愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

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ヘミングウェイの猫とかいうかわいすぎる概念【架空のなんJ】

1:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:15:42 ID:nekoSuki

マッチョでハードボイルドな文豪がクソ猫好き

しかもその子孫たちが今も博物館でぬくぬく暮らしてるという事実

最高すぎんか?

2:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:16:01 ID:mittonNeko

指が6本あるやつやろ?

ミトンみたいで可愛い

3:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:16:25 ID:haraday

はよ画像ハラデイ

4:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:16:58 ID:nekoSuki

3

ほれ

これがヘミングウェイ・キャットや

Polydactylcat

お手々がキュートすぎるんじゃ

5:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:17:11 ID:keyWest

うおおおおおおおおお

かわヨ

6:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:17:33 ID:yubi6hon

なんで指多いんや?

突然変異か?

7:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:18:02 ID:kaisetuNiki

6

多指症っていう遺伝的な特徴やね

ヘミングウェイが船乗りの友人から「スノーボール」っていう6本指の猫を貰ったのが始まり

その子孫が今もフロリダのヘミングウェイ博物館に住み着いとるんやで

8:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:18:25 ID:mofuMofu

文豪と猫の組み合わせは鉄板

谷崎潤一郎とかもそうやし

9:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:18:49 ID:mittonNeko

7

サンキュー解説ニキ

船乗りにとっては幸運の猫とされてたんやろ?

指が多いから船上でもバランス取りやすいとかで

10:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:19:05 ID:FBIkansityu

FBIに監視されてた時もこいつらが癒しやったんかなあ…

11:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:19:33 ID:keyWest

今50匹くらいおるらしいな

半分くらいが多指症の遺伝子もっとるんやて

12:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:19:58 ID:haraday

天国やんけ…

ワイもヘミングウェイ博物館に住みたい

13:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:20:12 ID:nanJmin

猫パンチ強そう(小並感)

14:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:20:39 ID:nekoSuki

しかも一匹一匹に有名人の名前がつけられとるんや

マリリン・モンローとか、チャーリー・チャップリンとか

15:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:21:05 ID:yubi6hon

14

オシャレすぎやろ

ワイんちのタマとは大違いや

16:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:21:28 ID:kaisetuNiki

ハリケーンが来ても「この家は頑丈だから」って猫たちは博物館から避難せんのやで

職員と一緒に立てこもる

リアル「老人と海(と猫)」や

17:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:21:55 ID:mofuMofu

16

ええ話や…泣ける

18:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:22:11 ID:mittonNeko

ヘミングウェイ自身も猫のこと「Purr Factory(ゴロゴロ製造工場)」とか呼んで溺愛しとったらしい

ギャップ萌えがすごい

19:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:22:38 ID:FBIkansityu

猟銃自殺した時、猫たちはどうしたんやろ…

20:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:23:01 ID:keyWest

19

それはアイダホの家での出来事やから、キーウェストの猫たちは直接は知らんのちゃうか

でも悲しいなあ

21:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:23:25 ID:haraday

指が多いと缶詰とか自分で開けられそう

22:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:23:49 ID:nanJmin

21

それはない

23:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:24:07 ID:nekoSuki

博物館のベッドとか普通に占領して寝とる写真見てるとほんま和む

人間より偉そうにしてるのがまたええんや

24:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:24:33 ID:kaisetuNiki

ちなみにこの猫たちは法律で保護されとる特別なお猫様やぞ

連邦政府から「歴史的遺産の一部」として認められとる

25:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:25:01 ID:yubi6hon

国家公認のニート様か

うらやましい

26:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:25:29 ID:mittonNeko

キーウェスト行ったことあるニキおる?

マジで猫天国なん?

27:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:25:55 ID:mofuMofu

26

行ったで

マジでそこら中に猫がおる。人懐っこいし最高やった

ヘミングウェイの書斎の椅子で寝てる猫を見た時は感動したわ

28:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:26:18 ID:haraday

ぐう羨ましい

人生で一度は行きたい場所リストに追加したわ

29:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:26:40 ID:FBIkansityu

ヘミングウェイ「猫は正直や。人間みたいに嘘つかんからな(チラッ」

30:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:27:03 ID:keyWest

結局猫が一番信用できるってはっきりわかんだね

31:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:27:29 ID:nanJmin

ヘミングウェイって名前は知っとるけど作品は読んだことないってJ民、多そう

32:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:27:55 ID:kaisetuNiki

31

「老人と海」だけでも読んどくとええで

短くて読みやすいし、猫好きになった理由もなんとなくわかる気がする

33:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 10:28:11 ID:mofuMofu

ワイもヘミングウェイの猫に転生したい

名前は「オオタニサン」にしてもらいたい






アーネスト・ヘミングウェイ

生涯

出生と幼少期: アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは1899年7月21日、米国イリノイ州オークパーク(現シカゴ)に生まれました。父クラレンスは医師、母グレイスは元声楽家で、姉1人と妹4人の大家族でした。幼い頃から父に釣りや狩猟、ボクシングなどアウトドア活動を教わり、これが後年の彼の人格形成に影響を与えました。1913年に地元のオークパーク高校へ進学し、在学中から学校誌に短編小説を発表するなど文学に才能を示しました。

第一次世界大戦と作家としての出発: 高校卒業後の1917年に地方紙の見習い記者となりますがすぐ退職し、翌1918年、赤十字の救急隊員として第一次世界大戦下のイタリア戦線に赴きました。そこで負傷兵を救助中に自らも重傷を負い、入院先の病院で出会った看護師アグネス・フォン・クロウスキーと恋に落ちますが、この初恋は実りませんでした(後にこの体験が長編小説『武器よさらば』の下敷きとなります)。戦後はカナダのトロント・スター紙の特派員としてヨーロッパに渡り、1920年代前半は妻ハドリー・リチャードソンとパリに暮らしながら創作活動を開始します。パリではガートルード・スタインやエズラ・パウンド、F・スコット・フィッツジェラルドら文学仲間と交友を深め、いわゆる「失われた世代」の一員として文壇に登場しました。1926年、第一次大戦後の放蕩的な若者たちを描いた処女長編『日はまた昇る』を発表し、一躍その名が知られるようになります。

壮年期と戦争体験: 1928年に米国フロリダ州キーウェストへ移住した後も執筆を続け、1929年には自身の戦争体験を投影した長編『武器よさらば』を刊行します。1930年代には熱心な行動派作家として1936年から始まったスペイン内戦に共和派側で関与し、従軍記者や国際旅団の一員として取材・支援活動を行いました。この体験は小説『誰がために鐘は鳴る』(1940年)に結実し、戦時下における勇気と自己犠牲の物語として高い評価を得ます。第二次世界大戦中もヘミングウェイは従軍記者としてヨーロッパ戦線に赴き、ノルマンディー上陸作戦やパリ解放の現場に立ち会いました。戦後はキューバのハバナ郊外に居を構え、執筆活動の傍ら釣りや狩猟に熱中します。

晩年と死去: 1952年、キューバ沖を舞台に老人漁師の不屈の闘いを描いた『老人と海』を発表します。この作品は大きな反響を呼び、翌年ピュリッツァー賞を受賞、さらに1954年にはノーベル文学賞受賞の決め手ともなりました。しかし同1954年、アフリカ旅行中に二度の飛行機事故に遭って重傷を負い、以後健康は衰えていきます。1959年のキューバ革命を機に長年暮らしたキューバを離れた後、健康悪化と鬱病に苦しんだ彼は、1961年7月2日早朝、自宅のあるアイダホ州ケッチャムで散弾銃自殺により生涯を閉じました(享年61歳)。

代表作とテーマ

ヘミングウェイの代表作には長編小説『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などが挙げられ、これらはいずれもアメリカ文学の古典と見なされています。各作品の概要とテーマを以下に解説します。

『日はまた昇る』(1926年)

第一次大戦後のパリとスペインを舞台に、傷痍軍人のジェイク・バーンズや貴族女性ブレット・アシュリーら退廃的な米英人 expatriates(海外在留者)たちの生活を描いたヘミングウェイ最初の長編小説です。華やかな祭典(スペインの牛追い祭)に興じながらも虚無的な登場人物たちの姿を通し、戦後世代の喪失感やモラルの混乱を活写しています。ヘミングウェイ自身の友人であったガートルード・スタインの言葉に由来する「失われた世代」の典型として、登場人物たちは精神的にも道徳的にも方向を見失っており、その放蕩な生活には戦争の残した虚無が色濃く漂います。ヘミングウェイは感傷や饒舌を排した簡潔な筆致で彼らの空虚さを描き出し、この作品によって20世紀文学の新たな地平を切り開きました。

『武器よさらば』(1929年)

ヘミングウェイ自身の第一次大戦での負傷経験を色濃く反映した自伝的長編小説です。イタリア戦線の野戦救急隊に従事する米国人青年フレデリックと英国人看護師キャサリンとの悲恋が骨子であり、戦場で芽生えた愛は戦火の激化とともに悲劇的結末を迎えます。作者はこの作品で戦争の現実を美化せずリアルに描き、読者がまるで戦場を目撃しているかのような臨場感を与えようとしました。そのため文体は非常に簡潔で平明な語彙が用いられ、不必要な形容詞や副詞は削ぎ落とされています。短く率直な宣言的文の連続によって戦場の暴力や混乱を淡々と伝え、過剰な感情描写を排することで逆に戦争の不条理を際立たせています。物語の結末、すなわち愛する者(キャサリンとその子)を喪い孤独の中に取り残された主人公の姿は、戦後の失われた世代が味わった失意と虚無を象徴しており、読後に深い余韻を残します。

『誰がために鐘は鳴る』(1940年)

1930年代のスペイン内戦を背景に、アメリカ人教師ロバート・ジョーダンが共和派ゲリラ部隊に加わり、敵陣の橋を爆破する任務に挑む物語です。ヘミングウェイ自身が戦場で目にした市井の人々(農夫・ジプシー・女性兵士など)との交流や、戦地で芽生えた恋(ゲリラの娘マリアとの愛)を織り交ぜ、極限状況下での勇気と人間愛を描き出した傑作長編です。タイトルの「誰がために鐘は鳴る」は17世紀英国の詩人ジョン・ダンの有名な一節に由来しており、「決して問い給うな、鐘は汝のために鳴るのだ」という言葉が示すように、作品全体の主題は人類の連帯と自己犠牲にあります。主人公ロバートは任務遂行の末に重傷を負い、愛するマリアや仲間を逃がすため自らは残って敵を待ち受けます。彼の姿は自由と信念のために命を賭す崇高な自己犠牲の精神を体現しており、戦争文学におけるヒューマニズムの金字塔とも評されています。

『老人と海』(1952年)

キューバの老漁師サンチャゴと巨大なカジキとの果敢な格闘を描いた中編小説で、ヘミングウェイ晩年の代表作です。84日間も魚が釣れない不運に見舞われていた老人が、単身小舟で沖に漕ぎ出し、ついに自分の小舟よりも大きなマーリン(カジキ)を釣り上げます。魚との3日3晩に及ぶ死闘は老人の孤独と誇り、そして自然への畏敬を象徴的に描き出しており、人間の不屈の精神と尊厳がテーマとなっています。老人は最後にサメに獲物を奪われてしまうものの、その不屈の闘いぶりには読後、崇高な感動が残ります。ヘミングウェイはこの作品で簡潔にして力強い文体の粋を極め、タールや塩の匂い、血の匂いまでも感じさせる身体性豊かな描写によって読者を物語の現場へ引き込みました。発表当時『老人と海』は直ちに絶賛をもって迎えられ、ヘミングウェイ自身の最高傑作の一つとみなされています。この作品によって彼は1953年にピュリッツァー賞を受賞、1954年のノーベル文学賞受賞時にも選考理由として本作の功績が特に言及されました。

文体の特徴

ヘミングウェイの文体は簡潔さ抑制に特徴があります。もともと新聞記者としてキャリアを開始したこともあり、無駄を削ぎ落とした短い文章と平易な語彙で構成される文章スタイルを確立しました。描写においては冗長な形容詞や副詞を極力避け、本質的な事実のみを積み重ねることで独特の緊張感と明快さを生み出しています。例えば『武器よさらば』執筆時、彼は「そして(and)」という接続詞を意図的に頻用し、短い平叙文を連ねることで臨場感あるリズムを刻みました。この手法により読者はまるで場面を目撃しているかのような没入感を得る一方、饒舌な説明が省かれているぶん行間に込められた意味を自ら感じ取ることを求められます。

ヘミングウェイ自身、この「氷山理論」と呼ばれる手法について『午後の死』の中で次のように述べています。「もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ」。つまり物語の表面に描かれた部分(=氷山の一角)は全体のごく一部に過ぎず、水面下に沈んだ大部分の意味を読者に推察させるという文学的手法です。この理論のもと、ヘミングウェイは登場人物の感情も直接的には語りません。登場人物の行動や会話のみを客観的に描写し、その奥に潜む感情やテーマを読者が読み解くよう仕向けています。この省略の美学によって生まれる含蓄こそが、ヘミングウェイ文体の持つ深みと言えるでしょう。実際、彼の作品に学んだ後進の作家たち(例えばレイモンド・カーヴァーなど)も、一見平易な単語と短文で綴りながら読解に高度な洞察を要する作風を発展させています。ヘミングウェイの簡潔で力強い文章と「氷山理論」による暗示的表現は、20世紀小説のスタイルに革命をもたらし、多くの読者を魅了し続けています。

文学的影響

ヘミングウェイは20世紀文学に計り知れない影響を与えました。彼が確立した簡潔凝縮された文体は同時代から後代にかけて多くの作家に強い影響を及ぼし、イギリスやアメリカの作家たちは何十年にもわたりその文体を手本としました。特にヘミングウェイの短編に見られるハードボイルドな簡潔文体は、ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーらに代表される後のハードボイルド文学の原点とみなされています。暗喩に富む会話や抑制された感情表現、ストイックな男性主人公の造形など、ヘミングウェイが打ち立てたスタイルやテーマは後続の作家たちに受け継がれました。例えばアメリカの短編小説作家レイモンド・カーヴァーは「氷山理論」を体現するかのような極めて簡潔な筆致で作品を書き、しばしば「ヘミングウェイの後継者」と称されています。また日本においても、開高健や村上春樹といった作家がヘミングウェイから影響を受けたことを公言しており、その文学的遺産は国境を越えて広がりました。ヘミングウェイの文体と物語手法は20世紀文学の様式そのものを変革したと評価され、彼の作品群は現在まで読み継がれるとともに、「ヘミングウェイ的」と形容される文体は一つの代名詞となっています。

映画化された作品と評価

ヘミングウェイの小説は数多く映画化されており、その評価も作品ごとにさまざまです。なかでも『誰がために鐘は鳴る』は1943年にサム・ウッド監督、ゲイリー・クーパー&イングリッド・バーグマン主演で映画化され、原作のロマンとスケール感を映像化した作品として高い評価を受けました。この映画は第16回アカデミー賞で作品賞を含む9部門にノミネートされ、スペイン人ゲリラの女性ピラールを演じたカティナ・パクシノーが助演女優賞を受賞しています。ヘミングウェイ作品の映画化として最大の成功を収めた一本と言えるでしょう。

『武器よさらば』については1932年にフランク・ボーゼイジ監督、ゲイリー・クーパー主演で最初の映画化が行われました。戦場下の悲恋というテーマが当時の観客に感動を与え、こちらも第6回アカデミー賞で作品賞にノミネートされ、撮影賞・録音賞の2部門で受賞を果たしています。1957年にはデヴィッド・O・セルズニック制作による大規模なリメイク版(監督チャールズ・ヴィダー、主演ロック・ハドソン)も公開されましたが、こちらはオリジナル版ほどの評価は得られませんでした。

『日はまた昇る』は1957年、ヘンリー・キング監督によりタイロン・パワー、エヴァ・ガードナーら当時のオールスターキャストで映画化されました。しかし原作の繊細な心理描写を映像化することは難しく、公開当時の評価は賛否の分かれるものでした。むしろ酒に溺れる中年男マイクを演じた名優エロール・フリンの怪演が批評家から称賛された一方、脚色の平板さを指摘する声もあり、興行的には成功したものの文学的完成度の面では限界があったとされています。ヘミングウェイ自身もこの映画版には辛辣な評価を下したことが伝えられています。

『老人と海』は1958年、ジョン・スタージェス監督・スペンサー・トレイシー主演で映画化されました。海と格闘する孤独な老人という地味な題材ながら、トレイシーの渾身の演技が光り、第31回アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされました(※受賞は逃したものの、この演技は彼にとって通算6度目のオスカーノミネートとなりました)。また音楽を担当したディミトリ・ティオムキンは本作でアカデミー作曲賞を受賞しています。映画自体も興行的に成功を収め、全編にわたるキューバの海のロケ撮影やトレイシーの独白劇的演技が評価されました。ヘミングウェイ作品の映画化はこの他にも、『キリマンジャロの雪』(1952年、監督ヘンリー・キング)や『殺し屋』(1946年、原作短編「殺し屋」)など枚挙にいとまがありません。総じてヘミングウェイ原作の映画は名優・名監督によって幾度も映像化され、文学作品の映画化という難しさと可能性の両方を示してきました。成功作もあれば原作ファンの批判を受けた作品もありますが、彼の物語がそれだけ普遍的な魅力と映像的想像力を喚起する力を持っている証と言えるでしょう。

最後に、ヘミングウェイの遺した物語と文体は時代を超えて読み継がれる文化遺産となっており、その人生と作品は今なお世界中の文学・映像作品に影響を与え続けています。

ヘミングウェイ「ワイはFBIに監視されとる」(´・ω・`)「オクスリ出しときますね」【架空のなんJ】

1:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:38:32 ID:FBIsuman

FBI「すまんかった」

という事実w

2:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:39:01 ID:yamiFukao

マ?

闇深すぎて草

3:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:39:25 ID:nanjeyasan

どういうことやねん

詳しく教えろください

4:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:39:58 ID:nekoNiki

マジやで

晩年のヘミングウェイは被害妄想が酷いって糖質扱いされてたんや

でも死後に情報公開されたらガチでFBIに監視されとった

5:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:40:11 ID:sensouOji

医者「電話も盗聴されとる?妄想ですねえ…電気ショックしときますねー」

FBI「(マジで盗聴しとるけど)シーッ!🤫」

これもう半分殺したようなもんやろ

6:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:40:49 ID:roujinToUmi

老人と海しか知らんけどそんなことなっとったんか

7:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:41:05 ID:FBIsuman

6

せやで

「銀行口座も監視されとる!」→ガチ

「車も尾行されとる!」→ガチ

「友人までスパイにされとる!」→ガチ

家族も友人も誰も信じてくれんかったんや…

8:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:41:33 ID:kubanokage

なんでそんな監視されとったんや?

キューバにおったからか?

9:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:42:02 ID:castroFan

8

せやな

カストロと知り合いやったし、ソ連のスパイちゃうかと疑われとったらしい

まあ実際はシロやったんやけど

10:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:42:28 ID:kusuriKowai

(´・ω・`)「妄想を抑えるお薬です」

彡(゚)(゚)「……」ゴクー

可哀想すぎるやろ

11:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:42:55 ID:papaHemingway

これで精神病んで猟銃自殺やからな

後味悪すぎやろ

12:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:43:10 ID:yabuIsya

医者、痛恨のミス!w

13:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:43:44 ID:denkiShock

電気ショック療法で記憶もめちゃくちゃにされたらしいな

作家にとって致命的やんけ

14:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:44:01 ID:nanjeyasan

13

これもう半分拷問やろ…

アメリカ怖すぎ

15:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:44:29 ID:bellTolls

誰がために鐘は鳴る(自分のための弔鐘)

16:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:44:50 ID:ho-gokuNiki

ちなみに監視してたFBI長官はフーヴァーや

こいつも相当なクズ

17:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:45:12 ID:syouriNasi

武器よさらば(猟銃ドーン)

シャレにならん

18:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:45:39 ID:machoMan

あんなマッチョで戦争も経験したタフガイが…

19:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:46:05 ID:FBIsuman

18

タフガイやからこそ、誰も信じてくれん状況に耐えられんかったんやろな

プライドもズタズタにされたやろし

20:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:46:21 ID:nekoNiki

ヘミングウェイんちの猫の子孫が今でもぎょうさんおるって話すき

21:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:46:48 ID:daiquiriNomi

酒浸りになったのも無理ないわな

シラフじゃやっとれん

22:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:47:02 ID:usoHapi

ワイも集団ストーカーに狙われとる!

あっ…(察し)

23:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:47:33 ID:j-anJ民

22

お薬出しときますねー

24:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:47:50 ID:roujinToUmi

事実は小説より奇なり、とはよく言ったもんやな

25:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:48:11 ID:soredemoYomu

でも作品はクッソ面白いからセーフ

26:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:48:35 ID:kubanokage

FBI「泳がせとこ。面白い小説書くかもしれんし」

くらいの余裕はなかったんか

27:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:48:59 ID:yamiFukao

26

赤狩りの時代やから無理やろなあ

疑わしきは罰せよの精神や

28:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:49:18 ID:papaHemingway

家族も辛かったやろうな

親父がガチでヤバい奴と思い込んでたんやから

29:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:49:40 ID:sensouOji

28

真実を知った時の奥さんのコメントとかあるんかな

胸糞悪すぎて調べられん

30:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:50:06 ID:FBIsuman

周りの人間が全員敵に見えるって地獄やでほんま

31:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:50:29 ID:nanjeyasan

これもう半分国家による殺人やろ

32:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:50:55 ID:kusuriKowai

オクスリ(意味深)

33:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:51:11 ID:machoMan

真実を訴えれば訴えるほど「ほら、妄想が悪化しとる」って思われるんやろ?

詰んどるやん

34:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:51:38 ID:denkiShock

医者「今日は気分どうです?」

ヘミングウェイ「まだ監視されとる」

医者「(アカンか)電気ショック強めにしとこ!」

鬼畜の所業

35:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:52:01 ID:castroFan

CIAとかも関わっとるんかな

36:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:52:25 ID:bellTolls

死後数十年経ってから「お前の言うこと、全部本当だったぞ」って言われてもなあ…

37:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:52:49 ID:roujinToUmi

天国で「ほら見たことか!」ってドヤ顔しとるやろか

38:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:53:05 ID:j-anJ民

37

悲しいなあ

39:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:53:31 ID:yabuIsya

医者もFBIに脅されとった可能性

40:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:53:58 ID:syouriNasi

ワイらが今「陰謀論」で片付けてることも、数十年後には事実でしたってなるんかな

41:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:54:15 ID:FBIsuman

40

あるやろなあ

歴史は繰り返すんや

42:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:54:40 ID:nekoNiki

結局、一番の敵は国家権力やったというオチ

43:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:55:03 ID:daiquiriNomi

ヘミングウェイの墓にダイキリ捧げに行きたい

44:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:55:22 ID:ho-gokuNiki

サンキューイッチ

勉強になったわ

45:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:55:49 ID:usoHapi

ワイも監視されとるかもしれんからそろそろ落ちるわ

46:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:56:07 ID:kubanokage

お前を監視するほど暇なやつはおらんぞ

47:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:56:29 ID:papaHemingway

まあでも、この話知ってから作品読むと味わい深いわな

48:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:56:55 ID:machoMan

ハードボイルドを地で行き過ぎたんや…

49:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:57:10 ID:nanjeyasan

なんJ探偵団、これにて解散!

50:風吹けば名無し:2025/07/19(土) 09:57:38 ID:FBIsuman

ほな…

皆も背後には気をつけるんやで


牛野小雪の小説season3
牛野小雪
2023-10-25


ヘミングウェイの『インディアンキャンプ』のあらすじ

物語は、ニック・アダムズという少年が父親(医師)と叔父とともにインディアンの集落を訪れるところから始まります。彼らは、難産に苦しむインディアン女性を助けるために呼ばれました。

ニックは父親が帝王切開を行う様子を目撃します。手術は成功しますが、その間、女性の夫が上の寝台で横たわっていました。手術が終わった後、彼らは夫が自殺していたことを発見します。

帰り道、ニックは父親に死について質問をします。父親は死を説明しようとしますが、ニックはまだ理解できません。

この物語は、若いニックが人生、出産、死、そして苦痛といった大きなテーマに初めて触れる様子を描いています。

ヘミングウェイの『インディアンキャンプ』の読み方

アーネスト・ヘミングウェイの短編小説「インディアンキャンプ」は彼の代表的な初期作品の一つです。この小説は、一見単純な物語ですが、その奥深さと多層的な解釈の可能性から、文学研究者や読者の間で長年議論の対象となってきました。本稿では、この作品の読み方について考察します。

まず、物語の概要を簡単に振り返ってみましょう。若い少年ニックは、父親の医師と叔父のジョージと共に、インディアンの居留地を訪れます。そこで、難産に苦しむインディアン女性の出産を手伝うことになります。父親は女性に帝王切開を施し、無事に赤ちゃんを取り上げますが、その間、女性の夫は上段のベッドで横たわっています。手術が終わった後、父親が上段のベッドを確認すると、夫は喉を切って自殺していました。

この物語を読む際、まず注目すべきは視点の問題です。物語は三人称で語られていますが、主にニックの視点を通して展開されます。これにより、読者は大人の世界の残酷さや複雑さを、子供の目を通して体験することになります。ニックの無垢な視点は、出産や死といった重いテーマを、ある種の距離感を持って描くことを可能にしています。

次に、この物語に潜むテーマについて考えてみましょう。最も顕著なテーマの一つは、「イニシエーション(通過儀礼)」です。ニックは、この一夜の経験を通じて、生と死、苦痛と喜び、文明と野生といった人生の根源的な対立に直面します。これは、彼が子供から大人へと成長していく過程の一つの重要な段階を表しているといえるでしょう。

また、文化の衝突というテーマも見逃せません。白人の医師である父親と、インディアンの共同体との間には明らかな文化的断絶があります。父親の科学的・合理的なアプローチは、インディアンの伝統的な価値観や慣習と対立しています。この対立は、特に帝王切開という医療行為を通じて象徴的に描かれています。

さらに、出産というテーマにも注目する必要があります。出産の苦しみに耐える女性と、その苦しみに耐えられずに自殺する男性という対比は、強さと弱さ、耐える力と逃避など、多くの解釈の可能性を含んでいます。

物語の結末部分も重要です。父と息子が湖畔を歩きながら交わす会話は、非常に示唆に富んでいます。ニックが「死ぬのはとてもつらいことなの?」と尋ねるのに対し、父は「いいや、思ったほどではない」と答えます。この会話は、父が息子を慰めようとする一方で、人生の厳しい現実から息子を守りきれないという複雑な感情を表現しています。

ヘミングウェイの文体にも注目する必要があります。彼の特徴である簡潔で抑制の効いた文体は、この物語の緊張感と余韻を高めています。特に、感情表現を極力抑えた描写は、逆説的に読者の想像力を刺激し、より深い感情的反応を引き出します。

また、この物語に登場する自然描写にも注目すべきです。物語の冒頭と結末に描かれる湖の風景は、人間のドラマとは対照的な永続性と平穏さを象徴しています。これは、人生の喜びや苦しみが、より大きな自然の循環の中では小さな一部分に過ぎないことを示唆しているようです。

この作品を読む際には、ヘミングウェイの他の作品との関連性も考慮に入れるべきでしょう。「インディアンキャンプ」は、ニック・アダムズを主人公とする一連の短編小説の一つです。これらの作品を通じて、ニックの成長と人生経験が描かれていきます。したがって、この作品だけでなく、他のニック・アダムズものと合わせて読むことで、より深い理解が得られるでしょう。

また、この作品が書かれた1920年代という時代背景も考慮に入れる必要があります。第一次世界大戦後の喪失感や価値観の変化、モダニズムの台頭など、当時の社会的・文化的文脈がこの作品にどのように反映されているかを考えることも、重要な読み方の一つです。

この作品の解釈には正解がないということを強調しておきたいと思います。「インディアンキャンプ」の魅力は、その多義性と解釈の余地にあります。読者それぞれが、自身の経験や視点を通してこの作品を読み解くことができるのです。

「インディアンキャンプ」を読む際には、単に表面的なストーリーだけでなく、その奥に潜むテーマや象徴、文体の特徴、時代背景などを総合的に考慮することが重要です。また、一度読んだだけで理解したつもりにならず、繰り返し読むことで新たな発見や解釈の可能性を見出すことができるでしょう。ヘミングウェイのこの短編は、その簡潔さゆえに、読めば読むほど深みを増す作品なのです。



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『移動祝祭日"A Moveable Feast"/アーネスト・ヘミングウェイ』レビュー

移動祝祭日(新潮文庫)
ヘミングウェイ
新潮社
2016-04-22


『移動祝祭日』は、アーネスト・ヘミングウェイが晩年に著した自伝的エッセイであり、1920年代にパリで過ごした文学修業時代の思い出を綴ったものである。当時、ヘミングウェイは無名の若き作家であり、最初の妻ハドリーとの慎ましいながらも幸せな日々を送っていた。

作品では、ヘミングウェイの日常生活や執筆習慣、そしてパリで交流した同時代の作家や芸術家たちとの関係が生き生きと描かれている。特に、スコット・フィッツジェラルドとの友情と確執は、作品の中でも重要な位置を占めている。ヘミングウェイは、フィッツジェラルドの才能を高く評価する一方で、彼の性格や私生活についてはかなり辛辣に描写している。

また、作品には、ヘミングウェイの文学観や人生観も随所に散りばめられている。彼は、短く正確な言葉を重ねることで真実を伝えようとし、貧しさや嫌いな人々についても赤裸々に綴っている。しかし、その根底には、若き日の純粋な愛や芸術への情熱がひしひしと感じられる。

『移動祝祭日』は、ヘミングウェイの他の作品を読む上でも重要な手がかりとなる。例えば、短編集『われらの時代』や長編小説『日はまた昇る』などには、パリ時代の経験が色濃く反映されている。この作品を読むことで、それらの作品の背景がより深く理解できるだろう。

ヘミングウェイがパリで過ごした1920年代は、20世紀を代表する多くの芸術家たちが集った時代でもあった。『移動祝祭日』は、そうした芸術家たちとの交流や当時のパリの雰囲気を鮮やかに伝えており、文学史的にも貴重な記録となっている。

作品の随所に登場するカフェやバーでの飲酒、競馬や旅行など、ヘミングウェイの日常生活の描写からは、彼の人間的な魅力も感じられる。一方で、別れた妻への後悔の念や、フィッツジェラルドへの複雑な感情は、作家という職業の孤独や苦悩をも浮き彫りにしている。

『移動祝祭日』は、ヘミングウェイという作家の素顔に迫る貴重な作品であり、20世紀前半のパリの文学シーンを知る上でも欠かせない一冊である。若き日の情熱と苦悩、そして晩年の郷愁が入り混じった、ノスタルジックな回想録として読み継がれるべき作品だと言えるだろう。

訳者の高見浩氏による丁寧な訳注と解説も、作品の理解を深める上で大いに役立つ。作中に登場する人物たちの作品を併せて読むことで、『移動祝祭日』の世界により深く入り込むことができるはずだ。ヘミングウェイが愛したパリの街並みと、彼が好んで飲んだお酒を傍らに置きながら、この作品を読み返してみるのもまた一興だろう。

(おわり)



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

 

『武器よさらば"A Farewell to Arms"/アーネスト・ヘミングウェイ』レビュー

武器よさらば (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
2006-05-30



『武器よさらば』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台に、アメリカ人青年フレドリック・ヘンリーとイギリス人看護師キャサリン・バークリーの熱愛を描いた作品である。ヘミングウェイ独特の簡潔で畳み掛けるような文章で、生死の境をさまよう過酷な日々の中で芽生えた二人の愛を鮮明に浮かび上がらせている。

作品は、ヘミングウェイ自身の戦争体験がベースとなっており、戦争の悲惨さや人生の無常さを伝えている。しかし、タイトルから受けるイメージとは異なり、戦争そのものは背景の一部として存在し、物語の軸となるのはラブストーリーである。兵士たちが戦場でワインを飲み、パスタを食べ、仲間とジョークを交わしながら過ごす姿は、我々が想像する悲惨な戦場とは少し違う印象を与える。それでも、兵士たちは次々と負傷し、命を落としていく。

主人公フレドリックは、戦場で負傷しながらもどこか乾いたような戦争観を持っており、それがより戦争の無意味さを浮き彫りにしている。そんな戦争下で生まれたキャサリンとの愛は、明日の命も知れない身だからこそ熱烈なものになっていく。

物語のクライマックスでは、フレドリックとキャサリンが戦争から逃れ、自由を手に入れたかに思えた。しかし、キャサリンは難産の末に死産し、自身も出血多量で命を落とす。この結末は、ヘミングウェイ自身の過去のトラウマを反映しているようにも感じられる。

『武器よさらば』は、戦争文学というよりも、悲劇的な恋愛小説としての印象が強い。直接的な内面描写を排したハードボイルド的な筆致が、一人の個人の目を通して戦争の悪と運命の不条理を告発している。また、絶望的な状況下で人々が何に縋るのかを探っている。

作品には、ヘミングウェイが終生抱えていた信仰への揺らぎも表れている。無神論を強調する主人公が神に祈る場面は、作者自身の内面を映し出しているようだ。

『武器よさらば』は、戦争と愛という正反対のテーマを巧みに織り交ぜ、愛の輝きと戦争の悲惨さを浮き彫りにした作品である。ヘミングウェイの簡潔な文体と緻密な描写が、読者を物語の世界に引き込み、登場人物たちの感情を生々しく伝えている。

(おわり)



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


『日はまた昇る"The Sun Also Rises"/アーネスト・ヘミングウェイ』のレビュー

日はまた昇る (新潮文庫)
アーネスト ヘミングウェイ
新潮社
2003-06-28

「日はまた昇る」は、ヘミングウェイの初の長篇小説であり、第一次世界大戦後のパリとスペインを舞台に、失われた世代の若者たちの虚無感や満たされない思いを描いた作品です。

主人公のジェイクは、戦争での負傷により性的不能になっており、美しく奔放な女性ブレットと愛し合っているものの、彼女と結ばれることができません。ジェイクの友人たちも、ブレットに惹かれ、彼女を巡って争います。彼らはパリで酒に溺れ、スペインではフィエスタや闘牛を楽しみますが、その享楽的な生活の中にも虚無感や満たされなさが漂っています。

作品は、ヘミングウェイ特有の簡潔な文体で書かれており、登場人物の心理描写は最小限に抑えられています。しかし、会話やアクションを通して、彼らの内面が巧みに表現されています。特に、ジェイクとブレットの切ない関係や、ロメロという優れた闘牛士の登場は印象的です。

作品のタイトル「日はまた昇る」は、一見ポジティブな印象を与えますが、実は皮肉が込められています。失われた世代の若者たちにとって、新しい日が訪れても、彼らの抱える問題や虚無感は消えることがないのです。

ヘミングウェイ自身の経験を基にした作品であり、登場人物のモデルには彼の友人たちがいると言われています。作品には、第一次世界大戦後の若者たちの惑いや、戦争による心の傷、そして1920年代のパリとスペインの雰囲気が見事に描かれています。

文体は読みやすく、スペインの街並みやフィエスタの様子が鮮やかに描写されています。一方で、登場人物たちの行動や会話からは、彼らの内面の闇や満たされない思いが伝わってきます。

「日はまた昇る」は、失われた世代を代表する作品の一つであり、ヘミングウェイ文学の特徴を示す重要な作品です。戦争によって傷つき、方向性を見失った若者たちの姿を通して、人生の儚さと、愛の複雑さが描かれています。作品の魅力は、その簡潔な文体と、登場人物たちの生き生きとした描写にあります。

しかし、一部の読者からは、登場人物たちの自堕落な行動や、筋立ての希薄さを指摘する声もあります。また、ヘミングウェイ特有の文体が、一部の読者には読みにくく感じられることもあるようです。

総じて、「日はまた昇る」は、第一次世界大戦後の失われた世代の姿を鮮明に描き出した傑作であり、ヘミングウェイ文学の魅力が存分に発揮された作品だと言えるでしょう。時代背景や登場人物たちの心情を理解することで、作品からより深い感動を得ることができるはずです。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

 

『二つの心臓の大きな川~Big Two-Hearted River~/アーネスト・ヘミングウェイ』について

「二つの心臓の大きな川」は、アーネスト・ヘミングウェイが1925年に発表した中編小説であり、「ニック・アダムズ」シリーズの一部として知られています。この作品は、第一次世界大戦後のアメリカを舞台に、主人公ニック・アダムズの心理的な癒しと再生の過程を描いています。

物語は、ニックが故郷の町に戻ってきたところから始まります。彼は、戦争によって荒廃した町の様子を目の当たりにし、深い喪失感を抱きます。そこで、ニックは森の中へと足を踏み入れ、釣りを通じて心の平静を取り戻そうとします。

ヘミングウェイは、自然描写に多くの紙幅を割いています。緑豊かな森、清らかな川、魚や昆虫など、自然の営みを丁寧に描写することで、ニックの心情を巧みに表現しています。これらの描写には、「ストリーム・オブ・コンシャスネス」(登場人物の意識の流れを直接的に表現する手法)が用いられており、読者はニックの内面世界に深く入り込むことができます。

釣りの場面では、ニックの細やかな観察力と行動が詳細に描かれます。彼は、釣り道具の準備や餌の選択、釣り方などに徹底的にこだわります。これは、ニックが自然と一体となり、自己を見つめ直すための儀式のようでもあります。

また、作品では食事の場面にも多くの注意が払われています。ニックが自ら料理を作り、味わう様子は、生きることの喜びと、人間の原初的な欲求を表しています。

物語の後半では、ニックが釣りを通じて得た洞察が描かれます。彼は、自然の力強さと、人間の存在の小ささを実感します。同時に、生きることの尊さや、自分自身と向き合うことの大切さにも気づくのです。

「二つの心臓の大きな川」は、戦争によって傷ついた人間の心を、自然との交流を通じて癒やすという普遍的なテーマを扱った作品です。ヘミングウェイ独特の簡潔な文体と、自然描写の美しさが融合し、読者に深い感銘を与えます。

また、この作品は「ロスト・ジェネレーション」(第一次世界大戦後の世代)の文学を代表する一つとしても知られています。戦争の悲惨さや、価値観の崩壊を経験した若者たちの心情を、ニックの姿を通して鋭く描き出しているのです。

「二つの心臓の大きな川」は、自然と人間の関係性、心の癒しと再生、戦争の影響など、様々なテーマを内包した奥深い作品です。ヘミングウェイ文学の真髄を味わえる一編として、世界中の読者に愛され続けています。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11


『キリマンジャロの雪~The Snows of Kilimanjaro~/アーネスト・ヘミングウェイ』について

「キリマンジャロの雪」は、アーネスト・ヘミングウェイが1936年に発表した短編小説です。この作品は、アフリカを舞台に、主人公ハリー・ストリートの人生を回顧しながら、彼の死の瞬間までを描いています。

物語は、ハリーとその妻ヘレンがアフリカのサファリ(野生動物観察旅行)に出かけたところから始まります。ハリーは、不注意から脚に傷を負ってしまい、「壊疽」(組織の壊死)に陥ります。彼は、救助を待ちながら、自分の人生を振り返ります。

ハリーは、かつて才能ある作家でしたが、金銭的な成功と安定を求めるあまり、本来の情熱を失ってしまいました。彼は、書きたかった物語や経験を思い出しては、自分の人生の浪費を後悔します。

ヘミングウェイは、回想シーンを巧みに織り交ぜながら、ハリーの内面世界を描き出します。パリでの文学活動、第一次世界大戦での体験、スペイン内戦での出来事など、ハリーの人生の重要な場面が鮮やかに描写されます。

また、作品では、ハリーとヘレンの関係性にも焦点が当てられます。ヘレンは、ハリーを深く愛していますが、彼の内面の苦悩を理解することができません。二人の会話を通じて、愛情と理解のずれが浮き彫りになります。

物語が進むにつれ、ハリーの病状は悪化していきます。彼は、「キリマンジャロ山」(アフリカ大陸最高峰)の雪を見ながら、自分の人生の終わりを悟ります。そして、彼は夢の中で、キリマンジャロ山の頂上へと旅立っていきます。

「キリマンジャロの雪」は、人生の意味や目的、芸術家としての使命といったテーマを扱った作品です。ハリーの人生の回顧を通じて、才能を無駄にすることの悲劇性や、真の情熱の大切さが示唆されています。

また、この作品は、ヘミングウェイ自身の人生観や価値観を反映したものでもあります。彼は、真摯に生きること、自分の信念に従うことの重要性を訴えかけているのです。

さらに、「キリマンジャロの雪」は、死の瞬間までの人間の心理を鋭く描写した作品としても知られています。ハリーの意識の流れや、彼の内面の葛藤が、リアルに表現されています。

ヘミングウェイ独特の簡潔で力強い文体は、この作品でも遺憾なく発揮されています。象徴的な表現や、印象的な自然描写が随所に見られ、読者に深い感銘を与えます。

「キリマンジャロの雪」は、人生の意味や芸術家の使命、死の瞬間までの人間の心理を見事に描き出した傑作です。ヘミングウェイ文学の真髄を味わえる一編として、世界中の読者に愛され続けています。

冒頭の豹はどういう意味?

1. 孤高の死:豹は、キリマンジャロ山の頂上で凍死しています。これは、孤高の存在として、自分の信念に従って生きた結果、世俗から離れた場所で死を迎えたことを象徴しています。主人公ハリーは、かつて純粋な芸術家としての理想を追求していましたが、それを裏切ってしまったことを後悔しています。豹の死は、ハリーが目指すべきだった生き方を示唆しているのです。

2. 理想の追求とその代償:豹は、キリマンジャロ山の頂上を目指して登っていきましたが、その過程で命を落としました。これは、高い理想を追求することの難しさと、その代償の大きさを象徴しているとも解釈できます。ハリーは、純粋な芸術家としての理想を追求する代わりに、安定や金銭的成功を選びました。しかし、その選択が彼の内面の死をもたらしたのです。豹の死骸は、理想を追求することの尊さと、同時にその危険性を示唆しているのかもしれません。

3. 死の象徴:豹の死骸は、物語の中で繰り返し言及されます。これは、ハリーの迫り来る死を象徴しています。豹が高み(キリマンジャロ山の頂上)で死を迎えたように、ハリーも物語の終盤で、精神的な高みに達して死を迎えます。豹の死は、ハリーの人生の終焉を暗示しているのです。

4. 自然の力:豹は、人間の世界とは異なる、野生の自然界の一部です。その死骸が、人間の手の届かない場所で保存されているという事実は、自然の力の偉大さを示しています。これは、人間の営みの儚さや、自然の前での人間の無力さを象徴しているとも解釈できます。豹の死は、人間の世界を超越した、自然の力の象徴なのかもしれません。

これらの解釈は、物語全体のテーマである、人生の意味、芸術家としての使命、死の本質、自然と人間の関係性などと深く結びついています。ヘミングウェイは、豹の比喩を巧みに用いることで、作品に複数の層を与え、読者に様々な解釈の可能性を提示しているのです。

キリマンジェロの雪の評価、当時と今

「キリマンジャロの雪」は、発表当時から高く評価され、ヘミングウェイの代表作の一つとして認識されてきました。しかし、時代とともに、この作品に対する評価は変化しています。

発表当時(1930年代):
- ヘミングウェイの簡潔で力強い文体は、当時の文学界に大きな影響を与えました。「キリマンジャロの雪」は、その文体の特徴を顕著に示した作品として評価されました。
- 死の瞬間までの人間の心理を深く掘り下げた点が、画期的であると認められました。
- 主人公ハリーの人生の回顧を通じて、芸術家の使命や人生の意味といったテーマが鋭く提示されたことが高く評価されました。

現代(21世紀):
- ヘミングウェイの文体は、現代の読者にとっても魅力的であり、「キリマンジャロの雪」はその点で今なお高く評価されています。
- 一方で、作品に描かれたアフリカのイメージや、登場人物の性別役割などについては、現代の視点から見ると問題点が指摘されることもあります。
- ポストコロニアル批評の観点から、作品のアフリカ表象が、ステレオタイプに基づいているという指摘もあります。
- フェミニズム批評の観点からは、ヘレンの描かれ方が、女性の役割を限定的に捉えているという批判もあります。

しかし、これらの批判にもかかわらず、「キリマンジャロの雪」は、20世紀の文学史上、重要な位置を占める作品であり続けています。
- 人間の内面の真実を追求する姿勢は、現代の読者にとっても共感できるものです。
- 芸術家の使命や人生の意味といったテーマは、普遍的な問いかけとして、今なお読者を惹きつけています。
- ヘミングウェイの文体は、現代の作家にも影響を与え続けており、その点でも作品の価値は揺るぎないものがあります。

「キリマンジャロの雪」は、発表当時も現代も、文学作品としての価値を認められていますが、時代とともに、新たな批評の視点から捉え直されるようになりました。しかし、作品が提示する普遍的なテーマや、ヘミングウェイの文体の魅力は、時代を超えて読者を惹きつけ続けています。



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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11

『ファイター~The Battler~/アーネスト・ヘミングウェイ』について

「ファイター」はアーネスト・ヘミングウェイが1925年に発表した短編小説です。この作品はニック・アダムズというヘミングウェイの分身的な人物が主人公として登場する連作短編の一つです。

物語は、ニックが貨物列車から蹴り落とされた後、線路脇で一人の男と出会うシーンから始まります。その男は、かつてプロのボクサーだったアド・フランシスという人物で、バッグズという黒人男性と一緒に暮らしています。

ニックはアドの不思議な行動や言動に戸惑いながらも、彼らとの会話を通じてアドの過去を知ることになります。アドはかつてのボクシングで脳に障害を抱えていました。バッグズはそんなアドを献身的に支える存在でした。

ヘミングウェイはこの短編で人生の挫折や傷つき、そして友情や忠誠心といったテーマを巧みに描いています。アドの抱える問題は、「パンチ・ドランク」(頭部への累積的なダメージによる神経障害)という専門用語で表現されています。

また、作者は登場人物の対話を通じて、当時のアメリカ社会における人種差別の問題にも触れています。バッグズとアドの関係性は人種を超えた友情の強さを示す一方で、社会的な不平等の存在も浮き彫りにしています。

ヘミングウェイ独特の簡潔で力強い文体は、この短編でも遺憾なく発揮されています。無駄な描写を削ぎ落とし、登場人物の言動や心理を的確に表現することで、読者に深い印象を与えます。

「ファイター」は挫折と友情、社会問題といった普遍的なテーマを、ボクシングという競技を通じて描いた秀作です。ヘミングウェイ文学の特徴である、人間の本質を鋭く見抜く洞察力と、簡潔で力強い文体が見事に融合した一編と言えるでしょう。



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『爪痕を残そうとして何が悪い/月狂四郎』のレビュー

たとえ話から始めよう。コンビニの店員がレジでとつぜん歌を歌い出す。しかも超絶うまくて誰もが感動する。店内のボルテージは上がり、じゃんじゃん人が集まってくる。

しかし残念ながら彼(あるいは彼女)はお金を稼げないのである。私たちがコンビニの店員に求めることはコンビニの店員であって、そこから外れれば一円にもならない。

歌で儲ける? もちろんそれは可能だ。しかしそれは彼に歌を求めた時であってコンビニのレジではない。なぜ私たちは空気を読めなければならないのか。それは私たちが究極的には利益を求めているのではなく空気に沿って動くことを求めているからに違いない。

主人公の龍牙は最近流行っていた私人逮捕系YOUTUBERで生計を立てている。PVが金になるので過激なことに手を出していかざるを得ない。このブログを書いている時点で現実では私人逮捕系YOUTUBERから逮捕者が出ているようにそう長く続くものでもない。

なぜ彼はそんなことをしているのか。本作の登場人物は基本的にみんななにかしらの破滅を味わっていて、傷付いた人間同士が寄り集まっている感がある。どう読んでも元ネタがたぬなかなヒロインもそうだ。

彼らは運命に負けて人生がめちゃくちゃになったのではなく、自分でめちゃくちゃにしたからそうなったと言いたがっているように見える。それは自傷的ではあるが人生に対する主体性を取り戻す行為でもある。

もちろん主体的に傷付こうが運命的に傷付こうがその先に待っているのはより大きな傷だ。勝手に命名するが鮫島事件をきっかけに龍牙はハンズ・オブ・ストーンという危険なボクシングの格闘技大会へ参加することになる。そこで負けた人物はより大きな傷を負ってステージを去る。それは龍牙であったかもしれない人たちで、彼らもある意味ではこの小説の主人公だろう。作中の描写は龍牙以外の人物にしょっちゅう移り変わる。

自傷行為には限界がある。自分の命や存在を超えて傷付けることはできない。それ以上を求めれば世界を傷付けるしかない。これは怒りの小説だ。世界の空気に対する怒りだ。ハンズ・オブ・ストーンで龍牙の破滅を世界の8割が望むことになるが彼は反抗する。

もちろんこれは小説である。現実とは違う。しかし小説とは嘘で真実を語る行為でもある。私たちは世界の空気に怒ることを忘れてはいないか。黙って従うことでより空気の圧力を強くはしていないだろうか。龍牙が空気と戦った後どうなるかは実際に読んで確かめてほしい。単純な勝ち負けでは終わらない結末が待っている。

(おわり)




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現代小説の位置と、自分の小説がどこにカテゴライズされるか考えてみる

文学部唯野教授 (岩波現代文庫)
筒井 康隆
岩波書店
2014-12-18



筒井康隆の『文学部唯野教授』に文学作品の主人公を五分類するくだりがある。それによると小説の主人公は以下に分類される。

1.主人公が普通の人間や環境よりも優れている場合。つまり神様のこと
2.主人公が普通の人間や環境よりもちょっぴり優れている場合
3.主人公が普通の人間よりも優れているけれど環境に負ける場合
4.主人公が普通の人間や環境よりも優れても劣ってもいない場合
5.主人公が普通の人間よりも劣っている場合。この場合は読者が見下すような人物


こうした主人公が登場する作品はそれぞれ以下のような文学作品になる。

1.神話
2.恋愛小説、冒険小説、伝奇小説
3.悲劇、叙事詩
4.喜劇、リアリズム小説
5.風刺、アイロニー


どの小説が良いというわけではなく時代と共にメインストリームがサイクルする。

小説なんて今の時代、斜陽もいいところだがそれでも読まれているなろう系と呼ばれるものを考えてみるに、現代は1の時代かもしれないと思う。批評的には努力が報われなくなった現代の風刺として語られることもあるし、追放物は教育や社員へのケアを怠ってきたことのよる産業の空洞化を風刺しているという説もあるので5寄りの1かもしれない。

どちらにせよ、上を前提にしてみると牛野小雪は3に位置する気がする。時代外れも良いところ。サブにすら位置していない。

『火星へ行こう君の夢がそこにある』だと主人公の一郎は宇宙飛行士の試験に合格するが、火星開発公団のずさんな計画に振り回されるだけで彼らに一泡吹かせるわけではないし、そもそも火星開発公団の代表とは会ってもただそれだけで、彼らは物語の背景にすらなっていない。そして一郎は火星で偉大なことをするわけでもなく、実験の条件に合った一装置の役目を果たすだけ。『グッドライフ高崎望』では主人公の望が赤髪を倒して不良界での名を上げるが、人生に対しては何の意味もなかったりする。最新作の『銀座の中心で稲を育てる』でも金持ちの主人公が銀座の中心に田んぼを作るが、宇宙的絶対無意味性を体現する。

恋愛至上主義の代名詞ともいえる月9の象徴トレンディドラマが流行ったのはウィキペディアによると1980年代後半から1990年代前半らしい。そういえばシュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネガーちゃんの人気が出たのもその頃だ。ここが恋愛小説、冒険小説の時代だとすると、1の時代の2023年までに約40年かかっている。つまり十年一時代という別に新しくもない概念を発見したということ。

1995年からが3の時代となると、ちょうどエヴァンゲリオンが始まった頃で主人公のシンジくんは今までのロボアニメと違って主人公らしからぬ弱虫として描かれている。現代だと、そりゃあの環境じゃああなるよ、むしろ大人が弱い的な話はあるが、リアタイで見ていた人ならエヴァは強いけどシンジくんは弱いって思ってたよね? そういう見方が変わったのも時代が変わった証かもしれない。話を一個前に戻すと今の時代に『ロングバケーション』みたいなのが放送されてもちょっと鼻白んでしまうかもしれない(なんならエヴァも同じ)。その証拠に月9の視聴率は年々下がっているし、ど真ん中な恋愛をドラマでやらなくなっている。村上春樹だってねじまき鳥からそういうのから距離を取り始めたように見える。でも時代がサイクルするならあと10年以内にまた恋愛ドラマ全盛になる。それとかシュワちゃんみたいなアクションスターが出てくるとかね。そういえば『シン・エヴァンゲリオン』はシンジとマリが結ばれるエンドだった。これって2の時代の先取りかも・・・? 

4はちょっと分からないがエンタの神様が始まったのが2003年だ。これは喜劇か? こじつけになってきたな~

5は本気で分からない。むしろこれこそなろうの走りじゃないか・・・・? あるいは牛野小雪が3のタイプだからこの辺りは感性にピンとこないだけかも。

時代サイクルで考えると牛野小雪に時代のチャンスが巡ってくるまであと20年。生きているかどうかはあやしい。ワンチャン死んでいる可能性もある。出てくるのが遅かったな! 中2の時に小説を発表していれば時代が後押ししていたかもしれない。あの頃のメンタリティで自分が書いた物を世間に公表できたとは思わないけど(笑)

持って生まれた性を変えるのは難しい。小説家が物語の書き方を変えるのが難しいのと同じだ。シェイクスピアみたいな天才なら何でも書けると言うかもしれないが、彼の作品で語られるのは『マクベス』か『リア王』だろう。あ、『ロミオとジュリエット』『ハムレット』もある。ほら、でもみんな悲劇だ。何でも書けても、うまくやれるのは一つだけ。「バカ言うな『じゃじゃ馬ならし』があるぞ!」なんて言い出すのは文学オタクぐらい。私は3から1や2の作家にはなれないだろう。自著の『蒲生田岬』や『エバーホワイト』を恋愛小説の文脈で読んだ人がいるとはちょっと考えられない。

時代から外れた人に時代外れの小説を読ませる。そういう小説家でいいんじゃないかな。そういうところから牛野小雪を読む人を増やしていけないかと考えている。さて、どうやったら時代外れの人を集められるだろう?

(おわり)

牛野小雪のページ


この王木亡一朗を読め3♪ 『レモン/グラス』

 優れた小説は冒頭の文章が小説全体を支配する。究極的には最初の10行で読むのをやめてもかまわない。夏休みの宿題で読書感想文を書くならなおさらだ。始めに書いておこう。『レモン/グラス』の冒頭で僕と姉は毎朝京野菜を食べていると描写されている。まずはこれを憶えておいて欲しい。

 小説なら文字、映画なら時間、漫画ならコマの制約がある。それなのにあえて食事シーンがあるとしたら、それは作者の意識的にせよ、無意識にせよ何らかの意図が含まれている。その証拠に猫が屋根からさかさまに落ちる出来事はいつでもどこでも入れることが可能なのに、実際にはほとんど見かけることはない。それは猫が何の脈絡もなくさかさまに落ちることに意味が無いからであり、意味のない出来事は削られるからだ。

 もし登場人物の二人が同じ物を食べていた時、しかもそれが男女で会った時、それは恋人同士である可能性が非常に高い。おい、待てよ。母と子、あるいは父と娘の可能性は? もしくは『レモン/グラス』のように姉と弟ということもあり得る。家族が同じ物を食べるのは当たり前じゃないか。そう思っている人がいるかもしれない。確かにそれはそうだ。しかし創作物の場合、家族が同じ物を食べているのは、反抗期の中学生が家族と同じ物を同じ時間に食べることぐらいおかしなことだ。それは崩壊の前触れか、ハッピーエンドを迎える時でしかありえない。というか前者の場合は、同じ食卓についていても違う物を食べているだろう。

 結婚式では基本的にみんな同じ物を食べる。両方の父母の好みぐらいは聞くかもしれないが、出席者の一人一人にまで意見を聞くことはまずない。何故なら出席者の重みは平等ではないから。ほとんどの人は欠席しても問題ない人達だ。何らかの国際会議の食事ではベジタリアンや宗教ごとに食べ物を選べるようになっているが、残念ながらそういう会議が世界的に大きな影響力を持つことはない。二国間交流の場合は同じ物を食べる。もし食べなかったらニュースになるだろう。少なくともカメラが入る場所では同じものを食べる。

 これらのことを踏まえればデートの時に何を食べればいいかはすぐに分かる(あるいは媚を売りたい上司と食事する時でもいい)。相手と同じ物を食べればいいのだ。もし相手が食べてくれないのなら、たとえば相手がカルボナーラを頼んで、自分もカルボナーラを頼んだ時、相手が注文を変えたらそれはとってもヤバい状況だ。

 文学にそう書いてあるから現実世界でもそうなるのか? いいや、絶対にありえない。もし世界中の小説家が、牛野小雪が宝くじに当たる描写を書いても、私が宝くじに当たる可能性は天文学的に低いままだ。数学者は数式を通して世界を記述している。小説家は小説を通して世界を書いている。世界が文学を作っているのだ。この関係が逆転することはあと10000年経っても起こりえない。

「この小説はどういう意味があるんですか?」
 この質問はこうも言い換えられる。
「この世界に意味はあるんですか?」
 もし文学に意味が無いのなら世界にも意味が無い。小説から意味を掴み取れないなら人生の意味も掴み取れないし、人生の意味を掴んでいるのなら小説からも意味を掴み取れる。嘘だと思うのなら試してみて欲しい。小説家が書く書評の印象が、いかにその人の書く小説にそっくりなことか。

 さて、上に書いたように食事に注目して読もう。冒頭で二人暮らしの姉と僕は京野菜を食べているが、姉は体に悪いほどご飯に塩をかけている。つまりあやしい関係だが、姉は意図的に自分に悪い何かを吸収しているぞ、というのが1ページ目で分かってしまうのである。

 これがどういう意味を持っているのかを考えるのは作者の王木亡一朗ではなく読者のあなただ。もしかしたら世界の意味を見つけられるかもしれない。この記事を読んで、文学を読む手掛かりを見つけたと思えたのなら、最初の10行を読んでみよう。その後は燃やしてしまってもかまわない。

(おわり)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20






※前にnoteで読んだのとは内容が違う気がする。

※2 このブログ記事を夏休みの読書感想文に使ってもいいよ~

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この王木亡一朗を読め2♪ 『あのころ』~だれにもいいねされない私達の退屈、そして無意味さ~

 社会が意味の無いことを許さないのはこの記事の存在自体が示している。この映画は、この本はどういう意味なんですかという問いはよくあるし、それは何の意味もないなら何の価値もないということを暗に示している時もある。価値がないなら存在してはいけないということだ。

 しかしながら私達の生きている時間で、どれだけ意味のある時間、価値のある時間があるだろうか。たいていは意味も価値もない時間を過ごしているはずだ。

 有効活用されるべき時間はまだまだたくさんあるぞ。というのが社会の要請だが、全ての時間が有効活用されている人生を生きていける人がどれだけいるかあやしいものだ。

 TV、ネットでは有効活用された世界であふれていて、退屈は共有されない。人生の大半を占める無意味さ、価値のなさは誰にもいいねされないどころか、積極的に排除される。それは正しいことだ。

(もう書くことはないので、ここでおわり。こんなブログを読んでも意味はないので王木亡一朗を読め♪)

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20


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この王木亡一朗を読め1♪ 『当てつけ』~前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよ、夏~

現代社会は多様性の時代だと言われているが、そんなことは嘘っぱちでせいぜい数バリエーションの人しか受け入れ先はない。腕が6本あったり、目からビームが出たり、指の間からアダマンチウムの爪が出たり、体が岩でできている人間を想定されてはいない。社会の要請する人間で無いならば、特に誰かが排除しなくても、そもそも居場所がないので、彼らは社会の力学で勝手に外側へと導かれる。

 身体能力だけでもそうなのに、心や精神でだって多様性はない。変わったキャラは『変わったキャラ』という枠を越えた途端に受け入れられなくなる。社会に存在する数バリエーションのキャラを越えた人間は静かな真空によって、社会の外側へ吸い込まれていく。人間って数パターンしかいないよな、というのはある意味では正解で、数パターンのキャラしか社会は受け入れられないからだ。内心は自由でも表現は限られている。こいつら没個性だなと思っている人も、社会の中では没個性の人間としか出現せず、そこから逃れようとしても、せいぜい『個性的』という型にハマるぐらいだ。個性的な奴が出てこないと言っている人も、本当に『個性的』な枠を越えた個性的な人が目の前に現れたら、受け入れられないことはほぼ間違いないし、認識することさえできないかもしれない。『』の中に入るのは何でもいい。それは真面目だとか、天才だとか、面白い、カッコイイ、かわいい、弱者、変態、無個性でさえ入れることが可能だ。

 直接の描写はないが前山田君は何のキャラにもなれない無能である。自尊心とお金を払ってまでいじめられっ子というキャラを社会(学校)の中に見出したが、親の金を盗まなければならないほど追いつめられた時に、つまりキャラの維持費が彼個人の裁量を越えた時に、とうとうこの世から居場所がなくなり、オサラバすることになった。

 現代社会は映画の『JOKER』と違って、銃とマレー・フランクリンが存在しないゴッサムシティだ。マレー・フランクリンみたいな人がいれば笑いものにしてくれる。一緒に笑えば居場所を得られる。もしかしたら表舞台に引き上げてくれることだってあるかもしれない。銃があれば自分を笑う奴を撃ってテロリストになればいい。しかし残念ながら社会に受け入れられない人にマレー・フランクリンは現れないし、銃、あるいはそれに準ずる力さえも手に入れることはできない。『JOKER』のアーサーだって自分の力で銃を手に入れたわけじゃないしな。『JOKER』はしょせんフィクションで、舞台装置として銃を手に入れただけだ。現実は静かに死ぬか、腐りながら生きていくしかない。

 上でも書いたように社会に受け入れられない人間は認識すらされない。前山田君にいじめられっ子というキャラが付いていた時は主人公が同情してくれたのに、自殺した理由がいじめでないと分かった途端に、前山田君はいじめられっ子というキャラから逸脱して、キャラが剝ぎ取られた無キャになってしまう。半年後もすればいじめっこの前山田君は記憶に残ったとしても、仮面が外れたむき出しの前山田君は存在していたことさえ忘れられるだろう。社会的な『』にくくられない真の無キャは『当てつけ』さえ亡きものとされてしまうのだ。

(おわり)

※前山田君が令和のジョーカーになれるわけねえよってタイトルに書いたけど、そもそもこの小説、平成に書かれた物だったので、やっぱり二重の意味でねえよ。

金字塔: the apex
王木亡一朗
2021-07-20



ジョーカー(字幕版)
ザジー・ビーツ
2019-12-06



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『老人と海~The Old Man and the Sea~』を読む

『老人と海』は何度も読んだ本だけど、今回は100回連続で読んでみようと思う。一つの作品を読み込めば自分の小説に活かせるかもしれないという意図もある。ついでに言えば150ページぐらいなので繰り返し読むのにちょうど良いサイズだ。その気になれば一日で読めるし、場合によっては日に二度、三度と読める。

 

1回目

 

老人が海へ漕ぎ出してカジキマグロと四日間にわたる格闘の末に釣り上げるが、帰る途中でサメに襲われてカジキマグロは骨だけになってしまう。老人サンチャゴは84日も魚が釣れなくて、作中でもまったくの徒労で終わってしまうのだが、最後に老人は小屋でうつ伏せになりライオンの夢を見ているところで終わる。この場面がなければヘミングウェイは削ぎ落とした文体を生み出した作家、ロストジェネレーションの一作家という評価で終わっていただろう。死後に著作が読まれることはなく、時々文学オタクに掘り起こされて、なんでこれが評価されないんだと憤るような作家だったに違いない。スティーヴン・クレインみたいな。

ライオンの夢には何をやっても困難に遭っても心が負けなければ負けではない、みたいなカッコ良さがある。サメを殺した後の「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」という台詞にもそういう哲学がある。負けてたまるか、戦ってやるぞ、という気概が絶望を退けるんだろう。それはしんどい生き方だし、ヘミングウェイも途中で疲れたのか頭をショットガンで吹き飛ばしちゃうわけだけど、たとえ彼が暗い気持ちで死んだとしても、老人と海は孤独と絶望に襲われても負けはしないタフな人間の姿を書いていることに変わりはない。

浪漫主義っぽいけど、あまりにみんなが自然主義に傾くと世の中が腐っていきそうだし、老人がカジキマグロを追うように、希望を追わなきゃ生きていけないんじゃないかな。蟹工船より老人と海だよ。

 

2回目

 

二回目はあやふやな語句を調べながら読んでみた。読んでいる時間より調べている時間が長かった。

 

3回目

 

投網でびっしり鰯が取れると少年が言っているところがあったので、ディマジオが活躍している頃の鰯の生息数を調べてみたが、見つからなかった。その代わりに鰯というのは100年、2、30年単位で豊漁不漁の時期がある魚だと分かった。この港の鰯は豊漁の時期だったのだろう。

 p.23に“二人は燈火なしで”という文言を見て、最初の場面は夜から始まるのだと分かった。中米の太陽で白く灼かられた漁村の風景ではない。それでまた最初から読み返してみると、老人が漁から帰ってきたところから始まり、少年にビールをおごると言われて(どんな世界だ)、テラス軒という酒場か定職屋かよく分からない店へ行っている。老人と海には語られていない84日の不漁があり、物語に書かれていることは、ほんの薄っぺらい部分でしかない。たとえるなら老人の人生という海に84日の不漁という氷山が浮かんでいて、海から出たわずかな部分が小説なのだ。

 老人は84日の不漁の間もライオンの夢を見ていたに違いない。

 

4回目

 

 小説内ではサンチャゴは84日の不漁を経験しているところから始まるけれど、その前には87日の不漁があって、その後3週間は大きな獲物を毎日取れたらしい(p.6)。だからそれほど絶望感がないのかな。しかし87日間の不漁の時はどうしていたのだろう。「あの子がいたらなぁ」と何度もつぶやいているから、彼が心の支えになったのかな。

 老人が心の中で前に1000ポンドの魚を2度釣ったことがあると言っていたが、グーグルで調べてみると約453kg。日本テレビで毎年年末にやっている大間のマグロの番組を見ていると、100kgのマグロでも船に上げるのは大変そうだから1000ポンドなら超大変だ(ちなみにサンチャゴが取ったカジキは大きすぎるので船に横付けにした)。

 

5回目

 

 サンチャゴがカジキと引き合っている時に飛行機が空を飛んでいて驚いた。でも、作中ではディマジオがどうとか言っているので老人と海は第二次世界大戦の頃の話で、その頃なら飛行機はもちろん潜水艦まである。いわゆる古典と呼ばれる本を読んでいて電話や飛行機が出てくると、おっ、驚くが、歴史的にいえば小説は近代のもので当然当時からマシンガンがあるし、コンピューターもあるし、ミサイルだって飛んでいる。歴史的観点でみれば100年なんて誤差だ。現代に生きる人間にとって令和と昭和は全然違うものだが、文禄時代と元禄時代は二つ一緒に昔のことで一括りにされているようなものだ。ちなみに文禄時代は豊臣秀吉が天下を治めていたが、元禄時代には徳川幕府になっている。理屈で考えれば当時を生きる人にとって大変革だが、今を生きる人間からすればやっぱり昔のことだ。足利尊氏ぐらいまで遡らないと大昔にはならない。あと100年もすれば、2020年にはもう飛行機が飛んでいて驚いた。なんて未来人に言われているだろう。
 小説で潜水艦の描写を見ないのは身近に潜水艦がないからだろうな。潜水艦が足元を通り過ぎるのはクジラが船の下を通り過ぎるようなものだろうか。といってもクジラが船の下を通り過ぎるのかがどんなものかも私には分からない。クジラも身近ではない。

 老人と海における飛行機の描写はたった二行しかない。それが引っかかった理由は、永劫回帰だ。ここ数日、サンチャゴは突然キューバの港に出現して85日目の不漁を背負って海に漕ぎ出し、二日間カジキと引き合い、サメと格闘することを繰り返している。もう一度読んでいる時にサンチャゴは一昨日も同じことがあったぞ、と思い返すことはない。最後にライオンの夢を見れば、一切の記憶は忘却され再びキューバの港に85日目の不漁を背負って出現する。彼はこの後、ボートより大きなカジキをつかまえて、サメと格闘するなんて露にも思っていない。そんなことを考えていると、これは永劫回帰そのものではないかと気付いた。そこではどんな瞬間も無限の厚みを持ち、何一つ逃されることがない。たった二行の、海から外れた空を飛ぶ飛行機のことでさえもだ。なるほどこれが永劫回帰か、と肌で分かったような気がしたが、やっぱり永劫回帰は直感的にありえない気がする。有限の宇宙と無限の時間があればいつかはまた同じ原子が揃うので、私達の人生、そして宇宙が寸分たがわずに繰り返される、というのが永劫回帰の前提だが、私の肌感覚では宇宙は無限っぽいし時間は有限だ。そうでなければTime is Money、時は金なりなんてことわざは生まれない。だが、それはそれとして永劫回帰の思想はロマンチックだ。たとえば今日のような10月の初秋の気持ちのいい朝を1000回繰り返しているとと想像すると肌が泡立つような感じがする。でもさらに、たとえばタンスの角に小指をぶつけて悶絶している時に、これも1000回繰り返していると想像したら、きっと一回で勘弁してくれと思うだろう。やっぱり永劫回帰なんてあって欲しくない。ニーチェだって発狂した。彼だって永劫回帰から解脱したいと思っていたに違いない。

 

※メモ:もし時間が有限とするならば、時の終末以後に時間のない無限の宇宙が誕生するが、それがどんなものなのかは想像がつかない。と考えるのは有限の時間を生きる人間の発想であって、やっぱり時間は無限なのかな。

 

※メモ2: かつて地上は4匹の象の背中に乗っていて、その像達の下には亀がいた。その亀の下にはまた別の亀がいて、その亀もまた別の亀がいて、亀は無限に支え合っている、どこまでも、どこまでも永遠に・・・・・と考えられていた。宇宙の外側には何もない空間がどこまでも、どこまでも永遠に・・・・に広がっていると私は想像しているのだが、実は宇宙も4次元的平面ではなく球体であり、宇宙の端は反対側の宇宙に繋がっているのかもしれない。4次元的球体なんて意味が分からないけれど・・・・。

 

6回目

 

釣りで太刀魚が針にかかるとぬ~っとした手応えがする。カジキマグロはどうなのだろう。老人と海を読んでいる限りではアジやサバみたいにビビビと振動しているイメージはない。マグロとかはテレビで見ていると船の床をバタン、バタンと叩いているので竿の感覚は太刀魚に近いのではと予想する。

 

7回目

 カフカの『変身』は主人公のグレーゴル・ザムサがある朝起きると毒虫(どんな虫かは分からないが原語のUngeziefer的には体の小さな有害生物全般を指すらしい。スカンクとかハクビシンもその内に入るが、カフカは表紙の注文に昆虫を書いてはいけないと言っていたそうなので昆虫系だろう。ちなみに私はアゲハチョウの幼虫をイメージしている。柑橘系の果樹を育てている人なら知っているが害獣に分類される。)になっていたという話だ。もし朝起きてカジキマグロになっていたらどんな気分がするだろう。少なくとも私の布団でそんなことが起きたら、鼻先は枕元の本棚に尽き刺さるだろうし、体の水分を布団に吸い取られて、たちまち干物になること請け合いだ。
『老人と海』ではサンチャゴがカジキになって海の中でカジキと戦いたいと言っていたような気がする。気がするというのは、これを書くにあたってパラッと読み返してもそんな部分は見当たらなかったからだ。とはいえ、それを抜きにしてもサンチャゴはカジキに自分と同じ心があると想定している。それどころか他の人間より一等高い価値を置いている。
 カジキに心はあるのだろうか。昔は魚に限らず人間以外の動物に心はないと思われていた。今でもないと思っている人はいる。何故なら心は科学的に存在すると確かめられないからだ。私に心があるのは自明だが、他人はもしかしたら哲学的ゾンビかもしれないというのはいまだに解決されない難問だ。とはいえ、科学的に証明できないからといって他人に心ないことをすれば、復讐という感情的な報復が返ってくることは間違いない。もっともそれも哲学的ゾンビを仮定すればおかしくはないのだが・・・・・このように心の問題は解決どころか、そもそも存在するのかどうかというところで行き詰っている。
 とりあえず現代の科学がやっていることは知能があるかどうかだ。知能があれば心がある。その逆に馬鹿なら心がない・・・・ということになっている。しかしこれも最初は大きな間違いがあった。
 テナガザルの親指は他の指と対向になっておらず、指が非常に長い。これは木の枝にぶら下がるのに適してはいるが、つるつるしている平らな床から物を拾うようにはできていない。それでTVでよく見るような檻の中にいる猿が棒を使って、檻の外側にあるバナナを取れるかどうかで知能を測る実験をすると、テナガザルの知能は非常に低かった。科学的には馬鹿ということだ。しかし、ある研究者が棒を高い位置に、樹上にある枝を掴むように棒を取れるようにするとテナガザルはあっさりと問題をパスしてしまった。この例のように馬鹿と言われている人も実は今の環境が自分に合っていないだけで、別の環境では天才かもしれない。私達だって裸でジャングルに放り込まれればテナガザルに馬鹿にされるだろうし、海の中なら知能の問題より先に生き死にの問題に直面する。
 現代は科学が宗教の代わりを担っている、言われている。科学で証明できないことは存在しないと考える人は意外に多い。昔々そういう人に、それなら顕微鏡ができる以前に微生物は存在しなかったのかと問うと、そりゃそうだろう、と自信満々の答えが返ってきた。実在と科学的存在では、前者が後者より大きいように思うが、世の中にはそれがイコール、あるいは後者の方が大きいように見受けられる人が多い。もしかしたら彼らの中では生死も存在しないのかもしれない。
 科学的というけれど、先のテナガザルの問題にしても、ある研究者のテナガザルが馬鹿なはずがないという非科学的な直感があったからだ。もしその直感をまず科学的に証明できなければ実験をしてはいけないということになっていれば、テナガザルはいまでも馬鹿なままだった。科学の発見には非科学的なものが関わっている。実在が科学的存在を上回っているのは間違いない。
 心の問題に話を戻すと、一昔前は、内心はどうであれ建前上は、私たち人間はみんな姿形は違っても心は同じ、だから仲良くやっていこうということになっていた。しかし、近年では、脳とか、神経系とか、遺伝子とか、体の中にあるものも違うらしいということが分かってきた。感じ方が違えば考えることも違うはずで、同じ心を持っていると信じることはできないし、たぶん実際に違うだろう(そもそも心は存在するのか!? という問いは脇に置いて)し、それがために一つにまとまれないのだと思う。そもそもの始まりとして、同じ性質の人達は元々うまくいくように『みんな同じ』なら自然にそうなるわけで、そこを出発点にしたのが間違いだったのだと思う。『みんな違う』でまとまるには、ただお題目を掲げるだけではなく広い心を持たなければならないだろう。が、それは難しい。寛容を説く人達だって、いざ受け入れがたい人を受け入れなければならなくなれば、不断の努力をもって排除する理屈を発明するだろう。
 こんなことを書くのは最近あるネットゲーで、突然ギルド主が抜けて私が主にされてしまったからだ。ネットだとテキストのやり取りだけで姿形は関係ないと思われるだろうが、実際はテキストにも個性はある。文学における文体のようなものだ。中にはそりの合う人もいるし、合わない人もいる。というより合わない人と遭遇する方が多い。主をやりたくないというのはある意味ネットの総意みたいなもので、チャットでその出来事を書き込むと大変同情された。しかし、これも一つの経験として、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした多様性っていうのをどこまで受け止められるか試してみることにした。

※メモ:動物にも心があるという人でも植物にはないという人は多い。でもバラやサボテンを育てている私は植物にも心があるように思えてならない。もちろんそれは私達がふだん意識しているような活発なものではないけれど、とても静かで固い意志が感じられる。もし植物に心があるとするならばヴィーガン達は何を食べたらいいのだろう? 生きることは罪深い。

8回目

 

 老人の見立てでは彼の釣り上げたカジキは1ポンド(約0.45kg)30セントで売れるらしい。推定1500ポンドのうち肉は3分の2取れるから、30×(1500÷3×2)で3万セントの計算になる。キューバの通貨が良く分からないけれど、もしこれが巨大なクロマグロが釣れたと類推するならば日本円で100万円以上の値が付くことは間違いない。老人が一人の人間が一冬過ごせるぐらいと言うのだから、やはりそれぐらいではないか。
 ここで不思議に思ったのは老人が金勘定をしていることだった。彼は漁師であり、魚を売って生計を立てているのにふと気付いた。私見だが、何日も魚が釣れないつらさというのは感じられても、何日も収入が無くてつらいという印象はあまり受けない。でもよくよく言葉を追ってみると、マストの帆がつぎはぎだらけだったり、毛布がなかったり、靴がなかったり、少年にエサのイワシや食べ物をもらったりしていて、いかにも貧乏なのだが、あえて意識しないと体に入ってこない。これはヘミングウェイ自身の生業が釣りではなく、小説だったからではないか。だから釣れない苦しみは書けても、釣れないことによる生活のプレッシャーは書けなかったのかもしれない。
 夏目漱石の『吾輩は猫である』でこういう描写がある。《吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。》これを読めば、吾輩は絶対に黒猫ではありえないのだが、私はずっと吾輩が黒猫だと思っているし、今でもそう思っている。市川崑の映画でも吾輩は黒猫だった。そしてこれは舞台裏の話なのだが、夏目漱石の家にいた吾輩のモデルになった猫も黒猫だった。こういうことがあると小説家は結局のところ自分のことしか書けないのでは? という疑問が湧く。また書かなくても伝わることがあるという不思議もある。色んな経験をしておきなさいと言われるのはこういうことがあるからなのかな。

※慇懃無礼という言葉があるように、言葉や態度以外にも伝わるものがあるんだろうな。もちろんそれは証明しようのないものだから、時に言いがかりになったり、水掛け論になるけれど、やはり心というものが現実に対して無視できないほどの影響力を持っているような気がする。













『PCM/月狂四郎』

PCM
月狂四郎
ルナティック文藝社
2020-04-19


 物語に予言は付き物だ。シェイクスピアの『マクベス』みたいなものもあれば日本昔話の『卒塔婆の血』みたいにナンセンス予言もある。『PCM』もまたナンセンス予言タイプかもしれない。主人公の五郎は亀田三兄弟を思わせるボクシング家庭に生まれて、スパルタ戦士さながらの力こそ全ての世界で育つのだが、ある日父親は息子達にこう言い放つ。

見出し画像 20200427 22

「お前たちはボクシングで大成できなければ死ぬだけだからな」

 その予言通り五郎が家出=ボクシングからの卒業を目指すと人生が暗転し始め、途中で色々あるが闇の地下闘技場で勝たなければ死という状況に追いつめられる。
 ちなみにこの闘技場、闇だけあってグローブに石膏が仕込んだ選手が出てきて、対戦相手を無慈悲に打ちのめす場面を最初に見せられる。何でもありというわけだ。

 しかし、五郎は負けたら死という状況で、なぜか卑怯な手は使わない。ボクシング上の駆け引きはしても、グローブに石膏は流さないし、ブレイクの後に後ろから奇襲をかけたり、血を相手の顔に吹きかけたり、相手の足を踏んでラッシュをかけることもない。ただ勝ちたいのではなくボクシングで勝ちたいのだ。

 ここでまた父親の影が出てくる。

 実はこの主人公が家出した理由というのが、自分が見つけた異質なボクシングスタイルで兄に勝ったのに父親に叱られたからなのだ。反発しているようでいて、実は死んでも父親の言う通りになっている。こう書くと父親が毒親のようだが、彼の異質なボクシングは素人にはともかく、プロに全然通用しないのである。フリッカージャブを打つたびにピンチに陥っていく。とうとう最後の砂川という男と戦った時には、全然通用しなくて万策尽きてしまう。

 やくざを得意のフリッカージャブで打ちのめして逃げる手もあったのに、戦いを選んでしまうのは体に染みついた父親の予言をなぞってしまったのかもしれない。

 そうだ。父親ではないが父親のようなことをする人間がいる。それは地下闘技場でやくざが用意したセコンドの日下部だ。彼は五郎の父親とは違って、口は出すし、手も出す(ミットを着けた手で)。

 父親の予言通り五郎がボクシングで大成して幸せを掴むのか、失敗して死ぬのかはどうでもよくて、究極のところ五郎が予言を無視できるかに尽きるんじゃないのかな。

 さて、実はもうこれ以上は書くことがない。

 結局『PCM』ってなに? ということだが、

 ・・・・うん、そうだな・・・・

 それはつまり・・・・
人生・・・・だあっ!
キャシアスクレイのグローブ

(未完)

このマンガがオススメなんだ。闇の闘技場が出てくるんだ。



※余談だが題名の『PCM』とはパチンコで負けたの略らしい。それと表紙はえっちだけど、えっちしない。

牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪

『Word.1/藍田ウメル』

見出し画像 20200427 01

 『word.I』はそれほど長い小説ではないが、何日かに分けて小刻みに読んでいて、最初の日に脳内で流れたのがコレ。

"君の運命の人は僕じゃない"

 Oficial髭男dismのPretenderだ。

Pretender
ポニーキャニオン
2019-10-09


 主人公はクラスで流行っているえっちなイタズラから、とある女子を救って(正確には別の女子が救った)、それがきっかけ好きになるわけだけど、その子には好きな子がいるというのを感付いてしまうところでさっき引用した『pretender 』がかかるわけですよ。

 さて、この小説、「実はスゴイ自分」なんていない。という主人公の独白で始まるが、この男モテモテである。意中の子には自分以外に好きな人がいそうだからと落ち込んでいるが、その子以外にはずいぶんコナをかけられているし、時には付き合ったりする。意中の子にしても小説が成立するぐらいドラマがある。おまけに第一志望の高校に受かる秀才。将来は医者を目指している友達は落ちている。この主人公がスゴくないなんてことがあるだろうか。いや、ない。

 それでもこの小説の主人公は悲劇というか苦しい状況に襲われる。運が悪いわけでもない。よくよく考えてみると、どれも避けられるもので、身から出た錆という感じがある。まるで自分から苦しみを求めているようだ。
 その視点でこの小説を読んでいると、もし仮に意中の子が「····わたしもあんたが好きやけ////」という展開になっても、この主人公は台無しにしそうな雰囲気がある。それにこの主人公、好きになるのは誰でも良くて、好きになったら絶対にダメな相手だからこそ好きになった可能性がある。

 つまりこいつは····

ダメな自分を楽しんでいるんだよ!

 ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるマルメラードフと同じ人間。人間失格。最後は酒の飲みすぎで死ぬだろう。もしかしたらドラッグか、ギャンブルかもしれないが、心の底では破滅を望んでいる。一点の曇りもない100%完璧なキラキラの幸せだけが欲しい、それ以外はいらない。そうでないなら0でもいい。そんな奴だ。

なにが「スゴイ自分はいない」だ。ふざけやがって!

本当は自分がスゴイと思っていることの裏返しじゃねえか!

こいつはナルシストの臭いがぷんぷんするぜっ!

 今ここに堕落する快感に浸る耽美小説が誕生した。しかもこの小説、三か、四部作になるらしく、まだまだ堕落の余地を残している。実はスゴイ小説なのでぜひ読んで欲しい。藍田ウメルは今最高に文学している作家の一人だ。

(おわり)

※このブログ記事は牛野小雪の個人的な見解であり、作者の意図とは全く関係ありません。

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『天国崩壊/伊藤なむあひ』

 この小説には徹底されたものが二つある。登場人物の匿名性と、くどいほどのコマーシャル的な形容詞だ。

 登場人物は少年や母親、彼女、店長と、代名詞や血縁関係、社会的地位で表される。ミカとかYPという名前も出てくるが偽名である。

 形容詞はコマーシャル的でいかに価値があるか(あるいは無いか)をくどいぐらいに説明している。たとえばこんな具合に

汁漏れを心配する人が商品を入れるレジ袋
多目的トイレ
A5ランクの和牛焼き肉
センサーでライトがつく
100円均一の造花

✳作中では太字ではない

 これが意図的なのはYP の実況描写で明らかだ。

 まったくこの小説は資本主義的である。資本主義における人や物は画一的かつ匿名的で、いかに価値があるかラベル付けされている。牛肉にはハナコとかベーコという名前はなく、どこそこ産だとか、何とか公認だとか、作中でもあるようにA5ランクのラベルが付与されている。肉屋のおやじは誰だか知らないし、コンビニのレジが誰かも知らないし、バスの運転手だって誰かも知らない。そしてみんな交換可能な存在だ。総理大臣ぐらいなら名前を知っているが、それだって一年毎に変わる時もあった。社会にとって、かけがいのないものなど存在しないのだ。

 しかしそこで生きる人にとって自分の肉体だけはかけがえのない例外的な存在だ。作中に出てくる賢い彼女はピンサロである男と性行為すると、『接客』の手順から離れ、ミカではなくなり、「あ」という声を戸惑って出してしまう。

 さて、この小説は『天国崩壊』というだけあって、天使が出てくる。しかし天使は『アイス』という薬物か何かよく分からない物の材料にされているだけだし、天使病なんて病気は死んでしまうというのだから恐ろしい。彼らは本当に天使なのだろうか。どちらにせよ一つだけ言えることは決して天使は良いものではない。というより最後の人間達の反応を見ていれば悪いもののように思える。

 考えてみれば天使とは天国に住んでいる存在で、この世ではついぞ見たことがない。私も見たことがないし、誰かが見たという噂も聞いたことがない。天国も天使もあくまであの世のことであって、この世では存在が許されていないようだ。天使病であの世に行くというのは言い得て妙だ。しかしその天使によると、天国は崩壊してしまって、もう存在しないようだ。天使も次々と死んで最後には一人もいなくなってしまう。

 コマーシャリズムと匿名性によって神も天使も死に絶えた世界だけど、

地獄がまだ残っているぞ!

 地獄の存在は天使によって示唆されている。

 地上に残された人間達が悪魔病にかかっているのか、それとも人間病にかかっているのかのかは分からないが、健康そうに見えないのは確かだ。人間崩壊も近いように思える。人間が壊れたら、次に出てくるのは悪魔だろうか。その悪魔は人間にとって良いもの?

 一つだけ言えるのは神は死んだし、天使も死んだ。でも世界は変わっていない。人間が大いなる正午を迎えることができるかどうかはカウントダウンに委ねられた。でも個人的な意見を言わせてもらうなら、彼らはあたらしい国へ行くのではなく、待つ人達であるから行く末は暗いように思える。天使の導きもなければ、何かを志向する意志もないので、どこへも行けないだろう。もっと悪ければ地獄行き。その意味では、やっぱり『天国崩壊』という題名は良い命名だと思う。

(おわり)

天国崩壊 (隙間社電書)
伊藤なむあひ
隙間社
2019-12-14


読後に見よう









参考文献
ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)
フリードリヒ・W. ニーチェ
河出書房新社
2015-08-05



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ヘミングウェイの翻訳に気を置く

 この前、青空文庫にヘミングウェイの『老人と海』があるのを見つけた。外国の作家が青空文庫にあったのもそうだし、ヘミングウェイがパブリックドメインになっていたのにも驚いた。彼の死後50年経っている。他の作品はないので『ヘミングウェイ パブリックドメイン』で調べてみると、戦争期間中の著作権は伸びて計算されるので(国によって著作権の保護期間は違う)、戦後に出版された『老人と海』はパブリックドメインになり、戦前の作品はまだパブリックドメインではないという不思議な状態なのだそうだ。ちなみに全ての作品がパブリックドメインになるのは2031年。

 前に『老人と海』の語句を調べていて、日本語でも分からないので原文から意味を探っていると、意外と意訳が多いことに気付いたし、段落や文章のつなぎ方や切り方も違うことを知った。

 絞轆(こうろく)というサメを吊るすために使った道具があるのだが、私ならそれを吊り鉤と訳すだろうとか考えていた。英語で読みきった本なんて『不思議の国のアリス』ぐらいの人間が不遜にも翻訳家に茶々を入れたわけだ。ちょっと気にかかったところなんかは頭の中で訳して、それが手元の『老人と海』と違うと、ちょっと嬉しくてグフフと心の中で含み笑いをしていた。私が読んでいたのは新潮文庫版の福田恆在という人が訳した物で発行されたのは昭和41年。それから元号は二回変わったし、そりゃあ時代的な文章だと感じるわけだ。

 そういう経緯もあって『老人と海』がパブリックドメインになったのなら自分で翻訳して公開してやろうという野心を抱いた。しかし翻訳する前に他の翻訳はどうなのかと光文社版の『老人と海』を読んでみたら、現代風のすっきりした文章になっていたので驚いた。2014年の翻訳らしい。マジか。と何度も心の中で驚きつつ、最後まで一気に読んでしまった。これがあるならあと20年は訳す必要はない。

 そう思っているくせに、グーテンベルクから原文をコピペしてローソンで印刷してきたり、英和辞典を二つ本棚から引っ張り出してきたり、訳そうとする色気が消えてくれない。色気は消えないがまだ一文も翻訳していない。結局どうしたいんだか自分でも分からない。今のところ翻訳する気はないが、翻訳しない気もない。もしかしたら20年かけて翻訳するのかもしれない。ないない尽くしだが原稿のコピーは机の上にある。

(おわり)
ヘミングウェイ






『三日吹く風 The three-Day Blow』ヘミングウェイ

 ニックとビルのやりとりがいい。というかそれだけの短編。失恋の暗さをどうでもいいようなことを話しながら過ごして、三日吹く風がみんな吹き飛ばしてしまったみたいに、ニックは元気を取り戻す。そういうところがいいんだろう。と思ったけど、読み直してみるとビルがマージョリーの話を持ち出してニックは暗くなり、ビルが復縁の可能性があることを示唆してニックは元気になる。まぁやっぱりビルとのやりとりが肝の短編であることは間違いない。

 
以下調べた単語。

ワグナーリンゴ-英語でwagener。日本では馴染みがないが、そういう品種があるらしい。

大きな実がなる丈夫な品種で、1791年にジョナサンという品種と共に栽培された。

ジョナサンとワグナーがかけ合わされたのがアイダレッドという品種。こちらもあまり馴染みがないがジョナゴールドに似ている味らしい。ジョナゴールドはスーパーで売っているので、ぜひ参考に。

 

コテッジ-家具やベッド、トイレがある山小屋みたいな物。壁と床だけの物はバンガローというらしい。家とどう違うのかは不明。『三日吹く風』では夏に使用する田舎の小さな別荘(あるいは拠点)みたいな意味だと思う。

 

テン・マイル岬-tenmile creekという小川はミシガンに限らずアメリカ中どこにでもあるっぽい。それでシャールボイというのを調べてみると、東部ミシガン州にある。それで一つ前の『ある訣別』に遡ると、ニックとマージョリーが虹鱒を釣りに行ったのがホートンズ・ベイ(horton bay)で、これもやはりミシガン州にある。五大湖のところ。それでgoogle map horton bayのあたりを調べていると、北の方にニック・アダムズ自然保護区という場所があった。ヘミングウェイ・ドライブという道路もある。たぶんこの辺が物語の舞台なのだろう。テンマイル岬の具体的な場所は分からなかった。

 

アイリッシュウィスキー-アイルランドで作られたウィスキーのこと。スコットランドならスコッチ。

 

泥炭-でいたんと読む。文字通り泥の炭。石炭の一種。スコッチウィスキーを作る際、発芽させた大麦を乾燥させる時に泥炭(ピート)が使われて、それが独特の風味になる。

 

ヤマシギ-クチバシが長いハトみたいな鳥。毛は茶色っぽくて地味な色をしている。フランスでは禁猟になるほどだから、たぶん美味しい。

 





『老人と海-The Old Man and the Sea』を読んで調べたこと

老人と海

あやふやな語句を調べながらヘミングウェイの『老人と海』読んでみた。読んでいる時間より調べている時間が長かった。現代国語の授業を思い出した。

 

巻綱-まきづな。まきあみではない。この綱でカジキを引っ張る。綱は使いやすいようにまいてあるのだろう。こんな風に。
001巻き綱

短すぎとは言ってはいけない。

 

魚鉤-やす。犯人ではない。魚に引っ掛けて船や陸に上げる道具。グーグルで調べると柄の長い物が出てくるが舞台はキューバなので映画『ラストサマー』に出てくるような柄の短いタイプだろう。それはきっとこんな形をしている。

002魚鈎

-もり。槍みたいな漁師の道具。穂先はワイヤーや綱に繋がっていて、魚に刺さると柄から外れる。穂先は魚から抜けないように返しが付いている。それはこんな形をしている。

003 銛

 

マスト-船に立てて帆をはる道具。マストを立てるということは老人の舟は帆舟ということになる。舵を握るという箇所もあるからきっとそう。表紙の絵は手漕ぎ舟だが、実際の老人はこんな形の舟に乗っていたはずだ。

004 マスト

帆という字が出てくるのは、かなり後半、カジキがサメに食べられてからで、それからも帆の描写は見当たらない。しかし、帆の下隅の綱をおさえていただけなので、帆は張っていなかったのかもしれない。マストと帆は持っていったが、風がある時にだけ立てて、それ以外の時は舟に寝かせているという可能性もある。でもサメに襲われながら港に帰っているので帆を立てて舟を進めているような気がする。

そのへんを気にしながら、もう一度読んでみるとp.111帆のはらみかたを見ればとあったから老人は帆立てて舟を操縦していたのだ。。

 

 

蝕壊地方-しょくかいちほうと読む。蝕壊を国語辞典で調べても見つからなかったので広辞苑も出してみたが、それでも見つからなかったのでネット検索すると、まさに『老人と海』に出てくる蝕壊地方とは何ですかというのがトップに何件か出てきた。何だか要領は得ない答えなので自分で考えてみた。

該当箇所は“両手にはところどころ深い傷跡が見える。綱を操って大魚をとらえるときにできたものだ。が、いずれも新しい傷ではない。魚の棲まぬ砂漠の蝕壊地方のように古く乾からびていた”と書いてある。このことから老人の傷は擦傷であることがうかがえる。そして魚の棲まぬとあるから川っぽい見た目だけど、潤いのない感じのはずだ。

 それらの考え合わせると老人の手には無数の古い擦傷がこんな感じであったに違いない。

005 蝕壊地方

生命線とか指紋は面倒なので省きました。傷跡はもっと真っ直ぐかも?

 

まかじき-鼻先が角みたいに伸びた魚。老人が釣った魚でもある。カジキマグロと呼ばれるがマグロの仲間ではない。でも刺身はマグロに似ている。というか元々カジキの刺身が食べられていて、それがいつからかマグロの赤身に変わったそうだ。とても美味いらしい。

 鼻先の角はだてに付いているわけではなく武器としても使うらしい。突いてよし、叩いてよし、万能の道具である。それはこんな形をしている。

006 まかじき

 

ハバナ-キューバの首都。文学とキューバは相性が良いのか村上龍もハマっていた時期がある(今もそう?)。ちなみにキューバはこの辺にある。

007 ハバナとキューバ

ハバナでバナナが取れるかどうかは分からないがキューバ料理にはバナナを使うらしい。『老人と海』でも老人と少年がバナナのフライを食べていた。

 

鮫の肝油‐さめのかんゆ。字の通りサメの肝臓の油。それだけ聞くとオエッて思うけど、子どもの頃に毎日一粒だけ食べさせられていた謎のお菓子『肝油ドロップ』の材料が鮫の肝臓(タラとかエイも使う)だと知って、ちょっと驚いた。シャチも鮫を襲って肝臓をむさぶるというし、けっこう美味なのかもしれない。それに栄養満点だ。作中でも吊り上げられた鮫工場で最初に肝臓をえぐるという描写がある。84日が続いても老人が死ななかったのは、毎日これを飲んでいたからかもね。鮫の肝油すごい。

 

つむぶり-ぶりという名前がついているがブリではないし、ブリの仲間でもない。でもブリに似ているへんな魚。ひれがちょっととげとげしい。食べ方はブリと同じっぽい。

 

ひらまさ-へい、らっしゃい、という掛け声が聞こえてきそうな名前の魚。ブリに似ているが、顔はどことなくマンボウっぽい。見た目がブリに似ているので食べ方もブリっぽく。


絞轆-こうろく。また辞書を引いても出てこない単語。ネットでも絞轆、意味分からん。たぶん魚を吊り上げて解体するもんだろう的なものが出てくる。それで原文から絞轆らしき単語を見つけて検索してみた。原文は“…where they were hoisted on a block and tackle,theyつまり鮫たちがblock and tacklehoistedされていたというわけで、このblock and tackleなるものが絞轆だろう。検索すると一発で出た。

 絞轆とは天井に付けた滑車とフックで重たい物を持ち上げる機械である。それはこんな形をしている。

008 絞轆

なぜ滑車を使うと重たいものを持ち上げられるのかは理科の先生に聞いてください。

 

舟の横木-ふねのよこぎ。船体を補強するために横木。それはこんな風にはめこまれている。

009 舟の横木

斜めの場合でも用を足すが、その場合は斜木というのだろうか? たぶん横木だろうけど。

ここに腰掛けたり物を置いてあるような気がするけど、折れたら大変だから、そっとしておいた方がいい。

 

-しいら。頭が上に出っ張った不良みたいな頭を持つ魚。それはこんな頭をしている。

010 しいら

成魚は2mを超え、色味は派手々々しく、脂身は少なく筋肉質。ますます不良っぽい。しかし高級魚らしい。別名マヒマヒというアゲアゲな名前を持っている。やっぱり不良っぽい。

 カジキを引っ張っている時にシイラを食べると吐くかもしれないと老人が思っているのが不思議だったが、シイラは脂身が少ないので腐りやすいそうだ(なんで脂身が少ないと腐りやすいんだろう?)。だから吐き気を感じたのだろう。

モスキート海岸-ニカラグアにある海岸。老人はここで何年も海亀を取っていたらしい。ということは生粋のキューバ人ではないということだ。何か政変でもあったんだろうか。

 

棍棒-木でできた棒。魚を〆るために使う。人間や他の動物を〆る時にも使われる。

 

ポンド-約0.45kg。人間が一日に消費する大麦の重さらしい。老人の見立てではカジキは千五百ポンドなので、675kgのカジキということになる。ちなみに築地に持ち込まれた大マグロで史上最大の重さは2018年現在、1986年の496kgだからとんでもないことである(世界最大だと680kg)。マグロとカジキは違うけどね。

 

アトウェイビール-キューバで作られているビール。1959年には国内シェアが50%以上。小規模生産の高品質なビールを造っているそうだ。詳しくはここを。あとは君たちの目で確かめてくれ

http://www.hatuey.com/


大ディマジオ
-アメリカの野球選手。1914年生まれ。マリリン・モンローと結婚していた時期がある。骨の蹴爪は英語版ではbone spurとなっている。それを検索すると骨棘という病気だと分かった。踵骨棘は40~60代と中年期に発症しやすいそうなので、物語の舞台は1946~51年だろう。

 

燐光を放つ藻-夜光虫のこと。明るい時は赤く見える。通称赤潮。これがあると魚は釣れないらしい。

 

あじさし-カモメに似ている鳥。頭が黒っぽい。空中からダイビングして魚を取るそうだ。アジを食べるからあじさしだとか。さしという鳥がいるのかと調べると、それはいない。たぶんアジを嘴にくわえているのが、アジを刺しているように見えたのだろう。こんな風に

011 あじさし

 

-ひろ。大人が両手を伸ばした範囲を尋という。1.8mぐらいのことをいう。100尋なら180mということだ。

 

槍烏賊-やりいか。槍の穂先みたいな形をしているから槍烏賊。死ぬと茶色くなる。岸壁でも釣れるイカ。どうでもいいことだけど、イカの頭はお腹らしい。内臓があそこに詰まっている。もし人間がイカになったら、とっても不便だろう。こんな風に

012 イカとイカ人間

きっと世界がさかさまに見えるだろう。肩こりには悩まされないだろうけど頭痛には悩まされそうだ。

 

飛魚-とびうお。胸びれが羽のように大きい魚。ひれが風を受けるので空中を滑空できる。こんな風に

012 とびうお

腹びれも大きいので垂直翼の役割があるのだろう。このひれで直進したり、左右へ飛行進路を変えてそう。

 老人は生で食べたが、刺身より調理した方が美味いらしい。でも本当に新鮮な物は美味いそうだ。シイラの胃の中から出でてきた二匹の飛魚は新鮮といえるだろうか?

 

海燕-うみつばめ。アシナガウミツバメという種はいるのだが、どうも作中のウミツバメとは違うような気がして、ウミツバメ科を探せる範囲で探してみたが、どうもアシナガツバメぐらいしかキューバには生息していないっぽい。それで英語版をあたってみるとウミツバメはsea swallowsとなっているので検索した。すると上に出てきた“あじさし”が出てきた。sea swallowの前に”dark terns”とも書かれているのでTernを調べるとやっぱりあじさしだった。海燕=あじさしで間違いない。

 

かつおのえぼし-透明のくらげ。刺されると電気が走ったような痛みがあり、最悪死ぬ。太平洋沿岸にも生息しているので台風の後に海岸へ行くと浜に打ち上げられたかつおのえぼしを見ることができる。

 

びんなが-びんながまぐろのこと。小型のマグロで胸びれがながい。

 

フィート-0.3m。足の大きさが基準だとか。老人が釣ったカジキは鼻先から尻尾まで18フィートだったので6.3mあったということ。ちょっと大きめのダンプカーぐらいある。

 

へらつの鮫-へらつのざめ。英語版ではshovel-nosed sharkとあるので検索するとエイみたいな魚が出てきた。もちろんエイっぽい見た目なのでエイだった。一応肉食だが1mぐらいなので作中の描写と一致しない。それで、へらつの鮫が出てくる後に老人が言った「ガラノーだ」から、Galanosで検索するとヨゴレという鮫がヒットした。胸ひれの先に白い模様があるのも作中の描写と一致している。人を食いサメであり、こんな悪そうな外見をしている。

013 へらつの鮫

人間より大きくなるサメ。もし海中で出会ったら『アヴェ・マリア』を百回唱えてみよう。あきらめてはいけない。生還例もある。

 
ガラノー―ガラノーとはヨゴレのこと。上のへらつの鮫のこと。

リゲル星-オリオン座の右下にある星。オリオン座はこんな形をしている。

014 リゲル星

右下の一番大きいのがリゲル星だ。

 

小判鮫-こばんざめ。鮫という字がついているが鮫ではなくスズキの仲間。頭の上に小判模様の吸盤がある。草履で踏みつけられたようにも見える。へえ、旦那。とか言いそうな愛嬌のある顔をしている。食べると美味いらしい。

015 こばんざめ

昔々、海遊館でジンベエザメにくっついて泳ぐコバンザメを見たことがあるが、最近はジンベエザメに嫌われて別の水槽に引っ越したそうだ。コバンザメで生きるのもラクじゃない。

 

輪索-わなわ。綱を輪っか状にした物。それはこんな形をしていただろう。

016 輪索

この輪っかに老人はカジキの尻尾を突っ込んだのだ。こういう風に

016 輪索2

輪っかを閉めると尻尾の付け根で綱が締まって魚が動かなくなる。それで舟で運べるようになるというわけだ。

 

デンツーソ-たぶんホオジロザメのこと。Dentusoが何者なるか英語→日本語では出なかったので、英語→スペイン語で調べると大きな歯を持った者とかいう不思議な意味が表示された。でも鮫であることは間違いないので、大きな歯を持つサメを調べると、やっぱりホオジロザメしかありえない。超大穴でメガドロンもありえるけど。

 ホオジロザメは大型のサメで1945年にはキューバで6.4mのホオジロザメが捕獲されている。もしヘミングウェイがこの鮫をモチーフにしたのなら、フィートのところで説明したようにカジキの大きさは6.3m。舟はそれより小さい。老人はカジキより自分の心配をした方が良さそうだ。ええい、デンツーソめ。

017 デンツーソ たたかい 2


(2022年12月4日追記)

 コメント欄でデンツーソはアオザメではないかとの指摘があり、読み直してみました。すると

”それはふつうの鮫のピラミッド型をした歯とは違う”

という記述がありホオジロザメとは違うことが判明しました。他にも

”歯が八列、内部に向かって並んでいる”

などの描写も合わせるとやはりアオザメだと考えるべきだと思いましたので訂正します。
 ちなみにアオザメは日本でははんぺんの材料として利用されているようです。カジキと違って身近にある食べやすい食材なので今夜はおでんにして食べてみると面白いかもしれません。

 名無しのおやすさん、ありがとうございました。

※余談:サメ映画の金字塔『ジョーズ』ではホオジロザメをモデルにしていますが『ディープブルー』というサメ映画ではアオザメがモデルになっています。



  (以上をもちまして 老人と海を読んで調べたこと おわり)

『東京死体ランド/伊藤なむあひ』

『東京死体ランド』の世界には生者と、死体が存在する。現実の世界も同じだが、この世界の死体は生きている人間と同じように喋ったり、歩いたり、タイヤを売っていたりする。生きている人間と変わらないようだが、死体はやっぱり死体で両者には壁がある。そして死んだ人間は生き返らない。

 この物語の中では生者は珍しい存在のようだ。人だけではなく町も動物も死んでいっている。町田市は死体のリス達によって町田リス園になろうとしていて、新宿では「あんたらまだ生きているのかい」と言われるほどだ。この世界では生者が異物のような感がある。

 東京死体ランドは死体の世界の一アミューズメント施設にすぎない。それを壊しに行ったところで何になるのだろう。東京死体ランドは死体しか入れないのに、彼らはどうやって中に入るのだろう。しかし、僕たちふたりは東京死体ランドに入って、ぶっ壊しにかかり、物語の最後に主人公の僕は愉快な体験をして、将来の幸せに思いを馳せる。

 この物語はハッピーエンドなのだろうか。ハッピーかどうかで言えばハッピーだろう。でもそこはかとない儚さもある。きっとリス園のリーダーなら前歯を剥き出しにして戦いを始めるだろう。リーダーが簡単に捕まってしまうぐらいだから、リス園のリスたちはきっと無力なのだろうけれど、彼らの存在はこの世界の慰めになるだろう。

東京死体ランド (隙間社電書)
伊藤なむあひ
隙間社
2018-09-03





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『ある訣別 The End of Something』/ヘミングウェイ

 物語の冒頭に材木にする丸太が使い果たされて、打ち捨てられたホートンズ・ベイという町の描写から始まる。ニックとマージョリーはそのホートンズ・ベイのそばにある湖をボートで釣りをしている。題名にある通り二人は別れようとしているのだ。

 
 別れる理由ははっきりしないがマージョリーがニックの何もかも知っていることだと示唆されている。始めもニックはマージョリーの知らないことを色々教えて、それを彼女が面白がっているのが嬉しかったのだろうが、どんどんネタ切れしてきて苦しくなったのではないだろうか。

 

 倦怠期の男女がそのまま別れるような短編だが、もう少しひねって読んでみるとマージョリーはニックのことを何でも知っているのに、ニックがマージョリーについて知っているのは彼女が何もかも知っているということだけに気付く。それ以外にマージョリーはどういう人間なのかは窺い知れない。

 

 実はマージョリーはどんな人間でもなく中身のない空っぽの女なのかもしれない。彼女の人となりを表す一文として“彼女は釣りが大好きなのだ。という文章が出てくるが、その後に“ニックと一緒に釣るのが大好きだった。”と付け加えられている。そういうことを意識して読んでいくとマージョリーの言うことなすことの中心にいつもニックがあるような気がしてくる。ニックありきの彼女に最初は面白かったのかもしれないが段々嫌気が差してくるというのはよくある話だ。

 

ホートンズ・ベイがニックとマージョリーの比喩だとするなら、10年前に丸太が使い果たされた打ち捨てられたホートンズ・ベイだが今は二番生え、つまり一度切られた木が伸びていることが書かれている。収穫する価値がないのか、収穫する術がないのかは分からないが収穫できる何かはあるのだ。

 

 最後の最後にビルという人物がやってきてニックにマージョリーと別れたか聞くのだがニックは不機嫌に彼を跳ね返す。そういうところを見るとニックにとって不本意な別れだったのかもしれない。でも今の彼にはそうするしかなかったのだろう。

(2018年7月1日 牛野小雪 記)


2017年に読んだkindle本

このKindle本を読め!王木亡一朗強化週間『ライフゲージ』

心身共にうんたらという言葉がある。困憊でもいいし、爽快でもいい。

 そこに至るまでに心と身体が一緒に困憊したり、爽快になることは少ないように思われる。国道の端から端まで走れば、まず体が困憊して、それに引きづられて心も困憊するだろうし。でもそれが駅伝で、地区優勝を取ったとかであったなら心は爽快になり、体の疲れも吹っ飛ぶ。ということを理解するのにあまり苦労はしない。
 
 心と身体は独立して存在するのではなく、お互いに影響を与えながら生きている。

 心を臓器として考えればもっと分かりやすいかもしれない。肝臓がダメになれば、他の部分もダメになるし、他の部分が頑張ることによって、ダメになっている肝臓が踏ん張って持ち直すということもある。かといってある臓器だけを気にかけていても、他の部分が全然ダメになることだってあるだろうし、全てに気をかけていても、いつの間にかどこかがダメになっていたというのはよくありそうな話だ。

 人生だって同じようなものだ。お金は大事だけどお金ばっかり追っていると落ち着かない人生になるし、かといってお金を気にかけないとみじめな人生になる。人に気をかけていても嫌われることはあるし、気に入られようとしなければ気にかけてくれることはない。魚心あれば水心あり。

 一度だけの人生。心をどこに置こうぞ。・・・・・なんて真面目に考えるには人生は重たすぎるのだ。誰も人生を背負うことはできない。そうできていると思い込んでいる人はいるけど。

 人生はシュミレーションゲームではなくシューティングゲームみたいな物。障害物に気をつけながら目の前に現れた敵を撃ち倒すこと。次に何が出てくるかは分からないし、敵は前から出るとも限らない。上下後ろどこからでもありだ。とにかく倒しまくって敵を倒し、、、まくらなくったって良いんだな、これが。生きてる限り前に進む。考えてみたら残酷だよね。今はもう2017年だけど、2016年もうちょっと待ってくれよって思う時がある。

(2017/01/11 牛野小雪 記)
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『医師とその妻(The Doctor and the Docter wif)/アーネスト・ヘミングウェイ』〜小さな罪の正当化〜

 冒頭で医師は湖岸に流れついた丸太を見つける。しかしその丸太を回収するには手間も費用がかかるので、あえて湖岸から引き上げることもしないだろうから、医師は自分の物にしても問題ないはずだと考える。
 そうして彼はインディアンの男達を呼ぶのだが、彼らにはっきりと「丸太を盗んだ」と指摘されてしまう。怒って家に帰ってきた彼は信心深い妻に何があったのか問い詰められる。そこで彼は自慢のショットガンの掃除をしながらインディアンの男は彼に借りがあるものだからケンカを売ってくるんだと嘘をつく。妻はいったんその嘘を飲み込むが、しばらくしてからそんなことは信じられないと嘘を見抜いてしまう。
 医師は最初に丸太を自分の物にしようといて、理屈をこねて正当化しようとした。しかし文明人ではないインディアン達には通用せず、あっさりそれは盗みだと暴かれてしまう。
 その次に医師はインディアンの男が彼に罪悪感を負わせようとするのは彼に借りがあるからだという理屈を考えるのだが、その理屈も神を信じる妻には通用しない。
 しかし妻もインディアンも彼の罪を見破ったが裁くことはなかった。
 そこでようやく医師は冷静になり「すまん」という言葉を口にする。
 この言葉は妻にだけではなくインディアンの男や、丸太の持ち主、自分にも向けられているのではないだろうか。
 罪も認め謝罪もしたせいかようやくこの頃になって医師の心に平和が訪れ、林の中の牧歌的な雰囲気の中で彼は息子と一緒にクロリスを見に行くところでこの短編は終わる。
 いくら理屈をこねて正当化しても感情の底は欺けない。そう考えると最初の丸太のくだりがとても言い訳がましく感じられてくるのである。

(2017/06/09 牛野小雪 記)

追記:クロリスとは黒いリスのこと。本当に黒い。アメリカ中西部ではメジャーな動物なんだとか。






『インディアンの村(Indian camp)/アーネスト・ヘミングウェイ 』〜何故父親は死んだ〜

 ニックがパパと一緒に川を渡ってインディアンの村へ行くとそこには子どもを産もうとしているインディアンの女性がいる。パパはその子を取り上げるのだが、子供の父親は喉を掻ききって死んでいるというお話。
 何故死んだのかという疑問の前に、最初から夫は死んでいたのではないか私は考えてみた。
 少し読み返してみると、最初の方に夫がごろっと寝返りを打ったと書かれている。この時まで夫は生きていたのだ。しかし次に出てくる時は死んでいる。
 ジョージ叔父と三人のインディアンが女を押さえつけている時は上の寝棚でごろっと転がっていたようだ。たぶんこの時には死んでいたのではないか。
 これは象徴的な意味でも現実的な意味でもそうで、出産の場で男にできることは何もない。何なら母親でさえやれることはないのではないかぐらい思っていて、出産は赤ちゃんが自分の力で出てくるものだと想像している。(産むのが楽だとは言わない)
 その証拠に赤ちゃんは産もうとしても産めないし、産まれる時は勝手に産まれてくる。今ちょっと産まれるのはまずいから一ヶ月後まで待ってくれとはできない。赤ちゃんにだって意思はある。力もある。赤ちゃんが産まれようとしない限り、彼(ちなみにこの小説で生まれてくるのは男の子だ)は産まれてこない。 
 そういえばこの短編はインディアンの女が子どもを産めないから(あるいは産まれてこないから)手術しにきたという話だ。彼はまだこの世に生まれたくなかったか、あるいは生まれる力がなかったのだろう。
 出産の場で男は役に立たないから死んだというのなら、何故上と同じ理由で母親は死ななかったのだろう。
 いや、実は母親も死んでいたのでないだろうか。
 まず一つ目に女は出産できずに苦しんでいた。もしニックの父親が来なければこのまま出産の苦しみで死んでいたかもしれない。
 二つ目に帝王切開で子どもを取り上げた時に女が死んでいた可能性はかなり高かった。父が術後に自慢する程度には危ないところを通り抜けている。
 分娩時に母親は助産師(あるいは医者)や出産経験のある女性、色んな人に囲まれているが、基本的に父親の方はその場にいるだけで何もできないし、誰も気にかけてくれない。映画やドラマなら「こんな時、男はなにもできない。じっと待つことだ」なんて言って人生経験豊富な男が肩を叩いてきたりするが現実ではそれもないだろう。それならいっそ出産の場に父親が立ち会わないというのは古代の知恵かもしれない。
 そう考えてみると、子どもが産まれてこなくて苦しんでいる母親の上でごろっと寝棚に転がっている父親の姿がとても不自然に思えてくる。時代的に父親が出産に立ち会わないのが当然の時代だ。なぜ彼は出産が行われる小屋にいたのだろう。
 立会い出産という概念はそう古いものではないはずだ。子どもの頃にめざましテレビか何かの芸能ニュースでハリウッドセレブが立会い出産したというニュースを見て、変わったことをする人という印象を受けた記憶がある。それが日本の芸能人にも広がって、いつの間にか普通の人も立ち会い出産するようになった感じがある。
 現在のアメリカでは立会い出産が当然という風潮があるらしい。父親がへその緒を切ることもあるそうだ。しかし、それを持って日本の男性は昔の風習に縛られているというのも短絡にすぎる。むしろアメリカには父親を出産の場に立ち会わせる何らかの風習、あるいは仕組みがあると考える方が自然ではないだろうか。そこまで考えずただ欧米に対するあこがれで、父親を出産の場に立ち会わせれば何らかの弊害が生まれてしまうだろう。
 そのアメリカにしても昔は立ち会い出産をしていなかったはずだ。小説の話だがスタインベックの『怒りの葡萄』で出産の場から男達が締め出されるシーンがある。
 そうなってくると医師のパパはともかくニックや若い三人のインディアンが出産の場にいることも不思議に思えてくる。なぜ彼らは死ななかったのだろう? 彼らと喉を掻ききって死んだ父親の違いは? そこに生と死を分ける何かがあるのではないか?

(2017/06/07 牛野小雪 記)



小説なら牛野小雪【10万ページ以上読まれた本があります】







『スミルナ埠頭にて(On the Quay at Smyrna)/アーネスト・ヘミングウェイ』スミルナ埠頭はどんな状況なのか

『スミルナ埠頭にて』はヘミングウェイの短編である。
 いきなり地名を出されてもよく分からないが、調べてみるとトルコにある都市。
 そこにどうしてギリシャ難民がいるのかというと、第一次世界大戦でギリシャがそこを占領したから。しかし『スルミナ埠頭にて』の頃にはトルコ軍が奪回して、ギリシャ人が追い払われているという状況というわけだ。
 ちなみにケマルという人物が出てくるがちらっと出てくるが、彼はトルコ共和国の初代大統領である。トルコはトルコでもオスマントルコ帝国と共和国の違いがある。今のトルコはヨーロッパの端っこにあるギリギリユーロ圏の国ぐらいにしか見えないが、昔は広大な領地を持つ国だった。どうして落ちぶれたんだろう?
 しかし、私とわれわれってどういう立場の人間なんだろう?
 何となくトルコが気を使っている相手っぽいからアメリカとかヨーロッパの国?
 謎は尽きないが、逃げていく人達の迫力は伝わってくる短編。

(おわり 牛野小雪 記)


小説なら牛野小雪がおすすめ【良い本あります】

2016年に読んだkindle本

悪人の系譜/月狂四郎

赤ちゃんは言葉を喋ることができない。

「あの、おっぱい吸わせてもらえませんか?」

「お尻拭いてもらえませんかね?」

「そろそろ眠りたいからそっと抱きしめててほしいな」

 などと言葉を出したら非常にびっくりするだろう。

 ある本によれば人間が最初に覚える感情は怒りらしい。

 何かあれば怒る。本当かなと調べてみると赤ちゃんが笑うのは生後数ヶ月たってからで、最初は寝るか泣くからしい。

 

 赤ちゃんにできることは泣くことだけで、これひとつですべての用事を済ませている。中には眠気でも泣くことがあるそうだから大変なものだ(どうやって調べたんだろう?)。

 もしそれが本当なら赤ちゃんからの記憶がある人は「俺は怒りと共に生まれてきた」なんて言うのだろうか。(でも胎児の頃の記憶がある人はいるらしい。そういう人に聞き取り調査したのかな。ほとんどの人は3歳以前の記憶は無くなってしまうそうだ。)

 余裕のある人は笑っている。余裕のない人は怒っている。それがさらに進むとしょげかえっている。

 さて本題に入るとちょっと前に月狂さんの『悪人の系譜』読んだ。

 天龍墓石(とうむ以下トム)は怒っている。いつも怒っている。でも最初はしょげかえっていた。親から有形無形の暴力を受けていた。でも体が成長してくると暴力の方向が反対になった。でも彼の心が癒やされることはないわけだ。

 彼は心の乾きを癒やすように暴力の世界に塗れていく。幸いにも天性の才能があって修羅の世界を気持良く泳ぐことができたが、それでもやっぱり気持ちは収まらない。暴力の方向性が変わっただけで心の傷はずっと疼いている。

 対人関係のトラウマの克服で一番難しいのは、傷を負わせた相手を許すことではなく、過去の自分を許す自分を許せないことだそうだ。「お前、あんなことをされたのにあいつを許すのか」的な。

 トムには妹がいる。彼女も実は心の傷を持っている。彼女は親から虐待を受けていた。彼は彼女を親から救い出し、それから身から出た錆の暴力も救いだした時に何故か母を許すことができる。

 よくよく考えて見るとトムは全然救われていないような気もするんだけど、自他の境界が無いような世界を想像すると彼は自分と同じ境涯の人間を救うことで自分を救っていたのかもしれない。

 かつて何かで苦しんでいた人を見て、それを助けてあげることで自分の中で何かが癒やされることでもあるのだろうか。理屈で考えればいかにもおかしいことだけれどありそうな気はする。

 この世は愛されるよりも愛したいマジでの世界なのかもしれない。

 でもさ、なかなか人って愛せないよね。嫌いになるのは簡単なのに好きになるのは難しい。続けるのはもっと。そういえば赤ちゃんが最初に覚える感情は怒りだっけ? 嫌いってのは怒りを伴っている。怒るのは簡単だ。表に出せるか出せないかの違い。

 ディスるのは簡単で賞賛するのが難しいのと同じで、嫌いから好きへ回転させるのは難しい。自分でさえ持て余す。自分と同じような人間を見つけることができれば何か変えることができるのかな。

 

(おわり)

悪人の系譜


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『私の人生を変えた一冊』/T・S・カウフィールド

『私の人生を変えた一冊』/T・S・カウフィールド


 私はさる理由で地元の高校を受けずに、人里離れた山奥の高校を受験しました。そこにはうまく合格して、私は親戚の伯母の家でお世話になりながら、その高校へ通うようになりました。


 距離もそうですし、地形もそうさせるのですが、ここは陸の孤島であり、知り合いが一人もいない場所で私は静かな安住を得られることを期待していました。しかし、世の中はどこへ行っても同じです。違いは規模が大きいか小さいか。人と物の在りようはどこでも変わらず、私の平穏な高校生活はたった一ヶ月で終わりました。


 阿部君という同級生がいます。同じクラスです。というより人数が少ないので私の学年は1クラスしかありませんでした。その阿部君は身長が180cm以上もあり、体格もかなり良く、クラスメイトから巨人と呼ばれていました。野球部にでも入ればいいのにとみんなは言っていましたが、私の高校は人数が少ないので、野球部どころか、どの部活もまともな活動していませんでした。だからでしょう。阿部君はどの部活にも入らず、力を持て余しているようでした。


 私は最初から阿部君を警戒していました。私は彼がどんな人間か臭いのようなもので分かっていたし、彼のような人間は必ず私に目を付けることも分かっていたからです。私はなるべく彼から離れようとしました。しかし彼の方では何故か執拗なほど私に近付いてきます。何せそこは陸の孤島で逃げ場はありませんでしたし、それにクラスメイトの目もあります。傍から見れば仲良くしようとしている阿部君に私が冷たくしていると映っていたでしょう。そういうことが積み重なると私はいつしか逃げ疲れ、彼と共に行動をするようになりました。


 彼は初め、優しい態度を崩そうとしませんでした。私の方でももしかすると人間不信をこじらせすぎているのではないかと疑った事が何度かあります。でもやはりそれは間違っていました。彼は徐々に親しい態度の中に侮りの態度を混ぜるようになったのです。私はそれに気付くと、ああ、やっぱりそうだったのかと自分の勘の良さに感心すると同時に、またなのかと暗い気持ちになりました。


 決定的な何かをされたわけではありません。というより決して大きなところでは阿部君は私にとても優しい親友でした。もし銃を持ったテロリストが学校に来たとすれば、彼は私をかばって死ぬかもしれない。そう思えるようなところもあったのです。なので私と阿部君は校内で一番仲の良かった二人かもしれません。ただ阿部君はその中で、ことあるごとに私の自尊心を小さく打ち砕くのが日課になっていました。それはわずかに剃り残したヒゲであったり、日常誰にでもあるようなほんの些細な失態であったり、私の言ったことの言葉尻、それらをとらえて大げさにからかうのです。ひとつひとつ取ってみれば何でもないような事でも、積み重なれば山のようになります。山のように積った山に砂をひとかけされると、とんでもない重さになるのでした。また彼は冗談で私を撫でるように殴ったり、つまむように揉んだり、体をくすぐって私を強制的に笑わせたりもしました。


 何度も言いますが、ひとつひとつの事は大したことではありません。どの段階で私が彼に反抗をしたとしても、それは私自身大げさなことだと思ったでしょう。しかし、長い目で見れば彼は私に対して大きな悪事を働いているのです。


 いっそ彼に殴られて骨の一本でも折られてみたい。そう思う事がたびたびありました。もしくは公衆の面前でどうしようもないほど罵られて泣いてしまいたい。しかし、彼は決してそんな事はしません。私は泣くことも傷つくこともできず、ただ優しい悪意を受け止めるしかありませんでした。


 そうやって私は高校一年を過ごし、二年生になりました。私の誕生日は4月の早い時期にあるので、父は誕生日プレゼントにとある本を私にくれました。それはヤマダマコトという人が書いた『金色天化』という本です。指二本分以上はある厚い本で、表と裏は固い表紙でできていました。


 私は特にそれを嬉しいとも思わず、かといってせっかく貰ったものだからと家や学校で暇を見つけては毎日少しずつ読んでいました。すると阿部君がそれを見て、何を読んでいるのかと訊ねてきました。私が『金色天化』だと答えると彼は興味なさげにふ~んと鼻で返事をするだけで、読み終わったら貸そうかと切り出しても、いや、本は読まないと本当に心底興味がなさそうでした。


 私はそれを知った瞬間、光が差したように感じました。阿部君の知らない世界がここにある。私だけがそれを知っている。それが私の中で彼に対する唯一の優越感でした。それからも彼は私に優しい悪事を働きましたが、私は以前よりもそれを楽に耐える事ができました。『金色天化』が心の底を支えてくれたのです。


 私はいつでも『金色天化』を読めるように、毎日学生服の内ポケットに入れて持ち歩きました。そして何度も繰り返し読みました。何度読んだのか自分でも分かりません。一週間に二度三度と読むので、十回や二十回ではきかないでしょう。ページが破れたり、背表紙が割れてもセロテープやボンドで補修しながら使い続けました。


 私と阿部君は三年生になりました。この時、とうとう二人の間に決定的なことが起こったのです。その日は学園祭の準備があり、生徒達は放課後も残っていたのですが、手が空いている人はやることもないので、暇を持て余していました。私と安部君もその中の入っていました。その日の阿部君はいつもと様子が違って、私は何が起こるのだろうとハラハラしていました。しかし放課後になっても何も起こらないままなので、私の勘違いだろうかと疑っていた頃、彼は裏山に行こうと言いました。裏山とは学校のすぐそばにある、校庭と繋がった山のことです。植林された太い杉が何本も伸びています。


 何か悪いことに私を巻き込もうとしているのだな。私はそう思っていました。しかし私と安部君の関係で、私は彼に逆らえないので私は黙って彼の後についていきます。私達はやがて山の中に入りました。暗い杉の下を歩き続け、校舎も小さくなり始めた頃、ふいに阿部君は私の腕を取って一緒に杉の木の影に引き込みました。教師の誰かがこちらを見ていたのでしょうか。私は安部君と一緒に学校の様子を窺いました。しかし視界の先には杉の木が何本も隙間なく立ち並んでいたので、誰の姿どころか校舎の影すら見えませんでした。


 誰にも見えないな。彼はそう言いました。私はその声を聞いて、体中にぞっとする不気味な物を感じました。彼は何故か私をひざまづかせようとしました。私が理由を訊いてもいいからとだけ言って、肩に力を加えます。私はささやかな抵抗をしたのだけれど、彼の粘り強さに負け、その場にひざまづいていました。


 何をされるのだろう。とうとう滅多打ちにでもされるのだろうか。私は密かな期待を抱いていました。彼に容赦なく殴られれば、山を転がるように降りて、誰かに助けを求めようと考えていたのです。顔や体に傷があれば、きっと彼の悪事は明るみに出て、彼には有形無形の罰が与えられるに違いない。そう期待していたのです。


 しかし、彼は私を殴ろうとしていたのではなかったのです。彼は異様に熱い目で私をみつめると、音が出ないほど優しくベルトを外し、ズボンを下げました。パンツも一緒です。私の目の前には剥き出しになった彼の下半身がありました。その中心には肉々しい臭いを放つ一本の太い棒が杉のように天高く伸びていました。


しゃぶれよ。彼はそう言いました。私が意味を飲み込めないでいると彼はもう一度、しゃぶれよ、と言いました。あんな物を口にくわえるなんて、私は躊躇しました。しかし、私はある瞬間までは嫌々ながらもくわえようとしていたのです。彼の腰に手を当てて、いざ口の中に含もうとしたとき、彼は言いました。歯は立てるなよ。

 私はその瞬間理解しました。私はずっとしゃぶられていたのだと。
私は怒りました。私は今まで精神的に殴られていたのではなく、しゃぶらされていたのだとはっきり理解しました。精神的にはずっと安部君の汚い口でしゃぶられていたのです。そして、私は歯を立てない限り、ずっとこれからも、たとえ安部君の元を離れたとしても、彼と同じような人間にしゃぶられ続けなければならないのだと。


私は制服の中にある『金色天化』を掴むと、彼の顔めがけて振り抜きました。ふぐぅっ、と妙にくぐもった声がしたのを憶えています。彼は突然殴られて何が起こっているか分からないという顔をしていました。私はそこに微かな怒りの予兆を感じたので、私は恐怖を感じ、彼に抵抗される前に『金色天化』振り下ろしました。二撃目を受け、彼はやっと抵抗しようとしましたがズボンを下に下ろしていたので、うまく動けなかったようです。足を絡ませると後ろに倒れました。すると背中を強く打って、杉の木の空が震えました。


おおい、何するんだ。助けてくれ。彼は哀れっぽい声で助けを求めましたが、私は怒りと恐怖に刈られ『金色天化』の一撃を何度も彼に打ち下ろしました。殺してしまうかもしれない。そう思ったのも束の間、何度目かの一撃を振り下ろした時『金色天化』が二つに割れ、私の手から飛び出し、地面に落ちると、4つ、5つ、6つ、それから全てのページが分かれ、弾ける様に飛び散りました。


その頃になると阿部君は杉の木の下ですっかり大人しくなっていました。しかし下半身の中心には杉の木のように立派な肉々しい物がそそり立っていました。私はそれを見ると怖気を感じ、逃げるように山を下りました。


こうして杉の木の下を抜け、空の下に戻ってきた時、私は何かから解き放たれた気分になりました。頭上には薄い曇り空が夕日を拡散して金色に輝いています。その幻想的な美しい光を浴び、私はいま本当に生きている、そう心の中で叫び続けました。



(おわり)

↓心の中から震える『金色天化』



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夏目漱石の『吾輩は猫である』を読みながらブログを書く

吾輩は猫である
夏目 漱石
2012-09-27



吾輩は猫である。名前はまだ無い。


有名な冒頭の文章。吾輩には名前がないが実は最後まで無い。名無しの猫のまま物語を終える。夏目漱石も猫を飼っていたが名前はなかったそうだ。随筆で吾輩のモデルになった猫について書いてあるが、そこでも猫とだけ書いてある。ちなみに犬も飼っていて、そちらにはヘクトーという立派な名前がついている。夏目先生的には飼っているというよりは居付いていたという感じだったのかもしれない。

 

吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。


 猫が人間を見た時ってどんな気分がするのだろう。私が幼稚園や小学校の頃を振り返ってみると、上級生や大人は巨人に見えた。絶対あんなに背が伸びないだろうと思っていたけれど、自分がその身になってみると幼稚園や低学年の子がおちびさんと言いたくなるほど小さいものに映った。私は同じ人間同士だから怖くなかったけれど猫は恐くないのかな。立場を変えてみれば家ぐらい大きな猫が近付いてくるようなもの。考えてみればトラは当然としてジャガーぐらいでも身の危険を感じるだろう。

 そういえば野良猫は人間を見るとすぐに逃げる。むしろ人なれしている猫の方が異常なのかもしれない。人間に近寄る同族を見て猫はどう思っているのだろう? 勇者、それとも気違い? ともかく吾輩は肝が太いようだ。


 書生というのは、他人の家にお世話になっている学生のこと。当時はアパートやマンション、学生寮がなかったので、地方から上京してきた学生は、地縁や血縁を頼って東京住みの人に住居を間借りするのが一般的だったそうだ。

 貸す方でも、将来は出世を見込める学生との縁ができるのですすんで部屋を貸してやったこともあるのだとか。もしかして税金控除が受けられたりしたのかも? 誰か調べてくれないかな。


 狢(むじな)という言葉がある。同じ穴の狢という諺もある。元々はイタチ、タヌキ、猫、アナグマを表す言葉を古くは狢と言っていた。猫を学術っぽく言うと狢族猫科というわけ。私の住んでいる近くではイタチが出る。野良猫もいる。タヌキだって見たことがある。見た事が無いのはアナグマだけ。アナグマがどんなものかは知らないが、イタチ、猫、タヌキはとっても動きが似ている。高い所に登るところなんか非常にそっくりだ。

タヌキ汁というものがある。しかし、タヌキの肉はあまり美味しくないらしい。美味しいのはアナグマ。ウィキペディアで調べてみるとタヌキに似ている。でも、アナグマなんてあまり聞かない。それもそのはず農地開発で生息数がどんどん減っているらしい。場所によっては絶滅が危惧されている。でも、本当に美味いのかな? 見た目がイタチっぽくて臭そうだ。

 第二次世界大戦が終わった直後、食糧難の時には犬の肉を食ったそうで、その中でも赤犬が美味いという噂がある。しかし、猫を食ったという話は聞かない。一般的な犬と猫では肉の量が違うし、捕まえやすさも違うから何ともいえないがやっぱり猫の肉はそれほど美味い物ではないのだろう。猫汁は創作物だけに出てくる物なのかもしれない。



掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。


『吾輩は猫である』には薬缶という表現がたくさん出てくる。ハゲていることをさすのだろう。ちなみに猫でも疥癬にやられてハゲることはある。明治時代に疥癬猫に出会わなかった吾輩は良いところの猫なのかもしれない。そういえばこの後、二弦琴のお師匠さんの三毛子や、大分限者の金田が出てくる。意外に良いところに住んでいる? 

 昔々、戦後どころかずっとずっと昔の時代、食うことにも事欠く時代には太っている事が良しとされた。しかし、飽食の時代と呼ばれる現代では逆にやせている事が良しとされている。それならもし、髪の毛を簡単に生やせるようになった時代になればどうなるか。スキンヘッドが流行るのである。無駄毛と同じで、その時代では剃っている事ですら恥なので、みな天然のハゲであるかのように振る舞う。お父さんがハゲてくると、娘さんが「お父さん、やっとハゲてきたね」なんて優しくなったりする。そもそも類人猿から徐々にハゲてきている。ヒゲを剃るのは社会人のマナーとされている。将来的には髪の毛をふさふさ伸ばしていると野蛮人と呼ばれる世界になるだろう。


ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違って無暗に明るい。眼を明いていられるくらいだ。はてな何でも様子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。


前の段落で特に説明は無かったのだが、吾輩は藁の上で育ったらしい。厩か牛舎の中だろうか? ずっと薄暗い所で暮していたそうだから屋根のある場所だったのだろう。猫の子を捨てるのは日常茶飯事みたいで、後の段落でも白君が子猫を四疋生んで、書生がみんな裏の池へ棄てたという描写がある。どこに棄てられたか分かっているのに白君が子猫を持って帰らなかったのは書生が水に沈めて殺したからだろうか。もしかすると吾輩を棄てた書生も兄弟を一度一箇所に集めてから、一緒に沈める予定だったのではないだろうか。そう考えると『吾輩は猫である』のクライマックスは結局運命からは逃れられないという意味が利いていて面白くなる。でも『吾輩は猫である』は一章だけで終わる予定だったので、たぶん偶然だろう。


ようやくの思いで笹原を這い出すと向こうに大きな池がある。


やっぱり書生はこの池で吾輩の兄弟もろとも殺すつもりだったのじゃないかな。ようやくの思いでというぐらいだから、子猫にとってはけっこう広い場所だったようだ。だからこそ書生はひとまとめにしておけると思ったのではないだろうか。


ここへ這入ったらどうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったらなら、吾輩はついに路傍に餓死したかもしれんのである。


良きにしろ悪きにしろ、縁とは不思議なもので、もしあの時あの人と出会わなければというものがある。縁とは望んでも選べない物である。この世の春を謳歌している人も何かひとつ縁がすれ違っていれば世を呪って生きる境遇に落ちていたかもしれない。あるいは逆に暗い場所でくすぶっている人も何かひとつきっかけがあれば、肩で風を切りながら歩いていたかもしれない。この世は理不尽だ。運というもので人生は左右される。


いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上がった。すると間もなく投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上がり、這い上がっては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。


縁に恵まれた吾輩もすんなり苦沙弥(くしゃみ)先生の家の猫になったわけではない。した女のおさんに首筋をつかんで表へ放り出されている。しかし、吾輩は諦めず何度も家に這い上がっている。運は誰にでも訪れるが掴む事ができるのは稀だということかな。しかし、あきらめも肝心という。やっぱり運だ。


※下女とは・・・・現代でいう家政婦みたいなもの。“げじょ”と読む。私は下女と読んでいる。


吾輩が最後につまみだされようとしたときに、この家の主人が騒々しい何だといいながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けてこの宿無しの子猫がいくら出しても出しても御台所へ上がって来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しそうに吾輩を台所に抛り出した。かくして吾輩はついにこの家を自分の住家と極めることにしたのである。


晩年、夏目先生が芥川龍之介宛てに送った手紙にはこう書いてある。

“あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手をこしらえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後から出て来ます。そして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。”

吾輩が何度も何度も台所へ這い上っていると、ついに苦沙弥先生が現れて、内に入れてやれと一言投げかけられる。吾輩は表ではなく台所へ抛られる。根気勝ちみたいなものだ。


吾輩の主人は滅多に吾輩と顔を合わせる事がない。職業は教師だそうだ。


夏目先生は元々高校教師だった。その後イギリスへ留学して帝大(帝国大学、今の東京大学)の教師になった。夏目先生も元々は帝大生だった。今の時代東大を出て教師になる人ってどれくらいいるのだろうか。明治時代に勢いがあるように感じるのは、優秀な大学を出た人が教育を担っていたからなのかな。今の時代、東大を出た人はどこへ進むのだろう。官僚? いや、昔からそうで、夏目先生が特別だったのかもしれない。


学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々しのび足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。


人間が本当に集中できる時間はそう多くないように思う。一日の限界量を集めれば半時間もないはずだ。それじゃあどうやったら集中できるだろう。朝起きた時は頭が冴えているから、昼寝が大事なのかもしれない。夏目先生も昼寝して集中できる時間を稼いだから後世に残る小説が書けたのかも。


彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。

夏目先生も苦沙弥先生と同様に胃弱で胃腸薬を飲んでおられたそうだ。タカジヤスターゼも飲んでいたかもしれない。ジアスターゼとは消化を助ける酵素。デンプンを分解する。


吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度に何とかかんとか不平を鳴らしている。


モンスターペアレントだとかいじめ問題だとか学級崩壊だとか、教師の苦労話はけっこうニュースで報じられる。教師の威厳が無くなったと少し前は言われていたが、夏目先生の『坊ちゃん』では、教師になった坊ちゃんが生徒達から嫌がらせを受けている。昔からそうだったみたい。


吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、主人以外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで名前さえ付けてくれないのでも分かる。


最初にも書いたが吾輩は最初から最後まで名前が無い。どうして何だろう? やっぱり家族と見なされていなかったのかな。猫は基本的に子猫と母猫が一緒にいるぐらいで、仲間と連れだっていることは少ない。犬は野犬でも群れている事が多い。他の猫と一緒にいる事もあるが、他の猫がいるからというよりエサがもらえる場所に集まっているという風に見える。


吾輩は仕方がないから、出来得る限り吾輩を入れてくれた主人の傍にいる事をつとめた。朝主人が新聞を読むときは必ず彼の膝の上に乗る。彼が昼寝をするときは必ずその背中に乗る。これはあながち主人が好きという訳ではないが別に構い手がなかったからやむを得んのである。その後いろいろ経験の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は縁側へ寝る事とした。


猫は何故塀の上が好きなのだろうと思っていたけれど、実はあそこ、夏は冷たいし、冬は日光で暖まっている。猫は体で気持ちよく過ごせる場所を見つけている。私は天気のいい日に屋外で本を読むけれど、野良猫がそばを通る事がある。猫も人間も気持ちよく感じる場所は同じらしい。


しかし一番心持の好いのは夜に入ってここのうちの子供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。この子供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間に己れを容るべき余地を見出してどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く子供の一人が眼を醒ますが最後大変な事になる。子供は―ことに小さい方が質がわるい―猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは物指で尻ぺたをひどく叩かれた。


子供って熱い。なんであんなに熱いんだろう。大人は熱が出たらすぐにへばるのに子供は元気だ。なんだか理不尽な気がする。それに大人になってから病気で熱が出ると、てきめんに体が弱るようになった。子供の頃は40℃ぐらい熱が出るまではへっちゃらだったのに。しかし、苦沙弥先生の子供はどうして猫が恐いのだろうか。私は猫より犬の方が恐かった。


吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼らは我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。ことに吾輩が時々同衾する子供のごときに至っては言語道断である。自分の勝手なときは人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、抛り出したり、へっついの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかかりで追い廻して迫害を加える。


へっついとはかまどのこと。
実はかまどは高度な職人芸が必要とされる家具?である。
かまどに日をくべた時、煙が屋内に入ってこないように微妙な勾配を付けなくてはならない。もしこれが浅ければ家中煙だらけになるし、かといって煙が簡単に出て行くようにしていると今度は熱も一緒に出て行ってしまう。上手いかまどを作れるのは良い職人である。もっとも今はピザ窯ぐらいで職人芸の出番は少ないみたいだけど。

吾輩の尊敬する筋向こうの白君などは逢う度毎に人間ほど不人情なものはないと言っておらるる。白君は先日玉のような子猫を四疋産まれたのである。ところがそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持って行って四疋ながら棄てて来たそうだ。白君は涙を流してその一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を全くして美しい家族的生活をするには人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬといわれた。一々もっともの議論と思う。


昔々、よく家の敷地内で猫を見かけるなと思っていたら、ミーミー鳴き声が聞こえてきた。その音を辿って納屋に入ってみると、納屋で白黒の八割れ猫が子猫を産んでいた。母猫は私を見るとフーと威嚇してきた。それから何度も納屋を覗いていると、ここは安全な場所では無いと悟ったのか、母猫は子猫をくわえると、向いにある空家の庭の藪の中へ移住した。なかなか図太い物で、私が見ていても太いまつげの目で私を見返しながら何度も納屋から向いの家へ子猫をくわえながら往復した。最後の一匹だけは向かいの家へ運ぶのを手伝ってあげた。その時は威嚇せずに、私の手から直接子猫の首筋をくわえて藪の中に消えた。普通の野良猫なら人間を見れば一目散に逃げるのに、この時ばかりは子猫がいるせいか私から逃げなかった。母猫の愛情というのはそれぐらい深いものである。

 はっきり書いているわけではないが、白君が裏の池へ子猫を棄てられて泣いているのはやっぱり水に沈められて殺されたのだろう。実は吾輩も同じ境遇なのではないかと上で推測した。吾輩も笹原を出るのが遅ければ兄弟一緒に水の底に沈んでいたのかもしれない。


また隣りの三毛君などは人間が所有権という事を解していないといって大に憤慨している。元来我々同族間では目刺の頭でも鯔の臍でも一番先に見つけたものがこれを食う権利があるものとなっている。もし相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えて善いくらいのものだ。しかるに彼ら人間は毫もこの観念がないと見えて我等が見付けた御馳走は必ず彼等のために掠奪せらるるのである。彼等はその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪ってすましている。


ドッグフードを食べる猫を見た事がある。犬が犬小屋の前で腹を下にして寝そべっていると、塀の上からのそりのそりと一匹の黒猫がやってきて、余ったドッグフードにかぶりついていた。犬はコーギー犬で、大きさは猫とそれほど変わらない。猫のそばでずっと吠えていたが、撃退する事はできなかった。猫の方が身体能力が高いので戦えば負けただろう。

またある時は犬がドッグフードに頭を突っ込んでいると、猫の方が塀の上で丸くなっていた。食べている途中で強奪はしないようだ。

犬にしてみれば、食べかけのドッグフードだから自分の物と思っていたのかもしれないけれど、猫にしてみれば犬のそばにドッグフードが置かれているぐらいの気持ちだったのかもしれない。くわえていれば所有権あり、離していれば放棄したってことなのかな。


元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書したり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。


夏目先生は初めから小説家だったわけではなく、元は教師であり、詩人でもあった。正岡子規との交流もある。人間どこで才能が発揮されるか分からない。ってことだけど、帝大の英語教師になっているぐらいだから、元々頭の出来は良いのだろう。


後架の中で謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけれらているにも関せず一向平気なもので、やはりこれは平の宗盛にて候を繰り返している。
 

後架とはトイレの事。謡はそれほどうまくないそうだ。


「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ら筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」


苦沙弥先生が絵を描こうとしているが、全然物にならない場面。絵を描くのは難しい。見るのは誰にでもできるのにね。日本語が書けるのに、小説を書ける人がそれほどいないのと似ている。線は誰だってひけるが、絵にするのは至難の技だ。でもやっぱり見る側になると何でもないように感じる事は多い。頭の中と、実際に描ける現実の差があるから絵を描く人が少ないのかもしれない。


吾輩は波斯産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。


吾輩はずっと黒猫だと思っていたけれど、吾輩自身の独白によるとそうではないらしい。波斯産の猫とはペルシャ猫のことだろう。調べてみると毛の長い白猫。そこに黒ぶちがあるらしい。



元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。


人工知能が碁で人間を負かす日は遠いと言われていたが、つい最近アルファーゴーがプロ棋士に勝利するニュースがあった。もしかしたら人工知能が人間の存在を脅かす日もそう遠くないのかもしれない。

個人的には麻雀で人間に勝てるかどうか試して欲しいなぁ。一局だけなら勝負は水物だけど、連荘したらクールな人工知能が勝つのだろうか。

運が絡めば人間でも人工知能に勝てる可能性があるというのは小説のネタになりそう。


「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」

「車屋の方が強いに極まっていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」

「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」

「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」

「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」

「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」

 彼は大に癇癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである。


車屋とは人力車を引く人のこと。今でいうタクシードライバーかな。肉体労働をしているので教師よりは強いだろうなぁ。タクシードライバーと教師だと、どちらが大きな家に住んでいるだろうか。調べたわけではないが教師の方が良いように思われる。


「ところが御めえいざってえ段になると奴め最後っ屁をこきやがった。臭えの臭くねえのってそれからってえものはいたちを見ると胸が悪くならあ」


強さではなく、臭さで敵を撃退することだってある。いたちはそれで生き延びている。似た様な動物のスカンクだってクマは避けて通る。強さだけが武器じゃない。物書きならペンだろうか。


車屋の黒はその後跛になった。彼の光沢ある毛は漸々色が褪めて抜けて来る。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の眼には目脂が一杯たまっている。ことに著しく吾輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなったことである。吾輩が例の茶園で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「いたちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といった。


茶園のボス猫だった黒。彼は車屋から貰うエサだけではなく他から盗んでいたようだ。天秤棒をくらうリスクをとって肥っていたけれど、ついには天秤棒をくらってしまった。

“茶園で彼に逢った最後の日”とあるので、なんとなく黒が死んだように読めるけれど(上でも書いたが本来は一章で終わる予定だった)、続く二章では早々に登場して、牛肉を盗みに行く。天秤棒をくらうかどうかは分らない。


吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもならずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未だに嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終わるつもりだ。


吾輩は黒と違って盗みをしないので肥る事はないが、天秤棒をくらうこともない。

何かをすれば何かが変わるが、大きな目で見れば何も変わっていない。

車屋の黒は、どこまでいっても車屋の黒であるし、吾輩は教師の家の猫だ。



青空文庫で読むとお得。岩波版はAmazonに置いていない

吾輩は猫である
夏目 漱石
2012-09-27



映画になっていた。やっぱり黒猫だ。




牛野小雪の小説はこちらから→Kindleストア:牛野小雪





2015年に読んだkindle本

『ジミー・ザ・アンドロイド/如月恭介』を読む

魂を宿した人工知能ゴッドが暴走。人類に対して戦いを挑み、別の人工知能ジミーがそれを阻止しようとする話。

月狂さんは続編があると書いていた(ペンと拳で闘う男の世迷言/ジミー・ザ・アンドロイド」書評)が、人類の視点で見たジミー&ゴッド(=人工知能)の成長、自立の話として読めば、これで完結だと私は読んだ。如月さんも続編なんか考えていないんじゃないかな。
作中でも人間は親、人工知能達は子供として書かれている。悪の人工知能ゴッドはさしずめ頭だけは一丁前の感情が伴わない思春期のクソガキといったところか。

話の最後で人類からの親離れをしたジミー達は人類の手から離れていく。作中でも書いてあったが、人間を越えた人工知能に人類はついていけないのだろう。
ジミーとゴッドの戦いは恐らく人類には何が起こっているか分からないという戦いになるはずだ。 そもそも同じ能力を持つ人間同士でも子供が精神的に自立したあとは、親は基本的に子供が何をしているかなんて分からない。子供だって親に何をしているかなんて教えない。
親という字が木の上から見ると書くように、人工知能の親である人類は文字通りそれを見ているしかない。

ジミーとゴッド、どちらが勝つにせよ。将来的に人工知能が役立たずになった親(人類)の面倒を見てくれるのか、それとも邪険にうばすて山へ送るのかは人工知能達の問題。親である人類はただ受け入れるしかない。これは人間の親子でも同じような気がする。



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『死ぬかと思って(A Day’s Wait)/アーネスト・ヘミングウェイ』100度の熱で息子が死なない理由

 ヘミングウェイの小説でインフルエンザにかかった息子が体温計で熱を測ると100度と出て、もうじき死ぬんだと思い込む話がある。物語の結末は単位の違いで100度といってもそれは華氏(F→正確には℃のように小さな丸が左上に付くが変換ででてこない。ちなみにFはファーレンハイトと読む。なんだかかっこいい)のことで摂氏(℃)とは違うと諭す話がある。

 ちなみに華氏100度とは37.8度のこと。まぁ死ぬような温度ではない。ストーリー上で最高の102度でも38.8ぐらい。インフルエンザならこれくらいの熱が出てもおかしくない。

 ちなみに華氏における水の沸点は212度、融点は32度。覚えておくと何かの役に立つかもしれない。

 

(おしまい 牛野小雪 記)







2014年に読んだキンドル本

推薦文『未来劇剣浪漫譚 Human Possibility』

 退廃的な未来で巻き起こるSF剣豪小説2作目

 今回は作者が商品紹介に書いてある通りにエンタメの要素を強く打ち出していて前作と比べてかなり読みやすいです。また続編なので登場人物や世界観が共通していて、早い段階から物語に入り込めます。

 前作で元々一般人だった凛が姉の仇討ちとはいえ人を殺したのに、ちょっと明るい雰囲気で終わったのが少し気になった。
 しかし、今作では人殺しの代償として一般人の友子から拒絶されていたという展開が待っている。
 凛がどうやってその傷を乗り越えるのかが一つのよみどころ。

 もう一つは無二さんが天心流の心構えを会得できるかどうか。
 師匠お墨付きで天心流の技を極めた無二さん。前作では余裕のある強さで負ける姿を想像できない男だったが、今回はそんな無二さんでも勝てそうにない相手が出てくる。(ついでに言うと嫌な奴だ)
 その相手に勝つには全てを捨てて天心流の心で立ち向かうことなのだが、それができないといういかにも剣豪小説的な展開がよみどころ。

 読み終わってから、いや後半辺りでずるいっ!と思った。この時から続編を匂わす展開だと分かったからだ。最後まで読むとやはりそうだった。無二さんが父親の仇討ちをするためにウォールの内側"ラスパラ"へ入ったところで終わるという続編を期待させるラストだった。ああ、ずるいっ!



 

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『ワールド・ウォー・わなび/月狂四郎』~KDP作家は自立しよう~

『ワールド・ウォー・わなび/月狂四郎』

 まずは苦情を言いたい。
 月狂さんに書評を貰ったので、ウフフと良い気分で彼のblogを再度訪問した時に、ふと気になって『月狂四郎』をAmazonで検索すると、新着でこの本が一番上にあった。
 ふむふむ、これが前々から言っていたヤバイ本だろうかと、作品のページへ飛び、内容紹介を読見始めた瞬間に、これはヤバイと直感した。別名で出せば良かったのにとも思った。
 妖しい魅力に引かれて、ふと気付くとダウンロードしていた。
 本当は今日も執筆して、夜にでも読もうかと考えていたのに、それを打ち遣ってこれを読んでしまった。読んでしまうと今日はもう書けなくなってしまった。どうしてくれるんですかと(笑)


 内容は某サイトのKOW杯を発端にして起こったとある事件の内側に迫っていくルポタージュ風文学。騒動の関係者を記者がインタビューしていく。
 KDP界隈で活動している人は「ああ、あれね」と分かるはず。
 これはあの人。これは誰だろう?そんなことを妄想しながら楽しみました。
 例の方は月狂さん本人ですよね?実を言うと私もあの騒動で月狂さんを知った口です。具体的には権当さんのツイートからです。もしそれが無ければ、ずっと知らないままだったのでは?という気もします。
 それにしても前作『泡姫ありえない』に引き続いて、また騙されました。このまま下衆い好奇心を満たして終わるのかと思いきや、後半からはKOW杯騒動の裏側が暴かれます(もちろんフィクションですよ)。なるほどそういうオチになるのかと、すっきりしました。

 下衆い好奇心で手を出したけれど、考えさせられることもありました。
 わなび(私も含め)からスターダムへのしあがるには、結局最後は自分の力でやり遂げねばならない。『ジーンマッパー』の藤井さんなんかは過去のインタビュー記事を読むとちょっと真似できないくらい努力している。梅原さんも表に出ないだけで、きっと何かやっていたに違いない。それに続く人もやはりそうだろう。作家ではないがきんどうさん自身も初期はかなり苦労していた。
 権当さんのモデルこときんどうさんがKDP界で大きな影響力を持つのは作家自身の他人に頼ろうとする依頼心が為せる業で、作家一人一人が『俺は一人でもやるぞ』という気概を持てば、こんな騒動も起こらなくなるだろう。きんどう氏自身も前から『うちは利用してやる』くらいの気持ちで使ってくれと言っている。
 それに権藤さんが大きくなったとはいえ、世間から見れば彼もわなびも豆粒大の泡のような脆くて小さい存在でしかない。一朝事があれば、あのきんどうさんでさえ危機に陥ったのだから。→でんしょのうらがわ/きんどるどうでしょうさん 過去ツイートを全削除する

 そんな小さな世界で潰しあってもつまらんだろうというメッセージもある気がした。 それよりかはお互いに利用しあって外の世界の人間を引っ張ってこよう、KDPのパイをデカくしようぜと。
 この本はきんどう杯(正確には第2回 風立ちぬ杯だそうです)の後に起こった例の騒動を元にしたブラックパロディだが、その実体は月狂さんからKDP作家に向けた『お前らしっかりしろよ』という叱咤激励ではないのだろうか?




追記 もしこれをきんどうさんがトップページで大々的に扱ったら最高にロックだと思う。

さらに追記 きんどうさんは大々的に扱わないそうだけれど、ここのページをツイッターで呟いていた。色んな噂があるけれど、心の底にはロックな心を持っているみたいで、ほんの少しだけハモってくれた。
 普段ではあり得ない訪問者数に少々ビビっている。きんどう恐るべし。

著者自身の紹介ページ
アブナすぎる新作「ワールド・ウォー・わなび」リリース

別の人の感想
ワールド・ウォー・わなびの丸木戸サキさんの感想


ワールド・ウォー・わなび
月狂四郎
電書のうらすじ
2014-04-11

 
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