時代背景を総合的に見たときの解釈によるやろう。彼の生き方や作品が今なお多くの人々に影響を与え続けていることは確かや。






ヘミングウェイの執筆について教えて

アーネスト・ヘミングウェイの執筆スタイルと方法は、彼の文学作品の重要な特徴の一つや。彼は20世紀の文学において最も影響力のある作家の一人とされ、その独特の文体と執筆技法は多くの作家や批評家から高く評価されているんや。

簡潔さと省略の技術
ヘミングウェイの最も特徴的な執筆スタイルは、彼の「アイスバーグ理論」に象徴される簡潔さと省略の技術や。彼は、物語の表面に現れる言葉はわずかであっても、その下には深い意味や感情が隠されていると考えた。この理論に基づき、彼の文体は直接的でありながらも、読者が自らの想像力を用いて物語の深い部分を探ることを要求する。

対話の活用
ヘミングウェイの作品における対話は、キャラクターの性格や背景を暗示する重要な手段として使われる。彼の対話は現実的で自然な流れを持ち、人物の心理や関係性を効果的に描写している。

経験からの着想
ヘミングウェイの執筆は、彼自身の経験から大きな影響を受けている。第一次世界大戦での従軍、スペイン内戦での報道、アフリカやキューバでの冒険など、彼の多くの作品には実際の体験が反映されており、それがリアリズムと説得力を与えている。

執筆習慣
ヘミングウェイには独特の執筆習慣があった。彼は立ってタイプライターで執筆することを好み、1日に500語の創作を目標にしていたと言われている。彼はまた、自分の作品に対して厳しい編集を行うことで知られており、完璧な表現を追求した。

影響
ヘミングウェイの執筆スタイルと技法は、後世の作家たちに大きな影響を与えた。彼の作品は、その独自のスタイルと深みによって、文学におけるリアリズムとモダニズムの発展に寄与している。

ヘミングウェイの執筆に関するこれらの特徴は、彼を20世紀文学の巨匠の一人にしており、彼の作品が今日でも広く読まれ、研究される理由の一つや。






ヘミングウェイと猫について教えて

アーネスト・ヘミングウェイと猫の関係は、彼の人生と文学においてユニークな一面を示しているんや。ヘミングウェイは猫を非常に愛しており、特に彼のキューバの家、フィンカ・ビヒア(Finca Vigía)では多くの猫と共に生活していたことで知られているで。

ヘミングウェイの猫への愛
ヘミングウェイは、彼の生涯を通じて多くの猫を飼っていた。彼は猫の自立心と独立性を特に高く評価しており、それらの性質を尊敬していたんや。彼の作品にも、猫に関する言及が何度か登場することからも、彼が猫に対して抱いていた特別な感情が伺える。

ポリダクティル猫
ヘミングウェイと猫に関連するもう一つの興味深い事実は、彼が「ポリダクティル」(多指症)の猫を特に好んでいたことや。ポリダクティル猫は、通常よりも多くの指を持つ猫で、彼の家ではこのような猫が多く飼われていた。伝えられるところによると、1930年代にキューバで船長からヘミングウェイに贈られたポリダクティル猫が、彼の猫たちの始祖だったとされている。

ヘミングウェイ・ハウスの猫たち
現在、ヘミングウェイのキューバの家は博物館となっており、彼のフロリダの家、キーウェストにあるヘミングウェイ・ハウスも観光名所となっているんや。キーウェストのヘミングウェイ・ハウスでは、今でも50匹以上のポリダクティル猫が暮らしており、これらの猫はヘミングウェイの遺産の一部と見なされている。これらの猫たちは、ヘミングウェイに由来する特別な遺伝子を受け継いでおり、彼の記憶を今に伝えているんや。

ヘミングウェイと猫との関係は、彼の人柄や生活を垣間見ることができる魅力的なエピソードの一つや。猫たちへの愛情は、彼の文学作品だけでなく、私生活においても重要な役割を果たしていたんや。






当時は統失扱いやったんか?

アーネスト・ヘミングウェイが生涯の晩年にFBIに監視されていると疑い、そのことについて周囲に訴えていた時期は、実際にはその主張が真実であることを証明する証拠が公にはなかったため、多くの人々は彼の言動を被害妄想や精神疾患の一種と見なしていた可能性がある。特に、彼が統合失調症(統失)と診断されたわけではないが、彼の主張が精神的な問題から来ていると考える人もいた。

ヘミングウェイは、生涯の終わりにかけてうつ病やその他の精神的な問題に苦しんでおり、これが彼の言動に影響を及ぼしていたことは否定できない。彼は1961年に自ら命を絶っており、その死に至るまでの期間、彼が直面していた精神的な苦痛は相当なものだったと考えられている。

しかし、ヘミングウェイの死後にFBIの文書が公開され、彼が実際に監視されていたことが確認された。これにより、彼の被害妄想が現実のものだったことが後になって明らかになったわけや。この事実が知られるようになってから、ヘミングウェイの晩年の行動や発言に対する評価は、一部再考されるようになったんや。






ヘミングウェイとFBIの関係教えて

アーネスト・ヘミングウェイとFBI(連邦捜査局)との関係は、実に興味深いエピソードの一つや。生涯を通じて、ヘミングウェイはFBIに監視されていたことが知られておる。その監視の背景には、ヘミングウェイの政治的活動や、特に冷戦時代の政治的緊張が関係しているんや。

監視の始まり
ヘミングウェイのFBIによる監視は、1940年代から始まったとされておる。FBIの創設者であるJ・エドガー・フーバーが、ヘミングウェイを共産主義者やソビエト連邦のシンパと疑い、彼の活動に注目していたんや。ヘミングウェイはスペイン内戦時に共和国派を支持し、第二次世界大戦中には反ファシストの活動に参加するなど、左翼的な政治活動に関わっていたことが、FBIの関心を引いた背景にある。

監視の影響
ヘミングウェイ自身は、生涯の晩年にFBIによる監視を強く意識しており、それが彼の精神衛生に悪影響を及ぼしていた可能性がある。彼は周囲に対して、FBIが自分を監視していると繰り返し述べていたが、当時はほとんどの人々にその主張は被害妄想と見なされていた。しかし、ヘミングウェイの死後に公開されたFBIの文書により、彼の主張が事実であったことが明らかになったんや。

結論
ヘミングウェイとFBIとの関係は、冷戦時代の政治的緊張や、個人の政治的信念がいかに政府機関によって監視されることがあるかを示す事例として注目されている。このエピソードは、ヘミングウェイの人生と作品に新たな光を当て、彼のパーソナリティや時代背景を理解する上で重要な要素の一つとなっているんや。






アイスバーグ理論ってなに?

アイスバーグ理論やね、それはアーネスト・ヘミングウェイが提唱した文学の技法の一つで、彼の作品の特徴ともされとるんや。この理論は、「氷山の一角」とも呼ばれ、物語のほんの一部だけを表面上に示し、残りの大部分を読者の想像に委ねるという方法や。つまり、文中に明示的に書かれていることは氷山の一角に過ぎず、実際にはその下に広がる大きな氷山(物語の背景や登場人物の感情、動機など)を読者自身が推測し、想像することを促すんや。

ヘミングウェイは、言葉を省略することによって、読者により深い読み取りや感情の移入を促し、物語の背後にある意味や感情をより強く感じさせることができると考えていたんや。この技法により、彼の作品は簡潔でありながらも深い意味を持つことが多い。

たとえば、彼の短編小説「キリマンジャロの雪」や「老人と海」などでは、登場人物の内面や状況の詳細な説明を敢えて抑えることで、読者が自ら物語の深い部分を探り、より個人的な解釈をする余地を残しているんや。

アイスバーグ理論は、文学作品の読み方に新たな視点を提供すると同時に、作家がどのようにして読者の想像力を引き出し、参加させることができるかの見本ともなっているんや。






ヘミングウェイって何者なん?

アーネスト・ヘミングウェイは、20世紀を代表するアメリカの小説家やジャーナリストで、1899年に生まれ、1961年に亡くなったんや。彼の作品は、シンプルでありながら力強い文体と、深い人間洞察によって高く評価されておる。ヘミングウェイの作品は、第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦といった20世紀の重大な出来事を背景に、戦争の悲惨さや愛、名誉、孤独といった普遍的なテーマを探求しているんや。

ヘミングウェイの代表作には、『日はまた昇る』(1926年)、『武器よさらば』(1929年)、『誰がために鐘は鳴る』(1940年)、そして彼の晩年の代表作である『老人と海』(1952年)がある。『老人と海』で彼は、1953年にピューリッツァー賞を受賞し、1954年にはノーベル文学賞を受賞しておる。

ヘミングウェイは「アイスバーグ理論」または「省略の技法」と呼ばれる独特の文体を用いたことでも知られている。これは、物語の表面には現れないが、読者が推測することでより深い意味が明らかになる、言葉を省略する技術や。この技法によって、彼の作品は言葉以上の深い感情や背景を読者に想像させる力を持っているんや。

彼の私生活もまた、冒険とトラブルに満ちており、その生き方や人格が作品にも色濃く反映されていると言われている。ヘミングウェイは4度の結婚と離婚、多くの戦場を体験し、大西洋を横断したり、サファリに出かけたりと、常にアクティブな生活を送ったんや。








本当に大事なものは目に見えない、けれど・・・・?

 今週は2ページしか進まなかった。本当に進まなくて嫌になる。でも不毛の砂漠を歩き続けなければ先へ進むことはできない。書けない時間を通り過ぎないと書けるようにはならない。どうやったらこの部分をやり通すことができるだろう。

 今まではword上の文字数で進捗を測っていた。去年から書いていた『ペンギンと太陽』はノートに書いていたので、カウント上は0の日がずっと続いていたが、実際はノートを書き進めていたわけで、書いたページ数を計測するようになってからはかなり気持ちが楽になった。進んでいる感はとても大事だ。ヘミングウェイだって毎日続きが書けそうなところで筆を止めていたほどだ。

 書けなくても机の前に座っていることが大事だ。そうすればいつか書けるようになる。ゲームをしたって勝手に小説は進まない。しかし机の前に座っているのをどうやって計測すればいいだろう? 単純に時間を計測することは可能だけれど、机の前に座りながらマンガを読んだりゲームをしたりすることは可能だ。それに時間を評価軸にすると「24時間戦えますか?」が最適解になってしまう。

 机の前に座って書けなくてもじっと小説と向き合うことが肝だ。ここを捉えることができれば今より書けるようになることは分かっているが、それをどう観測すればいいのかは分からない。精神を形にすることはできないからだ。間違った評価基準では間違った方向へ最適化されてしまうし、評価される場所が目に見えるところだけならば、書けない日が続くと腐ってしまう。しかしその部分も執筆には欠かせないものだ。人を評価することは自分のことでさえ難しい。

(おわり)

牛野小雪のページ


『老人と海~The Old Man and the Sea~』を読む

『老人と海』は何度も読んだ本だけど、今回は100回連続で読んでみようと思う。一つの作品を読み込めば自分の小説に活かせるかもしれないという意図もある。ついでに言えば150ページぐらいなので繰り返し読むのにちょうど良いサイズだ。その気になれば一日で読めるし、場合によっては日に二度、三度と読める。

 

1回目

 

老人が海へ漕ぎ出してカジキマグロと四日間にわたる格闘の末に釣り上げるが、帰る途中でサメに襲われてカジキマグロは骨だけになってしまう。老人サンチャゴは84日も魚が釣れなくて、作中でもまったくの徒労で終わってしまうのだが、最後に老人は小屋でうつ伏せになりライオンの夢を見ているところで終わる。この場面がなければヘミングウェイは削ぎ落とした文体を生み出した作家、ロストジェネレーションの一作家という評価で終わっていただろう。死後に著作が読まれることはなく、時々文学オタクに掘り起こされて、なんでこれが評価されないんだと憤るような作家だったに違いない。スティーヴン・クレインみたいな。

ライオンの夢には何をやっても困難に遭っても心が負けなければ負けではない、みたいなカッコ良さがある。サメを殺した後の「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」という台詞にもそういう哲学がある。負けてたまるか、戦ってやるぞ、という気概が絶望を退けるんだろう。それはしんどい生き方だし、ヘミングウェイも途中で疲れたのか頭をショットガンで吹き飛ばしちゃうわけだけど、たとえ彼が暗い気持ちで死んだとしても、老人と海は孤独と絶望に襲われても負けはしないタフな人間の姿を書いていることに変わりはない。

浪漫主義っぽいけど、あまりにみんなが自然主義に傾くと世の中が腐っていきそうだし、老人がカジキマグロを追うように、希望を追わなきゃ生きていけないんじゃないかな。蟹工船より老人と海だよ。

 

2回目

 

二回目はあやふやな語句を調べながら読んでみた。読んでいる時間より調べている時間が長かった。

 

3回目

 

投網でびっしり鰯が取れると少年が言っているところがあったので、ディマジオが活躍している頃の鰯の生息数を調べてみたが、見つからなかった。その代わりに鰯というのは100年、2、30年単位で豊漁不漁の時期がある魚だと分かった。この港の鰯は豊漁の時期だったのだろう。

 p.23に“二人は燈火なしで”という文言を見て、最初の場面は夜から始まるのだと分かった。中米の太陽で白く灼かられた漁村の風景ではない。それでまた最初から読み返してみると、老人が漁から帰ってきたところから始まり、少年にビールをおごると言われて(どんな世界だ)、テラス軒という酒場か定職屋かよく分からない店へ行っている。老人と海には語られていない84日の不漁があり、物語に書かれていることは、ほんの薄っぺらい部分でしかない。たとえるなら老人の人生という海に84日の不漁という氷山が浮かんでいて、海から出たわずかな部分が小説なのだ。

 老人は84日の不漁の間もライオンの夢を見ていたに違いない。

 

4回目

 

 小説内ではサンチャゴは84日の不漁を経験しているところから始まるけれど、その前には87日の不漁があって、その後3週間は大きな獲物を毎日取れたらしい(p.6)。だからそれほど絶望感がないのかな。しかし87日間の不漁の時はどうしていたのだろう。「あの子がいたらなぁ」と何度もつぶやいているから、彼が心の支えになったのかな。

 老人が心の中で前に1000ポンドの魚を2度釣ったことがあると言っていたが、グーグルで調べてみると約453kg。日本テレビで毎年年末にやっている大間のマグロの番組を見ていると、100kgのマグロでも船に上げるのは大変そうだから1000ポンドなら超大変だ(ちなみにサンチャゴが取ったカジキは大きすぎるので船に横付けにした)。

 

5回目

 

 サンチャゴがカジキと引き合っている時に飛行機が空を飛んでいて驚いた。でも、作中ではディマジオがどうとか言っているので老人と海は第二次世界大戦の頃の話で、その頃なら飛行機はもちろん潜水艦まである。いわゆる古典と呼ばれる本を読んでいて電話や飛行機が出てくると、おっ、驚くが、歴史的にいえば小説は近代のもので当然当時からマシンガンがあるし、コンピューターもあるし、ミサイルだって飛んでいる。歴史的観点でみれば100年なんて誤差だ。現代に生きる人間にとって令和と昭和は全然違うものだが、文禄時代と元禄時代は二つ一緒に昔のことで一括りにされているようなものだ。ちなみに文禄時代は豊臣秀吉が天下を治めていたが、元禄時代には徳川幕府になっている。理屈で考えれば当時を生きる人にとって大変革だが、今を生きる人間からすればやっぱり昔のことだ。足利尊氏ぐらいまで遡らないと大昔にはならない。あと100年もすれば、2020年にはもう飛行機が飛んでいて驚いた。なんて未来人に言われているだろう。
 小説で潜水艦の描写を見ないのは身近に潜水艦がないからだろうな。潜水艦が足元を通り過ぎるのはクジラが船の下を通り過ぎるようなものだろうか。といってもクジラが船の下を通り過ぎるのかがどんなものかも私には分からない。クジラも身近ではない。

 老人と海における飛行機の描写はたった二行しかない。それが引っかかった理由は、永劫回帰だ。ここ数日、サンチャゴは突然キューバの港に出現して85日目の不漁を背負って海に漕ぎ出し、二日間カジキと引き合い、サメと格闘することを繰り返している。もう一度読んでいる時にサンチャゴは一昨日も同じことがあったぞ、と思い返すことはない。最後にライオンの夢を見れば、一切の記憶は忘却され再びキューバの港に85日目の不漁を背負って出現する。彼はこの後、ボートより大きなカジキをつかまえて、サメと格闘するなんて露にも思っていない。そんなことを考えていると、これは永劫回帰そのものではないかと気付いた。そこではどんな瞬間も無限の厚みを持ち、何一つ逃されることがない。たった二行の、海から外れた空を飛ぶ飛行機のことでさえもだ。なるほどこれが永劫回帰か、と肌で分かったような気がしたが、やっぱり永劫回帰は直感的にありえない気がする。有限の宇宙と無限の時間があればいつかはまた同じ原子が揃うので、私達の人生、そして宇宙が寸分たがわずに繰り返される、というのが永劫回帰の前提だが、私の肌感覚では宇宙は無限っぽいし時間は有限だ。そうでなければTime is Money、時は金なりなんてことわざは生まれない。だが、それはそれとして永劫回帰の思想はロマンチックだ。たとえば今日のような10月の初秋の気持ちのいい朝を1000回繰り返しているとと想像すると肌が泡立つような感じがする。でもさらに、たとえばタンスの角に小指をぶつけて悶絶している時に、これも1000回繰り返していると想像したら、きっと一回で勘弁してくれと思うだろう。やっぱり永劫回帰なんてあって欲しくない。ニーチェだって発狂した。彼だって永劫回帰から解脱したいと思っていたに違いない。

 

※メモ:もし時間が有限とするならば、時の終末以後に時間のない無限の宇宙が誕生するが、それがどんなものなのかは想像がつかない。と考えるのは有限の時間を生きる人間の発想であって、やっぱり時間は無限なのかな。

 

※メモ2: かつて地上は4匹の象の背中に乗っていて、その像達の下には亀がいた。その亀の下にはまた別の亀がいて、その亀もまた別の亀がいて、亀は無限に支え合っている、どこまでも、どこまでも永遠に・・・・・と考えられていた。宇宙の外側には何もない空間がどこまでも、どこまでも永遠に・・・・に広がっていると私は想像しているのだが、実は宇宙も4次元的平面ではなく球体であり、宇宙の端は反対側の宇宙に繋がっているのかもしれない。4次元的球体なんて意味が分からないけれど・・・・。

 

6回目

 

釣りで太刀魚が針にかかるとぬ~っとした手応えがする。カジキマグロはどうなのだろう。老人と海を読んでいる限りではアジやサバみたいにビビビと振動しているイメージはない。マグロとかはテレビで見ていると船の床をバタン、バタンと叩いているので竿の感覚は太刀魚に近いのではと予想する。

 

7回目

 カフカの『変身』は主人公のグレーゴル・ザムサがある朝起きると毒虫(どんな虫かは分からないが原語のUngeziefer的には体の小さな有害生物全般を指すらしい。スカンクとかハクビシンもその内に入るが、カフカは表紙の注文に昆虫を書いてはいけないと言っていたそうなので昆虫系だろう。ちなみに私はアゲハチョウの幼虫をイメージしている。柑橘系の果樹を育てている人なら知っているが害獣に分類される。)になっていたという話だ。もし朝起きてカジキマグロになっていたらどんな気分がするだろう。少なくとも私の布団でそんなことが起きたら、鼻先は枕元の本棚に尽き刺さるだろうし、体の水分を布団に吸い取られて、たちまち干物になること請け合いだ。
『老人と海』ではサンチャゴがカジキになって海の中でカジキと戦いたいと言っていたような気がする。気がするというのは、これを書くにあたってパラッと読み返してもそんな部分は見当たらなかったからだ。とはいえ、それを抜きにしてもサンチャゴはカジキに自分と同じ心があると想定している。それどころか他の人間より一等高い価値を置いている。
 カジキに心はあるのだろうか。昔は魚に限らず人間以外の動物に心はないと思われていた。今でもないと思っている人はいる。何故なら心は科学的に存在すると確かめられないからだ。私に心があるのは自明だが、他人はもしかしたら哲学的ゾンビかもしれないというのはいまだに解決されない難問だ。とはいえ、科学的に証明できないからといって他人に心ないことをすれば、復讐という感情的な報復が返ってくることは間違いない。もっともそれも哲学的ゾンビを仮定すればおかしくはないのだが・・・・・このように心の問題は解決どころか、そもそも存在するのかどうかというところで行き詰っている。
 とりあえず現代の科学がやっていることは知能があるかどうかだ。知能があれば心がある。その逆に馬鹿なら心がない・・・・ということになっている。しかしこれも最初は大きな間違いがあった。
 テナガザルの親指は他の指と対向になっておらず、指が非常に長い。これは木の枝にぶら下がるのに適してはいるが、つるつるしている平らな床から物を拾うようにはできていない。それでTVでよく見るような檻の中にいる猿が棒を使って、檻の外側にあるバナナを取れるかどうかで知能を測る実験をすると、テナガザルの知能は非常に低かった。科学的には馬鹿ということだ。しかし、ある研究者が棒を高い位置に、樹上にある枝を掴むように棒を取れるようにするとテナガザルはあっさりと問題をパスしてしまった。この例のように馬鹿と言われている人も実は今の環境が自分に合っていないだけで、別の環境では天才かもしれない。私達だって裸でジャングルに放り込まれればテナガザルに馬鹿にされるだろうし、海の中なら知能の問題より先に生き死にの問題に直面する。
 現代は科学が宗教の代わりを担っている、言われている。科学で証明できないことは存在しないと考える人は意外に多い。昔々そういう人に、それなら顕微鏡ができる以前に微生物は存在しなかったのかと問うと、そりゃそうだろう、と自信満々の答えが返ってきた。実在と科学的存在では、前者が後者より大きいように思うが、世の中にはそれがイコール、あるいは後者の方が大きいように見受けられる人が多い。もしかしたら彼らの中では生死も存在しないのかもしれない。
 科学的というけれど、先のテナガザルの問題にしても、ある研究者のテナガザルが馬鹿なはずがないという非科学的な直感があったからだ。もしその直感をまず科学的に証明できなければ実験をしてはいけないということになっていれば、テナガザルはいまでも馬鹿なままだった。科学の発見には非科学的なものが関わっている。実在が科学的存在を上回っているのは間違いない。
 心の問題に話を戻すと、一昔前は、内心はどうであれ建前上は、私たち人間はみんな姿形は違っても心は同じ、だから仲良くやっていこうということになっていた。しかし、近年では、脳とか、神経系とか、遺伝子とか、体の中にあるものも違うらしいということが分かってきた。感じ方が違えば考えることも違うはずで、同じ心を持っていると信じることはできないし、たぶん実際に違うだろう(そもそも心は存在するのか!? という問いは脇に置いて)し、それがために一つにまとまれないのだと思う。そもそもの始まりとして、同じ性質の人達は元々うまくいくように『みんな同じ』なら自然にそうなるわけで、そこを出発点にしたのが間違いだったのだと思う。『みんな違う』でまとまるには、ただお題目を掲げるだけではなく広い心を持たなければならないだろう。が、それは難しい。寛容を説く人達だって、いざ受け入れがたい人を受け入れなければならなくなれば、不断の努力をもって排除する理屈を発明するだろう。
 こんなことを書くのは最近あるネットゲーで、突然ギルド主が抜けて私が主にされてしまったからだ。ネットだとテキストのやり取りだけで姿形は関係ないと思われるだろうが、実際はテキストにも個性はある。文学における文体のようなものだ。中にはそりの合う人もいるし、合わない人もいる。というより合わない人と遭遇する方が多い。主をやりたくないというのはある意味ネットの総意みたいなもので、チャットでその出来事を書き込むと大変同情された。しかし、これも一つの経験として、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした多様性っていうのをどこまで受け止められるか試してみることにした。

※メモ:動物にも心があるという人でも植物にはないという人は多い。でもバラやサボテンを育てている私は植物にも心があるように思えてならない。もちろんそれは私達がふだん意識しているような活発なものではないけれど、とても静かで固い意志が感じられる。もし植物に心があるとするならばヴィーガン達は何を食べたらいいのだろう? 生きることは罪深い。

8回目

 

 老人の見立てでは彼の釣り上げたカジキは1ポンド(約0.45kg)30セントで売れるらしい。推定1500ポンドのうち肉は3分の2取れるから、30×(1500÷3×2)で3万セントの計算になる。キューバの通貨が良く分からないけれど、もしこれが巨大なクロマグロが釣れたと類推するならば日本円で100万円以上の値が付くことは間違いない。老人が一人の人間が一冬過ごせるぐらいと言うのだから、やはりそれぐらいではないか。
 ここで不思議に思ったのは老人が金勘定をしていることだった。彼は漁師であり、魚を売って生計を立てているのにふと気付いた。私見だが、何日も魚が釣れないつらさというのは感じられても、何日も収入が無くてつらいという印象はあまり受けない。でもよくよく言葉を追ってみると、マストの帆がつぎはぎだらけだったり、毛布がなかったり、靴がなかったり、少年にエサのイワシや食べ物をもらったりしていて、いかにも貧乏なのだが、あえて意識しないと体に入ってこない。これはヘミングウェイ自身の生業が釣りではなく、小説だったからではないか。だから釣れない苦しみは書けても、釣れないことによる生活のプレッシャーは書けなかったのかもしれない。
 夏目漱石の『吾輩は猫である』でこういう描写がある。《吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。》これを読めば、吾輩は絶対に黒猫ではありえないのだが、私はずっと吾輩が黒猫だと思っているし、今でもそう思っている。市川崑の映画でも吾輩は黒猫だった。そしてこれは舞台裏の話なのだが、夏目漱石の家にいた吾輩のモデルになった猫も黒猫だった。こういうことがあると小説家は結局のところ自分のことしか書けないのでは? という疑問が湧く。また書かなくても伝わることがあるという不思議もある。色んな経験をしておきなさいと言われるのはこういうことがあるからなのかな。

※慇懃無礼という言葉があるように、言葉や態度以外にも伝わるものがあるんだろうな。もちろんそれは証明しようのないものだから、時に言いがかりになったり、水掛け論になるけれど、やはり心というものが現実に対して無視できないほどの影響力を持っているような気がする。













徳島のそごうが潰れる前に本屋で『老人と海』をジャケ買いした話

 今年の八月に徳島県のそごうが閉店するので、何階にあるかは忘れたが本屋に行った。去年はそこでガルシア・マルケスの『百年の孤独』の新潮社から出ている綺麗な装丁の本を買って、お気に入りの一冊になったので、給付金で10万円が転がり込んできたし、閉店セールで安く買えないかなとエロい心を抱きつつ『族長の秋』向かったわけだ。

 閉店セールはやっていたがコロナのせいか客足はまばらだった。閉店するぐらいだから元々客足は少ないが、エスカレーターに乗っていると一階上にいる赤ちゃんの「ばぶ」が聞こえるほど閑散としていた。本屋に行くと目当ての『族長の秋』どころか全てのガルシア・マルケスがなかった。一年も同じ品揃えなわけないかとこの時に気付いた。日本では再販制度で本のセールが存在しないことにも。

 でも、せっかくそごうまで来たのだから何か買って帰らないと損なので、本屋をうろうろしていると『老人と海』の新版を見つけた。表紙がとても綺麗なのでジャケ買いした。今までこんな表紙は見たことがないと思っていたが今年の7月に出たばかりの新版だそうだ。


 既に持っている本の新版という流れができたので『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も買った。訳は村上春樹。装丁は・・・・シンプルだね!


 コロナがなければ記念に何か食べて帰りたかったけれど、外食するのも面倒になったので本だけ買って速攻で帰った。さらばそごう。もう会うこともあるまい。今までありがとう。おかげで良い本に出会えた。

(おわり)





一年ぶりに『山桜』の推敲をする

 最近コロナウイルスで世間が騒いでいるけれど、去年の二月はインフルエンザで何日か布団の中で震えていて()、熱に浮かされている時に、ヘミングウェイのように一年寝かしたらどうなるのだろうという考えが頭をよぎって、その時は絶対にするわけがないと思っていたが、本当に一年寝かしてしまった。熱で頭がおかしくなったのかもしれない。

 久しぶりに『山桜』を読むと、当然ながら去年の熱はもうなくて、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、多少書き直したところはあった。そこは去年からどうしようかと迷っていたところで、一年経ってみれば迷うほどのことはなかったし、書き直した後でもう一度読み直しても、やはりそうするべきだと思えた。問題点(迷うぐらいなので、明確な問題だったというわけでもないが)は去年のうちに掴んでいたのだから、その時にもう一歩踏み込んでいれば同じ結果だったかもしれないし、やはり一年時間をかけなければ書き直せなかったかもしれない。人生の二つのルートを同時に歩むことはできないので分かるはずはないが、ただこれが良い小説なのは間違いない。でもいつ出すのかはまだ分からない。徳島公園の桜はもう咲いてしまったし、そもそも題名に桜とついているが春の桜を見る話ではないし、とか色々考えているが、ストックしておくのが一番良い気がする。いつでも何かしら出せる状態であるのは気持ちに余裕が出て、精神的に良い。

 表紙の方は一季節に二つか三つのアイデアをひらめくので、フォトショップのファイルが13個もある。jpegファイルは70個(バージョン違いがほとんど)だ。これは最高だ! と毎回思っていたが、いつもそれを超えてくれたのはありがたい。小説は表紙込みで一年寝かせた方が良いのかもしれない。


》おわり 2020年2月28日(金)牛野小雪 記


牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪

ヘミングウェイと推敲



 パリ・レビューによるとヘミングウェイは毎日書いた物を推敲していたらしい(もちろん原稿になってからも推敲した)。そんなやり方でまともに小説を書けるんだろうか。書いている途中で推敲すると明らかに筆が鈍る。『流星を打ち砕け』も最初は毎日推敲していたが、どんどん書けなくなったので、千秋がユニコと再会する辺りでやめた。そこからはぐんぐん書けるようになった。でも書けることが偉いことか?

 私達は小説家が一年に何冊も本を出すことに慣れていて、昔の作家は、一年に一冊、あるいは数年に一冊というペースで書いていたことを忘れている。それも大長編ではなく文庫本で言えば小指より細い一冊の本をだ。

 Season3はもっと小説に対して真摯に取り組んでみたい。仮書きの段階でも毎日推敲してもいいのではないか。勢いに頼らずに書いてもいいではないか。むしろ勢いで大事なことをごまかしているのではないか。そんなことを今は考えているが、いざその時が来たら進みの遅さに耐えきれなくなって推敲を後回しにするかもしれない。

 小説はもう書いてしまったので、今は雑感帳や日記を毎日推敲している。それで何かがすぐに変わるとは思えないけれど、10年後にはどこかに到達できているのかな。

(おわり)

1人の小説家の最高傑作は20年かけて書かれる、のかもしれない

 光文社版の『老人と海』はIT革命の後に新訳されただけに解説も豊富だ。その解説によると『老人と海』の俗にいう執筆期間、つまりタイプライターを叩いて文章を書くような行為は2ヶ月だが、構想からを含めると20年かかっているらしい。20年といえばガルシア・マルケスの『百年の孤独』もたしか20年だったはずだ。もしかしたら一人の小説家の最高傑作は20年かけて書かれるのかもしれない。(その二つは最高傑作じゃないっていう人もいるだろうけど)

 そういう目で見れば夏目先生も芥川龍之介も小説家になってから20年もしない内に死んでいる。私が思うに、この2人が日本の小説家で群を抜いているような気がするのは、もちろん彼らの作品の素晴らしさもあるだろうが、それ以上に、もし2人があと10年生きていたらどれだけの物を書いていたのだろうかという可能性を見ているからではないか。こんなことを言うとファンに怒られそうだけど、太宰治があと20年生きたとしても『人間失格』以上のものを書けたとは思えない。(これまた『人間失格』は最高傑作じゃないという人がいるだろう。きっと文学オタクだ)

 こんなことを考えるのも、私の中にもずっと書けずに胸の中に留まっているものがあるわけで、時折書こうと試みるもどうにも筆が進まないからだ。もしそれを書くのに20年も必要とするのなら、まだ折り返し地点も過ぎていないわけで、あと10数年先なんて小説を書いているどころか生きていることさえ想像できない。そりゃあそうだ。夏目先生も芥川龍之介も20年書く前に死んだのから私が死なない道理もない。2人に限らず、腹に一物を抱えて死んだ作家なんてごまんといるだろう。でももし20年後も小説を書いていたとしたら、私はどんなものを書くのだろうと想像してみた。が、何にも思い浮かばなかった。最高の小説は二十歳で世に出ると仮定すれば、まだおむつが取れたばかりで、将来どうなりたいかなんて聞いても、おつむが足りないので何にも答えられないだろう。車になりたい、運転手さんになりたい?、ううん車になってビューって走りたい、と大真面目に語って大人を笑わせることはあるかもしれないが、実際にそうなる可能性はかなり低い。

20nenn

 20年……20年って長いなぁ。たぶんヘミングウェイもガルシア・マルケスもまさか20年かかるなんて思ってもいなかったに違いない。それだけのあいだ胸に秘めたものを書いた後にまた小説を書くことなんてできるんだろうか。

(おわり)

ヘミングウェイの翻訳に気を置く

 この前、青空文庫にヘミングウェイの『老人と海』があるのを見つけた。外国の作家が青空文庫にあったのもそうだし、ヘミングウェイがパブリックドメインになっていたのにも驚いた。彼の死後50年経っている。他の作品はないので『ヘミングウェイ パブリックドメイン』で調べてみると、戦争期間中の著作権は伸びて計算されるので(国によって著作権の保護期間は違う)、戦後に出版された『老人と海』はパブリックドメインになり、戦前の作品はまだパブリックドメインではないという不思議な状態なのだそうだ。ちなみに全ての作品がパブリックドメインになるのは2031年。

 前に『老人と海』の語句を調べていて、日本語でも分からないので原文から意味を探っていると、意外と意訳が多いことに気付いたし、段落や文章のつなぎ方や切り方も違うことを知った。

 絞轆(こうろく)というサメを吊るすために使った道具があるのだが、私ならそれを吊り鉤と訳すだろうとか考えていた。英語で読みきった本なんて『不思議の国のアリス』ぐらいの人間が不遜にも翻訳家に茶々を入れたわけだ。ちょっと気にかかったところなんかは頭の中で訳して、それが手元の『老人と海』と違うと、ちょっと嬉しくてグフフと心の中で含み笑いをしていた。私が読んでいたのは新潮文庫版の福田恆在という人が訳した物で発行されたのは昭和41年。それから元号は二回変わったし、そりゃあ時代的な文章だと感じるわけだ。

 そういう経緯もあって『老人と海』がパブリックドメインになったのなら自分で翻訳して公開してやろうという野心を抱いた。しかし翻訳する前に他の翻訳はどうなのかと光文社版の『老人と海』を読んでみたら、現代風のすっきりした文章になっていたので驚いた。2014年の翻訳らしい。マジか。と何度も心の中で驚きつつ、最後まで一気に読んでしまった。これがあるならあと20年は訳す必要はない。

 そう思っているくせに、グーテンベルクから原文をコピペしてローソンで印刷してきたり、英和辞典を二つ本棚から引っ張り出してきたり、訳そうとする色気が消えてくれない。色気は消えないがまだ一文も翻訳していない。結局どうしたいんだか自分でも分からない。今のところ翻訳する気はないが、翻訳しない気もない。もしかしたら20年かけて翻訳するのかもしれない。ないない尽くしだが原稿のコピーは机の上にある。

(おわり)
ヘミングウェイ






『三日吹く風 The three-Day Blow』ヘミングウェイ

 ニックとビルのやりとりがいい。というかそれだけの短編。失恋の暗さをどうでもいいようなことを話しながら過ごして、三日吹く風がみんな吹き飛ばしてしまったみたいに、ニックは元気を取り戻す。そういうところがいいんだろう。と思ったけど、読み直してみるとビルがマージョリーの話を持ち出してニックは暗くなり、ビルが復縁の可能性があることを示唆してニックは元気になる。まぁやっぱりビルとのやりとりが肝の短編であることは間違いない。

 
以下調べた単語。

ワグナーリンゴ-英語でwagener。日本では馴染みがないが、そういう品種があるらしい。

大きな実がなる丈夫な品種で、1791年にジョナサンという品種と共に栽培された。

ジョナサンとワグナーがかけ合わされたのがアイダレッドという品種。こちらもあまり馴染みがないがジョナゴールドに似ている味らしい。ジョナゴールドはスーパーで売っているので、ぜひ参考に。

 

コテッジ-家具やベッド、トイレがある山小屋みたいな物。壁と床だけの物はバンガローというらしい。家とどう違うのかは不明。『三日吹く風』では夏に使用する田舎の小さな別荘(あるいは拠点)みたいな意味だと思う。

 

テン・マイル岬-tenmile creekという小川はミシガンに限らずアメリカ中どこにでもあるっぽい。それでシャールボイというのを調べてみると、東部ミシガン州にある。それで一つ前の『ある訣別』に遡ると、ニックとマージョリーが虹鱒を釣りに行ったのがホートンズ・ベイ(horton bay)で、これもやはりミシガン州にある。五大湖のところ。それでgoogle map horton bayのあたりを調べていると、北の方にニック・アダムズ自然保護区という場所があった。ヘミングウェイ・ドライブという道路もある。たぶんこの辺が物語の舞台なのだろう。テンマイル岬の具体的な場所は分からなかった。

 

アイリッシュウィスキー-アイルランドで作られたウィスキーのこと。スコットランドならスコッチ。

 

泥炭-でいたんと読む。文字通り泥の炭。石炭の一種。スコッチウィスキーを作る際、発芽させた大麦を乾燥させる時に泥炭(ピート)が使われて、それが独特の風味になる。

 

ヤマシギ-クチバシが長いハトみたいな鳥。毛は茶色っぽくて地味な色をしている。フランスでは禁猟になるほどだから、たぶん美味しい。

 





『老人と海-The Old Man and the Sea』を読んで調べたこと

老人と海

あやふやな語句を調べながらヘミングウェイの『老人と海』読んでみた。読んでいる時間より調べている時間が長かった。現代国語の授業を思い出した。

 

巻綱-まきづな。まきあみではない。この綱でカジキを引っ張る。綱は使いやすいようにまいてあるのだろう。こんな風に。
001巻き綱

短すぎとは言ってはいけない。

 

魚鉤-やす。犯人ではない。魚に引っ掛けて船や陸に上げる道具。グーグルで調べると柄の長い物が出てくるが舞台はキューバなので映画『ラストサマー』に出てくるような柄の短いタイプだろう。それはきっとこんな形をしている。

002魚鈎

-もり。槍みたいな漁師の道具。穂先はワイヤーや綱に繋がっていて、魚に刺さると柄から外れる。穂先は魚から抜けないように返しが付いている。それはこんな形をしている。

003 銛

 

マスト-船に立てて帆をはる道具。マストを立てるということは老人の舟は帆舟ということになる。舵を握るという箇所もあるからきっとそう。表紙の絵は手漕ぎ舟だが、実際の老人はこんな形の舟に乗っていたはずだ。

004 マスト

帆という字が出てくるのは、かなり後半、カジキがサメに食べられてからで、それからも帆の描写は見当たらない。しかし、帆の下隅の綱をおさえていただけなので、帆は張っていなかったのかもしれない。マストと帆は持っていったが、風がある時にだけ立てて、それ以外の時は舟に寝かせているという可能性もある。でもサメに襲われながら港に帰っているので帆を立てて舟を進めているような気がする。

そのへんを気にしながら、もう一度読んでみるとp.111帆のはらみかたを見ればとあったから老人は帆立てて舟を操縦していたのだ。。

 

 

蝕壊地方-しょくかいちほうと読む。蝕壊を国語辞典で調べても見つからなかったので広辞苑も出してみたが、それでも見つからなかったのでネット検索すると、まさに『老人と海』に出てくる蝕壊地方とは何ですかというのがトップに何件か出てきた。何だか要領は得ない答えなので自分で考えてみた。

該当箇所は“両手にはところどころ深い傷跡が見える。綱を操って大魚をとらえるときにできたものだ。が、いずれも新しい傷ではない。魚の棲まぬ砂漠の蝕壊地方のように古く乾からびていた”と書いてある。このことから老人の傷は擦傷であることがうかがえる。そして魚の棲まぬとあるから川っぽい見た目だけど、潤いのない感じのはずだ。

 それらの考え合わせると老人の手には無数の古い擦傷がこんな感じであったに違いない。

005 蝕壊地方

生命線とか指紋は面倒なので省きました。傷跡はもっと真っ直ぐかも?

 

まかじき-鼻先が角みたいに伸びた魚。老人が釣った魚でもある。カジキマグロと呼ばれるがマグロの仲間ではない。でも刺身はマグロに似ている。というか元々カジキの刺身が食べられていて、それがいつからかマグロの赤身に変わったそうだ。とても美味いらしい。

 鼻先の角はだてに付いているわけではなく武器としても使うらしい。突いてよし、叩いてよし、万能の道具である。それはこんな形をしている。

006 まかじき

 

ハバナ-キューバの首都。文学とキューバは相性が良いのか村上龍もハマっていた時期がある(今もそう?)。ちなみにキューバはこの辺にある。

007 ハバナとキューバ

ハバナでバナナが取れるかどうかは分からないがキューバ料理にはバナナを使うらしい。『老人と海』でも老人と少年がバナナのフライを食べていた。

 

鮫の肝油‐さめのかんゆ。字の通りサメの肝臓の油。それだけ聞くとオエッて思うけど、子どもの頃に毎日一粒だけ食べさせられていた謎のお菓子『肝油ドロップ』の材料が鮫の肝臓(タラとかエイも使う)だと知って、ちょっと驚いた。シャチも鮫を襲って肝臓をむさぶるというし、けっこう美味なのかもしれない。それに栄養満点だ。作中でも吊り上げられた鮫工場で最初に肝臓をえぐるという描写がある。84日が続いても老人が死ななかったのは、毎日これを飲んでいたからかもね。鮫の肝油すごい。

 

つむぶり-ぶりという名前がついているがブリではないし、ブリの仲間でもない。でもブリに似ているへんな魚。ひれがちょっととげとげしい。食べ方はブリと同じっぽい。

 

ひらまさ-へい、らっしゃい、という掛け声が聞こえてきそうな名前の魚。ブリに似ているが、顔はどことなくマンボウっぽい。見た目がブリに似ているので食べ方もブリっぽく。


絞轆-こうろく。また辞書を引いても出てこない単語。ネットでも絞轆、意味分からん。たぶん魚を吊り上げて解体するもんだろう的なものが出てくる。それで原文から絞轆らしき単語を見つけて検索してみた。原文は“…where they were hoisted on a block and tackle,theyつまり鮫たちがblock and tacklehoistedされていたというわけで、このblock and tackleなるものが絞轆だろう。検索すると一発で出た。

 絞轆とは天井に付けた滑車とフックで重たい物を持ち上げる機械である。それはこんな形をしている。

008 絞轆

なぜ滑車を使うと重たいものを持ち上げられるのかは理科の先生に聞いてください。

 

舟の横木-ふねのよこぎ。船体を補強するために横木。それはこんな風にはめこまれている。

009 舟の横木

斜めの場合でも用を足すが、その場合は斜木というのだろうか? たぶん横木だろうけど。

ここに腰掛けたり物を置いてあるような気がするけど、折れたら大変だから、そっとしておいた方がいい。

 

-しいら。頭が上に出っ張った不良みたいな頭を持つ魚。それはこんな頭をしている。

010 しいら

成魚は2mを超え、色味は派手々々しく、脂身は少なく筋肉質。ますます不良っぽい。しかし高級魚らしい。別名マヒマヒというアゲアゲな名前を持っている。やっぱり不良っぽい。

 カジキを引っ張っている時にシイラを食べると吐くかもしれないと老人が思っているのが不思議だったが、シイラは脂身が少ないので腐りやすいそうだ(なんで脂身が少ないと腐りやすいんだろう?)。だから吐き気を感じたのだろう。

モスキート海岸-ニカラグアにある海岸。老人はここで何年も海亀を取っていたらしい。ということは生粋のキューバ人ではないということだ。何か政変でもあったんだろうか。

 

棍棒-木でできた棒。魚を〆るために使う。人間や他の動物を〆る時にも使われる。

 

ポンド-約0.45kg。人間が一日に消費する大麦の重さらしい。老人の見立てではカジキは千五百ポンドなので、675kgのカジキということになる。ちなみに築地に持ち込まれた大マグロで史上最大の重さは2018年現在、1986年の496kgだからとんでもないことである(世界最大だと680kg)。マグロとカジキは違うけどね。

 

アトウェイビール-キューバで作られているビール。1959年には国内シェアが50%以上。小規模生産の高品質なビールを造っているそうだ。詳しくはここを。あとは君たちの目で確かめてくれ

http://www.hatuey.com/


大ディマジオ
-アメリカの野球選手。1914年生まれ。マリリン・モンローと結婚していた時期がある。骨の蹴爪は英語版ではbone spurとなっている。それを検索すると骨棘という病気だと分かった。踵骨棘は40~60代と中年期に発症しやすいそうなので、物語の舞台は1946~51年だろう。

 

燐光を放つ藻-夜光虫のこと。明るい時は赤く見える。通称赤潮。これがあると魚は釣れないらしい。

 

あじさし-カモメに似ている鳥。頭が黒っぽい。空中からダイビングして魚を取るそうだ。アジを食べるからあじさしだとか。さしという鳥がいるのかと調べると、それはいない。たぶんアジを嘴にくわえているのが、アジを刺しているように見えたのだろう。こんな風に

011 あじさし

 

-ひろ。大人が両手を伸ばした範囲を尋という。1.8mぐらいのことをいう。100尋なら180mということだ。

 

槍烏賊-やりいか。槍の穂先みたいな形をしているから槍烏賊。死ぬと茶色くなる。岸壁でも釣れるイカ。どうでもいいことだけど、イカの頭はお腹らしい。内臓があそこに詰まっている。もし人間がイカになったら、とっても不便だろう。こんな風に

012 イカとイカ人間

きっと世界がさかさまに見えるだろう。肩こりには悩まされないだろうけど頭痛には悩まされそうだ。

 

飛魚-とびうお。胸びれが羽のように大きい魚。ひれが風を受けるので空中を滑空できる。こんな風に

012 とびうお

腹びれも大きいので垂直翼の役割があるのだろう。このひれで直進したり、左右へ飛行進路を変えてそう。

 老人は生で食べたが、刺身より調理した方が美味いらしい。でも本当に新鮮な物は美味いそうだ。シイラの胃の中から出でてきた二匹の飛魚は新鮮といえるだろうか?

 

海燕-うみつばめ。アシナガウミツバメという種はいるのだが、どうも作中のウミツバメとは違うような気がして、ウミツバメ科を探せる範囲で探してみたが、どうもアシナガツバメぐらいしかキューバには生息していないっぽい。それで英語版をあたってみるとウミツバメはsea swallowsとなっているので検索した。すると上に出てきた“あじさし”が出てきた。sea swallowの前に”dark terns”とも書かれているのでTernを調べるとやっぱりあじさしだった。海燕=あじさしで間違いない。

 

かつおのえぼし-透明のくらげ。刺されると電気が走ったような痛みがあり、最悪死ぬ。太平洋沿岸にも生息しているので台風の後に海岸へ行くと浜に打ち上げられたかつおのえぼしを見ることができる。

 

びんなが-びんながまぐろのこと。小型のマグロで胸びれがながい。

 

フィート-0.3m。足の大きさが基準だとか。老人が釣ったカジキは鼻先から尻尾まで18フィートだったので6.3mあったということ。ちょっと大きめのダンプカーぐらいある。

 

へらつの鮫-へらつのざめ。英語版ではshovel-nosed sharkとあるので検索するとエイみたいな魚が出てきた。もちろんエイっぽい見た目なのでエイだった。一応肉食だが1mぐらいなので作中の描写と一致しない。それで、へらつの鮫が出てくる後に老人が言った「ガラノーだ」から、Galanosで検索するとヨゴレという鮫がヒットした。胸ひれの先に白い模様があるのも作中の描写と一致している。人を食いサメであり、こんな悪そうな外見をしている。

013 へらつの鮫

人間より大きくなるサメ。もし海中で出会ったら『アヴェ・マリア』を百回唱えてみよう。あきらめてはいけない。生還例もある。

 
ガラノー―ガラノーとはヨゴレのこと。上のへらつの鮫のこと。

リゲル星-オリオン座の右下にある星。オリオン座はこんな形をしている。

014 リゲル星

右下の一番大きいのがリゲル星だ。

 

小判鮫-こばんざめ。鮫という字がついているが鮫ではなくスズキの仲間。頭の上に小判模様の吸盤がある。草履で踏みつけられたようにも見える。へえ、旦那。とか言いそうな愛嬌のある顔をしている。食べると美味いらしい。

015 こばんざめ

昔々、海遊館でジンベエザメにくっついて泳ぐコバンザメを見たことがあるが、最近はジンベエザメに嫌われて別の水槽に引っ越したそうだ。コバンザメで生きるのもラクじゃない。

 

輪索-わなわ。綱を輪っか状にした物。それはこんな形をしていただろう。

016 輪索

この輪っかに老人はカジキの尻尾を突っ込んだのだ。こういう風に

016 輪索2

輪っかを閉めると尻尾の付け根で綱が締まって魚が動かなくなる。それで舟で運べるようになるというわけだ。

 

デンツーソ-たぶんホオジロザメのこと。Dentusoが何者なるか英語→日本語では出なかったので、英語→スペイン語で調べると大きな歯を持った者とかいう不思議な意味が表示された。でも鮫であることは間違いないので、大きな歯を持つサメを調べると、やっぱりホオジロザメしかありえない。超大穴でメガドロンもありえるけど。

 ホオジロザメは大型のサメで1945年にはキューバで6.4mのホオジロザメが捕獲されている。もしヘミングウェイがこの鮫をモチーフにしたのなら、フィートのところで説明したようにカジキの大きさは6.3m。舟はそれより小さい。老人はカジキより自分の心配をした方が良さそうだ。ええい、デンツーソめ。

017 デンツーソ たたかい 2


(2022年12月4日追記)

 コメント欄でデンツーソはアオザメではないかとの指摘があり、読み直してみました。すると

”それはふつうの鮫のピラミッド型をした歯とは違う”

という記述がありホオジロザメとは違うことが判明しました。他にも

”歯が八列、内部に向かって並んでいる”

などの描写も合わせるとやはりアオザメだと考えるべきだと思いましたので訂正します。
 ちなみにアオザメは日本でははんぺんの材料として利用されているようです。カジキと違って身近にある食べやすい食材なので今夜はおでんにして食べてみると面白いかもしれません。

 名無しのおやすさん、ありがとうございました。

※余談:サメ映画の金字塔『ジョーズ』ではホオジロザメをモデルにしていますが『ディープブルー』というサメ映画ではアオザメがモデルになっています。



  (以上をもちまして 老人と海を読んで調べたこと おわり)

『ある訣別 The End of Something』/ヘミングウェイ

 物語の冒頭に材木にする丸太が使い果たされて、打ち捨てられたホートンズ・ベイという町の描写から始まる。ニックとマージョリーはそのホートンズ・ベイのそばにある湖をボートで釣りをしている。題名にある通り二人は別れようとしているのだ。

 
 別れる理由ははっきりしないがマージョリーがニックの何もかも知っていることだと示唆されている。始めもニックはマージョリーの知らないことを色々教えて、それを彼女が面白がっているのが嬉しかったのだろうが、どんどんネタ切れしてきて苦しくなったのではないだろうか。

 

 倦怠期の男女がそのまま別れるような短編だが、もう少しひねって読んでみるとマージョリーはニックのことを何でも知っているのに、ニックがマージョリーについて知っているのは彼女が何もかも知っているということだけに気付く。それ以外にマージョリーはどういう人間なのかは窺い知れない。

 

 実はマージョリーはどんな人間でもなく中身のない空っぽの女なのかもしれない。彼女の人となりを表す一文として“彼女は釣りが大好きなのだ。という文章が出てくるが、その後に“ニックと一緒に釣るのが大好きだった。”と付け加えられている。そういうことを意識して読んでいくとマージョリーの言うことなすことの中心にいつもニックがあるような気がしてくる。ニックありきの彼女に最初は面白かったのかもしれないが段々嫌気が差してくるというのはよくある話だ。

 

ホートンズ・ベイがニックとマージョリーの比喩だとするなら、10年前に丸太が使い果たされた打ち捨てられたホートンズ・ベイだが今は二番生え、つまり一度切られた木が伸びていることが書かれている。収穫する価値がないのか、収穫する術がないのかは分からないが収穫できる何かはあるのだ。

 

 最後の最後にビルという人物がやってきてニックにマージョリーと別れたか聞くのだがニックは不機嫌に彼を跳ね返す。そういうところを見るとニックにとって不本意な別れだったのかもしれない。でも今の彼にはそうするしかなかったのだろう。

(2018年7月1日 牛野小雪 記)


『医師とその妻(The Doctor and the Docter wif)/アーネスト・ヘミングウェイ』〜小さな罪の正当化〜

 冒頭で医師は湖岸に流れついた丸太を見つける。しかしその丸太を回収するには手間も費用がかかるので、あえて湖岸から引き上げることもしないだろうから、医師は自分の物にしても問題ないはずだと考える。
 そうして彼はインディアンの男達を呼ぶのだが、彼らにはっきりと「丸太を盗んだ」と指摘されてしまう。怒って家に帰ってきた彼は信心深い妻に何があったのか問い詰められる。そこで彼は自慢のショットガンの掃除をしながらインディアンの男は彼に借りがあるものだからケンカを売ってくるんだと嘘をつく。妻はいったんその嘘を飲み込むが、しばらくしてからそんなことは信じられないと嘘を見抜いてしまう。
 医師は最初に丸太を自分の物にしようといて、理屈をこねて正当化しようとした。しかし文明人ではないインディアン達には通用せず、あっさりそれは盗みだと暴かれてしまう。
 その次に医師はインディアンの男が彼に罪悪感を負わせようとするのは彼に借りがあるからだという理屈を考えるのだが、その理屈も神を信じる妻には通用しない。
 しかし妻もインディアンも彼の罪を見破ったが裁くことはなかった。
 そこでようやく医師は冷静になり「すまん」という言葉を口にする。
 この言葉は妻にだけではなくインディアンの男や、丸太の持ち主、自分にも向けられているのではないだろうか。
 罪も認め謝罪もしたせいかようやくこの頃になって医師の心に平和が訪れ、林の中の牧歌的な雰囲気の中で彼は息子と一緒にクロリスを見に行くところでこの短編は終わる。
 いくら理屈をこねて正当化しても感情の底は欺けない。そう考えると最初の丸太のくだりがとても言い訳がましく感じられてくるのである。

(2017/06/09 牛野小雪 記)

追記:クロリスとは黒いリスのこと。本当に黒い。アメリカ中西部ではメジャーな動物なんだとか。






『インディアンの村(Indian camp)/アーネスト・ヘミングウェイ 』〜何故父親は死んだ〜

 ニックがパパと一緒に川を渡ってインディアンの村へ行くとそこには子どもを産もうとしているインディアンの女性がいる。パパはその子を取り上げるのだが、子供の父親は喉を掻ききって死んでいるというお話。
 何故死んだのかという疑問の前に、最初から夫は死んでいたのではないか私は考えてみた。
 少し読み返してみると、最初の方に夫がごろっと寝返りを打ったと書かれている。この時まで夫は生きていたのだ。しかし次に出てくる時は死んでいる。
 ジョージ叔父と三人のインディアンが女を押さえつけている時は上の寝棚でごろっと転がっていたようだ。たぶんこの時には死んでいたのではないか。
 これは象徴的な意味でも現実的な意味でもそうで、出産の場で男にできることは何もない。何なら母親でさえやれることはないのではないかぐらい思っていて、出産は赤ちゃんが自分の力で出てくるものだと想像している。(産むのが楽だとは言わない)
 その証拠に赤ちゃんは産もうとしても産めないし、産まれる時は勝手に産まれてくる。今ちょっと産まれるのはまずいから一ヶ月後まで待ってくれとはできない。赤ちゃんにだって意思はある。力もある。赤ちゃんが産まれようとしない限り、彼(ちなみにこの小説で生まれてくるのは男の子だ)は産まれてこない。 
 そういえばこの短編はインディアンの女が子どもを産めないから(あるいは産まれてこないから)手術しにきたという話だ。彼はまだこの世に生まれたくなかったか、あるいは生まれる力がなかったのだろう。
 出産の場で男は役に立たないから死んだというのなら、何故上と同じ理由で母親は死ななかったのだろう。
 いや、実は母親も死んでいたのでないだろうか。
 まず一つ目に女は出産できずに苦しんでいた。もしニックの父親が来なければこのまま出産の苦しみで死んでいたかもしれない。
 二つ目に帝王切開で子どもを取り上げた時に女が死んでいた可能性はかなり高かった。父が術後に自慢する程度には危ないところを通り抜けている。
 分娩時に母親は助産師(あるいは医者)や出産経験のある女性、色んな人に囲まれているが、基本的に父親の方はその場にいるだけで何もできないし、誰も気にかけてくれない。映画やドラマなら「こんな時、男はなにもできない。じっと待つことだ」なんて言って人生経験豊富な男が肩を叩いてきたりするが現実ではそれもないだろう。それならいっそ出産の場に父親が立ち会わないというのは古代の知恵かもしれない。
 そう考えてみると、子どもが産まれてこなくて苦しんでいる母親の上でごろっと寝棚に転がっている父親の姿がとても不自然に思えてくる。時代的に父親が出産に立ち会わないのが当然の時代だ。なぜ彼は出産が行われる小屋にいたのだろう。
 立会い出産という概念はそう古いものではないはずだ。子どもの頃にめざましテレビか何かの芸能ニュースでハリウッドセレブが立会い出産したというニュースを見て、変わったことをする人という印象を受けた記憶がある。それが日本の芸能人にも広がって、いつの間にか普通の人も立ち会い出産するようになった感じがある。
 現在のアメリカでは立会い出産が当然という風潮があるらしい。父親がへその緒を切ることもあるそうだ。しかし、それを持って日本の男性は昔の風習に縛られているというのも短絡にすぎる。むしろアメリカには父親を出産の場に立ち会わせる何らかの風習、あるいは仕組みがあると考える方が自然ではないだろうか。そこまで考えずただ欧米に対するあこがれで、父親を出産の場に立ち会わせれば何らかの弊害が生まれてしまうだろう。
 そのアメリカにしても昔は立ち会い出産をしていなかったはずだ。小説の話だがスタインベックの『怒りの葡萄』で出産の場から男達が締め出されるシーンがある。
 そうなってくると医師のパパはともかくニックや若い三人のインディアンが出産の場にいることも不思議に思えてくる。なぜ彼らは死ななかったのだろう? 彼らと喉を掻ききって死んだ父親の違いは? そこに生と死を分ける何かがあるのではないか?

(2017/06/07 牛野小雪 記)



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『スミルナ埠頭にて(On the Quay at Smyrna)/アーネスト・ヘミングウェイ』スミルナ埠頭はどんな状況なのか

『スミルナ埠頭にて』はヘミングウェイの短編である。
 いきなり地名を出されてもよく分からないが、調べてみるとトルコにある都市。
 そこにどうしてギリシャ難民がいるのかというと、第一次世界大戦でギリシャがそこを占領したから。しかし『スルミナ埠頭にて』の頃にはトルコ軍が奪回して、ギリシャ人が追い払われているという状況というわけだ。
 ちなみにケマルという人物が出てくるがちらっと出てくるが、彼はトルコ共和国の初代大統領である。トルコはトルコでもオスマントルコ帝国と共和国の違いがある。今のトルコはヨーロッパの端っこにあるギリギリユーロ圏の国ぐらいにしか見えないが、昔は広大な領地を持つ国だった。どうして落ちぶれたんだろう?
 しかし、私とわれわれってどういう立場の人間なんだろう?
 何となくトルコが気を使っている相手っぽいからアメリカとかヨーロッパの国?
 謎は尽きないが、逃げていく人達の迫力は伝わってくる短編。

(おわり 牛野小雪 記)


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村上春樹はノーベル賞を取れない。取るのはまだまだ先の話

 前評判では村上春樹(敬称略)が今度こそ取ると騒がれていたが、2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランが取った。
  何故今さらこんな話をするのか。このニュースが流れていた時、私は『エバーホワイト』を執筆中だったので思うところはあっても書く気になれなかったからだ。

 色んな人が村上春樹はノーベル賞を取れないと言っている。 取るなという願望もあるんだろう。私は取れないと思っている。理由は国内で村上春樹が嫌われているから。
 いやいや『色彩を持たない〜』が発売早々100万部売れたような作家が嫌われている? なんて眉唾な話に思われるかもしれないが、事実そうなのだ。ネット上ではかなり嫌われているし、件の『色彩を持たない〜』では面白く内容を揶揄したレビューが話題になったほどだ。
 それに作家の中でも嫌われている。図書館でとある作家の90年代の対談集を読んでいると「あのね、俺、最近話題になっているていう小説読んだのよ。そしたらさ、冒頭で主人公がドイツの航空会社の飛行機に乗って昔の恋人を思い出すところを何十枚も使って書いてやがんの。こいつバカだと思ったね」的なことを書いてあった(正しい内容は忘れた。なんという本かも忘れた。まぁだいたいこんな感じの内容だった)。ちょうどその時『ノルウェイの森』を読んだ後だったので、すぐに村上春樹のことだと分かった。 分かる人には分かるように表立って書いているのなら、裏では相当言われているはずだ。それに対談した作家にしても、自分の名前で出す本なのだから、そういう部分は相手に気を使って削除しても良いはずなのにちゃんと残しているということは、概ねその意見に同意しているのだろう。
 別に同業者に嫌われても読者の支持があれば良いではないか、と思われるのだが、ノーベル賞を取るにはまず推薦されなければならない。それがなければ審査すらされない。そして文学賞は各国のペンクラブにも推薦を依頼するらしいので、同業者の評判が悪ければ推薦されない確率が高いのだ。
 あっ、別にこれは村上春樹を嫌いなことを責めているのではないよ。ただ彼らに嫌われているから推薦されないだろうなということを言いたいのだ。
 海外で人気があるから海外の推薦人が推すという可能性もある。しかし普通に考えて各国の推薦人は自国の作家を推すだろうから村上票が入るとは考えづらい。それが理由でそもそも候補にも上がっていないのではないかと私は思っている。

 村上春樹はどんな作家なのか。
 エロ作家という評判がある。たしかにそういう描写はある。でも、あれを読んで(やれやれ、僕は射精した)となる人間が何人いるか疑問だ。エロという観点で見れば、それ専用の小説の方がよっぽどエロい。本当に読んだのか? もしくは私の想像力が弱いのかもしれない。あっ、こう書くと何だか遠回しに書くのが下手と言っているような気がしてきた。やっぱりエロいです。村上春樹は色気たっぷりです。

 冗談はさておき、長編に限っていうのなら村上春樹の物語を構成する背骨のプロットはひとつだけだ(私個人の意見です)。こちらとあちらの二つの世界があって、男と女が別れ別れになる話(だから鼠が女説があるんじゃないか? 私はまだ筆が固まっていなかったから男だと思う。そう読むのはちょっとひねくれているぞ)。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』からその傾向がはっきりしてきた。
 それじゃあ同じ話を書いているのかと言われれば、う〜ん、まぁ重なるところはあるんだけれど(同じ人間が書いているのだから当然か)、ちょっとずつ前進していることが分かる。

上下巻以上の長編だとこうなっている。
(以下、名前が覚えられないので男と女と表記する。自分の小説でも覚えらないから許して)

 例えば『ノルウェイの森』だと女は最後にあちら側の世界へ行ってしまう
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だと男は最後にあちら側へ行く
 『ねじまき鳥クロニクル』だと井戸の底からあちら側の世界へ行って、正体不明の状態で女と再会し
 『海辺のカフカ』ではちゃんと顔を合わせる(だったかな?)
 『1Q84』ではそこからさらに女と一緒に元の世界へ戻ってくる(第三の世界と匂わせている節もある)

 と、私は読んだ。プロットとして見れば徐々に話は進んでいるのだ。

 それじゃあ、もし次の上下巻以上の長編が出たらどんな話になるのか。
 仮に『X』と名付けるとする。

 『X』でもやっぱり男と女はこちらとあちらの世界に分かれている。それで三巻ぐらい使って、二人は再会してこちらの世界に戻ってくる。そして、たぶん子どもが生まれる。その後を書くとしたら、やっぱり女はあちら側の世界に戻るだろう。『1Q84』で女が殺し屋だったみたいに、何かしら罪なり穢れなりを背負っていて、それが二人を引き離す要因になるのだろう。子どもは男の元に残る。そこで話が終わる。
 あっ、そういえば『海辺のカフカ』は母親がいない少年だったっけ(父親が誰か分からないという題材は珍しくないけど、母親が分からないというのは珍しいね)。それと姉も。そこまで繋がるのか? 

 と、勝手に色々書いてみたが、まさかこんな世間の片隅にいるような人間が考えたような話を村上春樹が書くはずがない。きっと予想を越えるような話を書いてくるんだろうな。絶対にそんなことはないだろうから、安心して好き勝手に書くことができた。ちなみにプロットが評価されてノーベル文学賞を取ることはないと思う。しかし、こうやってまとめてみると村上春樹の文体はドライなアメリカンだと言われているが、プロット自体は伝統的な物語だ(私個人の感想)。

 村上春樹は精神的プロレスの根性が生きている。それが彼の魅力なんではないだろうか。作中ではたいてい荒唐無稽なことが起きるのだが、主人公はとりあえずそれを受け止める。北海道へ羊を探しにいくことになっても、怪しげな占い師が出てきても、とりあえずはそれを現実として受け止めるところから始まる。たぶん村上春樹本人にしても、もしノルウェイの森みたいな女がいれば「テメエみてえなメンヘラこっちから願い下げだっ!」ぐらい言うかもしれないが、とにかく氏の小説に出てくる主人公は色んな物を受け止める器の大きさがあるのだ。冷静になって考えてみると、そんな男現実にいないとは思うが、現実なんてつまらないじゃないか。つまらない物を読むぐらいなら寝てたほうがマシ。

 村上春樹の書く男は基本的に弱そうだ。強そうだったのはカフカ少年ぐらいか。村上春樹の書く男は一発殴ったら簡単に尻もち付きそうな印象がある。でも、その男は地面に座り込んだまま、ねとっとした目でこちらを見上げてきそうなしたたかさもある。もう一発蹴ったら転がりそうな感じもするけどね。もちろんそうしても、やはりこちらの様子を背中で窺っていそうだ。精神的には決してへこたれない柳のような強さがある。でも三島由紀夫がいればジョギングしないで筋トレしてろって言いそう。


 その村上春樹の小説だが、女はしょっちゅう行方不明になる。何処かへ消える。あるいはこの世にいない(あっちの世界にいる)。一番新しい短編集は『女のいない男たち』というそのままズバリのタイトルだ。元ネタはヘミングウェイの短編『男だけの世界』。この本に収録されている鱒を釣る話を読んで、山奥に釣りをしに行こうと思ったことがあるが未だに果たせていない。森と水の静けさと涼しさ。とっても雰囲気が良くて影響を受けること間違いなしだ。でも、たぶん一生行かないんだろうな。先達もいないし。でも森の奥で一人食べるキャンプの飯はとっても美味そうだ。『The Hemingway cookbook』という本がこの世に存在するのもうなずける。

 村上春樹の短編といえば『かえるくん、東京を救う』がどうも人気らしい。『神の子どもたちはみな踊る』という短編集に収録されている。車でラジオを聴いていると毎年この時期には村上春樹の話題が出て、ゲストに出てきた
アーティストはみんなこればっかり推しているような気がする。音楽業界に布教者がいるんじゃないか? 一人ぐらい『ノルウェイの森』が好きですという人がいてもいいじゃないか。出版部数的にそうならないとおかしい。せめて『1Q84』だろう。どうしてみんな揃いも揃って短編集の中にある一作を推すのか不思議でならない。短編集なんてほとんど売れないじゃないか。しかも90年代の本なのに? でももしかすると音楽をやっている人には何か琴線に触れるものがあるのかもしれない。
 私は
同じ本でならそちらより『蜂蜜パイ』の方が良いな。まさきち君ととんきち君の友情の話がいい。とんきち君が落ちぶれたとき、彼はまさきち君と友達でいるために彼の情けを受け取らずに山から姿を消すっていうのが良いんだ。その後ちゃんと二人はうまい形で友達に戻るしね。村上春樹は短編でこういう話を書いてくるからあなどれない(←村上春樹に向かってこの言い草。お前何様のつもりだ?)。さっき読んでみたがやっぱりいい。村上春樹は短編集から読んでいくのがいいと思う。

 話は大きくそれたが、村上春樹がノーベル文学賞を取る日は遠いだろう。少なくとも氏と同年代の人がいるうちは取れないんじゃないかな、たぶん。『村上春樹氏が今年のノーベル文学賞を受賞』というニュースが流れる頃には『えっ、村上春樹ってまだ生きている人だったの!?』と、まずそっちの方がニュースになるのではないだろうか。

 でもさ、ここまで村上春樹とノーベル賞のことを書いてきたんだけど、私は彼より辻仁成の方がノーベル文学賞を取るような気がするんだよね。彼の最高傑作と言われる『海峡の光』は物が多いのでブックオフで100円で買える。厚みもそれほどないのですぐ読める。少し前に話題になった『火花』と同じぐらい。そういえばどちらも真正面から書いた正統派というのも共通している。超オススメ。Kindle版はまだない(2016年11月現在)。とにかく良いよ、辻仁成は。ヘミングウェイと同じくらいイケメンだし、料理本も書いている。読んだことはないが表紙のやつは美味そうだよ。辻仁成には人生が詰まっている。足りないのは筋肉ぐらい。三島由紀夫なら筋トレしろって言うだろう。

 でも村上春樹だって好きな方さ。あれだけ騒ぐのだからそろそろ取ってもいいんじゃないかな。毎年上げて落とすことないんじゃないかなって思うんだよ。ちょっとかわいそうだよね。取る取る言い始めてから10周年を迎えてしまったことだし、そろそろ静かにしてあげてもいいんじゃないかな。どうせ取る時は取るんだしさ。もしかしら来年取るかもよ? それにノーベル文学賞なんてそんなにありがたいものでもあるまい。これまで何人も受賞した人がいるが、そのうち何人の作家の作品に触れたことがあるか? 去年誰が取ったかも定かではあるまい。
 夏目漱石もドストエフスキーもノーベル文学賞は取っていない。それでも彼らの作品は今も残っている。
しょせんそんなものだよ。賞によって作品の価値が上がることはなく、ただ脇に添えられるだけに過ぎない。エビフライに付いてくるポテトサラダみたいな物。

 ポテトサラダは好きだけどね。

(おわり)


追記:ヘミングウェイの短編の話だけど正確には『ヘミングウェイ短編集1 われらの時代・男だけの時代(新潮文庫)』の『われらの時代』の章に入っている『二つの心臓の大きな川』というお話。ちょっとややこしい。あと調べてみると徳島にいるのはアメゴというちょっと小さいサイズの鱒で、ヘミングウェイの小説に出てくるような鱒はいないっぽい。っていうかアメゴって鱒だったのか。アメゴなら子どもの時に何かの祭りで手掴みしたことがあるぞ。はぁ、なんだか急に夢がしぼんできた。ネットで簡単に調べ物ができてしまうのも功罪ある。大人しく鮭フレークでも食べているかな。それと本当に余談だが、ヘミングウェイは色んな物を題材にしているけれど、闘牛より釣りのほうがいいと思う。でも『老人と海』はイマイチ。ボクシングもイマイチ。一番いいのは『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』という狩猟を題材にした短編。主人公がライオンを狩るのに失敗して、奥さんに冷たくされるは、浮気もされるはで、しょんぼりしていたんだけど、次の狩りは成功して(何を狩ったっけ? 鱒ではなかったと思う)自信を取り戻すと、今度は奥さんがしょんぼりして、フランシスやったな!と心躍るのも束の間、彼がいきなり死んでしまうのがなんとも言えない。あれがヘミングウェイの中で一番の傑作じゃないかな。だっていまだにタイトルを覚えているぐらいだもの。あぁ、なんだか今日は小説の先達に向かって大きな口を叩きすぎている気がするな。

追記2:ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をいろんな人が推している。『罪と罰』なら読んだことがあるが、どうもこっちの方が最高傑作らしい。それもドストエフスキーの中ではなく、小説の中で。
 人中の呂布、馬中の赤兎、小説のカラマーゾフ兄弟みたいなものか。
 新しく本も出したことだし、ようやく重い腰を上げて件の本を求めに本屋へ行った。しかし本屋を出た時に私が持っていたのは『悪霊』という本だった。タイトルの響きがカッコよかったから。題名って大切!

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『死ぬかと思って(A Day’s Wait)/アーネスト・ヘミングウェイ』100度の熱で息子が死なない理由

 ヘミングウェイの小説でインフルエンザにかかった息子が体温計で熱を測ると100度と出て、もうじき死ぬんだと思い込む話がある。物語の結末は単位の違いで100度といってもそれは華氏(F→正確には℃のように小さな丸が左上に付くが変換ででてこない。ちなみにFはファーレンハイトと読む。なんだかかっこいい)のことで摂氏(℃)とは違うと諭す話がある。

 ちなみに華氏100度とは37.8度のこと。まぁ死ぬような温度ではない。ストーリー上で最高の102度でも38.8ぐらい。インフルエンザならこれくらいの熱が出てもおかしくない。

 ちなみに華氏における水の沸点は212度、融点は32度。覚えておくと何かの役に立つかもしれない。

 

(おしまい 牛野小雪 記)







牛野小雪、アメリカ文学にかぶれる

   僕は新作を書きあげる度に県外のある本屋に行く。その本屋は日本最大の売り場面積を謳っているだけに、売れ筋の本はもちろん、誰が買うのか分からないような本まで置いてある。

 それで僕はそこで意外な発見をした。海外文学といえば新潮文庫とハヤカワ文庫、このふたつの文庫レーベルが独占していると思っていたんだけど、この前その本屋に行った時に海外文学の本がハードカバーで売られているのを発見した。

 どうしてハードカバーが無いのか不思議に思っていた頃があった。この瞬間になるまで見かけなかったんだから、それは無い物だと思って当然だ。でもそれは単に近所の本屋に置いてなかったというだけで、あるところにはあったというわけだ。

 値段を見るとどれも当たり前の顔をして2,000円を越えていた。分厚い本があって、上巻の方を取ってみると4,200円とあって手の力が抜けそうになった。何とかピンチョンという変な名前の人だった。ピケティ本が6,200円で高いとニュースになっていたが、翻訳物は著者+翻訳者だから基本的に高い物だ。逆に言うと新潮文庫とハヤカワ文庫が安すぎる。

 僕はそこでシンプルな表紙の本を一冊だけ買った。今調べてみると中央公論新社とかいうこれまた聞いた事の無い出版社。うん、こういうところだ。普段は見る事の無い名前に出会うところがこの本屋の良いところだ。しかも三年前に印刷された本が初版で手に入るのはここぐらいだろう。これがあるから車を二時間飛ばすわけだ。

 そうそう、これだけは言っておかなくてはならないが香川でうどんを食べるときは二時までに食べること。そうしないと僕みたいにローソンのドーナツ二個が遅めのランチになってしまう。本当だよ、あそこは二時になるとうどん屋らしいうどん屋はみんな店を閉まっちまう土地だ。
 でもそういうところもやっぱり好きなんだ。四六時中店を開けているなんて狂気の沙汰だ。むしろ日本全国でうどん屋に合わせて活動するべきだ。

 その日から買ってきた本をちびちび読んでいたんだけど、ふとアメリカ人作家の本を僕はどれくらい持っているのかなと、気になった。海外文学といえばイギリス・ロシアの二大巨頭があって、そのひとつ下にフランスとドイツがあるみたいな印象が僕にはあった。
 さっと思い出せるのはヘミングウェイぐらいで、アメリカ人に作家なんているのかなと疑問に思っていたけど、調べてみると結構いた。ハリウッド映画と同じで身近にある物だから、すぐにそれと気付けないものなのかもしれない。でもやっぱり印象は薄い。ハリウッド映画だってすぐに思い出せる物は少ない。

 そういうわけで、というのはおかしいけれど、僕は今アメリカ人作家の本を枕の脇に積んでアメリカ文学にどっぷり浸かっている。

ヘミングウエェイはやっぱり短篇が良い。『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』これだけは何度読んでもいい。でも何だかんだで、やっぱり読みやすいのは『老人と海』だ。みんなの意見は案外正しい。

 

(おしまい)

ヘミングウェイの本
(老人と海が評価されてノーベル文学賞を取ったらしい)

ついでにこれも



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