ニーチェとプラトン。この二人は、時代も思想体系もまったく異なるが、人間という存在の本質を追い求めた点で、深い親縁関係を持っている。プラトンは紀元前4世紀の古代ギリシアで「イデア」という超越的な理念の世界を説き、人間をそこへ向かわせようとした。一方、ニーチェは十九世紀のドイツに生まれ、神の死を宣言し、超越的な価値を地上から排除しようとした。だが、どちらも「この世界を超えようとする衝動」と「この世界を愛そうとする情熱」のあいだで格闘した思想家である。
プラトンにとって、この現実世界は「影」にすぎない。洞窟の比喩で知られるように、われわれが日常で見ているものは真実の模倣であり、背後には永遠不変の「イデア」が存在する。善のイデア、美のイデア、正義のイデア──それらはすべてこの現実を超えたところにあり、人間は理性を用いてそこへ上昇しなければならない。彼にとって哲学とは、魂の回帰であり、知を通じて高みに上る宗教的行為に近い。現実の政治や欲望の世界は、堕落したもの、真理から遠ざかるものとして退けられた。
一方のニーチェは、このような超越的理想を徹底的に批判する。彼は『ツァラトゥストラ』で「超人」を描き、イデアの彼岸ではなく、この大地において生を肯定する道を求めた。ニーチェの目には、プラトン以来の西洋哲学は「背を向けた哲学」であり、生の現実を否定し、弱者の慰めとして天上の真理を創り上げてきたように映った。彼の「神は死んだ」という言葉は、まさにプラトン的世界観の終焉を告げる宣言でもある。理想世界を信じる代わりに、彼はこの瞬間、いまここを全力で生きることを選んだのだ。
だが、この二人は単に正反対ではない。プラトンもまた、現実を完全に否定したわけではない。イデアは確かに超越的だが、それを目指す魂の努力は、現実世界でこそ行われる。洞窟を出て光を見た哲人は、再び洞窟へ戻り、他の人々を導く義務がある。つまり、プラトンにおいても、真理の発見はこの世から逃げることではなく、よりよく生きるための闘いである。ニーチェもまた、単に現実を賛美したのではない。彼の超人は、盲目的な快楽主義者ではなく、「永劫回帰」を直視しながらも、その運命を愛する者である。二人とも「真理を見つめ、なお生を肯定する勇気」を語っている点で、根底では通じ合っている。
プラトンの哲学は秩序の哲学である。宇宙は調和に満ち、すべてが理性によって秩序づけられている。哲学者は理性を鍛え、魂を整えることで、世界の調和に参加することができる。対してニーチェは、秩序よりも生成を重んじる。世界は流動し、対立し、絶えず力のせめぎ合いによって形を変える。真理とは静的なイデアではなく、「力への意志」の運動そのものなのだ。プラトンが永遠の安定を求めたのに対し、ニーチェは無限の変化を愛した。
しかし、プラトン的な「高みへの志向」とニーチェ的な「地上への肯定」は、実は同じ精神の二つの方向である。どちらも「人間を超える」というテーマを抱えている。プラトンの魂はイデア界へ上昇して神的なものと交わり、ニーチェの超人は自ら神となって大地を創造する。上昇と創造──方向は違っても、どちらも「現状維持では満足しない」という点で一致している。人間は単なる動物ではなく、自己超越する存在であるという確信が、両者を貫いている。
さらに、二人は芸術を重視した点でも響き合っている。プラトンは詩人を理想国家から追放したとされるが、彼自身の著作は劇的対話という文学形式をとり、深い美的感覚に貫かれている。善と美を結びつけたのも彼である。ニーチェもまた『悲劇の誕生』で芸術の力を哲学の根源に置いた。アポロン的秩序とディオニュソス的陶酔の対立を通じて、人間の存在を美の視点から読み解こうとした。二人とも、理性だけでは語れぬ「美と力の哲学者」であったのだ。
もちろん、最も決定的な違いは「真理」への態度にある。プラトンにとって真理は発見されるものであり、そこに人間は従う。ニーチェにとって真理は創られるものであり、人間がそれを打ち立てる。プラトンの哲人王は真理を知る者として支配するが、ニーチェの超人は真理そのものを作り替える。前者は「従属による救い」を、後者は「創造による救い」を選んだといえる。
しかし、もし二人が対話したなら、互いにある種の敬意を抱いたに違いない。ニーチェはプラトンを「反対者」として深く理解していた。実際、彼の著作にはプラトン批判と同時に、その偉大さへの敬意が滲んでいる。プラトンがいなければ、キリスト教的価値観も生まれず、ニーチェ自身の哲学もまた成立しなかった。プラトンは神を天上に創り、ニーチェはそれを地上に引きずり下ろした。だが、その舞台を設けたのは他ならぬプラトンだったのだ。
プラトンは「存在の光」を求め、ニーチェは「生の闇」を見つめた。プラトンは善のイデアのもとに人間の魂を整えようとし、ニーチェは善悪の彼岸で人間の本能を解き放とうとした。けれども、そのどちらも「人間とは何か」「どう生きるべきか」という問いを放棄しなかった。二人は、まったく異なる方向から同じ問いの核心を突き続けた哲学者なのである。
彼らの思想の対立は、西洋思想の心臓の鼓動でもある。理想か、現実か。超越か、肯定か。理性か、力か。その緊張があったからこそ、西洋の哲学は生き続けてきた。プラトンの光とニーチェの闇、そのどちらもがなければ、人間の精神は半分しか語れない。二人のあいだに張りつめた弦こそが、われわれが今もなお哲学を必要とする理由なのだ。









