愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

ゲーテ

無意識と文学、オートマティズム

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 今年の二月に『流星を打ち砕け』を出してそろそろ一季節が過ぎそうだが、次回作はまだほとんど形になっていない。たぶん今回もまた一年かけて書くつもりなので、書くことだけじゃなくて、書き方まで考えることが多いからだ。相当時間を浪費している感じはあるが気分は悪くない。空振りに終わるかもしれないが良い体験をしている。

 何年か前に文学界で岡崎京子という漫画家の特集があって、それがきっかけで『pink』を読んだ。登場人物にハルヲくんというのがいて、小説を切り貼りして作るという手法で小説の賞を取るというエピソードがあった。ちょっと衝撃的だったの調べてみると、そういう手法は普通にあるらしい(最初から最後までやるのか、一部だけでそうするのかは分からないけど)。たぶんカットなんとかという名前だったはずだが検索しても出てこない。もしかしたら全然違う名前かもしれないし、映画か漫画の手法だったかもしれない。知っている人がいたら教えてほしい。

 それからたびたび考えていることの一つにオートマティズムがある。簡単に言えば無意識を利用した執筆方法だ。別に新しい手法ではなく、絵画の世界(文学が先?)だともう枯れた技術といってもいいぐらいで私にも真似できる物があるほどだ。たとえば『ターンワールド』の表紙は小さくした画面に線をむちゃくちゃ描いただけだし(こうすると描いている時はどうなっているか分からない)、この前出した『流星を打ち砕け』の表紙もコラージュの手法からアイデアを得た。最近(これももう古典化してきたが)はもう無意識さえ排除する動きもあってアーティストが筆を取らないパターンさえある。この前『日曜美術館』で見たのは電車の揺れで絵を描く人が紹介されていた。ここまでくるとそれってアートなの? 芸術ってなに? と思ってしまうので、今のところは無意識だ。

 3000年前のたぶんギリシャの詩人が「今を生きる人間にはもう新しいことは残されていない」と言ったように絵画はもちろん文学の世界でもオートマティズムが注目されていたことがあるそうだ。高速記述とか、ドラッグで意識を朦朧とさせた状態で書くとか、そんなところ。でも芥川竜之介が薬でへろへろになっている頃のは好きじゃないし、この辺りで壁にぶち当たって一度オートマティズムについては頓挫した。大体この道の咲に何かがあるなら今もオートマティズムで書く作家がいるはずだし、手法も発掘されているはず。つまりどん詰まりってこと。

 だいたい無意識を言葉として捉えられるなら、それはもう意識じゃないか? 書くという意識的な行為で無意識を書くなんて不可能だ。とか考えていたんだけど、ふと何かの偶然でフロイトの無意識の記述を読んで分かったことがある。

 無意識なんて存在しない!
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 正確に言えば無意識のイメージに間違いがあった。
 たいていの本では海に浮かぶ氷山があって、海上に出ている部分が意識、海中にある部分が無意識と説明されているが、フロイトによると抑圧は形を変えて現れるので、無意識は必ず意識上に現れる。常に感じ取れるものなのだ。心の四次元ポケットは存在しない。

無意識は自分

 従来の意識無意識の関係は左だが、どうも右の捉え方がしっくりくるように思う。無意識はここにある。ゴミ箱の中にある物が私の無意識かもしれないし、他人の中に私がいるかもしれない(特に嫌な奴)。いや、たぶんそうなのだ。だから嫌なことばかり考えてみた。今まで出会った底意地の悪い人、気持ち悪い物、汚い物、不幸。すると凄く気持ちが落ち込んできた。絶対に何か間違っていると思った。それに自分の中にある醜さや恥を見つめて、人前にさらけ出すなんて古い文学感だ。よくよく考えてみれば無意識にだって良いこともあるはずだし、隠される物は良いものじゃないか。

 でも、だ。抑圧が形を変えて姿を現すのなら、嫌なものは無意識では良いものなのかもしれない。じゃあいいものは悪いもの? いいはわるい、わるいはいい。なんてワルプルギスの夜で歌われそうな歌詞だけど、それもまたしっくりきた。

 結局、それでどうしたというわけなんだけど、結論なんてものはなくて、ただ感じたり考えたりしたことを書いただけで、この記事には何の意味もないし、どこへ行くわけでもない。これ以上書くことは何もないから未完で終わり。

 でも無意識では意味があるかもね。

(未完)

pink 新装版
岡崎京子
マガジンハウス
2016-08-31


精神分析入門(上) (新潮文庫)
フロイト
新潮社
1977-02-01


ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

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小説の神様

 去年、聖者の行進を出してからもうじき一年になる。それから全作改稿して、群像にも出して、それからプロットを作り始めて2ヶ月が過ぎた。ノートを書き始めてからだと今までで一番長く時間をかけている。難産というよりは輪廻転生を何度も繰り返している感じで、今月生まれたプロットもリセットすることにした。

 一体何をやっているんだろうという気分になるし、実は小説を書くことを拒否しているのではないかということも考えてしまうのだが、これはもう私には書けない小説だと諦めて、別の小説を書こうとしていた時のプロットが合流してくると、こうなるために迷ってきたのだと運命めいた物を感じた。これはイケる! という確信にも襲われたものだ。しかもちょうど時期を同じくしてゲーテの本を読んでいるとこういう文章に遭遇した。

 私の人生と芸術のなかで、自分自身の道と、他人の道とを厳密に吟味してみると、明らかに誤った努力といえるものが当事者にとって目標に辿りつくための決して避けて通れない回り道であることが分かりました。

 うわぁ、まさにこれだよ。ゲーテさん、あんたは分かってる。きっと大作家になれるよ! とドイツの大作家を賞賛した。こういう出会いがあると小説の神様はいるんじゃないかって気がする。でも神様がいるのなら、もっとズバッと知恵を授けてくれたってバチは当たらないんじゃないかとも思う。そうすれば二ヶ月もプロットを書き回さなくても済んだのに。そう考えると実は小説の神様じゃなくて小説の悪魔に魅入られているのかもしれない。何も無いところを予感に突き動かされてぐるぐる回されているのだ。

 でもメフィストフェレスだって城や魔界の手下をくれたのだから、牛野小雪にだって人里離れた静かな別荘と、世俗のことを処理してくれる秘書をくれたって良いはずだ。って、そんな俗なことを考えているから悪魔さえ現れてくれないのだろう。堕落させる価値もない魂だ。となると、やっぱり私についているのは小説の神様でしかありえない。きっと凄いのが書けるぞ。

(2018年10月28日 牛野小雪 記)
devil=god2



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