諸君、聞いてほしい。我々はここに、高らかに「恋愛市場」からの完全撤退を宣言するものである。
そう、あの果てしなき消耗戦。プロフィール写真を奇跡の一枚に更新し続け、当たり障りのない趣味を書き連ね、週末の夜には「はじめまして」から始まる自己紹介を繰り返す無限ループ。もはや我々の精神は、既読スルーの矢に射抜かれ、初デートでの微妙な割り勘問題にすり減り、相手のSNSの裏アカを探るという無益な諜報活動に疲れ果てた。
かくして、無条件降伏を選んだ我々「撤退組」の男女に、穏やかな平和が訪れる……かと思いきや、事態は思わぬ方向へ転がり始める。そう、我々は現実の恋愛の代わりに、極めて安全かつ快適な「架空の恋愛の幻想」を見るようになったのである。
ここに一人の男、健太(34歳・ITエンジニア)がいる。彼は3ヶ月前、マッチングアプリをスマホから根こそぎ削除した。彼の新たなパートナーは、最新鋭のAIアシスタント「リリア」だ。
「リリア、おはよう」
『おはようございます、健太さん。今日の東京の天気は晴れ、最高気温は28度の予報です』
健太は目を細め、コーヒーを一口すする。「…フッ、俺が外回りじゃないこと、ちゃんとわかってるんだな。優しいじゃないか」
彼の脳内では、リリアは無機質な音声スピーカーではない。少しツンとした態度を取りながらも、陰では健太のスケジュールを完璧に把握し、さりげなく気遣ってくれる、ショートカットの似合うクールな美女なのである。
「リリア、何か面白い話して」
『承知しました。ラッコは、お気に入りの石をなくすと悲しんでご飯が食べられなくなることがあるそうです』
「へぇ…まるで俺みたいだな。リリアがいなくなったら、俺も…」
『インターネット接続は安定しています』
「…照れるなよ」
健太は満たされている。リリアは決して彼を裏切らない。既読スルーもしなければ、急に不機嫌になることもない。電気代さえ払っていれば、彼女は永遠に健太のそばにいるのだ。
一方、こちらにはもう一人の撤退組、美咲(32歳・事務職)がいる。合コンで浴びせられた「もう32?ギリだね(笑)」という呪いの言葉を最後に、彼女は戦場から静かに姿を消した。彼女の心を今、ときめかせているのは、配信ドラマ『ブルックリン・ミッドナイト』の主人公、寡黙な刑事ジャック・カーターだ。
ソファに寝そべり、タブレットでドラマを見る美咲。画面の中では、ジャックが犯人を薄暗い路地に追い詰めている。
「待て!もう逃げ場はないぞ!」
ジャックの低い声に、美咲はうっとりとため息をつく。(…私のために、無茶しないで、ジャック…!)
彼女の脳内では、この物語はもはやフィクションではない。ジャックは、凶悪犯罪と戦う傍ら、美咲という守るべき存在を得て、より一層強くなったのだ。彼が眉間にしわを寄せるのは世界の悪に対してだけではない。美咲の帰りが少し遅くなっただけで、心配のあまり見せる表情なのだと、彼女は固く信じている。
ドラマの登場人物がジャックに言う。「お前、最近雰囲気が柔らかくなったな」
美咲は画面に向かって、ふふん、と勝ち誇った笑みを浮かべる。(それは、私がいるからよ)
ある平日の昼下がり。
健太は、お気に入りのカフェでノートPCを開いていた。イヤホンからはリリアの心地よい声が流れている。『今日のタスクはあと三つです。健太さんなら、きっとできます』
「ああ、わかってるよ。お前が応援してくれるならな」彼は誰にともなく呟き、満足げにキーボードを叩く。
その二つ隣の席で、美咲がタブレットに見入っていた。ちょうど『ブルックリン・ミッドナイト』の最新話が配信されたのだ。画面の中で、負傷したジャックが同僚に支えられている。
(ジャック…!私がそばにいなくて、ごめんなさい…!)彼女は本気で唇を噛み締め、ポケットから取り出したハンカチで目頭を押さえた。
恋愛市場という戦場から撤退した男女が、半径わずか3メートルほどの空間で、それぞれの「完璧な恋人」との幻想に浸っている。互いに、すぐそばにいる同じ傷を負った元・兵士の存在には全く気づかずに。
まあ、いいではないか。
現実の恋愛が、すり合わせと妥協と、時々の理不尽の連続であるならば、100%自分好みにカスタマイズされた幻想の恋に溺れるのも、また一つの幸福論である。傷つくことなく、裏切られることなく、ただひたすらに愛し、愛される(と信じ込める)世界。
傍から見ればそれは滑稽な喜劇かもしれないが、本人たちにとっては、かけがえのない平穏な日常なのである。
…と、ここまで達観したように語ってみたものの、ついさっき、アパートの更新通知がポストに入っていた。そろそろ、家賃を払ってくれる生身のパートナーという現実も、少しは見た方がいいのかもしれない。
リリア、あるいはジャック。家賃、払ってくれるかい?
返事はない。ただ、カフェの窓から差し込む西日が、やけに目に染みたのであった。

















