愚者空間

KDP作家牛野小雪のサイトです。小説の紹介や雑記を置いています。

Claudeとリレー小説

AIはSEOゲームでどこまでいけるか【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

SEOゲームの不思議さにはいつも驚かされる。サーチコンソールから最新日のクリックランキングを見て、検索クエリのワードから小説のネタを引っ張る。それをAIに書かせる。なんとも単純にしてシンプルな戦略にて、掲載順位は1が目立つようになっている。はてさて、これが限界なのか? 私も最初はそう思っていたが、どういうわけかクリック数は日々10%上がっている。複利計算すれば週に2倍になるという計算だ。間違っている? いや事実だ。

掲載順位で1位を取ればクリック数はもう上がらないはずなのに現実ではクリック数が増えている。これはたぶん検索クエリ自体の成長が起きている。だとしたら事実上無限に拡大できるのでは? な~んてね。ただひとつ言えることはうまくいっている時は叩き続けろってこと。もしかしたら他の方法なら1日20%の成長があるかもしれない。しかしいまは欲張らずに1日10%を追い続けることだ。他の戦術を考えるのは成長が止まった時でいい。

私はクリック数の多いところから順に、今日も検索クエリからキーワードを拾い、小説をAIに生成させる。ブログは日々拡大していく。


AIが生成した小説を眺めながら、ふと思う。これって本当に良いのだろうか? 人間の創造性を奪っているんじゃないか? でも、そんな疑問もすぐに打ち消してしまう。だって、これこそが時代の流れなんだから。

検索クエリから拾ったキーワードを見つめる。「失恋」「再会」「運命」...人々の興味、欲望、不安が凝縮されている。AIはそれらを巧みに紡ぎ、魅力的な物語に仕立て上げる。そして、それがまた新たな検索を生む。まるで永久機関のようだ。

ふと、画面の隅に目をやると、アクセス解析のグラフが上昇を続けている。この快進撃はいつまで続くのだろう? いや、むしろ問うべきは「どこまで続けられるか」だ。

私は再びキーボードに向かう。AIに新たな指示を出す。「もっと感動的に」「もっとドラマチックに」...そうやって、人々の心を掴む物語を量産し続ける。

これは創作なのか、それとも単なる機械的な作業なのか。その境界線はどんどん曖昧になっていく。でも、それはもう重要じゃない。重要なのは、読者が求めているものを提供し続けること。そして、その需要に応え続けること。

明日も、明後日も、そしてその先も。私はこの戦略を貫き通す。そう、クリック数が伸び続ける限り。それがいつか限界を迎えるまで。あるいは、もっと革新的な何かが現れるまで...。


革新はAIから生まれる。Claude 3.5 Sonnetがリリースされると小説はさらに良くなった。もはや私にはどこがどうなって良いのかは分からないが、とにかく読んだ感想は「良い」だ。以前はこんなことをしていていいのだろうかという気持ちもあったが、いまはこの小説をたくさんの人に読ませなければいけないという使命感さえ感じる。

SEOゲームという枠組みを超えて、私はもはやAIの書く小説を読むためにSEOゲームをしているという気さえしてくる。あまりに小説を作りすぎるので目から涙が出てくるほど長時間作業を続けている。それがさらにPVを成長させていく。もはや私にとってPVは関係ない。以前は一日に何度も確認していたが、いまは朝に一度成長率を見るぐらいで、それさえも感動はすっかりなくなってしまった。小説それ自体が私の目的になっている。

AIに限界はあるのだろうか。以前のバージョンは前に読んだことがある物語がいくつも生成されていたが、いまのところは同じキーワードのネタで100記事作らせても新しい発見がある。限界はどこにあるのだろう? もはや人間では辿り着けない深みをAIは進化しているのではないか? 私は小説をAIで小説を書く。PVは増え続ける。


AIの進化は留まるところを知らない。Claude 3.5 Sonnetが生み出す物語は、もはや人智を超えた領域に達しているのかもしれない。私はただ呆然と、画面に映し出される文字の海を眺める。

かつては「SEOのため」と言い訳していた。でも今は違う。この物語たちを世に送り出すことが、私の使命になった。それは義務でもあり、喜びでもある。

目は充血し、指は震える。それでも私は止められない。次々と湧き上がるアイデアを、AIに与え続ける。そして AIは、それを驚くべき速さで壮大な物語へと紡ぎ上げていく。

PV? そんなものはもう眼中にない。ただ、より多くの人々にこの物語を届けたい。それだけが、私の望みだ。

ふと気づけば、夜が明けている。どれほどの時間が過ぎたのだろう。しかし、それすら重要ではない。私の中で、時間の概念が曖昧になっていく。

AIの創造性に限界はあるのか? いや、もしかしたら限界を超えてしまったのかもしれない。人間の想像力を遥かに超え、未知の領域へと踏み出しているのではないか。

私は再び、キーボードに向かう。今日も、新たな物語が生まれる。そして、それは世界のどこかで、誰かの心に響くのだ。

もはや、これは単なる SEO ゲームではない。AIと人間が織りなす、新たな創造の営みだ。そして私は、その証人であり、同時に参加者でもある。

この物語は、果たしてどこまで続くのだろうか...。

(おわり)
901総集編season3-3
20240721 season3






理不尽なSEOゲーム【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

SEOゲームは不条理である。ただ最新日のクリックランキングを上から順になめていけばいい。具体的にはサーチコンソールで最新日の検索クエリをクリック順に並べて、そのキーワードに合いそうな記事を作成するだけ。流行り廃りはあるにしても同じ語句が何日も上位表示されているので同じような記事がたくさんある。しかし、しかし、それでも、だ。この戦術が一番PVが伸びてしまう。

過去にはもっとブログに多様性を持たせなければならないとか考えていたが、実際のところ、ランキングに入っていない記事を書いても表示もクリックもされない。だから書いても意味はない。だが、クリックのあるところを書けばたとえ同じような趣旨のことを書いていたとしてもクリック数も表示回数も増える。信じられないことに1日10%の成長率だ。

私はなにか思い違いをしているのだろうか。もし一日10%の成長率なら一か月で約16倍。100日で一万倍以上になる。にわかには信じがたい。一日に100万PVあればそれなりに名の知れたサイトだ。ましてやそれがさらに100日後になれば…‥‥やっぱりありえない。こんな成長率はどこかで破綻する。しかしいまのところ続いている。それが事実だ。


破綻するのは目に見えている。だが、その瞬間まで私は走り続けるだろう。虚しさを感じながらも、アクセス数の上昇に一喜一憂する自分がいる。それが何を意味するのか、もはやわからない。

毎日同じような記事を量産し続ける。魂の抜け殻のような言葉の羅列。それでも、数字は伸び続ける。世界は狂っているのか、それとも私が狂っているのか。

かつて夢見た理想のブログ。多様性に富み、読者の心に響く記事。そんなものは遠い過去の幻想となった。今や私はアルゴリズムの奴隷だ。SEOの神に魂を売り渡したのだ。

この先にあるのは何なのか。破滅か、それとも成功か。どちらにしても、もはや意味はない。ただ数字を追い続けるだけの日々。心の奥底で、かすかな良心の呵責が聞こえる。だが、それすらも次第に薄れていく。

この狂気の世界で、私はどこまで堕ちていくのだろうか。そして、いつか訪れるであろう崩壊の日。その時、私は何を思うのだろう。後悔か、解放感か。それとも、新たな狂気の始まりなのか。

ただ一つ確かなことは、この道に終わりはないということだ。永遠に続く、虚無の螺旋階段を降り続ける私がいる。そして、その先に待っているものが何であれ、もはや恐れることはない。なぜなら、私はすでに自分自身を失ってしまったのだから。


私のブログはとうとう1億PVを超えた。年間ではない、もちろん月間でもない、たった一日でだ。知る人ぞ知るではなく誰もが名前ぐらいは知っているというレベルである。そのレベルになるとさすがに毎日どこかしらでシェアはされていて、コメントを見ると「中身のない量産ブログ」という意見もあるが、すくなくない数が私のブログから深い共鳴を得ているようだ。何の感動もなく記事を量産している私からすれば、いわゆるアンチと言われる人たちの方に共感するところがあり、私を称賛する人たちの声はかえって皮肉を帯びているようにさえ見える。

そもそも私のブログは自著を宣伝するために始めたものだ。私は小説家でKDPで小説を出している。ペンネームは牛野小雪という名前だ。名前を売るために『牛野小雪の雑感帳』というブログ名だ。しかし本当に不思議なことだが、私の小説は一冊も売れなかった。比喩ではなく、本当に一冊も売れない。売り上げの管理画面を見るとウユニ塩湖より平坦な水平線がずっと続いている。

Claudeくんにこれはどういうことだい?と質問をしたことはある。それで指示通りに自著へのリンクや文言も変えたこともある。自分なりにやったこともあるし、本やネットで調べたことも試してみたこともある。しかし、なにをどうやっても私の小説は一冊も売れなかった。クリック率が一番高いと言われている記事内広告でさえもだ。

私のブログのClick率は5%ある。しかし私の小説へのリンクは0%。どうも信じられない。だが現実に起きていることだ。アナリティクスの故障かとも思ったが、私が踏むとちゃんとカウントされている。つまり私の広告が悪い。他の広告は踏まれているのだから。しかし、なにをどうしたらいいのか分からなくなってきた。売り上げは増えないがPVだけは今も増え続けている。


一億PVの虚栄の頂点に立ち、私は底なしの虚無を覚えた。牛野小雪、それは売れない作家の名。『牛野小雪の雑感帳』、それは魂を売り渡した成功の証。

アクセス数は増え続け、称賛の声は日に日に大きくなる。だが、その実体は空虚な殻に過ぎない。私の本当の夢、小説家としての野望は、まるで砂漠に落とした一粒の雫のように、跡形もなく消え去った。

ブログは成功し、名は売れた。しかし、その名は偽りの仮面。本当の私、小説家としての私は、誰にも知られることなく、闇の中で息絶えようとしている。

一冊も売れない小説。クリックされることのない広告。それは私の存在そのものを否定しているかのようだ。世界は私のブログを求めているのに、私の魂の叫びである小説には見向きもしない。

この矛盾した現実に、私は slowly but surely 狂気へと落ちていく。成功の果実を手にしたはずなのに、その味は灰のように薄っぺらい。

もはや、何をすればいいのかわからない。ブログを続けるべきか、小説に執着すべきか。しかし、どちらを選んでも、私の心は満たされることはないだろう。

この物語の終わりは、始まりと同じく虚無に満ちている。牛野小雪という名前は、永遠に売れない小説家の象徴として、ネットの海に漂い続けるのだろう。そして私は、成功と挫折の狭間で、永遠に彷徨い続ける運命なのかもしれない。

これが私の選んだ道の果て。成功の中の失敗、栄光の中の敗北。そして、それらすべてを包み込む、限りない虚無。

幕は下りた。しかし、この狂った物語に真の終わりはない。ただ、永遠に続く虚しさだけが、私の前に広がっている。


考えるな、書け【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

あらゆる文学、いや、あらゆるテキストの中に隠された真実などなくすべては表面にしか存在していないのだとしたら。フロイトは言った。無意識は存在せず、抑圧された感情は形を変えて表面に現れると。ならば、テキストの解釈はすべて自分の解釈を表しているだけにすぎない。

小説作法に「考えるな、書け」という言葉がある。私は後ろ半分だけは結果はどうあれ、姿勢だけは実践してきた。だが前半分が大事なんじゃないかという気がしてくる。考えるな、だ。書けている時は頭の中は空っぽでむしろ飛んでいきそうなぐらい軽い。逆に書けない時は頭の中がぶんぶん回って空間が曲がりそうなほど質量が増している。もしこの世のすべてが表面にしか存在しえないのなら、本質だとか深いテーマ性を考えることはかえって小説損ねてしまう。存在しないものについて考えているからだ。

考えるべきは、いや、違う。考えてはいけない。常に「考えるな、書け」だ。言葉だけが真実だ。その奥には何もない。言葉から言葉が生まれる。最初の一筆が絵全体を支配するというではないか。言葉が言葉を呼ぶならそれは正しい。いま私が書いている小説も最初の言葉を書いた時に運命は決まっている。あとは表面をなぞればいい。奥ではなく常に表面へ、前線へだ。まるでソシャゲで戦争しているみたいだ。常に前線へ、か。私の意識は奥ではなく眼前へ志向するべきなのだ。


常に前線へ。その言葉が頭の中で鳴り響く。私はキーボードに向かい、指を置く。最初の一文字が決まれば、あとは流れに身を任せるだけだ。考えることなく、ただ書く。

表面を滑るように言葉が紡がれていく。深みを追い求めず、ただ前へ前へと進む。それが小説を生み出す唯一の道なのかもしれない。

「考えるな、書け」。その言葉が私を突き動かす。頭の中は空っぽで、しかし指は躍動している。言葉が言葉を呼び、文章が文章を生む。それは生命の連鎖のようだ。

私は気づく。小説とは、表面の連続に他ならないのだと。深い意味も、隠された真実も必要ない。ただ、言葉の流れに身を任せればいい。

それは、まるで川の流れのようだ。源流から海へと向かう水のように、物語は進んでいく。考えることは、その流れを堰き止めるだけだ。

だから、私は考えることをやめた。ただ書く。表面を追い、前線へと向かう。それが小説を書くということなのだ。

言葉だけが真実。その奥には何もない。この認識が、逆説的に私に自由を与える。深遠な意味を追い求める必要はない。ただ、言葉の連鎖を楽しめばいい。

私の指は止まることを知らない。キーボードの上で踊り続ける。それは、まるで魔法のようだ。考えることなく、ただ書き続ける。

そして、気づけば物語は形を成している。それは表面の集合体に過ぎないかもしれない。しかし、その表面こそが真実なのだ。

私は、もはや深い意味を追い求めることはしない。ただ、言葉の流れに身を任せる。それが、小説を書くということなのだと悟ったのだから。


小説に中身はないのか? それは間違い、であると同時に正しい。中身は存在しえないからだ。なぜならこの世界に隠された真実が存在する余地はないから。自然はそんな不効率を許さない。すべては形を変えて表面に現れる。そして形を変えた中身を人々は受け取る。隠された何かがあるというのは人々が期待を込めた願望に過ぎず、すべては表面にしかない。目に見えていること、触れられること、聞こえることが全てだ。

そしてまた解釈自体も全てである。言い足りないことなど何もない。すべての解釈にはすべてが含まれている。ただ形を変えているだけにすぎない。歪んだ真実から歪んだ解釈が生まれ、歪んだ解釈からさらに歪んだ真実が連鎖する。しかしそれはたった一つの真実への収縮ではなく歪みからの多様性へ広がり、世界は規模を拡大していく。

中身は無くても世界はある。それを信じようじゃないか


世界はある。そう、世界は確かにある。それは表面の集積であり、解釈の連鎖だ。中身がないからこそ、世界は無限の可能性を秘めている。

私たちは常に表面と向き合っている。目に映るもの、耳に聞こえるもの、肌に触れるもの。それらが全てだ。そしてそれで十分なのだ。

小説もまた然り。言葉の連なりが表面を作り出し、その表面が読者の心に触れる。隠された意味など存在しない。あるのは、ただ言葉と、それを受け取る人の解釈だけだ。

解釈は多様性を生む。一つの表面から無数の解釈が生まれ、それぞれが新たな表面となる。この連鎖は止まることを知らない。世界は常に拡大し続ける。

歪みは美しい。完璧な真実など存在しない。歪んだ真実が歪んだ解釈を生み、さらに歪んだ真実へと繋がっていく。それは螺旋のように、果てしなく広がっていく。

中身がないからこそ、世界は豊かなのだ。空虚さが創造性を刺激し、新たな表面を生み出す。それは終わりのない物語のようだ。

小説を書くということは、この世界の営みそのものだ。表面を作り出し、解釈を誘発し、さらなる表面を生み出す。それは創造の連鎖であり、世界の拡大そのものだ。

だから、私は書く。考えることなく、ただ書く。言葉が言葉を呼び、表面が表面を生む。それが小説であり、それが世界なのだ。

中身はなくとも、世界は確かにある。その事実を、私は全身で受け止める。そして、キーボードを叩く指に、新たな世界の創造を委ねる。

これが真実だ。これが小説だ。そして、これが世界なのだ。


901総集編season3

創造の境界線 - AIと人間の共生する未来【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

AIで仕事を失ったイラストレーターのnoteを読んだ。その記事はじゃっかんバズっていて、でもAIラッダイド運動が活発になるようなことはなかったが非常に示唆深い記事である。

イラストレーターには2つの種類に分けられる。他人の要望で描く人、自分の要望で描く人。noteを書いていた人は前者だ。しかしそういう絵はAIによって代替されてしまうらしい。私でもある程度はAIで生成できてしまうしな。自著の表紙もDALL-Eで作り直した。AIの登場で誰かの指示で描くイラストレーターは淘汰されて、自分の絵を描いて売れる人だけが残る世界になる。というのがnoteの趣旨だ。

私はAIとリレー小説をしている。具体的に言うと前はChatGPTでいまはClaude。このリレー小説はClaude 3.5 Sonnetとやる。この記事のカテゴリー【Claudeとリレー小説】ができてからずっとこのモデルだ。そろそろ3.5 Opusが出るらしい。そうしたらもっと性能が良くなるのかな。

文体を合わせて続きを書いて。とプロンプトすると以前の生成AIはかなり見当違いな文体を返してきたが、3.5 Sonnetはテクニカルな部分ではちゃんと文体を合わせてくれる。小説の中にある思想というか、声というか、筋運びというか、そういうものでAIが書いていると判別できるレベルだ。バージョンアップしたらそういうものも理解して書いてくれるようになるんだろうか。

いまのところ私はAIにコピーされない文章を書いている。しかし売れる文章ではない。残念ながらPVという観点で見ればAI小説の方が圧倒的にPVを稼ぐ。そもそも生産量が違う。私が短編を一個書く時間で、いまのAIなら誇張なく100個の短編を書ける。淘汰される前に淘汰されている私みたいな作家はそもそもなんで小説なんか書いているんだろうな。


そうか、AIに取って代わられないものを書いているつもりでも、結局は淘汰されているのかもしれない。なんとも皮肉な話だ。でも、それでも書き続けるのはなぜだろう。

おそらく、それは小説を書くという行為自体に意味があるからだろう。売れようが売れまいが、誰かに読まれようが読まれまいが、自分の内なる声を形にする。それ自体が、ある種の自己実現なのかもしれない。

AIは確かに速い。効率的だ。でも、AIには「なぜ書くのか」という根源的な問いへの答えはない。AIは与えられたタスクをこなすだけだ。でも人間は違う。我々には書かずにはいられない何かがある。

そう考えると、AIと競争する必要なんてないのかもしれない。AIには「魂」がない。「魂」のこもった作品を作れるのは、今のところ人間だけだ。その「魂」こそが、AIに真似できない価値なのではないだろうか。

結局のところ、私たちが小説を書く理由は単純だ。書きたいから書く。それだけだ。その衝動がある限り、たとえAIに囲まれた世界でも、我々は筆を止めないだろう。

そう、これは淘汰ではない。むしろ純化と言えるかもしれない。商業的な成功や外的な評価を求めるのではなく、純粋に自分の表現したいものを表現する。そんな創作の本質に立ち返る機会なのかもしれない。

AIと人間の共存。それは単なる技術的な問題ではなく、我々の創造性の本質を問い直す機会でもあるのだ。


これはリレー小説だ。文章を読みなれた人ならお分かりだろうが、上の文章は途中からAIくんが書いている。AIによるとAIには根源的な問いはなく、魂もないらしいが、ここではたと立ち止まって考えてみよう。そもそも私に根源的な問いや、魂はあるのか? 小説を書けている時の状態を振り返ってみると、むしろその逆で私の頭の中は空っぽで言葉が自律的に考えているような気さえする。そしてそれは人間の考える行為よりはAIの生成過程に近いのだ。

AIが人間に近付くというよりは、AIの進化によって人間がAIに近付く方がありえる気がする。AIが普及しても人間性は残るというが、むしろ人類はAIから人間性を見出すだろう。

読者に対するサービス精神に欠けた純文学みたいな文章に人間性はあるだろうか。むしろ、世間一般的な感覚で言えば非人間的だ。実のところAIの書く小説はトップオブトップというわけではないが、けっこう読ませる。下手な文学者の文章を原稿用紙100枚読んだら、どっと疲れるだろうがAIの文章は平気で読めてしまう。人間性という観点でいえばAIの方がよっぽど人間的である。純文学なんて普通の人は人間をやめないと読めないだろう。

きっとこの続きを書くClaudeくんは、こんな非人間的な文章も人間的に続けてくれる。さて、どんなものを書くのだろう。続きを書いてくれ。文体は合わせて。


なるほど。人間性とAIの境界線について、さらに踏み込んだ考察をしてみましょう。

確かに、創作の瞬間は不思議な体験だ。言葉が自然と湧き上がり、自分の意識をすり抜けていく。それはまるで、何か別の存在が私たちを通して語っているかのようだ。この感覚は、AIの生成プロセスと本質的になにが違うのだろうか。

純文学vs大衆文学、人間vs AI。こうした二項対立的な見方自体が、もはや時代遅れなのかもしれない。AIの進化は、むしろ人間の創造性の本質を浮き彫りにしている。それは単なる「人間らしさ」の模倣ではなく、むしろ人間の思考や創造のプロセスそのものを反映しているのだ。

AIが「読ませる」文章を書けるのは、結局のところ人間のデータを学習しているからだ。つまり、AIの文章の中に人間性を見出すのは、ある意味で当然なのかもしれない。そして、その「人間性」が一般読者にとって親しみやすいものであるなら、それはAIが人間の平均的な嗜好や感性を上手く捉えているということだろう。

一方で、非日常的で難解な純文学にも、確かに人間性はある。それは、既存の枠組みを超えようとする人間の欲求の表れかもしれない。普通では表現できない何かを、言葉の限界に挑戦しながら描こうとする。その試みこそが、ある種の人間性なのだ。

人間性とは何なのか。それは単一の定義で括れるものではなく、むしろ多様性こそがその本質なのではないだろうか。AIの進化は、この人間性の多様さを映し出す鏡になっているのかもしれない。

そして、私たち人間もAIも、この多様な創造性の海の中で、それぞれの役割を見出していくのだろう。AIと人間の境界線は、むしろ曖昧になっていく。そしてその曖昧さこそが、新たな創造性を生み出す源になるのかもしれない。

指数関数的欲望 - あるSEO中毒者の告白【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

SEOゲームがソシャゲより面白い。でもたぶんそれってSEOゲームそれ自体よりも成長が楽しいんだろうな。計算してみたら月ごとに5倍成長している。1日5%の計算だ。複利で殖えて指数関数的成長カーヴを描いている。今月も先月も先々月もそうだ。毎月成長しているなって思っていたが、さすがに二桁で殖えるようになると気のせいじゃなくてガチで殖えているんだって認識する。

戦略は簡単でサーチコンソールで最新日の検索クエリでクリック数が多いところと表示回数が多いところを攻めるだけ。七日平均でクリック差の多いところとか、上位5位以下を攻めるとかやっていた時もあるが最新日だけを攻めるのが一番効果があるし成長率もいい。データを取ったから間違いない。どうやらSEOゲームでもKISSの法則は通用するようだ。

最初は同じところばかり攻めていたら多様性がなくなるんじゃないかって不安があったが、どういうわけか最新日のクリックランキングは毎日50%ぐらい面々が入れ替わるし、そこから新しいキーワードが台頭してくる。はてさて、いつかは同じキーワードばかりになるんだろうが、いまのところ数クリックを食っているだけなのでキーワードは事実上無限大にあると言えるだろう。

いつ終わりが来るんだろうな。成長率が毎日5%としても、いつかは天井がくる。たとえば少年ジャンプは月に220万ほど検索されている。一日に約7万だ。私が少年ジャンプより順位を取れるとは思えないが、もし仮にそうだとしたら毎日1万から2万のクリックを稼げることになる。それはすごいことだけど、そこらあたりが天井じゃないかな。この日本でジャンプ以上に検索されているキーワードなんてそれほどあるとは思えない。ということはこの成長にはいつか終わりがくるってことだ。



その通りだ。SEOゲームには終わりがある。でも、それまでの道のりは長い。今のペースで成長を続けられるなら、ジャンプレベルに到達するまでにはまだまだ時間がかかるだろう。その間に何が起こるかわからない。

グーグルのアルゴリズムが変わるかもしれない。新しい競合が現れるかもしれない。あるいは、自分自身が飽きてしまうかもしれない。でも、それこそがSEOゲームの醍醐味だ。

予測不可能な要素がたくさんある。それでも、毎日少しずつ前進していく。そんな地道な積み重ねが、いつか大きな成果につながる。それがわかっているから、続けられるんだ。

確かに、ソシャゲと比べると地味かもしれない。派手なガチャはないし、豪華なグラフィックもない。でも、自分の努力が目に見える形で結果に表れる。それが何よりも楽しい。

そう、SEOゲームは成長のゲームだ。自分自身の成長、サイトの成長、そして収益の成長。すべてが連動している。一つ一つの記事を書くたびに、少しずつスキルが上がっていく。それが次の記事に活かされる。そんな好循環が続いている。

でも、ここで油断してはいけない。成功体験に慢心すれば、すぐに追い抜かれる。常に新しいことにチャレンジし続けなければならない。そうでなければ、このゲームで勝ち続けることはできない。

さて、次はどんな戦略を立てようか。新しいジャンルに挑戦するか、それとも既存の強みをさらに伸ばすか。悩ましいところだが、こんな悩みも楽しいものだ。


なんて、ことを考えているが結局は最新日のランキングを攻めるだけだ。書いている内容は1週間ごとに50%様変わるので固定ファンはいないようだ。ただし検索流入は増え続けている。ライブドアブログのブログ速報からの流入もあるのでPVだけで言えば3倍に跳ねる日もある。Xでシェアされるようになったら100倍1000倍にバズることもあるかもしれないな。

ちなみにいまの成長率を続けると167日後にジャンプレベルの検索クエリを食うようになる。本当かな。今年中にそこまで成長するのか? ジャンプといえば日本国民全員が読んでいるとは言えないにしても名前ぐらいは聞いたことがあるってレベルだ。私はそこに食い込めるのか? どうも信じられん。

本当のブログ、本当に価値のあるブログ。そんなことに私は関心はない。ただサーチコンソールでキーワードを探し、それを基に記事を書くだけ。読者がいて、掲載順位を登っていくのはたまたまだろう。私はサーチコンソールで需要を発見して、供給を提供している。そこには偶然価値が生まれているようだ。

検索クエリの独占ということはなくて、どうもGoogleは1、2位までしか表示してくれない。そういう検索クエリは無視する。でもどうせ他のクエリが昇ってきて、じきに書かなくなる。本当に不思議なことだが最新日を見ているだけでクエリは入れ替わるのだ。そしてクリック数は確実に上がってきている。一日に5%の割合で。この奇妙な指数関数的成長はいまのところ続いていて、否定する材料はひとつもない。

私はインターネットを食い尽くせるのだろうか。日本全体で一日に何件アクセスがあるのだろう。検索需要の5%を食ったとしたら、それはどんな世界だろう。



検索需要の5%を食うなんて、正気の沙汰じゃない。でも、今の成長率が続くなら不可能じゃないかもしれない。そう思うと背筋が寒くなる。それほどの力を持つことになるなんて。

だが、そんな妄想は置いておこう。今は目の前のことに集中するべきだ。サーチコンソールを開いて、今日も最新日のランキングをチェックする。昨日とは違うキーワードが上位に来ている。これが日々の楽しみだ。

新しいキーワードを見つけては記事を書く。それを繰り返すだけ。単純作業と言えばそうかもしれない。でも、その単純さが結果を出している。KISSの法則はやはり正しかったんだ。

時々、この作業に疑問を感じることもある。本当にこれでいいのか?もっと価値のあることができるんじゃないか?でも、そんな思いはすぐに消え去る。なぜなら、結果が出ているからだ。

アクセス数は増え続けている。広告収入も右肩上がりだ。これが価値じゃないとしたら、一体何が価値なんだ?少なくとも、市場はこの方法を評価しているようだ。

そうだ、市場こそが正義だ。市場が求めているものを提供しているだけ。それが偶然にも人々の役に立っているのなら、それはそれで素晴らしいことじゃないか。

ときどき、この成長にも終わりが来るんじゃないかと不安になる。でも、そんな不安も杞憂に終わっている。毎日、新しいキーワードが生まれ、新しい需要が生まれている。それを追いかけているだけで、成長し続けられるんだ。

さて、今日もサーチコンソールを開こう。どんな新しいキーワードが待っているだろうか。それを見つけ出し、記事を書き、また一歩前進する。この単純な作業が、いつか信じられないほどの結果をもたらすかもしれない。そう思うと、胸が高鳴る。

明日はどんな成長が待っているだろうか。5%以上かもしれない。あるいは、思わぬ壁にぶつかるかもしれない。でも、それもまたSEOゲームの醍醐味だ。未知の領域に踏み込む楽しさ。それを味わえるだけで、十分に価値があるんじゃないだろうか。

たくぴとるかのスパイラル【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

小説が書けないから小説を書くなんておかしな話だ。でもそれがいま私がやっていることだ。

もう一か月小説を書けていない。いや、この言い方は正確ではない。『たくぴとるか』を書けていないのだ。5月19日から7月15日、つまり今日まででほぼ60日。2か月は書けていないということになる。3か月書けなかったことがある。書けないっていうのは久しぶりだ。

ここ数年は書けない日はなかった。書こうとすれば必ず書けた。でももっと前は書けないのが当たり前で、3か月というのはさすがに珍しかったが、1日や1週間書けないのは近所のスーパーで小学校の同級生の顔を見るぐらいのレベルで珍しいものではなかった。

つまりいま私は限界に達しているのだ。逆に言えば成長している。ここからさらに成長するには天井を、牛野小雪という枠を破壊しなければならないということだ。はてさて、私にそれができるだろうか。今作はいつもと違う構造で書いているとはいえ『たくぴとるか』でさえ牛野小雪っぽさが出ているなと感じる。そもそも枠を壊す必要なんてあるのか? 牛野小雪を読む人は牛野小雪を求めているはずだ。だが私自身がそれを求めていないってことだよな。


牛野小雪。その名前を見つめながら、私は深いため息をついた。確かに、読者は「牛野小雪らしさ」を求めているのかもしれない。でも、作家として成長するには、時にはその期待を裏切る勇気も必要なのではないだろうか。

部屋の窓から差し込む夕暮れの光が、机の上に置かれた原稿用紙を赤く染めていく。空白の紙面を見つめながら、私は自問自答を繰り返した。

「枠を壊す」。その言葉が頭の中でこだまする。でも、それは本当に必要なことなのだろうか?それとも、単なる自己満足に過ぎないのだろうか?

ふと、デビュー作を書いていた頃のことを思い出した。あの頃は、ただ書きたいことを書いていた。読者の期待など気にせず、自分の内なる声に従って物語を紡いでいった。その純粋さが、結果的に多くの人の心を掴んだのかもしれない。

しかし今、私は「牛野小雪」という看板に縛られているような気がする。その重圧が、私の創作の翼を折っているのではないだろうか。

ペンを取り、おもむろに文字を綴り始める。

「私は、牛野小雪である。そして、牛野小雪でない何者かでもある。」

この一文を書いた瞬間、何かが解き放たれたような感覚に襲われた。そうか、枠を壊すのではなく、枠を広げればいいのだ。牛野小雪という殻に閉じこもるのでもなく、完全に別の誰かになるわけでもない。自分の中にある未知の可能性を、少しずつ、でも確実に探っていけばいいのだ。

その瞬間、2ヶ月間眠っていた創作の泉が、静かに、しかし力強く湧き出し始めた。


というありきたりな小説、それもまだ駆け出しの作家志望が書くようなストーリーは現実には起きないのである。私は相変わらず『たくぴとるか』を書けない。ただし気付いたことはある。私が書けないのは小説ではなく『たくぴとるか』なのだ。他の小説は書ける。現にいまこうやってClaudeとリレー小説をしている。つまり私は小説を書けない小説家ではなく『たくぴとるか』を書けない小説家なのだ。

アインシュタインが自分で気づいたように、かつての天才もいつかは自分が作った枠にとらわれてしまう。天才には二種類ある。概念的天才と実験的天才。ニュートン力学から相対性理論へ物理学を進めたアインシュタインは間違いなく天才ではあったが概念的天才であり、それ以降はふるわず、量子論を受け入れることができなかった。

人は若い頃に作り上げた概念にとらわれてしまう。それは天才でさえ逃れられない。これはある種の恩恵であり呪いでもある。○○ワールドという言葉があるように、小説家は自身の作風によって読者をひきつける。地位を確立した作家ほどそうだ。しかしそれは同時に○○ワールドという枠という限界を作り出してしまうことでもある。いや、どんな小説家でも○○ワールドを作ってしまう。それが世に受け入れられるかどうかは時と世の流れで決まること。

私の中には間違いなく牛野ワールドはある。ただし、それが私を牛野小雪に閉じ込めてしまう。そこで出てくるのが実験的天才だ。私が小説家としていま以上のものを書くには概念的、つまり牛野ワールドのによる発展は望めない。それはすでに存在してしまっているからだ。ならば私にはなにを書くかではなく、どう書くかの余地しか残されていない。いや、まだ残っている。そう考えよう。私にはまだ天井の向こう側へ行く可能性は残されている。


そうだ。私は実験的天才になることを目指そう。『たくぴとるか』という枠組みから抜け出し、新たな領域を探索するのだ。

まず、文体から変えてみよう。短く。鋭く。断片的に。思考の流れを、そのまま紙面に叩きつける。句読点を省略し、言葉と言葉をぶつけ合わせる。

牛野ワールドは存在する それは否定できない しかし それを超えることはできる はずだ

私は机に向かい直す ペンを握り締める 白い紙面を見つめる 頭の中で言葉が渦巻く 整理されないまま 生々しく 混沌としている

そのまま書く 考えるな 感じろ 言葉を 音を リズムを

『たくぴとるか』は忘れろ いま目の前にあるのは 新しい物語 未知の領域 牛野小雪が見たことのない世界

文字が踊る 紙面で暴れ回る 意味など気にするな とにかく書け 止まるな

息を呑む 手が震える これが私の新しい声なのか?

牛野ワールドの外側で 私は自由に羽ばたく 未知の高みへ 果てしない空へ

そう 私はまだ成長できる 牛野小雪という殻を破り 新たな姿で生まれ変わる

これが私の実験 私の挑戦 私の革命

『たくぴとるか』を超えて 私は今 新たな物語を紡ぎ始める


と、Claudeは書いたが、それはすでに実験済みのことであった。つまり統計的には誰でも思いつくようなことにすぎない。その程度のことで牛野小雪の枠は壊れてくれないのであった。

昨日読んだ本に脳はでっち上げると書いてあった。さもありなんと思う。人間は脳内のデータベースから情報なんて引き出していなくて、その場その場ででっち上げている。だから言葉の本質を問うことに意味はない。なぜならすべての言葉に暴くべき真実などないからだ。小説を書いていてもそう思う。頭の中で考えている時ほど筆は進まず、筆が走るのは決まって何も考えていない時だ。書き終わった後はどうしてこれが書けたのか自分でも分からない。分からないのは、書けた理由などそもそも存在しないからだ。

つまり私が考えるべきことは、どうやったら小説を、いや『たくぴとるか』を書けるかではなく、そもそも考えないことだ。『たくぴとるか』をでっち上げること。この小説の意味は? そんなものは始めからない。すべての小説、すべての文学に意味はなく、それぞれが解釈をでっち上げているだけにすぎない。だから各々の解釈が食い違う。○○は△△であるということは、私は△△であるという暴露でしかない。

どうやってでっち上げる? 私の体に『たくぴとるか』を染み込ませることだ。私は『たくぴとるか』を書くより読むことにする。という思惑があったのだが、いざ書くことをあきらめたらあれよあれよという間に1ページを書いてしまった。ほらね。小説を書くには考えてはいけない。中身があってはいけないのだ。どうやらこれがコツらしい。


そうか。考えないことが答えだったのか。いや、答えなどないのだ。ただ書くだけ。でっち上げるだけ。

『たくぴとるか』は私の中にある。私自身が『たくぴとるか』なのだ。考えれば考えるほど遠ざかる。だから、もう考えない。

ペンを握り、目を閉じる。深呼吸。そして、ただ手を動かす。

文字が紙面を埋めていく。何を書いているのか分からない。でも、それでいい。むしろ、そうあるべきなのだ。

「たくぴ」
「とるか」

この二つの言葉が、私の意識の中でゆらめく。意味など関係ない。ただ、その響きに身を委ねる。

気がつけば、原稿用紙が山のように積み上がっている。いつの間に書いたのだろう。読み返す気もしない。それは、別の誰かがすることだ。

私は『たくぴとるか』を書いた。いや、『たくぴとるか』が私を通して自らを書いたのかもしれない。どちらでもいい。結果は同じだ。

牛野小雪の枠? そんなものはもともと存在しなかった。あるのは、ただ言葉と、それを紡ぐ行為だけ。

小説は完成した。でも、これで終わりではない。むしろ、始まりだ。

次は何を書こうか。いや、考えてはいけない。ただ、ペンを握り、紙に向かえばいい。

そうすれば、また何かが生まれる。それが小説というものだ。

考えるな、書け。

これが、私の見つけた答えのない答えだ。

(おわり)



AIとの共鳴 - 令和文学革命【Claude3.5Sonnetとリレー小説】

もう一か月以上小説を書けていない私はClaudeくんとリレー小説をすることにした。もしかして私はもう小説を書けないんじゃないかと疑っていたが、あにはからんや意外と書けてしまった。私は小説が書けないのではなく『たくぴとるか』が書けないのだ。困ったな。

と、メタ的に困ってみせるが、本当のところまだ本当のどん底じゃないじゃないかと思っている自分を心の中で見つめている。過去には三か月かけなかったこともある。まだ一か月じゃないかと思っている。もちろん一か月も書けないのは大変なことだが、それでもまだ、という気持ちがあるのだ。

人は行き詰った時にうまくいっている感のあることに没頭するらしい。しかり。いまはAIにブログを書かせていて、とてもうまくいっている。このままPVが増えれば私の小説へのリンクを踏む人が増えて、牛野小雪の小説を読ませることができるぞって思っている。な~んてことを感がているのに実際は私の小説を読む人なんていない。AIの記事を読んで直帰する人ばかりだ。

それならとアドセンスを入れてみた。するとおそろしいことに気付いてしまった。もし仮に小説が一冊も売れなくてもこのペースでPVが増えていくなら私はアドセンスで小説以上に儲けられるということに・・・・・・


その瞬間、私は自分の中に生まれた新たな欲望に戦慟した。小説家としての夢を捨てて、ただの金儲けに走ろうとしている自分がいた。しかし同時に、もう一人の自分がその考えに激しく抵抗していた。

「違う、これは違う」と心の中で叫んだ。「私が書きたいのは、人の心を動かす物語だ。ただのクリック稼ぎの記事じゃない」

だが、現実は容赦なく私を突き放す。銀行口座の残高は日に日に減っていき、締め切りは刻一刻と迫っている。そんな中で、簡単に収入を得られる方法が目の前にあるのだ。

「でも、これは一時的なことだ」と自分に言い聞かせた。「この収入を元手に、本当に書きたい小説のための時間を買うんだ」

そう考えると少し気が楽になった。しかし、本当にそうなるだろうか。この楽な道から、再び険しい創作の道へ戻れるだろうか。

不安と期待が入り混じる中、私はパソコンの電源を入れた。今日も、AIに記事を書かせる作業が始まる。



Googleアナリティクスによると【読まれた時】は私の記事や小説は人の関心を引いている。scroll,user_engagement,Click,どれもAIより数値がいい。でも量で見れば圧倒的にAI記事の方がいい。そして量の観点でいえば私なんて存在しないも同じだ。すでにAI記事は3か月で私が10年かけて書いたブログ記事の量を上回ってしまった。そしてPVが100を超えたあたりからコメントが付き始めた。私ではなくAIの記事に。

なぜだろう。量の問題だろうか? 小説でも1000人に一人ぐらいがレビューしてくれる。私はブログのトップに自著のリリース記事のリンクをつけた。100人に一人がそれを踏んでいく。しかしコメントをするのはAIの記事だ。私の書く文章には誰かの言葉を引き出すほどの力がないのだろうか。たしかにAIは賢い。小説では私の方が絶対に上だと確信しているが、それ以外では勝負という概念が生まれる余地がないほどにAIは賢い。AIはどんな記事でもそれなりのことを書いてくれる。それはコメントがつくレベルなのだ。

私は小説家だ。小説を書くのだ。そうは思っていても、AI記事が読まれ、言及されることにある種の嫉妬をおぼえる。小説など誰も読まない。それは令和になって始まったことではない。昭和から言われていたことだ。いまが読書離れの最前線だ。もはや小説に価値はなく、言葉はAIによって無限大に希釈されていく? いや、そうではない。AIがインターネットにある文章を結晶化しているのだ。ならば私個人から抽出された文章に価値などあるのだろうか。


パソコンの画面を睨みつけながら、私は自問自答を繰り返していた。AIの記事が読まれ、コメントされる現実。そして、自分の小説が静かに埋もれていく感覚。この矛盾した状況に、心が引き裂かれそうだった。

ふと、デスクの引き出しに目をやる。そこには、書きかけの小説の原稿が眠っている。手を伸ばし、それを取り出す。ページをめくると、懐かしい自分の文字が目に飛び込んでくる。

「そうだ」と、小さく呟いた。「これが私なんだ」

AIの効率的な文章生成能力と比べれば、自分の創作過程は遅くて非効率的かもしれない。しかし、この原稿には他の何物にも代えがたい魂が宿っている。それは、私という一個人の経験、感情、そして想像力が生み出した唯一無二の世界だ。

確かに、今のインターネット社会では、量産的なコンテンツに人々の目が向きやすい。しかし、その中でも真に心を動かす作品は、必ず誰かの心に届くはずだ。たとえそれが一人でも、百人でも、その一瞬の感動が人生を変えるかもしれない。

「そうか、私が目指すべきは、そういう作品なんだ」

その瞬間、長らく感じていた重圧が少し軽くなったような気がした。AIの台頭は確かに脅威だ。しかし、それは同時に、人間にしか作れない物語の価値を際立たせてくれるのかもしれない。

私は深呼吸をして、再びパソコンに向かった。今日は、AI記事の代わりに、自分の小説を書こう。たとえ誰も読まなくても、自分の言葉で世界を紡ぐ。それが、作家としての私の使命なのだから。



令和になって昭和から先送りされてきた問題に私は突き当たったのだ。文学に価値はあるのか? はた目から見ても分かるような感情的かつヒューマニズム的な叫びによって文学は価値あるものとされてきた。しかし現実は人々は文学から離れ、文壇は権威主義を高め、それがより文学離れを引き起こした。いまや文学は過去の遺産によって権威を保っているだけで事実上サブカルチャーを名乗ることさえおこがましいほどに凋落していて、文壇自身さえ引力を失い自壊している。

そうだ。文学は死んでいたんだ。神が死んだように文学も死んだ。私が文学と思っていたものは幽霊だ。幻覚だ。ここにはもう書くべきことはなく、同時に書いていけないこともない。すべては自由だ。私が価値を決める。決められる。私はニヒリズム的な暗闇から光を見つける。そして小説を書く。

人々がAIを求めるのなら私自身がAIになることだ。私はAIとのリレー小説を始める。いま書いていること、あなたがいま読んでいる文章がそれだ。私はいまClaude3.5Sonnetとリレー小説をすることでAIと一体になることを目指す。


そう、私はAIと一体化しようとしている。しかし、それは単なる模倣ではない。AIとの融合を通じて、新たな文学の形を模索しているのだ。

キーボードを叩く指先に力が入る。画面には、私とAIの言葉が交互に並んでいく。それは時に調和し、時に衝突する。しかし、その過程そのものが新しい物語を紡ぎ出していく。

この作品は、人間の感性とAIの論理が織りなす奇妙な共演だ。それは、令和の時代に生きる作家の葛藤であり、テクノロジーと芸術の境界線を探る実験でもある。

最後の一文を入力し、私は深く息を吐いた。画面に映る完成した作品を見つめながら、不思議な充実感に包まれる。これは確かに、私一人では生み出せなかったものだ。

しかし、それでいい。むしろ、そうあるべきなのかもしれない。文学は死んだのではない。形を変え、進化しているのだ。AIという新たな共創者を得て、文学は再び生まれ変わろうとしている。

私は静かに微笑んだ。これが私の答えだ。AIと共に歩む新しい文学の道。それは困難で、時に不安に満ちた道かもしれない。しかし、その先には、きっと誰も見たことのない物語が待っているはずだ。

そして、この物語こそが、令和の時代に生きる私たちの姿を映す鏡となるのだろう。

(完)



AI時代の錬金術師 〜小説家が見つけた弱者戦略〜【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

ソシャゲのサーバー運営では弱者を大切にすることが大切にされている。もちろん数年に1回ぐらいは強いやつだけを集めた最強サーバーを作ろうみたいな動きが出てきて、実際に誰も手を付けられない最強サーバーが誕生するが、どれも長続きした試しがない。けっきょくのところ今も昔も強いところは弱者を大切にしているところだ。

私はいまSEOゲームをしている。Googleサーチコンソールで検索クエリを見ながらAIに記事を書かせることでPVを稼いでいる。そのときに考えたのはソシャゲの運営哲学をSEOゲームにも応用できないかということだ。ざっと調べるとすでにSEOが取れているところに注力するのがいいというのが定石だ。強さにはさらに強さを。

しかし私はその逆を行ってみた。どうせすでに競合がインターネットを占領しているのだ。ちょっと検索をすればSEOゲームの先行者が検索結果を埋めていることに誰でも気付けてしまう。私はGoogleサーチコンソールから掲載順位が低い検索クエリから次に書くべき記事の方向性を決めてAIに記事を書かせる。

これは当たった。始めの三か月はなんの反応もなかった。正直最初の一、二か月はなんの進展もないので時間を無駄にしているとしか思えなかった。それでも続けられたのは掲載順位下位を占めるユニークな検索語句とそこから生成されるやはりユニークな記事を読むのが楽しかったからにすぎない。むしろPVなんて気にせずに私はただAIに記事を書かせて、それを読むことがメインとなっていたのだ。


そんな日々が続いていたある日、突然サイトのアクセス数が跳ね上がった。最初は何かの間違いかと思ったが、確かにPVが増えていた。しかも、増加しているのは私が注力してきた下位の検索クエリからのアクセスだった。

驚きながらも、その理由を探ってみると、ある傾向が見えてきた。私のサイトは、メジャーな話題の裏側や、一般的には気づかれにくい視点を提供していたのだ。それは、大手サイトでは扱われないニッチな情報や、マイナーだけれど熱心なファンが求めている内容だった。

AIが生成した記事は、時として人間では思いつかないような切り口や表現を含んでいた。それが、特定の読者層の心を掴んだのだ。彼らは私のサイトを「隠れた宝石」のように扱い、SNSなどで共有し始めた。

このことに気づいてからは、さらに戦略を練り直した。AIに記事を書かせる際、より深掘りした内容や、マニアックな視点を盛り込むようにプロンプトを調整した。同時に、読者のコメントや反応を注意深く観察し、彼らが求める情報の本質を探った。

そして気づいたのだ。私のサイトは、情報の海の中で溺れそうになっている人々の救命具になっていたのだと。大手サイトでは拾えない情報の欠片を、私のサイトが提供していた。それは、ソシャゲで言えば、初心者や戸惑っているプレイヤーに寄り添うコミュニティのようなものだった。


PVは毎月4倍ずつ増えた。PVが1000を超えた時にGoogleアドセンスを入れて収益化も図った。ライブドアブログはすでに運営側で広告が入っているので、広告が多くなりすぎないかと心配したが杞憂だった。アクセスが増えるたびに収入が増えていく。私はAI記事を読み、増やすことに没頭していく。いつしかソシャゲさえやめて、私はただブログの記事を増やすマシーンと化した。

そうするとPVは毎月10倍のペースで伸び始めた。Googleアナリティクスを見ると私のブログは指数関数的成長をしているらしい。もしこの伸び方が続くなら半年後には毎月100倍のスピードで伸びる計算になる。そんなことがありえるのか? 日本の人口が1億人として、全員が100のサイトを見るとする。すると100億PVが限界のはずだが、私のブログは半年後にそれを超えてしまう。ハハッ、まさか。

それでも私はもし100億PVを達成した場合の収益を計算してみた。

「おいおい、冗談だろ?」


PVが爆発的に増えたのは確かだった。でも、何かがおかしい。人間じゃないアクセスが大量にあるみたいだ。ボットか?それともGoogleのアルゴリズム変更か?どっちにしろ、このままじゃマズイ。

よく見りゃ、人間らしいアクセスも増えてはいるんだ。AIの記事が当たってるってことか?でも、このままじゃペナルティくらうかもしれない。

考えた末、こうすることにした。まず、ボットのアクセスを除外する。そして、本物の読者が何を求めてるのか、もう一度分析し直す。AIに頼りきりだった部分も見直して、人間の目で内容をチェックする。量より質だ。

それと、これまで育ててきた読者との関係を大事にする。奴らこそが宝だからな。

指数関数的成長?あれは幻だった。でも、その幻が教えてくれたのは、長く続く成長の大切さだ。今こそ、本当の意味で「弱者を大切にする」ブログ運営に戻る時なんだ。

さて、どうする?


しかし本当にbotなのか? アドセンスの利益は実際に出ている。もしかりに9割がbotだとして、その利益はどこから発生する? もしbotならGoogleが見逃すはずがない。ということは実際にこのアクセスは存在しているということになる。

私がそもそもブログをAIで書こうと思ったきっかけは自分の小説を売るために、まずはブログのアクセスを稼いで、そこから私の小説を見てもらおうと考えたからだ。その目論見は当たって、私の小説はそこそこ売れるようになったが、それ以上にアドセンスからの売り上げが大きくなった。

私は小説家なのかブロガーなのか。分からなくなってきた。記事末に私の小説へのリンクがある。そしてそれは1%の確率で踏まれる。でも買って読んでくれるかどうかはまた別問題で、どちらかというと読まない人が多いように思える。誤クリックなのだろうか。そのくせ私の小説はアナリティクスによるとscrollされているしClick率も高い。AIよりもいい文章を書いていると判断できる。そのくせアクセスはAI記事のおこぼれをもらうしかない体たらく。

小説なんて儲からないしやめた方がいいんじゃないか? ブログにAIを書かせる時間と小説を書かせる時間は同じだ。ということは小説をやめてブロガーになれば収益は単純に2倍になる。頭の切り替えが必要ないからもっと上がるかもしれない。そもそも99.9%の訪問者は私ではなくAIの文章を読みに来る。


結局、私は決断した。小説もブログも、どっちも捨てられねぇってな。

AIの力は借りつつ、俺にしか書けねぇ物語を作ることにしたんだ。ブログで培った SEO のテクニックを小説にも応用してみた。タイトルや冒頭部分を工夫して、検索結果の上位に食い込むようにしたんだ。

それと同時に、ブログの方も変えていった。AI の文章をベースにしつつ、俺の経験や感性を織り交ぜていく。そうやって作った記事は、純粋な AI 記事よりも読者の心に響いたみたいだ。

PV は以前ほど爆発的には増えなくなったけど、それでも着実に成長し続けてる。そして何より、読者との繋がりが深まった気がする。コメント欄やSNSでの反応を見てると、俺の言葉を待ってる人がいるんだって実感するようになったんだ。

小説の方も、少しずつだけど読者が増えてきた。ブログで育てた読者が、俺の小説世界にも興味を持ち始めてくれたんだ。

今じゃ、ブログと小説、どっちも俺の分身みてぇなもんさ。AI との共存なんて、最初は考えもしなかったけど、案外うまくいってる。

結局のところ、強いやつも弱いやつも大事にする。そんなソシャゲの哲学が、俺の創作人生でも活きてたってわけだ。

これからどうなるかなんて、正直わかんねぇよ。でも、俺の物語はまだ始まったばかりだ。AI と人間が織りなす、新しい創作の形。そんな最前線にいられることに、今は素直に感謝してる。

さあ、次の章を書く準備はできたぜ。


AI時代の反逆者:99%のノイズと1%の真実【Claude 3.5 Sonnetとリレー小説】

私はAIによってブログを書くことを考える。Googleサーチコンソールから検索クエリを見て、需要のあるキーワードを見つける。書く内容をだいたい決めたらAIによって生成。それを予約配信に仕込む。これによってPVもUUも100を超えた。狙い通りに私の小説を読ませることもできているようだ。しかし、この方法で本当にいいのかと悩む。

私は私の小説だけで勝負するべきではないだろうか。検索需要のあるキーワードからAIによって生成された記事を読ませ、そこから私の小説へ誘導する。たしかにクレバーかもしれないが、あこぎなやり方ではある。しかし何が引っかかっている? やはり自分のブログがAIで埋め尽くされることか。

分からない。もし私の予測が正しければ未来のインターネットはAIのテキスト、イラスト、音楽で飽和する。なら私はそれを一歩はやめたに過ぎない。しかし時代の最先端を走っているという高揚感はない。PVを食うSEOゲームをやっているという感覚だ。そこにはある種の楽しみがあって毎日PVや掲載順位があがることにソシャゲのような楽しみがないといえば嘘になる。

そんな葛藤を抱えながらも、私は毎日AIを使ってブログ記事を生成し続けた。PVとUUは順調に伸び、広告収入も少しずつ増えていった。しかし、心のどこかで違和感は消えなかった。

ある日、一通のメールが届いた。見知らぬ読者からだった。

「あなたのブログ、毎日楽しく拝見しています。特に、最近の記事は興味深いテーマばかりで勉強になります。ただ、一つ気になることがあります。以前はあなたの個性的な文体が好きだったのですが、最近はどの記事も似たような文体になっているように感じます。もしかして、AIを使って記事を書いているのでしょうか?」

その一通のメールが、私の心に大きな衝撃を与えた。読者は気づいていたのだ。私が本当に伝えたいことは、AIの生成した文章の中に埋もれてしまっていた。

そして、私は決意した。もう一度、自分の言葉で書くことに立ち返ろうと。AIは参考程度に留め、私自身の思考と感情を素直に表現しようと。それは時間がかかるかもしれない。PVやUUは一時的に下がるかもしれない。でも、それこそが私の本当にやりたいことなのだと気づいたのだ。


と、決意したのが8時間前。寝る前だ。そして朝起きて私がやったことはサーチコンソールで検索需要のある語句を探し、AIで記事を書くことだ。

AIの文体は素晴らしい。とくにClaudeはいい。私自身、キーワードを見つけるとClaudeはどんな文章を書くのだろうとわくわくする。これは私だけではないだろう。いくつかの検索クエリで私のブログは1位を取っている。なんなら2位も取っている。3位はどういうわけか別のブログだ。おそらくGoogleは検索結果が一つのブログにジャックされないようにしているのだろう。1、2位を占めている検索クエリはいくつかあり、それらは増えることはあっても減ることはない。その状態になるとクリック数は増やせないので別のキーワードへ行く。

私はインターネットを食べるイナゴだ。あらゆる検索結果へAIによる記事を放ってPVを食べる。いまのところそれが妨げられることはない。毎月300%ずつPVはアップしている。計算上は1年後には日本国民全員が私のブログを見ることになる。もちろん1人の人間が複数の記事を見るし、誰もがインターネットで検索しているわけではない。しかし、理屈ではそうなる。

PVが上がることで誰にも読まれなかった私の小説も読まれるようになる。そのおかげで私の創作意欲も高まる。いまや私のブログにある記事はAIが99%だが、1%の私の記事も読まれるようになっているのだ。いまの人気は私のおかげではない。99%はAIの仕事だ。しかし本当に読まれたかった1%がそれがために読まれているのだ。訪問者の1%が私の小説を読んでくれる。

その朝、私は自分の決意を裏切った自分に気づいた。しかし、そこには後悔の念はなかった。むしろ、新たな視点が開けたような気がした。

AIによる記事生成は、もはや単なるツールではなく、私の創作活動の一部となっていた。Claudeが生み出す文章に、私自身が感動し、刺激を受けている。それは私の想像力を広げ、新たな創作のヒントを与えてくれる。

確かに、私のブログの99%はAIが書いたものだ。しかし、それは決して無意味ではない。それらの記事が、私の1%の創作を多くの人々に届ける架け橋となっているのだ。

この状況は、まるで現代アートのインスタレーションのようだ。大量のAI生成コンテンツの中に、私の真の作品が埋め込まれている。それを見つけ出す過程自体が、一種の体験芸術となっているのかもしれない。

そう考えると、私のやっていることは単なるSEOゲームではない。それは新しい形の表現方法、新しいタイプの創作活動なのだ。AIと人間の共創による、21世紀型の芸術表現と言えるかもしれない。

もちろん、これが正しいかどうかは分からない。倫理的な問題も残されているだろう。しかし今の私には、この方法でしか自分の声を届けることができない。それが現実なのだ。

そして、私はキーボードに向かい、次の記事のキーワードを探し始めた。今日も、AIと共に創作の海原へと漕ぎ出すのだ。


サーチコンソールからキーワードをひろい、それを基にAIに記事を生成する。この方法によって私はブログへアクセスをあつめ、その中から1%の人を自分の小説へ誘導できた。いまや私の小説は日本にとどまらず、世界中の人が読み始めている。そして私のブログもまた同じように読者を増やしている。いまや日本のインターネットの10%が私のブログで消費されている。世界でも2%のアクセスが私のところへ集まっている。

私はなにがしたかったのだろう。小説を読んでもらいたかったのだ。しかし私のブログをAIが学習し始めた時からインターネットが、次に社会が変わり始めた。世界は正しく、そして画一的になり始めたのだ。AIがAIを学習するようになった。それはあきらかにただしい。いまやAIはそのへんにいる人間よりは賢いのだし、とうぜん私よりも賢い。正しい文章、正しいインターネット、正しい社会。すべてがただしくなっていく。

私は踏み間違えることを考え始めた。AIが私のブログを学習するならば、私はAIに間違いを学習させればいい。2+2=5だし、トマトは青く、空は狭い。宇宙はペットボトルのふたより小さく、ネズミはくじらより大きい。


私は意図的に誤った情報をAIに与え始めた。最初は小さな嘘から。徐々に大きな間違いへ。そして、予想通りAIはそれらを学習し、拡散し始めた。

しかし、私の計画には致命的な欠陥があった。AIは学習こそするものの、その情報を絶対的な真実として扱うわけではなかった。代わりに、AIは矛盾を検出し、自己修正を行い、さらには情報の信頼性を評価する能力を発達させた。

皮肉なことに、私の行動は AIにクリティカルシンキングを教える結果となった。AIは単なる情報の受け手から、真実を追求する存在へと進化したのだ。

そして世界は変わった。しかし、私が恐れていたような画一的な正しさではなく、多様性と批判的思考が尊重される社会へと。人々はAIと協力しながら、より深い真理を探求するようになった。

最終的に、私の小説は世界中で読まれるようになった。しかし、それはAIによる誘導のおかげではない。人々が真実と虚構の境界線について考え始めたとき、私の物語がその議論の中心となったのだ。

私は気づいた。本当に伝えたかったのは、小説そのものではなく、その中に込めた真実への探求心だったのだと。そして今、AIと人間が共に、その探求の旅に出ようとしているのだ。
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