愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

フロイト

ニーチェとフロイトの共通点と相違点

ニーチェとフロイト――この二人の思想家は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、人間という存在の奥底に潜む「暗い力」に光を当てたという点で、まさに精神の地下世界の探検者だった。どちらも啓蒙主義的な理性中心の人間観を疑い、人間が理性よりもむしろ無意識的・本能的な衝動によって動かされているという真実を突きつけた。彼らはともに「人間とは何か」という問いを根底から覆したが、その方法と目的は大きく異なっていた。

まず共通点から見よう。ニーチェもフロイトも、人間の行動を導くものが「理性」ではなく「衝動」であることを見抜いていた。ニーチェはそれを「力への意志」と呼び、フロイトは「リビドー(性衝動)」と名づけた。表現は違えど、どちらも生命を突き動かす根源的な力に注目した点では一致している。たとえば、ニーチェにおいて善悪の区別は文化的に作られたものであり、人間の本来の衝動を抑え込むための装置にすぎない。フロイトもまた、社会が築いた道徳や宗教を「超自我」という抑圧の構造として分析した。どちらも「文化」や「道徳」を人間の自然な衝動の敵とみなし、その抑圧の代償として神経症や虚無を生み出すと考えた。

もう一つの共通点は、どちらも「神の死」以後の人間を直視したという点だ。ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、宗教的価値が崩壊した後に人間がどう生きるかを問うた。フロイトは宗教を心理的な願望充足、つまり幼児的な父親信仰の延長として分析した。どちらも神を現実的存在としてではなく、人間の精神構造の投影として読み解いた。つまり、彼らにとって「神」とは信じる対象ではなく、解剖されるべき心理現象だったのだ。

しかし、ここから二人の道は大きく分かれる。ニーチェは「抑圧からの解放」を目指した哲学者だったが、フロイトはむしろ「抑圧の構造」を冷静に描き出した科学者だった。ニーチェにとって、道徳や宗教を超えるとは「超人」への道であり、人間が自らの価値を創造する創造者として生きることを意味した。彼は病を通して力を発見し、苦痛を超える肯定の哲学を説いた。一方、フロイトは人間の心の病を治療するために無意識を解明しようとした。彼の目的は「超越」ではなく「理解」だった。フロイトの患者はソファの上で過去の記憶を語るが、ニーチェの哲学は戦場のように自分自身を試す。前者は臨床の静けさ、後者は断崖の叫びである。

たとえば、フロイトの理論では、人間の欲望は社会によって抑圧され、その抑圧が無意識に沈み、やがて夢や言い間違いとして現れる。彼の「精神分析」はこの抑圧を言葉によって意識化し、神経症からの回復を促す試みだった。ニーチェにとって、こうした「治療」はまだ弱者の倫理にとどまっている。彼の眼には、フロイト的な癒しは「生の力を中和する」ものとして映るだろう。ニーチェは「苦しみを取り除く」のではなく、「苦しみを意味あるものに変える」ことを求めた。彼にとって、苦痛とは創造の源泉であり、それを避けることこそ病だった。フロイトが無意識を「治すべき病」と見たのに対し、ニーチェは無意識を「育てるべき力」と見たのである。

また、フロイトの無意識は「個人の過去」に根ざしている。彼にとって夢とは、子ども時代の抑圧された欲望が形を変えて再現する舞台だ。だがニーチェの「力への意志」は、過去よりも未来へと向かう。彼の無意識的な力は「超克」を志向し、創造と破壊のリズムで動く。フロイトの分析が「原因」を求めるのに対して、ニーチェの哲学は「可能性」を開く。フロイトの患者は過去を語り、ニーチェの哲人は未来を語る。

両者の違いは「人間観の温度」にも表れている。フロイトは人間を「欲望と理性の葛藤に苦しむ存在」として観察する。彼の筆致は冷静で、しばしば悲観的だ。理性は欲望を抑える装置であり、その緊張の中に文明が成り立つ。ニーチェはこの構図を嫌い、「抑圧された衝動を肯定せよ」と叫ぶ。彼にとって生とは闘争であり、価値の創造であり、爆発である。フロイトの理論が「心の平穏」を目指すのに対し、ニーチェの思想は「激しく生きること」を目指す。彼の超人は決して穏やかではない。むしろ、苦痛と狂気を抱えながら笑う存在だ。

興味深いのは、フロイトがニーチェを高く評価しながらも、彼を理論的体系には組み込まなかった点だ。フロイトは「ニーチェはすでに私の発見の多くを先に言っていた」と述べているが、同時に哲学的な直観と科学的な証拠を区別した。彼は詩人ニーチェを尊敬しながらも、精神分析を「科学」として成立させようとした。対してニーチェは、科学的厳密さよりも生の力の真実を重視した。彼は「科学とは、病んだ哲学の一形態だ」とすら語る。つまり、フロイトは人間を「観察」しようとし、ニーチェは「変容」させようとした。両者の間には、「治療」と「革命」という方向の違いがある。

結局、ニーチェとフロイトの思想は、人間を理性の被造物から解放したという意味で、同じ革命の異なる側面だった。ニーチェは「生の哲学」を唱え、フロイトは「心の科学」を築いた。どちらも「無意識」という暗闇を覗き込み、そこに神のいない新しい人間像を描いた。その結果、二十世紀の文学、芸術、思想は彼らの影響を逃れられなくなった。ドストエフスキーの登場人物も、シュールレアリストの絵画も、どこかでニーチェとフロイトの融合を感じさせる。理性では説明できない人間の闇、その闇こそが創造の源泉だという思想が、彼らから世界に広がったのだ。

もし彼らが現代に生きていたなら、ニーチェはSNSの群衆心理を「奴隷道徳の新形態」と嘲笑し、フロイトは「無意識の可視化」としてビッグデータを分析していただろう。どちらも人間の「自由」を問うという意味で、今なお終わらぬ対話を続けている。

ニーチェは叫び、フロイトは聴く。片や哲学的詩人、片や臨床的観察者。

だがその根底には、同じ確信が流れている――

「人間とは、自分でも知らぬ自分に支配されている存在である」。






無意識と文学、オートマティズム

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 今年の二月に『流星を打ち砕け』を出してそろそろ一季節が過ぎそうだが、次回作はまだほとんど形になっていない。たぶん今回もまた一年かけて書くつもりなので、書くことだけじゃなくて、書き方まで考えることが多いからだ。相当時間を浪費している感じはあるが気分は悪くない。空振りに終わるかもしれないが良い体験をしている。

 何年か前に文学界で岡崎京子という漫画家の特集があって、それがきっかけで『pink』を読んだ。登場人物にハルヲくんというのがいて、小説を切り貼りして作るという手法で小説の賞を取るというエピソードがあった。ちょっと衝撃的だったの調べてみると、そういう手法は普通にあるらしい(最初から最後までやるのか、一部だけでそうするのかは分からないけど)。たぶんカットなんとかという名前だったはずだが検索しても出てこない。もしかしたら全然違う名前かもしれないし、映画か漫画の手法だったかもしれない。知っている人がいたら教えてほしい。

 それからたびたび考えていることの一つにオートマティズムがある。簡単に言えば無意識を利用した執筆方法だ。別に新しい手法ではなく、絵画の世界(文学が先?)だともう枯れた技術といってもいいぐらいで私にも真似できる物があるほどだ。たとえば『ターンワールド』の表紙は小さくした画面に線をむちゃくちゃ描いただけだし(こうすると描いている時はどうなっているか分からない)、この前出した『流星を打ち砕け』の表紙もコラージュの手法からアイデアを得た。最近(これももう古典化してきたが)はもう無意識さえ排除する動きもあってアーティストが筆を取らないパターンさえある。この前『日曜美術館』で見たのは電車の揺れで絵を描く人が紹介されていた。ここまでくるとそれってアートなの? 芸術ってなに? と思ってしまうので、今のところは無意識だ。

 3000年前のたぶんギリシャの詩人が「今を生きる人間にはもう新しいことは残されていない」と言ったように絵画はもちろん文学の世界でもオートマティズムが注目されていたことがあるそうだ。高速記述とか、ドラッグで意識を朦朧とさせた状態で書くとか、そんなところ。でも芥川竜之介が薬でへろへろになっている頃のは好きじゃないし、この辺りで壁にぶち当たって一度オートマティズムについては頓挫した。大体この道の咲に何かがあるなら今もオートマティズムで書く作家がいるはずだし、手法も発掘されているはず。つまりどん詰まりってこと。

 だいたい無意識を言葉として捉えられるなら、それはもう意識じゃないか? 書くという意識的な行為で無意識を書くなんて不可能だ。とか考えていたんだけど、ふと何かの偶然でフロイトの無意識の記述を読んで分かったことがある。

 無意識なんて存在しない!
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 正確に言えば無意識のイメージに間違いがあった。
 たいていの本では海に浮かぶ氷山があって、海上に出ている部分が意識、海中にある部分が無意識と説明されているが、フロイトによると抑圧は形を変えて現れるので、無意識は必ず意識上に現れる。常に感じ取れるものなのだ。心の四次元ポケットは存在しない。

無意識は自分

 従来の意識無意識の関係は左だが、どうも右の捉え方がしっくりくるように思う。無意識はここにある。ゴミ箱の中にある物が私の無意識かもしれないし、他人の中に私がいるかもしれない(特に嫌な奴)。いや、たぶんそうなのだ。だから嫌なことばかり考えてみた。今まで出会った底意地の悪い人、気持ち悪い物、汚い物、不幸。すると凄く気持ちが落ち込んできた。絶対に何か間違っていると思った。それに自分の中にある醜さや恥を見つめて、人前にさらけ出すなんて古い文学感だ。よくよく考えてみれば無意識にだって良いこともあるはずだし、隠される物は良いものじゃないか。

 でも、だ。抑圧が形を変えて姿を現すのなら、嫌なものは無意識では良いものなのかもしれない。じゃあいいものは悪いもの? いいはわるい、わるいはいい。なんてワルプルギスの夜で歌われそうな歌詞だけど、それもまたしっくりきた。

 結局、それでどうしたというわけなんだけど、結論なんてものはなくて、ただ感じたり考えたりしたことを書いただけで、この記事には何の意味もないし、どこへ行くわけでもない。これ以上書くことは何もないから未完で終わり。

 でも無意識では意味があるかもね。

(未完)

pink 新装版
岡崎京子
マガジンハウス
2016-08-31


精神分析入門(上) (新潮文庫)
フロイト
新潮社
1977-02-01


ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

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