しかし正人は半分無実の罪で刑務所に入ってしまう。
1
気付けばいつも嫌われている。理由は分からない。ある時それに気付き、人に好かれるように気を使っていた。そのおかげで人に好かれるようになったが、それでも嫌われた。人生でこれ以上面白い事はないと楽しんでいる最中に、ふっと剥き出しの敵意を向けられたり、お前とは一生の友達だと言った相手が、死ぬまでお前を許さないという感情をこちらに向けてきた事もある。そういう記憶は正人の心に深く爪痕を残した。
中二の秋に好き嫌いは相反するものではなく、同時に存在できるものだと正人は理解した。それで自分は努力の甲斐あって、そこそこ好かれてはいるのだが、同時に嫌われている事も分かった。人に好かれるように気を使うのが嫌になったが、やめようとは思わなかった。好意が消えて悪意だけが残るような気がしたからだ。
だが、高校二年の九月、正人に限界がきた。こんな生活はもう続けられないと嫌になり、学校を辞めたいと考えるようになった。しかし、ただ辞めると言えば親に止められるのは目に見えていたので、ずっと言い出せずにいた。
ふとしたきっかけで同級生と殴り合った。何が理由でとも思い出せないぐらい些細なことが原因で、始めは向こうも殴り返してきたが最後は一方的に殴るだけになった。殴っている最中にこれで学校を辞められると正人は冷静に考えていた。男性の体育教師に後ろから腕ごと抱え上げられた時はこれで終わるのだと思って、顔には笑みが浮かんだ。
しかし学校はただのケンカで処理しようとした。相手の親も問題にしようとはしなかった。三日も経つと誰もそのことを話さなくなり、殴った相手はまだ顔に青いあざが残っていたのに『俺が悪かった』と謝ってきた。
正人は意味が分からなかった。理不尽で透明な物が学校を辞めさせないようにしている。もう一度殴ってやろうかと思ったが、さすがにそれはでやめた。
結局は親に学校を辞めたいと言った。親がケンカに何か原因があるのかと一度訊いてきたので、正人がそれにうなずくと親は納得した。しかし、もっと根本的なところに原因があるような気がした。それが何かは正人にも分からない。ただ在るということが分かるだけだ。
正人は高校を中退した。
学校を辞めてからは何をするでもなく、ただ日々を過ごしたが、ある日叔父が家に来た。正人に用があるらしい。
叔父はまず高校を中退してこれから先の人生をどうするのか訊いた。答えられるはずがないので正人は黙っていた。それから学校は辞めるにしても何かしなくてはならないと言った。他にも色々言われたが、どれももっともな事ばかりなので正人は黙っていた。
言葉が一度途切れて、叔父が間を溜めた。今日はこれを言いにきたのだと正人には分かった。
大工になれ、と叔父は言った。
知り合いの父親が大工の親方をしていて、昔は弟子をとって修行させていたそうだ。その人の元で修行した大工はみんな業界では知る人ぞ知るという立派な職人になっている。だから大工になれということらしい。
大学へ行く頭ではなかったが、大工がうまくやれるとも思えなかった。人がいれば結局良くない事が起きる。できれば人と関わり合いのない仕事がいい。それに今どき修行なんてとも思った。しかし断れるような雰囲気ではなく、正人はずっと黙っていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
沈黙に堪えかねた叔父が「そうするぞ、大工になれ」と言葉をこぼした。正人はうなずくしかなかった。
三週間後に叔父から電話があり、明日親方のところへ行くから学生服を用意しておけと言った。
その日は一睡もできなかった。眠気を抱えたまま叔父の車に乗せられて大工の親方のところまで行った。眠れなかった事もそうだが、元々気乗りはしなかった。ふてくされていれば向こうからあきらめてくれるだろう。
そこは倉庫と家が寄りそっている内にいつの間にか合体したような建物で『上原組』と看板がかかっていた。年代物の板だったが薄く湿った光を反射させていて、埃一つ付いていない。看板だけ見ればヤクザの事務所みたいだった。
倉庫に入ると髪が全て真っ白になっている男が粗末な木製の椅子に手と足を組んで座っていた。どう見ても歳は取っているが体付きはしっかりしていて体中から生命力が溢れていた。
「そいつは駄目だ」
叔父がまだ何も言っていないのに男はいきなりそんなことを言った。
「待ってください」と叔父が食い下がる。
「お願いします」「駄目だ」のやり取りが叔父と男の間で繰り返された。
正人としては別に駄目なら駄目で構わないのだが、駄目だと言い続けている男にだんだん腹が立ってきた。大工に弟子入りするのは駄目になって欲しいが、叔父の頼みをはねつけるのは何故か許せなかった。
男が正人に目を向けた。見下すような目が許せないと正人は思った。
「お前も駄目だと思っているだろう?」と男は正人に尋ねた。
「できます」と正人は答えていた。
「あ?」
男が眉をひそめる。
「大工ぐらい俺にもできますよ。修行するまでもない。木を切って釘を打つだけだ」
「てめえにできるわけねえよ」
男は叔父に対しては社交的な態度を見せていたが、正人が喋ると感情を露わにした。
「高校もロクに卒業できない根性無しに何ができる。おめえには何もできねえよ。親にも世間様にも迷惑だから、その辺でさっさと野垂れ死ね」
男の一言一言が正人の腹を煮えたぎらせた。
「いやですね」
「嫌だぁ。そんなこと言えた義理か。この御時世に高校辞めるなんて聞いたことがねえ。きっと親も泣いてるだろうよ」
男が床に唾を吐き捨てた。それは正人の足元に落ちた。
「泣かせていません」
「いい子ぶるこたあねえよ。おめえはとんでもねえ不良野郎だ。イキのいい奴ならまだ可愛げもあるが根性無しは救いようがねえ。俺んところでも面倒見きれねえや。あきらめてくれや、なっ、正木さん」
男は最後に叔父へ言葉を向けた。叔父は言葉を返せずにうつむいている。
「俺はあんたの甥っ子が憎くてこんな事を言ってるんじゃねえ。人には向き不向きってもんがある。こいつは大工に向いてない。それだけです。さっきのは言葉の綾みたいなもんです。どうも学が無いもんで興奮すると変なことを口走っちまうようです。とにかく他を当たってください」
叔父に話しかける時はやはり男の口調は変わっていた。そこに嘘の気配を感じて正人は腹が立った。
「てめえだって、そう思うだろう? 今どき親方に弟子入りって時代でもねえし、大工だってできそうにねえ。始めからそういう顔をしてたぞ」
今度の男の口調は叔父に話しかけるように柔らかくなっていた。もうこれで話はまとまったという雰囲気を出している。勝手に終わらせるな。正人はまた腹が立った。
「できます」と正人は言った。目の前の男に対してできないと言いたくなかった。そんな言葉が返ってくると思わなかったのか、男が意外そうな顔をした。
「できますよ」
正人は重ねて言った。怒っていた。それも冷静な怒りだ。同級生を殴っていた時に似ている。
「無理だ」「できます」何度も同じやり取りを繰り返した。
「くそっ、それじゃあ明日一度来てみろ。駄目だったら、あきらめろ、なっ」
最後に男があきらめたように言った。男は疲れた顔を隠そうともしていない。目の前の男に対する微かな勝利感で正人は少し嬉しくなった。
明日の朝六時に倉庫前に来いと言われ、その日は帰った。
帰りの車の中で叔父は何も言わなかった。家に帰ると明日から親方のところで修行することになったと親に伝えて、すぐに帰った。
両親は何も言わなかったが不安は伝わってきた。それとは反対に正人は興奮していた。絶対にできるとあの男に証明してやろうと怒っていた。それで自分が根性無しの救いようがない奴ではないと証明できれば、あの男を殺してやろうと考えていた。あの男は自分を侮辱した。その償いは命で払ってもらうつもりだ。ただし、ただ殺しただけではあの男が言ったように正真正銘のクズ野郎だ。あの男の言った事が間違いであった事を証明してから殺す。そう決めていた。
2
新聞配達のバイクの音が聞こえると、正人は布団から飛び出した。
冷蔵庫からハムとパンとマヨネーズを出して食べると、パジャマから学生服に着替えようとしたが、大工をするのに学生服は無いだろう。少し迷ってから古いTシャツとジーンズに着替えると正人は家を出た。
昨日は叔父と一緒に車で行ったが、倉庫はそれほど遠い場所ではない。自転車で二〇分ほどのところにある。
六時に来いと言われていたが、三十分早く倉庫に着いた。しかし倉庫前には三人の男が立っていた。父親と同じぐらいの歳で、一番若そうな男でも十歳は年上に見えた。彼らはダンプのそばで何か話していたが、正人が倉庫の脇に自転車を停めると、こちらに目を向けて何も喋らなくなった。正人は古い木材に腰かけて彼らと距離を置いた。
六時になる前に昨日の男が家から出てきた。三人に短い挨拶をすると何かを言おうとして正人に気付き、本当に来るとは思わなかったという顔をした。それを見て正人は勝ったと思った。
男は咳払いすると正人を手招きした。
「いきなりであれだが、今日から世話することになった坊主だ。よろしく頼む」
男がそう言うと、三人がはっきりしない言葉で返事をした。
「自己紹介と挨拶をしろ」
男が後ろに下がって、ぼそりと耳打ちした。
「おはようございます。正木正人です。趣味は釣り。好きな物は麻婆ナス。辛い物はだいたい好きです」
「てめえの好きなものなんか聞きたかねえよ。よろしくお願いしますだろうが」
正人にだけ聞こえる声で男がつぶやいた。地面を蹴る音もした。頭の中が煮え立ったが、腹は立たなかった。絶対に殺してやるという気持ちをさらに強くしただけだ。
「よろしくお願いします」
そう言った後で「頭も下げられねえか」とまたつぶやく声がしたので頭も下げた。
男は下げた正人の肩に触れると、三人の男にも自己紹介をさせた。向こうはよろしくお願いしますとも言わなかったし、頭も下げなかった。
自己紹介が終わると今日の仕事の段取りが話し合われたが、正人には何を言っているのかさっぱり分からなかった。それが終わると三人の男はダンプに乗った。
「お前はこっちに乗れ」
男は正人を軽トラに乗せた。ダンプが前、軽トラが後ろになって現場へ向かう。
「あっちにいるのも、あんたの弟子?」
黙っているのも気詰まりなので正人が口を開くと、男が力任せにクーラのパネルを叩いた。
「てめえ、さっきは見逃したが今度は許さねえぞ。口の利き方も知らねえか」
男は前を向いたまま、荒い鼻息を吐きながらハンドルを強く握っていたが、その後に「俺の事は親方と呼べ」と小さく言葉を漏らした。
正人は胸の中が揺れていて、しばらく口を利けなかったが黙っているうちに落ち着いてきた。それと同時にやはり殺してやろうという気持ちを新たにした。
「親方、あっちにいるのも弟子ですか?」
赤信号で車が止まると正人はようやく口を開くことができた。
「前にいるのは応援の職人だ。さんを付けろよ。弟子じゃねえ」
「応援?」
意味が分からなくて聞き返したが親方は答えなかった。応援と聞いて正人が思い浮かべたのは甲子園で選手達を応援するチアリーダー達で、前を走るダンプに乗っている男達とはどうしても繋がらなかった。
現場に着くと三人の男と親方はすぐに荷物を降ろした。正人も荷台に乗っている物を降ろそうとすると「触るな」と親方に怒鳴られた。仕方がないので正人がダンプの荷台に近付くと、三人の男達も怒鳴りこそしなかったが咎めるような目を向けてきた。何もする事がないので正人は家の周りに組まれた足場に寄りかかると「サボるな」と親方の怒鳴り声が飛んできた。
正人は手持ち無沙汰のまま、家からも軽トラからもダンプからも離れた場所に立っていた。
荷を降ろし終えるとすぐに仕事が始まった。親方の指図で男達がダンプに乗せた柱をクレーンで上げて、木にはめ込んでいく。クレーンは最初から現場にあった。
木には穴が掘ってあり、そこに柱を差し込むようになっていて、人の顔ほどもある木槌で柱を打ち込んでいる。正人はそれを見ているだけだった。最初に言われた事が、何もしないで見ていろだったのだ。本当に何もしないまま二時間が過ぎた。
親方が一度足場から降りてきて、まだ打ち込んでいない柱の木の表面を撫でると、何か気に入らない事があったのか舌打ちした。
「おい、ちょっと来い」
ようやく仕事か、と正人はすぐに向かった。
「これをあの台まで持っていくぞ」
親方の指示で木を組んで作った台に柱の木を持っていく。木を置くと親方がまたさっきと同じように表面を撫でて舌打ちをした。
「触ってみろ」と親方が言った。
正人は柱を撫でた。何か問題があるようには思えない。それどころか綺麗に切られた柱で、これ一本でどれぐらいの値段がするのかと正人は考えた。
「どうだ?」と親方に訊かれたが「何も」と答えるとまた舌打ちだった。
親方は細長い木の箱のような道具を取り出すと、それを柱に置いて引いた。すると箱の中ほどにある穴から向こう側が透けて見えるほど薄い木の削りかすが出てきた。親方は体を後ろにずらしながら、木を端から端まで削っていく。削りかすは途中で途切れることなくするすると伸びて、丸まりながら地面に落ちた。
親方は削った後の柱を一度撫でると何かを納得するように柱を撫でた。それからまた「触ってみろ」だ。さっきと同じように柱を撫でる。
「どうだ?」
「よく分かりません」
正人がそう言うと親方が舌打ちをした。
「何かが違うということは分かりました」
そう言い直すと、親方が一度口元を緩めそうになり、また思い直したように、きゅっと引き締まった。
「削った後でそんなこと言うんじゃねえ。それじゃあこの面は削らなきゃいけないかどうか言ってみろ」
親方が柱のまだ削っていない面を叩いた。正人はそこを撫でる。つるつるしていて滑らかだった。
「削らなくてもいいんじゃないですか?」
親方が柱の向こうに唾を吐いた。
「分かっちゃいねえ」
親方は柱を台の上で転がすと、またさっきのように柱の表面を薄く削った。
「目をつぶって撫でてみろ」
親方の言う通りに正人は目をつぶって撫でた。
「さっきと同じです」
本当はどっちだか分からなかった。親方がまた唾を吐き捨てた。そのあと削った柱は四本。四面とも削ったので計十六面だが、親方はどれも同じように削る前後で正人に表面を撫でさせ、意見を訊いてきたが、良いと言っても悪いと言っても悪態をつかれた。
削った後の柱は他の職人がクレーンの先についたワイヤーに括りつけて屋根の上に上げた。やはり見ていろとだけ言われた。
途中で短い休憩と昼の長い休憩があったが、正人はずっと見ているだけだった。三時に一度何かすることはないですかと親方に尋ねたが、やはり何もしないで見ていろとだけ言われた。他の職人達も、何もしなくていい、と態度で示している。
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