マルティン・ハイデガーとフリードリヒ・ニーチェは、ともに近代哲学を根底から揺さぶり、西洋思想の「終焉」や「転換点」を示した思想家である。両者の関係は単なる影響関係にとどまらず、「近代哲学の総決算」と「それを越えようとする試み」という連関として理解できる。以下では、①ハイデガーのニーチェ解釈の位置づけ、②ニーチェの中心思想とハイデガーの批判的継承、③両者の思想的共通点と決定的な違い、の三点を中心に考察する。

1. ハイデガーのニーチェ解釈の位置づけ

ハイデガーは1930年代から40年代にかけて、膨大な講義を通してニーチェを徹底的に読み解いた。その解釈は後に『ニーチェ講義集』としてまとめられている。ハイデガーにとって、ニーチェは「西洋形而上学の最後の哲学者」であり、同時に「形而上学を転倒させた思想家」でもあった。つまりニーチェは、プラトン以来の「存在を超越的に把握する思考」を極限にまで推し進め、その限界を露呈させた存在なのである。

ハイデガーはしばしば「ニーチェこそ近代の完成者」と述べる。とりわけ「ニヒリズム」の概念を中心に、近代西洋の歴史が「存在の忘却」によって突き進んできたことを読み取った。ニーチェはそのことを「神は死んだ」という言葉で象徴的に表現したが、ハイデガーはそこに形而上学の必然的な運命を見た。

2. ニーチェの思想の核心

ニーチェ思想の核心は、「神の死」に端を発するニヒリズムの自覚と、それを乗り越える「超人(Übermensch)」と「力への意志(der Wille zur Macht)」である。キリスト教的価値体系が崩壊し、絶対的根拠が失われた時代に、人間はいかにして生を肯定できるか。この問いに対しニーチェは、既存の道徳や真理観を破壊し、意志の創造力そのものを価値の源泉とする「力への意志」を提示した。

さらに「永劫回帰」の思想は、世界に究極的な意味や目的がないことを徹底化する試みであり、それを「もう一度、永遠に繰り返す」と肯定できる人間こそが超人であるとされた。この思想は、虚無を突き抜けて生を肯定する極限の姿勢を示す。

3. ハイデガーの批判的継承

ハイデガーはニーチェを高く評価しながらも、決定的な批判を行った。彼によれば、「力への意志」と「永劫回帰」というニーチェの概念は、依然として存在を存在者のうちに理解する「形而上学的思考」にとどまっている。つまり、ニーチェは形而上学を転倒させたように見えて、その枠組みから抜け出せていないというのである。

ハイデガーは「力への意志」を「存在の意志」と読み替え、そこに「存在そのものが自己を意思する」という最後の形而上学的思考を見出した。つまりニーチェは形而上学を終焉に導いたが、その外部には到達できなかった。ここに「ニーチェは最後の形而上学者だ」という評価が成立する。

4. 共通点:近代批判と生の肯定

両者の共通点は、近代合理主義と伝統的価値体系への徹底した批判にある。ニーチェが「神は死んだ」と宣告し、価値の根源を疑ったのに対し、ハイデガーは「存在忘却」という形で西洋哲学の基盤を問い直した。両者とも、近代の主体中心主義や真理観を批判し、人間存在をより根源的に捉え直そうとした。

また、ニーチェの「生の肯定」とハイデガーの「現存在(Dasein)の実存的可能性の開示」には、共通の基調がある。すなわち、人間はただの客体ではなく、自らの生を担い、世界と関わる存在であるという視点である。

5. 相違点:意志か存在か

しかし決定的な相違は、存在理解の根本にある。ニーチェは「力への意志」を根源的原理として世界を把握しようとした。それは主体的な創造の力に強く依存する。一方でハイデガーは、「存在は人間の意志を超えて現れるもの」であり、人間はそれに開かれる存在にすぎないとする。ここに「意志の哲学」と「存在の思索」の対比がある。

ハイデガーは、ニーチェが「意志」にこだわったために、結局は主体中心的な近代の枠組みから抜け出せなかったと考えた。そして自らは「存在の声に耳を澄ます」思索へと踏み出したのである。

6. 結論

ハイデガーとニーチェの思想関係は、「連続」と「断絶」の両面を持つ。ニーチェは近代哲学を徹底的に批判し、価値創造の新しい地平を切り開いたが、ハイデガーはそこに「形而上学の最後の姿」を見た。つまり、ニーチェはハイデガーにとって「乗り越えるべき最後の思想家」であった。

両者の対話を通じて見えてくるのは、「主体と存在」「意志と開示」という哲学的分岐点である。ニーチェが生を積極的に肯定しようとしたのに対し、ハイデガーは存在そのものへの開示を重視した。この差異は、西洋哲学の終焉と新たな思索の始まりを告げる、歴史的な分岐点を示しているといえる。