なぜ読むべきなのか
この小説は、SNS時代における「言葉の生き方」を真正面から描いています。私たちは毎日、無数の短い投稿や画像に触れていますが、それらの多くは数秒で忘れ去られます。そこに意味はない――そう思いながらも、私たちは無意識に物語を組み立て、断片に感情を宿してしまう。本作は、その矛盾こそが現代の物語の形であると提示します。
主人公は「文学はもう古い」とSNSに投げかけ、拒絶から始まります。しかしバズやアルゴリズム、過去の自分の言葉との再会を経て、物語の所有権が個人から離れた世界を受け入れていく。この過程は、読む者に「物語とは何か」「作者とは誰か」という根源的な問いを突きつけます。
SNS断片文体という実験的手法により、ページを開くたびに文脈が揺らぎ、読むたびに異なる印象が生まれる構造は、まさに現代のポストモダン的読書体験。文学の未来に関心がある人はもちろん、SNSの中で言葉と共に漂う感覚を味わいたい人にも強くおすすめします。
試し読み
第1章「既読5、いいね0」
「文学はもう古い」ってポストしたら、既読が5。
いいねは、0。
多分、そのうちの一人はお前だろう。
返事がない。返事がないのが返事ってやつか。
タイムラインの流れは速い。
ページをめくるよりも速い。
俺の言葉は、波に飲まれた空き缶みたいに、すぐ沈む。
もう見えない。
引き波が戻るころには、別の空き缶が漂ってくる。
何もかも、そうやって置き換わっていく。
「古い」という感覚は、どこから来るんだろうな。
俺が生まれる前から古かったのか。
それとも、俺の中でだけ古くなったのか。
文学ってやつは、なんか、黒いフェルトの帽子の匂いがする。
麦わらじゃない。
雨の日にかぶって、濡れて、そのまま押し入れにしまわれて、忘れられた匂いだ。
通知が光った。
心臓が一瞬だけ強く打つ。
けど、開いたら別の投稿への反応だった。
俺は俺の文章に反応してほしい。
でも、それを求めてる自分がダサい。
誰かの「今からカレー作る」みたいなやつには反応できるのに。
なぜだ。
スマホの画面を指でなぞる。
指紋がガラスに滲む。
タイムラインは笑っている。泣いている。怒っている。
全員が同時に、別々の理由で感情を吐き出している。
それを俺は、ただ流して眺めるだけ。
溺れそうになる。
でも、泳ぎたくはならない。
「文学は古い」ってのは、たぶん俺の負け惜しみだ。
俺は本なんてもう読まない。
最後に読んだのはいつだったか。
駅の売店で買った文庫。カバーは黄色くて、背表紙の角が丸かった。
読んだ内容は覚えていない。
でも、まだその本は机の引き出しにある。
引き出しを開けていないだけだ。
投稿を消そうかと思った。
けど、それすらも面倒くさい。
この「既読5、いいね0」の状態が俺の今なんだ。
俺は俺の無視され方を、証拠として残しておく。
それは、なんか、負けた試合のスコアを額縁に飾るみたいなもんだ。
ポストの下に、関連投稿が並ぶ。
「文学の未来はSNSにある」って言ってるやつもいる。
その下には「SNSは人間をバカにする」って言ってるやつもいる。
その二つは、多分、同じタイムラインに流れてる。
相容れないくせに、並んで存在できる。
これが今だ。
これがポストモダンってやつかもしれない。
昼過ぎ。
コンビニに行って、缶コーヒーを買う。
店員は俺を見ない。
俺も店員を見ない。
レジの音だけが、俺と店員をつなぐ。
店を出たら、陽射しが強くて、目を細めた。
その瞬間、俺はなんとなく投稿のことを忘れた。
家に戻ると、既読が6になっていた。
いいねは、まだ0。
誰が見たのか、もう分からない。
でも、既読が増えたという事実が、俺をほんの少しだけ生かしている。
それがどんなに薄っぺらいことでも。
たぶん、文学はこの「既読6」の中にもあるんだろう。
俺の文章は、誰かの脳に0.2秒くらい滞在した。
それだけで十分かもしれない。
ページをめくる指の代わりに、親指が画面を滑った。
文字は、紙じゃなくて液晶に載っていた。
でも、確かにそこには俺がいた。
風が吹いた。
カーテンが揺れた。
スマホを伏せた。
画面は暗くなった。
俺はそこに何も書き込まなかった。
だけど、タイムラインは、勝手に流れていた。
俺がいなくても、流れ続ける。
それが少しだけ、救いだった。
このままいけば、俺はSNSを憎むことはできないだろう。
憎しみよりも、惰性のほうが勝つ。
文学はもう古い。
でも、俺は古さの代わりに速さを手に入れた。
速さは俺を軽くする。
軽さは俺を、どこへでも連れて行ける気がする。
既読7。
いいね0。
その0のままでいい気がした。
俺は、たぶん、この数字の中で生きていく。
もうページをめくる必要はない。
タイムラインがめくってくれるから。
物語は俺を待たない。
だから、俺も物語を待たない。














