これは、ひきこもり恋愛小説の皮をかぶった、現実と自己像をめぐる救済と喪失の小説です。いちばん強いのは設定ではなく、るかとたくぴの掛け合いが作る文体そのものです。冒頭で、るかは「変身とは世界に負けないための儀式」としてアイドルになる。対してたくぴは、世界一のアイドルの横でポイ活アンケートをしている。この落差だけで、作品の宇宙が一気に立ち上がります。

 この作品の本当の主役は、筋ではなく声です。るかの暴走する比喩、たくぴの妙に論理的な屁理屈、その往復がずっと面白い。しかもその笑いは、単なる会話劇の軽さではない。たとえば、たくぴはアンケート不正をしない理由を妙に真面目に語り、るかはそれを「小さいところでマジメで、大きなところで」と切る。この一撃で、たくぴという人物の倫理と破綻が同時に見えてしまう。人物説明を長々とするより、会話の一往復で人間を立ち上げる力がある。

 もう一つうまいのは、生活の細部がそのまま人物造形になっているところです。ジョージアエメラルドマウンテンへの異様なこだわり、ポイ活の広告六倍、散歩二万歩、ハワイアンピザ、髪型の参照先が阿部寛、こういう細部が全部ただのネタで終わっていない。たくぴは大きな社会では失敗しているのに、小さな手順だけは異様に正確で、そこに生のねじれが出ている。つまりこの小説は、社会的には壊れている人間が、局所的にはむしろ過剰に秩序的であるという逆説を、かなり上手く書いています。

 そして題名にも入っている「るか」が、ただのヒロインではないのがこの作品の芯です。前半のるかは、恋人であり、ツッコミ役であり、妄想であり、たくぴの生をぎりぎり人間側につなぎ止める装置でもある。二人は「魂のWi-Fi」でつながっていると語られますが、これはギャグであると同時に、孤独な人間の内的対話の比喩でもある。るかがいるあいだ、たくぴは社会に適応できなくても、言葉の内部ではまだ世界とつながっていられる。ここがすごく切ない。

 だから、第九章から第十章にかけての転換は、この小説の最大の勝負どころです。DQNに襲われた夜、たくぴはるかに「消えてくれ」と言い、るかは「愛してる」と告げて消える。そこから章が改まり、語りが「私」から「俺」に切り替わる。これは単なる技巧ではなく、前半の祝祭的な文体が剥がれ落ちる瞬間です。読者はここで初めて、るかが現実をキャンセルするための幻でもあり、同時にたくぴの生存そのものを支えていたことを思い知る。かなり痛い転換ですし、作品が本気である証拠でもあります。

 この転換以後、作品はラブコメの顔を残しつつ、社会小説の方へ深く沈んでいきます。光の翼、就労、株、地方の空気、疑似的な所属、成功者への嫉妬、そして豊臣秀夫へのねじれた同一化。たくぴは豊臣秀夫を嫌悪しながら、底の方で同種だと感じている。この感覚は、敗者が勝者をただ憎む話ではなく、敗者が勝者の内部に自分の歪んだ可能性を見る話になっている。そこが安っぽくないです。豊臣の破滅を「もう一人の俺が死んだよう」と感じる箇所は、この小説がただの引きこもり譚ではなく、失敗した才能論まで踏み込んでいることを示しています。

 とくに「マイナスの才能」という発想は、この小説の思想的な核です。たくぴは、何もしないことで世界への加害をゼロにしているのだと言う。もちろんこれは自己神話でもあるし、自己正当化でもある。でも、ただの言い訳として片づけにくい迫力がある。なぜなら彼は本当に、自分が壊れていることも、社会に出たくないことも、同時に社会へ未練があることも、全部知っているからです。この自己認識のねじれが、たくぴを弱いだけの人物にしていない。

 また、「現実禁止」という反復モチーフの使い方もいい。これは一見すると、徳島のバンクシーをめぐる悪ふざけです。けれど作品全体で見ると、るかの「現実をキャンセルする」とたくぴの社会不適応、その二つをつなぐ旗印になっている。現実を禁止したいのは、世界を嫌っているからだけではない。現実の側が先に、自分を禁止していると感じているからです。だからこの標識は、ただのシュールな記号ではなく、社会から締め出された者が掲げる逆看板として読める。

 終盤の「ハワイ」も、ずっと冗談みたいに反復されてきたのに、最後には生の肯定へ変質します。前半では「資格がないとハワイには行けない」と言っていたたくぴが、終章では病床で「資格なしで行ってもいい」と言う。ここはうまいです。ハワイは観光地ではなく、現実の手前にある象徴でした。行く資格がないと思い込んでいた人間が、資格なしでも行っていいと認める。その一歩が、この小説におけるもっとも小さく、もっとも大きな救済になっている。

 ただし、欠点もあります。後半は野心が大きいぶん、少し詰め込みすぎです。就労パート、研究所、株、豊臣秀夫、病、ハワイまで全部抱え込むので、前半の「たくぴとるか」という密室的な強さが薄まる箇所がある。豊臣秀夫まわりの風刺は面白いけれど、時に小説の肉声より作者の問題意識が前に出る瞬間もある。前半の異常な会話の磁力が強すぎるので、後半はどうしても比較される。その意味で、この作品の最強地点は前半にあります。

 でも、その弱点を含めても、この小説には忘れにくいものがある。なぜかと言えば、たくぴは単なる社会不適応者ではなく、るかは単なる妄想彼女ではないからです。二人は、現実に敗けた人間が、それでも言葉の中でだけは世界と和解しようとする時に生まれる、一つの文体そのものです。だからこの作品は、設定を説明すると変な話に見えるのに、読んでいるとだんだん真顔になる。ここに文学があります。

 結論をはっきり言うと、「たくぴとるか」は完成度の均質さより、声の強度で読むべき小説です。前半はとても強い。後半は荒い。けれど、その荒さは失敗というより、作者が小さくまとまるのを拒否した跡に見える。うまく整った小説より、一段深く刺さる可能性があるタイプです。少なくとも、たくぴがるかを失って「俺」になり、それでも最後にハワイへ行こうとするところまで読むと、これはただの奇矯な恋愛譚ではなく、生きる資格をめぐる小説だったのだと分かります。