『こころ』を読みながら色々と書いてみる

 

夏目先生の『こころ』をたびたび引用しながらブログを書くことにした。

集英社文庫版である。

 

上 先生と私

 

 

私はその人を常に先生と読んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

 

『こころ』の主要人物には名前がない。『吾輩は猫である』の猫にも名前がない。名前を付けるのが恥ずかしいのかと思いきや『三四郎』という主人公の名前をパーンと前面に出しているのもある。変幻自在のようだ。『こころ』の中ではもう一人、Kという名前の知れぬ人物がいる。夏目先生の本名は金之助だし、お墓はどちらも雑司が谷にある。(ちなみに『坊ちゃん』の清の墓は小日向の養源寺にある)。Kを中心にして読んでみると面白いかもしれない。

 

私が鎌倉について三日と立たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。

 

のちに主人公の私も父親が病気になって国元に帰ることになる。これが一個のテーマかもしれない。

 

友達はかねてから国許にいる親たちに勧まない結婚を強いられていた。

 

昔の小説を読んでいるとよく出てくる話。若いうちから結婚しなければならないというのも嫌だなと思う。でも親からの援助で好き勝手できるというのはいいよなとも思う。昔は親の強制で生き方を選べなかったところはあっただろうが、別のところでは子どもに金を与えて好き勝手にさせてやるというところもあって、昔は自由がなかったとは一概には言えない。あるところではガチガチに固めていたが、それ以外のところは大らかだったというところもあるのではないか。でも嫌なものは嫌らしい。しかし自由に振舞えば『それから』の代助みたいに親からの援助を打ち切られてしまう。庇護と強制がセットであるように、自由と追放もセットなのである。庇護されながら自由というのは、どこの世界にもないだろう。現代は自由を素晴らしいことのように言うが、自由だってしんどいのである。

 

玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷を一つ越さなければ手が届かなかった。

 

玉突きはビリヤードのこと。この時代にビリヤードとかアイスクリームがあるんだと、ちょっと驚くけれど『こころ』が書かれたのは大正時代で、大正時代には第一次世界大戦があったのだと聞くと、それぐらいのものはあって当然という気になる。この時代にはすでに飛行機だって飛んでいた。電話もあった。令和から数えると元号が二つも前の時代だが現代との繋がりは深い。

 


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その時の私は屈託がないというよりむしろ無聊に苦しんでいた。


 暇を持て余すぐらい時間があるのである。携帯電話もないし、出先だから手紙も来ないだろう。現代人に無聊という概念はまだあるのだろうか。無聊を持て余した私は先生を追いかけるわけで、ドラマとは無聊がなくては始まらないのかもしれない。お互い忙しいと旅先で仲良くなるなんてなさそうだし。

 

 

私は次の日も同じ時刻に浜へ行って先生の顔を見た。その次の日にもまた同じ事を繰り返した。けれども物を言い掛ける機会も、挨拶をする場合も、二人の間には起こらなかった。


 とはいえ、いくら無聊を持て余していても知らない人に話しかけるのは大正時代でも無理っぽい。そういえば『こころ』は明治の精神がどうとかと表されることがあるけれど、明治時代なら声をかけることができただろうか。

 

先生は白絣の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡のなくなったのに気が付いたと見えて、急にそこいらを探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首と手を突っ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。


 ここから私と先生の縁ができ始める。このあといきなり先生と呼ぶ関係になったわけではなく海へ泳ぎだした先生の後に続いたり、数日後に掛け茶屋(海の家みたいなもの)で会ったときに、いくつか言葉を交わしてから、先生の宿へ行って、その時に初めて先生と呼ぶのである。ちなみに先生と呼ぶのは年長者に対する私の口癖であるようで、のちに故郷に帰ったときにお前が先生と呼ぶくらいだから就職の口も見つけてもらえるだろうと母親に言われてしまう。でも私は先生がそんなことをできるわけがないというのを分かっていて、それでもなお先生に手紙を出す。たぶん私にしてもただの年長者になら誰にでも先生と言うはずがなく、なにかしら先生と言いたくなる様なものが先生にはあったのだろう。でもそれは世間的なものではないから就職の口は都合できない。

 

ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。


 私が先生を追い回すのに理由はなかったであろうが、どこかで見たことがあるような気がするという気持ちがあって、先生もきっと同じ気持ちに違いないという思いがあっての、この言葉である。こう書くとストーカーっぽい。でも『こころ』が同性愛を描いた作品という説は無理筋だと思う。先生に尊敬はあっても愛はない。でも甘えはあるんじゃないかな。尊敬するからこその。

  

 

私は先生と別れる時に、「これから折々お宅へ伺っても宜ござんすか」と聞いた。先生は単簡にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。


 旅先で会って、ちょっと仲良くなっただけで家に出入りするようになるなんて、現代ではちょっと考えられない。だけれど大正時代でもやっぱりちょっと考えられないんじゃないかな。明治ならどうかは分からない。『吾輩は猫である』だと先生の家に元生徒がしょっちゅう出入りしている。明治天皇の死去と共にそういう大らかさも死んだのかもしれない。

 

私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起こるのか解からなかった。

 
やっぱり私のちょっとした異常さも先生にだけ。

それが先生の亡くなった今日になって、初めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。


 魚心あれば水心で先生も先生で私のことを嫌いではなかったそうだ。ただしそう思っているのは私で、結局のところは分からないのが『こころ』という小説だと思う。先生が最初素っ気なかったのは私の思いが重いからだっただろうけれど、もし私が軽い気持ちで声をかけていれば笑顔は見せても家に上げることはなかったかもしれない。

 

私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。

 授業が始まって、一ヶ月ばかりすると私の心に、また一種の弛みができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分の室の中を見廻した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。


 鎌倉では四六時中先生、先生だったのが東京へ戻ってくると、そんな気持ちも薄れてしまう。だけど暇になるとまた先生のことが浮かんでくる。心が亡くなるで忙しいなわけで、亡くならなくなれば心が戻ってきて、先生への気持ちも戻ってくるんだろうか。何だか先生が都合のいい存在にされている気がしてきた。

 

 

そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち止まって私の顔を見た。
「どうして……、どうして……」


 先生がKの墓にいくところを私は追いかけて、茶店から出てきた先生に声をかけたところ。そりゃ先生も「どうして」と言いたくなる。でも先生の隠したがっているところへ強引に入り込んでくるのは私だけという気もする。先生とKの間にあったことを考えれば、墓参りは止めて家に帰るか、私を拒絶するかだろうけれど、私の邪気のなさに先生の心も動いたのかもしれない。うん、やっぱりそれじゃないかな。私は先生に対して何も魂胆がない。少なくとも意識されるところではない。自分でも先生に対する気持ちが分からないほどなのだから。

 

「あすこには私の友達の墓があるんです」
「お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか」
「そうです」


 墓参りなんてお盆くらいにするもので、毎月、それも友達の墓に行くというのはちょっと変なことらしい。このあと、何故ですか、と訊かないのが私らしい。あんまり何故とは問わない。正確に数えたわけではないけれど、私が「なぜ、どうして」と言う印象はない。ということを考えていると、先生は「なぜ、どうして」をよく口にしているような気がしてきた。この章でも最初に先生が口にしたのは「どうして……どうして……」だった。あんまり考えすぎると自殺しなければならないのかな。その論でいくと私は自殺しそうにない。

人間を愛し得る人、愛せずに入られない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、―これが先生であった。


 先生のいいところはやっぱり私を好きになってくれるところ。でもそれだけではなくて、どこか深いところで人を信頼しきることもできないところがある。誰それという特定の人間ではなく、人間全体を信用できないけれど、それでもなお人を嫌いにならないというのが魅力なのかな。片方だけだと馬鹿を見るか、テロリストになるか。

 

「じゃあお墓参りでもいいからいっしょに伴れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」

 実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉がちょっと曇った。眼のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片付けられない微かな不安らしいものであった。


 なんでやねん。と突っ込みたくなるような私の天然さ。実は『こころ』って漫才小説なのではないか。でもたぶん私にしても、これが先生でなければ一緒に墓参りしようなんて考えもしなかったはず。これも先生と一緒にいたいから。何度も作中に出てくるけれど、若さゆえの視野狭窄なのだろう。

 先生はKの墓に一緒に来られると、過去の自分のしたことを知られるかもしれないと不安になったんだろうけれど、ここまでぐいぐい迫ってくる私を結局は遠ざけず遺書まで託したのは、どこかで私が先生がKにしたことを気にしないということを感じていたからじゃないかな。作中では書かれていないけれど、たぶん遺書を読んだ後で私が引き返すところをちょっと想像できない。むしろますます先生を好きになるんじゃないかな。

 そういう視点で考えてみると、先生の遺書を奥さんが読んだ時、奥さんはどういう気持ちになるのだろう。先生が思っていたように奥さんが綺麗なこころを持っていると私は思っていないので、私は先生が思うような結果が起こるとも思えないし、虞美人草とか三四郎を書いている夏目先生が単純に心の綺麗な女を書くとは思えない。奥さんに対する評価は先生の主観でしかない。でもだからこそやっぱり遺書を読めば奥さんは怒るか悲しむと思うし、先生の恐れていたようなことが起こると思う。奥さんは自分の嫌なところを暴かれるわけだから。建前が崩れて本性が出てくるというわけだ。私は先生が奥さんの幻想を愛していて、本音では嫌っていたのではないかという気がする。人間全体を嫌っていたように。幻想が消え去るという意味ではやっぱり奥さんは傷付くわけだし、うん、やっぱり先生の思っていたとおりになるのだろう。だから私にだけ真実を打ち明けて死んだんじゃないかな(死んだとはっきり決まっているわけではないけれど)。

 

しかし私は先生を研究する気でその宅へ出入りをするのではなかった。私はただそのままにして打ち過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちでむしろ尊むべきものの一つであった。私は全くそのために先生と人間らしい温かい交際ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾分でも先生の心に向かって、研究的に働き掛けたなら、二人の間を繋ぐ同情の糸は、何の容赦もなくその時ふつりと切れてしまったろう。

 

 先生でなくても腹の内を探ってくるような人とは付き合いたくない。小説だって同じようなもので、この小説はどういうことなんだろうと考えている内は、表面的なところしか見せてもらえず、ただ読みたいからと読んでいる時の方が深く付き合えるものかもしれない。そのうち遺書が届くかも。

 

「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」

「何でといって、そんな特別な意味はありません。―しかしお邪魔なんですか」


 先生はたびたびこのような問いを私に投げかける。私は何の意味もないと答える。この二人の関係には一切の意味も価値もない。だからこそ良い。しかし一度だけこの関係が意味のあるものになりそうになった時があった。それは就職の口をきいてもらえないかという手紙を私が出した時だ。返ってきたのは先生の遺書だった。

 

「私は淋しい人間ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年を取っているから、動かずにいられるが、若いあなたはそうはいかないのでしょう。」


 淋しいからかどうかは別として、年を取ってから私もじっとしていられるようになった。そうすると小説も書けるようになった。もし17歳の時に今ぐらい小説が書けていたら、きっとかなり鋭い小説を書けていたとは思うが、17の時に毎日じっと言葉が出てくるまで机の前に座っていることはできなかっただろう。100枚以上の小説を書けるようになったのは28を越えてからだ。それができるようになったのも年を取って、時が過ぎるのが早くなったからだろう。時計的にじっとしていられる時間は飛躍的に伸びたが、主観的に我慢できる時間はそう変わっていない気がする。

 

「子どもでもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起こらなかった。子どもを持った事のないその時の私は、子どもをただ蒼蝿いもののように考えていた。


 徒然草に東国の武士がある人に子持ちかどうか聞いて、その人が子持ちでないと答えると、子持ちでなければ人情が分からないと言う話がある。今の時代だと炎上しそうな話だが私も気持ちは分かる。世間的に子どもは大事だと言われているし、理屈も分かる。しかし私にはどうも世間の人がその理屈を超えた感情を子どもに持っているように思えてならない。私からすると狂気にさえ感じる。でもそれが世間の一般常識なのだ。少子化だ、未婚率が上昇しているだとか言われているが、何だかんだで子持ちが多数派だ。私みたいに子どもに対して狂えない人は東国の武士から恐ろしい人と言われるだろう。

 こころに話を戻すと“子どもを持った事のないその時の私は~”とあるところからして、私は将来子どもを持つのだし、結婚もするのだろう。先生の弟子(かどうかは分からないが)が、そういう世間的な幸せを得るのは奇妙な気もするが、先生みたいに裏切りをしなければ、そういうことになるのかもしれない。あるいは自分の醜さを知っても、これが人間だ~! なんて露悪的な人間になるのかも。大正時代は退廃的だから。


 

約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。

 

 私が先生のところへ行ったのではなく、先生が私の方から来ることもある。窓の下から呼びかけるなんて昭和のアニメみたいで何だかほほえましい。

 

その晩私は先生といっしょに麦酒を飲んだ。

 

麦酒とはビールのこと。ビリヤードのところでも書いたが、ビールだってこの頃にはもうある。

親睦を深めるために飲み屋で酒を飲むというのが日本的だが、最近は若者の飲み会離れでそういう文化も徐々に廃れているんだとか。欧米だと飲み会の代わりにパーティーがあるが、あれもあれでしんどい気がする。欧米でも若者のパーティー離れなんてあるのかな。

飲みの視点でドストエフスキーを考えてみると文化的には日本に近い気がする。サモワールでお茶会もあるはずだけど、飲み屋でダベっている印象が強い。そういうところを考えてみれば、日本から見ればロシアは欧米だけど、ヨーロッパから見ればアジアなのかもしれない。なんでロシアがヨーロッパに入れないのか不思議だけれど、欧米からは全然違うように見えているのかな。でも日本ともそうだし、中国とも全然違う気がする。じゃあロシアって一体何なんだろう。欧米とアジアで二分するのが間違いなのかな。

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