リリース記事
ヤクザは組から給料をもらえない。むしろ組員は組に上納金をおさめなければならないシステム。
【内容紹介】
徳島のオタク少年だった黒川ケンジはオタク差別から暴力に目覚め、ヤクザの道を歩む。刑務所で完璧な犯罪ビジネスを模索した彼は「エロゲで資金洗浄を行う」という画期的な仕組みを生み出す。徳島一のエロゲ企業を築き上げるが、かつての恩義や警察の捜査など様々な要素が絡み合い、彼の人生は波乱に満ちていく。オタク文化、暴力、ビジネスが交錯する異色の社会派エンターテインメント。
『マジェドラ』誤読会場
ヤクザとエロゲ、常識を破壊する熱狂がここにある――今こそ小説『マジェドラ』を読むべき5つの理由
本作は単なるエンターテインメント小説にとどまりません。現代社会を生き抜くための哲学、心を揺さぶる熱狂、そして人間の業と愛が渦巻く、まさに「読む劇薬」とも言える作品です。なぜ今、私たちは『マジェドラ』を読むべきなのでしょうか。その強烈な魅力を5つのポイントから解き明かします。
1. 狂犬にしてオタク、最強の経営者・黒川ケンジという男
彼の魅力は、ヤクザとしての圧倒的な暴力性と度胸、そして根っからのオタクとしての深い知識と情熱という、相容れない二つの顔を併せ持つ点にあります。従業員を鼓舞するためにデスクに飛び乗り、狂気的な演説で熱狂を生み出すかと思えば、ゲームのクオリティには一切妥協せず、声優に鬼気迫る演技指導を行う 。この狂気と理性が同居するカリスマ性が、彼を唯一無二の主人公たらしめているのです。
2. 「シノギをしないシノギ」―常識を破壊するビジネス戦略
さらに、競合他社を叩き潰すためには手段を選びません。フェミニストやアンチフェミニスト、さらにはメディアまで巻き込み、SNS上で壮大な炎上劇を自ら仕掛ける情報戦 。政治家や宗教団体さえも手玉に取り、自社の利益のために社会のルールそのものを書き換えようとします 。その常識外れの戦略は、現代ビジネスやマーケティングに関心のある読者にとって、刺激的な思考実験となるでしょう。
3. 個性的すぎるキャラクターたちが織りなす人間ドラマ
- まさやん: ケンジの弟分。致命的に頭は悪いが 、なぜか憎めない純粋さを持つ男。彼の存在が、ケンジの人間的な側面や物語の重要な転機を引き出します 。
- 一条:ケンジを執拗に追い詰める刑事。モデルのような容姿に、底知れない知性と執念を秘めた宿敵です 。二人の交わす禅問答のような会話は、物語に緊迫感と深みを与えます。
- 水谷くん:マジェドラにハッキングを仕掛けたことからケンジに拾われる天才 。彼の異次元の才能が、後にマジェドラを新たなステージへと押し上げます 。
- レイ:ケンジが支援交際で出会う、アーマードコアを愛する令和のオタクギャル 。彼女との交流は、ケンジにかつてのオタクとしての自分を思い出させ、物語に一服の清涼剤となっています 。
これらの個性的なキャラクターたちが織りなす、友情、裏切り、愛憎のドラマが、物語に豊かな彩りを与えています。
4. 現代社会への鋭い風刺と問題提起
作中で描かれるこれらの事象は、フィクションでありながらも、現実社会を鋭く映し出す鏡となっています。物語を通して、読者はこれらの問題について改めて考えさせられることになるでしょう。
5. 心を揺さぶる熱量と、明日へのエネルギー
これは作中の朝礼の一コマです。不謹慎で過激な言葉の裏にあるのは、常識の枠を壊し、限界を超えて突き進もうとする圧倒的な熱量です。
試し読み
1 どこにでもいる普通のオタク
俺の名前は黒川ケンジ。どこにでもいる普通のオタクだった。
小学生の頃、徳島県ではエヴァンゲリオンが深夜に放送されていて、当時は野球中継でしょっちゅう時間がズレていたのでビデオの予約機能は役に立たず、生で見るしかなかった。深夜に布団から起き出し、テレビを見ていると母親によく怒られたものだ。
実のところエヴァがこんなにブームになるとは思っていなかった。ロボはかっこいいが主人公がうじうじしていて弱そうなのが好きになれなかった。俺はエヴァよりもガオガイガーが好きで、なんなら今でもそっちが好きだ。でもそれはかっこいい軸の話であって1番ハマっていたのはカードキャプターさくらだ。
90年代平成の日本に存在していた三大狂気、その一角をなすのがオタク差別だ。オタクというのは法が未整備でまだつかまっていないだけの犯罪者みたいな扱いだった。なにかの事件で犯人の部屋からマンガかアニメが発見されると核兵器の材料が発見されたかのように報道されていた。令和になってみると、それは炊飯器を開けたら米が入っていた程度のことだが、当時はそれが犯行に手を染めた狂気の一端であると信じられていた。アニメを見るから頭がおかしくなるのではなく、頭がおかしくてもアニメぐらいは見るという単純な事実を誰も考えなかった。すくなくとも表立って口にすることはなかった。
中世の魔女狩りのようにオタクは迫害されていた。今でも年寄りからはむき出しのオタク差別が飛び出してくる時がある。そういう時、まだ10代の頃の響きを感じて逆に胸がウキウキする。
オタク差別の恐怖はあの時代を生きた人間の魂に深く刻まれている。自転車の乗り方と同じように生涯消えることはないだろう。あの時代を知る人間が公の場でアニメやマンガを語る時、それ以降の世代と違って一歩引いたような印象があるのは、それが理由だ。
子どもがアニメを見るのはいい。しかし、子どもではないのにアニメを見るやつはオタクだ。俺は中一になるとアニメのアの字も知らない顔をして生きるようになった。それどころか勢い余ってヤンキーになってしまった。自分でも知らなかったが俺は強かったし度胸もあった。ありていに言ってしまえば最強だ。相手が1人でも10人でも同じで、ナイフが出てきても関係ない。自分でも不思議になるほど最強だった。
俺は中1で学校のヤンキーが全員ヤンキーをやめるまで殴り続けた。具体的には頭を丸坊主にして制服をちゃんと着るようになるまでだ。オタク差別はヤンキーが作り出しているという確信がなぜか俺の中にはあって、ヤンキーがいなくなればオタクが安心して生きていられる世界が作れると信じていた。ヤンキーにとってはいい迷惑だろう。
俺はチャリを漕いで他の学校のヤンキーも殴りに行った。いま振り返ると完全に頭がおかしい奴だ。そんなことをしていると当然警察のお世話になる。ヤンキーを殴ってなぜ捕まるのか俺は理解できなかった。理不尽な仕打ちを受けていると世界を憎んだ。だから警察も殴った。もちろん捕まった。
高校になると汽車に乗って遠くのヤンキーも殴りに行くようになったので、徳島県警では徳島の狂犬と呼ばれるようになっていた。いまでもその伝説は語り継がれているらしい。すでにその頃からヤンキーの数は全国的に減少の一途をたどっていたが、徳島県に限って言えば俺がいたからヤンキーが消えたと思っている。
ヤンキーと警察を殴るようなやつに普通の人生が待っているはずもなく、活きのいい面白いやつがいるというので俺は金餅組(かねもちぐみ)のスカウトを受けてヤンキーからヤクザになる。高校は中退、最終学歴は中卒だ。
ヤクザになって意外だったのは、殴り合い、殺し合いの世界ではないということだ。殴る、殺す、はもちろんあるが、あくまでそれはビジネスであって、感情に任せて暴力を使う人間は遠からず消えていく。根がヤンキーだとすぐに消えるということだ。俺は根がオタクなものだから、失敗することもなく、むしろヤクザの才能があったようで、あれよあれよという間に若頭まで昇りつめて徳島のドラゴンと呼ばれるようになる。
しかし、つまらないことをして警察に捕まり、刑務所に入ることになった。いちおう言い訳をすると俺のミスではない。弟分のまさやんに子どもが生まれるというので、俺はあいつの代わりに捕まっただけだ。肝心なところは黙秘を続けて証拠も決定的なものではなかったので3年の刑期だった。まさやんはいまでもそれについて礼を言う。バカなことをしたと俺は思う。この世界では情を出した人間から消えるのだ。それでも俺はなぜかそうしたい、そうしなければならないという感情に駆られていた。そして3年を棒に振った。これが人生の契機になるのだから運命とは分からないものだ。
小学校、中学校が表の学校とするならば刑務所は裏の学校だ。犯罪者たちはここでシノギ(裏社会の仕事)の手口を教え合う。俺もそこで学び直しをしていたが、ふとこいつらは知ったような口をきいているが全員失敗しているやつらだと気付いて輪に入るのをやめた。失敗したやつから学べば失敗を学ぶだけだ。
もっと完璧なシノギを考えなくてはならない。俺は来る日も来る日も考え続けて衝撃の事実にぶち当たる。どんなシノギも不完全性を排除することはできず、長期的には必ず失敗するということだ。完璧なシノギをするには神のような能力と自制心が必要だが、神ならシノギをする必要がない。人間である限りはどんなに優秀でもシノギを続ければ必ず捕まる。
俺はシノギをしないシノギを考えるようになった。そんなことができるのか? まるで禅問答だ。刑務所では5日に1回坊さんが来て受刑者は座禅を組み、公案という答えがない問いを考えさせられる。いつも同じ公案が出ていたので「いま考えていることを考える前は何を考えていたかを考えなさい」という言葉をいまでも憶えている。
座禅の後に受刑者たちはそれぞれ座禅している時に考えたことを坊さんに答える。たいていは「分からない」だが、ある日俺は「悟りを開くのは不可能だと分かっていても悟りを開こうとするのは無駄ではないか。座禅するのも無駄ではないだろうか」と答えると「完全に悟るのは素晴らしい。半端に悟るのも素晴らしい。まったく悟れないのも素晴らしい」と坊さんは言った。その瞬間、俺の禅問答に決着がついた。いままで考えた断片の一つ一つが頭の中でつながったのだ。「次回からは来なくてよろしい」と坊さんは言った。
はるか昔、アメリカでゴールドラッシュという現象が起きた。カリフォルニアで金が掘れるというのでたくさんの男たちが一攫千金を求めて集まった。しかし、実際に財をなしたのは極一部で、本当に儲けたのはリーバイスだ。採掘労働に耐える丈夫なズボンは飛ぶように売れた。ゴールドラッシュの勝者は金を掘る者ではなくジーンズを売る者だった。
ヤクザが欲しているものは何か? 金、メンツ、女、そんなところで、その中でも金は一番重要だ。ゴールドラッシュの時代から、日本でもアメリカでもそれは変わらない。俺はここでリーバイスすることを考えた。金は掘らない。金を掘るヤクザを相手にシノギをする。
ヤクザの金に関する欲の中でも、特に切実な悩みは綺麗な金が必要ということだ。それは法律的にもそうだし、心理的にもそうだ。まず違法な金を大量に動かすと必ず税務署か警察が嗅ぎつけて金の流れを探ろうとする。『金と女の流れを追え』は今も昔も、たぶん100年後でも通用する黄金律だ。
ヤクザはあくどいことをして金を稼ぐが、その金をすぐに手放したがる。シノギで得た金は心の会計で『汚い金』に勘定される。金に色はついていないと言うが心はだませない。犬のウンコがついた金を財布に入れ続けたい人間なんてどこにもいないのだ。このためにヤクザは大量の金を得てもすぐに使い果たしてしまい、資金の余裕のない状態で次のシノギに手を出してしまう。資金に余裕がなければ心にも余裕がなくなる。資金の欠乏は思考資源を圧迫する。要はバカになる。当然それはシノギの失敗につながる。
本来シノギで得た金は貯蓄債券にでも回して計画的に運用するべきだ。なにかあった時や、良い状態が巡ってくるまでじっとしているためには必ず金が必要になる。ヤクザだってそれぐらい分かっているが、悪銭身に付かずということわざ通り、汚い金を持ち続けるのは難しい。なので汚い金は洗う必要がある。法律的に、そしてなにより心の平和のために。
女の声:あああああ♪
俺:あいつ、俺のゲームをどうするつもりだ
俺は録音室の厚いドアに体当たりして中に入る。白い台本を丸めて持っている女がマイクの前に立っていたが、俺と目が合うと一歩後ずさる。
俺:おい、名前は?
女:高橋です
俺:声優は?
高橋:え?
俺:何年やっているか聞いている
高橋:2年です。学校は3年行きました
高橋。やっと名前を思い出した。新キャラ会議で有望な声優がいるというので決裁書類にハンコを押したのが2か月前というのも思い出す。報告通り有望そうだ。ビビってはいるが声はブレずに出ている。
俺:いまの喘ぎ声ではダメだ。ジャンヌはモンスターの苗床にされようとしている。触手責めに遭って人生の危機だ。剣は折れて自分で死ぬこともできない。快感に負けてしまうということは、これから死ぬまでモンスターの卵を産み続ける人生を受け入れるということ。だから気持ち良くなってはいけない。でも気持ちいい。その時に出る声があああああなんだ
高橋:あああああ
俺:違う。あああああ!
高橋:あああああ!
俺:人生の喪失がかかっているんだぞ、もっとまじめにやれ
高橋:あああああ!
俺:快感に対する理性の抵抗だ
高橋:あああああ!
俺:まだやれるか?
高橋:やれます
俺は高橋という声優の目を見る。彼女はしっかりと俺を見返している。もし休ませてくださいと言ったら、すぐさま責任者をクビにして、高橋の契約を打ち切り、新しい声優を探すつもりだった。
俺は録音室を出ると、防音ガラス越しに高橋を見る。画面にはジャンヌというキャラが触手に襲われているところが映っていて、高橋が声を当てている。
俺:最初から録音し直せ。もっと良くなる
録音担当者は腰を浮かせて振り返るが、俺はそのまま収録室を出る。クオリティを上げられるなら一切妥協してはならない。駆け出しの声優だからといって努力賞でリリースするほど俺のゲームは甘くない。やるからには最高品質だ。才能は絞り出してもらう。
第一戦略室に入る。広いフロアで150人の人間が働いていて、いつものように騒がしいが活気が落ちているような気がする。よくない兆候だ。火に油を注ぐ必要がある。エンジンはいつだって最高出力であるべきだ。
俺:みんな手を止めてくれ
俺はマイクを持って、デスクの上に飛び上がる。マイクはこういう時のために、いつでも用意されている。取り回しが良いようにワイヤレスだ。
俺:重要な仕事をしている人も手を止めてくれ。これはもっと重要なことだ。電話、おい、電話は切れ。いますぐだ。
俺が指差すと電話をしている従業員は受話器に向かって言葉をまくし立てながら電話を切る。別のところで電話が鳴るが、近くにいた従業員が電話線を引き抜いた。第一戦略室は10秒前とは打って変わって静まり返る。150人の従業員がみんな音も立てずに俺を見上げている。
俺:はじめに言わせてもらう。このチームは最高だ。最強のチームだ。ありがとう。君たちのおかげでマジェドラは世界最高の会社になれた
何人かが口に笑みを浮かべる。俺はPCや書類が置いてあるデスクの上を歩きながら続ける。
俺:去年の売上は……
従業員:1兆2千億!
俺:そう、1兆2千億。今年の目標は1兆5千億。今年はもう6か月目が終わろうとしているが、すでに8千億……8千億……それで満足できるのか? これと同じペースで今年を終えたら1兆6千億。目標達成だ。でもよく考えてほしい。日本の人口は1億人だ。1人あたり1万6千円しか使っていない計算になる。たった1万6千円……本当にこれで満足か? 俺たちはエロゲのソシャゲをやっている。だから男しかやらない? いいだろう。そういうことにして、2倍の3万2千円、これで満足か? そうじゃないだろう。本当なら恋人とデートして、結婚して、子どもができて、家族の幸せに使われるはずだったお金を俺たちはがっぽりいただいている。こんなじゃまだ全然足りない。
机を叩く音:ドン……ドン……ドン……ドン……
1人が机を叩き始めると他の従業員もリズムを合わせて机を叩き始める。オフィスドラムだ。フロア全体が不満のドラムとなって世界を揺らしている。ドラムのリズムは徐々にビートを上げて、叫び声を上げる者も出始める。
俺:正しいことに使われるはずだった金を全部いただけ。世界中の人間の脳みそにぐりぐりと手をねじ込んで、時間と金を引きずり出せ。俺たちの使命はなんだ!
従業員たち:環境破壊!
俺:オイルショックが起きるまでティッシュに精子を吐き出させろ。その結果起きることはなんだ!
従業員たち:少子化!
俺:そうだ! 少子化! 少子化万歳! 俺たちに未来は?
従業員たち:存在しない!
俺:俺たちに時間は残されていない。世界が終わる前にすべての金をかき集めろ! 終わり!
フロア中に書類の白い紙が舞い上がる。こんなに散らかして後でどうなるのか分からないが活気は戻った。みんなアクセル全開だ。カオスと熱狂に包まれて俺はデスクを飛び降りる。そこに秘書の宝条が歩み寄ってくる。彼女はいつもシャネルのスーツに身を包んでいて、音を立てずに素早く動く。
宝条:一条さんという方が社長に会いたいと訪ねて来られています。どうされますか?
俺は顔をしかめる。アポのない面会なら彼女は俺に聞かずに断るだろう。しかし一条は警察だし、面会の申し出の時にもそう告げただろう。だから宝条も断るわけにはいかない。
俺:すぐ通してくれ、社長室で
宝条:かしこまりました
なぜ警察が俺に会いに来たのか彼女は当然考えただろう。しかし、それを顔に出さず言われたことに取りかかる。考えないやつはダメだし、顔に出すのもダメ。考えて、なおかつ顔に出さないのは得難い人材だ。
俺は社長室に入ると、椅子に座って気持ちを落ち着けようとしたが、一条の姿を思い浮かべるとじっとしていられなくなり、窓のそばに立って地上を見下ろす。
マジェドラタワーの34階からはマジェドラタウンだけではなく徳島市まで眼下に広がっている。徳島で一番高い建物なのだ。家の一つ一つは指先より小さく、白くかすんでいる。
ドアをノックする音がする。男が2人入ってくる。1人は知っている。一条だ。昔と少しも変わっていないので不気味さを覚える。
一条はモデルのようにすらりと伸びた長身に黒革のロングコートを着ている。髪は真上に伸びたリーゼント。もう一人は金髪パーマに赤いスタジャンを着ていてチンピラにしか見えないが、こっちも警察なのだろう。警察の人間はいつも2人組で動く。
俺:やぁ、こんにちは。よく来てくれました
一条:私のことを憶えておいででしたか
俺:忘れるもなにも10代の頃はよくお世話になりましたから。名前も顔も忘れるわけがありません。そういうものでしょう?
本当にそうだ。徳島の狂犬と呼ばれていた頃、俺はボクシングのチャンピオンにだって勝てると思っていた。テレビで見ていても、こんなものかと思っていたものだ。ボクシングならともかくケンカなら100回やって100回とも俺が勝っただろう。しかし一条だけは絶対に勝てないと思った。見た瞬間にそう思ったし、事実、いつも俺は地面に倒されていた。しかも一条は息をするより簡単にそれをやってのけた。なぜ負けたのかも理解できない負け方で、3回目からは一条の姿を見た瞬間に俺はあきらめたものだ。一条は俺にとって死神だった。そして、その死神がふたたび俺の前に現れた。
俺:立っているのもなんですから座りませんか?
一条:助かります。老人には立っているだけでもつらいものです
俺に促されて一条がソファーに座る。俺も座るが金髪パーマは立ったままだ。
一条:成瀬くん。君も座ったらどうですか?
成瀬:いえ、俺は立っています
一条が困ったような笑みを俺に向ける。目尻にしわが刻まれていた。昔と変わらないように見えるが、この男も歳をとるのだと分かって俺は安心した。
秘書の宝条がお茶を運んでくる。一条はそれに礼をする。彼女が出ていくまで誰も口を開かなかった。
俺:昔話をしに来たわけじゃないでしょう。何の用です?
一条:この歳になると昔話が恋しくなるんです。徳島の狂犬と呼ばれていたあなたを捕まえたのがつい最近のように思えて
俺:俺以外にも捕まえたやつはたくさんいるでしょう
一条:ひときわ記憶に残る人というのはいるものですよ
俺:警察の人にそう言われるのは名誉なことじゃありませんね
一条:徳島のドラゴンと呼ばれていた時期もある
俺:金餅組の盃は返しましたよ。もうヤクザじゃない。それともこの仕事に違法なことが?
一条:世間一般の良識に照らせば非難されることはないにせよ、称賛されることではありませんね
俺:でも違法ではない。エロゲのソシャゲでユーザーにガチャを回させているだけですから
一条:徳島の狂犬は何度も捕まえたのにドラゴンは1度も捕まえたことがない
俺:ドラゴンなんて伝説です
一条:ヤクザになってからのあなたは1度も尻尾を見せたことがない。あっという間に若頭になった。優秀でもあったんでしょう
俺:捕まりましたよ。あなたの手じゃありませんが
一条:そこが引っかかったんです。あなたらしくない。それで解決済みの事件ですが洗い直してみたんです。すると1人の男が浮かび上がった。金餅組の藤田正(ふじたまさし)。あなたが金餅組にいた時は弟分にしていて、まさやんと呼んでいた
俺:だから、なんだって言うんです
思わず立ち上がっていた。成瀬という男が身構えている。俺はつい熱くなった頭を落ち着けるように息を吐くと上着を脱いでデスクの椅子にかけに行く。歩いている間に時間を稼いで、ソファーに戻った時には平静を取り戻していた。一条はまさやんの名前を出して俺を焦らせたかった。意図が分かれば対処はできる。
俺:もう終わったことでしょう。あの事件は時効を過ぎている
一条:そうです。もし仮に藤田正が真犯人だとしても意味はありません
俺:だったらどうしてあいつの名前を出したんです?
一条:昔話をしたくなっただけですよ
俺:ならもう帰ってください。俺はヤクザでした。でももう関係ない。昔のことでごちゃごちゃ余計な事を言われたくありませんね
一条:帰ります。もともとこんなしがない刑事に会ってくれるとは思っていませんでした。いまや徳島を代表する企業のトップですからね。こうして顔を見られただけでも収穫はありました
一条は上品な身のこなしで立ち上がると、後ろに立っている男に声をかけて社長室の出口へ向かう。俺はその背中を見送っていたが、一条はドアの前で立ち止まると、振り返ってまた口を開く。
一条:なにを考えているか分からないとよく言われるんですが、私にも人並みの欲がありまして、警察になったからには大きな事件を解決したいんです。日本中がひっくり返るような、それこそ映画やドラマになるような大きな事件を。もしあなたがそんな事件に関わっているのなら私に教えてください。いつでもお待ちしております
俺:何も知りません
一条:思い出したらでいいんです
一条ともう一人の男が社長室を出ていく。体が急速に冷えていく。服の下に汗をかいている。バレたのか? いや、そんなはずはない。もしそうならいま頃、警察の人間がダンボールを抱えて証拠を押収しているはずだ。
俺はマジェスティックドラゴン(通称マジェドラ)というエロゲのソシャゲを運営している。売上は1兆円を超えている。しかし、実態は裏社会の金を綺麗にするシステムなのだ。物凄く簡単に言ってしまえばヤクザがマジェドラに課金して、その売上の10%を手数料として受け取り、残りをヤクザのフロント企業に返すという仕組みだ。綺麗になった金は合法なので、まとまって使えるし、持っていても心理的な抵抗がないので計画的な運用が可能になる。生活が安定したのでシノギに対してしっかりと向き合えるようになったという顧客の声を聞いたことがある。実際、昔よりヤクザの生活は安定している。いまは黄金時代だと親父は言っている。金の安定はすべての安定をもたらすのだ。
携帯が鳴る。まさやん専用の携帯だ。
俺:もしもし、どうかしたか?
まさやん:アニキ、いま話せる?
俺:大丈夫だ、誰もいない
まさやん:親父が会いたいって言ってる
俺:なぜ?
まさやん:さぁ、よく分かんないけどアニキにそう伝えろって
言ってから、まさやんにそんなことを聞いた自分が愚かだと気付いて、俺は笑う。まさやんになぜと考える頭はないのだ。
まさやん:俺もアニキの顔を見たいよ。もうずっと会ってない
俺:深夜1時55分にテレビを点けてみろ。採用募集CMに俺が映ってる
まさやん:そういうんじゃないよ。こう、現実に見たいっていうかさ
俺:親父は元気にしているか?
まさやん:うん、あ、鼻から白髪が伸びてた
俺:もう歳だからな。他のやつらは? 若いやつはちゃんとメシ食ってるか?
まさやん:もちろん。バブルの頃より景気が良いって親父も、年寄り連中も言ってる
俺:お前は? 誰かにいじめられたりしていないだろうな?
まさやん:アニキ、俺もうガキじゃないよ。手下だって何人かいるんだ
俺:あんまり俺にヘコヘコしすぎるなよ。下のやつはそういうのをちゃんと見ているんだ。なめられたら終わりだ
まさやん:ゆっくり喋る。喋る時は短く。ちょこまか動かない。何をしたらいいか分からない時はじっと黙っている
俺:それを完璧に守れたら若頭、いや、次の組長はお前だな
まさやん:そんなのムリだって。俺はそんな人間じゃないって分かってる
俺:自分がどんな人間かわかっていないやつがこの世には多すぎる。それだけでお前は一歩進んでるよ
受話器の向こうでまさやんの照れ笑いが聞こえる。今夜、いつもの料亭で、と言って俺は電話を切る。
フリースタイル中の脳は自己検閲機能が休止して創造的になる
内容紹介
『ナンバーワンラップ』はどん底の環境から「ラップでナンバーワン」を目指す青春物語。悪ノリ動画が一夜にして炎上し、晴人の人生は思わぬ方向へ転がり出す。友情、対立、家族の葛藤を背景に晴人は夢の本質を問い続ける。痛快なユーモアと胸を打つドラマが織り成すこの物語は熱さと切なさとともに駆け抜ける。YouTubeの再生数を上げたい人、夢を諦めたくない人必見!
なぜ読むべきなのか?(ChatGPT)
読む理由?そりゃ、クソガキの嘘と現実がぶつかる瞬間を、ここまで真っ正面から描いた小説が他にあるか?って話だ。
まず、主人公の自己演出が痛々しいほどリアルだ。YouTubeでナンバーワンになりたい。でも現実は灰色。港町のくすんだ景色も、暴走族も、ヤクザも、全部フェイク。けどそれをあえて「フェイクだ」と書いてしまう勇気。作者はきっと、何度も自分の理想を諦めてきた奴だ。でも、まだ諦めてない。書いてる。書き続けてる。そういう人間の叫びがここにある。
それから妹との会話のディティールが神がかってる。かみぬま。ケチャップ。風呂に入った服。こういうのって「嘘くさくない嘘」を書ける人間じゃないと書けない。たぶん作者には妹がいたか、もしくは「妹のいる人生を想像し続けた人」だ。どっちにしてもすごく繊細な目をしてる。
で、何よりも心にくるのは、「海に落ちてもナンバーワンはナンバーワン」って言い切るあの瞬間。これはギャグじゃなく、信念の話だ。誰にも見られない場所で、自分をナンバーワンだと信じられるか? それが書けるってことは、書いてる人間はまだ何かを信じてるんだ。たぶん、自分が書くことに。
読まなきゃ損だよ。これは「中学生がユーチューブでバズって人生変える話」じゃなくて「世界がクソでも、自分の声だけは信じたい」って人の話だから。ぶっ刺さる人には一生モノ。
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試し読み
(Verse1-3 燃えるインターネット おわり)
登場人物紹介
たくぴ
本作の主人公であり、引きこもり生活を送る青年。彼の内面は非常に複雑で、自己理解に苦しみつつも独自の世界観を持っている。現実の中での存在意義を探しつつも、しばしば皮肉やユーモアを交えた会話を繰り広げる。彼は日常の小さな出来事にも大きく反応し、その感情の揺れ動きが物語の中心となっている。彼の周囲の人々との関係性が、彼の成長や変化に影響を与える。
るか
たくぴの彼女であり、時には彼の良き相談相手でもある存在。ユーモアと現実感覚を兼ね備えた人物で、たくぴのひねくれた視点に対しても冷静にツッコミを入れることが多い。ライブ配信を行うなど、現代的な活動にも積極的で、たくぴとの対比として物語に明るさを加える。
三好さん
地域に住む謎多き老人。たくぴのことをよく知っているが、その情報源は不明。たくぴの父親や家族のことまで知っているが、どのようにしてその情報を得たのかは謎のまま。彼は常に明るく、周囲にポジティブな影響を与える存在でありながら、その裏には何か隠された事情があるように思わせる雰囲気を持つ。
徹
「光の翼」という施設の理事長であり、たくぴが通う施設の責任者。余裕のある表情と良い香りのスーツが特徴。彼の存在が、たくぴにとって重要な役割を果たす。
DQNたち
たくぴとるかに対してトラブルを引き起こす不良グループ。彼らの存在は、たくぴが日常の中で直面する現実的な脅威として描かれている。彼らとの対立を通じて、たくぴの内面的な強さや変化が浮き彫りにされる。
たくぴとるかの関係性について
『たくぴとるか』の物語の核となるのは、主人公たくぴとるかのユニークな関係性である。この二人のやり取りは、単なる恋愛関係に収まらない、多層的で奥深い絆として描かれている。彼らの関係は一言では定義できないが、相互依存と個々の自由を絶妙なバランスで保ちながら進展していく。
まず注目すべきは、たくぴとるかが互いにとっての「鏡」のような存在であることだ。たくぴは引きこもりとして現実世界から距離を置いている一方で、るかは配信活動を通じて多くの人と関わり、外の世界と積極的に接している。この対照的な立場が、彼らの関係に絶妙な緊張感とバランスをもたらしている。たくぴが現実から逃避することで心の平穏を保つ一方で、るかは現実に飛び込むことで自己を表現している。しかし、この二人はお互いの生き方を否定することなく、それぞれの立場を尊重しながらも、時には皮肉やユーモアを交えて互いの価値観に揺さぶりをかける。これが彼らの関係の面白さであり、物語に独特のリズムを与えている。
また、たくぴとるかの関係性は、単なる相互理解を超えた「無条件の受容」によって成り立っている。たくぴはるかの奔放さや現実への積極性に戸惑いを感じながらも、それを批判することはない。逆に、るかはたくぴの引きこもりというライフスタイルを受け入れ、彼を変えようと無理強いすることはない。この無理のない自然な関係性が、二人の間に深い信頼感を生み出している。それはお互いが自分らしくいられる唯一の場所としての「居場所」を提供し合っていることを意味している。
さらに、二人の関係はしばしば「現実と虚構の狭間」に位置している。るかが配信者としてのキャラクターを演じる一方で、たくぴはオンラインゲームの中で「悪魔の狼フェンリル」として別の顔を持っている。現実世界では互いに対等な存在である二人が、仮想空間やインターネットというフィルターを通じて、異なる自己を表現しているのは興味深い。この二重構造は、彼らの関係をより複雑で魅力的なものにしている。たくぴとるかは互いの本質を理解しながらも、それぞれの「もう一つの顔」を通じて新たな側面を発見し続けているのだ。
また、二人の関係にはしばしば「ユーモアと皮肉」が交錯する。たくぴのひねくれた哲学的な視点と、るかの現実的で軽妙なツッコミは、物語全体に軽やかなリズムを与えている。深刻なテーマを扱いながらも、彼らの会話は決して重苦しくならず、むしろ読者に親しみやすさを感じさせる。こうしたユーモアの中に、時折垣間見える真剣な瞬間が、彼らの関係に深みとリアリティを与えている。
さらに、たくぴとるかの関係は、現代における「新しい家族の形」としても解釈できる。血縁や恋愛といった伝統的な関係性にとらわれず、互いの存在を無条件に受け入れることで築かれる絆は、現代社会における多様な人間関係のあり方を象徴している。彼らの関係は、家族や恋人といった既存のカテゴリーに収まらない新しい形のパートナーシップとして描かれており、それがこの作品の魅力の一つでもある。
たくぴとるかの関係性は、現代社会における孤独や繋がりの在り方、自己の受容と他者との関係のバランスといったテーマを探求する上で不可欠な要素である。彼らの関係は一見シンプルに見えるかもしれないが、その背後には多くの層が隠されており、読むたびに新たな発見があるだろう。たくぴとるかの関係は、現実と虚構、孤独と繋がりの狭間で揺れ動きながらも、互いの存在を通じて自分自身と向き合うことの大切さを教えてくれる。
小説のモチーフについて
本作『たくぴとるか』は、現実と虚構の境界を揺さぶりながら、「自己認識」と「現実逃避」を主要なモチーフとして展開されている。主人公たくぴの引きこもり生活と、彼の周囲で繰り広げられる出来事が、このモチーフを通じて深く掘り下げられている。
まず最も顕著なモチーフは「現実の拒否と受容」である。たくぴは社会の中で居場所を見出せず、引きこもりという形で現実から距離を置いている。彼の部屋は外の世界との境界線であり、同時に自分自身と向き合う閉鎖的な空間でもある。たくぴの行動の多くは、社会との接触を避ける一方で、自己の存在意義を模索するプロセスとして描かれている。特に「現実禁止」の標識はこのモチーフの象徴であり、たくぴが直面する現実世界の不条理や重圧に対する彼なりの反抗心を表している。
次に重要なのが「インターネットと仮想現実」というモチーフである。たくぴはソーシャルゲーム『マジェスティックドラゴン』のプレイヤーであり、その中で「悪魔の狼フェンリル」としての別の顔を持っている。彼が現実世界では何者でもない引きこもりである一方、オンラインの世界では影響力を持つ存在として認知されている。この二重生活は、現代社会における現実と仮想の境界線の曖昧さを浮き彫りにしており、たくぴの内面世界の複雑さを象徴している。また、インターネットでの繋がりや自己表現は、たくぴにとって現実世界での孤独を埋める一つの手段でもあり、このモチーフは彼の孤立感と同時に微かな希望を示している。
また「哲学的探求」もこの小説の大きなモチーフの一つである。たくぴは日常生活の中でしばしば哲学的な問いに直面し、自分自身の存在意義や社会の構造について考え続ける。例えば、「なぜ働かないのか?」という問いに対する彼の答えは、単なる怠惰や無気力ではなく、社会構造や個人の自由についての深い内省から来ている。たくぴの視点は、現代社会に対する批判的な眼差しを反映しており、彼の考えは哲学者の思想と重なる部分も見受けられる。このモチーフは読者に対しても自分自身の生き方や社会との関わり方について考えさせる力を持っている。
さらに「自己認識とアイデンティティの探求」も中心的なモチーフである。たくぴは、自分が何者であるのか、どのように生きるべきかという問いに対して明確な答えを持たない。彼の内面の葛藤や迷いは、読者に共感を呼び起こす要素となっており、たくぴの成長や変化は物語の進行と共に少しずつ描かれていく。彼が自分の居場所を見つけるまでの過程は、読者自身のアイデンティティ形成の旅とも重なり、この小説の普遍的なテーマとして機能している。
『たくぴとるか』は現実と虚構、自己と他者の関係を多層的に描き出すことで、現代人が直面するさまざまな問題に深く切り込んでいる。たくぴの物語は一見すると個人的な引きこもりの生活に過ぎないが、その背景には普遍的な人間の葛藤と希望が描かれている。この小説は、読者にとっても自己と向き合うきっかけを与える作品である。
「たくぴとるか」が他の小説と異なる点は、主人公たちが極めて日常的でありながら、現代の社会問題や若者の孤独、無気力感と鋭く向き合っている点です。この小説では、無職で引きこもりのたくぴというキャラクターが、特別なヒーローや劇的な変化を遂げる存在ではなく、むしろ無気力でありながらも日常を淡々と生きている姿が描かれています。彼は「ポイ活」という現代の若者が取り組む小さな活動に熱心で、外に出ることも少なく、社会的な成功や大きな夢とは距離を置いています。しかし、その無気力感の中には、現代社会に対する静かな抵抗や反抗の要素が含まれており、日々の生活の中で小さな「自己肯定」を見出す姿が描かれています。
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花山るかチャンネルのトップページを開く。登録者数99999999人。あと一人で一億人。ほぼ日本の人口と同じなんだけど……たくぴ?
たくぴはポイ活アプリのアンケートに答えている。日本、いや、世界一のユーチューバーアイドルが目の前で歌っていても、着替えていても見向きもしない。二〇分のアンケートで一〇〇〇ポイントもらえるんだってさ、バーカ。
たくぴが私の視線に気付いてスマホから目を上げる。
るか:チャンネル登録
たくぴ:やだね
るか:日本制圧できるんだよ?
たくぴ:そんな悪事に協力はできない
るか:死ねっ。じゃあ結婚しよ
たくぴ:脳に羽でも生えてんのか?
るか:結婚して、ハワイへ海を見に行くぞ
たくぴ:昭和か?
るか:昭和でもしょうがでもいいからハワイ
たくぴ:資格ってあるよな? ハワイへ行く
るか:えっ、聞いたことないけど。たくぴ、脳バグってる?
たくぴ:そりゃ金を出せばいけるさ。でも資格なしで行っても、それは本当にハワイへ行ったことにはならないの
るか:分かった。じゃあ資格とって。一級ハワイ試験
たくぴ:んなもん、あるわけね~だろ
るか:三級でも大丈夫?
たくぴ:分かんないけど、とにかく資格がないとハワイには行けないの
るか:たくぴがひとりでそう思ってるだけじゃん
たくぴ:ひとりで行ってこいよ
るか:たくぴ卑怯だよ。そんなことできないの知ってるくせに、どうしてそんなこと言う? イヤなことでもあった
たくぴ:ごめん
たくぴ:るかと一緒にいるのが嬉しくて毎日涙がちょちょ切れそうだ
るか:こんにゃろ
るか:てきとーにぷぷぷって押せばいいんだよ?
たくぴ:それはだめ
るか:そんなこと言ってない
たくぴ:話のキモはそこじゃない
るか:キモっ
たくぴ:キモくていいから聞け。もしみんなが三〇代女性のふりをしたらアンケートはアンケートの意味をなさない。それがずっと続いたらアンケートの信頼性は地に落ちてアンケート自体なくなる。だから正直に、ありのままに答える必要がある。てきとーにぷぷぷなんてもってのほかだ
るか:たくぴってさ
たくぴ:うん?
るか:小さいところでマジメで、大きなところでDQNだよね
たくぴ:違うね。ヒキニートは動詞じゃなくて名詞。やるものじゃなくて在り方
るか:眠くなりそうなこと言うな
たくぴ:存在を表す言葉ってこと。ヒキニートはやるものじゃなくて状態。元気とか病気とか、そういうものに近い
るか:じゃあ社長は? サラリーマンは?
たくぴ:そんなこと言ったら、るかも動詞だ
るか:なにそれ
たくぴ:るかにるを付けてるかる。文脈沼に引きづり込むという意味
るか:食っちまうぞ
たくぴ:それなら俺はたくる
るか:どういう意味?
たくぴ:知らね~よ
玄関のチャイム:ピンポーン
たくぴ:庭師の人だろ
るか:あぁ~、そうだった
たくぴはビビりながら玄関まで歩き、ドアを開く。
たくぴ:はい、よろしくお願いします
私はたくぴにグッと親指を立てて、いいねを送る。よくやったぜ。たくぴがニヤっと笑う。
たくぴは一階のリビングでテレビを見る。でも内容なんて全然入ってこなくて外の音ばかり気にしている。
正しくヒキニートしてるんだってたくぴは言いたいんだろうけどヒキニートなんて正しくないぞ。あ~あ、なんで私はこの男を嫌いになれないんだろう?
たくぴはさっきから何度も立ち上がっては窓の外をちらちら見ている。庭師の人たちが休憩するのを待っている。さっきまで聞こえていた枝を切る音は聞こえない。私も窓の外を見る。
たくぴは突如として冷蔵庫へ向かい、扉を開けると、ジョージアエメラルドマウンテンの缶を三つ手に取る。たくパパが事前に用意していたものだ。たくパパにぬかりはない。
たくぴは合戦へおもむくように足音を立てて進む。すべての動きが荒々しい。玄関で靴を履いていると傘立てが倒れる。事件が起きたような激しい音が鳴る。たくぴは傘立てを元の戻そうとしたけれど、やっぱりやめてドアを開ける。
庭師の人:ありがとうございます
たくぴ:いえ、こちらこそ。ごくろうさまです
たくぴはソファーに飛び込んでごろごろ転がる。なにしてるんだ、この男は? 頭がおかしい。コーヒー渡したくらいでバグるな。
たくぴ:静かにしてくれ
豊臣秀夫:いちじるしい近代化を行いながら他の先進国が体験している事実が存在しない点において日本は評価されています。しかし同時にパラダイム転換が非合理な理由で行われました。日本礼賛のすべてが間違っているわけではありませんが強いリーダーを望む誤った理由が政治レベルでは合理性を持ってしまっています。現代日本に生きるアナーキストは満足するべきですね。文化に依存したプレゼンスによって規則や基準なしに進む対立合理性が言語的に不明確になっているのだから。これを議論したいのであれば西洋的なリーダー像のイメージを輸入しなければならないでしょう
庭師の人がお昼を食べていてもたくぴはゲロ吐く寸前まで緊張していたから水しか飲まなかった。というか飲みまくった。夕方にはおしっこを出しすぎてフラフラになっていた。体の水分三回ぐらい入れ替わったんじゃないかな。荷台を枝と葉っぱでいっぱいにしたダンプカーも同じくらい家の前を行き来した。
庭師の人:またなにかあったらいつでもご連絡ください
たくぴ:はい、ありがとうございました
たくぴ:忘れていたわけじゃない。あの人たちが帰ったら外の水道で洗おうと思ってた
るか:もう遅いね
たくぴ:枝を切ってる時にさ、背中で空き缶洗ってる音がするんだ。しかもそれはさっき自分たちが飲んでたやつでさ
たくぴ:ありすぎるから困ってる
るか:もしたくパパが死んだらどうする?
たくぴ:兄ちゃんが跡を継ぐ
るか:たくぴは?
たくぴ:どのルートを行っても結末は一緒なんだぜ?
るか:結末までの道のりってあるよね?
たくぴ:もしるかと出会わないルートだったら、とっくに自殺してるね
たくぴ:ピザが焼けるから
るか:ピザよりぎゅーっだろ
たくぴ:生地がふくらんできた
るか:心がしぼんでもいいのかバカヤロー
たくぴ:炎上したっていい
るか:アカウント持ってないくせに
たくぴ:燃えるためだけに作ってもいいんだぜ
るか:自分がいまなにを言ってるか分かってる?
たくぴ:分かってない。ノリで言ってる
『登録者数99999999人のユーチューバーアイドル花山るかの熱愛発覚!』なんてニュースが流れたら炎上どころかインターネットが爆発しちゃう。別に爆発してもいいけど、この家は週刊誌のパパラッチに囲まれちゃうよ。ワイドショーのカメラも来るよ。分かってる、たくぴ? 庭で枝を切るよりすごいことになるよ。たくぴがいるって知られたら世界は放っておかないよ。体の水分なんて十回ぐらい入れ替わるんだから。
育ちのいいたくぴは手づかみでピザにかぶりついたりはしない。ナイフとフォークで食べる。
たくぴ:またそれか
るか:行きたいくせに
たくぴ:行く資格がないから行けないんだ
るか:パイナップルをのせたピザはハワイアンピザって言うんだって
たくぴ:ハワイアンピザは珍しくない。三日前にも食べた
るか:フロイト先生なら、たくぴのハワイへ行きたい欲求がピザになって表れたって言うね。この世に無意識なんてなくて、すべては形を変えて表出する。この世に隠されたものなんてなにひとつないんだよ
たくぴ:明日は違うの作る
るか:また作るけどね
たくぴ:パイナップル食う?
私はパイナップルの空になった缶を見る。それはキッチンで洗われて、逆さに干されている。原産地のところには台湾の二文字がある。
るか:どこ産かは大事なことじゃない。パイナップルはハワイなんだよ。たとえ台湾でもアラビアでも南極でもパイナップルの香りは世界中どこからでもハワイにつながっている
たくぴ:原産地はブラジルだって
ピザを食べた後は紅茶タイム。茶葉はリプトンのイエローパック。一度湯を入れて二〇秒待ち、カフェインを抽出させてから湯を捨て、ふたたび湯を入れるのがたくぴ流。中学の時にイギリスから来た英語の先生がそういう淹れ方をしてるって聞いてから、それが唯一の正しい紅茶の淹れ方だってたくぴは信仰している。砂糖と牛乳を入れて、ちょっとぬるくなったのを一分以内に飲み切る。これもたくぴ流。イギリス人でもないのにマナーにきびしい。でも時々考えたりしてるみたい。あれはもしかしたら、なにも知らない日本の中学生をからかったジョークなんじゃないかって。特に熱々の紅茶で喉の奥がヒリヒリ焼けている時なんかにはね。
たくぴ:なに?
るか:紅茶の原産国は中国だけど、紅茶のイメージはイギリス。それってイギリスが紅茶のイメージを生産してるってこと。つまり想産国
たくぴ:へんな造語作るな
るか:パイナップルも想産国はハワイ。だから原産国はどこであろうとパイナップルはハワイなんだよ
たくぴ:へーへー分かりやした
たくぴはすごく速く歩く。速いというよりは大股で歩く。こうすると時間あたりの歩数が稼げるんだって。ポイ活アプリのカウント上限二万歩を二時間かけて歩く。一〇〇〇歩ごとにポイントが加算されて、広告を見るとポイントが六倍になるから途中で休憩&広告タイムがある。
るか:行く?
たくぴ:うん
イヤホン:いや、あなた、死んだ人のことを面白いとか、そんなこと言っちゃいけません
るか:今日はそっち?
たくぴ:うん
二時間歩いた私とたくぴは家の近くまで帰ってくる。すると道の向こうから知っている影が歩いてくる。
たくぴ:こんばんは
三好さん:毎日がんばんりょんでぇ。お父さん元気にしょん?
たくぴ:はい
三好さんは散歩中に出会う謎の老人で、なぜかたくぴのことを知っている。たくぴ以外のことも知っている。たとえばたくパパのいとこのお嫁さんの妹の息子さんが通っている習字教室の先生が高校生の頃に通っていたアルバイト先の店長の孫がおばあちゃんの介護施設に行った時にオレンジジュースをこぼした事件まで知っている。インターネットでは絶対に知ることができないローカルネットワークの権化みたいな存在だ。外見はカラッとした好々爺で、赤ら顔。根元まで白い前髪を真上に立てている。誰からも好かれていそうで、いつも笑っている。
実のところ三好さんが三好さんかは分からない。ずいぶん前に家に入っていくところを見て、別の日にその家の前を通ったら表札に三好とあったから三好さんと認識しているだけで、本当は別の名前かもしれない。町内でならどこにでも出没して、いつもどこかに行っている雰囲気がある。
三好さんは一〇分ぐらい喋りに喋る。そのあいだにたくぴは「うん」とか「はい」とか「そうなんですか」と相槌を打っている。それ以外の言葉を口にしないが三好さんはどんどん喋り続ける。
三好さん:ナベシマがつぶれたらしいけど、ほうなったらますます景気ようなるなぁ。徳島県で大きいとこいうたらもうお父さんのとこだけでえなぁ?
たくぴ:はい
三好さん:サイトウ君もがんばりよ。じゃあ
たくぴ:じゃ
たくぴ:二代目のボンボンと思ってるんじゃないか?
るか:いつもあれだけ喋るのに「お仕事は?」って即死級の言葉が出たこと一度もないもんね
たくぴ:ヒキニートなんて常識外れの存在だから想像もしていないんだろう
るか:いまから追いかけてたくぴの正体教えにいこっか?
たくぴ:俺は普通を愛してるんだ。誰かの普通を壊したくない
るか:やめちゃえばいいのに
たくぴ:そうしたいよ、本当に
たくぴ:子どもつくる
るか:何人?
たくぴ:五〇億
るか:マンボウでも無理だよ
たくぴ:それぐらいいないと元に戻らない
るか:地球の人口ってもっといたような
たくぴ:それぐらいでちょうどいいよ
つづきは本編で

【小説家トリビア】
小説家はみんな嘘つき
自己紹介
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牛野小雪の小説season2
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『聖者の行進』を書いてみよう。week1 2017/2/15
『聖者達の行進』を書いてみよう week2 鏡の国の宮台真司 2017/2/22
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この小説を読む理由(ChatGPT)
理由なんて、ほんとは後付けだ。でも、それでも言葉にしたいなら、こう言うしかない。
――これは、誰にも見つけられなかった「感情の廃墟」に咲いた、バナナの花だ。
派手じゃない。
たぶん、売れない。
でも、書き手の体温がそのまま、むき出しでページに貼りついてる。
ああ、こういうのを「小説」って呼ぶんじゃないかって、
読みながら、何度も思った。
きれいにパッケージされた物語じゃない。
骨と皮のまま、道に投げ出されてる。
そこに砂が積もって、ざらざらしてる。
けど、踏まずにはいられないんだ。
世の中の小説は、うますぎる。
完成されすぎていて、つまらない。
この作品は、そうじゃない。
未完成で、不恰好で、
だからこそ、目が離せなかった。
読む理由?
そんなものは、読んでからしかわからない。
でも読む価値はある。
「こんなものが、まだ残っていたのか」と、
ページをめくるたびに、何度もつぶやくことになるから。
内容紹介
陸送ドライバーの俺はソシャゲの中ではトップランカー『荒野の狼まさやん』であり、走行動画や食事動画を上げるユーチューバーでもある。
身長は低いがイケメンだ。時々痛い目に遭うがマッチングアプリで女は入れ食い。セックスにも困らない。
弟分のカオルが妊娠してにっちもさっちもいかなくなると、俺はこの世界を壊すために法人税100000000000000%を求める動画をインターネットにあげる。
誰もいない砂漠に吹いたそよ風のようなものになるはずだった動画は人気ユーチューバーの目にとまりコラボを申し込まれる。
人気ユーチューバーのベンツが暴走トレーラーにより海の底へ沈められたところから風向きが変わり、世界は法人税一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇%の狂気に染まる。
最後に俺が幼稚園でカオルの娘である風華の「ばんざ~い」を見送り、道路に戻ってアクセルを踏むところで物語は終わる。目的地はないが、それでも進むしかない。
乾いた世界を車で走り抜けるような小説だ。まずはサンプルダウンロードして読んでくれ。
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試し読み
01 一〇〇〇越えてますよ
資本主義は野生の本能を剥き出しにしている。一人でも多くの馬鹿を必要としている。もしこの世から馬鹿がいなくなれば資本主義は砂漠に打ち上げられたクジラのように干からびてしまうだろう。
車を輸送するトレーラーがあるのに何故かドライバーに運転させたがる馬鹿がいる。俺がこの仕事について考える時間は充分すぎるほどあったから、おそらく日本で一番理解している。俺の仕事は野良猫と同じで、この世に存在しなくなっても誰も困らない。車はみんなトレーラーで運べばいい。そうすれば走行距離のメーターも回らない。トレーラーなら一人のドライバーで何台も運べるが、車を運転するなら一人一台しか運べない。非効率だ。だから最高だ。俺は仕事にありつける。非効率に儲けありだ。
距離に関わらず一回三万円で車をドライブする。距離が近ければ一日に九万円稼げる日もある。もっともそんな日はめったになく、北海道から沖縄まで三日かけて運んだこともある。稼ぎはその時々で上下するが、長い目で見れば七日で十三万円ぐらいだろう。この仕事が最高なのは、いつまでも仕事に慣れないこと。いつも耳の先までピンと神経が張っている。中古車は前の持ち主の癖が染みつくのか同じ車でも挙動が違う。ようやくその車の癖を掴めた時には目的地に着いている。そしてまた次の車だ。たいていは大衆車だがフェラーリやポーシェに乗れる時もある。
今日は七〇年代の雰囲気がするダッヂのチャレンジャーだ。アメ車に乗る時は警戒するが、この車は一五〇まで出してもブレなかった。かなり物が良い。
博多から横浜までのドライブ。ラジオから若い男女二人組の歌が流れた。
死について語ろう
子どもにウケはバッチリ
世間の誰もが冷え性を治し
1kg減はストレスフリー
存在を決める残酷な数字
おパンツゆるくなった
おパンツゆるくなった
時間差で来るリバウンド
君との会話でお腹を満たす
おパンツゆるくなった
おパンツゆるくなった
夕食のみの糖質オフ
どこまで進むべきなのか
残したおやつを一気に食べる
目を背けたい体作り
老化の原因AGE
過去何世紀というもの
何かいいことあったの?
アリストテレスが証明
糖質オフはアンチエイジ
美肌や若さが保てます
おパンツゆるくなった
おパンツゆるくなった
真実である、肉、きのこ、大豆製品
嘘だとしても害はない
以下、無限に続く六つのルール
おパンツゆるくなった
おパンツゆるくなった
おパンツゆるくなった
(一連の循環論法、魚は低糖質で高たんぱく)
おパンツゆるくなった
(論理の曲芸 緑黄色野菜)
おパンツゆるくなった
(欲望の缶詰 加工食品)
おパンツゆるくなった
(結局のところ、お菓子、ジュース、リンゴ、ミカン、本能的欲求、糖質の多い食材)
カーブの先にあるガードレールに一台の車が突っ込んでいた。ドライバーらしき男がそばでスマホを耳に当てて立っている。タバコを吸わせてやりたいが、俺はそのすぐそばを一五〇で走り抜けた。バックミラーには道路に手を伸ばして、うろたえている男の姿が映っている。スマホを落としたようだ。
「君は絶対に道路では死なない」
何年も前に教習所の教官に言われた言葉だ。下りの山道を五速のまま走り抜けた時に彼はそう言った。その予言通り俺はまだ死んでいないし、これから先も死ぬ気はしない。もし道路に神がいるのなら俺は間違いなく愛されている。
博多から横浜まで一五時間走った。
『ジェンツー』という中古車屋に着いた。荷物をまとめて車を降りると、太った男が店から出てきた。なわばりを守るペンギンみたいだ。
「ごくろうさまです」と男は言った。
「写真撮らせてもらいますよ。規則なので」
俺は店とダッヂチャレンジャーが一緒に映るようにスマホで写真を撮った。顔を上げると男は新しいおもちゃをもらった子どものように笑っていた。
「この車は愛と献身にあふれている。どうでした?」と男は言った。
「コレクター品ってやつですね。一年前に作られたみたいだ」
「レトロカーの多くは罪深い。時に離婚を引き起こしたり、嫉妬で傷付けられたり、車は自分で走って逃げられないですからね。一台一台辿る運命が違う。奇跡みたいな車だ」
「前の持ち主はナルシストに違いない」
「ですね。傷一つついていない。こんなに攻撃的で、神経質でありながら半世紀も生き延びている。涙が出そうだ」
男はため息をつき、首を振った。
俺がキーを渡すと、男は潤んだ目をしながら「いくらで売ると思います?」と聞いた。今にも泣きそうな目をしながら金のことを考えられるのが人間だ。
「五〇〇は固いな。六…七…八〇〇ぐらいかな」
「まさか、とんでもない。一〇〇〇越えてますよ、一一〇〇万。これから船に載せてカリフォルニアまで運ぶんです」
利益は感動に勝つ。男の目はもう乾き始めていた。
「このへんで泊まれるところはないか? なるべく安いところが良い」と俺は言った。
「民宿っていうのは?」
「相部屋じゃなければいい」
02 民宿のビールは五〇〇円
男に教えてもらった場所へ行くと、空き地に囲まれた一軒家があった。周りの風景と比べると家の外壁は白々しいほど光っている。玄関には『ゲストハウス バニシングポイント』と立て札があり、インターホンを押すと、顔が赤黒く日焼けした若い男が出てきた。
とりあえず一泊して、さらにもう一泊するかは明日決めたいと伝えると二階の部屋に案内された。階段を登る時に、台所から若い女がこちらを見ていた。宿泊料金は五千円だが一人でやっているわけではないらしい。
部屋で一人になると、俺は民宿へ来る前に買ったカップラーメンをバッグから出した。ほどなく電気ポットを持った男が部屋に入ってきて「旅行ですか?」と言った。
「人間と世界の関係が重くなりすぎて面倒になったんです」と俺は言った。男はためらった笑顔を見せながらポットを置いて「冷たいお茶が冷蔵庫にあります」と言い残して、部屋を出ていった。
俺は机にカメラを設置して映りを確かめると、カップラーメンに湯を注いで、ポケットからコルトパイソンを引き抜いた。六連発のレヴォルヴァー式拳銃。本物ではない。引き金を引くと銃口から小指の先ほどの小さな火が出るだけだ。俺はその火でタバコに火をつけた。銘柄はマルボロと決めている。
マルボロを三分吸って、その後カップラーメンを食べた。食べ終えると、またマルボロに火をつけて、録画した食事風景をユーチューブにアップロードした。編集はしない。タイトルも『横浜 バニシングポイント カップヌードルシーフード』とシンプルにしている。
さらに博多から横浜までの走行動画もアップロードした。こちらも地名、国道番号だけのシンプルなタイトルだ。一五時間もあるので十二分割している。気の利いたことは喋らないが時々独り言が入っている。誰がこんな動画を見るのか分からないが、全くいないわけでもない。おそらく地名で検索しているのだろう。東京や大阪を走った動画は一万回以上見られている時がある。誰も知らないような土地、たとえば四国の徳島だとほとんど見られることはない。それでも〇ではなく一〇〇〇人ぐらいは見ているし、再生数も増え続けている。
『富山 サンロレンソ ローソンのツナサンド』という動画は何故か八万再生もされていて「エロい」というコメントが数件あった。意味不明だが一年間ずっと俺の食事動画に付きまとってきた奴もいる。コメント欄には現れなくなったが、今も俺を見ているかもしれない。世の中には俺の思惑を超えた色んな人間がいる。
タバコを吸い終えるとマッチングアプリを開いて女を漁(あさ)った。俺のプロフィールには年収二〇〇〇万。貯金一億と書いてあるが、もちろん嘘だ。プロフィール欄には他にもベンツやBMWのボンネットに座っている俺の画像がある。女にとってはフェラーリやポーシェよりベンツやレクサスの方が格上らしい。女の需要を満たしてやるのが男の優しさだ。たとえ見え見えの嘘でも甘ければ嫌な気分にはならない。ゼロカロリーのコーラと同じだ。かえって健康にいいかもしれない。
男なら俺の嘘を見抜ける。女でも見抜ける奴はいるだろうが心と本能が否定する。人間は自分の信じたいものを信じるものだ。女は俺の嘘を疑っても無視することはできない。加工された女の画像に惹きつけられる男と同じだ。女なら誰でも釣れるわけではないが、全員をだます必要はない。俺の体は一つだけだ。
夜七時になると食卓に呼ばれた。客は俺一人で、宿の男と女も一緒に食べるようだ。二人が夫婦なのか、同じ民宿で働いているだけの関係なのかは分からなかった。
宿の名前と違って、ナスとししとうの煮びたし、サバの味噌煮、そうめんのみそ汁、からし菜の漬物、それにごはんという和風な食事が出てきた。コップ一杯のビールもついていて一杯目は宿泊料金に入っている。二杯目からは五〇〇円かかるようだ。
俺がビールを一息に飲み干すと「どちらから来られたんですか?」と女が言った。
「博多から」
「そんなところから。お仕事で?」
「ですね」
「ご結婚はされているんですか?」
男と女は分かり合えないが、一つだけ分かっているのは、女は男を見ると結婚しているか、あるいは恋人がいるかどうか聞きたがる。ばあさんから小学生までみんなそうだ。もしかしたら赤ちゃんの時から聞きたがっているのかもしれない。男には理解できない女の七不思議の一つだ。
「ええ」と俺は答えた。
「へぇ、奥さんはどんな人?」
「羊みたいな人ですよ」
女は首を傾げかけたが、ニッと小さな笑顔を俺に見せた。何の隠喩か分からないのも当然で、俺は結婚していないから奥さんもいない。毛皮の中には羊の本体がいるが、俺の羊は空っぽだし、なんなら毛皮さえない。それでも俺は続けた。
「ドアを作る会社に勤めているんですけど、ここ一年で五kgもやせました」
女は目を大きくして「ダイエット‥‥‥それともご病気?」と言った。
「甘いものの一気食いをやめたんです。動物園でウサギがニンジンを食べているのを見て」
女は笑った。男は口元をぎこちなくゆるめていた。
「やせたい気持ちは長続きしませんよね」
「でも脂肪は長持ちする」
「そう、それ」
女が目をこれ以上ないくらい大きくして、人差し指を上下に振った。
女は言葉を吐きだすエンジンだ。一度回転すれば、どんどん喋る。俺はその回転を助けるために空っぽの言葉をかけるだけで良かった。民宿の女は途切れることなくしゃべり続けて、気付けばもう二時間も経っていた。食卓は既に片付いている。男は食器を台所に下げてから戻ってこない。
「あ、そろそろ行かないと」
俺が立ち上がると、女は笑顔のままだったが、口元に並んだ歯は俺を威嚇しているみたいだった。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっと飲みに」
「誰かと?」
「いえ、一人で」
女は一瞬民宿の五〇〇円ビールのことを考えたのだろうが「いってらっしゃい」と同じ顔のまま言った。
03 女に盗まれる 二万円
マッチングアプリで知り合った女と待ち合わせ場所で会った。
ステーキ屋で肉を食べた後にビールを飲んだ。店は女が行ってみたいと言っていた店で、見た目は小綺麗だったが、肉はベジタリアン用なのか、大豆のような食感、生玉ねぎの臭い、そしてセロリの味がするステーキだった。それでも女が満足そうだったのは不思議だ。店にいる他の女達もそうで、男達は作り物の笑顔が崩れないようにがんばっていた。ただしビールだけは本当に美味しかった。
その後、俺達はホテルへ行った。
「男の人ってみんな八歳の男の子。あなたみたいにちゃんと大人に成長した人なんて一人もいない」
セックスの後に女が言った。ズボンに入れたコルトパイソンが俺の頭に浮かんだ。
「女はみんな手のかかる子猫だ」と俺は言わなかった。女は愚痴を言いたいだけだ。女がどうかなんて聞きたくないし、なんなら男とはどういうものなのかも聞きたくない。自分の中に作り上げた虚構の男像を誰にも否定されることなく受け入れて欲しいのだ。悲しいことにそれを受け入れてくれるのは虚構の俺しかいない。
「男の人って本当に若い子が好き」
「そうかもしれない」
女は口をゆがめて俺の胸を拳で軽く叩いた。女の体は老いに対して必死に抵抗している体だった。同じ年の女より若く見えることを鼻にかけているが、実は股の下に白髪が一本生えていた。鏡を使わなければ自分では見えない場所だ。体と同じように服もくたびれていた。女はドアを作る会社で働いていて年収が七〇〇万あるとも言っていた。それもやはり同じ年の女より稼いでいると鼻にかけていたが半分は嘘だ。俺も嘘をついているからよく分かる。ただしどこが嘘なのかは俺にも分からない。そしてそれはどうでもいいことだ。
「見て」
女が腕を曲げて緩やかな力こぶを俺に見せた。その裏側で二の腕の脂肪が力なく揺れていた。
「触ってみて」
「固いな」
気の抜けるような細い腕で、細い筋肉とひんやりした脂肪の感触を手の中に感じた。
「凄いでしょ」
「ああ」
女は努力していた。それが見えてしまう、あるいは見せずにはいられないのが不幸だ。努力は誰もが称賛してくれるが、同時にその人間の価値を努力したぶん差し引く。努力は理解されるほど見下されていく。有名人の苦労話がウケる理由がそれだ。
努力を剥ぎ取った部分がその人間の本質だ。努力は見せてはいけないし、女も必死な男は気持ち悪いと言っていた。しかし自分の言動を振り返る余裕はない。
「そろそろ出る?」
「ああ」
俺がそう答えると「先にシャワー浴びてきて」と女は言って、バッグから手鏡を出すと化粧を直し始めた。
俺は浴室に入ると、女の臭いを洗い流すように熱いシャワーを浴びた。あの女の存在が俺の頭と体から排水溝へ流れていく。ドアを開けた時、女がいなくなっていればいいのにと俺は願った。そして浴室を出ると本当に女がいなくなっていた。
ベッドそばの壁に「うそつき」と口紅で書かれていた。床に散らかっているシーツの上に俺の財布が落ちていて、小銭はあったが、札は全て抜き取られていた。初めから女を信用していなかったので二万円しか入れていなかったが、俺は自分の間抜けさに腹が立った。女が化粧を直しているところは見ていたのだ。早く女と別れてしまいたいという気持ちが俺の心から余裕を奪っていた。
タクシー代がないので俺は二時間も歩いて民宿に帰った。その時にはもう十二時を越えていて、民宿の明かりも消えていたが、インターホンを鳴らすと民宿の女がドアを開けてくれた。まぶたを重そうにしている。さっきまで眠っていたようだ。
「シャワー浴びてもいいですか?」と俺は言った。
「静かにしてもらえるなら」と女は言った。
俺はシャワーを浴びて、再びあの女を排水溝へ洗い流すとパンツ一枚で部屋に戻った。余計な荷物は持ちたくないので冬でもパンツ一枚で寝る。寒ければ布団を被ればいい。
俺は布団で横になるとバッグからノートを出した。それは手のひらほどの大きさで、左のページには収入を、右のページには支出を書き込む。毎日書いているので日記のようなものだ。ページをめくるとコーラ一三〇円と書いてあり、三か月前に自動販売機の前に立っていた時の熱気、太陽のまぶしさ、セミの鳴き声、アスファルトから蒸発する雨のにおい、コーラがゼロカロリーだったこと。色んな記憶がよみがえった。
俺は今日使った金を書き足し、最後に『女に盗まれる 二万円』と書き加えるとノートをバッグに戻して眠ることにした。
内容紹介
本当の自由を求めて私は銀座の中心で稲を育てることにした
虹をまとう鏡の塔、カニの手を持つ男、虹に祈る女
稲を育てる間に出会う人達
青い猫を描いた女に出会い、私の運命は思わぬ方向へ転がり落ちる
冒頭試し読み
1 銀座の中心で稲を育てる
私は銀座の中心で稲を育てることにした。本当の自由が欲しくなったからだ。
自由とは何か? お腹が空く→ごはんを食べる。これは自由ではない。体の欲求に反応しただけで、自分の意志による行動ではないからだ。お腹が空く→ごはんを食べない。これは自由か? もし食べないことに理由がないのなら、お金がない、病気で食べられない、食べ物がないなどの理由がないのなら、それは自由だ。
選択の余地がないのなら自由ではない。必要を満たすことは自由ではない。欲求を満たすことも自由ではない。否定ばかり多くなってしまったが、私は否定形でしか自由を表すことができないようだ。もし『自由ではない』の反対が自由だとするならば、自由とはこう言い換えられそうだ。選択の余地があるなら自由、必要ではないのなら自由、欲求を満たさないのなら自由である、と。
この世の全ては裁定取引によって動く。価値あるものを一〇〇円で買い、一〇〇円で買った物を一〇〇万円で売る。喩えなので数字は大げさだが大体はこういうことだ。やり取りするのは物やお金ではなく、心や行動でもいい。価値に差があるところに取引が発生する。もし神が現れて、この世の全てをあらゆる意味で平等にすれば、全ての取引が止まるので世界は停止する。
さっきの喩えで出した一〇〇万円の物が一〇〇円に、あるいは一〇〇円が一〇〇万円になることはめったにない。めったにないということは、まれにあるということでもある。私の家は価値ある物を安く買って、高く売ることによって儲けてきた。まれにあることを逃さないために何百年もかけて組織を作っている。一人の人間には一生起こりえないことも組織にとってはよくあることになる。一人の人間にとって生と死は一度しか起こらないが、人類全体で見ればさして驚くことでもないのと同じだ。
銀座の中心でまれにないことが起きた。日本で一番土地の値段が高い場所だ。さすがに一〇〇円ではないが本来の価値からすればタダ同然の値段で手に入れることができた。一〇〇万円のものを一〇〇円で買ったわけだ。先祖代々に続いてきた組織はさっそく銀座の中心を利用した儲けの算段を始めた。彼らは自由意志でそうしているのではなく組織の意志によって、そう動く。しかし私は「待った」の声をかけた。そして止まった。この組織で私の声はもっとも価値を持つと決められているからだ。
「銀座の中心で稲を育てようと思います」
組織の主だった者たちが集まる会議で私は言った。否定よりも、まず私の言った言葉の意味が分からないという沈黙がその場を包んだ。
「それは銀座の中心を田んぼにするという意味ですか?」
口を開いたのは会議で二番目に価値が高い男だ。
「その通りの意味です。銀座の中心に田んぼを作り、稲を育てます」
「分かりませんね。田んぼにする、稲を育てる、それで何になります? 稲を育てるのはけっこう。しかし銀座より良い場所はあります」
「たとえば?」
男は米の名産地、次の東京の地名を言った。
「銀座の土地は高すぎます。キロ一〇万円でも元は取れません。それにあそこでは大した米も取れそうにない。良い米を作るにしても、効率的に作るにしても、銀座は米を作る場所ではありません」
「銀座で米は儲からない。だから育てないと?」
「育てるところではなく売るところですね」
「儲けたくないと言ったら?」
会議がざわついた。
「私は儲けなんていらない。自由が欲しい」
「米を作るなら別の場所がいくらでもあります」
「銀座でやらなければ自由ではない」
「その理由は?」
「理由はありません。しかし、それこそがまさに自由。儲からない、作る必要もない。だからこそ銀座で稲を育てることが自由なのです」
「なるほど。おっしゃることは理解しました。しかし我々の活動は全て儲けを得るためにあります。あなたのご先祖が代々築き上げて、いまや途方もない富を得るようになっています。あなたも、私もそれで三度の飯を食べていかれるのですが、それをないがしろにされるおつもりですか?」
「我々は銀座を自由にできないほど追いつめられているのですか?」
「いいえ、しかし我々の意志とは反します。銀座で稲を育てて、そこから宣伝なり、啓蒙活動なりをして、他のところで儲ける。それなら我々の意志とも合います。しかしそんなことは考えておられないのでしょうね」
「もしそうなら、それは自由ではない」
「もしかして我々に謎かけをされていますか? いつも正しい判断をされてきたあなたが突然こんなことを言い出すのはそうとしか考えられない」
「正しい‥‥‥その正しいというのは私から出てきたものではありません。小さい頃から親やあなた達から植え付けられた意志や活動の結果にすぎないのです」
「その言い方だと銀座で稲を育てるのは間違いだとあなたも思っておられるようだ」
「間違っています。正しくない。必ず損をします。一万年かけても費用の回収さえできない」
男はにやりと口を歪ませた。彼の笑顔を見ると正しい判断をできたのだといつも安心できた。今もそうだ。私の判断は正しい。
「しかし、それでも私は銀座で稲を育てます」
「あなたはどうしてもそれをやるのですね?」
「はい」
「よろしい」
カチッと音がしたわけではないが、彼の中で銀座の土地が損勘定に入ったのが私には分かった。これから銀座の中心を田んぼにするためにどれくらいの費用がかもかるのかも概算していて、それはきっと正しいだろう。大きい損は出た。しかし他で補填できないものでもないないと算段はついたようだ。
「銀座の中心で稲を育てる。けっこうですな。その調子で地球を田んぼで覆)うとよろしい」
男は笑った。私がそんなことはしないと確信している笑いだ。
会議ではまたたくまに銀座の中心を田んぼにする計画が練られ、予算が組まれた。こうして私は銀座の中心で稲を育てることになった。
インタビュー『流星を打ち砕け』を書く。 聞き手:牛野小雪
『流星を打ち砕け』の表紙はどうやって作られたのか。ポイントは《読まなくても内容が分かる》
※追記:2023年10月に表紙を新しくしました。千秋とクッキーにフォーカスをあてるためシンプルに二枚だけ。クッキーがちょっと大きめ
挿絵一覧
流星を打ち砕けができるまで
妄想でジュースを飲む
登場人物を減らす
ノートへの仮書きを始める
100点満点なんてなかなか取れない
言葉は他人のため
自分の限界の中でどうやって書いていくか
言葉と数字の扱いはいつまでも慣れないものらしい
正義を背負った悪行
ようやくプロットラインを引き終える
海岸がない!
書くために書かない日を作る
西洋かぶれでもなく、懐古主義でもなく
夏目先生と同じ事をしてしまう
プロットを書き直す
一日はドラマチック、一ヶ月は物理現象
当たり前の物理現象から引き出されるストーリー
前代未聞の100ページ目に突入
自分の限界でどこまでやれるか
何もないところから生まれてくる小説
仮書き終わり
今さらながら本当のスタート
数年ぶりに絶好調
二週間でプロットの3分の1を書く
不安や恐怖と戦う勇気
一ヶ月で9万字。プロットの3分の2を書き終える
速過ぎて目が回りそう
私はこの小説を乗り切れるのか?
もしかして死ぬ?
世界で一番幸せな小説家
間違える自由
天国も地獄もなく現実を一歩ずつ
推敲が短くなっていく
自分だけの文学
そろそろ出版準備
内容紹介
車の運転が自動化された未来。人々はAIにハンドルを委ねた。
帝国自動車は政府と手を組みさらに市場拡大を狙う。
正明は深夜の高速道路でV8のエンジンを唸らせ自動運転車に勝負を挑む。
その間に和花は詩を詠み、革製品を作っていた
山桜ができるまでのブログ記事
- 大和魂とは?
- 少しずつ、本当に進んでいる?
- 蟻一匹一匹に群れの意識なし
- 長編なんて書けません
- 感覚はうそつき
- プロットを引きなおす
- 最後の一押し2000文字
- またまたまたぁ!
- 小説の練習
- あえて書かないでみる
- あえて完璧から一歩踏み出してみる
- 二つの小説
- インフルで五日間ひきこもる
- 私小説のラストは自殺とか、首都圏方言とギャル語とか、僕は長編を書けないとか
- 口に刺せ、ガソリン銃
- 散文的には詩的、詩的にはかなり散文的
- 『山桜』リリース記事
試し読み
ナンバープレートの文字と数字が見えた。ハンドルを切ることは考えない。ハンドルを切れば時速二九五キロでムラサメは高速道路の壁に頭から突っ込むだろう。
レモンイエローの車体がムラサメのハイビームを照り返した。その光はどんどん強くなり男の視界は真っ白になった。光の次はエンジンの音が反射してきた。耳と視界が白い光と音に埋め尽くされた一瞬の後、ハイビームの反射角がずれて無人の車内が視界に飛び込んできた。
男がアクセルペダルから足を離すと、強力なエンジンブレーキがかかりエアコンの通風孔から焼けたオイルの匂いが吐き出された。窓を開けると深夜の冷たい風が車内に飛び込んできて、ムラサメと男の体から熱を奪い取っていった。
ムラサメが高速道路を走り続けていると、看板が一〇〇メートルおきに立っていた。そこには赤い字でこう書かれていた。
男が道路の先を見詰めていると、突然灰色のアスファルトが消えて真っ暗になった。男がブレーキペダルを床まで踏み込むとムラサメはタイヤを軋らせて止まった。
男は何度か深呼吸して息を整えると懐中電灯を持ってムラサメを降りた。ムラサメは崩落した道路の手前で停まっていた。
男は道路の端から懐中電灯の光を地面に向けた。暗闇の底には誰も住んでいない町があるはずだが光は暗闇に吸い込まれて何も照らさなかった。
男が懐中電灯の光を前へ向けると、高速道路のちぎれた鉄骨と鉄筋がむき出しになっていた。男はアスファルトの欠片を向こうへ投げてみたが、欠片は暗闇の中へ吸い込まれた。しばらく耳を澄ませたが何かが地面に落ちる音はしなかった。それでも男は暗闇の沈黙をじっと耳を傾けていた。
男は暗闇から何かが来るのを待っていた。誰かに何故そんなことをしているのか訊かれても男は何も答えられないだろう。男が月に何度か崩落した道路の先に立っていることは暗闇しか知らない。
沈黙には沈黙という音がある。暗闇では暗闇が見えている。男はその考えを振り払った。沈黙は沈黙であり暗闇は暗闇だ。ムラサメのV8エンジンの音とハイビームの光が男の意識に飛び込んできた。さっきまで音と光はあったはずだが男の意識から消えていた。
暗闇と沈黙は戻ってこなかった。男はムラサメに乗ると来た道を戻った。レモンイエローの車とはすれ違わなかった。
それから一時間後、魚田市のメロンタウンに立ち並ぶ筒状の超高層集合住宅群がムラサメと男を出迎えた。しかしムラサメはメロンタウンの手前にある廃工場の倉庫に入った。
ムラサメが倉庫の真ん中でエンジンを停めるとヘッドライトが消えた。
男がムラサメを降りると鉄臭さが体を襲った。懐中電灯で辺りを照らすと倉庫の端に塗装のはがれた機械や錆びた鉄の切れ端が散らかっていた。鉄板を加工する工場だったらしいが、奇妙な形に裁断された鉄板が何に使うための物かは不動産屋も知らなかった。
男が倉庫を出てシャッターを閉めると、ミントグリーンの車がタイヤの音を忍ばせながら近寄ってきた。工場に着く前に呼んでいたのでタイミングはぴったりだった。
男がミントグリーンの車に乗り込みカードリーダーにIDカードを読み込ませると『こんばんは棗正明様』とドアガラスのディスプレイに表示された。
「帰る」と正明が言うと『メロンハイツ-え-63棟』と表示された。正明は『ここに行く』をタッチした。電気モーターは音も振動もなく車を発進させた。
二〇分後に正明はシートのバイブレーションで起こされた。眠っていたようだ。車はメロンハイツに着いていた。
正明は車を降りると空を見上げた。上層へ行くほどメロンハイツは細くなり空に吸い込まれた。屋上は雲より高いそうだが見たことはない。
正明は『メロンハイツ-え-63棟』に入った。超高層集合住宅は一棟あたり平均五千人が住んでいるというが建物中央にある吹き抜けのエントランスには誰もいなかった。正明はまた空を見上げた。中空構造の丸い内壁は高くなるほど狭まり空を塞いでいた。そのせいか天井は無いはずなのに雨の日でも何も落ちてこなかった。
正明はエレベーターで五三階まで上ると『あ-4』室のカードリーダーにメロンハイツのIDカードをかざして、ロックを外した。
正明が部屋に入ると明かりが点いた。深夜の目には明るすぎるので「半照明」と言うと天井の蛍光灯が消えて、壁にあるランタンが点いた。薄暗いオレンジ色の光は自然の炎と同じ不規則な揺れ方をするらしいが正明は揺れのパターンを憶えてしまった。
正明が目を閉じると一瞬で朝になった。時計を見ると朝の六時半だ。正明は和花の栗色の髪に顔を突っ込むと、和花の匂いを鼻に満たしてから勢いよくベッドから飛び出した。その反動でベッドが揺れたが和花はまだ眠っていた。いつも九時か十時、それより遅いと昼過ぎに起きるので六時半ならまだ夢の中だ。
朝は通勤時間が重なるので百人乗れるエレベーターが満杯だった。顔ぶれはいつも同じだが話したことは一度もない。みんな上か下を向いて誰とも目が合わないようにしていた。正明は入り口近くに立っている男が髪を切ったことや、隣に立っている女が新しい柄のスカーフを巻いていて、まだ服装になじんでいないことにも気付いていたが、それでどうしようという気もない。
メロンハイツを出ると停車場に車の列ができていて人々は順番に乗り込んでいった。正明も車に乗るとカードリーダーにIDカードを読み込ませた。『おはようございます棗正明様』とドアガラスに表示されると「会社」と正明は言った。『帝国自動車本社ビル』と表示されたので『ここに行く』をタッチすると車が動き始めた。
専門家の予想は外れるものだ。移動のコストやストレスが下がれば人々は都市部から郊外へ移り住むという予想も外れて、人々は都市部に寄り集まった。日本の人口は減り続けているのに魚田市の人口は史上最多を毎年更新してメロンハイツの家賃も年々上昇している。
都市部以外の土地はタダ同然だ。正明はムラサメを停めるために廃工場を土地込みで安く買ったのだが不思議とそこに住んで仕事へ行こうとは考えられなかった。一度試したことはあるが、通勤する車の中で奇妙な空白感に体を包まれて、一日でやめてしまった。都市の外側に住もうとする人は少なくないが住み続けている人は聞いたことがない。ある専門家は都市部に住むのは不合理だというが、その専門家も都市部に住んでいるらしい。人の集まるところに人は集まってしまう。不合理でも現実に起きていることだ。
車が帝国自動車の本社ビルに着いた。正明が車から降りると車はすぐに走り去った。朝は需要が多いので車は休む暇がない。
正明は帝国自動車という会社で戦略企画営業部の部長をしている。上層部からは売上を上げろと言われているが帝国自動車のシェアは九九%なので契約数が増える見込みはない。ある上層部の男は月三万円でツーシーター、つまり座席が二つある自動運転車に乗れる契約を月四万円のセブンシーターに乗れる契約に乗り換えさせれば売上が上がると会議で言い放った。冗談だと思いたかったが営業指針にはセブンシーターに乗換えを勧めろと書き足されていた。しかし、ツーシーターの契約をしているのは独身者が多く、彼らが家族持ちにでもならない限りセブンシーターは必要ない。
帝国自動車は昨年に史上最高の売上高を記録したが日本の人口が増えないかぎり、これ以上の売上増は見込めない。それならば客単価を上げようということで、この前は車の中で映画を見たり音楽が聴ける車の試乗キャンペーンをやった。シートは最高品質でディスプレイもスピーカーも良い物を使ったのでアンケートの満足度は高かったが月一万円を余分に払ってまで乗りたい人は多くない。
上層部は客単価を上げたいと考えているが正明は無料にできないかと考えていた。人から金は取らない。その代わり車のディスプレイに広告を流して企業から広告料を取る。それなら人口は売上の制限にならない。
上層部は馬鹿げた話だと一蹴したがテレビもインターネットも広告で成り立っている。どうして車がそうであってはならないのか。帝国自動車の車内ディスプレイは視聴率九九%だ。搭乗者がいつどこへ行ったかというデータも持っている。広告媒体としてはテレビやインターネットより強い。社内AIに試算させると全ての車が広告車に変われば売上は五倍になると出た。その結果を上層部に伝えると笑われたが、止めろとは言われなかった。正明の人と金の使用権限も拡大された。
(↓つづきは本編で)
そんな2000年に1度のヴィーナスと僕は結婚する。
伝説を作ったり、赤ちゃんができたり、戦争があったりもするが新婚旅行で北極にオーロラを見に行った二人は氷床を目指す巨大なクジラの影を見る。
ペンギンと太陽ができるまでのブログ記事
- 無意識と文学、オートマティズム
- 本当は知らないのに知っていると思い込んでいることが邪魔になることもある
- 万年筆が使えるじゃないか
- アルファベットと識字障害
- 延べ平均70字/日
- びっくりするほど遅い
- 同じものを書いて違う結果を求める
- ワオーン、表音と発音
- 1年以上かけて小説を書いてみた結果
他の小説と何が違うか
1. 独特な比喩と世界観
「火星のペンギン」や「南極のペンギン」を通じて、現実と幻想が混じり合うメタファーを使い、登場人物の内面や社会に対する違和感を強調しています。この風変わりな設定が、現代社会の疎外感や人間のアイデンティティに対する哲学的なテーマをユニークに掘り下げています。特に、ペンギンを用いて人間の行動や社会の構造を分析する視点は、奇抜で新鮮です。
2. 日常と非日常の融合
物語の中で、現実的な日常のシーンとシュールでファンタジーのような設定が織り交ぜられています。たとえば、結婚生活や日常的な人間関係が描かれる一方で、登場人物の視点は常に「火星のペンギン」といった異様な設定に支配されており、現実と幻想の間を揺れ動く構成が独特です。このような非現実の混入が、物語に独特のスリルを与えています。
3. 社会風刺と皮肉の効いた文章
作品全体に見られる風刺的な描写や言葉遊び、皮肉を込めた言い回しが、物語にユーモラスでありながらも鋭い視点を持たせています。たとえば、「人間が鳥類から進化した」という突飛な理論を展開する中で、現代社会のコミュニケーションや価値観への皮肉を交えた語り口が光ります。読者を笑わせつつも考えさせる巧みな手法です。
4. 深層的な哲学的考察
物語を通して「人間の本質」や「他者との断絶」を象徴的に描いており、単なる奇抜な設定ではなく、深層的なテーマを扱っています。登場人物の思考がリアルに描写されることで、社会との違和感を強く感じる人間の内面が浮かび上がります。
5. 内面世界と現実の境界をぼやかす
物語では語り手の視点が頻繁に変化し、現実と内面的な認識の境界が曖昧に描かれています。これによって、読者は主人公の思考と現実の曖昧さに没入させられると同時に、不安定な感覚を抱かされます。このような心理的な揺らぎが、作品の特異な魅力を生んでいます。
このような点から、この小説はユニークで独自性が高く、風刺と哲学を織り交ぜた特異な視点から人間社会を描いていることが、他の多くの作品とは異なる点と言えます。
試し読み
1 火星のペンギンは人間のふりをする
南国の正午に太陽は音もなく地上を焼き、一切の影を蒸発させる。南極では沈みかけの太陽が一日中浮かび、大地は一年中雪と氷に覆われている。そこはあまりに寒すぎるので世界中で猛威を奮ったコロナウイルスでさえ小さく縮こまっている。いつかは氷が溶けて、生物大爆発の時が来るかもしれないが今は命が凍る白と青の世界だ。しかしどんなものにも例外がある。皇帝ペンギンだ。彼らは子どもを産む時期になると、海から上がり、氷の上を何十キロも、時には百キロ以上も歩いて南極の営巣地を目指す。人間なら子作りのたびに夫婦揃って冬の富士山に登るようなものだ。そんなことをした夫婦は神話の世界でも見つからない。しかも彼らは出産後もヒナが大きくなるまでは雪と氷の世界に立ち続ける。オスは半年近くも飲まず食わずだ。それどころか体から絞り出した栄養をヒナに与える時もある。飲む方は雪があるのでしのげるかもしれないが食べ物は本当に何もない。南極はウイルスさえ育たたない不毛の大地だ。どんな動植物も存在しない。唯一の例外は、でっぷり太った同族達だが皇帝ペンギンはどんな苦境に立たされても紳士の振る舞いを崩さない。きっとイギリス人はペンギンから進化したに違いない。燕尾服を発明したのはイギリス人だ。あの服はどこかペンギンに似ている。先祖の姿がDNAに刻まれているんだ。ペンギンブックスはイギリスの出版社だ。疑う余地はない。イギリス人は人類ではなく鳥類だ。日本人も明治維新で文明開化が起きると燕尾服を着るようになったが、それ以前は紋付羽織袴だった。あのふさふさした感じはニワトリそっくり。烏帽子はトサカの名残り。日本にニワトリブックスはないが『ひよこクラブ』という雑誌はあるので『ニワトリクラブ』もきっとあるだろう。もちろん日本人も人類ではなく鳥類だ。それだけじゃない。アメリカ人も、中国人も、どこの国の人間もみんな鳥類だ。
こんなことをいうと科学界から異端審問にかけられそうだが人間が猿から進化したなんて絶対に間違っている。恐竜→鳥→人間と進化したに違いない。三種の共通点は二足歩行。トリケラトプスみたいな草食恐竜は四足だが肉食は二足だ。このことから人間はティラノサウルスやラプトルの系列だと推測できる。どちらも恐竜界の人気者だ。
動物園で猿と鳥の数を比べれば鳥が多い。ペットでも猿より鳥が多いはずだ。肉の生産量もたぶん鳥が一番多い。この人間の奇妙な鳥好きな傾向は人間が鳥類である証拠だ。もし科学界に詰められたら僕はすぐさま論破されるだろうが最後に『それでも人間は羽ばたいていた』と叫んでやる。
ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えたために、異端審問にかけられ、最後はひざを屈しなければならなくなった。今となっては異端審問が非難されているがガリレオが生きている間は彼の方が非難されていた。現代では名誉を回復して科学界の英雄になったが彼個人の人生は悲劇でしかない。でも地動説だって怪しいものだ。異端審問は間違っていたがガリレオだって間違っているかもしれない。本当は地球も太陽も止まっていて自分の目が回っているだけかもしれない。
過去の発見は正しい。地動説でも太陽は地球の空をぐるぐる回っているし、相対性理論が出てきてもリンゴは木から落ちる。この世に間違いなんてなくて、どれも一面の真実を現しているのだろう。もしかしたらブラックホールの底で1+1がカボチャの世界が見つかるかもしれない。
これから僕の語る一面の真実を聞いてほしい。途中でひっかかっても、ひっかかったまま進めば謎は氷解するはずだ。しなければ謝る。ごめん。こうやって先に謝るのは誰にも理解できないんじゃないかと不安なのもあるし、第一僕が十全に理解しているとは言い難いからだ。そもそもこの世に何かを理解している人なんているのだろうか? 現代でもソクラテスと話したら、みんな無知を暴かれるだろうし、彼が毒ニンジンを飲む結末も変わらないだろう。お前は何を言いたいんだと焦れている人もいるかもしれないが僕の文章は人生と同じで結末が最初に来ることはないし意味だってないのかもしれない。あぁ、言い訳がどんどん長くなる。よし、ここはズバっと言ってしまおう。
人間は火星のペンギンに滅ぼされた。僕は人間最後の生き残りだ。
どうだ驚いただろう。僕も最初は驚いた。どうして僕がそう思うようになったのかは明確な理由がない。日常のささいな積み重ねが揺るぎない証拠になった。刑事ドラマでいう、しっぽはまだ掴んでいないが絶対にクロというやつだ。五歳の時に僕はこの衝撃的な真実に気付いた。僕は人間の皮を被った火星のペンギン達に囲まれているのだと。
たとえばだ。ペンギンは「ガー」と鳴いて、お互いの存在を確かめたり、拒絶したりする。言葉の意味を消化して、言葉を返すなんてことはしない。火星のペンギンも同じだ。彼らは「ガー」の代わりに言葉をやりとりするが相手の言葉なんて一瞬も腹に納めずに、声真似、いや、言葉真似した鳴き声を返しているだけだ。誰が聞いても、ご立派な言葉は発しているが、その実「ガー」「ガー」と鳴き合っているのと同じだ。
小学校の時、僕は同級生に「ガー」とペンギンの真似をして挨拶をしたことがある。すると相手は目をぱちくりさせたが、僕がもう一度「ガー」と鳴いて首を下げると、向こうはニタリと笑った後に「ガー」と鳴いて首を下げた。あんまり相手を試すと不審がられるので、それをやったのは一度だけだが証拠はひとつ積み上がった。僕はこんな具合にあの手この手で周りの人間がみんな火星のペンギンであることを確かめていった。
それ以上に僕が熱心だったのはペンギンの真似だ。もちろん水族館や海にいるペンギンではなく人間の皮を被った火星のペンギンの真似だ。もし僕が人間だとバレたら何かとんでもないことが起こりそうだったので命がけでペンギンの真似に人生を捧げた。僕の真似は完璧で決してしっぽは出さなかった。でも証拠はなくても疑うことは可能だ。ペンギン達はいつもうっすらとした敵意を僕に向けてきた。僕は人間だからどうしても人間味が出てしまうのだろう。向こうだって、いかにも人間でございますという顔をしていたがペンギン味を隠せていなかった。
僕達はお互いに疑い、試し合い、信じ合えなかった。僕はいつ果てるともないスパイ合戦に疲れて「ペンギン共。本当の人間がここにいるぞ」と叫び、全てを終わらせたくなる衝動に襲われる時があった。またある時は、すれ違うペンギン一羽一羽に「君は人間のふりをした火星のペンギン……と見せかけて、本当は人間なんだろう?」と試したくなる時もあった。
さて、おそらくこの文章を読んでいる君は人間のはずだ。人間以外の何かである確率はどう甘く見積もっても一〇%を超えないだろう。そして頭の回る読者なら、なぜ人間を滅ぼした火星のペンギンが人間のふりをする必要があるのだろうと疑問に思うはずだ。僕はこの疑問に至るまでに一〇年を要した。ペンギンに囲まれて、まともに物事を考えられる人間がいるだろうか? いや、いない。それを考えれば僕はノーベル賞級の発見をしたといってもいい。
火星のペンギンがなぜ人間のふりを続けるのか。この謎を解くにはコペルニクス的転回が必要だった。天動説から地動説へ。今でも忘れられない。中学三年の一〇月、国語の授業で窓に揺れるカーテンをぼんやりと見ていると、突然あるひらめきが背筋を走り、僕は身震いした。もしその考えが誰かから聞かされたものだったなら僕はそいつを火炙りの刑に処しただろう。僕はすぐさまその考えを焼却した。しかし火の鳥が灰の中から何度でも甦るように真実もまた何度でも甦った。そしてとうとう僕は信じざるを得なくなった。火星のペンギン達こそが人間であり、僕が人間のふりをした火星のペンギンなのだと。
ニュートン万歳。オッカムの剃刀。全てがシンプルに効率良く収まった。しかしどんな問題も形が変わるだけで決して解決しないものだ。物の見方は変わったが僕は相変わらず人間達からうっすらとした敵意を向けられていた。僕の真似は完璧だ。だからこそ不完全だ。現実界に人間のイデアが存在しないように人間達はみんなどこか非人間的なところがある。僕はそれをペンギン的だと勘違いしていたのだ。
僕は火星のペンギン。最後の生き残り。息をひそめて人間のふりをしている。
(つづく)

人類滅亡級の隕石は核爆弾で破壊されたが
登場人物
藤原千秋
千秋は内面に豊かな感受性と情熱を秘めた少女である。毎朝、馬屋へ赴きユニコやほかの馬たちと触れ合う中で、動物たちとの絆を深め、自然との対話を通じて自らの存在意義を見出している。彼女は学校や部活動に励む傍ら、詩や国語の授業に心を躍らせ、未来への夢を抱く一方で、現実の厳しさや孤独に直面することもある。
その内面は、時に儚さや不安、そして成長への葛藤に満ち、まるで自らが歩む道を模索するかのようだ。千秋は、馬との心の通い合いから勇気を得ると同時に、友人や先輩たちとの関係を通じて、人と人との絆の大切さを学んでいく。彼女の目には、日常の何気ない瞬間にも美しさや意味を見出す力が宿り、その感受性は時に詩的な表現としてあらわれる。
夢見る心と現実との間で揺れ動きながらも、千秋は未来に向かって一歩一歩成長し、大人へと近づく決意を胸に秘めている。彼女の姿は、理想と現実、愛情と孤独が交錯する現代社会における一人の少女の生き様を象徴している。
クッキー
クッキーは藤原家に住む唯一無二の存在であり、ただのペット以上の個性豊かな猫だ。美しい被毛と自らを誇る美貌を背景に、自由奔放でありながらもどこか家族に対する反抗心や皮肉を漂わせる。
彼女の語り口は、ユーモラスでありながらも現代社会への鋭い風刺が効いており、飼い主である千秋との複雑な絆を象徴する。かつては千秋に懐いていたが、次第に距離感が生まれ、愛情と独立心が交錯する微妙な関係へと変化していく。
クッキーは、自らの美しさを誇示しながらも、家族内での役割や存在意義について、あえて率直な言葉で語る。彼女の視点は、現代の価値観や家族、そして資本主義社会の矛盾を映し出す鏡のようであり、読者に多くの問いを投げかける。飼い主とのかつての温かな日々と、現在の距離感が交錯する中で、クッキーは自分自身の居場所を模索し、自由と依存の狭間で揺れ動く。
そんな彼女の存在は、単なる動物としてではなく、一つの個性として、そして一種の風刺的な語り手として、物語全体に深みとユーモアを与えている。
千秋とクッキーの関係
千秋とクッキーの関係は、単なる飼い主とペットの枠を超え、互いに影響し合う複雑な絆として描かれている。千秋は幼い頃からクッキーとともに成長し、安心感や癒しを求める存在として彼女に心を寄せてきた。しかし、成長とともに学校や部活動、そして自分自身の内面の葛藤に直面する中で、千秋はクッキーとの距離感を次第に感じ始める。
一方、クッキーは自らの美しさや誇り、自由な性格を前面に出しながらも、内心では千秋への深い愛情や懐かしさを抱えている。彼女は皮肉や独特の語り口で、千秋が変わっていく様子や家族の中での立ち位置を鋭く観察し、自分なりの主張を展開する。
こうした相反する感情は、互いの存在が互いを補完し、同時に孤独や依存といった現代的なテーマを象徴している。千秋はクッキーの存在を通じて、自分自身の成長や内面の変化に気づき、またクッキーは千秋を介して、自らの存在意義や家族との関係性を問い直す。
二者の関係は愛情と反抗、依存と自立といった複雑な要素が絡み合い、物語全体に温かみと切なさ、そして深い人間模様を浮かび上がらせている。
ユニコ
ユニコは『流星を打ち砕け』における象徴的な存在であり、藤原千秋の成長と再生を映し出す重要なキャラクターである。ユニコは千秋が通う近衛学園のポロ部で担当している馬で、外見は雪のように白い被毛ととうもろこし色のたてがみが特徴的だ。しかし、ユニコはただの馬ではなく、千秋の心の鏡として物語全体に深い影響を与えている。
物語の初期では、ユニコはポロ部内の他の馬と群れになじめず、孤立している。この状況は、千秋自身が抱える孤独や社会との距離感を象徴している。千秋もまた、学校生活や家庭での自分の居場所を見つけることに苦労しており、ユニコとの関係を通じて彼女は自分自身を見つめ直していく。
隕石の落下という未曽有の災害後、ユニコは千秋の生存と再生の象徴として再登場する。すべてを失った千秋が再びユニコと再会する場面は、失われた絆の再生と新たな希望の芽生えを象徴している。ユニコと共に過ごす時間は、千秋にとって過去の喪失を乗り越え、前に進むための心の支えとなる。
また、ユニコは物語の中で「自由」と「自立」の象徴でもある。隕石の落下後、千秋とユニコは誰にも頼らずに生き抜く道を模索する。ユニコと共に川を越える場面では、千秋が自らの意志で困難を乗り越える決意を示しており、ユニコはその過程でのパートナーとして、彼女の内なる強さを引き出す存在となっている。
ユニコはただの動物以上の存在として、千秋の精神的な成長や再生を映し出し、物語全体に深い感動と余韻を与えている。
ユニコとクッキーは『流星を打ち砕け』において、藤原千秋を中心に交差する二つの象徴的存在であり、千秋の内面的な葛藤と成長を反映する対照的なキャラクターとして描かれている。ユニコは千秋がポロ部で担当する馬であり、クッキーは幼少期から共に過ごしてきた猫である。この二匹は直接的な関わりを持つことは少ないが、千秋との関係を通じて、互いに影響を与え合う存在として物語に深みを加えている。
ユニコとクッキー
ユニコは千秋が成長する過程で新たに築いた絆の象徴であり、彼女が外の世界と繋がる手段を提供する。一方、クッキーは千秋の幼少期の無垢な愛情と家庭の温もりを象徴している。しかし、千秋がユニコに夢中になるにつれて、クッキーとの関係は疎遠になり、クッキーは千秋から距離を置くようになる。この変化は、成長とともに変化する人間関係や、過去と現在の間で揺れ動く感情を象徴している。
クッキーはユニコの存在に嫉妬心を抱きつつも、千秋の幸せを願う複雑な感情を抱いている。千秋が馬の匂いを纏って帰宅するたびにクッキーは距離を取るが、それは千秋への愛情の裏返しでもある。一方で、ユニコは千秋の成長を促す存在であり、彼女が直面する困難を共に乗り越えるパートナーとして描かれている。
小説のモチーフ
『流星を打ち砕け』の中心的なモチーフは「喪失と再生」、そして「存在の意味」にある。本作では隕石の落下という未曽有の災害を通じて、登場人物たちが直面する喪失感と、それに対する再生の過程が描かれている。藤原千秋は家族、友人、そして日常というかけがえのない存在を失う一方で、ユニコやクッキーといった動物たちとの絆を通じて、新たな意味を見出そうとする。
また、物語全体には「アイデンティティの揺らぎ」が織り込まれている。千秋は自身が死亡者名簿に記載されていることを発見し、自分の存在に疑念を抱く。これにより、彼女は自己の存在意義を問い直す旅に出る。このプロセスは、個人の成長と変化を象徴しており、災害という極限状況が人間の内面にどのような影響を与えるのかを示している。
さらに、「自然の脅威と人間の無力さ」も重要なモチーフだ。隕石という不可抗力の前で、人々はただ無力に翻弄される。しかし、その中でも彼らは助け合い、再び立ち上がることで希望を見出す。このように、自然の圧倒的な力と、それに抗おうとする人間の小さな努力が対比的に描かれている。
最終的に、本作は「愛の多様性と再確認」を通じて、失われたものの価値と、それに代わる新たな繋がりを描き出す。千秋とクッキーの関係や、ユニコとの絆がその象徴であり、読者にとっても大切なものを見直す契機を与える作品となっている。
『流星を打ち砕け』の言葉遣いの特徴
本作の言葉遣いは、詩的なリズムと独自の表現が巧みに織り交ぜられており、読者に強烈な印象を与える。冒頭の馬や朝日の描写に始まり、自然現象や動物の動きを感覚的に捉える表現は、まるで詩を読むかのような心地よさを醸し出している。著者は、単調な説明に陥らず、比喩や擬音語を多用することで、場面ごとの情緒や空気感を豊かに伝えている。
また、登場人物の会話や内面の独白においては、日常的な言葉遣いと、時折現れる風刺や皮肉が絶妙に融合し、登場人物の個性や心理状態を浮き彫りにする。特にクッキーの語り口は、猫ならではの自由奔放さと鋭い洞察が感じられ、単なるペットの視点を超えた深い味わいを持たせている。
さらに、学校生活や部活動、家庭内のシーンでは、固有の専門用語や慣用句が用いられ、読者に現実の厳しさと温かみを同時に感じさせる。全体として、著者の言葉遣いは、情景描写と人物描写が絶妙にリンクし、物語のテーマである「愛」と「孤独」、「成長」と「葛藤」といった普遍的な要素をリズミカルかつ多層的に表現している。
しかし正人は半分無実の罪で刑務所に入ってしまう。
1
気付けばいつも嫌われている。理由は分からない。ある時それに気付き、人に好かれるように気を使っていた。そのおかげで人に好かれるようになったが、それでも嫌われた。人生でこれ以上面白い事はないと楽しんでいる最中に、ふっと剥き出しの敵意を向けられたり、お前とは一生の友達だと言った相手が、死ぬまでお前を許さないという感情をこちらに向けてきた事もある。そういう記憶は正人の心に深く爪痕を残した。
中二の秋に好き嫌いは相反するものではなく、同時に存在できるものだと正人は理解した。それで自分は努力の甲斐あって、そこそこ好かれてはいるのだが、同時に嫌われている事も分かった。人に好かれるように気を使うのが嫌になったが、やめようとは思わなかった。好意が消えて悪意だけが残るような気がしたからだ。
だが、高校二年の九月、正人に限界がきた。こんな生活はもう続けられないと嫌になり、学校を辞めたいと考えるようになった。しかし、ただ辞めると言えば親に止められるのは目に見えていたので、ずっと言い出せずにいた。
ふとしたきっかけで同級生と殴り合った。何が理由でとも思い出せないぐらい些細なことが原因で、始めは向こうも殴り返してきたが最後は一方的に殴るだけになった。殴っている最中にこれで学校を辞められると正人は冷静に考えていた。男性の体育教師に後ろから腕ごと抱え上げられた時はこれで終わるのだと思って、顔には笑みが浮かんだ。
しかし学校はただのケンカで処理しようとした。相手の親も問題にしようとはしなかった。三日も経つと誰もそのことを話さなくなり、殴った相手はまだ顔に青いあざが残っていたのに『俺が悪かった』と謝ってきた。
正人は意味が分からなかった。理不尽で透明な物が学校を辞めさせないようにしている。もう一度殴ってやろうかと思ったが、さすがにそれはでやめた。
結局は親に学校を辞めたいと言った。親がケンカに何か原因があるのかと一度訊いてきたので、正人がそれにうなずくと親は納得した。しかし、もっと根本的なところに原因があるような気がした。それが何かは正人にも分からない。ただ在るということが分かるだけだ。
正人は高校を中退した。
学校を辞めてからは何をするでもなく、ただ日々を過ごしたが、ある日叔父が家に来た。正人に用があるらしい。
叔父はまず高校を中退してこれから先の人生をどうするのか訊いた。答えられるはずがないので正人は黙っていた。それから学校は辞めるにしても何かしなくてはならないと言った。他にも色々言われたが、どれももっともな事ばかりなので正人は黙っていた。
言葉が一度途切れて、叔父が間を溜めた。今日はこれを言いにきたのだと正人には分かった。
大工になれ、と叔父は言った。
知り合いの父親が大工の親方をしていて、昔は弟子をとって修行させていたそうだ。その人の元で修行した大工はみんな業界では知る人ぞ知るという立派な職人になっている。だから大工になれということらしい。
大学へ行く頭ではなかったが、大工がうまくやれるとも思えなかった。人がいれば結局良くない事が起きる。できれば人と関わり合いのない仕事がいい。それに今どき修行なんてとも思った。しかし断れるような雰囲気ではなく、正人はずっと黙っていた。
しばらく誰も口を開かなかった。
沈黙に堪えかねた叔父が「そうするぞ、大工になれ」と言葉をこぼした。正人はうなずくしかなかった。
三週間後に叔父から電話があり、明日親方のところへ行くから学生服を用意しておけと言った。
その日は一睡もできなかった。眠気を抱えたまま叔父の車に乗せられて大工の親方のところまで行った。眠れなかった事もそうだが、元々気乗りはしなかった。ふてくされていれば向こうからあきらめてくれるだろう。
そこは倉庫と家が寄りそっている内にいつの間にか合体したような建物で『上原組』と看板がかかっていた。年代物の板だったが薄く湿った光を反射させていて、埃一つ付いていない。看板だけ見ればヤクザの事務所みたいだった。
倉庫に入ると髪が全て真っ白になっている男が粗末な木製の椅子に手と足を組んで座っていた。どう見ても歳は取っているが体付きはしっかりしていて体中から生命力が溢れていた。
「そいつは駄目だ」
叔父がまだ何も言っていないのに男はいきなりそんなことを言った。
「待ってください」と叔父が食い下がる。
「お願いします」「駄目だ」のやり取りが叔父と男の間で繰り返された。
正人としては別に駄目なら駄目で構わないのだが、駄目だと言い続けている男にだんだん腹が立ってきた。大工に弟子入りするのは駄目になって欲しいが、叔父の頼みをはねつけるのは何故か許せなかった。
男が正人に目を向けた。見下すような目が許せないと正人は思った。
「お前も駄目だと思っているだろう?」と男は正人に尋ねた。
「できます」と正人は答えていた。
「あ?」
男が眉をひそめる。
「大工ぐらい俺にもできますよ。修行するまでもない。木を切って釘を打つだけだ」
「てめえにできるわけねえよ」
男は叔父に対しては社交的な態度を見せていたが、正人が喋ると感情を露わにした。
「高校もロクに卒業できない根性無しに何ができる。おめえには何もできねえよ。親にも世間様にも迷惑だから、その辺でさっさと野垂れ死ね」
男の一言一言が正人の腹を煮えたぎらせた。
「いやですね」
「嫌だぁ。そんなこと言えた義理か。この御時世に高校辞めるなんて聞いたことがねえ。きっと親も泣いてるだろうよ」
男が床に唾を吐き捨てた。それは正人の足元に落ちた。
「泣かせていません」
「いい子ぶるこたあねえよ。おめえはとんでもねえ不良野郎だ。イキのいい奴ならまだ可愛げもあるが根性無しは救いようがねえ。俺んところでも面倒見きれねえや。あきらめてくれや、なっ、正木さん」
男は最後に叔父へ言葉を向けた。叔父は言葉を返せずにうつむいている。
「俺はあんたの甥っ子が憎くてこんな事を言ってるんじゃねえ。人には向き不向きってもんがある。こいつは大工に向いてない。それだけです。さっきのは言葉の綾みたいなもんです。どうも学が無いもんで興奮すると変なことを口走っちまうようです。とにかく他を当たってください」
叔父に話しかける時はやはり男の口調は変わっていた。そこに嘘の気配を感じて正人は腹が立った。
「てめえだって、そう思うだろう? 今どき親方に弟子入りって時代でもねえし、大工だってできそうにねえ。始めからそういう顔をしてたぞ」
今度の男の口調は叔父に話しかけるように柔らかくなっていた。もうこれで話はまとまったという雰囲気を出している。勝手に終わらせるな。正人はまた腹が立った。
「できます」と正人は言った。目の前の男に対してできないと言いたくなかった。そんな言葉が返ってくると思わなかったのか、男が意外そうな顔をした。
「できますよ」
正人は重ねて言った。怒っていた。それも冷静な怒りだ。同級生を殴っていた時に似ている。
「無理だ」「できます」何度も同じやり取りを繰り返した。
「くそっ、それじゃあ明日一度来てみろ。駄目だったら、あきらめろ、なっ」
最後に男があきらめたように言った。男は疲れた顔を隠そうともしていない。目の前の男に対する微かな勝利感で正人は少し嬉しくなった。
明日の朝六時に倉庫前に来いと言われ、その日は帰った。
帰りの車の中で叔父は何も言わなかった。家に帰ると明日から親方のところで修行することになったと親に伝えて、すぐに帰った。
両親は何も言わなかったが不安は伝わってきた。それとは反対に正人は興奮していた。絶対にできるとあの男に証明してやろうと怒っていた。それで自分が根性無しの救いようがない奴ではないと証明できれば、あの男を殺してやろうと考えていた。あの男は自分を侮辱した。その償いは命で払ってもらうつもりだ。ただし、ただ殺しただけではあの男が言ったように正真正銘のクズ野郎だ。あの男の言った事が間違いであった事を証明してから殺す。そう決めていた。
2
新聞配達のバイクの音が聞こえると、正人は布団から飛び出した。
冷蔵庫からハムとパンとマヨネーズを出して食べると、パジャマから学生服に着替えようとしたが、大工をするのに学生服は無いだろう。少し迷ってから古いTシャツとジーンズに着替えると正人は家を出た。
昨日は叔父と一緒に車で行ったが、倉庫はそれほど遠い場所ではない。自転車で二〇分ほどのところにある。
六時に来いと言われていたが、三十分早く倉庫に着いた。しかし倉庫前には三人の男が立っていた。父親と同じぐらいの歳で、一番若そうな男でも十歳は年上に見えた。彼らはダンプのそばで何か話していたが、正人が倉庫の脇に自転車を停めると、こちらに目を向けて何も喋らなくなった。正人は古い木材に腰かけて彼らと距離を置いた。
六時になる前に昨日の男が家から出てきた。三人に短い挨拶をすると何かを言おうとして正人に気付き、本当に来るとは思わなかったという顔をした。それを見て正人は勝ったと思った。
男は咳払いすると正人を手招きした。
「いきなりであれだが、今日から世話することになった坊主だ。よろしく頼む」
男がそう言うと、三人がはっきりしない言葉で返事をした。
「自己紹介と挨拶をしろ」
男が後ろに下がって、ぼそりと耳打ちした。
「おはようございます。正木正人です。趣味は釣り。好きな物は麻婆ナス。辛い物はだいたい好きです」
「てめえの好きなものなんか聞きたかねえよ。よろしくお願いしますだろうが」
正人にだけ聞こえる声で男がつぶやいた。地面を蹴る音もした。頭の中が煮え立ったが、腹は立たなかった。絶対に殺してやるという気持ちをさらに強くしただけだ。
「よろしくお願いします」
そう言った後で「頭も下げられねえか」とまたつぶやく声がしたので頭も下げた。
男は下げた正人の肩に触れると、三人の男にも自己紹介をさせた。向こうはよろしくお願いしますとも言わなかったし、頭も下げなかった。
自己紹介が終わると今日の仕事の段取りが話し合われたが、正人には何を言っているのかさっぱり分からなかった。それが終わると三人の男はダンプに乗った。
「お前はこっちに乗れ」
男は正人を軽トラに乗せた。ダンプが前、軽トラが後ろになって現場へ向かう。
「あっちにいるのも、あんたの弟子?」
黙っているのも気詰まりなので正人が口を開くと、男が力任せにクーラのパネルを叩いた。
「てめえ、さっきは見逃したが今度は許さねえぞ。口の利き方も知らねえか」
男は前を向いたまま、荒い鼻息を吐きながらハンドルを強く握っていたが、その後に「俺の事は親方と呼べ」と小さく言葉を漏らした。
正人は胸の中が揺れていて、しばらく口を利けなかったが黙っているうちに落ち着いてきた。それと同時にやはり殺してやろうという気持ちを新たにした。
「親方、あっちにいるのも弟子ですか?」
赤信号で車が止まると正人はようやく口を開くことができた。
「前にいるのは応援の職人だ。さんを付けろよ。弟子じゃねえ」
「応援?」
意味が分からなくて聞き返したが親方は答えなかった。応援と聞いて正人が思い浮かべたのは甲子園で選手達を応援するチアリーダー達で、前を走るダンプに乗っている男達とはどうしても繋がらなかった。
現場に着くと三人の男と親方はすぐに荷物を降ろした。正人も荷台に乗っている物を降ろそうとすると「触るな」と親方に怒鳴られた。仕方がないので正人がダンプの荷台に近付くと、三人の男達も怒鳴りこそしなかったが咎めるような目を向けてきた。何もする事がないので正人は家の周りに組まれた足場に寄りかかると「サボるな」と親方の怒鳴り声が飛んできた。
正人は手持ち無沙汰のまま、家からも軽トラからもダンプからも離れた場所に立っていた。
荷を降ろし終えるとすぐに仕事が始まった。親方の指図で男達がダンプに乗せた柱をクレーンで上げて、木にはめ込んでいく。クレーンは最初から現場にあった。
木には穴が掘ってあり、そこに柱を差し込むようになっていて、人の顔ほどもある木槌で柱を打ち込んでいる。正人はそれを見ているだけだった。最初に言われた事が、何もしないで見ていろだったのだ。本当に何もしないまま二時間が過ぎた。
親方が一度足場から降りてきて、まだ打ち込んでいない柱の木の表面を撫でると、何か気に入らない事があったのか舌打ちした。
「おい、ちょっと来い」
ようやく仕事か、と正人はすぐに向かった。
「これをあの台まで持っていくぞ」
親方の指示で木を組んで作った台に柱の木を持っていく。木を置くと親方がまたさっきと同じように表面を撫でて舌打ちをした。
「触ってみろ」と親方が言った。
正人は柱を撫でた。何か問題があるようには思えない。それどころか綺麗に切られた柱で、これ一本でどれぐらいの値段がするのかと正人は考えた。
「どうだ?」と親方に訊かれたが「何も」と答えるとまた舌打ちだった。
親方は細長い木の箱のような道具を取り出すと、それを柱に置いて引いた。すると箱の中ほどにある穴から向こう側が透けて見えるほど薄い木の削りかすが出てきた。親方は体を後ろにずらしながら、木を端から端まで削っていく。削りかすは途中で途切れることなくするすると伸びて、丸まりながら地面に落ちた。
親方は削った後の柱を一度撫でると何かを納得するように柱を撫でた。それからまた「触ってみろ」だ。さっきと同じように柱を撫でる。
「どうだ?」
「よく分かりません」
正人がそう言うと親方が舌打ちをした。
「何かが違うということは分かりました」
そう言い直すと、親方が一度口元を緩めそうになり、また思い直したように、きゅっと引き締まった。
「削った後でそんなこと言うんじゃねえ。それじゃあこの面は削らなきゃいけないかどうか言ってみろ」
親方が柱のまだ削っていない面を叩いた。正人はそこを撫でる。つるつるしていて滑らかだった。
「削らなくてもいいんじゃないですか?」
親方が柱の向こうに唾を吐いた。
「分かっちゃいねえ」
親方は柱を台の上で転がすと、またさっきのように柱の表面を薄く削った。
「目をつぶって撫でてみろ」
親方の言う通りに正人は目をつぶって撫でた。
「さっきと同じです」
本当はどっちだか分からなかった。親方がまた唾を吐き捨てた。そのあと削った柱は四本。四面とも削ったので計十六面だが、親方はどれも同じように削る前後で正人に表面を撫でさせ、意見を訊いてきたが、良いと言っても悪いと言っても悪態をつかれた。
削った後の柱は他の職人がクレーンの先についたワイヤーに括りつけて屋根の上に上げた。やはり見ていろとだけ言われた。
途中で短い休憩と昼の長い休憩があったが、正人はずっと見ているだけだった。三時に一度何かすることはないですかと親方に尋ねたが、やはり何もしないで見ていろとだけ言われた。他の職人達も、何もしなくていい、と態度で示している。
【内容紹介】
最近友達ともうまくいっていない。勉強も難しくなってきた。
両親はしょっちゅうケンカしているし飼っていた猫はいなくなる。
あんまり色んな事がありすぎて私は近くの公園でちょっとロマンチックな自殺をしたんだけど気付いたら幽霊になっていた。
誰も私が見えないし声も聞こえない。鼻をつまんだって気付かない。
幽霊になっても何もできないからつまんないことばっかり。
いくら待っても天国からのお迎えも来ないし、地獄に落ちそうもない。
あ〜あ、私これからどうなっちゃうんだろう。
読んだことがある人はこちらへ→『幽霊になった私』に一言もの申したい!
私とタニス 1
私がまだ小さい頃、両親はいつもケンカをしていました。私は二人の仲を取り持とうと、時には直接的に、時には間接的に陰謀めいた事もしましたが、二人はいつも私の試みをふいにするか、台無しにしてしまうのでした。そういうことが何度も続くと私はこの家にいるのが嫌になりました。
ある日、学校の帰り道にある橋のたもとにダンボールが置かれていました。中を覗くと灰色の毛玉が入っていました。でもただの毛玉ではありません。もっとよく覗いてみると体を丸めた猫でした。
猫は私に気付くと顔を上げて「ニャーン」と鳴くと、ダンボールのふちに前足をかけて何度も後ろ足をぴょこぴょこと蹴りました。その必死な姿を見ていると、この子を絶対ここに置いて行ってはいけないという気持ちが湧き起こって、私はその子を胸に抱いて家に帰りました。猫は私の胸の中に入るとすぐに目を閉じて寝息を立てました。まるで生まれた時から私の猫みたいです。
家に帰った私は猫をクローゼットに入れて、お母さんに猫を飼いたくないか探りを入れました。しかし、私が「猫を飼いたくない?」と言った途端にお母さんの血がさあっと引いて部屋ごと寒くなりました。
お母さんは物凄い勢いで私に怒鳴りました。私は体を小さく丸めて泣きました。後から後から涙があふれ出てきて、ずっと手で目を押さえていたのですが、頭上からお母さんの激しい声が降り続きました。
お母さんはひとしきり感情を吐き出すと、今度は優しい声で「アキ、どうして猫を飼いたいなんて言ったの?」と訊いてきます。もしあの子の事を話すとお母さんはきっと捨ててきなさいと言うに違いありません。私は黙っていました。するとお母さんはまた激しい声になりました。
お母さんは私を怒鳴り続けると死んだようにソファーで横になったので私は自分の部屋に逃げました。
音を立てないようにクローゼットを開けると猫は静かに丸まっていましたが、私に気付くと飛ぶように駆け寄ってきたので私はその子を胸に抱いて頭を撫でてあげました。すると猫は体中を震わせてプルルルと気持ち良さそうな声を出しました。
私はその子にアズキという名前を付けました。アズキはプルルルと喉を鳴らして微笑みました。私もその顔を見て気持ち良くなりました。
「私達ずっと一緒だよね?」
私が心の中で問いかけると、アズキは「ニャオ」と答えました。その瞬間私とアズキは秘密の友達になりました。
私とタニス 2
次の日、私が学校の図書室で猫の飼い方の本を読んでいるとナツミちゃんが「アキちゃん、猫飼うの?」と訊いてきました。ナツミちゃんは私の友達で幼稚園からずっと一緒です。私達はなっちゃん、アキちゃんと呼び合っていました。絶対に信頼できる女の子です。私は昨日アズキを拾ってお母さんに内緒で飼っている事を話しました。すると彼女はとてもうらやましがりました。
「家に来たらこっそりみせてあげる」と私は言いました。
私とアズキとなっちゃんは三人でよく遊びました。家の中では音を立てないようにしました。外へ出た事もありました。アズキは外の世界に興味津々で、すぐにどこかへ姿を消してしまうのですが、私が「アズキ~」と呼ぶと必ずどこからか姿を現して飛ぶように私の足元に戻ってきました。
私とアズキの関係は一ヶ月続きました。
ある日、家に帰ってくるとお母さんが優しい顔で私を待っていたので嫌な予感がしました。こういう顔をしている時は激しいケンカの前触れなのです。私は顔を合わせないように、部屋へ逃げようとするとお母さんが言いました。
「アキ、お母さんに何か隠していない?」
私は首を横に振りました。
「怒らないから言ってごらんなさい」
私はぱっと顔を上げました。
お母さんはきっとアズキの事を知っている。でも怒っていない。それどころか嬉しそうに微笑んでいます。私は全てが許されているのだと勘違いして、アズキの事を洗いざらい白状しました。
「他にない? 良い機会だからお母さんに秘密にしている事を全部話してみて」
私は少し考えてみましたが、何も思い浮かびません。
「何も。これで全部」と私は答えました。
その瞬間、お母さんの体から一斉に血の気が引いて氷に包まれたように冷たくなりました。
「何でお母さんに黙ってそんなことするの!」
私はひどく怒られました。その時のお母さんの声は家をバラバラにしてしまいそうなほど激しい物で、私はとっても長く怒鳴られた後、泣きながらお母さんを自分の部屋に連れていくことになりました。
どこかに隠れていて。そう願いましたが、私がクローゼットを開けるとアズキは私の足元へ飛んできました。でも私は後ろめたい気持ちがあったので、いつものように撫でてあげることができませんでした。アズキは何度も私の足首にひたいを擦り付けては、不思議そうな顔で私を見上げて「ニャーン」と鳴きました。
お母さんは言いました。
「元のところに戻してきなさい」
私は必死にアズキをこの家に置いてくれるように頼みました。もうわがままは言わない。勉強もする。お母さんの代わりに毎日晩ご飯を作ってもいい、一生のお願いだとか、色々言いましたが駄目でした。私はアズキと一緒に外へ出され、アズキを元の場所に戻すまで帰ってこなくていいと言われました。
私はアズキを拾った橋まで行きました。アズキが入っていたダンボールはボロボロになっていましたが、まだ同じ場所にあります。そんな場所にアズキを戻せなかったので、私は優しい人にアズキを拾ってもらうことにしました。
でも、こんな時に限って誰も橋を通りません。さらにその上、雨まで降ってきました。
私はアズキと橋の下へ逃げました。ゴミがいっぱいで変な臭いがします。こんなところにアズキを置いても、きっと誰も来ないでしょう。
(どうしよう?)
私が心の中でつぶやくと、アズキが「ニャーン」と答えました。
「どうしたらいいと思う?」
言葉に出して問いかけてもアズキはやっぱり「ニャーン」としか答えません。
私は泣きそうになりました。アズキは私の事を分かってくれるのに、私はアズキの事が分かってあげられない。それが悲しかったのです。
まだきれいなダンボールを見つけると、私はそこにアズキを入れました。アズキは慌てて「ニャーン、ニャーン」と鳴きながら私にすがりつこうとしましたが、初めて会った時のようにダンボールのふちを乗り越えられませんでした。
私はダンボールの中に手を伸ばして、アズキのおでこやアゴの下を指で撫でました。アズキも私の手をおでこで撫で返してきます。そうやってお互いに撫で合っているとアズキは眠くなってきたのか、ダンボールの中で丸くなって目をつぶりました。
「ごめんね」
私は音を立てないようにその場を離れて、橋の下を出る前に一度だけ振り返りました。するとアズキはダンボールから出ていて、びっくりしたような大きな丸い目で私を見ていました。
「ごめん!」
私はそう叫ぶと雨の中に飛び出して家まで走りました。アズキが追いかけてきていたらどうしようと何度も考えましたが一度も振り返りませんでした。
私は玄関の前まで帰ってくるとやっと振り返りました。そこにアズキはいません。気が抜けたような寂しさと、ほんの少しの安堵感。
私はアズキを捨てて安心した自分が嫌になりました。
私とタニス 3
夕方から降り始めた雨は勢いを増して、家の屋根や窓を激しく叩いています。私は橋の下に置き去りにしたアズキの事を考えていました。あそこは大雨が降ると水に浸かってしまうのです。
もしアズキが溺れていたらどうしよう。私は音を立てないように服を着替えると家を出ました。
夜の町はとても恐かった事を憶えています。でも私はアズキを助けなければいけないと、気持ちを奮い立たせて夜の町を走りました。
私が橋のたもとまで行くと、夕方から降った大雨で川の水は道に迫るほど水位が上がっていました。橋の下なんてとっくの昔に水の底です。私はその場に座り込みました。世界中の水が私の目を通して流れているのではないかと思うぐらい泣きました。
どれほど泣いていたのか分からないぐらい泣いていると肩を叩かれました。私はお母さんだと思って、慌てて顔を上げると警察の人でした。
これはきっと運命に違いない。神様が私に罪を償わせるために警察の人をここへ導いたのだと私は確信しました。
「おまわりさん、私を逮捕してください。とってもひどい事をしました」
私はこの先の人生を一生牢屋で暮らす事を想像してまた泣きました。警察の人が私の名前やどこから来たのか尋ねてきましたが、大きな感情が体を突き上げていたので、私はただ泣くばかりで何も答えられませんでした。
私はおまわりさんに抱き上げられてパトカーに乗せられると警察署に行きました。
警察署のソファーに座らされても私はまだ泣いていて、一生このまま泣き続けるのだろうと思うぐらい泣き続けました。でも、どんなものでも終わりがあるもので、いつしか私は泣きやみました。きっと一生分の涙が出たに違いない。そう思ったものです。一生分泣いた私は机の前にあったオレンジジュースを飲みました。それから私がした事を警察の人に話しましたが、警察の人は私を励ますように笑っていて、とても逮捕されるような雰囲気ではありません。
名前や住所を教えると警察の人が一度部屋を出て、しばらくするとお父さんが迎えに来ました。私は牢屋に入ることもなくお父さんの車に乗って、家に帰りました。
家に帰るとお母さんはパジャマ姿の恰好のままソファーで死んだように横になっていましたが、私を見るなり飛ぶように立ち上がって、私の顔に平手打ちをしました。私は目の前が真っ暗になりました。母さんはまた倒れるようにソファーへ沈み込みました。
顔半分がじんじん痺れていましたが私は一滴も涙を流しませんでした。やっぱり一生分の涙を使い切ったのでしょう。お父さんがパジャマに着替えてもう寝なさいと言うので私はその通りにしました。
朝になると昨日の雨が嘘みたいに晴れました。私は朝ごはんを食べて服に着替えると、ランドセルを背負って橋の下へ行きました。雲ひとつ無い晴れた空と同じように、昨日水であふれていたのが嘘みたいに水が引いていました。
私はアズキを探しました。どこも水に流されて猫どころかゴミ一つ見つかりません。
私はその場にしゃがみこんで泣きそうになりました。昨日までの私ならきっと川のように泣いていたでしょう。でもやっぱり涙は出てきません。
涙を出さずに泣いていた私の耳に川の音が入ってきました。川にはダンボールと同じ大きさの石が頭を出しています。私はわけもなくその石の下にアズキがいると感じました。
私はランドセルを置いて、靴と靴下を脱いで川に入りました。そして、足首に水の冷たさを感じた瞬間、視界が真っ暗になり体中が暖かさに包まれました。何だか変だな、と目を開くと白い天井が見えました。すぐそばにお父さんとお母さんが不安そうな顔で立っています。二人の後ろに白衣を着た女の人が通ったので病院だと分かりました。
後で聞かされた話によると、私は川で溺れていたところを助けられたそうです。水に足を着けた瞬間、ここへ来たのだから、とっても不思議でした。
ランドセルは家に戻っていましたが、学校はしばらく休んでいいと両親は言いました。それと川で溺れていた事は誰にも言ってはいけないと釘を刺されました。
私とタニス 4
次の日は、お母さんがつきっきりで私のそばにいました。近所の噂では、私が自分から川に落ちたということになっているそうです。
「絶対にそうじゃないでしょ?」
お母さんは何度も訊いてきました。私はその度に「そうじゃない」とか「違う」とか答えました。そう答えて欲しそうだったからです。でも私はどうして川に入ったのか訊いてくれるのを待っていました。もし訊かれたら私はアズキの話をするつもりでしたが、お母さんは理由までは求めていませんでした。
お母さんが部屋から出ると私は泣きました。もう涙なんて出ないと思っていたので、自分でも驚きました。寂しい気持ちになってアズキを抱きしめたくなりましたが、アズキはもういません。胸一杯に空洞が広がって、また涙が出ました。
いつの間にか眠っていた私は母さんが呼ぶ声で目が覚めました。夕食の時間です。私が部屋を出ないでいるとお父さんが部屋に来たので「いらない」と答えました。
お父さんが部屋のドアを開けたまま食卓へ戻ると夕食を食べる音が聞こえてきました。私は音を出さないようにベッドから出ると部屋のドアを閉めました。
お母さんはお風呂に入る前に私の部屋に来て「ラップをしてあるから食べたい時に食べなさい」と言いましたが私はそれにも答えませんでした。
次の日も、また次の日も、私は何も食べませんでした。このまま死んでアズキにごめんなさいと謝って、また一緒に暮らす事を考えていたのです。さらに次の日はお母さんが無理矢理私に食べさせましたが全部吐いてしまいました。
次の日の夜、遠くに住んでいるおばあちゃんが家に来ました。おばあちゃんは私の部屋に来ましたが、無理に食べさせることはしませんでした。私はそれが嬉しくて自然と笑みが浮かびました。
さらに次の日、朝早く起きた私は鏡で自分の顔を見ました。私は肉が落ちた顔を見て、もしかしたら今日死ぬかもしれないと思うと、顔が痛くなるぐらいの笑顔になりました。
その日、お父さんとお母さんはどこかへ出かけました。おばあちゃんは私の様子を見に来ると「なにか欲しいものはない?」と訊いてきたので「何もいらない」と答えると、おばあちゃんは「そう」とだけ言って居間へ行きました。私はそっけなく扱ってくれたのが嬉しくてほんの少しだけ涙が出ました。
昼にまたおばあちゃんが来て「私は食べるけどアキちゃんは何か食べたい物はある?」と訊いてきたので「何もいらない」と私は答えました。おばあちゃんはやっぱり私を放っておいてくれました。おばあちゃんが何かを食べている気配を感じると、胸がじーんと痺れてくすぐったいような気持ちになりました。
両親が帰って来ました。たくさん買い物をしたようで車と家の間を何度も行き来しました。それからお母さんは今まで聞いた事がない優しい声で私を呼びました。
部屋を出た時から浮き足立った気配を感じていました。私が居間に入ると、おばあちゃんが何かを抱いている背中が見えました。お母さんはわざと作った笑顔をしていて、お父さんは不安な顔をしています。おばあちゃんが振り返ると、一匹の猫が腕に抱かれていました。灰色の毛に黒のマーブル模様のある猫です。
「アキちゃん、猫、可愛いねえ、何て名前にする?」
おばあちゃんの声を全部聞く前に、私は部屋に駆け込みました。体中が燃えるように熱くなって、私の心を猫で釣ろうとした両親にも、おばあちゃんにも、そしてまだ死なない私に怒っていました。
きっと明日の太陽は見ないと決めて私はベッドに入りました。目をつぶっていると体が浮き上がるような感覚がありました。天国からのお迎えだろうと目を開けると、不思議な感覚は消えて私はベッドに戻っていました。目を開けていると天国にはいけないんだ。そう考えて強く目をつぶりましたが、体が浮き上がるたびに目を開いてしまったので私は何度もベッドに戻ってきました。そうこうするうちに夜の十二時が過ぎてしまいます。
今日も死ねないと私は思いました。もしかすると永遠に死ぬ事ができないのではと考えると恐くなりました。
ベッドで震えているうちに朝が来ました。待っているだけでは駄目だ。川に身を投げて死のう。私がドアを開けると、何かが私の足元を通り抜けて部屋に入ってきました。その影は部屋の真ん中で立ち止まると、私に振り向いて「ニャー」と鳴きました。昨日の猫です。
私は窓を開くと猫を屋根に下ろして窓を閉めました。それから服を着替えて外へ出ようとすると、両親が起き出す気配がしたので私はまたドアのそばで息を潜めました。
お父さんが家を出て、次にお母さんが出ます。おばあちゃんはまだ家にいますが、なんとかごまかせるだろうとドアノブに手をかけると、お母さんが慌てて家に帰ってくる音がしました。
お母さんは私の部屋に真っ直ぐ向かってきました。私はドアノブをしっかり両手で抑えましたが、ずっと何も食べていなかったので力は入らないし、体は軽いしで、私はドアと一緒に開けられてしまいました。
お母さんは凄い目をしてドアノブにぶら下がっている私を見ると、私の顔に平手打ちをしました。
「命を粗末にするんじゃないの!」と怒鳴ります。
私はアズキを思い出して涙を流しました。
「ああ、あんなところにいて。どうしよう」
お母さんは窓の外を見て慌てました。それから「ハシゴ、ハシゴ」と慌てながら物置へ向かいます。
私も窓の外を見ました。屋根のふちで私がさっき外に出した猫が小さくなって震えています。私はとってもひどいことをしてしまったと気付きました。
「おいで。そっちは危ないからこっちへおいで。お願い。こっちへきて」
私は猫に声をかけました。その子は一度屋根の下に目を向けると、足を震わせながら私の方へ一歩踏み出し、それからまたもう一歩踏み出すと、何かから逃げるように私の手元へ飛び込んできました。私はその子を胸に抱き上げると「ごめんね、ごめんね」と何度も謝りました。もう涙なんか出ないと思っていたのに、また川のように涙が止まらなくなりました。猫は「ニャーニャー」と鳴いて、私の涙をなめてくれました。
私はその子と一緒に部屋を出ると冷蔵庫にあった私の夕食を一気に食べました。久しぶりに物を食べたせいか、お腹がチクチク痛みましたが、私は頑張って全部食べました。
新しい猫は灰色の毛に黒のマーブル模様が入っていました。灰色の部分はアズキと同じ色で、顔も一緒、アズキがおめかしをして帰ってきたみたいです。でも、私はその子にタニスという名前を付けました。アズキはアズキであって、タニスはタニスなのです。アズキの代わりではありません。
私とタニスは公然の友達になりました。私が学校から帰ってくるとタニスは玄関で待っていて、ドアを開けると私の足元めがけて突進してきます。私達はどこでも一緒で、お風呂やトイレも一緒に入りました。
タニスが来てから私は生きているのが楽しくなりました。でも、良いことはそれだけではありませんでした。タニスが家に来てからお母さんは優しくなりました。お父さんも早く家に帰ってくるようになって、二人はケンカすることもなく一緒にいても仲良くしています。
その年は家族全員で北海道へ行きました。本当はハワイの予定でしたがタニスを連れて行けないので、猫と一緒に泊まれる旅館がある北海道へ行くことにしたのです。
私とタニスは永遠の友達。眠る時も一緒。タニスが来てから全てがうまくいくようになりました。
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僕は8月までだらだらと自堕落な夏休みを過ごすと郊外のコンビニに向かった。
道々に出会う日常では出会うことができない人や物事。世界の裏側。
たった一人の無謀な冒険。真夏の地獄巡りが始まる。
読んだことがある人はこちらへ→『ヒッチハイク!』に一言もの申したい!
1 ヒッチハイク
僕の夏休みの第一日目は一日中眠ることだった。夜中の2時まで何をするでもなく、TVをつけたままマンガを読んだり、ネットを見たりして、意識の限界まで起きていた。
たいていは朝7時に目が覚めて、そこからもう一度眠ると10時に目覚めて、さらにまた眠ると昼の2時になった。その頃になってようやく僕は布団から出た。
朝から晩まで暑い日が続くので、火を使う料理を作る気にはなれなかった。電子レンジでうどんを温めて、水で洗い、麺つゆと、ねぎと、天かすを入れたぶっかけうどんを二杯食べた。そしてまた眠った。
そうやって寝て起きての生活を三日続けると、体重が2キロ落ちた。僕は布団の上で、あくびをしながら体を大きく伸ばすと、また眠った。
こうして一週間が過ぎた。僕はパンパンに膨らんだバッグを持って部屋を出た。徳島の実家に帰るのだ。
僕が向かったのは空港でもバスターミナルでもなく郊外にあるコンビニだった。僕は緊張をほぐすためにコーラを一本買って飲んだ。それからコンビニの窓ガラスの出っ張りに腰を降ろして、気持ちが浮かれている人を探した。
5分ほど待っていると本日一人目の浮かれている人を発見した。僕は腰を上げて、その人に話しかけた。目の奥の筋肉を広げて、口には笑みを。
「すみません、どこまで行くんですか?」
男は赤の細いストライプが入った白のポロシャツにベージュのスラックスを履いていた。車の助手席から旅のにおいがしている。
「えっ、何ですか?」
男はそう答えた。見ず知らずの相手に質問をされて素直に行き先を答える人がどこにいるのだろうか? そう思うのは世界を知らない人だ。僕の目の前にいる男は、そのすぐ後に「上野まで行くんだけど?」と疑問系で答えてくれた。
意訳すると『僕は上野まで行くんだけど、一体何の用かね?』ということだ。上野という答えで、僕にとって彼は用無しとなったわけだが、粗末に扱うことはしない。アフターケアはどんな世界でも重要だ。
「ヒッチハイクをしているんです。徳島まで行きたくて」と僕は答えた。
「へぇ、ヒッチハイク! 徳島?」
「四国の」
僕がそう言い足すと「あ~……」と男は間の抜けた声を出して空を見上げると「あぁ」と何かを納得したようにはっきりと声を出した。
僕には彼の頭の中が透けて見えるようだった。徳島と言って、そのまま通じることはほとんどない。そのあとに四国と言い足すと、香川……愛媛……高知……あとひとつなんだっけ。あぁ、目の前いるこいつが言っていた徳島か、という風に思い出してくれる。
「すまないけど、上野に行った後は日本橋のホテルに泊まるから。仕方ないね。ごめん」
男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、こちらこそすみません。ご迷惑をかけてしまって」と僕も頭を下げる。
「ヒッチハイクなんて本当にあるんだ。徳島まで遠いけどがんばって」
「はいがんばります。ありがとうございました」
僕は丁寧に言葉を重ねて、もう一度頭を下げると彼を見送った。彼はコンビニに入って、ペットボトルのジュースを買うと、僕に笑顔を向けて車に乗り、駐車場を出て行った。
東京は大した街だ。東京でできないことは東京以外の場所へ行くことだけだ。東京の外から人は入ってくるが出て行く人は少ない。東京にいる99%の人は東京に用がある。ヒッチハイクで一番難しいのは東京を出ることだった。
僕はコンビニの窓の出っ張りに一時間座り、20人の浮かれた人達に話しかけた。20人とも東京のどこそこへ行くと言い、ヒッチハイクをしていると驚いて、徳島と言って通じた人は一人もいなかった。
僕はまたコーラを買って飲んだ。そしてまた窓の出っ張りに腰を下ろすとホンダの黒い軽が駐車場に入ってきた。出てきたのは白い半袖の男で、顔が半分隠れる巨大なサングラスをかけていた。口はむすっとしているが気持ちは浮ついている。ここではないどこか遠い場所へ行こうとしていた。
僕はコーラを一口喉に流し込むと腰を上げて彼に話しかけた。
「すみません。これからどこへ行かれるのですか?」
「えっ、俺に言ってるの?」と男は言い、続けて「帰るんだよ」と付け加えた。
「どちらまで?」
「福島」
やった。ついに東京を出る人を見つけた。
「もし良ければ一緒に乗せていってもらえませんか」と僕は言った。
「どうして?」
「ヒッチハイクで徳島まで帰ろうとしているんです。実家がそこなんですよ。お盆までに帰ろうと思って」
「あぁ」
彼の「あぁ」は珍しく徳島がどこにあるのか知っている「あぁ」だった。
「それは遠いね。どうしてヒッチハイクを? お金がないとか?」
「そういうわけでもないんですが」
「若さの冒険というわけか。俺もしてみたかったな、そういう旅」
そう言った彼も僕と歳はそう違わないように見えた。
「でも、福島と徳島じゃ全然方向が違うよ。北と西だ」
「とりあえず東京を出たいんですよ。ここにいると人の流れがぐるぐる回っていますから。福島も徳島も東京を出ないと行けないでしょう?」
「まあ、乗りなよ。でも俺は福島に行くよ。福島ってどこにあるか知ってる?」と男は言った。
「ありがとうございます。知っています」と僕は頭を下げた。とりあえず東京を出ることができれば第一関門突破だ。僕と彼は一緒にホンダの黒い軽に乗り、東京を出ることにした。
2 初めてのヒッチハイク
大学一年生のある日、僕は駅の改札で財布がないことに気付いた。おまけに携帯電話もなくて人生終わったと思った。
ぼくは気を取り直して地面をなめるように探しながら大学まで戻り、携帯電話を見つけた。しかし財布は見つからなかった。財布には電車の定期券が入っていたので僕は大学から歩いて帰らなければならなくなった。
真夏のアスファルトを歩くと喉が渇いた。僕は通りかかった公園の水道で水を飲んで、日陰のベンチで一休みした。
涼しい風に当たって再び歩き始めると、体が冷えて固くなっていたので、ううんと、うなりながら手や胸を横に伸ばした。すると一台の車がそばに止まった。スバルのインプレッサだ。
「どこまで行くんですか?」
車には二人の若い男が乗っていて、助手席の男が窓から僕に話しかけてきた。僕は呆気に取られたが、馬鹿正直にアパートがある場所を答えていた。
「それって東京じゃないですか? それもすぐそこ」
助手席の男が言ったので僕はうなずいた。
「まぁ、いいや。乗っていきなよ」
僕はそれほど考えもせずに後部座席に乗り込んだ。僕は木刀を毎日二千回振っていて、人を見ると勝てるかどうかを値踏みする習性がある。僕はその二人を相手にしても勝つ自信があったので危険は感じなかった。
二人は高校の同級生で、北海道から日本一周の旅をしている最中だった。その間に青森でヒッチハイカーを乗せ、三日間一緒に旅をして宮城の気仙沼で降ろし、宮城の岩沼辺りでまたヒッチハイカーを拾い、やはり三日間一緒に旅をして東京の日本橋で降ろしたそうだ。二人は僕が体を伸ばしているのを見て、ヒッチハイクをしていると勘違いしたらしい。
東京はもんじゃ焼きよりナポリタンを食べる方がいいと教えてあげると、夜も近いのでナポリタンを出す店に行くことになった。
僕は車に乗せてくれたお礼にナポリタンとグラタンを奢ると言っていたのだが、お金を払う時になって財布を落としていた事を思い出した。僕が「ごめん」と謝ると、二人は笑って、そこの代金を払ってくれた。
二人は僕に借りだけを残して去った。名前はまだ憶えている。北海道の本田アキラ君と豊田スバル君、たぶん一生会うことはないだろうけれど、この恩はいつまでも忘れない。
僕は偶然ヒッチハイクをして以来、世界の裏技を見つけてしまったと興奮していた。僕は見ず知らずの人を引っ掛ける奇妙な魅力に囚われてしまった。
初めは伊豆の修善寺まで行った。夏目漱石がどうとかを本で読んで興味があった。
実は人生初の意識的なヒッチハイクは失敗から始まった。どうせやるなら交通量の多い道路が良いだろうと、車がびゅんびゅん走る国道で半日立っていたのだが、車は一台も止まらなかった。
いや、本当は三台停まった。でも三台ともタクシーだった。タクシーの運転手は僕がヒッチハイカーだと分かると三人とも舌打ちをして走り去った。
車が目の前を通り過ぎていく度に僕は泣きたい気持ちに襲われた。昼前には心の限界に達して、部屋に戻ると涙を流した。
二日目は知恵を絞って、ダンボールに『静岡 伊豆 修善寺まで』と書いて掲げた。すると車の通りが少なくなった時に車が停まった。人生初のヒッチハイク成功。この時はたまたまその人が伊豆へ行く予定だったが、僕は車さえ停まってくれれば必ず行き先まで乗せていってくれるものだという考えを再びヒッチハイクをする時まで抱いていた。
初めてのヒッチハイクが成功して僕は自信が付いた。それで夏休みは東京から徳島までヒッチハイクで帰ってやろうという野望を抱いた。
……という話を福島に着くまでの間に話した。運転手の男はサングラス越しで表情は分からないが楽しんでいるようには感じた。
「それじゃ、これが人生初のヒッチハイク? 徳島へ帰るまでの」と男は言った。
「いえ、今は三年生だから三回目です」
「ふぅん、面白い事をするんだね。俺もやってみたいよ」
限りなく100%に近い確率で彼はやらないだろう。
僕は郡山で降ろしてもらい、男に礼を言った。
「泊まるところはある?」と男は言った。
「その辺で寝ます。夏だから」
「若いね」
「そっちもまだ若いですよ」
「そうかな」
男がサングラスを外した。サングラス詐欺だ。男はどう甘く見積もっても30は越えていた。40代でも通じるかもしれない。大きなサングラスとヒゲの薄さが年齢を隠していた。
「20代でも通じますよ」
僕は最後にお世辞を言って、そそくさと別れた。彼は嬉しそうな顔で僕を見送ってくれた。
もう夕方になっていた。僕はイニシャルMのハンバーガー屋に入って、照り焼きバーガー二つと烏龍茶を夕食にすると、人気の少なそうな公園を探した。
公園はすぐに見つかった。僕は公園の芝生にバスタオルを敷いて寝転がるとバッグを枕にして眠った。
3 そろそろ西へ
僕は公園の水道で服を洗って乾かすとヒッチハイクを始めた。
『とにかく西へ』
そう書いた紙を持って半時間ほど道路に立っていると中型トラックが止まった。僕は助手席に乗り込んで配送ルートに乗っけてもらった。
ヒッチハイクの初心者が陥りやすい罠はトラックの運転手はみんな気が良いやつらでヒッチハイカーを乗せてくれるはずだという思い込みだ。その思い込みは半分当たって、半分外れている。
トラックの運転手はみんな気が良いやつらというのは正解だ。しかしヒッチハイカーを乗せれば配送が遅れるし、事故でもしたら保健やら何やらがあるので、たいていの会社はヒッチハイカーを乗せることを禁止している。何故僕がそれを知っているのかというとトラックの運転手が教えてくれたからだ。
その運転手はどうして僕を乗せてくれたのか。会社に対する嫌がらせだそうだ。僕はそれ以来、気の立っているトラック運転手を見ると声をかけている。すると彼らは会社に対する嫌がらせのために僕を乗せてくれた。僕はトラックに乗れるし、彼らは会社に鬱憤を晴らせる。Win-Winの関係だ。
トラックが運んでいたのはラーメンの麺で、昼になると運転手がラーメン屋で喜多方ラーメンを奢ってくれた。
そのあと僕達はラーメンの店を何軒か回った後に、会津に行った。もう夕方が近くなっていたので、車の通りが良さそうな場所で彼は降ろしてくれた。
白虎隊が永眠する場所で僕は一夜を過ごした。静かな場所だったせいか良く眠れた気がする。僕は本気で霊を信じている方ではないが、そのまま立ち去るのは気が引けて、白虎隊のお墓に手を合わせながら、今日も良い車がひっかかるように手を貸してくださいと祈った。
服を水で洗って乾かしている間に、僕は近くの定食屋でサバ定食を食べた。普段は皮を食べないが、旅先だと食べてしまうのは不思議だ。みそ汁に入っていたワカメの茎もぽりぽりと食べてしまう。
腹ごしらえを済ませて、服の乾き具合を確かめると、まだ半乾きだったので近くにあるサザエ堂に登った。誰ともすれ違わずに上り下りできるという触れ込みだったが、僕一人だけだったので誰ともすれ違わなかった。
太陽が空の高い場所に登ると人が増えて観光地らしくなった。でも浮かれている人は少なかった。次の行き先で頭がいっぱいなのだろう。僕は誰にも話しかけられずに日陰で人の流れを追っていたが、その中にヒヤリとする空気を持った人が現れた。
その人は髪が全部真っ白で、腕は僕の半分もない細さだったが、明らかに僕より強いと悟らせる雰囲気を放っていた。もし竹刀を持っていたとしても僕は打ち込めないだろう。
その人は真っ直ぐ僕に向かってきた。殺されるかもしれないと感じて、僕は逃げようとしたが、まさかこんな場所で切られることもあるまいと思い直して、じっと座り続けていた。
すると彼は僕のそばまで来て、手刀で僕の頭を軽く打ち「常在戦場!」と小さく一喝してから話しかけてきた。
「何をされているのですか?」
「あなたこそいきなり何をするんですか」と僕は言った。いきなりのことで全身の血がドクドクと音を立てている。
「一応の勝負は着けないと思いまして。あなた、もしかして武道の経験がおありではございませんか?」
「えっ、ああ……高校まで剣道をしていました」
「道理で。お若いのに熱心ですな。私はいつ切りつけられるのかとヒヤヒヤしておりました。最近はどうもスポルツの気が多くて、常在戦場という言葉は薄っぺらい物になりました。なかなか見どころのあるお方だったので、私もつい手が出てしまいました。申し訳ない」
老人は綺麗な角度で頭を下げた。美しい身のこなしに僕は仕返しに頭を叩いてやろうという気が失せてしまった。
「ところで何をされているのですか?」
また最初の質問に戻った。
「ヒッチハイクで旅をしているんですよ」と僕は答えた。
「ヒッチハイク?」
老人はヒッチハイクの意味が分からないようだった。
「えーと、ですね。道路で親指を立てて、いや、立てないこともあるから、う~んと、話しかけることもあるんですよ」と僕もなかなか説明することは難しかった。色々と言葉を重ねたあげく、結局最後に「要は車に乗せていってもらうということです」と僕は言った。
「世の中色んな人がいるものですな」と老人は言った。いきなり手刀で頭を叩いてくる人もなかなかいませんよ、という言葉は胸にしまい込んだ。
「どこまで行かれるのですか?」と老人が言った。
「目的地は徳島ですが、とりあえずは西へ」
「新潟まで?」
「通ることにはなるでしょうね。それからずんずん西へ行って……まぁ何とかなるでしょう」
「私は新潟から来ました」
「そうなんですか」
「今日はもう帰りますから、乗せていってあげましょう」
いきなり手刀で頭を叩かれて、僕は躊躇したが、結局は「ありがとうございます」と礼を言った。その時うかつにも頭を下げたのだが、また手刀が降ってくるかもしれないと思い直して、僕は慌てて頭を上げた。老人はニッコリと笑っていた。
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1 最初の主さん
始めは全てが真っ暗だった。ぼくが柔らかく暖かい空間でくつろいでいると、時々体が揺れて柔らかい物にぐにゃりとぶつかった。それを何度か繰り返していると、同じ空間に何者かがいることに気付いた。それも一つや二つではない。時を追うごとにその存在は大きくなり、ぼくを押しのけようとするので、ぼくの方でも押し返した。
そうやって誰もが押すな押すなの縄張り争いをしていると、やがて一つの存在がその空間から姿を消した。あぁ良かった、これで広くなった、と胸をなでおろすと、また一つの存在が消えた。それが何度も続いた。
ぼく以外の存在がこの世から消えると、心地良い空間を独り占めにして、この世の春を楽しんでいたのだが、目の前にひとつの光が見えた。
その光はどんどん大きくなり、頭の中までまぶしくなった。訳の分からない状況と身を包む寒さに震えていると、暖かくて柔らかいものがぼくの背中を撫でた。それは母上の舌だったが、この時はまだ目が開いていなかったので、それが何だか分からなかった。
生まれたてのぼくは「にゃあ」と鳴けずに「みー」と鳴いた。ぼくの周りでも「みーみー」と大合唱が起きていた。先に生まれた兄弟達がぼくと同じように「みーみー」鳴いていたのだ。ぼくも「みーみー」の合唱に加わった。
高崎望は14歳の秋に学校へ行けなくなった。
幸いにも担任の先生の尽力により高校に進学するが、
彼が入った上等高校は不良が集まる危険な学校だった。
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1 上等高校受験
「望君は、やればできる子だからがんばって!」
車の中から母親が声をかけた。息子の合格を心から信じている目をしていた。どうしてそこまで信用できるのか望には分からなかった。
二人は上等高校の正門前にいた。今日は入学試験日で、門内には親子連れの学生が何人もいたが、望は一人だけだった。
母親は一緒に行くと、何度も言っていたが、中三にもなって母親と一緒に歩くなんて恥かしいと望は思っていた。『来たら殺す』と望は言い続けて、三日前に渋々という感じで母親はついてくるのをやめた。他の子もそうしているだろうと思っていたが、みんな親子連れで子ども一人の方が珍しいぐらいだった。
望と同じ学校の制服を着た子が何人かいた。顔は知っていたが名前は知らなかった。数人で固まって話をしている。
校舎の門が開いた。
「試験を受ける方はこちらへ! 保護者の方はあちらへ!」
スーツを着た男が白い息を吐きながら大声を出した。たぶんこの学校の教師だろう。
望が校舎へ向かっていると担任の先生が自分の生徒達の肩を叩いて言葉をかけていた。望は先生に捕まらないように、そっと通り過ぎようとしたが肩を捕まれてしまった。顔を横に向けると先生と目が合った。
「高崎、がんばれよ」
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白い大鳴門橋のすぐ脇で渦潮が白く渦を巻いている。実際にこの目で見る渦潮は想像していたよりも小さくて静かだった。
秀子は展望台から渦潮を見下ろしていた。隣には奈津美がいる。彼女の提案でここまで来たが、すぐに飽きてしまったようだ。
「何もないね」と奈津美がだるそうに言った。「私の想像していた渦潮ってもっとこう大きくて激しいものだと思っていたけど、こうやって見ると大したことない。子どもの頃に見たのはもっと大きくて恐かったんだけどなあ」
奈津美は手を大きく広げた。
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1
「私達って女として終わってない?」と恵は言った。目の前には玲美と一子が座っている。四角いテーブルには、なめろうと一升瓶が置かれていた。
「普通、女が三人集まったらさ。間接照明のおしゃれなお店でワインをたしなみながら、ナイフとフォークで食べるような料理を食べて、上品におしゃべりするんじゃない?」と恵は言った。
玲美と一子は顔を真っ赤にして、歯を見せながらにやにやしている。お酒が完全にまわっている証拠だ。
「そういうのは夜遊びに慣れていない子が背伸びしてやるもんでしょ。私達ぐらいになるとそういう堅苦しいことはやめて楽しくやるの」と玲美は言った。
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火星行きのパイロットを募集する広告があらゆる媒体で流された。帰還すれば報奨金一億円。
兄の次郎が勝手に応募書類を送ってしまったので一郎はテストを受けることになった。
彼は試験を落ちるつもりで受けたのだが、何故か受かってしまったので一人で火星へ行くことになる。
読んだ後はツイッターに書き込もう→火星へ行こう君の夢がそこにある ツイッターのまとめ
星ひとつ見えない暗闇に青白い光に包まれた球体が孤独に浮かんでいる。種子島宇宙センターはもう見えないが、日本列島はまだ見えていた。
宇宙船が地球を三周しながら航行速度まで加速すると、加速のGが無くなり船内を自由に移動できるようになった。その時に一郎は宇宙船の窓から地球を見たのだ。
宇宙船はさらに地球を半周すると地球を離れ、火星まで行くことになっていた。人類初の有人火星飛行をするのだ。
操縦席の赤いランプを点滅していた。
「こちら宇宙管制局。一郎さん、そちらに異常はありませんか?」
管制局からの電話だった。一郎はイヤホンとマイクを着けていたので通話ボタンを押せばそのまま会話ができた。
「はい、今のところ異常ありません」と一郎は言った。
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・聖者の行進ができるまで
冒頭に出てくるタナカ・サトシは一般的な成功や栄光を追求する人物ではなく、日々の生活に疲弊しながらも現実を受け入れざるを得ない普通の人間です。彼は短距離配送業を営みながら、会社の搾取や自身の停滞に苛立ちつつも、何も変えられない現状に囚われています。この設定は、多くのフィクションが描く「自己実現」や「英雄的行動」とは対照的であり、現代社会における普通の労働者の厳しさや、無力感を強く浮き彫りにしています。
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タクヤ 第一章 くもとこうずい
かつては東京のある会で表彰されるほど優秀だった正文は落ちぶれようとしていた。
そんな時彼は肉体労働に従事している長谷川さんと出会う。
二人の共同生活が始まると、正文は長谷川さんの心と体がクスリに侵されていることを知る。
正文は長谷川さんを救うために自分もクスリを飲むことにした。
・エバーホワイトができるまで
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5‐1 真面目な女の子はモテない(そんなことはない)
「ただいま」
仕事から帰ってくると、正文は部屋の中に声をかけた。心なしか狭くなったような気がする。
「おかえり」と長谷川さんの声が返ってくる。キッチンで何かを炒めている音がする。彼女は一昨日から正文の部屋にいた。
部屋に入るとダンボール箱がいくつかあった。一度自分のところに戻って、色々持ちこんできたようだ。
「すぐに片付けるから。しばらく我慢して」
「何作ってるの?」
「おかゆじゃないよ」
「それは分かるけど」
「できてからのお楽しみ。もうすぐできるから着替えてきて」
仕事から帰ってきても着替える習慣はなかった。風呂に入るまではスーツを脱いでいる。風呂に入ればパジャマだ。部屋着など持っていない。休みの日も出かけない日はパンツ一枚で過ごしている。冬は体に毛布を巻いていた。服といえばよそ行きの服しかないのだが、長谷川さんの言う通りに着替えると「あれ、これからどこか行くの?」と彼女は驚いた。
「いや、服はこれしか持っていなくて」
「森君って面白い」
「そうかな、どこが?」
長谷川さんはにんまりするだけで何も答えなかった。正文はよく分からないままTVを見ていた。それほど集中して見ていたわけではなく、ケチャップが焼けるにおいを嗅いでいた。
「できたよ~」
夕飯には長ナスのナポリタンが出てきた。思わず声が出るほど美味いわけではないが、腹の中にぐっと染み込んでくる家庭的な味がした。
「今日は仕事どうだった?」と長谷川さんが訊いてきた。
「まぁ、そこそこかな」と正文は答えた。本当はかなり良かった。昨日からその予感はあって今日仕事へ行くとあっけないほどうまくいった。取引先では言葉が自然に出てきて、あと三回は訪問しなければと思っていたところを今日中にまとめてしまったところもある。
それより驚いたのは、商談がまとまり雑談に話が逸れた時だった。今まではスーツの下に汗をかきながらこなしていたことが、今日は涼しい気持ちでやり通せた。それどころか話していること自体が面白いと感じた事さえある。
「森さん、調子良くなりましたね」
今日は部下の“できるヤツ”からそんな言葉が出てきた。正文がちゃんと仕事をしたので声も表情も明るくなっていた。
「もう駄目なんじゃないかなって思っていたんですよ。先週なんてひどかった。俺、今まで森さんのこと尊敬しているところがあって、それであんなになっていて・・・・・・いや、すみません。人間だからうまくいかない時もありますよね。てっきり無敵の人だと思っていました。やっぱり森さんも人間なんだ」
「俺は人間だぞ」
「喩えです。隣で見ていて、とても真似できない、同じ人間とは思えないぞってビビるぐらいでしたから」
「誰にだってそんな時はある。問題はそこをどう乗り越えるかだ」
「ちょっと自信がないな。俺もそこそこやれるとは思いますが、森さんみたいにはとてもなれない」
「そんなことはない。俺も今ぐらいできるようになったのは一人で色々やれるようになってからだ。誰かが上にいると、あるところからは成長できないようだ。お前も一人でやるようになれば今よりずっと伸びるよ」
「そんなものですか?」
「俺も通った道だからよく分かる。お前はこれからずっと伸びる、絶対に伸びる。俺より伸びることだってあるだろう」
「いや、それは無理ですよ」
元に戻ったとはいえ、あまりの変化に自分でも恐ろしくなった。この一ヶ月で最高と最悪の状態を行き来した。もしかすると今の状態が異常で、いつか元に戻って失敗するのではないかと正文は怯えた。
「どうしたの? やっぱりまだ調子悪い?」
フォーク持ったまま動かない正文に長谷川さんが声をかけた。
「いや、今の自分が本当の自分なのかなって不安になった。今日は調子が良すぎて。今までが悪すぎたせいかな」
「わたし、今までの森君を知らないから。でも病気じゃなさそう。最初見た時はどこか疲れてた」
「今は?」
「病気でもなければ元気一杯でもない。普通かな」
「普通かぁ・・・・・・」
頭では理解できたが心はまだ先週と同じだった。こんなにあっけなく普通に戻るなら、何かの拍子にまた最悪の状態に戻る事もありえるのだ。そんなに変わりやすい物なら普通とは一体何だと考えてしまう。
「ほら、冷めちゃうから。早く食べちゃって」
長谷川さんはいつの間にか皿を平らげていた。
正文はナポリタンにがっついた。味がどうこうではなく長谷川さんが作ってくれた物を食べたという感じが強い。月並みな言い方だが、心がこもった物を食べたという感じだ。考えてみればもう何年も他人の手料理を食べた記憶がない。お盆や正月に実家へ帰ると大抵店で買ってきたものや、取り寄せた物が出てくる。
「そんなに美味しかった?」
長谷川さんの問いに「うん」と正文はうなずいた。
それから食器を洗って風呂に入った。長谷川さんも正文の後に入って、火照った体で出てきた。血色の良くなった太ももから湯気が出ているのを見て、胸がドキッとした。
TVを見ている間、お互いに独り言のように話しかけて、それに独り言のように返事をしたり、あるいはしなかったりした。九時のドラマが終わると長谷川さんは頭に巻いていたタオルを外して、ドライヤーで髪を乾かし始めた。
はっきりと言葉にしたわけではないが、長谷川さんは何故か正文の部屋に居着いている。一昨日から長谷川さんの物が徐々に増えていて、ドライヤーもそのひとつだった。
「森君、明日も仕事?」
「うん」
「それじゃあ早く寝なきゃね」
正文がベッドに入ると当たり前の様に長谷川さんもベッドに入ってきた。部屋の明かりを消すと二の腕や太ももに触れるか触れないかの距離で横になる。昨日もそうで、そのまま何もせず眠りについた。
どうしてこうなっているのか分からなかった。昨日の朝、長谷川さんが部屋にいて、いつ帰るのだろうかと思っていると、そのまま夜になった。途中で買い物に出かけたがそこでも一緒だった。
今日になると一緒に暮らすという雰囲気が強くなっていた。それでもいつ帰るのかとは口に出せなかった。もしあえて口に出せば帰る場所はここだと言い返されそうな気がした。そこまではっきり言葉にされると、ずっとここにいるか、出て行って貰うかを決断しなければならないような気がしてやはり口は重くなった。
長谷川さんとは何がどうとはっきり決めずに曖昧な状態のままでいたい。しかし、今の状態が続けばずっとここで一緒に暮らすようになるかもしれない。悪くはないが、面倒だという気持ちもある。最悪のところから抜け出せたのは長谷川さんのおかげだという自覚はあるのに、そんなことを考える自分に罪悪感があった。
ふと長谷川さんが正文を見ているような気がした。確かめるように頭を横に転がすと、しっかり目を開いている長谷川さんと目が合って、体が揺れた。
「どうしたの?」と正文は訊いた。声をひそめたつもりだが天井に響くほど大きな声が出た。
「しないのかなって」
長谷川さんはじっと正文を見たまま答えた。
「何を?」
「昨日もしなかった」
「そういうことはしちゃいけないと思って」
「どうして?」
「自分でも分からない」
「変なの」
正文は頭を元に戻して目をつぶった。長谷川さんはどうしているか分からない。時計の秒針がチチチチと正文を急かすように音を立てている。
続きは
内容紹介
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私とタニス 2
私とタニス 3
私とタニス 4
主人公が求めるもの
主人公は、東京の大学に進学したものの、自分が特別な存在ではなく「その他大勢の一人」に過ぎないことに気付く。この現実は彼に深い失望をもたらし、将来への希望や夢を抱くことを難しくさせた。大学卒業後に待つ未来が必ずしも明るいものではないと悟り、彼は日常に対する閉塞感を抱えるようになる。そんな中で彼が選んだのがヒッチハイクという行動だった。これは単なる交通手段ではなく、自分自身を再発見するための旅であり、未知の世界への扉でもあった。
彼が求めているのは、具体的な目標や夢というよりも、日常からの脱出と自己確認の機会である。ヒッチハイクを通じて出会う見知らぬ人々との交流や予測不可能な出来事は、彼に新たな視点と気付きを与える。人との偶然の出会いがもたらす会話や経験は、彼の中に小さな変化を積み重ね、閉ざされていた心の扉を少しずつ開いていく。
最終的に彼が求めているのは、自分の存在意義や人生における本当の居場所だ。旅の途中で得た経験や出会いは、彼に自分自身を見つめ直す時間を与え、迷いや不安を抱えながらも一歩ずつ前に進む力を与える。ヒッチハイクという旅そのものが、彼にとって自己探求の象徴であり、彼の内面の成長を促す鍵となっている。
小説のモチーフ
この小説のモチーフは「自己探求の旅」と「偶然の出会いによる成長」でしょう。主人公・正木忠則は、自分の存在意義や将来に対する不安から逃れるためにヒッチハイクの旅に出ますが、この旅自体が彼の内面を探る過程の象徴となっています。
ヒッチハイクは計画性のない移動手段であり、自由と不確実性の象徴です。これは、主人公の人生そのものを反映しています。彼は自分の将来が見えず、予測できない未来に対して不安を抱えていますが、その一方で、未知の世界に身を投じることで自分を見つめ直そうとしています。旅を通じて、忠則は他者との関わりを学び、自己を見つけるための自由と冒険を体現しているのです。
旅の中で出会う多種多様な人々は、偶然の連続であり、これらの出会いが主人公の視野を広げていきます。福島へ向かう男、白髪の老人、小料理屋の女将、インド人青年など、彼らはそれぞれ異なる価値観や生き方を持ち、忠則に新しい視点を与えます。この「偶然の出会い」は、人生の中で避けられない出来事や人との関係性を象徴しており、主人公の成長を促す重要な要素です。
主人公は東京での閉塞感から逃れるために旅に出ますが、実際には旅の中で自分の弱さや不安と向き合うことになります。特に、小料理屋の女将やインド人青年との関係は、彼が他者との距離感や自立の必要性を再認識するきっかけとなります。この逃避と対峙の繰り返しが、主人公の内面的な葛藤と成長のモチーフとして描かれています。
ヒッチハイクの旅は孤独な行動ですが、他人の助けがなければ成り立たないという矛盾も内包しています。この矛盾が、主人公の「一人で生きたい」という願望と「他人と繋がりたい」という内なる欲求を象徴しています。孤独を感じながらも、人との偶然の出会いや助けを通じて連帯感を得ることが、主人公の精神的な成長を表現しています。
最終的に、主人公は家に帰ることになりますが、この帰還は単なる物理的な移動ではなく、精神的な成長と再出発を象徴しています。旅を通じて得た経験や気付きは、彼の日常に新たな意味をもたらし、彼自身の視点や価値観を変えるきっかけとなります。帰還することで彼は、自分が本当に求めていたものが何なのかを理解し始めるのです。
このように、『ヒッチハイク』は、旅というモチーフを通じて主人公の自己探求、成長、そして人との関わりの重要性を描いた作品です。
この小説「ヒッチハイク~正木忠則君のケース~」が他の物語と異なる点は、主人公の「無目的な旅」を描写することで、現代の若者のアイデンティティ探索と自意識を緻密に表現していることです。物語の中心には、主人公が大学生活や社会の期待に対して感じる疎外感があり、その反応としてヒッチハイクという手段を通じて旅を続けますが、その旅は単なる物理的な移動ではなく、彼の精神的な葛藤や成長の象徴です。
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1 ヒッチハイク
僕の夏休みの第一日目は一日中眠ることだった。夜中の2時まで何をするでもなく、TVをつけたままマンガを読んだり、ネットを見たりして、意識の限界まで起きていた。
たいていは朝7時に目が覚めて、そこからもう一度眠ると10時に目覚めて、さらにまた眠ると昼の2時になった。その頃になってようやく僕は布団から出た。
朝から晩まで暑い日が続くので、火を使う料理を作る気にはなれなかった。電子レンジでうどんを温めて、水で洗い、麺つゆと、ねぎと、天かすを入れたぶっかけうどんを二杯食べた。そしてまた眠った。
そうやって寝て起きての生活を三日続けると、体重が2キロ落ちた。僕は布団の上で、あくびをしながら体を大きく伸ばすと、また眠った。
こうして一週間が過ぎた。僕はパンパンに膨らんだバッグを持って部屋を出た。徳島の実家に帰るのだ。
僕が向かったのは空港でもバスターミナルでもなく郊外にあるコンビニだった。僕は緊張をほぐすためにコーラを一本買って飲んだ。それからコンビニの窓ガラスの出っ張りに腰を降ろして、気持ちが浮かれている人を探した。
5分ほど待っていると本日一人目の浮かれている人を発見した。僕は腰を上げて、その人に話しかけた。目の奥の筋肉を広げて、口には笑みを。
「すみません、どこまで行くんですか?」
男は赤の細いストライプが入った白のポロシャツにベージュのスラックスを履いていた。車の助手席から旅のにおいがしている。
「えっ、何ですか?」
男はそう答えた。見ず知らずの相手に質問をされて素直に行き先を答える人がどこにいるのだろうか? そう思うのは世界を知らない人だ。僕の目の前にいる男は、そのすぐ後に「上野まで行くんだけど?」と疑問系で答えてくれた。
意訳すると『僕は上野まで行くんだけど、一体何の用かね?』ということだ。上野という答えで、僕にとって彼は用無しとなったわけだが、粗末に扱うことはしない。アフターケアはどんな世界でも重要だ。
「ヒッチハイクをしているんです。徳島まで行きたくて」と僕は答えた。
「へぇ、ヒッチハイク! 徳島?」
「四国の」
僕がそう言い足すと「あ~……」と男は間の抜けた声を出して空を見上げると「あぁ」と何かを納得したようにはっきりと声を出した。
僕には彼の頭の中が透けて見えるようだった。徳島と言って、そのまま通じることはほとんどない。そのあとに四国と言い足すと、香川……愛媛……高知……あとひとつなんだっけ。あぁ、目の前いるこいつが言っていた徳島か、という風に思い出してくれる。
「すまないけど、上野に行った後は日本橋のホテルに泊まるから。仕方ないね。ごめん」
男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、こちらこそすみません。ご迷惑をかけてしまって」と僕も頭を下げる。
「ヒッチハイクなんて本当にあるんだ。徳島まで遠いけどがんばって」
「はいがんばります。ありがとうございました」
僕は丁寧に言葉を重ねて、もう一度頭を下げると彼を見送った。彼はコンビニに入って、ペットボトルのジュースを買うと、僕に笑顔を向けて車に乗り、駐車場を出て行った。
東京は大した街だ。東京でできないことは東京以外の場所へ行くことだけだ。東京の外から人は入ってくるが出て行く人は少ない。東京にいる99%の人は東京に用がある。ヒッチハイクで一番難しいのは東京を出ることだった。
僕はコンビニの窓の出っ張りに一時間座り、20人の浮かれた人達に話しかけた。20人とも東京のどこそこへ行くと言い、ヒッチハイクをしていると驚いて、徳島と言って通じた人は一人もいなかった。
僕はまたコーラを買って飲んだ。そしてまた窓の出っ張りに腰を下ろすとホンダの黒い軽が駐車場に入ってきた。出てきたのは白い半袖の男で、顔が半分隠れる巨大なサングラスをかけていた。口はむすっとしているが気持ちは浮ついている。ここではないどこか遠い場所へ行こうとしていた。
僕はコーラを一口喉に流し込むと腰を上げて彼に話しかけた。
「すみません。これからどこへ行かれるのですか?」
「えっ、俺に言ってるの?」と男は言い、続けて「帰るんだよ」と付け加えた。
「どちらまで?」
「福島」
やった。ついに東京を出る人を見つけた。
「もし良ければ一緒に乗せていってもらえませんか」と僕は言った。
「どうして?」
「ヒッチハイクで徳島まで帰ろうとしているんです。実家がそこなんですよ。お盆までに帰ろうと思って」
「あぁ」
彼の「あぁ」は珍しく徳島がどこにあるのか知っている「あぁ」だった。
「それは遠いね。どうしてヒッチハイクを? お金がないとか?」
「そういうわけでもないんですが」
「若さの冒険というわけか。俺もしてみたかったな、そういう旅」
そう言った彼も僕と歳はそう違わないように見えた。
「でも、福島と徳島じゃ全然方向が違うよ。北と西だ」
「とりあえず東京を出たいんですよ。ここにいると人の流れがぐるぐる回っていますから。福島も徳島も東京を出ないと行けないでしょう?」
「まあ、乗りなよ。でも俺は福島に行くよ。福島ってどこにあるか知ってる?」と男は言った。
「ありがとうございます。知っています」と僕は頭を下げた。とりあえず東京を出ることができれば第一関門突破だ。僕と彼は一緒にホンダの黒い軽に乗り、東京を出ることにした。
2 初めてのヒッチハイク
大学一年生のある日、僕は駅の改札で財布がないことに気付いた。おまけに携帯電話もなくて人生終わったと思った。
ぼくは気を取り直して地面をなめるように探しながら大学まで戻り、携帯電話を見つけた。しかし財布は見つからなかった。財布には電車の定期券が入っていたので僕は大学から歩いて帰らなければならなくなった。
真夏のアスファルトを歩くと喉が渇いた。僕は通りかかった公園の水道で水を飲んで、日陰のベンチで一休みした。
涼しい風に当たって再び歩き始めると、体が冷えて固くなっていたので、ううんと、うなりながら手や胸を横に伸ばした。すると一台の車がそばに止まった。スバルのインプレッサだ。
「どこまで行くんですか?」
車には二人の若い男が乗っていて、助手席の男が窓から僕に話しかけてきた。僕は呆気に取られたが、馬鹿正直にアパートがある場所を答えていた。
「それって東京じゃないですか? それもすぐそこ」
助手席の男が言ったので僕はうなずいた。
「まぁ、いいや。乗っていきなよ」
僕はそれほど考えもせずに後部座席に乗り込んだ。僕は木刀を毎日二千回振っていて、人を見ると勝てるかどうかを値踏みする習性がある。僕はその二人を相手にしても勝つ自信があったので危険は感じなかった。
二人は高校の同級生で、北海道から日本一周の旅をしている最中だった。その間に青森でヒッチハイカーを乗せ、三日間一緒に旅をして宮城の気仙沼で降ろし、宮城の岩沼辺りでまたヒッチハイカーを拾い、やはり三日間一緒に旅をして東京の日本橋で降ろしたそうだ。二人は僕が体を伸ばしているのを見て、ヒッチハイクをしていると勘違いしたらしい。
東京はもんじゃ焼きよりナポリタンを食べる方がいいと教えてあげると、夜も近いのでナポリタンを出す店に行くことになった。
僕は車に乗せてくれたお礼にナポリタンとグラタンを奢ると言っていたのだが、お金を払う時になって財布を落としていた事を思い出した。僕が「ごめん」と謝ると、二人は笑って、そこの代金を払ってくれた。
二人は僕に借りだけを残して去った。名前はまだ憶えている。北海道の本田アキラ君と豊田スバル君、たぶん一生会うことはないだろうけれど、この恩はいつまでも忘れない。
僕は偶然ヒッチハイクをして以来、世界の裏技を見つけてしまったと興奮していた。僕は見ず知らずの人を引っ掛ける奇妙な魅力に囚われてしまった。
初めは伊豆の修善寺まで行った。夏目漱石がどうとかを本で読んで興味があった。
実は人生初の意識的なヒッチハイクは失敗から始まった。どうせやるなら交通量の多い道路が良いだろうと、車がびゅんびゅん走る国道で半日立っていたのだが、車は一台も止まらなかった。
いや、本当は三台停まった。でも三台ともタクシーだった。タクシーの運転手は僕がヒッチハイカーだと分かると三人とも舌打ちをして走り去った。
車が目の前を通り過ぎていく度に僕は泣きたい気持ちに襲われた。昼前には心の限界に達して、部屋に戻ると涙を流した。
二日目は知恵を絞って、ダンボールに『静岡 伊豆 修善寺まで』と書いて掲げた。すると車の通りが少なくなった時に車が停まった。人生初のヒッチハイク成功。この時はたまたまその人が伊豆へ行く予定だったが、僕は車さえ停まってくれれば必ず行き先まで乗せていってくれるものだという考えを再びヒッチハイクをする時まで抱いていた。
初めてのヒッチハイクが成功して僕は自信が付いた。それで夏休みは東京から徳島までヒッチハイクで帰ってやろうという野望を抱いた。
……という話を福島に着くまでの間に話した。運転手の男はサングラス越しで表情は分からないが楽しんでいるようには感じた。
「それじゃ、これが人生初のヒッチハイク? 徳島へ帰るまでの」と男は言った。
「いえ、今は三年生だから三回目です」
「ふぅん、面白い事をするんだね。俺もやってみたいよ」
限りなく100%に近い確率で彼はやらないだろう。
僕は郡山で降ろしてもらい、男に礼を言った。
「泊まるところはある?」と男は言った。
「その辺で寝ます。夏だから」
「若いね」
「そっちもまだ若いですよ」
「そうかな」
男がサングラスを外した。サングラス詐欺だ。男はどう甘く見積もっても30は越えていた。40代でも通じるかもしれない。大きなサングラスとヒゲの薄さが年齢を隠していた。
「20代でも通じますよ」
僕は最後にお世辞を言って、そそくさと別れた。彼は嬉しそうな顔で僕を見送ってくれた。
もう夕方になっていた。僕はイニシャルMのハンバーガー屋に入って、照り焼きバーガー二つと烏龍茶を夕食にすると、人気の少なそうな公園を探した。
公園はすぐに見つかった。僕は公園の芝生にバスタオルを敷いて寝転がるとバッグを枕にして眠った。
3 そろそろ西へ
僕は公園の水道で服を洗って乾かすとヒッチハイクを始めた。
『とにかく西へ』
そう書いた紙を持って半時間ほど道路に立っていると中型トラックが止まった。僕は助手席に乗り込んで配送ルートに乗っけてもらった。
ヒッチハイクの初心者が陥りやすい罠はトラックの運転手はみんな気が良いやつらでヒッチハイカーを乗せてくれるはずだという思い込みだ。その思い込みは半分当たって、半分外れている。
トラックの運転手はみんな気が良いやつらというのは正解だ。しかしヒッチハイカーを乗せれば配送が遅れるし、事故でもしたら保健やら何やらがあるので、たいていの会社はヒッチハイカーを乗せることを禁止している。何故僕がそれを知っているのかというとトラックの運転手が教えてくれたからだ。
その運転手はどうして僕を乗せてくれたのか。会社に対する嫌がらせだそうだ。僕はそれ以来、気の立っているトラック運転手を見ると声をかけている。すると彼らは会社に対する嫌がらせのために僕を乗せてくれた。僕はトックに乗れるし、彼らは会社に鬱憤を晴らせる。Win-Winの関係だ。
トラックが運んでいたのはラーメンの麺で、昼になると運転手がラーメン屋で喜多方ラーメンを奢ってくれた。
そのあと僕達はラーメンの店を何軒か回った後に、会津に行った。もう夕方が近くなっていたので、車の通りが良さそうな場所で彼は降ろしてくれた。
白虎隊が永眠する場所で僕は一夜を過ごした。静かな場所だったせいか良く眠れた気がする。僕は本気で霊を信じている方ではないが、そのまま立ち去るのは気が引けて、白虎隊のお墓に手を合わせながら、今日も良い車がひっかかるように手を貸してくださいと祈った。
服を水で洗って乾かしている間に、僕は近くの定食屋でサバ定食を食べた。普段は皮を食べないが、旅先だと食べてしまうのは不思議だ。みそ汁に入っていたワカメの茎もぽりぽりと食べてしまう。
腹ごしらえを済ませて、服の乾き具合を確かめると、まだ半乾きだったので近くにあるサザエ堂に登った。誰ともすれ違わずに上り下りできるという触れ込みだったが、僕一人だけだったので誰ともすれ違わなかった。
太陽が空の高い場所に登ると人が増えて観光地らしくなった。でも浮かれている人は少なかった。次の行き先で頭がいっぱいなのだろう。僕は誰にも話しかけられずに日陰で人の流れを追っていたが、その中にヒヤリとする空気を持った人が現れた。
その人は髪が全部真っ白で、腕は僕の半分もない細さだったが、明らかに僕より強いと悟らせる雰囲気を放っていた。もし竹刀を持っていたとしても僕は打ち込めないだろう。
その人は真っ直ぐ僕に向かってきた。殺されるかもしれないと感じて、僕は逃げようとしたが、まさかこんな場所で切られることもあるまいと思い直して、じっと座り続けていた。
すると彼は僕のそばまで来て、手刀で僕の頭を軽く打ち「常在戦場!」と小さく一喝してから話しかけてきた。
「何をされているのですか?」
「あなたこそいきなり何をするんですか」と僕は言った。いきなりのことで全身の血がドクドクと音を立てている。
「一応の勝負は着けないと思いまして。あなた、もしかして武道の経験がおありではございませんか?」
「えっ、ああ……高校まで剣道をしていました」
「道理で。お若いのに熱心ですな。私はいつ切りつけられるのかとヒヤヒヤしておりました。最近はどうもスポルツの気が多くて、常在戦場という言葉は薄っぺらい物になりました。なかなか見どころのあるお方だったので、私もつい手が出てしまいました。申し訳ない」
老人は綺麗な角度で頭を下げた。美しい身のこなしに僕は仕返しに頭を叩いてやろうという気が失せてしまった。
「ところで何をされているのですか?」
また最初の質問に戻った。
「ヒッチハイクで旅をしているんですよ」と僕は答えた。
「ヒッチハイク?」
老人はヒッチハイクの意味が分からないようだった。
「えーと、ですね。道路で親指を立てて、いや、立てないこともあるから、う~んと、話しかけることもあるんですよ」と僕もなかなか説明することは難しかった。色々と言葉を重ねたあげく、結局最後に「要は車に乗せていってもらうということです」と僕は言った。
「世の中色んな人がいるものですな」と老人は言った。いきなり手刀で頭を叩いてくる人もなかなかいませんよ、という言葉は胸にしまい込んだ。
「どこまで行かれるのですか?」と老人が言った。
「目的地は徳島ですが、とりあえずは西へ」
「新潟まで?」
「通ることにはなるでしょうね。それからずんずん西へ行って……まぁ何とかなるでしょう」
「私は新潟から来ました」
「そうなんですか」
「今日はもう帰りますから、乗せていってあげましょう」
いきなり手刀で頭を叩かれて、僕は躊躇したが、結局は「ありがとうございます」と礼を言った。その時うかつにも頭を下げたのだが、また手刀が降ってくるかもしれないと思い直して、僕は慌てて頭を上げた。老人はニッコリと笑っていた。
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ある日突然主さんに捨てられたが、偶然そこを通りかかった真論君に拾われる。
名前はミータンに変わり、首には赤い首輪が付いた。エサは毎日くれるがカツオブシはケチり気味のようだ。
しばらく真論君家の猫として暮らしていたが、それにも飽きて家を抜け出したある日、ミータンは隣の家で飼われているサバ猫のサバトンさんに導かれて家の裏山で開かれている猫の集会へ行き、そこで新たな猫達と出会う。
『真論君家の猫』が他の小説と異なる点は、その独特な視点とテーマにあります。主に以下の三つの要素が際立っています。
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1 吾輩とはどんな猫?
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タクヤと登場人物の関係について
1. ジンジャー(猫)
タクヤの旅の最も象徴的な同行者が猫のジンジャーである。ジンジャーとの出会いは偶然だが、次第にタクヤにとって不可欠な存在となる。当初、ジンジャーはタクヤにとって「負担」であり、旅の障害の一つとして描かれる。彼はジンジャーを捨てようと考えるが、その度に思い直し、結局は面倒を見ることを選ぶ。このプロセスを通じて、タクヤの内面には次第に「責任感」や「他者への愛情」といった感情が芽生える。ジンジャーがいることで、タクヤは自分が完全に孤独ではないこと、誰かのために存在することの意味を理解していく。
2. ケイト・クライン
アメリカから来た女性旅行者・ケイトは、タクヤの旅における重要な人物である。元「シトラスクィーン」という栄光を持ちながらも、人生に満足できずに日本を旅するケイトと、社会に適応できずに彷徨うタクヤは、表面的には異なる背景を持つが、根底では「居場所を探す者同士」という共通点を持っている。二人は言葉や文化の壁を超えて互いに心を開き、時には微妙な緊張感を伴う関係として描かれる。タクヤはケイトの過去を知ることで、彼女もまた「完璧な存在」ではないことを理解し、互いの弱さを認め合う関係へと発展していく。ケイトはタクヤに「他者とつながることの意味」を教え、タクヤはケイトに「誰かに頼ることの重要性」を気付かせる存在となる。
3. サナゴウチさん
タクヤが旅の途中で出会うギターを弾く男・サナゴウチさんは、タクヤにとって「自由人」の象徴である。彼はタクヤに対して軽妙な会話を投げかけ、自分の価値観に縛られない生き方を見せる。借金を抱えながらも楽天的に生きる彼の姿は、タクヤにとって一種の衝撃であり、同時に羨望の対象でもある。サナゴウチさんはタクヤにとって「社会の外でも生きられる」という可能性を示す存在であり、タクヤは彼との交流を通じて「失敗」や「挫折」も人生の一部であることを学ぶ。しかし、彼の無責任さや刹那的な生き方には限界があることもタクヤは気付き、最終的には自分自身のバランスを見つけるための一つの対比としてサナゴウチさんの存在が位置付けられる。
4. まさやん
漁師のまさやんは、タクヤの旅におけるもう一人の重要な人物である。彼は豪放磊落な性格で、気前が良く、タクヤとケイトを助けることも多い。まさやんはタクヤにとって「現実的な強さ」を象徴する存在であり、彼の明るさや包容力はタクヤに安心感を与える。しかし、まさやんの存在はタクヤにとって微妙な感情も呼び起こす。特にケイトとまさやんの関係が親密になっていく過程で、タクヤは「嫉妬」や「孤独感」といった感情に直面することになる。まさやんはタクヤにとって「理想の大人」の一面を持ちながらも、自分にはなれない存在であることを痛感させる存在でもある。
タクヤが求めているもの
タクヤが求めているものは、『TURN WORLD』全体を通じて多層的に描かれており、彼の内面の葛藤と成長が物語の核となっている。彼の求めるものは一言で表すのが難しいが「自己の存在意義の確認」「社会からの逃避と再定義」「他者との関わりの模索」の3つに集約できる。
1. 自己の存在意義の確認
タクヤは社会に適応できない自分を「駄目な人間」と認識している。しかし、その自己認識は単なる自己否定に留まらず、「自分がなぜこうなったのか」「この世界に自分の居場所はあるのか」という問いに繋がっている。彼は社会の中での役割や成功を求めているわけではなく、むしろ「何も役割を持たなくてもいい世界」を夢見ている。これは、自己の存在そのものを肯定してくれる何かを無意識のうちに求めていることを意味している。
ジンジャー(猫)との関係は、この「存在意義の確認」の一つの象徴である。ジンジャーの世話をすることで、タクヤは自分が「誰かの役に立つ存在」であることを実感し、少しずつ自己の存在を肯定していくようになる。ジンジャーは彼にとって単なるペットではなく、タクヤ自身が生きる意味を見つけるための媒介であり、彼の成長の象徴でもある。
2. 社会からの逃避と再定義
タクヤの旅は、社会からの逃避であり、同時に自分自身を再定義するための旅でもある。彼は「この世界を終わらせたい」と願いながらも、その一方で新しい価値観や生き方を探している。社会の規範や期待に縛られることなく、自分自身の価値基準で生きることを模索しているのだ。
旅の途中で出会う様々な人々—例えば、ケイトやサナゴウチさん、まさやん—は、タクヤに異なる生き方の可能性を示してくれる。ケイトは過去の栄光に縛られながらも新たな人生を求めており、サナゴウチさんは社会の枠外で自由に生きる姿を見せる。これらの出会いを通じて、タクヤは自分なりの生き方を見つけるヒントを得るが、それは必ずしも簡単な道ではない。彼は常に「逃げること」と「向き合うこと」の狭間で葛藤している。
3. 他者との関わりの模索
タクヤは基本的に孤独を好む人物だが、完全な孤立を望んでいるわけではない。彼は他者との関わりにおいて「自分を受け入れてくれる存在」を求めている。ケイトとの関係はその典型で、異国の女性である彼女と心を通わせることで、タクヤは「他者との理解」が可能であることを学ぶ。ケイトとの旅は、タクヤにとって「自分が他者とどう関わるべきか」を探る機会となっている。
一方で、タクヤは他者との関係においてしばしば「依存」と「自立」のバランスに悩む。ミワとの関係では、この問題が顕著に表れる。ミワとの依存的な関係が崩壊することで、タクヤは「他者に依存し過ぎること」の危険性を理解し、同時に「孤立しすぎること」の空虚さも痛感する。この二重の学びを通じて、タクヤは「適度な距離感」を持った人間関係の重要性に気付いていく。
最終的にタクヤが求めているのは、「自分自身を受け入れること」と「他者と関わりながらも自立した存在であること」の両立である。彼の旅は、社会の外で自己を見つける試みであり、同時に他者との関係を通じて自分を再発見するプロセスでもある。タクヤの葛藤と成長は現代社会における「生きづらさ」や「孤独」といったテーマを深く掘り下げるものであり、多くの読者が共感を覚える部分でもあるだろう。
『TURN WORLD』のモチーフについて
本作『TURN WORLD』は、現代社会に対する強烈な批評性を持ちながら、人生の迷いや人間の本質を探求する物語である。そのモチーフを紐解くことで、本作が持つ深いテーマや背景を理解することができる。
まず、本作の主なモチーフの一つに「社会の不適合者」というテーマがある。主人公・タクヤは、社会に適応できず、働くことにも生きることにも意味を見出せない青年として描かれる。彼は自分を「駄目な人間」と認識しながらも、その境遇に完全に甘んじるわけではなく、世の中の理不尽さや欺瞞を冷徹に見つめている。この姿勢は、ショーペンハウアーやニーチェの哲学にも通じる「世界の不条理」との対峙の構図を彷彿とさせる。タクヤが旅をすることは、現実世界に対する彼なりの反抗であり、逃避であり、また新たな価値を見出そうとする試みでもある。
また、「社会からの逸脱と新たな共同体の形成」も本作の重要なモチーフの一つだ。タクヤは旅の途中で様々な人々と出会う。例えば、野宿をしている人々や、社会の枠組みから外れた生活を送る者たち。彼らはそれぞれが社会から排除されながらも、独自の価値観を持ち、助け合いながら生きている。これらの出会いは、社会の基準では「敗者」とされる人々が、別の価値観のもとで生きる可能性を示唆している。これは、既存の社会制度や資本主義の枠組みを批判する視点とも結びつき、現代の「生きづらさ」を浮き彫りにしている。
本作の最も根幹にあるモチーフは「世界の終焉」と「再生」だ。タクヤは旅の途中で「この世界を終わらせる」という願いを抱く。しかし、それは単なる破壊衝動ではなく、今の世界に対する深い失望と、新たな世界への希求である。本作では、社会のルールや価値観に縛られた世界が否定される一方で、旅を通じて出会う人々や、タクヤの内面に生じる変化が、新たな世界の可能性を示唆している。この「終わりと始まり」という循環構造こそが、『TURN WORLD』というタイトルの意味にも繋がっているのかもしれない。
主人公タクヤの視点を通じて、現代社会における無力感や疎外感をリアルに描いています。この物語は、タクヤが感じる社会の不条理や理不尽さを深く掘り下げ、個々人の努力や才能が必ずしも報われないという現実を強く描写しています。多くの物語では、努力や信念が最終的には報われる展開が期待されがちですが、この小説では、努力だけではどうにもならない「運」の要素を重視しており、努力至上主義に対する鋭い批判が込められています。
1 BAD WORLD
1 最悪の世界
2 身近な別世界
3 暴かれたこの世の真実
4 幸運の誤謬
5 ああ、素晴らしき世界
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火星へ行こう。
なんだそれは。中二病か? あるいはNASAのプロパガンダ?
違う。これは、人生のメタファーだ。
この小説を読む理由? あるとも、ないとも言える。
でも、わたしは読む。
なぜなら、文章が剥き出しだからだ。
どの小説も“洗練”されすぎている。
安全。
滑らか。
無菌室で育てられた子どものような小説が多すぎる。
その点でこれは異常だ。
文体がたまに崩れる。
主語が抜ける。
視点が迷子になる。
でも、そこで書き手が見える。
ああ、ここで作者は苦しんだな。
書けなかった。けど、書いた。
その“あがき”が、いい。
火星が出てくる。
けどそれは、リアルなSFじゃない。
アポロでもないし、イーロン・マスクでもない。
火星とは、逃避であり、希望であり、
絶望の先にチラつく可能性である。
火星へ行こう。
このフレーズを何度も読み返すと
「あれ、これ自殺願望じゃないか?」と思う瞬間がある。
けれど、違う。
ちゃんと生きようとしている。
読めばわかる。
ぐちゃぐちゃな日々を、どれだけ言葉で拾おうとしたかが。
登場人物? それはもう、どうしようもない連中ばかりだ。
夢を語るには遅すぎた。
でも語るしかなかった。
構成は甘い。
伏線は、張っているようで回収されない部分もある。
でもそれがいいんだよ。
人生に伏線回収なんてあるか? なあ。
この本は、読者に優しくない。
たぶん、途中で投げる人もいる。
でも、耐えて、読みきってほしい。
そうすれば、あの一文に出会える。
「あの一文」——それは、
作者があなたの存在を見抜いた瞬間だ。
読んでいるあなたが、なぜ読んでいるか。
それに応えるような言葉が、唐突に落ちてくる。
たった一行のために読む小説って、ある。
それだ、これは。
言い忘れていたが、これは“いい話”ではない。
でも、“本気”ではある。
「書かずにいられなかった」が全部に染みてる。
読み終えたあと、ちょっと疲れる。
でもその疲れが、悪くない。
体内に残る。ザラザラしたまま。
これは火星じゃない。
これは、地球の話だ。
もっと言えば、今、ここにいる、
あなたの話だ。
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