最初に言っておくが、ぼくは「hello world」に嫉妬している。いや、尊敬している……と言いながら、ちょっとだけ見下してもいる。あんなに短いのに、あんなに使われて、あんなに意味を背負っている。文学においては、短くても名作はある。芥川の『鼻』とか、川端の『掌の小説』とか。でも「hello world」は、それらとは別の、得体の知れない文学性を持っている。そう、プログラミング界の俳句だ。

ぼくがはじめて「hello world」を書いたのは、高校の情報の授業だった。全員が黒い画面に向かって「hello world」と打ち込む。打った瞬間、先生が「おめでとう。君たちは今、世界に挨拶した」と言った。何を言っているんだと思ったが、今にして思えば、あれは文学的な儀式だったのかもしれない。つまり「誕生」だ。言葉による存在の宣言。赤子の産声が「オギャー」なら、プログラマの産声は「hello world」なのである。

しかし、それにしても――

なぜ「こんにちは、世界」ではないのか?
なぜ「お疲れさまです、世界」ではなく、あえて「hello」なのか?
英語じゃなきゃダメなのか? 文字コードの問題か?
いや、これはもっと深い問いだ。言語以前の、存在の問題なのだ。

考えてみてほしい。
この世界に生まれ落ちた瞬間、あなたはなんて言う?
たぶん、何も言わない。泣くか、寝るか、うんちをするかだ。
でもコンピュータは、最初からしゃべるのだ。

「hello world」

彼らは、生まれた瞬間から世界と対話しようとする。これはもう立派な文学ではないか? ぼくなんか30年近く生きてるけど、まだ世界にちゃんと挨拶してない。ずっと引きこもってるし、隣人とも会話してない。「おはようございます」って言えたら、その日は勝ちなのに、PCは電源入れたらすぐ「hello world」だ。まぶしい。まぶしすぎる。プログラムというより、希望だ。理想だ。

しかも、「hello world」はすぐ消される。次のコードで上書きされて、for文に追いやられ、if文に囲まれ、やがて関数にされて、オブジェクトにされて、フレームワークの奴隷にされていく。だが、最初のあの一行だけは純粋だった。まるで少年期の夏休みのように。

文学は、そういう一瞬を切り取るものだと思う。たった一行で、何かを伝える。「私は生きている」と。「ここにいる」と。「hello world」と。

ぼくの人生も、そろそろ「if」から「else」に分岐したい。そろそろ何かを出力したい。でも、まだ準備中だ。コードは書きかけだ。バグも多い。だから、まずはもう一度、初心に戻ろう。

print("hello world")

……ああ。やっぱり泣けるな、これ。