愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

オーウェル

炎上時代には二重思考を極めろ!【短編小説】

先日、友人が「ネットで“頑張ってる人を応援したい”って書いただけで炎上した」と言っていた。
なぜだ。どこに地雷が埋まっていたのか。文脈か? 絵文字か? 句読点の位置か?
Twitter(現X)とはまさに戦場。違う。地雷原。いや、地雷原の上を裸足で走る障害物競走だ。

「この国に必要なのは寛容ではなく、二重思考だ」
これは僕が愛してやまない、架空の思想家“ジョージ・ニートウェル”の言葉である(嘘です)。


■そもそも「二重思考」ってなんやねん

本来の意味はオーウェル先生の『1984』に出てくる言葉で、「矛盾する二つの信念を同時に正しいと思い込める能力」のことや。
たとえば、**「戦争は平和」「自由は隷属」「無知は力」**みたいなアレ。
現代風に言うと、こんな感じや。

  • 「あいつマジで嫌い。でも好き。」

  • 「労働はクソ。でも感謝してる。」

  • 「炎上は怖い。でも燃えたら売れる。」

な? 現代人、意外と二重思考してるやろ?


■Twitter構文で学ぶ実践的・日常二重思考

ワイが炎上から逃げ切った黄金パターンを伝授しよう。

【例1】

×「〇〇って人の意見、違うと思います」 → 炎上🔥
◎「個人的には〇〇さんの視点も尊重しつつ、別の考え方もあるのではと感じる自分もいます」 → 生存🫡

ここで大事なのが「自分もいます」という多重人格スタイル。
自分の中に“自分派”と“相手派”を同時に住まわせるのがコツや。

【例2】

×「子育てって大変だよね」 → 未婚独身子無し派から炎上🔥
◎「子育てって本当に大変ですよね(未経験ですが)」 → 生存🫡

“未経験”というワードで予防線を張るのも大事。自虐こそ最強の盾。


■脳内で「炎上会議」を開け!

ワイは投稿する前に、脳内で「ワイVSワイのアンチ」の模擬裁判を開いてる。
「これ書いたら、"お前も〇〇やん"って言われるやろな」
「"じゃあお前はどうなんだ"って返されたら詰むな」
その結果、何も書けなくなる。
…それでええねん。

沈黙もまた、最大の二重思考や。
「言いたいけど言わない」「書けるけど黙る」
この葛藤を“自由な意志”として楽しむんや。


■二重思考とは「人にやさしい多重人格」

要するに、“誰の味方にもなれて、誰にもならない”という妙技やな。
煽りにも共感し、正義にも皮肉を混ぜ、逆張りの中に本音を混ぜ込む。
ツイートとは、情報の弁当箱や。梅干しの位置を間違えたら死ぬ。


■結論:

「お前それどういう意味だよ」って言われたら勝ち。
だってそれ、ちゃんと二重思考できてるってことやから。


みんなもこの地獄のようなSNS時代を生き抜くために、
「ほんとは違うと思ってるけど、一応そういう意見もあるってことで…」
という呪文を常に心の中で唱えるとええで。

次のトレンドは「複雑系コミュニケーション能力」。
つまり、「わかりにくいやつ」が最後に笑う。


一九八四年 (ハヤカワepi文庫)
高橋 和久
早川書房
2012-08-01


リチャード・ローティのオーウェル解釈 ― 「ヨーロッパ最後のインテリ」の意味

アメリカの哲学者リチャード・ローティ(1931–2007)は、代表作『偶然性・アイロニー・連帯』の第8章「ヨーロッパ最後のインテリ―残酷さについてのオーウェル」で、ジョージ・オーウェルの小説を独自の方法で読んだ。ローティの読みは、オーウェルの作品を「真実の揭示」としてではなく「政治的語彙の再記述」として捉え、20世紀が孕んだ残虐性と希望の脆さを説いている。本記事では、ローティがオーウェルについて語った内容を整理し、その背景にある哲学と当時の政治的文脈を解説する。

真理ではなく残酷さに焦点を当てたローティの倫理

ローティはリベラリズムを「残酷さは人間が犯す最も悪いことだ」と考える心性として定義し、哲学的議論で用いられる「客観的真理」や「実在」といった語彙を軽視した。彼にとって倫理は知識論的な根拠ではなく、文学や物語を通じた「他者の痛みへの共感能力」に依拠しており、何よりも残酷さを避けることが重要であった。ローティは「人間性の深い事実が支配者をJ・S・ミルのようにするのか、オブライエンのようにするのかは決まらない。知性・判断・好奇心・美に対する味覚といった知的な才能は性的本能と同じくらい可塑的だ」と述べ、人間の才能が道徳的方向性を決定するわけではないと主張した。この発言は、知性や芸術的才能がサディストの拷問者にも生かされ得ることを示しており、オーウェルの世界でオブライエンが教養ある拷問者として描かれる理由を説明している。

オーウェルは真理の擁護者か――ローティの問い

ローティの読みにおいて、オーウェルの小説は「客観的真実」を擁護するための論証ではない。ローティはオーウェルの『一九八四年』について、「オーウェルは哲学的な立場を打ち立てるためにオブライエンを発明したのではなく、具体的な政治的可能性を描こうとした。オブライエンは狂ってもおらず、間違った理論に誘惑されたのでもなく、道徳的事実に盲目でもない。ただ危険であり得る存在として描かれている」と述べている。ローティによれば、オーウェルが提示する恐怖は「真理の消失」よりも、権力者が人々を従わせるために痛みや屈辱を利用する残酷な社会の可能性だという。

この解釈は、従来の「オーウェルは客観的真理を擁護し、全体主義の嘘と戦った」という読みと対照的である。ローティは、オブライエンとウィンストンの対決を「真偽の問題」ではなく「どの語彙が私たちの未来像を形成するか」という争点として読んだ。彼にとって小説が示すのは、私たちの語り方や比較の仕方が社会を形作るのであり、現実そのものが私たちに命令するわけではない、という洞察である。

「人間の平等は技術的に可能になった」と語るオーウェル

ローティがオーウェルを評価する理由の一つは、20世紀の矛盾を的確に表現した点だ。ローティは、オーウェルの最も優れた小説が読み継がれるのは私たちが政治をオーウェルと同じ語彙で記述する限りだと述べ、オーウェルが「我々の世紀は『人間の平等が技術的に可能になった』時代であり、同時に長く放棄されていた実践—裁判なしの投獄や奴隷化、告白を引き出すための拷問など—が復活し、それが進歩的だと自称する人々に容認・擁護された時代でもある」と考えていたと紹介している。つまり科学技術や合理化により人類の平等は手の届くところに来たが、同じ技術が大規模な支配と残酷の道具にもなりうるという皮肉である。

ローティは、オーウェルが描いたこの状況を「外見の背後にある現実を暴いた」と見るのではなく、「起こり得る、あるいは既に起きつつある出来事の別の記述」であり、オーウェルの世界は「危険であり得るもの」だと評価した。従って『一九八四年』を読む際、ある種の歴史必然や真理の失墜を論じるのではなく、われわれの政治的語彙がいかに現実を定義し、将来を規定するかを考えるべきだとローティは訴える。

オーウェルは「最後のインテリ」である

「ヨーロッパ最後のインテリ」という章題には二つの含意がある。第一に、『一九八四年』の仮題が “The Last Man in Europe” であったことへの言及。第二に、オーウェルがその後の左派のユートピア的語彙を拒否した点である。ローティはオーウェルを「最後のインテリ」と呼び、彼が20世紀に生じた残酷な現象を的確に描きながら、未来への語彙を残さなかったと指摘する。ローティによれば、オーウェルは読者に「これまで使ってきた政治的語彙を捨てなさい」と言っただけで、新しい語彙を与えなかった。そのため私たちは未だに「どの語彙で人間の平等や自由を語るか」を模索しており、彼の描写に代わる納得のいく枠組みは見つかっていない。

残酷さと連帯の結び付け

ローティにとって、文学は倫理的感受性を育む道具であり、残酷さへの感受性が連帯を生む。彼はオーウェルやナボコフといった作家が残酷さを描くことによって読者の共感を喚起し、異なる人々との連帯を可能にすると考えた。『一九八四年』で描かれる拷問と屈辱は読者に強烈な感情を呼び起こし、ローティの言う「想像力による同一化」を促す。ローティの論によれば、このような物語的な連帯が権力への批判や社会改革の動機になる。

また、ローティは歴史や語彙の偶然性を強調し、特定の道徳的語彙が普遍的であると信じることを拒否した。オーウェルが社会主義者でありながら党派性を疑い、全体主義の抑圧に抗した態度は、このようなアイロニカルな視点の典型といえる。ローティは「教養と残酷さは両立する」というオーウェルの洞察を受け取り、リベラルな希望の脆さを指摘した。

結論:ローティのオーウェル像が投げかける課題

ローティは、哲学的な真理論争よりも残酷さへの感受性と政治的語彙の刷新を重視し、オーウェルの作品をその代表例として読み解いた。彼の読みによれば、オーウェルは「真理」のために闘ったのではなく、未来への語り方を変え、残酷な社会の可能性に目を開かせるために書いた。ローティはオブライエンを「危険で可能な存在」と捉え、彼の冷酷な理性は人間の知的才能の可塑性を示しているとした。

一方で、ローティはオーウェルが新しい政治語彙を提示しなかったことも強調する。この点は、読者自身が新しい連帯の語彙を創造する必要があることを意味する。ローティの分析は、残酷さを避ける倫理と自由の実現には、固定的な理念よりも創造的な言語の工夫が必要だというメッセージを投げかけている。オーウェルの小説を読み返すとき、私たちは権力が生み出す残酷さとそれに抗する連帯の形を再考し、21世紀の政治的想像力を豊かにする手がかりを見つけることができるだろう。





一九八四年 (ハヤカワepi文庫)
高橋 和久
早川書房
2012-08-01


ローティによるナボコフとオーウェル論

哲学者リチャード・ローティは、1989年の著書『偶然性・アイロニー・連帯』第III部で文学と政治の関係を論じ、ロシア系アメリカ人作家ウラジーミル・ナボコフと英国作家ジョージ・オーウェルを対照的に取り上げた。ローティは「自由なアイロニスト(私的な自分を創造しつつ公共的な連帯を重んじる知識人)」の立場から、この二人の作家が「残酷さを防ぎ、連帯を育むために文学が果たしうる役割」を示していると評価した。彼によれば、ナボコフもオーウェルも、私的なアイロニーとリベラルな希望の間にある緊張を描き出し、リベラル・アイロニストが陥りがちな残酷さへの誘惑を警告している。

ナボコフ論──「怪物的な無関心さ」と美の快感

ローティはナボコフの『ロリータ』や『青白い炎』を取り上げ、そこに登場する語り手ハンバート・ハンバートやチャールズ・キンボートを「好奇心のない怪物(monsters of incuriosity)」と呼んだ。これらの語り手は豊かな文学的才能を持ちながら他者の苦痛に無関心で、彼らの陶酔はしばしば他者への残酷さを伴う。ローティは、ナボコフの小説が示すのは「芸術的才能が道徳的徳と無関係であること」だと指摘する。ナボコフは後記で「好奇心・やさしさ・善意・陶酔が芸術の本質だ」と述べているが、ローティは「エクスタシーと善意は結びつかない」と批判し、ハンバートが詩人は殺さないと主張しながら実際に殺人を犯す場面を例に挙げる。つまりナボコフの作品は、自律的な芸術家の視野の狭さが残酷さを生むことを教えるとローティは読む。

ナボコフ自身は「小説には教訓がない。私にとってフィクションは美的至福をもたらす限りで存在する」と述べ、現実の出来事を扱う作品や思想小説を「時事的なゴミ」あるいは「石膏の塊」と切り捨てた。ローティはこの姿勢をナボコフ特有のアイロニーと捉える一方、彼が描く作品世界そのものが残酷さを可視化し、読者に「他者の痛みを想像すること」の重要性を気付かせると評価する。例えばローティは『ロリータ』で、主人公が理髪師の悲嘆に気付かない「カスベイムの理髪師」の場面を引用し、ナボコフの美的追求がいかに残酷さへの無関心を生み出すかを示す。こうした物語に感情移入することで読者は自分の残酷さに気付き、より広い「われわれ」の輪に他者を迎え入れる準備ができるとローティは考える。

オーウェル論──最後の知識人とリベラル希望のもろさ

続いてローティは第8章「ヨーロッパ最後の知識人」でオーウェルの『一九八四年』と『動物農場』を論じる。ローティによれば、オーウェルは全体主義を告発するだけでなく、公的・私的な残酷さがいかに結び付いているかを描き出した点で「リベラルのための警鐘」となる作家だ。しかしオーウェルは、ナボコフのようなアイロニストではなく、真理や事実の重要性を信じるリベラルであり、読者に「何を為すべきか」という新しい語彙を与えないとローティは評している。

ローティは『一九八四年』の拷問者オブライエンについて「ヨーロッパ最後のアイロニスト」と呼ぶ。オブライエンは教養と好奇心を備えた知識人でありながら、歴史の偶然によりその能力を残酷な拷問に用いる。ローティは「知的な才能──知性・判断力・好奇心・想像力・美への嗜好──は性的本能と同じく可塑的である」と述べ、才能の有無が残酷さを抑止する保証にならないことを強調する。またオブライエンが「二足す二は五」という場面で行うのは、数学的な真偽を争っているのではなく、ウィンストンの合理化能力を破壊することだとも指摘する。つまりオーウェルの物語は、リベラルな希望が歴史的偶然に支えられた脆弱なものであり、残酷な知識人の出現もまた偶然に左右されることを示す。

一方でローティはオーウェルの政治描写に敬意を払う。彼はオーウェルが「20世紀を、人間の平等が技術的に可能になった一方で、拷問や奴隷化などが啓蒙的な人々に正当化された時代」と捉えたと紹介し、オーウェルの小説が広く読まれるのは私たちがまだその描写で政治を語っているからだと述べる。ローティはまた「オーウェルの心は単純でも透明でもない。彼は従来の政治語彙の無効性を暴いたが、新しい語彙を提示しなかった。それゆえ我々はいまだに設計図の前で足踏みしている」と書き、オーウェルが問題提起をしたものの解決の道筋は示さなかったと評する。それでもローティは、オーウェルを読み続けるべき理由として「真理の消滅が世界から消えつつあることへの恐怖」を挙げ、言語の堕落が政治の腐敗と直結するというオーウェルの洞察に共感している。

ナボコフとオーウェルの共通点

ローティはナボコフとオーウェルを比較し、彼らは美学や政治的立場こそ異なるが、共にリベラル・アイロニストが陥りがちな残酷さを暴き出していると結論付ける。ナボコフは芸術的陶酔の追求がいかに他者への無関心を生み得るかを描き、オーウェルは政治的理想が全体主義に悪用される過程を描く。ローティはこの二人の作品により、連帯は普遍的な真理から生まれるのではなく、物語を通じて他者の痛みを想像する能力から生まれると考える。彼は「人間の連帯は想像力によって創造される目標であり、反省によって発見される事実ではない」と述べ、小説や映画などの物語が道徳的進歩の主要な手段になると主張する。

ローティの読解は賛否両論を呼んだ。ジェームズ・コナントらは、ローティのオーウェル解釈が恣意的で、オーウェルの真理観を矮小化していると批判している。また残酷さの分析が心理学的・歴史的要因を無視し、個人的な創造性だけに重きを置き過ぎているとの指摘もある。しかしローティの提示した「残酷さの感受性を高める物語としての文学」という視点は、哲学や政治理論だけでは捉えきれない人間の残酷さを可視化する手法として評価され続けている。ナボコフとオーウェルの作品を読み、そこに描かれた残酷さと希望を考えることは、ローティの主張する通り、私たちが「より大きな私たち」を形成するための想像力を鍛えることにつながるだろう。





ロリータ (新潮文庫)
ウラジーミル ナボコフ
新潮社
2006-10-30



一九八四年 (ハヤカワepi文庫)
高橋 和久
早川書房
2012-08-01

ジョージ・オーウェル「政治と英語」から読み解く言葉と政治の腐敗

言葉の退廃と政治腐敗の関係

1946 年に発表されたジョージ・オーウェルのエッセイ「政治と英語」は、言葉の堕落が政治と社会にどのような影響を及ぼすかを鋭く指摘した作品である。オーウェルは、言語の衰退は経済的・政治的原因に由来すると認めつつ、劣化した言葉自体が新たな悪循環を生むと論じる。人間が落伍者だと感じるがゆえに酒を飲み、その結果さらに落伍してしまう例えを用い、醜悪で不正確な言葉遣いが愚かな思考を生み、その怠惰な思考がさらに言葉を腐敗させる循環を指摘する。この現象は放置されるのではなく、適切な努力によって反転可能だと彼は強調している。

オーウェルによれば、近代英語は悪い慣習に満ちており、抽象的で曖昧な表現や陳腐な比喩が溢れる。彼は数例を挙げ、こうした文章の共通点が「イメージの陳腐さ」と「正確さの欠如」にあると分析する。作者が考えを持っていても表現できず、あるいは何を言っているのかわからないまま平然と文章を書いている。特に政治文書は既成の言い回しを機械的に繰り返す傾向が強く、政治的な教義に忠誠を誓うほど生気のない文体になる。オーウェルは「我々の時代、政治的著述は悪い著述だ」と断言し、このような文章では書き手がもはや自分で言葉を選ばず、機械のように口からフレーズが出てくると述べている。

政治言語の堕落には目的がある。それは「弁護しがたいことを弁護するため」の歪曲である。植民地支配の継続、粛清や強制移住、無差別爆撃のような行為は、政治的宣伝では「平定」「人口移動」「不安定要因の排除」といった婉曲語に置き換えられる。オーウェルはこのような言葉遣いが事実から目を逸らさせるために意図的に使われると批判し、「明晰な言葉の最大の敵は不誠実さ」であり、全ての問題が政治に関わる以上、言葉は必然的に嘘やごまかしの影響を受けると嘆く。彼は、思考が言葉を腐敗させるだけでなく、腐敗した言葉が思考を腐敗させるという「悪循環」を明言している。

言葉の腐敗が政治腐敗を助長する

オーウェルの洞察は現代の評論家にも受け継がれている。報道機関ポインターのコラムニスト、ロイ・ピーター・クラークは、オーウェルの言葉を引きながら「政治言語は嘘を真実らしく見せ、殺人を正当化し、純然たる空疎に実体があるように装うために設計されている」と述べ、政治腐敗が言語の乱用を必要とし、その言語の乱用が政治腐敗を可能にするという「陰陽関係」を指摘する。クラークは第二次世界大戦後、独裁者たちが殺戮や粛清を「最終解決」「人口移動」といった婉曲語で覆い隠したことを例に挙げ、言葉の腐敗が暴力のイメージをぼかすと述べる。

一方、企業のブログ「Fluent」は、オーウェルの主張の核心は単なる良い文章の書き方ではなく、言葉が思考に与える影響だと解説する。記事は、愚かな思考が醜悪な言語を生み出すだけでなく、醜悪な言語が再び愚かな思考を容易にすると述べ、「思考が言語を腐敗させるなら、言語もまた思考を腐敗させる」とするオーウェルの言葉を引用する。言葉の質が低下すれば思考も貧しくなり、適切な語彙がなければ適切な思考そのものが不可能になるという指摘は、政治家が生と死を左右する政策を考える上で特に深刻である。

言葉の退廃は政治的抑圧に利用されると同時に、個人の思考能力を奪う。曖昧な言葉や陳腐なメタファーが氾濫すると、人々は自分の言葉で考える力を失い、既成のフレーズに思考を乗っ取られる。オーウェルが「用意された言い回しが一度頭に入り込むと、それは脳の一部を麻痺させる」と警告した通りである。この「思考と言葉の腐敗の双方向性」は、政治宣伝のみならず、企業やメディアにおけるマーケティング言語にも見られる。とりわけデジタル時代のソーシャルメディアでは、短く刺激的なフレーズが頻繁に拡散され、人々の思考に侵入している。

言葉を正すための提案

しかしオーウェルは、言葉の退廃は「治療可能」だと楽観していた。彼は陳腐な言い回しや不要な語を、少数の人々の意識的な行動によって消え去らせることができると述べ、言語浄化の試みが単なる古語の保存や文法警察ではないことを強調する。むしろ時代遅れの表現を廃し、不要なラテン語や外国語の言い回しを減らし、言葉の虚飾を取り除くことである。

オーウェルは「意味に合わせて言葉を選び、決して言葉に支配されてはならない」と忠告する。抽象的なことを考えるときほど既成の言葉が押し寄せてくるので、まず非言語的なイメージで意味を思い描き、その後でそれに合う言葉を慎重に選ぶべきだと説く。これによって陳腐な比喩や不要な反復を排除し、曖昧さを防げる。また、実践的な指針として次の六つのルールを掲げる:

  1. 常に目にする比喩・言い回しを使わないこと。 独創性のない比喩は思考停止を招く。

  2. 短い言葉を選ぶこと。 長い語より短い語が通じやすい。

  3. 削れる言葉は削ること。 冗長さを省き、意味を明確にする。

  4. 受動態を能動態に置き換えること。 行為者を明確にすることで責任の所在がはっきりする。

  5. 外国語・専門用語・ジャーゴンを避け、日常語に置き換えること。 読者との距離を縮める。

  6. これらのルールを破ってでも野蛮な表現を避けること。 ルールは目的を達成するための手段に過ぎない。

さらにオーウェルは、言語の簡素化によって既成の思考様式から解放されると述べる。言葉を簡潔にすると、愚かな発言をすればその愚かさが自分自身にも周囲にも明白になるため、結果として慎重に考えるようになる。彼は「政治言語は嘘を真実らしく見せ、殺人を尊敬に値するもののように思わせ、空虚に実体があるようにするために設計されている」と再度批判し、自分自身の言語習慣を改めることから始めるべきだと結論づける。

現代社会への示唆

オーウェルの観察から 80 年近くが経過した現在、彼の警告はなおも鋭い。SNS や広告が洪水のように情報を送り込む現代では、簡単で刺戟的なフレーズが支持を集め、人々の思考を誘導している。政治家は「移民が国の血を汚している」といった扇動的な表現を用い、暴力や差別を正当化しようとする。その一方で、環境破壊や労働搾取のような問題は「改革」「効率化」といった言葉で正当化される。言葉の腐敗が現実の腐敗を覆い隠すこの構図は、オーウェルが告発したものと変わらない。

言葉を正しく用いることは、思考を正し、政治の腐敗を抑制するための第一歩である。具体的には、曖昧さや婉曲語に警戒し、自らの発言や文章を簡潔で具体的にすること。他人の言葉を鵜呑みにせず、そこに隠された前提や意図を疑うこと。そして、自分自身も意味のない流行語や専門用語に頼らず、伝えたい内容をまず心の中で明確にすることが求められる。

オーウェルの言葉通り、言語の堕落は社会や政治の腐敗と分かち難く結び付いている。しかし、その腐敗を止める鍵もまた私たち自身の言葉の使い方にある。「考えが言語を腐敗させるなら、言語もまた考えを腐敗させる」。この循環を断ち切るために、まずは身近な言葉から変えていくことが、健全な政治と社会への道なのだ。





あなたと原爆 オーウェル評論集 (古典新訳文庫)
ジョージ・オーウェル
光文社
2019-08-08


ニュースピークとは

ニュースピークは、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する架空の言語です。この言語は、物語の全体主義的な政府によって設計され、思考の範囲を制限し、非権威的な思想を表現する能力を減少させることを目的としています。ニュースピークは、言葉の数を意図的に減らし、複雑な概念や反逆的な思考を表す言葉を排除することで、国民の思考自体を制御しようとする試みです。例えば、良いを意味する「good」の反対語は「ungood」であり、「非常に良い」を意味する「plusgood」、最上級の「doubleplusgood」など、言葉を単純化しています。ニュースピークは、言語を通じて人々の認識を形成し、統制する権力の例を示しています。

関連項目
  1. 1984
  2. 1984の二重思考とは
  3. ニュースピークとは

    小説なら牛野小雪【良い本あります】




1984の二重思考とは

1984年の「二重思考」は、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に登場する概念です。これは、矛盾する信念を同時に受け入れる能力を指し、物語の権威主義的な政府が市民に要求する思考方法です。たとえば、政府が戦争は平和である、自由は奴隷である、無知は力であると宣言する場合、二重思考はこれらの矛盾する声明を同時に真実として受け入れることを可能にします。

二重思考の比喩は、個人が同時に2つの相反する信念を持ちながらも、その矛盾を認識せずに両方を真実として受け入れることを示しています。これは現実世界の政治や社会におけるプロパガンダや認知的不協和の実例としても見られます。たとえば、政府や組織が自らの失策を正当化するために、矛盾する情報を同時に提供する場合などがこれに該当します。

関連項目
  1. 1984
  2. 1984の二重思考とは
  3. ニュースピークとは

    小説なら牛野小雪【良い本あります】




記事検索(なんでも単語を入れてみて)
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
このブログはAmazonアソシエイトに参加しています。
Googleアナリティクスでアクセス情報を分析しています。