愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

文芸批評

文芸批評『ナンバーワンラップ』



 『ナンバーワンラップ』は、少年がラップで成り上がる物語に見えて、実際には「ナンバーワン」という観念そのものが、いじめ、家族、ネット、地方社会を媒介にして、一人の少年の精神をどう変形させるかを描いた小説である。全九章二十七節という構成も、Verseを積み重ねるアルバムの感覚を小説へ移しかえたもので、作品全体が一つの長いトラックのように読める。


 この作品が鋭いのは、主人公が単純な被害者ではないところだ。冒頭で彼は、平凡な町を「ヤクザが仕切る危険地帯」と偽り、虚構のリアルを演出しようとする。つまり彼は最初から、承認を得るために現実を加工する側にいる。そこへ我龍院の暴力が割り込み、さらに動画の炎上が起きることで、虚構を利用していたはずの主体が、今度はネットに利用される客体へ転落する。この反転があるから、本作の痛みはただのいじめ小説で終わらない。


 語りの強さも特筆すべきだ。一人称の文体は、虚勢と幼さ、自意識と滑稽さがべったり貼りついたまま進む。だから読者は、晴人を完全には美化できないし、かといって切り捨てもできない。海に落とされる場面の恐怖の直後に、遼のパンツやキンタマが差し込まれる。その混線した笑いは、残酷さを薄めるのではなく、むしろ中学生の世界の無惨さを増幅している。ここでは悲劇と喜劇が分業していない。そこに文体上の生命がある。


 中盤で最も優れているのは、大人たちの描写だ。学校は「話し合い」を魔法の言葉のように繰り返し、政治家の父は論理ではなく物語のフレームを奪うことで、被害の中心をずらしてしまう。しかもその操作は、露骨な悪としてではなく、社会常識や地域愛の顔をして現れる。この小説は、暴力そのものより、暴力を言い換え、整形し、円満な事件へ作り変える装置のほうに深い恐怖を見ている。そこが現代的だ。


 さらに面白いのは、地球僧帽筋協会という、ほとんど悪夢みたいな共同体の設定である。これは単なるギャグ宗教ではない。家庭の貧困感、親の判断、町の空気、恋愛の不可能性までをじわじわ規定する、地方的現実の比喩として機能している。しかも、その異様な設定の中心にいる結莉だけはひどく愛らしい。作品は共同体を笑いながら、その中でしか育たない無垢も同時に見ている。この両義性があるから、世界が漫画的に壊れすぎない。


 後半で作品は、被害者がネットの同情を得る話から、ネットにフリー素材化される話へ進む。ここで晴人は、レペゼンなき炎上少年にすぎないと突きつけられる。つまり彼は有名にはなったが、表現者にはまだなっていない。この批判はきわめて本質的で、承認と表現、拡散と作品、ミーム化と芸術の差を正面から問うている。『ナンバーワンラップ』が単なるSNS小説より一段深いのは、この問いを逃げずに入れたからだ。


 そして終盤で最も痛いのは、遼との関係だろう。普通なら相棒は成功を支える友情の核になる。だが本作では逆に、ナンバーワンという観念が友情そのものを破壊する。遼は、晴人を支える者でありながら、晴人の特異性に傷つく者でもある。ここで「才能」は祝福ではなく、周囲に劣等感と憎悪を発生させる重力として描かれる。これは青春小説としてかなり冷酷で、その冷酷さゆえに忘れがたい。


 欠点もある。物語の推進力が強い反面、エピソードが次々に起きるため、後半にはやや「出来事の密度」が勝ちすぎる瞬間がある。また、ナンバーワンという語の反復は意図的な中毒性を生んでいるが、読者によっては観念の押し出しが強すぎると感じるかもしれない。ただし、それは弱点であると同時に、ヒップホップ的反復を小説へ持ち込んだこの作品の賭けでもある。だから私は欠点というより、作風の代償として読むべきだと思う。


 結局、この小説の凄みは、最後の『ナンバーワンラップ』が勝利の歌であると同時に、自己暗示、自己洗脳、自己創造の歌にもなっているところにある。晴人は前より強くなった。しかし健全になったわけではない。むしろ壊れたまま、自分を駆動させる言葉を手に入れたのだ。その危うさまで含めて、本作はきわめて現代的な芸術家誕生譚になっている。明るい成功譚ではない。だが、本物の熱がある。そこが『ナンバーワンラップ』の文学的価値だと思う。




文芸批評『たくぴとるか』



 これは、ひきこもり恋愛小説の皮をかぶった、現実と自己像をめぐる救済と喪失の小説です。いちばん強いのは設定ではなく、るかとたくぴの掛け合いが作る文体そのものです。冒頭で、るかは「変身とは世界に負けないための儀式」としてアイドルになる。対してたくぴは、世界一のアイドルの横でポイ活アンケートをしている。この落差だけで、作品の宇宙が一気に立ち上がります。

 この作品の本当の主役は、筋ではなく声です。るかの暴走する比喩、たくぴの妙に論理的な屁理屈、その往復がずっと面白い。しかもその笑いは、単なる会話劇の軽さではない。たとえば、たくぴはアンケート不正をしない理由を妙に真面目に語り、るかはそれを「小さいところでマジメで、大きなところで」と切る。この一撃で、たくぴという人物の倫理と破綻が同時に見えてしまう。人物説明を長々とするより、会話の一往復で人間を立ち上げる力がある。

 もう一つうまいのは、生活の細部がそのまま人物造形になっているところです。ジョージアエメラルドマウンテンへの異様なこだわり、ポイ活の広告六倍、散歩二万歩、ハワイアンピザ、髪型の参照先が阿部寛、こういう細部が全部ただのネタで終わっていない。たくぴは大きな社会では失敗しているのに、小さな手順だけは異様に正確で、そこに生のねじれが出ている。つまりこの小説は、社会的には壊れている人間が、局所的にはむしろ過剰に秩序的であるという逆説を、かなり上手く書いています。

 そして題名にも入っている「るか」が、ただのヒロインではないのがこの作品の芯です。前半のるかは、恋人であり、ツッコミ役であり、妄想であり、たくぴの生をぎりぎり人間側につなぎ止める装置でもある。二人は「魂のWi-Fi」でつながっていると語られますが、これはギャグであると同時に、孤独な人間の内的対話の比喩でもある。るかがいるあいだ、たくぴは社会に適応できなくても、言葉の内部ではまだ世界とつながっていられる。ここがすごく切ない。

 だから、第九章から第十章にかけての転換は、この小説の最大の勝負どころです。DQNに襲われた夜、たくぴはるかに「消えてくれ」と言い、るかは「愛してる」と告げて消える。そこから章が改まり、語りが「私」から「俺」に切り替わる。これは単なる技巧ではなく、前半の祝祭的な文体が剥がれ落ちる瞬間です。読者はここで初めて、るかが現実をキャンセルするための幻でもあり、同時にたくぴの生存そのものを支えていたことを思い知る。かなり痛い転換ですし、作品が本気である証拠でもあります。

 この転換以後、作品はラブコメの顔を残しつつ、社会小説の方へ深く沈んでいきます。光の翼、就労、株、地方の空気、疑似的な所属、成功者への嫉妬、そして豊臣秀夫へのねじれた同一化。たくぴは豊臣秀夫を嫌悪しながら、底の方で同種だと感じている。この感覚は、敗者が勝者をただ憎む話ではなく、敗者が勝者の内部に自分の歪んだ可能性を見る話になっている。そこが安っぽくないです。豊臣の破滅を「もう一人の俺が死んだよう」と感じる箇所は、この小説がただの引きこもり譚ではなく、失敗した才能論まで踏み込んでいることを示しています。

 とくに「マイナスの才能」という発想は、この小説の思想的な核です。たくぴは、何もしないことで世界への加害をゼロにしているのだと言う。もちろんこれは自己神話でもあるし、自己正当化でもある。でも、ただの言い訳として片づけにくい迫力がある。なぜなら彼は本当に、自分が壊れていることも、社会に出たくないことも、同時に社会へ未練があることも、全部知っているからです。この自己認識のねじれが、たくぴを弱いだけの人物にしていない。

 また、「現実禁止」という反復モチーフの使い方もいい。これは一見すると、徳島のバンクシーをめぐる悪ふざけです。けれど作品全体で見ると、るかの「現実をキャンセルする」とたくぴの社会不適応、その二つをつなぐ旗印になっている。現実を禁止したいのは、世界を嫌っているからだけではない。現実の側が先に、自分を禁止していると感じているからです。だからこの標識は、ただのシュールな記号ではなく、社会から締め出された者が掲げる逆看板として読める。

 終盤の「ハワイ」も、ずっと冗談みたいに反復されてきたのに、最後には生の肯定へ変質します。前半では「資格がないとハワイには行けない」と言っていたたくぴが、終章では病床で「資格なしで行ってもいい」と言う。ここはうまいです。ハワイは観光地ではなく、現実の手前にある象徴でした。行く資格がないと思い込んでいた人間が、資格なしでも行っていいと認める。その一歩が、この小説におけるもっとも小さく、もっとも大きな救済になっている。

 ただし、欠点もあります。後半は野心が大きいぶん、少し詰め込みすぎです。就労パート、研究所、株、豊臣秀夫、病、ハワイまで全部抱え込むので、前半の「たくぴとるか」という密室的な強さが薄まる箇所がある。豊臣秀夫まわりの風刺は面白いけれど、時に小説の肉声より作者の問題意識が前に出る瞬間もある。前半の異常な会話の磁力が強すぎるので、後半はどうしても比較される。その意味で、この作品の最強地点は前半にあります。

 でも、その弱点を含めても、この小説には忘れにくいものがある。なぜかと言えば、たくぴは単なる社会不適応者ではなく、るかは単なる妄想彼女ではないからです。二人は、現実に敗けた人間が、それでも言葉の中でだけは世界と和解しようとする時に生まれる、一つの文体そのものです。だからこの作品は、設定を説明すると変な話に見えるのに、読んでいるとだんだん真顔になる。ここに文学があります。

 結論をはっきり言うと、「たくぴとるか」は完成度の均質さより、声の強度で読むべき小説です。前半はとても強い。後半は荒い。けれど、その荒さは失敗というより、作者が小さくまとまるのを拒否した跡に見える。うまく整った小説より、一段深く刺さる可能性があるタイプです。少なくとも、たくぴがるかを失って「俺」になり、それでも最後にハワイへ行こうとするところまで読むと、これはただの奇矯な恋愛譚ではなく、生きる資格をめぐる小説だったのだと分かります。



文芸批評『マジェドラ』




 「マジェドラ」はエロゲ企業とヤクザ資金洗浄の怪作でありながら、核にあるのは「愛を信じすぎる男が、愛を信じない世界を動かしてしまった悲劇」です。冒頭で黒川ケンジは自分を「どこにでもいる普通のオタク」と名乗りますが、その自己規定は事実描写ではなく、迫害されたオタクの傷を抱えた自己神話です。ここで作品は、成り上がりの武勇伝ではなく、傷ついた少年の誇大化した一人称として始まっています。


 この小説のいちばん大きな強みは、語り手の声です。ケンジの独白は、経営論、ヤクザ論、性表現論、政治論へと暴走しながら、それでも一つの人格としてつながっています。誇大で、下品で、妙に論理的で、しかも時々まっすぐすぎる。この「怪物的に頭が切れるのに、人間関係だけは古臭い義理と情で動く」というねじれが、作品全体の推進力になっています。

 文芸的に見るなら、「マジェドラ」は犯罪経済小説というより、まず信仰小説です。ケンジは金の流れを支配し、欲望を設計し、社会まで改造していくのに、最後まで信じているのは抽象的なシステムではありません。

 彼が本当に信じているのは、親子の契り、家族の責任、まさやんへの義理です。だから彼はヤクザの儀礼を演技として使えず、本気で受け取ってしまう。そこが普通のヤクザと決定的に違う、と親父に言い当てられる場面は、この作品の核心です。

 この核心は、作品自身がかなり露骨に言葉にしています。「ストーリーとはなにか。愛である」とケンジは言い切るのですが、これは作中の商売論であると同時に、小説全体の詩学でもあります。マジェドラが売っているのはエロではなく、愛に似た物語であり、この小説もまた読者にそういう物語を売っている。題材は下世話でも、読後に残るのは欲望ではなく、承認されたいこと、家族でいたいこと、誰かを救いたいことです。

 だから「言葉は短いほどいい。大事なことは何度でも繰り返す。愛している、とかね」という短いスピーチは、ギャグでありながら主題の圧縮でもあります。ケンジは巨大な虚構機械を作った男ですが、最後に言いたいことは異常に単純です。しかも、その単純さを自分で笑い飛ばしきれない。ここにこの小説の、滑稽さと切実さが同時に宿っています。

 対抗軸としての一条もいい。彼は正義の代弁者ではなく、ケンジを外から読む批評家のような存在です。二人とも巨大な事件を欲しがり、相手の全体像を見抜きたがり、しかもどこか趣味として世界を見ている。その意味で一条は敵ではなく、ケンジのもう一つの可能性です。だから終盤の自白は敗北だけでなく、理解されたいという欲望の到達点にも見える。

 後半で、まさやんの死を受けて元妻たちと子どもたちに一億円ずつ配る場面は、この作品の倫理が最もはっきり出るところです。ここでケンジは復讐者である前に、家族の穴を埋めようとする者として動いています。金は彼にとって万能ではありませんが、責任の代用品ではある。だから紙袋の一億円は成金の誇示ではなく、愛を貨幣でしか表現できない男の不器用な弔いになっています。

 そして第十六章で、親父が「俺も、金餅組も日本一のヤクザじゃない」と泣き崩れるところで、ケンジの神話は壊れます。これは単なる組織の弱さの発覚ではありません。ケンジが親父を「世界一の男」と信じたことで、逆に相手をその器ではない場所へ押し上げ、追い詰めていたと分かる瞬間です。章タイトルの「家族ごっこの終わり」とは、ヤクザの儀礼が嘘だったというだけでなく、ケンジの側の純粋さがもう維持できなくなることでもあります。

 終幕もよくできています。ケンジは復讐のために外道組だけでなく、日本中のヤクザの金の流れを差し出し、結果として「ヤクザ絶滅」を引き起こす。これは勝利でもあり、自滅でもあります。彼は頂点に立つのではなく、ゲーム盤そのものをひっくり返してしまう。そこまでしても、最後に置かれるのはレイとの小さな再会であり、マック店長という地味な現在です。世界史的事件の後に、生活の手触りへ戻るこの落差がいい。大言壮語の果てに、小さな現実だけが残るからです。

 弱点もあります。ケンジの独白があまりに強いため、場面によっては人物や情景が、彼の持論を運ぶ器へ下がる。女性人物の一部も、レイのような例外を除くと、鏡や装置として置かれやすい。さらに後半は、構想の大きさに比べて崩壊の速度が速く、破局をもう少し長く読ませてもよかった。欠点は薄さではなく、強さが前に出すぎることです。

 総じて、「マジェドラ」はエロゲ企業小説の顔をした、愛と承認の悲劇です。俗悪さを燃料にしながら、最後にはむしろ俗悪さでは届かない場所へ行く。ケンジは怪物ですが、同時にヤクザになりきれなかったオタクであり、資本主義を使いこなしながら資本主義だけでは生きられない男です。だからこの小説は、荒唐無稽なのに妙に哀しい。文学になっているのは、その哀しさが最後まで消えないからです。





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