愚者空間

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山桜

詩的な小説『山桜』をなぜ読むべきなのか

山桜
牛野小雪
2021-12-05


近未来の孤独と詩情が交差する物語『山桜』を、今こそ読むべき理由

現代社会が抱える課題の延長線上に広がる、テクノロジーに支配された近未来。牛野小雪氏による小説『山桜』は、そんな世界を舞台に、一人の男の心の渇きと彷徨を詩情豊かに描き出す物語です。なぜ今、この物語に触れるべきなのか。その魅力を紐解いていきましょう。

1. テクノロジー社会のリアルな描写と、そこに生きる人間の虚無

物語の舞台は、AIによる自動運転車が99%を占めるようになった日本です 。人々は効率化された都市「メロンタウン」の超高層住宅に集住し、移動や生活の多くをシステムに委ねています 。しかし、その合理的な社会で主人公・棗正明が感じるのは、奇妙な虚無感でした 。


彼は、AIもモーターも搭載しない旧式のV型8気筒エンジン車「ムラサメ」を深夜に駆り、圧倒的なスピードで高速道路を疾走します 。それは、システム化された日常からの一時的な逃避であり、彼が失いかけた生の実感を取り戻すための行為のようにも見えます。この近未来の描写は、テクノロジーの進化がもたらす利便性の裏で、人間が何を失っていくのかを鋭く問いかけます。


2. 人間の心の深淵を覗く、三者三様の関係性

正明の周りには、対照的な二人の女性がいます。

  • 和花: 同じ部屋で暮らしながらも、生活時間のすれ違いから顔を合わせることさえ稀になった恋人 。彼女は革職人であり、時折、食卓に自作の短歌を遺していきます 。その詩は、正明に届かない彼女の心の声を伝え、二人の間の見えない壁を象徴します。やがて彼女は、原因不明の「覚醒困難症」に陥り、眠り続けてしまいます 。


  • 瑠璃子: クロムタウンで出会ったレンタル彼女 。完璧すぎる美貌はどこか人間離れした恐ろしさを感じさせますが、正明は彼女に惹かれていきます 。彼女との危険なドライブや、借金からの逃避行は、正明の日常を大きく揺さぶります 。


和花との静かで断絶された関係と、瑠璃子との刹那的で激しい関係。この二つの関係を通して、正明の孤独や、彼が本当に求めているものが浮き彫りになっていきます。

3. 物語に深みを与える詩的な表現と象徴性

『山桜』の大きな特徴は、物語の随所に散りばめられた和花の短歌です。

夢でも逢わぬ君のつめたさ撫でてため息胸にとどまり 


私を見ない君の背中が嫌いになれぬ私が嫌い 


これらの詩は、登場人物の心情を代弁し、物語に詩的な響きと奥行きを与えています。

また、タイトルにもなっている「山桜」も重要なモチーフです。物語の終盤、正明は人の手が入っていない「本物の自然」を求めて山奥へと分け入り、季節外れに咲く山桜を見つけます 。管理され、合理化された都市の桜とは対照的なその姿は、正明が追い求めていたものの象徴と言えるでしょう。


結論:現代を生きる私たちへの問い

『山桜』は、単なるSF小説ではありません。テクノロジーと人間の関係、合理性と非合理性、都市と自然、生と死といった普遍的なテーマを扱い、現代を生きる私たちに根源的な問いを投げかけます。

効率化された社会で生きる意味とは何か。心の渇きを癒すものはどこにあるのか。正明の虚無感に満ちた旅路は、読者自身の心の内側を映し出す鏡となるかもしれません。詩的な文章で紡がれるこの静かで美しい物語は、あなたの心に深く、静かに染み渡っていくことでしょう。

山桜
牛野小雪
2021-12-05



『山桜』のリリース記事

山桜
牛野小雪
2021-12-05



内容紹介

車の運転が自動化された未来。人々はAIにハンドルを委ねた。
帝国自動車は政府と手を組みさらに市場拡大を狙う。
正明は深夜の高速道路でV8のエンジンを唸らせ自動運転車に勝負を挑む。
その間に和花は詩を詠み、革製品を作っていた

山桜ができるまでのブログ記事
他の小説と何が違うか
物語の世界観において、未来の日本社会が詳細に描かれています。この未来世界では、自動運転車が普及し、内燃機関の車は過去の遺物とされつつありますが、主人公は最後に作られた内燃機関の車「ムラサメ」を愛用しています。この選択によって、主人公がテクノロジーの進化に抗いながら、過去の象徴ともいえる車とともに生きている姿が際立ち、物語にレトロフューチャー的な要素を加えています。未来の便利なテクノロジーが支配する中、アナログ的な存在がその対照として登場し、作品全体に深いノスタルジアと近未来的なディストピア感を融合させています。

さらに、この物語は人間の内面や社会構造に対する鋭い批評を込めています。特に、社会が一つの方向に向かって進化している中で、その流れに抗う主人公の姿勢がテーマの中心に据えられています。現代社会に対する批判的な視点や、テクノロジーの進化がもたらす孤独感や疎外感を描いている点がユニークです。これは、単なる未来志向の物語にとどまらず、今の社会にも通じるテーマを探求しているため、読者に共感や考察を促す要素となっています。

また、キャラクターの描写も独特です。主人公は未来の高度なテクノロジーを享受する現代人でありながら、旧時代の車に執着しており、そのギャップが彼の心情や生き方を深く反映しています。彼が自動運転社会に対して感じる不安や不満、過去に対する郷愁が、物語全体を通して強調されており、キャラクターの心理描写が非常に繊細に描かれている点も特徴的です。

これらの点が他の物語と異なり、未来社会の一面を描きながらも、同時に現代人の心の奥底にある葛藤や孤独感を浮き彫りにする作品となっています。

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試し読み

 経年劣化したナトリウムランプの光は道路まで届かなかった。山の向こうまで続く点々としたオレンジ色の光はところどころ途切れていた。ロードノイズがひどい場所も少なくない。採算性なしと判断された道路はじきに封鎖されるだろう。

 V型8気筒のエンジン音が深夜の沈黙を打ち破ると、青白いハイビームが道路を暗闇から切り出した。徳川自動車のムラサメだ。日本で最後に作られたハンドル付き自動車であり、電気モーターもAIも付いていない完全内燃機関の車だ。カタログスペックはV型8気筒三六〇〇cc。四〇〇馬力。車体重量九四〇キログラム。最高速度は時速三〇九キロメートル。

 ムラサメは時速二四〇キロで巡航していた。高速道路の制限速度は時速一〇〇キロ。明らかなオーバースピードだがムラサメは速度を落とさずに緩やかなバンクが付いたカーブに入った。遮音壁は時速二四〇キロで引き伸ばされてペラペラのベージュ色になっていたが、もしぶつかれば車の方がペラペラに潰れるだろう。道路の継ぎ目、アスファルトの割れ目、高速道路に迷い込んだ野生動物、車がコントロールを失う可能性はいくらでもあった。

 運転席の男は腕に寒気を感じていた。内装機器のランプに照らされた顔は緊張でこわばっていたが笑っているようでもあった。

 ムラサメは無事にカーブを抜けた。運転席の男は息を一気に吐き出した。道路は直線になったがロードノイズがひどくなったので、ムラサメが時速八〇キロまで速度を落とすとアスファルトの沈黙がムラサメに覆い被さってきた。見えているのはハイビームに照らされた細長い道路と光を飲み込もうとする巨大な闇だけだ。

 ムラサメは坂道を登ると、遠くを走る一台の車を発見した。自動運転車だ。AIの走りはブレがないので見た瞬間に分かった。

 男がアクセルを床まで踏み込む。V8のエンジンが沈黙を粉々にした。時間も速度を上げて、スピードメーターが一五〇を超えると道幅が加速度的に狭くなり始めた。

 坂を下りるとムラサメは時速二五〇キロを超えていた。ハイビームの光がレモンイエローの車体を捕らえた時には二九五キロになっていた。ハイビームに照らされた車内に人影はない。システムの冗長性を保つために誰もいない道路を走らされていたのだろう。男はハンドルに手を突っ張り、床まで踏み込んだアクセルをさらに踏みつけた。二台とも同じ方向に走っていたが相対速度は二〇〇キロに近い。衝突すれば二台ともぺしゃんこに潰れるだろう。

『な 832-439』

 ナンバープレートの文字と数字が見えた。ハンドルを切ることは考えない。ハンドルを切れば時速二九五キロでムラサメは高速道路の壁に頭から突っ込むだろう。

 レモンイエローの車体がムラサメのハイビームを照り返した。その光はどんどん強くなり男の視界は真っ白になった。光の次はエンジンの音が反射してきた。耳と視界が白い光と音に埋め尽くされた一瞬の後、ハイビームの反射角がずれて無人の車内が視界に飛び込んできた。

 自動運転車が路肩へ飛び出した。ムラサメはその後ろを走り抜けて、男がバックミラーを見た時には、道の外へ向いたヘッドライトの光が見えるだけだった。

 男がアクセルペダルから足を離すと、強力なエンジンブレーキがかかりエアコンの通風孔から焼けたオイルの匂いが吐き出された。窓を開けると深夜の冷たい風が車内に飛び込んできて、ムラサメと男の体から熱を奪い取っていった。

 ムラサメが高速道路を走り続けていると、看板が一〇〇メートルおきに立っていた。そこには赤い字でこう書かれていた。

引き返せ
この先崩落
道路なし

 道路を塞ぐように白いガードレールが立っていたがムラサメはその隙間を走り抜けた。ナトリウムランプの光はなくなり、ハイビームが照らす道路だけが闇に浮かんだ。遮音壁はひび割れていて、場所によっては暗闇がぽっかり口を開けているところもあった。そこはハイビームの光が当たっても真っ暗なままだった。

 男が道路の先を見詰めていると、突然灰色のアスファルトが消えて真っ暗になった。男がブレーキペダルを床まで踏み込むとムラサメはタイヤを軋らせて止まった。

 男は何度か深呼吸して息を整えると懐中電灯を持ってムラサメを降りた。ムラサメは崩落した道路の手前で停まっていた。

 男は道路の端から懐中電灯の光を地面に向けた。暗闇の底には誰も住んでいない町があるはずだが光は暗闇に吸い込まれて何も照らさなかった。

 男が懐中電灯の光を前へ向けると、高速道路のちぎれた鉄骨と鉄筋がむき出しになっていた。男はアスファルトの欠片を向こうへ投げてみたが、欠片は暗闇の中へ吸い込まれた。しばらく耳を澄ませたが何かが地面に落ちる音はしなかった。それでも男は暗闇の沈黙をじっと耳を傾けていた。

 男は暗闇から何かが来るのを待っていた。誰かに何故そんなことをしているのか訊かれても男は何も答えられないだろう。男が月に何度か崩落した道路の先に立っていることは暗闇しか知らない。

 沈黙には沈黙という音がある。暗闇では暗闇が見えている。男はその考えを振り払った。沈黙は沈黙であり暗闇は暗闇だ。ムラサメのV8エンジンの音とハイビームの光が男の意識に飛び込んできた。さっきまで音と光はあったはずだが男の意識から消えていた。

新也参上!

 遮音壁に赤いスプレーで落書きがしてあった。新也が誰かは知らないが、男以外にも誰かがここに来ていたのだ。

 暗闇と沈黙は戻ってこなかった。男はムラサメに乗ると来た道を戻った。レモンイエローの車とはすれ違わなかった。

 それから一時間後、魚田市のメロンタウンに立ち並ぶ筒状の超高層集合住宅群がムラサメと男を出迎えた。しかしムラサメはメロンタウンの手前にある廃工場の倉庫に入った。

 ムラサメが倉庫の真ん中でエンジンを停めるとヘッドライトが消えた。

 男がムラサメを降りると鉄臭さが体を襲った。懐中電灯で辺りを照らすと倉庫の端に塗装のはがれた機械や錆びた鉄の切れ端が散らかっていた。鉄板を加工する工場だったらしいが、奇妙な形に裁断された鉄板が何に使うための物かは不動産屋も知らなかった。

 男が倉庫を出てシャッターを閉めると、ミントグリーンの車がタイヤの音を忍ばせながら近寄ってきた。工場に着く前に呼んでいたのでタイミングはぴったりだった。

 男がミントグリーンの車に乗り込みカードリーダーにIDカードを読み込ませると『こんばんは棗正明様』とドアガラスのディスプレイに表示された。

「帰る」と正明が言うと『メロンハイツ-え-63棟』と表示された。正明は『ここに行く』をタッチした。電気モーターは音も振動もなく車を発進させた。

 二〇分後に正明はシートのバイブレーションで起こされた。眠っていたようだ。車はメロンハイツに着いていた。

 正明は車を降りると空を見上げた。上層へ行くほどメロンハイツは細くなり空に吸い込まれた。屋上は雲より高いそうだが見たことはない。

 正明は『メロンハイツ-え-63棟』に入った。超高層集合住宅は一棟あたり平均五千人が住んでいるというが建物中央にある吹き抜けのエントランスには誰もいなかった。正明はまた空を見上げた。中空構造の丸い内壁は高くなるほど狭まり空を塞いでいた。そのせいか天井は無いはずなのに雨の日でも何も落ちてこなかった。

 正明はエレベーターで五三階まで上ると『あ-4』室のカードリーダーにメロンハイツのIDカードをかざして、ロックを外した。

 ドアを開けるとタンニン染めされた革の匂いが部屋から吐き出された。正明の目の裏に和花の後ろ姿が浮かんだ。和花はレザークラフトの職人で夜に仕事をしていることが多い。正明は仕事から帰ってくると革に縫い穴を開ける木槌の音をよく聞いていたが、今は深夜なので静かだった。

 正明が部屋に入ると明かりが点いた。深夜の目には明るすぎるので「半照明」と言うと天井の蛍光灯が消えて、壁にあるランタンが点いた。薄暗いオレンジ色の光は自然の炎と同じ不規則な揺れ方をするらしいが正明は揺れのパターンを憶えてしまった。

 正明は寝室を開けてベッドが和花の形にふくらんでいるのを見ると、冷蔵庫から缶ビールを出して一気に飲んだ。ドライブの後は酒を飲まなければ、すぐには眠れない。アルコールで眠っても熟睡はできないといわれているが、もうすぐ朝になろうとしているのでちょうど良かった。熱いシャワーを浴びてベッドに入ると、すぐに意識が朦朧としてきた。和花は深い眠りに入っているのだろう。正明が隣に入ってきても何の動きも見せなかった。時計を見るともう朝の五時だった。

 正明が目を閉じると一瞬で朝になった。時計を見ると朝の六時半だ。正明は和花の栗色の髪に顔を突っ込むと、和花の匂いを鼻に満たしてから勢いよくベッドから飛び出した。その反動でベッドが揺れたが和花はまだ眠っていた。いつも九時か十時、それより遅いと昼過ぎに起きるので六時半ならまだ夢の中だ。

 正明は朝食に目玉焼きを四つ焼いてマヨネーズをかけるとパンに挟んで食べた。目玉焼きは和花に一つ残してある。それから正明はカモミールティーを飲みながら朝のニュースを一通り見て部屋を出た。

 朝は通勤時間が重なるので百人乗れるエレベーターが満杯だった。顔ぶれはいつも同じだが話したことは一度もない。みんな上か下を向いて誰とも目が合わないようにしていた。正明は入り口近くに立っている男が髪を切ったことや、隣に立っている女が新しい柄のスカーフを巻いていて、まだ服装になじんでいないことにも気付いていたが、それでどうしようという気もない。

 メロンハイツを出ると停車場に車の列ができていて人々は順番に乗り込んでいった。正明も車に乗るとカードリーダーにIDカードを読み込ませた。『おはようございます棗正明様』とドアガラスに表示されると「会社」と正明は言った。『帝国自動車本社ビル』と表示されたので『ここに行く』をタッチすると車が動き始めた。

 正明には父親が車を運転する後ろ姿と、母親の後ろ髪を後部座席のチャイルドシートから見ている記憶があった。いつから自動運転車に乗るようになったのかは記憶がない。正明が十歳の頃には車を運転する人は珍しくなっていた。歴史の本には自動運転車の対人事故数が三年連続〇件になったことが分岐点だと書いてあった。専門家は急激な切り替えは起こらないと予想していたが、たった数年で自動運転車への切り替えは起こった。今では九九%の人が自動運転車に乗っている。

 専門家の予想は外れるものだ。移動のコストやストレスが下がれば人々は都市部から郊外へ移り住むという予想も外れて、人々は都市部に寄り集まった。日本の人口は減り続けているのに魚田市の人口は史上最多を毎年更新してメロンハイツの家賃も年々上昇している。

 都市部以外の土地はタダ同然だ。正明はムラサメを停めるために廃工場を土地込みで安く買ったのだが不思議とそこに住んで仕事へ行こうとは考えられなかった。一度試したことはあるが、通勤する車の中で奇妙な空白感に体を包まれて、一日でやめてしまった。都市の外側に住もうとする人は少なくないが住み続けている人は聞いたことがない。ある専門家は都市部に住むのは不合理だというが、その専門家も都市部に住んでいるらしい。人の集まるところに人は集まってしまう。不合理でも現実に起きていることだ。

 車が帝国自動車の本社ビルに着いた。正明が車から降りると車はすぐに走り去った。朝は需要が多いので車は休む暇がない。

 正明は帝国自動車という会社で戦略企画営業部の部長をしている。上層部からは売上を上げろと言われているが帝国自動車のシェアは九九%なので契約数が増える見込みはない。ある上層部の男は月三万円でツーシーター、つまり座席が二つある自動運転車に乗れる契約を月四万円のセブンシーターに乗れる契約に乗り換えさせれば売上が上がると会議で言い放った。冗談だと思いたかったが営業指針にはセブンシーターに乗換えを勧めろと書き足されていた。しかし、ツーシーターの契約をしているのは独身者が多く、彼らが家族持ちにでもならない限りセブンシーターは必要ない。

 帝国自動車は昨年に史上最高の売上高を記録したが日本の人口が増えないかぎり、これ以上の売上増は見込めない。それならば客単価を上げようということで、この前は車の中で映画を見たり音楽が聴ける車の試乗キャンペーンをやった。シートは最高品質でディスプレイもスピーカーも良い物を使ったのでアンケートの満足度は高かったが月一万円を余分に払ってまで乗りたい人は多くない。

 上層部は客単価を上げたいと考えているが正明は無料にできないかと考えていた。人から金は取らない。その代わり車のディスプレイに広告を流して企業から広告料を取る。それなら人口は売上の制限にならない。

 上層部は馬鹿げた話だと一蹴したがテレビもインターネットも広告で成り立っている。どうして車がそうであってはならないのか。帝国自動車の車内ディスプレイは視聴率九九%だ。搭乗者がいつどこへ行ったかというデータも持っている。広告媒体としてはテレビやインターネットより強い。社内AIに試算させると全ての車が広告車に変われば売上は五倍になると出た。その結果を上層部に伝えると笑われたが、止めろとは言われなかった。正明の人と金の使用権限も拡大された。

(↓つづきは本編で)
山桜
牛野小雪
2021-12-05

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1年以上かけて小説を書いてみた結果

20210717
 ノートを見ると去年の4月23日から『ペンギンと太陽』を書き始めたようだ。どこで完成と区切るのは難しいが、2021年7月13日からは手を付けていないので、おおよそ15か月をかけて一冊の本を書いたことになる。

『流星を打ち砕け』と同様、まずはノートに書いてからwordに清書した。しかも前日書いたところをまた書き直すというやり方だったので、1章進むのに1か月もかかったし、ノートもたくさん使った。とても環境に悪い執筆だ。kindleで出版している私が言うのも変だが、デジタルには身体性が欠けている気がする。wordで打ち込むのも指を使うので、全く新体制がないとは言えないが、ペンと万年筆と比べると『手応え』に欠ける。子どもの頃はずっと手書きだったから、文字を書く行為には身体性が必要なのかもしれない。この1年で10年分ぐらい執筆したような気がする。ただ身体性があるからといって、それが良いとは限らないけどね。

 今時の小学校からタブレットを使っている子達はまた別の文字を書く身体性があって、その時が本当に新しい文学が出てくる時かもしれない。ディスコードで話していると、今の10代は言葉の使い方が違うのが分かる。それがどういうことかと言葉では分からないが、今話している相手がおっさんかキッズかぐらいは分かるぐらい違う(敬語だと分からない。敬語は老若男女に使える共通語だ!)。文法が違えば、頭の中も違っていて、考え方も違うかもしれない。考えてみれば、もう生まれた時からスマホのある世代が大きくなっている。最近のちっちゃな子はYOUTUBEが子守歌らしいしね。

 一年かけて書いた小説はなんとたったの4万字。wordで字数を見た時はちょっと驚いた。一章書くのに4万字くらいかけるのに、実際に使うのはその10分の1以下だから当たり前なのだが、それでも全体で4万字というのはショックだった。今までで一番良い文章を書けたという自負はあるが、労力を半分にしても9割ぐらいはクオリティを保てただろう。というか1回目でも7割ぐらいはいけた。3割の差を大きいと見るか、小さいと見るかは価値判断だけど絶対にコスパは釣り合っていない。10回書いたから10倍良くなるなんてことはないのだ。

 おまけに一年以上時間をかけたのにできあがった物を『小説』と思えないのもショックだ。一章ずつ書いていくスタイルが本全体を一冊の『小説』にできなかった原因かもしれない。プロットだとちゃんと『小説』してたんだけどな・・・・・。

 とにかく最後まで書いて、後から書き直すという伝統的な手法はやはり正しいのかもね。今週は『蒲生田岬』の改稿をしていたのだが、こっちの方がよっぽど『小説』してる。

 それでも私は『ペンギンと太陽』の方がよっぽどよく書けている本だと感じる。つい最近まで書いていた本だから思い入れがあるだけかもしれないが、私はこっちの方が絶対に良いと思う。蒲生田岬を読んでいると恥ずかしさを感じる。ただ気になるのは私の中にある『小説』じゃないってことだけ。めちゃくちゃ悩んだ。これはもしかすると大いなる失敗作ではないかと思い続けていたけれど、結局は出すことにした。何故ならば書いてしまったから。身もふたもないけれど本当にそういう理由。書き直して『小説』にする方法も見いだせなかった。

 もう3年ぐらい、にゃんこスターが流行った頃からストックしてある『山桜』を先に出すべきかなとも思うけれど、ここまでくると逆にもう出してはいけないような気もしてくる。いや、3か月おきに出すべきか。本を出していない年がないように溜めておくとダレてしまうかもしれない。どちらにせよ、7月は暑いので10月の涼しくなった頃に新作を出そうと思う。

ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事

ペンギンと太陽 (牛野小雪season3)



一年ぶりに『山桜』の推敲をする

 最近コロナウイルスで世間が騒いでいるけれど、去年の二月はインフルエンザで何日か布団の中で震えていて()、熱に浮かされている時に、ヘミングウェイのように一年寝かしたらどうなるのだろうという考えが頭をよぎって、その時は絶対にするわけがないと思っていたが、本当に一年寝かしてしまった。熱で頭がおかしくなったのかもしれない。

 久しぶりに『山桜』を読むと、当然ながら去年の熱はもうなくて、それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、多少書き直したところはあった。そこは去年からどうしようかと迷っていたところで、一年経ってみれば迷うほどのことはなかったし、書き直した後でもう一度読み直しても、やはりそうするべきだと思えた。問題点(迷うぐらいなので、明確な問題だったというわけでもないが)は去年のうちに掴んでいたのだから、その時にもう一歩踏み込んでいれば同じ結果だったかもしれないし、やはり一年時間をかけなければ書き直せなかったかもしれない。人生の二つのルートを同時に歩むことはできないので分かるはずはないが、ただこれが良い小説なのは間違いない。でもいつ出すのかはまだ分からない。徳島公園の桜はもう咲いてしまったし、そもそも題名に桜とついているが春の桜を見る話ではないし、とか色々考えているが、ストックしておくのが一番良い気がする。いつでも何かしら出せる状態であるのは気持ちに余裕が出て、精神的に良い。

 表紙の方は一季節に二つか三つのアイデアをひらめくので、フォトショップのファイルが13個もある。jpegファイルは70個(バージョン違いがほとんど)だ。これは最高だ! と毎回思っていたが、いつもそれを超えてくれたのはありがたい。小説は表紙込みで一年寝かせた方が良いのかもしれない。


》おわり 2020年2月28日(金)牛野小雪 記


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散文的には詩的、詩的にはかなり散文的

funny dance4

 山桜は詩が入っている。というより途中から詩の注釈で小説を書いているような気がした。詩なんて去年までは全然詠んだことがなくて最初は手探りで書いていたけれど詩の原理 と歌よみに与ふる書 はかなり啓蒙された。あとサラダ記念日 は教科書で習った短歌の既成概念を壊してくれて衝撃的だった(というか最初は短歌だと気付かなかった)。あと勝手に7×4という形のニューポエムを作って詩を書いた。短歌や俳句だけだと馬脚が現れるから、ある種のごまかしだ。でもちょっと間延びした感があるなとは思った。短歌のリズムが体に染み付いているからからもしれない。

 夏目先生の『吾輩は猫である』の中にも詩が割り込んでくる。その中に新体詩というのが出てくるのだが、短歌とも俳句とも、種田山頭火的な自由律とも違っていて(山頭火って日本詩の歴史では事件だったんじゃないか)、かなりぶっ飛んでいる。どういう経緯で生まれてきたのだろうと不思議だったのだが、この前ふと読んだ本に夏目先生が東大生の時にウォルトホイットマンの詩について論文を書いているというのを発見した。明治時代は西洋文化が流入していて、西洋詩の形態が日本詩にも吸収されていた頃だそうだ。つまり西洋詩≒新体詩ということ。なぜ=ではなくて≒なのかというと、冬来たりなば春遠からじ、という文言を使いたくて、元ネタは誰なんだろうと調べるとシェリーというイギリスの人が詠んだ詩だと分かった。しかし件の春来たりなば~というのは原文とニュアンスが違うというのも発見したからだ。それにしても、冬来たりなば(7)春遠からじ(7)でちゃんと七音になっているのは訳者凄いと思った。韻もちゃんと踏んでいる。昔の人って本当に凄いな。新体詩までは手が出なかった。でもいいんだ。吾輩だって「東風君もあと十年したら、新体詩を捧げる非を悟るだろう」と言っていたし日本詩的にはたぶんセーフ。

????「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義は学究のやる事で私共の方では頓と構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留とめがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」


 この前、口伝で小説は残らないが詩は残るということを書いた。それでふと川端康成の『雪国』の冒頭だけ読んでみた。《国境のトンネルを抜けると、そこは雪国であった。夜の底が白くなった。》とあり、詩的な文章だと思った。

 次に『山の音』の冒頭を開いてみると《尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口を開けて、なにか考えている風だった。他人には、考えていると見えないかもしれぬ。悲しんでいるようにも見える。》と散文的だ。文庫本の解説には戦後文学の最高峰に位する名作小説だと書かれているが、結構最近まで私は知らなかった。それで読んでみると『山の音』が全然良かったので、どうしてこっちが雪国より有名ではないのだろうと不思議でならなかったのだが、冒頭の詩的さが足りないからではないかと思った。

 そういえば綿矢りさの『蹴りたい背中』の冒頭は《さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。》だ。
 又吉の『火花』は《
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残りを夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。》
 これはもう書き出しは詩にするべき! 
 そう思ったけれど、冒頭を詩にできないところに詩才のなさを痛感した。でも村上春樹の『ノルウェイの森』は散文的だったので、やっぱり関係ないのかな。散文は散文、詩文は詩文なのかもしれない。上の文章も散文的には詩的だが、詩的にはかなり散文的だ。小説家と詩人は似ているようで両者の間には超えがたい溝があるのかもしれない。

 先週までの推敲はいかにも手を加えている感じがあった。今週はあえてやる必要もないようなことばかりやっていた。パソコンに触れたのは合計1時間もない。そのくせ推敲の効果は今週が一番あったように感じている。神は細部に宿るという。でも本当はコンコルド効果じゃないか。8万字を読み通すにはどうしても1日以上かかってしまうから、それが無駄であって欲しくないという気持ちから、おお、たったあれだけのことなのに、こんな変化が起こせるのか、なんて感じで。字数でいえば40とか50字の世界なのに、それで全体に変化が起きるなんて、ちょっと信じられないな。頭が熱くなっている。でもまだやる。

(おわり)


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口に刺せ、ガソリン銃

gas gun


ガソリンスタンドで給油口に刺されるアレの名称が分からないので(というか、あるとも思わなかったので)

銃の様な物を給油口に刺した。銃にはホースが繋がれていた。

としたのだが、ふと『ガソリンガン』という正式名称があるのではないかという疑問が湧いて検索してみると、やはりガソリンガン、ガソリン銃、給油ガン、という名称でヒットした。でも一番普及しているのは給油ノズルのようだ。でも、せっかく銃の様な物と書いたので、3ヶ月前の自分を尊重してガソリン銃という名称にした。

その結果

ガソリン銃を給油口に刺した。

とした。内燃機関とガソリンスタンドが廃れているという設定なので、一風変わった呼び名の方がそれっぽい。

↑アマゾンで売っているというのに驚き!


kindleで推敲しているとメモ機能でハイライトした場所が簡単に見ることができる。それによるとkindleで推敲し始めて最初の版は130、次は101、さらにその次は72箇所のハイライトがあった。はは~ん、30ずつ減っているんだな。それじゃあ次は40か、あと3回で0になるな、と思っていたら4回目は115だった。でもさらにその次は29だったりもする。推敲するたびに前とは違うところが気になって、ハイライトする場所が増えたり減ったり。でも細かい問題ばかりになってきたから、そのうち終わるんだろうな。ここ数日は一度消したものを、やっぱり戻すということもしていて、推敲が終わろうとしているのを感じている。

(おわり)

私小説のラストは自殺とか、首都圏方言とギャル語とか、僕は長編を書けないとか

 熱に浮かされたのか、文学的天啓なのかは分からないが、インフルエンザで40度の熱が出て手足が氷水につかっているみたいに冷えて、布団の中でぶるぶる震えている時に、絶対にこれを小説に書こうと何故か決心した。それで日記とは別に私小説を書いた。勢い余って他の事も書くと存外手応えを感じた。プロットがないので断片ばかりだが、これを書き溜めると、どこかしらに到達するのではないかという確信があった。しかし、ふと布団の中で、もしこれを書き進めていくとすれば明確にエンドマークを打つには、どこかの時点で自殺しなければならないことに気付いた。それも衝動的にではなく計画的でなければならない。胸の中がぞっとして熱は引いたのに体が冷たくなった。
 私小説に結末があってはならない。だから夏目先生の『明暗』を読むことにした(明暗は私小説ではない)。『明暗』とは夏目先生未完の小説である。未完で終わると何かで知っていたから今まで読んでいなかった。でも今は未完の小説が欲しいのである。そんなわけでここ数日は眠る前に5章ずつ『明暗』を読んでいるが、これが未完で終わるというのにムカついている。やっぱり読むのをやめようかと思うのだけれど、まぁ、今のところ読み進んでいる。

 山桜の推敲をしていると書き言葉の方言は難しいと痛切に感じる。作中ではどこの県とは明言していないので架空の方言として、かなり便利に書いているのだが、現実の方言をそのまま書き言葉にするのは難しいよなと、いつも思う。50音のどの語に当てはめるのだろうと分からない言葉もある。同音異義語が多いことからして標準語は書き言葉だろうが、方言は喋り言葉という気がする。ならば口伝だけで、方言で伝わっている物語があるんじゃないか。民謡がそうかもしれないが、もっと長い物語が口伝だけで伝わっていた可能性はある気がする。平家物語ほど長くはなくても、小説で言えば短編ぐらいの物語が。でも、もう語り部がいなくなって回収は不可能だろう。口伝という意味ではやはり散文より詩の方に軍配が上がるようだ。民謡がまだ残っているのが、その証拠だ。平家物語にしても冒頭の句がなければ太平記ぐらい読まれていない可能性があったかもしれない。そして源氏物語の方が読まれているのは短歌があるからかもしれない。
 方言といえば首都圏方言というのがあるらしい。ギャル語もその一種なのだとか。港区と渋谷区では同じ東京でも話し方が違うんだろうか。
 インターネットにも方言がある。今ならなんJ語がそうだ。(笑)から草の変遷には歴史があってちょっと感動した。でもそれとは別に考え方とか感じ方も違う気がする。フェイスブックとツイッターではノリが違う。そしてノリが違うとコミュニケーションが成立しない気がしている。言葉が違っても友達にはなれるがノリが違えば友達にはなれない、むしろ敵、というのを最近考えている。いつかそういうことを大学の偉い先生が研究するようになるだろう。方言ならぬ方考みたいな感じで。
 ノリの派生で服装が違う奴は敵。というのも面白い考え方だと思ったけど、軍服があることからして、ずいぶん古い考え方だという結論に至った。しかし、ひとつの思考実験として全員がユニクロのグレーパーカーを着たとしても、全員が友達にはなれないので、服装で敵味方が分かれるのはちと弱いかもしれない。でもまったくないわけでもないだろう。メンズナックルを読んでいる層とメンズノンノを読んでいる層が長年マブダチなんてのはちょっと考えづらい。分からない奴には鳥獣拳。(参考サイト‐メンズナックルジェネレーター)
メンズナックル風 poem
 創作物のヤンキーと現実のヤンキーが違うように、現実のギャルと創作物のギャルも全く違う物のはずだ。そういう意味ではギャル漫画というのはファンタジーに分類される。創作物におけるヤンキーとギャルの共通点はバサラ、つまり既成概念をぶち壊す存在であることだ。ギャルは今でも時々駅前で見るがヤンキーというのは絶滅危惧種だ。でも文化的に保護されたヤンキーがいたとすれば、それはもうヤンキーではない。伝統芸能の担い手だ。人間国宝を授与されるジャンルだ。家元の家に生まれた子は3歳でメンチを切らなければならないだろう。15になるとヤンキーの家を継ぐか、一般人として生きるかの選択を迫られるだろう。なんか嫌だ。ヤンキーっていうのは職業じゃなくて生き様であってほしい。でも伝統芸能としてのヤンキーはそういうものになってしまうんだろうな。弁慶が勧進帳を読み上げるように、ヤンキーが舞台の上でメンチを切るのを見るようになるんだろう。そういえば弁慶ってヤンキーっぽい。というよりあの時代は武士達が一番ヤンキーっぽい。ってことはヤンキーはやっぱり伝統芸能にはなれない。何故ならヤンキーは一度も天下統一を成し遂げていないから。武士は権力を握ることでメインカルチャーに登り詰めたが、ヤンキーはどこまでもサブカルチャーでしかない。千年後の未来には日本史を専門に学んだ人だけ知っている一風変わった風俗として扱われるだろう。
 ヤンキーは廃れること請け合いだがギャルはまだ分からない。現代の日本は千年前と違って武力統一しなくても選挙に勝てば権力を握れる。ギャルが一斉蜂起して選挙に出馬、政権を取れば伝統芸能として残るに違いない。可能性はある。しかしギャルは伝統芸能になりたいとか思っていないであろうからギャルであると思うので、そんな不純な動機で天下統一して欲しくない。っていうか、ここで言っているギャルというのも創作物のギャルなので、そんなことは絶対に起こらないだろう。メイクを落とせば10代の女の子でしかない。なるほどヤンキーが天下を取れなかったわけだ。

 山桜の小分けにしていたファイルを一つのファイルに戻すと全部で81651字あった。この前書いたのは原稿用紙250枚の天井を意識しながら書いたので6万字。今回は天井を気にせず書いたのに8万字。やっぱり長いのは書けない。今の書き方で16万字ぐらいのなんて想像もできない。一昨年までは時間さえかければ何十万字でも書く自信があったけど今は無理。でも5年前も中編二編書いた後に長編を書けたから、次も奇跡のように何らかのブレイクスルーをするかもしれない。で、今書いている物に見切りをつけて本当に新しい方向性へ舵を切る、と。まぁ未来なんてどうなるかわからないし、もしかしたら来年は刑事物を書いている可能性だってあるわけで、今も昔も目の前に見えている小説を書くしかない。

(おわり)

長編なんて書けません

 あわよくば山桜を長編にできないかなと思っていたが、この調子だと本当に中編で終わりそうだ。というか短編で終わるかもしれない。

9000字書いてやっと主人公が人と喋った。どんだけ無口なんだよ言いたくなる。プロットからどんどん人が減って、二人いた主人公は一人になった。この小説は主人公でさえ生き残れない。もしかしたら登場人物が一人だけの小説になるかもしれないが、今のところ三人は出る予定があるし一人は台詞を文末にスペースを開けて書き置いてある。これはぜひ使いたいというフレーズだが、もしかしたら使わないかもしれない。そういうことを今週はやってきた。

 執筆を始めてからもプロットを書き直している。シーズン3からはそういう書き方にした。ひらめきが起きたらライブ感で消化せずにきっちりプロットで受け止める。とても手間がかかって、なかなか進まない。とてつもなく無駄に時間を浪費しているんじゃないかという気持ちに襲われる時もあるが、今までと違う物が出てくるのだから、これで良いのだと自分に言い聞かせている。正しいかどうかは分からないが去年までと今年書いている文章を比べれば、断然に今年の方が好きになれるし先が開けたような手応えもある。評価はいまいちでも変えるつもりはない。

 それにしても長い小説が書けなくなった。今まではプロット以上に字数が伸びていたが、今年はプロットより短くなるばかりだ。群像に出したやつは8万字書くつもりだったのに6万字になってしまった。いつも通り字数が伸びて10万字ぐらい書けたのを規定枚数に削るつもりだったのでビックリした。あれだけ書いてこれだけなのかとガッカリもした。20万字ぐらい書いた手応えがあったのだ(というか小説の裏側で本当にそれぐらい書いたと思う。カウントはしていないけど)。去年までとは逆になっている。この感じだと長編を書くには聖者の行進ぐらいのネタが必要だけど、あんなのは狙って書けるものじゃないから長編を書く距離を非常に遠く感じるようになった。

 別に長編を書かなきゃいけないわけじゃないんだけど、やっぱり長編が書きたいし読みたい。蒲生田岬までは長編なんて奇跡が起きなきゃ書けないと思っていたけど、結局は聖者の行進ぐらい大きな物を書けたのだから、このまま書き続けていれば、そのうち書けるようになるかな。でも別に書けなくてもいいかも。山桜は中編になりそうだけど、なんだかんだで今が一番良い小説を書けている。

 

(おわり)

cherry of mountain


大和魂とは?

 群像の結果が出るのは来年なので、結果がどうであれ来年に小説を出せるようにしようと考えている。『幽霊になった私』ぐらいの長さを一年ぐらいかけて書くつもりなのでテーマもそれに見合う物にしようとしていて、現代の日本に突如出現した武士道を書こうとしていたが、ますらおぶり、たおやめぶり、という日本古来の言葉を知って、こっちの方が広がりがありそうだと方向転換したが、その二つを追っていると自然と大和魂(あるいは大和心)に行き当たった。 

 大和魂についての本を読むとよく明治天皇の句が引用されているので、まずはここに記しておく。


如何ならむ事に逢ひても撓まぬは我がしきしまの大和魂
(訳:どんなことがあってもワイの大和魂は折れへんのや!)
鉄の的射し人も有るものを貫き通せ大和魂
(訳:鉄の的でも射てまう人がおるから大和魂もいけるやろ!)
山を抜く人の力もしきしまの大和心ぞ基なるへ

(訳:山を抜いてまう人も大和心があるからできるんちゃうかな)


 どの句も三三七拍子で太鼓の音が聞こえてきそうだ。いかにも『大和魂』と聞いた時に浮かべる勇壮で、力がこもった印象を受ける。

 しかし明治から少し遡って幕末の吉田松陰だと弱くなっている。


身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置きまし大和魂
(訳:ワイは死んでも大和魂は不滅や、武蔵の野辺に残ったるで)
かくすればかくなるものと知りながら止むに止まれぬ大和魂
(訳:あかんと分かっとるんやけど止められんのが大和魂なんや)



 明治天皇の句と比べると負けることが前提で詠まれている。でも目標に対して一直線に突き進んでやろうという気概もある。

 さらにもうちょっと遡って本居宣長ぐらいになるとさらに弱くなる。


しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
(訳:大和心っていうんはな、朝日の中で香る山桜みたいなもんかな)


 ここまで来ると太鼓の音は消えて、スズメの鳴き声が聞こえてきそうだ。でも、すうっと息を吸えば肺の中が冷たくなるような清清しさがある。幕末からの大和魂にもそういうところはあるにはあるが、どこか鉄っぽいというか血なまぐさい清浄さで息の詰まる感じがする。実際、吉田松陰は身はたとひ~の後で息絶えるわけだし。

 と、ここまで大和魂、大和心の句を紹介してきたのだが、実はもうこれで終わりなのである。他にもあるかもしれないが、私の目と手の届く範囲にはこれぐらいしかなかった。大和魂というと古来からあるような概念っぽいが実は武士道より歴史は浅いのかもしれない。そう思っていたがwikipediaによると大和魂の初出は『源氏物語』だそうだ。どの帖に出るかも書いてあったが読む気がしないので、そのままにしている。
 ちなみに本居宣長は今でいう国語の先生で『源氏物語』の講義もしていたから、平安から江戸まで大和魂の空白期間があって、そこから本居宣長→吉田松陰→明治天皇の流れがあるのかもしれない。

 源氏物語は開かなかったが、その代わりに大和魂の『大和』に関する句なり歌を調べみると万葉集にいくつかあった。万葉集とは『源氏物語』よりも前に編纂された和歌集なので大和魂は出てこない。


大和には群れ山あれどとりよろぶ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は
(訳:大和には色んな山があるんやけどな。一番高い香具山に登ったら、広い平野にかまどの煙がいっぱいあってな、広い水面にはかもめがいっぱい飛んどってな、ホンマにええ国って思ったんよ by舒明天皇)

 何だか明るい感じがする。大和ってええやん的な。ちなみに大和とは大和政権があった奈良県が由来だが(諸説あり)、日本の国全体を指している。上の句で出てくるしきしまも奈良県にある場所だが、同じ使われ方だろう。

 万葉集の大和は明るくてほっこりする。次の句を見てみよう。


天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(訳:辺境の田舎の長い道を恋しくして来たら明石の門から大和島が見えたわ)


 遠くに行った人が遠いところから帰ってきて、明石の門から大和を見た喜びが詠われている。

 有名どころだとこういう物がある。反歌なので前の句も書いておく。ちなみに瑞穂も日本のことだとか。


葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く ま幸くませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
(訳:瑞穂の国は神様がおるけん何もいわんでもええんやけど、ワイはいうてしまうわ、お幸せに。なんぼでもいうわ、お幸せに・・・・お幸せに・・・・・お幸せに・・・・・・)

磯城島の大和の国は言霊の助ける国ぞま幸くありこそ
(訳:大和の国は言霊の助ける国や。それでええんや、あんがと。ええことあるとええな)


 万葉集の大和は英語で言うhappyと紐付いている印象がある。そこに心や魂が付くと悲壮な感じがする。

 大和魂とは剛健でありながら、血生臭く、意気軒昂としていたと思えば、早朝の空気が綺麗な時でしか感じられない曖昧な物であり、心や魂が抜けるとハッピーになるらしい。何だかよく分からなくなったところで、また明治に戻ってきた。夏目漱石の『吾輩は猫である』で苦沙弥先生が披露した短文でこういう物がある。

大和魂! と叫んで日本人が肺病病みのような咳をした
大和魂! と新聞屋がいう。
大和魂! とすりが言う。
大和魂が一躍して海を渡った。
英国で大和魂の演説をする。
独逸で大和魂の芝居をする
東郷大将が大和魂を有っている。
肴屋の銀さんも大和魂を有っている。
詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている
大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。
五、六間行ってからエヘンという声が聞こえた
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。
魂であるから常にふらふらとしている
誰も口にせぬ者はいないが、誰も見たものはない。
誰も聞いた事はあるが、誰も遭った者がない。
大和魂はそれ天狗の類か

(訳:大和魂ってよう分からん)


 大和魂とは、大和心とは。苦沙弥先生に分からないなら牛野小雪においてや。もうよそう。これっきり御免こうむる。大和魂は自然の力に任せて追い求めないことにした。

 本居宣長が日本文学の本質だと言っていたことだし、今は『もののあはれ』を追っている。まだ南無阿弥陀仏はしないつもりだ。

(2018年8月31日 牛野小雪 記)
なむあみだぶつ


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