教室の片隅で、俺はギャルのユリに「チワワ扱い」されながら、ひそかに彼女を想っていた。話しかけてくれる、それだけで救われた毎日。けれど夏が終わり、ユリは妊娠し、教室からも世界からもいなくなる──。もし俺がヤンキーだったら、ユリを抱けたのか? そんな“どうしようもない自分”と、“消えたユリ”への執着を描いた、暗くて苦くて優しい、ひとりの「オタクくん」の青春記録。
なぜ読むべきなのか
なぜこの小説を読むべきか――それは、この物語が「誰にも知られなかったまま、確かに存在していた感情」を、痛いほど正確にすくい上げているからだ。
『オタクに優しいギャルはもういない』は、恋愛でも成長でもない。「ただ生きていた」という事実だけを支える“他者のまなざし”の物語だ。見られることで人は初めて「いる」と感じられる。この物語の「俺」は、存在を肯定してくれる唯一の声――ギャル・ユリの「おはよ~」に依存する。それがどんなに残酷で、片想いですらなくても。
ユリは“天使”ではない。ただ気まぐれに触れてくる猫のような存在だ。だけどだからこそリアルだ。そこには、オタク文化やスクールカースト、承認欲求やジェンダー的暴力の構造が無言でにじみ出ている。
この作品は、読者にとっての「ユリ」を思い出させる。名前も声も残らない、でも確かにいた誰か。そんな過去と静かに向き合わせてくれる一冊だ。つまりこれは、読む者の記憶と呼応する“個人的な文学”なのだ。
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第1章 ユリの「おはよ~」
「オタクくん、元気してる~?」
そう言って、ユリは俺の肩をぽんと叩いた。乾いた音がした。俺の制服の肩は汗でじっとりしていたのに、彼女は気にした様子もなく指先でリズムを刻んでいった。まるで俺なんか存在してないみたいに軽やかに。俺は存在してるのに。
あの声は、天使の声だった。けれど天使の声なんて聞いたことがあるわけじゃない。ただ、天使ってのはああいう声をしてるんじゃないかと思った。明るくて、雑で、脈絡がなくて、残酷なまでに肯定的な声。どうしてそんな声がこの世界に存在できるんだろうと、何度も思った。
ユリはギャルだ。絵に描いたような。髪は明るい茶色で、毛先に向かってゆるく巻いてる。いつも爪が派手で、プリクラがスマホの裏に貼られてる。ミニスカートから伸びる足は、俺の視界を不意に支配する。油断してるとふくらはぎに目がいく。太ももに引きずり込まれる。俺の劣情が脈打つ。だがそのたびに自己嫌悪のナイフで自分を刺す。何回も。何回も。
――俺みたいなのが、ユリの脚に欲情してんじゃねえ。
机に爪を立てて、そっと深呼吸。ユリが笑いながら誰かと話してるのが聞こえる。「えー、それマジでウケるー!」教室の空気が一瞬ふわっと明るくなる。それはユリのせいだ。太陽みたいに見える。でも太陽ってやつは、近づいたら死ぬ。目を焼かれ、皮膚を焼かれ、骨をも溶かす。俺はそれを知ってる。
でもユリは、俺に話しかけてくれる。なぜか。それが謎だった。たぶん彼女の中で、俺は「いじってもOKな弱者枠」に分類されていたんだと思う。男子にも女子にも話しかけられない俺に、「おはよ~」って声をかけることで、自分の優しさを演出できる。あるいは演出じゃなくて、ただの反射だったのかもしれない。猫を見かけたら撫でたくなる、そういう類の。生き物に対する優しさ。
ユリにとって俺は、人間じゃなかったんだ。たぶん。俺はそれを分かっていた。でも、だからこそ、救われていた。ユリが俺を「男」として見ていないことが、俺にとっては一種の免罪符になっていた。もし見られていたら、俺はもっと惨めだった。性的に意識されないってことは、同時に拒絶もされていないってことだったから。
それでも、どうしようもなく俺はユリを見ていた。無意識に目が追う。教室の後ろで髪を束ねている姿。ガムをくちゃくちゃ噛みながらスマホいじってる姿。誰かのペンを無断で使って、そのまま返さないのに笑って済ませてる姿。そういう全部が、俺の中に積もっていく。きれいでもなく、清楚でもなく、だらしなくて、雑で、でもとにかく「明るい」存在。俺にないものを全部持ってる人間だった。
そんなユリに、俺は何もできなかった。ただ毎朝、机に突っ伏して「おはよ~」を待つ。声をかけてくれたら、それだけで一日が始まった気がした。かけてくれなかったら、今日もただの空気だったと思い知らされて、一日が終わった。情けない。ほんとに、情けない。
でも、ユリに話しかけられてるときの俺は、まるで人間みたいだったんだ。誰かの目に映る存在としての俺。世界の中に確かに「いる」という実感。俺にとってはそれがすべてだった。
その一方で、俺はヤンキーを見ていた。別の動物。別の種族。俺が生まれながらに失っていたすべてを、当たり前のように持っている人間たち。声がでかくて、物怖じしなくて、自分の願望に忠実で、女の子をまっすぐに「抱きたい」と思って、それを実現できる生き物。
彼らはユリに対して、迷わなかった。まっすぐ話しかけるし、触れるし、下ネタも言う。冗談交じりのセクハラが、ユリを笑わせる。俺があれをやったら即アウトだ。キモい、死ね。そういう言葉を浴びるだろう。でもヤンキーは笑って済まされる。あの差は何なのか。何が欠けていたのか。何が、俺には足りないのか。
――勇気か? 顔か? キャラか? 性格か? 生まれか? 金か? 全部か?
俺は嫉妬した。誰にも言えない黒い感情。教室の隅で噛み殺してるうちに、胃が腐っていくような苦しさ。俺はヤンキーを憎んでいた。だけど、本当はなりたかった。俺がヤンキーだったら、ユリを押し倒していたかもしれない。冗談交じりに壁ドンして、「おまえ今日も可愛いな」とか言っていたかもしれない。そういう世界線を、何度も妄想した。夢の中でユリを抱いて、現実で泣いた。
でも、俺は俺だ。オタクだ。弱い。キモい。臭い。モテない。行動できない。そして、優しさを履き違えた人間だ。だからユリに「おはよ~」って言われただけで、涙が出るほど嬉しい。世界で一番嬉しい。なのに、彼女が俺をどう見てるかなんて、痛いほど分かってる。
俺は、ユリのことを「好き」なんかじゃないのかもしれない。ただ、自分の存在を肯定してくれる何かに、依存していただけかもしれない。でもそれでも、彼女がこの教室にいる限り、俺は生きていられる。生きていてもいいと、思える。生きていたくなかった毎日でも。
明日も、ユリが「おはよ~」って言ってくれるだろうか。
そのたった一言に、俺の人生のすべてがかかっていた。
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