俺は最近、人類の叡智に関する重大な真実にたどり着いてしまった。それは、はっきり言ってカント以降の哲学はクソ、ということだ。なぜかって?理由はただ一つ。ヤンキーのパンチをまったく想定していないからである。

考えてもみてほしい。哲学のゴールが「よく生きること」だとするなら、人生の路上でいきなり遭遇する理不尽の塊、つまり金のネックレスをジャラつかせたヤンキーからの「なぁ、オイ、なんか文句あんのかコラ」という問いにどう答えるかが、最重要課題であるはずだ。

その点、古代の聖人たちはマジでリスペクトできる。彼らはみんな、ヤンキーパンチの射程距離で生きていた。

まずキリスト。彼の「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」という教えは、ヤンキー対策の最終奥義だ。これは単なるお人好しの戯言じゃない。「殴りたきゃ殴れよ。だがな、お前のその暴力が、俺の魂に届くことはねえ」という、鋼のメンタルから繰り出される精神的なカウンターパンチなのである。ヤンキーも、殴った相手にそんな顔をされたら、さすがに「え、なにコイツ…」と気まずくなって帰るしかない。見事な危機管理術だ。

ブッダもそうだ。彼の出発点は生老病死という、人生の容赦ないヤンキーパンチそのものだった。ある時、ブッダが悪口を言われまくったが、彼は涼しい顔でこう言ったという。「君が差し出した贈り物(悪口)を私が受け取らなかったら、その贈り物は誰のものかね?」。これぞまさに、ヤンキーのメンチ切りを柳に風と受け流す「不動心」という名のノーガード戦法。ヤンキーのほうが勝手に疲れて自滅するパターンだ。ストリートの知恵が詰まっている。

我らがソクラテスに至っては、その生涯がヤンキーとの路上ディベートバトルだったと言ってもいい。アゴラの真ん中で「お前、本当は何も知らねえだろ?」と道行く人に絡みまくるスタイルは、現代なら即通報案件。だが彼は、その身一つで権力という名の最強のヤンキーに立ち向かい、最終的に「毒杯飲めやコラ」という究極のヤンキーパンチを食らって、悠然と死んでいった。彼の哲学には、常に死の匂い、つまりヤンキーの拳のリアリティがまとわりついていたのだ。

さて、ひるがえってカント以降の哲学者たちはどうだ?

想像してみてほしい。深夜のドン・キホーテの前で、カント先生がヤンキーに絡まれる場面を。

ヤンキーが「ガン飛ばしてんじゃねーぞ、オラァ!」と凄む。

それに対してカント先生は、きっと真顔でこう言うだろう。

「君のその威嚇という行為の格率が、あたかも君の意志によって普遍的な自然法則となるかのように、行為したまえ」

ゴッ!

鈍い音とともに、カント先生のメガネが夜空を舞う。彼の頭の中のカテゴリー表は吹っ飛び、悟性の純粋概念は砕け散り、アンチノミーの二律背反は霧散し、永遠に認識不可能とされた「物自体」は、ヤンキーの拳というあまりにリアルな「現象」によって、その存在を彼に一瞬だけ垣間見せたに違いない。そして彼は、「ああ、我が純粋理性は、ヤンキーというアポステリオリな経験の前には、かくも無力であったか…」と呟きながらアスファルトに沈むのだ。

ヘーゲルならもっと悲惨だ。「このパンチ(テーゼ)と、俺の非暴力(アンチテーゼ)は、やがてアウフヘーベンされて…」とか言ってる途中で、アゴに2発目のパンチ(ジンテーゼ?)を食らってKOだ。絶対精神も、絶対的な痛みの前にはただの寝言なのである。

ニーチェはどうか。「神は死んだ!」と叫び、超人思想を掲げる彼は、一見ヤンキーに強そうだ。だが、彼の哲学もまた、暖房の効いた安全な書斎で生まれたもの。ヤンキーに「あ?神が死んだだぁ?テメェが死にてえのか?」と詰め寄られたら、「いや、そういうメタファーであって…」ともごもごしているうちに、その立派な髭を掴まれて地面に叩きつけられるのがオチだ。永劫回帰?目の前のヤンキーが「もう一回殴ってやろうか?」と拳を振り上げる、そのループに耐えられるのかと。

結局のところ、カント以降の哲学は、あまりにも無菌室で培養されすぎたのだ。彼らの精緻で壮大な思弁の城は、ヤンキーのたった一発のパンチで、その土台からガラガラと崩れ落ちる砂上の楼閣なのである。

だから俺は思う。真に「よく生きる」ことを目指すなら、哲学書を片手に筋トレをすべきだと。いつ人生の路上でヤンキーに遭遇してもいいように、難解な概念をこねくり回す前に、まずスクワットの一回でもやるべきなのだ。

それが、ヤンキーパンチの時代を生きる我々にとって、唯一リアルな哲学の実践方法なのである。

(おわり)


哲学入門 総集編
うしP
2025-03-18