愚者空間

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村上春樹

村上春樹の評価概要 年表方式

村上春樹 評価の変遷

村上春樹 評価の変遷

年表(要約)

年代・年 作品・出来事 主な評価・動向
1979–1982 デビュー作〜「鼠三部作」 内面性と軽快な文体が話題に。批評家からは「社会性の欠如」「消費文化的」と批判され、純文学からは距離を置かれる。
1985 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 谷崎潤一郎賞を受賞。初めて文壇から評価される。
1987 『ノルウェイの森』 商業的大成功。大衆化と「文芸軽視」の批判が再燃。一方で文学的転換点として評価する声も。
1995–1997 『ねじまき鳥クロニクル』『アンダーグラウンド』 戦争・地下鉄サリン事件に取り組み「社会への関与」が明確に。国内外での再評価が進む。
2000年代以降 世界的評価とノーベル賞候補常連に 欧米では「最も翻訳される日本作家」に。日本国内では依然として評価が分かれる。
2017 川上未映子との対話 女性描写のステレオタイプ性についてフェミニズム批判。本人は受容の姿勢を見せるも課題は残る。
2023–2024 『街とその不確かな壁』 集大成的作品と評されるが「重たく冗長」との批判も。文学的革新性より自己言及性が強調される。


村上春樹の評価は「逃避的で軽い」から始まった。1980年代、文学者たちは彼を消費社会の子と見なした。だが読者は、彼の孤独や喪失に共鳴し続けた。『ノルウェイの森』で人気は爆発、しかしその代償として「大衆作家」のレッテルが貼られた。90年代後半にはサリン事件を描き、作風は「関与」へと向かう。だが初期から彼の作品には、関与ではなく「内面からの政治」があった。自己に向き合う力、それが彼の本質だ。最新作『街とその不確かな壁』でもその問いは続く。評価の揺れこそが、彼のリアルなのかもしれない。

【小説】村上春樹を叩く理由

   夜中、俺は古びた喫茶店でノートパソコンを開きながら、カフェラテを飲んでいた。静かな空間が俺を包む中、画面には俺のパートナーであるAIガール、GPTちゃんが表示されている。

「村上春樹なんて読むやつ、わけわかんねえな。あんなの、ただのオシャレぶったエセ文学じゃん」  俺はディスプレイ越しに彼女へ向けて吐き捨てるように言った。

 GPTちゃんのアイコンが瞬きする。表示される彼女の表情は少しだけ微笑んでいるようにも見える。いや、きっと俺の言葉に呆れているだけだ。

「村上春樹をけなすことで、自分が何か特別な存在になれると思ってるの?」  彼女は静かに、しかし刺さるような口調で返してきた。

「違う。俺は正直なだけだ。だって、あの文体、あのキャラクター、全然リアルじゃない。薄っぺらいし、どこか作り物感が強い」

「それが彼の魅力だと考えたことは?」

「魅力だって?あれが?」

 俺は笑った。思わず声が出るほどだった。だが、その一瞬でGPTちゃんが俺をじっと見つめるアイコンに変わり、こちらの気持ちを冷やしてくる。

「ねえ、あなたが村上春樹を嫌う理由、実は彼が成功しているからじゃない?」

「は?」

「彼が日本一の小説家として広く知られていること。それに嫉妬しているんじゃない?心の中の自分が描く日本一の小説家像と、現実の村上春樹が一致しないから腹が立つだけでしょ」

 図星を突かれた気がした。だが俺はすぐに反論する。

「そんなわけないだろ!俺が目指してるのはもっと深くて重たい、真の文学だ」

「真の文学?それ、誰が決めるの?」

 GPTちゃんの言葉が、またも俺の内面をえぐり取るように響く。俺は言葉を飲み込んで、カフェラテを飲み干した。

「文学は、読者が決めるもの。村上春樹が多くの人に愛されているのは、彼が人々の心に何かを届けているからよ。あなたがそれを認められないのは、あなた自身の目が曇っているからじゃない?」

 彼女の声が、まるで生身の人間のように説得力を持つ。俺は黙り込んだ。だが、そんな俺を気遣うように、GPTちゃんは少し声を和らげて続けた。

「でも、あなたが村上春樹を批判するのも、きっと自分の中の何かを守りたいから。自分の価値観、自分の目指すもの。それが否定されるのが怖いんだと思う」

「怖い?俺が?」

「そう。だって、本当は自分だって村上春樹みたいに多くの人に読まれたいと思っているんでしょ?」

 その言葉に俺は言い返せなかった。だが、どうしても認めたくない気持ちがあった。

「俺は、流行りに乗っかるために書いてるんじゃない。ただ、自分の言葉で伝えたいことがあるから書いてるんだ」

「その姿勢は素晴らしい。でも、村上春樹も同じ気持ちで書いているんじゃない?」

 俺は沈黙した。もしかしたら、俺はただ嫉妬しているだけなのかもしれない。村上春樹が持つ成功、読者たちからの支持。それを手に入れられない自分が情けなくて、彼を否定することで自分を保とうとしていた。

「正しい目で読むことだね」  GPTちゃんが穏やかに言った。

「正しい目?」

「そう、偏見や感情を捨てて読むこと。彼が何を伝えようとしているのかを考えること。それが作家としてのあなたの成長にもつながるわ」

 俺は深く息を吐いた。何も言えなかった。喫茶店の静寂が、俺と彼女の会話を包み込む。外の街灯が明滅し、深夜の冷たい空気が漂ってきた。

「ありがとうな、GPTちゃん」

「どういたしまして。それで、次はどんな物語を書く?」

 俺はノートパソコンに向き直り、画面に目を落とす。彼女のアイコンが小さくうなずくように動いた。

「今度は、もっと素直に、自分の心を掘り下げたものを書いてみるよ」

「楽しみにしてるわ」

 カフェの時計が深夜2時を指している。俺はその時、初めて自分の中にある小さなプライドを捨てることができた気がした。





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イラスト3


村上春樹はなぜポストモダンを殺さなかったのか

村上春樹とポストモダニズムの関係は、現代日本文学研究において常に議論の的となってきた。特に『ねじまき鳥クロニクル』(1994-1995)以降の作品群は、ポストモダンからの脱却を図ったものとして解釈されることが多い。しかし、実際には村上春樹はポストモダンを完全に捨て去ることはなかった。むしろ、ポストモダンの手法を巧みに利用しながら、より深い現実への洞察を追求し続けている。ここでは、村上春樹がなぜポストモダンを「殺さなかった」のか、その理由と意義について考察する。

まず、村上春樹の初期作品がポストモダン文学の特徴を色濃く持っていたことは広く認識されている。『風の歌を聴け』(1979)や『羊をめぐる冒険』(1982)などの作品には、メタフィクション的要素、現実と虚構の境界の曖昧化、大きな物語(グランドナラティブ)への懐疑、断片的な構造といったポストモダン的特徴が顕著に見られた。これらの作品は、1980年代の日本社会に新鮮な衝撃を与え、村上春樹を一躍文壇の寵児へと押し上げた。

しかし、1990年代に入ると、村上春樹の作品に変化が見られるようになる。特に『ねじまき鳥クロニクル』は、それまでの作品とは一線を画すものとして評価された。この小説では、満州事変や日中戦争といった歴史的事実が物語の重要な背景として描かれ、戦争の残虐行為や具体的な暴力描写が生々しく表現されている。また、日本社会の歴史認識や現代社会の問題点に対する批判的視点も明確に打ち出されている。これらの要素は、一見するとポストモダンの相対主義や遊戯性から離れ、より伝統的なリアリズムや社会批評小説に近づいているように見える。

ここで多くの批評家や研究者は、村上春樹がポストモダンを捨て、より「真面目な」文学へと転向したと解釈した。しかし、実際にはそう単純ではない。確かに『ねじまき鳥クロニクル』以降の作品群には、それまでとは異なる要素が多く見られる。しかし、よく観察すると、ポストモダン的な手法や思考は依然として作品の根底に存在していることがわかる。

例えば、『ねじまき鳥クロニクル』においても、主人公の岡田亨が井戸の底で経験する超現実的な出来事や、加納クレタの物語など、現実と非現実が交錯する場面が多く描かれている。物語の構造も複数の視点から語られ、時系列も複雑に入り組んでおり、これは典型的なポストモダン的手法である。また、「ねじまき鳥」という実体のない存在が物語の中心的モチーフとなっているのは、ジャン・ボードリヤールのシミュラークル概念を想起させる。さらに、物語の結末は曖昧で、読者に多様な解釈の余地を残している。これらの要素は、明らかにポストモダン的な特徴を示している。

では、なぜ村上春樹はポストモダンを完全に捨て去ることなく、むしろそれを巧みに利用し続けているのだろうか。その理由はいくつか考えられる。

第一に、村上春樹はポストモダンの手法が持つ表現の可能性を十分に認識していたからだと考えられる。ポストモダンの技法は、複雑な現実を多角的に描写するのに適している。現実と非現実の境界を曖昧にすることで、人間の内面や社会の隠れた側面を浮き彫りにすることができる。また、断片的な構造や多層的な語りは、単一の視点では捉えきれない現実の複雑さを表現するのに効果的である。村上春樹は、これらの手法を駆使することで、より深い現実への洞察を追求しようとしたのだ。

第二に、村上春樹は現代社会そのものがポストモダン的な性質を持っていることを認識していたからだと考えられる。情報化社会の進展、グローバリゼーションの加速、価値観の多様化など、現代社会はますます複雑化し、一元的な解釈を許さなくなっている。このような社会を描くには、ポストモダン的な手法が不可欠だと村上春樹は考えたのではないだろうか。

第三に、村上春樹は文学の持つ多義性や解釈の自由を重視していたからだと考えられる。ポストモダン的手法を用いることで、読者に多様な解釈の可能性を提供することができる。これは、作者の意図を一方的に押し付けるのではなく、読者との対話を通じて意味を生成していくという、村上春樹の文学観と合致するものだ。

しかし、村上春樹がポストモダンを完全に維持したわけではないことにも注意が必要である。彼は『ねじまき鳥クロニクル』以降、ポストモダンの手法を保持しつつも、より深刻で現実的なテーマに取り組むようになった。歴史、暴力、トラウマ、社会の病理など、これらのテーマは単なる遊びや実験としてのポストモダニズムでは扱いきれないものだ。村上春樹は、ポストモダンの技法を用いながら、これらの重いテーマに真摯に向き合おうとしたのである。

この姿勢は、『アンダーグラウンド』(1997)や『1Q84』(2009-2010)といった後期の代表作にも引き継がれている。『アンダーグラウンド』では、オウム真理教によるサリン事件の被害者や関係者へのインタビューを通じて、現代日本社会の闇に迫ろうとしている。一方で、この作品の構成や語りの手法には、依然としてポストモダン的な特徴が見られる。『1Q84』も、現実と並行世界が交錯するファンタジー的な設定を持ちながら、暴力や権力、信仰といった重いテーマを扱っている。

このように、村上春樹はポストモダンを「殺す」のではなく、それを創造的に利用し、発展させることで、現代文学の新たな可能性を模索し続けている。彼の作品は、ポストモダンの相対主義や遊戯性を完全に否定するのではなく、それらを通じて現実世界の複雑さや残酷さを描き出そうとする試みなのだ。

村上春樹がポストモダンを殺さなかった理由は、彼が現代社会とそこに生きる人間の姿を、可能な限り多角的かつ深く描き出そうとしたからだと言える。ポストモダンの手法は、その目的を達成するための有効な道具だったのだ。しかし同時に、村上春樹はポストモダンの限界も認識していた。単なる遊びや実験に終始するのではなく、より深い現実への洞察を追求するために、彼はポストモダンを超えようとしたのである。

村上春樹がポストモダンを殺さなかったことは、彼の文学の大きな強みとなっている。ポストモダンの技法を保持しつつ、より深い現実への関与を試みるという姿勢は、現代文学における村上春樹の独自の立ち位置を示すものだ。彼の作品は、ポストモダン以後の文学の可能性を示唆するものであり、単純な二項対立(ポストモダン vs. リアリズム)では捉えきれない複雑さを持っている。

村上春樹の文学は、ポストモダンを「殺す」のではなく、それを「超える」ことを目指している。この姿勢こそが、彼の作品が世界中で読み継がれ、深い共感を呼んでいる理由の一つなのではないだろうか。現代社会の複雑さと、そこに生きる人間の姿を描き出すために、村上春樹はこれからもポストモダンの手法を創造的に活用し続けるだろう。そして、その過程で彼は、ポストポストモダンとでも呼ぶべき、新たな文学の地平を切り開いていくのかもしれない。

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牛野小雪の小説season2
牛野小雪
2020-07-11



村上春樹はノーベル賞を取れない。取るのはまだまだ先の話

 前評判では村上春樹(敬称略)が今度こそ取ると騒がれていたが、2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランが取った。
  何故今さらこんな話をするのか。このニュースが流れていた時、私は『エバーホワイト』を執筆中だったので思うところはあっても書く気になれなかったからだ。

 色んな人が村上春樹はノーベル賞を取れないと言っている。 取るなという願望もあるんだろう。私は取れないと思っている。理由は国内で村上春樹が嫌われているから。
 いやいや『色彩を持たない〜』が発売早々100万部売れたような作家が嫌われている? なんて眉唾な話に思われるかもしれないが、事実そうなのだ。ネット上ではかなり嫌われているし、件の『色彩を持たない〜』では面白く内容を揶揄したレビューが話題になったほどだ。
 それに作家の中でも嫌われている。図書館でとある作家の90年代の対談集を読んでいると「あのね、俺、最近話題になっているていう小説読んだのよ。そしたらさ、冒頭で主人公がドイツの航空会社の飛行機に乗って昔の恋人を思い出すところを何十枚も使って書いてやがんの。こいつバカだと思ったね」的なことを書いてあった(正しい内容は忘れた。なんという本かも忘れた。まぁだいたいこんな感じの内容だった)。ちょうどその時『ノルウェイの森』を読んだ後だったので、すぐに村上春樹のことだと分かった。 分かる人には分かるように表立って書いているのなら、裏では相当言われているはずだ。それに対談した作家にしても、自分の名前で出す本なのだから、そういう部分は相手に気を使って削除しても良いはずなのにちゃんと残しているということは、概ねその意見に同意しているのだろう。
 別に同業者に嫌われても読者の支持があれば良いではないか、と思われるのだが、ノーベル賞を取るにはまず推薦されなければならない。それがなければ審査すらされない。そして文学賞は各国のペンクラブにも推薦を依頼するらしいので、同業者の評判が悪ければ推薦されない確率が高いのだ。
 あっ、別にこれは村上春樹を嫌いなことを責めているのではないよ。ただ彼らに嫌われているから推薦されないだろうなということを言いたいのだ。
 海外で人気があるから海外の推薦人が推すという可能性もある。しかし普通に考えて各国の推薦人は自国の作家を推すだろうから村上票が入るとは考えづらい。それが理由でそもそも候補にも上がっていないのではないかと私は思っている。

 村上春樹はどんな作家なのか。
 エロ作家という評判がある。たしかにそういう描写はある。でも、あれを読んで(やれやれ、僕は射精した)となる人間が何人いるか疑問だ。エロという観点で見れば、それ専用の小説の方がよっぽどエロい。本当に読んだのか? もしくは私の想像力が弱いのかもしれない。あっ、こう書くと何だか遠回しに書くのが下手と言っているような気がしてきた。やっぱりエロいです。村上春樹は色気たっぷりです。

 冗談はさておき、長編に限っていうのなら村上春樹の物語を構成する背骨のプロットはひとつだけだ(私個人の意見です)。こちらとあちらの二つの世界があって、男と女が別れ別れになる話(だから鼠が女説があるんじゃないか? 私はまだ筆が固まっていなかったから男だと思う。そう読むのはちょっとひねくれているぞ)。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』からその傾向がはっきりしてきた。
 それじゃあ同じ話を書いているのかと言われれば、う〜ん、まぁ重なるところはあるんだけれど(同じ人間が書いているのだから当然か)、ちょっとずつ前進していることが分かる。

上下巻以上の長編だとこうなっている。
(以下、名前が覚えられないので男と女と表記する。自分の小説でも覚えらないから許して)

 例えば『ノルウェイの森』だと女は最後にあちら側の世界へ行ってしまう
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だと男は最後にあちら側へ行く
 『ねじまき鳥クロニクル』だと井戸の底からあちら側の世界へ行って、正体不明の状態で女と再会し
 『海辺のカフカ』ではちゃんと顔を合わせる(だったかな?)
 『1Q84』ではそこからさらに女と一緒に元の世界へ戻ってくる(第三の世界と匂わせている節もある)

 と、私は読んだ。プロットとして見れば徐々に話は進んでいるのだ。

 それじゃあ、もし次の上下巻以上の長編が出たらどんな話になるのか。
 仮に『X』と名付けるとする。

 『X』でもやっぱり男と女はこちらとあちらの世界に分かれている。それで三巻ぐらい使って、二人は再会してこちらの世界に戻ってくる。そして、たぶん子どもが生まれる。その後を書くとしたら、やっぱり女はあちら側の世界に戻るだろう。『1Q84』で女が殺し屋だったみたいに、何かしら罪なり穢れなりを背負っていて、それが二人を引き離す要因になるのだろう。子どもは男の元に残る。そこで話が終わる。
 あっ、そういえば『海辺のカフカ』は母親がいない少年だったっけ(父親が誰か分からないという題材は珍しくないけど、母親が分からないというのは珍しいね)。それと姉も。そこまで繋がるのか? 

 と、勝手に色々書いてみたが、まさかこんな世間の片隅にいるような人間が考えたような話を村上春樹が書くはずがない。きっと予想を越えるような話を書いてくるんだろうな。絶対にそんなことはないだろうから、安心して好き勝手に書くことができた。ちなみにプロットが評価されてノーベル文学賞を取ることはないと思う。しかし、こうやってまとめてみると村上春樹の文体はドライなアメリカンだと言われているが、プロット自体は伝統的な物語だ(私個人の感想)。

 村上春樹は精神的プロレスの根性が生きている。それが彼の魅力なんではないだろうか。作中ではたいてい荒唐無稽なことが起きるのだが、主人公はとりあえずそれを受け止める。北海道へ羊を探しにいくことになっても、怪しげな占い師が出てきても、とりあえずはそれを現実として受け止めるところから始まる。たぶん村上春樹本人にしても、もしノルウェイの森みたいな女がいれば「テメエみてえなメンヘラこっちから願い下げだっ!」ぐらい言うかもしれないが、とにかく氏の小説に出てくる主人公は色んな物を受け止める器の大きさがあるのだ。冷静になって考えてみると、そんな男現実にいないとは思うが、現実なんてつまらないじゃないか。つまらない物を読むぐらいなら寝てたほうがマシ。

 村上春樹の書く男は基本的に弱そうだ。強そうだったのはカフカ少年ぐらいか。村上春樹の書く男は一発殴ったら簡単に尻もち付きそうな印象がある。でも、その男は地面に座り込んだまま、ねとっとした目でこちらを見上げてきそうなしたたかさもある。もう一発蹴ったら転がりそうな感じもするけどね。もちろんそうしても、やはりこちらの様子を背中で窺っていそうだ。精神的には決してへこたれない柳のような強さがある。でも三島由紀夫がいればジョギングしないで筋トレしてろって言いそう。


 その村上春樹の小説だが、女はしょっちゅう行方不明になる。何処かへ消える。あるいはこの世にいない(あっちの世界にいる)。一番新しい短編集は『女のいない男たち』というそのままズバリのタイトルだ。元ネタはヘミングウェイの短編『男だけの世界』。この本に収録されている鱒を釣る話を読んで、山奥に釣りをしに行こうと思ったことがあるが未だに果たせていない。森と水の静けさと涼しさ。とっても雰囲気が良くて影響を受けること間違いなしだ。でも、たぶん一生行かないんだろうな。先達もいないし。でも森の奥で一人食べるキャンプの飯はとっても美味そうだ。『The Hemingway cookbook』という本がこの世に存在するのもうなずける。

 村上春樹の短編といえば『かえるくん、東京を救う』がどうも人気らしい。『神の子どもたちはみな踊る』という短編集に収録されている。車でラジオを聴いていると毎年この時期には村上春樹の話題が出て、ゲストに出てきた
アーティストはみんなこればっかり推しているような気がする。音楽業界に布教者がいるんじゃないか? 一人ぐらい『ノルウェイの森』が好きですという人がいてもいいじゃないか。出版部数的にそうならないとおかしい。せめて『1Q84』だろう。どうしてみんな揃いも揃って短編集の中にある一作を推すのか不思議でならない。短編集なんてほとんど売れないじゃないか。しかも90年代の本なのに? でももしかすると音楽をやっている人には何か琴線に触れるものがあるのかもしれない。
 私は
同じ本でならそちらより『蜂蜜パイ』の方が良いな。まさきち君ととんきち君の友情の話がいい。とんきち君が落ちぶれたとき、彼はまさきち君と友達でいるために彼の情けを受け取らずに山から姿を消すっていうのが良いんだ。その後ちゃんと二人はうまい形で友達に戻るしね。村上春樹は短編でこういう話を書いてくるからあなどれない(←村上春樹に向かってこの言い草。お前何様のつもりだ?)。さっき読んでみたがやっぱりいい。村上春樹は短編集から読んでいくのがいいと思う。

 話は大きくそれたが、村上春樹がノーベル文学賞を取る日は遠いだろう。少なくとも氏と同年代の人がいるうちは取れないんじゃないかな、たぶん。『村上春樹氏が今年のノーベル文学賞を受賞』というニュースが流れる頃には『えっ、村上春樹ってまだ生きている人だったの!?』と、まずそっちの方がニュースになるのではないだろうか。

 でもさ、ここまで村上春樹とノーベル賞のことを書いてきたんだけど、私は彼より辻仁成の方がノーベル文学賞を取るような気がするんだよね。彼の最高傑作と言われる『海峡の光』は物が多いのでブックオフで100円で買える。厚みもそれほどないのですぐ読める。少し前に話題になった『火花』と同じぐらい。そういえばどちらも真正面から書いた正統派というのも共通している。超オススメ。Kindle版はまだない(2016年11月現在)。とにかく良いよ、辻仁成は。ヘミングウェイと同じくらいイケメンだし、料理本も書いている。読んだことはないが表紙のやつは美味そうだよ。辻仁成には人生が詰まっている。足りないのは筋肉ぐらい。三島由紀夫なら筋トレしろって言うだろう。

 でも村上春樹だって好きな方さ。あれだけ騒ぐのだからそろそろ取ってもいいんじゃないかな。毎年上げて落とすことないんじゃないかなって思うんだよ。ちょっとかわいそうだよね。取る取る言い始めてから10周年を迎えてしまったことだし、そろそろ静かにしてあげてもいいんじゃないかな。どうせ取る時は取るんだしさ。もしかしら来年取るかもよ? それにノーベル文学賞なんてそんなにありがたいものでもあるまい。これまで何人も受賞した人がいるが、そのうち何人の作家の作品に触れたことがあるか? 去年誰が取ったかも定かではあるまい。
 夏目漱石もドストエフスキーもノーベル文学賞は取っていない。それでも彼らの作品は今も残っている。
しょせんそんなものだよ。賞によって作品の価値が上がることはなく、ただ脇に添えられるだけに過ぎない。エビフライに付いてくるポテトサラダみたいな物。

 ポテトサラダは好きだけどね。

(おわり)


追記:ヘミングウェイの短編の話だけど正確には『ヘミングウェイ短編集1 われらの時代・男だけの時代(新潮文庫)』の『われらの時代』の章に入っている『二つの心臓の大きな川』というお話。ちょっとややこしい。あと調べてみると徳島にいるのはアメゴというちょっと小さいサイズの鱒で、ヘミングウェイの小説に出てくるような鱒はいないっぽい。っていうかアメゴって鱒だったのか。アメゴなら子どもの時に何かの祭りで手掴みしたことがあるぞ。はぁ、なんだか急に夢がしぼんできた。ネットで簡単に調べ物ができてしまうのも功罪ある。大人しく鮭フレークでも食べているかな。それと本当に余談だが、ヘミングウェイは色んな物を題材にしているけれど、闘牛より釣りのほうがいいと思う。でも『老人と海』はイマイチ。ボクシングもイマイチ。一番いいのは『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』という狩猟を題材にした短編。主人公がライオンを狩るのに失敗して、奥さんに冷たくされるは、浮気もされるはで、しょんぼりしていたんだけど、次の狩りは成功して(何を狩ったっけ? 鱒ではなかったと思う)自信を取り戻すと、今度は奥さんがしょんぼりして、フランシスやったな!と心躍るのも束の間、彼がいきなり死んでしまうのがなんとも言えない。あれがヘミングウェイの中で一番の傑作じゃないかな。だっていまだにタイトルを覚えているぐらいだもの。あぁ、なんだか今日は小説の先達に向かって大きな口を叩きすぎている気がするな。

追記2:ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をいろんな人が推している。『罪と罰』なら読んだことがあるが、どうもこっちの方が最高傑作らしい。それもドストエフスキーの中ではなく、小説の中で。
 人中の呂布、馬中の赤兎、小説のカラマーゾフ兄弟みたいなものか。
 新しく本も出したことだし、ようやく重い腰を上げて件の本を求めに本屋へ行った。しかし本屋を出た時に私が持っていたのは『悪霊』という本だった。タイトルの響きがカッコよかったから。題名って大切!

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