
三十路を越えたあたりからだろうか、鏡に映る自分がどうにもパッとしないことに気づいてしまった。いや、薄々気づいてはいたのだが、見て見ぬふりをしてきた。くたびれたシャツ、覇気のない眼差し。週末はもっぱら家で動画三昧。このままではいけない。何かが、圧倒的に何かが足りない。そう、それは「格」だ。男としての「格」。巷で言うところの「アルファオス」的なオーラだ。
どうすれば手っ取り早く「格」が上がるのか。筋トレ? ファッション? いや、もっとこう、一瞬で周囲を黙らせるような、分かりやすいアイコンが必要だ。俺が導き出した答え、それは「アルファード」だった。
漆黒のボディ、威圧感すら覚える巨大なフロントグリル。後部座席はファーストクラスさながらの豪華さ。あれに乗って颯爽と街に繰り出せば、俺も明日からアルファオス。選ばれし者。女性たちがうっとりと見つめる中、スライドドアが静かに開き、俺が降り立つ…完璧なシナリオだ。
なけなしの貯金を頭金に、清水の舞台から飛び降りる覚悟で契約書にハンコを押した。納車の日、ディーラーで対面した我がアルファードは、想像以上の存在感を放っていた。黒光りする巨体は、まるで黒曜石の塊。運転席に乗り込むと、視点の高さにまず驚いた。見下ろす景色。そう、これだ。これが支配者の視点か。俺はニヤリと口角を上げた。
しかし、その高揚感はディーラーの駐車場を出るまでに半分しぼんだ。
「デカい…」
思わず声が漏れた。当たり前だ、ミニバンなんだから。だが、想定の1.5倍はデカく感じる。左折一つするにも、対向車線の軽自動車が憫笑を浮かべて停止しているように見える。「お先にどうぞ」というジェスチャーが、「頑張れよ、初心者」というエールにしか聞こえない。
近所のスーパーの駐車場は、もはやラスボスダンジョンだった。白線はただの飾り。何度切り返しても、隣のクルマに威嚇射撃をしているような位置にしか停められない。冷や汗をかきながら、ようやく車を降りると、ドアを開けるスペースがほとんどない。カニ歩きで車体を傷つけないよう脱出する俺の姿は、アルファオスというよりは、巣穴から無理やり出てきた哀れな生き物だった。
「まあ、運転は慣れだ。問題は、その圧倒的な存在感がもたらす効果の方だ」
俺は気を取り直し、週末の合コンにアルファードで乗り付けた。待ち合わせ場所の洒落たカフェの前に、我が漆黒の巨体を横付けする。これには女性陣も驚くだろう。
「ごめん、待った? 車、あそこに停めてるから」
俺がスマートキーを指で回しながら言うと、女性陣は一瞬、目を丸くした。来た来た、この反応!
「え、すごーい! 大きいね!」
「これ、〇〇くんの車なの?」
よしよし、食いつきは上々だ。
「迎えに来てくれたんだ、ありがとう! 運転手さんみたいで優しいね!」
……ん? 運転手?
まあ、いい。とりあえず乗ってもらおう。自慢のパワースライドドアがウィーンと音を立てて開く。エスコートするように手を差し伸べると、彼女たちは「広ーい!」「快適ー!」と歓声を上げた。しかし、その賞賛はすべて後部座席に向けられていた。俺のいる運転席は、完全に「運転席」としてしか認識されていない。まるで、ハイヤーのドライバーだ。
会話も弾み、いい雰囲気で店に着いた。駐車場を探して再びラスボスと格闘している間に、他のメンバーはとっくに店に入って盛り上がっている。ようやく席に着くと、一人の女性がキラキラした目で聞いてきた。
「〇〇くんって、もしかしてご家族いるの? こんな大きい車、家族サービス用でしょ? 優しいんだね!」
違う。俺がアルファオスになるために買ったんだ。独身だ。誰か俺の後部座席じゃなくて、助手席に乗ってくれ。ていうか、まだ誰も助手席に座ってすらいない。
ガソリンメーターの減りは恐ろしく早く、自動車税の通知はもはや脅迫状に見える。広大な室内空間は、虚しさだけを運んでいる。先日、友人の引っ越しを手伝った際には、後部座席をフルフラットにして大量の段ボールを積んだ。その時の友人からの「お前、本当にいい奴だな!」という感謝の言葉が、一番心に響いたのは皮肉な話だ。
アルファードを買って、俺はアルファオスにはなれなかった。なれたのは、「デカい車を持て余している、引っ越しの時に便利な、やたら優しい運転手さん」だった。
この前、近所のコンビニで、小さな軽スポーツに乗った青年が、彼女と楽しそうに笑いながらアイスを選んでいるのを見かけた。その姿は、俺が夢見たアルファオスの姿よりも、ずっと眩しく見えた。
俺は今日も、一人で広すぎる運転席に座り、コンビニの駐車場でどう停めるべきか頭を悩ませている。アルファオスへの道は、どうやらアルファードの先にはなかったらしい。


















