そのジャンクノートを見つけたとき、値札には「500円 起動未確認」とだけ書いてあった。
 秋葉原のはずれの、雨どいの錆びたビルの二階。床ぎしぎしのジャンク屋。いつもどおり、俺は棚の一番下をしゃがみこんで漁っていた。

 黒いビジネスノート。天板には会社のロゴがこすれて残っている。ヒンジはまだ生きているし、キーボードも極端にテカってはいない。ACアダプタは「なし」。CPUやメモリのスペックは貼ってもない。店主いわく「会社からまとめて来たやつで、中身そのままらしいよ。壊れてるかもしれないけど」。
 その「中身そのまま」という一言で、俺の中のスイッチが入った。

 法律的にはグレー、倫理的には真っ黒。そんなことは分かっている。それでも、誰かの仕事机をひっくり返すみたいに、見知らぬ人のPCの中身を覗ける、あの暗い喜びを、俺はもう知ってしまっている。

 500円玉をひとつレジに置くと、店主はビニール袋もくれなかった。ノートPCをそのまま脇に抱え、俺は人混みの中をすり抜けて帰った。

     *

 部屋に戻ると、まずは儀式だ。
 作業机の上を軽く片づけ、いつものLubuntu入りUSBメモリを差し、ジャンクノートの底面に手を滑りこませてバッテリーを抜き差しする。通電確認。ACアダプタは手持ちの汎用を合わせた。

 電源ボタンを押す。
 ファンがかすかに回り、古いBIOSのロゴが出る。
 ――生きてる。

 F12を連打して、USBからブート。あくまで最初は内蔵ディスクには触らない。OSが立ち上がるまでの数十秒、俺はディスプレイに映るノイズ交じりのロゴを見つめる。
 デスクトップが出たところで、ターミナルを開いて lsblk を叩く。

 / dev /sda 238G
 それなりのSSDが入っているらしい。

 ここで一度、深呼吸する。
 ――本当はいけない。分かっている。
 でも、起動ディスクを抜いて、すべてを上書きしてしまうには、まだ早い。

 マウントは読み取り専用にする。sudo mount -o ro /dev/sda2 /mnt
 「見てるだけ」。自分にそう言い訳しながら。

 / mnt を開くと、Windowsではなく、/home /var /etc が並んでいた。つまりこのPCはLinux機だ。
 さらに息が少し弾む。Linuxユーザーは、だいたいログをよく残している。

 俺はまず /var/log に潜った。

 ls /mnt/var/log
 auth.log
syslog
apache2
journal
 ……きれいに残っている。

 この時点では、よくある「小さな会社のサーバー兼デスクトップ」くらいのイメージしかなかった。情シス担当が兼業で管理していた、あるいはフリーのエンジニアが自宅で案件を回していた。
 そんなありがちな背景を適当にでっちあげながら、俺は auth.log を less で開いた。

 スクロールする文字列の海の中、最初の「異物」はすぐに見つかった。

 Feb 3 21:14:07 hostname sshd[2134]: Failed password for illegal user root from 45.xxx.xxx.xxx port 48172 ssh2
 Feb 3 21:14:12 hostname sshd[2134]: Failed password for illegal user test from 45.xxx.xxx.xxx port 48172 ssh2
 Feb 3 21:14:17 hostname sshd[2134]: Failed password for illegal user admin from 45.xxx.xxx.xxx port 48172 ssh2

 中国系レンジからのブルートフォース。これはどこのサーバーでもある光景だ。特別でもなんでもない。
 ただ、その後に続く行が、少しだけ違っていた。

 Feb 3 21:15:02 hostname sshd[2178]: Accepted publickey for sensei from 106.xxx.xxx.xxx port 53422 ssh2
 ユーザー名「sensei」。IPアドレスは国内の光回線っぽい。

 ログを少し戻すと、ユーザー一覧を追加した形跡が出てきた。

 useradd -m sensei
 usermod -aG sudo sensei

 ――先生?

 このとき、俺の中でのこのPCの姿が、初めて変わった。
 最初の新事実だ。

 それまで「どこかの会社のエンジニアのマシン」と思っていたものが、急に教室の匂いを帯びる。
 「sensei」というユーザー名。
 ログをさらに追うと、/home/sensei の中に「students」というフォルダがあり、その中には十数人分のディレクトリがあった。
 /home/sensei/students/ayaka/
 /home/sensei/students/naoki/
 /home/sensei/students/taku/

 それぞれの中には、C言語のソースファイルや、Pythonの課題らしきスクリプト、レポートのPDF。
 「for文の課題」「ポインタの復習」みたいなファイル名が並ぶ。

 ――ああ、これ、プログラミング教室か。

 目の前のジャンクノートが、突然、狭い教室と白いホワイトボードを背負うようになった。
 夜のショッピングセンターの一角か、商店街の二階か。パイプ椅子に座った高校生たちが、眠そうな目でキーボードを叩いている。
 そこにいる「先生」が、このマシンの持ち主だった。

 俺は、その勝手な映像を頭の中に流しながら、/home/sensei に戻り、.bash_history を開いた。
 sudo apt update
 sudo apt install code
 journalctl -u apache2.service

 特別なことはしていない。やさしい。初級者にLinuxを教える先生らしい優しいコマンドの履歴だ。

 ――やめるなら、今だぞ。

 一瞬そんな声が頭に浮かぶ。
 生徒の課題ファイルを覗くことは、教師の机を漁るよりもタチが悪い気がした。それでも、指は止まらない。
 暗い喜びは、もう喉の奥まで来ている。

     *

 ふたつめの転換点は、/var/www の中にあった。

 /mnt/var/www/html/ を覗くと、「index.php」「login.php」「result.php」という、いかにもなPHPファイルが並んでいる。
 cat index.php で中身を確認すると、それは教室のトップページらしい。
 「○○町プログラミング教室」――地名がそこに書いてあった。
 ググればすぐに地図も画像も出るだろう。でも、そこまではしない。それをやったら本当に戻れない気がしたから。

 俺は result.php を開いた。
 そこには「模擬試験結果閲覧システム」と書かれている。
 セッションにログインした生徒が、自分の得点と順位を閲覧できる簡単なサイトだ。

 コードの下の方に、こんなコメントがあった。

 // TODO: 合格ラインに届かなかった子には、励ましのメッセージを表示すること

 そのコメントの優しさに、なぜか胸がちくりとした。
 先生はちゃんとしていた。少なくとも、このコメントを見る限り。

 そしてその直後、俺はログフォルダに「backup」と名の付くディレクトリを見つけた。
 /var/www/backup/
 その中に「result_2024-02-01.sql.gz」というファイル。
 模擬試験のデータベースバックアップだろう。

 俺は gz を展開し、中身のSQLをざっと眺めた。
 テーブル名「students」「scores」。
 名前、学校名、受験予定の高校、偏差値、模試の得点。
 そして、一番右端のカラムに「note」というフィールドがあった。そこには、先生からの短いコメントが入っていた。

 「計算ミスが多い。落ち着いて解けば合格圏」
 「英語は十分。数学をあと10点」
「お母さんに言えないことがあったら、いつでも話していい」

 最後の一行を見たとき、俺は画面から目をそらした。
 そこに書かれている「お母さん」は、たぶんもう教室から姿を消した誰かの、台所の影のことだ。
 その家庭に、俺は何の関係もない。にもかかわらず、その秘密の一端を、こうして500円で買ってきた。

 ――本当にやめとけ。

 頭の中の理性は、さっきよりずっと強い声で言った。
 けれど、それを上回る好奇心が、次のファイル名を選ばせる。

 backup フォルダの中に、ひとつだけ拡張子の違うファイルがあったのだ。
 「diary_2024-03.enc」

 日記。
 ただし暗号化されている。

 file diary_2024-03.enc を叩くと、「OpenSSL encrypted data」と出た。
 パスフレーズが分からなければ開けない。普通はそこで諦める。

 でも、そのすぐ横にもうひとつ、奇妙なファイルがあった。
 「diary_key.txt」

 開いてみると、一行だけ、こう書かれていた。

 「same as wifi password」

 ――悪い冗談だろ。

 俺は /etc/NetworkManager/system-connections に向かった。
 そこにあった「sensei-home.nmconnection」を開くと、「psk=」の行に、平文のパスワードが書いてある。
 その文字列をコピーして、openssl enc -d -aes-256-cbc -in diary_2024-03.enc -out diary_2024-03.txt
 Enterキーを押す指は、若干震えていた。

 展開されたテキストは、大した装飾もない、生々しい日記だった。

 「3月5日 今日、Aちゃんのお母さんから教室を続けられないかもしれないと相談された。遠くの病院に通うことになったらしい……」
 「3月10日 夜、うっかり生徒用ページにSQLインジェクションの穴を残していたことに気づく。誰も攻撃してこないのは田舎だからか、ただの幸運か」
 「3月15日 このPCをどうするか考えている。ローンもあるし、教室ももう潮時かもしれない。もし手放すなら、ディスクは全部消すべきだ。でも、自分がここで悩んでいたことを、どこかの誰かに見つけてほしいと思ってしまう。こんなことを思うのは、教師として最低だ」

 ここで、ふたつめの新事実が、嫌な形で胸に落ちてきた。
 このPCは、単なる「仕事の道具」ではない。
 ――持ち主自身の、逃げ場だった。

 日記は、教室の家賃と光熱費の計算、ローン残高、親から借りた金の額、そして「生徒たちを裏切るような形で教室を畳んでしまう罪悪感」で埋め尽くされていた。
 途中からは、「病院」「検査結果」「再発」という言葉が増え始める。誰の病気なのかは明記されていない。Aちゃんの母親か、先生自身か、あるいは別の誰かなのか。

 俺は気がつくと、椅子の背にもたれかかっていた。
 画面を見ているのがつらくなったからだ。

 「どこかの誰かに見つけてほしい」

 その一文が、時間をまたいで、今まさに俺の目に届いている。
 見つけてしまった「どこかの誰か」は、秋葉原で500円の札を見つけて喜んでいたただのジャンカーで、教室とも生徒とも何の関わりもない。
 でも、先生はたしかに、見つけてほしかったのだ。

 それを考えた瞬間、俺とこのPCの関係は、きっぱりと変わった。
 「盗み見」ではなく「遺品整理」に近い感覚が、じわじわと忍び寄ってくる。
 勝手な理屈だ。自己正当化だと分かっていても、そう思わないと、この先のページをめくれなかった。

     *

 最後の転換は、もっと後ろに隠れていた。

 日記の最終ページには、日付が書かれていない。
 代わりに、こんな一文があった。

 「このPCを手放すと決めた。
  HDDやSSDは、本当は業者に渡す前に叩き壊すべきだと、何度も生徒に教えてきた。
  だから、その禁を破ることに、言い訳が必要になる」

 そこから先は、まるで俺に向けた説明文のようだった。

 「もしこれを読んでいる人がいるとしたら、その人はきっと、私と同じ種類の人間だろう。
  壊れたものを拾ってきて直したり、分解したり、中身を覗いたりすることに耐えられないほどの興味を持っている人」

 ――やめろ、と心のどこかが言った。
 やめろ、俺を知っているみたいな書き方をするな。

 「私は、そういう人に興味がある。
  そして、そういう人だけが理解できるメッセージを、ここに埋めておこうと考えた」

 日記はそこでスッと終わっている。
 その代わりに、/home/sensei の直下にある、ひとつの隠しファイルの存在が、急に気になった。

 .junk_note

 さっき ls -a したときにも目に入っていたが、特に意識はしていなかった。
 その名前に、今は意味がまとわりついて見える。

 cat /mnt/home/sensei/.junk_note

 そこには、短いテキストと、ひとつのURLが書かれていた。

 「ジャンカーの君へ。
  もしここまで辿り着いたなら、/var/log の一番古いファイルの日付を、下のフォームに入力してみてほしい。
  もしかすると、君の方が私よりも、ずっと上手にこのPCを扱えるかもしれないから」

 URLは、さっき見た教室のドメインとは違う、フリードメインのサブドメインだった。
 https://junk-lab.example.net/door.html みたいな、簡易なサイト名。

 俺は唾を飲み込んだ。
 これはもう、完全に俺個人への「釣り」だ。
 このPCをジャンクとして買い、起動し、内部をマウントし、ログの一番古い日付まで見た人間だけが到達する条件式。

 ――アクセスしたら、IPが向こうに残る。
 そんなことは分かりきっている。
 何者か分からない人間に、自分の足跡を差し出すことになる。最悪、犯罪絡みの何かだったら、俺はとんでもないものを踏むかもしれない。

 それでも、指はブラウザを開き、URLを打ち込んでいた。
 暗い喜びは、もう倫理とか安全とかいう言葉を軽く追い越している。

 LubuntuのFirefoxが、白いページを表示した。
 そこには、テキストボックスと、「送信」ボタンがひとつ。
 「最古のログの日付(YYYY-MM-DD)」と書かれている。

 俺は /var/log/dmesg.0 のヘッダを再確認し、「2021-06-15」と打ち込んで送信を押した。

 ページが一度リロードされ、テキストが表示される。

 「ようこそ、知らない君へ。
  ここまで辿り着いてくれて、ありがとう。
  私はたぶん、もうこの世にはいない」

 胸が強く締めつけられた。
 心臓の裏側に冷たい手を突っ込まれたような感覚。

 「このメッセージは、サーバー側のスクリプトが、一定期間更新がなかったら自動的に『もうこの世にはいない』と書き換えるようにしてある。
  だから本当に死んでいるのか、ただサーバーのメンテナンスを忘れただけなのか、自分でもよく分からない」

 画面のこちらで、俺は乾いた笑いをもらした。
 くだらない仕掛けだ。でも、そのくだらなさに、どうしようもない人間の匂いがする。

 「君がこのPCを開いたことを、私は責めない。
  むしろ、そのためにログを残し、日記を暗号化し、鍵を半分だけ隠した。
  君が『本当はいけない』と思いながらも、たぶんそれをやるだろうと、私は勝手に確信している」

 そこまで読んだところで、俺は自分の肩が小さく震えていることに気づいた。
 怒りでも、悲しみでもない。
 ただ、自分が丸裸にされているような、不快と快楽が混ざった震えだった。

 「君がジャンカーであることを、私は尊敬している。
  壊れたものを拾う人がいなければ、世界はすぐにゴミで埋まるから。
  君がこのPCをどう扱うかは、君に任せたい。
  完全に消して、新しいOSを入れてもいいし、このままログの墓場として棚に戻してもいい」

 最後に、こう締めくくられていた。

 「ひとつだけお願いがある。
  いつか君が、別の誰かのPCを覗きたくなったとき、
  『その向こうにも、どこかのジャンカーを想像した誰かがいる』と、ほんの少しだけ思い出してくれたら、それでいい」

 その瞬間、三つ目の新事実が、静かに形になる。

 ――このPCは、最初からジャンカーに拾われることを前提に、設計されていた。

 教室用のサーバーであり、日記の箱であり、そして終わりには、俺のような人間に向けたメッセージボトルになるよう、持ち主はわざと矛盾したことをした。
 ディスクを完全には消さず、かといって丸裸にはせず、ちょっとしたパズルを挟んで、好奇心の強さを試すように仕掛けた。

 このPCは「ゴミ」ではなかった。
 どちらかというと「遺書」に近い。
 500円で手に入る遺書。
 俺は今、その受取人にされてしまった。

     *

 画面を閉じると、部屋の静けさが一気に押し寄せてきた。
 窓の外では電車の音がしている。壁の薄いアパートの隣の部屋からは、テレビのバラエティ番組の笑い声。

 机の上のジャンクノートは、さっきまでよりもずっと重く見える。
 五百円玉がこんな重さに変わるなんて、誰が想像しただろう。

 俺はUSBメモリを抜き、電源ボタンを長押ししてPCを落とした。
 SSDの内容は、そのままにしておく。
 今消してしまったら、さっき読んだものすべてが嘘になる気がした。

 ――これはもう、ただの「素材」じゃない。

 次にまたジャンク屋でPCを手に取るとき、きっと俺は思い出すだろう。
 ディスクの向こう側に、どこかの教室と、ローンの計算と、病院の待合室と、そしてジャンカーを想像していた誰かがいたことを。

 倫理的に見れば、俺は今日も最低だ。
 本当はいけないことをして、勝手に感傷に浸っているだけだ。
 それでも、その暗い喜びの中に、わずかな敬意と、奇妙な連帯感が混ざってしまった以上、もう昔のようにはログを漁れない。

 机の引き出しから、油性ペンを取り出す。
 ジャンクノートの天板の隅に、小さく書き込んだ。

 「2025 拾得。ログ、まだ生きてる」

 それはたぶん、いつか俺のPCを拾うかもしれない、どこかのジャンカーへの、ごく控えめな挨拶だった。