行きつけのカフェで、ラテの泡をスプーンでいじくりながら友人が言った。その質問は、まるで絶滅危惧種の保護活動について語るような、どこか遠慮がちな響きを帯びていた。そう、我々の間では「小説を読む」という行為は、もはや週末に「写経」や「滝行」を嗜むのと同レベルの、高尚だが少し風変わりな趣味と見なされているのだ。
「読んだよ」と僕は答える。「主人公がタイムリープして、中世のフランスでパティシエになる話。パンがなければお菓子を食べればいいじゃない、を地で行く感じでさ」
友人は「へえ、面白そう」と気のない相槌を打つ。彼女の目は、テーブルの隅に置かれたスマホの通知ランプがチカチカ光るのを、獲物を狙う猫のように捉えていた。僕のパティシエは、フランス革命の動乱よりも、15秒で心を掴むショート動画のアルゴリズムに敗北したのだ。
そう、認めよう。小説はオワコン化した。かつて、我々の娯楽の王様だったはずの小説は、今や埃をかぶった玉座に座る、隠居した王様だ。一体、どこで道を間違えたのか。犯人を探すため、僕は脳内探偵事務所のドアを開けた。
容疑者はあまりにも多い。まず、スマホという名の超有能な執事。彼は我々の暇な時間を1秒たりとも見逃さない。ニュース、ゲーム、SNS、動画。次から次へと魅力的なご主人様への奉仕を繰り出す。その横で、数百ページにわたる文字の塊を差し出す小説は、あまりにも不器用で、気の利かない古風な召使いに見える。
次に、「タイパ」という名の新興宗教の教祖。信者たちは「タイムパフォーマンス」を絶対の教義とし、1.5倍速での動画視聴は当たり前、映画はネタバレ解説動画で済ませる。そんな彼らにとって、一文一文、行間を味わい、伏線を考察する読書など、苦行以外の何物でもないだろう。「で、結局どうなるの?犯人は誰?その二人くっつくの?」結論だけを欲しがる彼らに、回りくどい情景描写など、もはや迷惑行為なのだ。
さらに言えば、小説サイドにも問題はあったかもしれない。やたらと小難しい比喩。村上春樹風の「やれやれ」を乱発する主人公。三ページにわたる空の色の描写。読者を試すかのような難解なプロット。我々はいつしか、「読者に媚びるなんてダサい」とでも言わんばかりに、孤高の芸術家気取りになってしまったのではないか。その隙に、親しみやすい笑顔を振りまく動画クリエイターたちが、我々の愛する読者を根こそぎ奪っていったのだ。
先日、本屋で隣にいた若者二人の会話が耳に入った。
「この小説、映画化されるらしいよ」
「マジ?じゃあ映画観ればいっか」
僕は心の中で叫んだ。「違う、そうじゃない!原作には映画ではカットされた、主人公の心の機微が描かれているんだ!あの脇役の、どうでもよさそうで実は重要な一言があるんだ!」と。しかし、その声が彼らに届くことはない。彼らはすでに、ポップコーンの味について語り始めていた。
だが、まあ、いいか。とも思うのだ。
オワコン上等。流行の最先端から滑り落ちたからこそ、得られる静けさがある。誰もが顔色を窺うパーティー会場から抜け出し、気の合う仲間だけで集まる秘密の隠れ家。それが今の小説の立ち位置なのかもしれない。
タイパ?知ったことか。僕はこれからも、無駄に長い情景描写に心を震わせ、主人公のどうでもいいモノローグに共感し、一晩かけて読み終えた物語の余韻に、朝の光の中でどっぷり浸るだろう。効率なんてクソ食らえだ。この非生産的で、贅沢な時間の使い方が、僕のささやかな抵抗なのだ。
「で、そのパティシエ、どうなったの?」
スマホから顔を上げた友人が、意外にもそう尋ねた。僕はニヤリと笑い、こう答えるのだ。
「それは、読んでのお楽しみだよ」
オワコン化した世界の片隅で、僕たちの小さな反撃は、まだ始まったばかりなのかもしれない。












