書店に平積みされた新刊の帯が、今日も私をげんなりさせる。「注目の新鋭女性作家が描く、息詰まる日常と解放」「女性ならではの繊細な感性が紡ぐ、私たちの物語」。はい、出ました。十八番の謳い文句。
私はこういうのを見ると、その本をそっと棚に戻すことにしている。これは長年の読書経験から編み出した、極めて精度の高い「つまらない小説見極め術」である。なぜなら、こういうキャッチコピーが躍る小説は、十中八九、中身がないからだ。「女性ならではの感性」「抑圧された女性のナントカ」「女性の生きづらさ」。そんなものを看板に掲げなければならない時点で、他に誇れる強みが何もないと白状しているようなものではないか。
「それは女性差別!」という声が聞こえてきそうだ。やれやれ。では、私の持論の正しさを証明するために「フェミチェック」をしてみよう。これは主語の男女を入れ替えてみるだけという、至極簡単な思考実験だ。
さあ、ご一緒に。
「男性ならではの感性」
「抑圧された男性の苦悩」
「男性の生きづらさ」
どうだろう。どうしようもなくカスの匂いがプンプンしないだろうか。おそらく、くたびれたサラリーマンが安酒場で管を巻いているような、自己憐憫に満ちた物語が目に浮かぶはずだ。もちろん、そういう小説がある種の境遇にある人たちの、束の間の息抜きになることまで否定はしない。だが、それが普遍的な支持を得られるか?ドストエフスキーやカミュと並んで、100年後も読み継がれるか? 否、断じて否。おそらく、共感して読んだ当人ですら、二度と本棚から引っ張り出すことはないだろう。
なぜなら、私たちが小説を読むとき、そこに求めているのは「女性」でも「男性」でもない。「人間」だからだ。性別や国籍や年齢なんてものは、その「人間」を構成する無数の要素の一つに過ぎない。いわば、料理におけるスパイスのようなものだ。スパイスだけで腹が膨れるか? メインディッシュであるべきは、どうしようもなく愚かで、滑稽で、時に崇高で、愛おしい、「人間」そのものの姿のはずだ。
この話は、なにも男女に限らない。「〇〇というマイノリティである私の痛み」「〇〇という弱者である私の視点」。そういう属性を声高に叫ぶだけの作品は、等しくカスだ。それは文学ではなく、身の上話か、よくて告発文だ。物語の強度で戦うことを放棄した、甘えの構造でしかない。
では、なぜ「〇〇の生きづらさ」だけが、いっぱしの文学作品であるかのような顔をして、まかり通っているのか。
答えは簡単だ。それは、作り手と、そして我々読者の側に巣食う「差別心の裏返し」だからに他ならない。「〇〇は感性の生き物」「〇〇はか弱く、虐げられている」。そんなステレオタイプに、出版社も読者も無意識に寄りかかっているのだ。だから「〇〇の感性」は商品になるが「男性の感性」は珍奇なものにしか見えない。その非対称性こそが根深い差別の証拠ではないか。
「感性」を売りにする出版社が、安易な「属性」という名のラベル貼りに精を出す。その結果、本当に鋭敏な「感性」を持った読者が、その薄っぺらさを見抜いて離れていく。分かってやっているならカスだし、分かっていないのなら救いようがない。
出版不況だなんて、何を今更。当たり前の話じゃないか。






























