『流星を打ち砕け』の仮書きノートに『陶器のように白い肌』という月並みな表現を書いた。陶の字が分からなかったので国語辞典で陶器を調べる(ノートは手書きである)と、こう書いてあった。
1.粘土質の土で形を作り、うわぐすりをかけて低火度で焼いたもの。磁器に比べて焼き締まりが弱く多孔質で吸水性があり不透明。備前焼、信楽焼など。 ‐学研 現代新国語辞典より
まず不透明というところで引っかかった。陶器のように白い肌というのは、幽霊みたいにのっぺりした白さではなく透き通った透明感のある肌のことだ。特徴として不透明とも書かれているから、この表現は正しくない。それに多孔質ということはザラザラの肌ということで全然美しくない。陶器のように白い肌の持ち主と信楽焼のタヌキは月とすっぽんぐらい違うはずだ。
参考に磁器というのがあるので、こちらを調べてみると、こう書いてあった。
陶土で形を作り、うわぐすりをかけて高温で焼いた焼き物。焼き上がりは素地がガラス化して半透明となり吸水性がほとんどなくなる。
透明感があるので『磁器のように白い肌』と表現する方が正しい気がする。しかしそんな表現は見たことも聞いたことがない。それでもう一度陶器の欄を見ると陶器・磁器の総称とある。ということは磁器は磁器だけにしか使われないが、陶器は陶器・磁器両方に使えるということだ。
なぜ磁器が比喩に使われないのかと考えてみるに、おそらく磁器は高温で焼く必要があるから技術的に作るのが難しく庶民には馴染みのない物だからだろう。確かに磁器のように白いという表現は妙な感じがする。陶器・磁器の違いを調べていると白磁という比喩を見つけたのだが、それもやはりピンとこなかった。白磁とは字の通り白い磁器のことである。それも真っ白なやつ。我が家の真っ白な皿といえばヤマザキ春のパン祭りで貰ったお皿しかない(おまけにヤマパン皿は磁器でも陶器でもなく強化ガラスらしい)。やっぱり磁器は庶民になじみのない物なのだ。
しかし、何故『陶器のように白い肌』が月並みな表現になるほど普及したのかという疑問が湧いた。陶器が綺麗な肌の形容になるはずがないからだ。
陶器についてgoogleで検索して色々読んでみる。それで気付いたことがある。釉(うわぐすり)の存在だ。陶器の説明にも釉を塗って焼くと書いてある。
釉を国語辞典で引くと
光沢やなめらかさを与え、水をはじかせるために、素焼きの陶磁器の表面に塗るガラス質の薬。
と書いてあった。光沢、なめらかさ、水を弾く。どれも綺麗な肌を形容するイメージだ。ワラ灰を釉薬にすると白色になることも分かった。ワラならどこでも手に入るだろう。ということは白の陶器は庶民的で、どこにでもあったはずだ。それなのに今はあまり見ないのは、現代人がありふれた白さに飽きて色や柄を求めたからだろう。よくよく考えてみれば『陶器のように白い肌』という比喩は月並みであるだけ時代も感じさせる。とうてい令和に使う表現ではない。
なにはともあれ『陶器のように白い肌』という形容はやはり正しかった。ただし比喩の元となる白さや透明感は陶器自体にあるのではなく、陶器の表面に塗られた釉、上っ面にあるということだ。一皮剥けば美人も髑髏と言うし、うまい比喩だと思った。もしかしたら百年後でも通じるかもしれない。
(おわり)
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