銀座の中心で稲を育てる
『銀座の中心で稲を育てる』は、現代日本社会の矛盾と個人の存在意義を鋭く問いかける野心的な純文学作品として評価できます。この小説は、表層的には奇抜な設定を持つ物語に見えますが、その本質は深遠な哲学的探求と鋭い社会批評にあります。
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内容紹介
本当の自由を求めて私は銀座の中心で稲を育てることにした
虹をまとう鏡の塔、カニの手を持つ男、虹に祈る女
稲を育てる間に出会う人達
青い猫を描いた女に出会い、私の運命は思わぬ方向へ転がり落ちる
冒頭試し読み
1 銀座の中心で稲を育てる
私は銀座の中心で稲を育てることにした。本当の自由が欲しくなったからだ。
自由とは何か? お腹が空く→ごはんを食べる。これは自由ではない。体の欲求に反応しただけで、自分の意志による行動ではないからだ。お腹が空く→ごはんを食べない。これは自由か? もし食べないことに理由がないのなら、お金がない、病気で食べられない、食べ物がないなどの理由がないのなら、それは自由だ。
選択の余地がないのなら自由ではない。必要を満たすことは自由ではない。欲求を満たすことも自由ではない。否定ばかり多くなってしまったが、私は否定形でしか自由を表すことができないようだ。もし『自由ではない』の反対が自由だとするならば、自由とはこう言い換えられそうだ。選択の余地があるなら自由、必要ではないのなら自由、欲求を満たさないのなら自由である、と。
この世の全ては裁定取引によって動く。価値あるものを一〇〇円で買い、一〇〇円で買った物を一〇〇万円で売る。喩えなので数字は大げさだが大体はこういうことだ。やり取りするのは物やお金ではなく、心や行動でもいい。価値に差があるところに取引が発生する。もし神が現れて、この世の全てをあらゆる意味で平等にすれば、全ての取引が止まるので世界は停止する。
さっきの喩えで出した一〇〇万円の物が一〇〇円に、あるいは一〇〇円が一〇〇万円になることはめったにない。めったにないということは、まれにあるということでもある。私の家は価値ある物を安く買って、高く売ることによって儲けてきた。まれにあることを逃さないために何百年もかけて組織を作っている。一人の人間には一生起こりえないことも組織にとってはよくあることになる。一人の人間にとって生と死は一度しか起こらないが、人類全体で見ればさして驚くことでもないのと同じだ。
銀座の中心でまれにないことが起きた。日本で一番土地の値段が高い場所だ。さすがに一〇〇円ではないが本来の価値からすればタダ同然の値段で手に入れることができた。一〇〇万円のものを一〇〇円で買ったわけだ。先祖代々に続いてきた組織はさっそく銀座の中心を利用した儲けの算段を始めた。彼らは自由意志でそうしているのではなく組織の意志によって、そう動く。しかし私は「待った」の声をかけた。そして止まった。この組織で私の声はもっとも価値を持つと決められているからだ。
「銀座の中心で稲を育てようと思います」
組織の主だった者たちが集まる会議で私は言った。否定よりも、まず私の言った言葉の意味が分からないという沈黙がその場を包んだ。
「それは銀座の中心を田んぼにするという意味ですか?」
口を開いたのは会議で二番目に価値が高い男だ。
「その通りの意味です。銀座の中心に田んぼを作り、稲を育てます」
「分かりませんね。田んぼにする、稲を育てる、それで何になります? 稲を育てるのはけっこう。しかし銀座より良い場所はあります」
「たとえば?」
男は米の名産地、次の東京の地名を言った。
「銀座の土地は高すぎます。キロ一〇万円でも元は取れません。それにあそこでは大した米も取れそうにない。良い米を作るにしても、効率的に作るにしても、銀座は米を作る場所ではありません」
「銀座で米は儲からない。だから育てないと?」
「育てるところではなく売るところですね」
「儲けたくないと言ったら?」
会議がざわついた。
「私は儲けなんていらない。自由が欲しい」
「米を作るなら別の場所がいくらでもあります」
「銀座でやらなければ自由ではない」
「その理由は?」
「理由はありません。しかし、それこそがまさに自由。儲からない、作る必要もない。だからこそ銀座で稲を育てることが自由なのです」
「なるほど。おっしゃることは理解しました。しかし我々の活動は全て儲けを得るためにあります。あなたのご先祖が代々築き上げて、いまや途方もない富を得るようになっています。あなたも、私もそれで三度の飯を食べていかれるのですが、それをないがしろにされるおつもりですか?」
「我々は銀座を自由にできないほど追いつめられているのですか?」
「いいえ、しかし我々の意志とは反します。銀座で稲を育てて、そこから宣伝なり、啓蒙活動なりをして、他のところで儲ける。それなら我々の意志とも合います。しかしそんなことは考えておられないのでしょうね」
「もしそうなら、それは自由ではない」
「もしかして我々に謎かけをされていますか? いつも正しい判断をされてきたあなたが突然こんなことを言い出すのはそうとしか考えられない」
「正しい‥‥‥その正しいというのは私から出てきたものではありません。小さい頃から親やあなた達から植え付けられた意志や活動の結果にすぎないのです」
「その言い方だと銀座で稲を育てるのは間違いだとあなたも思っておられるようだ」
「間違っています。正しくない。必ず損をします。一万年かけても費用の回収さえできない」
男はにやりと口を歪ませた。彼の笑顔を見ると正しい判断をできたのだといつも安心できた。今もそうだ。私の判断は正しい。
「しかし、それでも私は銀座で稲を育てます」
「あなたはどうしてもそれをやるのですね?」
「はい」
「よろしい」
カチッと音がしたわけではないが、彼の中で銀座の土地が損勘定に入ったのが私には分かった。これから銀座の中心を田んぼにするためにどれくらいの費用がかもかるのかも概算していて、それはきっと正しいだろう。大きい損は出た。しかし他で補填できないものでもないないと算段はついたようだ。
「銀座の中心で稲を育てる。けっこうですな。その調子で地球を田んぼで覆)うとよろしい」
男は笑った。私がそんなことはしないと確信している笑いだ。
会議ではまたたくまに銀座の中心を田んぼにする計画が練られ、予算が組まれた。こうして私は銀座の中心で稲を育てることになった。
小説をひとつ書き終えると高松にある宮脇書店本店へ本を買いに行くのが儀式になっていたが、コロナが流行りだしてからはもう何年も行っていないことに気付いた。というか徳島県を出ていないことにも気付いた。半径20kmぐらいをぐるぐる回って生活していて(Googleマップで分かる)、いつしかそれが当たり前になっていた。先日『銀座の中心で稲を育てる』を書き終わって、ここ数年は小説を書き終わっても何か物足りないと考えていて(そういえば儀式していないじゃん!)となったので行くことにした。
徳島県と香川県の境には50mもないようなトンネルがあって、そこを抜けるとローソンがあったのだが『あった』という過去形を使っているということで分かるように、今はもうないのである。いやはや、本当にびっくりした。ローソンでさえなくなることがあるのだ。いつもはそこで一息入れていたのに、休めないのでそのまま走り続けていたのだが、ローソン以外の店もなくなっていることに気付いた。コロナで廃業した店が増えたんだなと実感する。TVでも観光客が減ったので、うどん屋からパン屋に事業転換した店の話をやっていた(パン屋は繁盛しているらしい)。徳島県は元々観光客が少ないから低い位置で安定しているけれど他のところはきびしいのだろう。
(おわり)

この表紙を見た人は(ふ~ん、お米を育てる話なんだね。それも銀座で)って思ってしまいそうだ。間違ってはいない‥‥‥決して間違ってはいないが‥‥‥この表紙のイメージだと小説ではなく、ある農家が東京の、都会の、それも銀座の中心で稲を育てます。他の人達は無理だと言っていて、実際に紆余曲折はありましたが、今ではこんなに立派なお米が取れるようになりました!みたいなノンフィクションの農業サクセス本と間違えられそうだ。
とはいえ『銀座の中心で稲を育てる』はどういう話なのか、と考えてみると稲を育てる話で、やはり上のイメージ以外には考えられない。銀座を意識した都会の絵だとイメージはズレる。稲を育てる話なのでメインはやはり稲でなければならない。
AIに絵を描かせるのが最近流行っている。自分でやってさえ「う~ん、間違ってはいないけど、なにか違うんだよな~」になってしまうのだから、AIで描きましたの方が「まぁそれならしかたがない」と納得できそうだ。ホントにどうしたらいいんだろう。でもさ、やっぱりこれ以外の表紙なんてありえない気がする。だって稲を育てる話なんだもん。たぶん一ページに一回は稲か、米か、田んぼの文字が出てくる。
イメージを形にするのは難しい。言葉にすれば稲を育てる話なのだが、なんというか、もしその言葉のまま読んだらそれは違うと思う。でもどういう話かと考えてみてもやっぱり稲を育てる話なんだよなぁ。言葉にできるのはしょせんそこまでなだけであって、実際のイメージとは全然違う。言葉にできるイメージが狭いんだな、私は。ちなみに東京銀座は日本で一番キラキラしているにぎやかな場所という勝手なイメージで書いたのだが、実際の銀座がどんなのかは知らない。もし寂れたところだったらどうしよう?
(おわり)
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※追記:稲の画像はぱくたそさんからです
とりあえずさわりに触れた感じだとイスラム教はキリスト教より先進的だが寛容さが足りないのでそんなに広まらないだろう。いわんや統一教会など。仏教は虫を殺しただけでも地獄に落ちるので流行らない。現に発祥地のインドではもう虫の息だ。アッラーは比較的寛容だが砂漠を出られるかどうかはあやしい。新解釈か、教義を更新しないと難しそう。仏教も昔は更新されていたが今はそういうのはなさそうだ。近年はビジネスの文脈で、マインドフルネスのために瞑想をするエグゼクティブがいるそうだが宗教部分は外されている。煩悩を追いかけるために瞑想をするのは不条理で面白い。小説のネタにできそうだ。
次の小説のことばかり書いてしまったが今は『銀座の中心で稲を育てる』という小説を推敲している。来月まではかかりそうなので、もしかしたら宗教の話は書かないかもね。でももし書くとしたら『うーしゃま教 ~入信はハタチになってから~』にしようと思う。キリスト教を超えられるか!?
(おわり)
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