ニーチェとバタイユの思想は、時代も表現も異なるが、どちらも「理性による秩序の外側」にあるものを見つめ続けた点で深く通じ合っている。ニーチェは19世紀の終末に、近代合理主義とキリスト教道徳を「生命を抑圧するもの」として告発し、力と創造の哲学を打ち立てた。バタイユは20世紀の戦争と虚無の時代に、ニーチェの遺産を受け継ぎつつ、それを「エロスと死」の体験として極限まで押し広げた思想家である。二人はともに「神の死」以後の世界で、理性を超えた領域──聖なるもの、暴力、快楽、犠牲──を哲学の中心に据えた。
ニーチェにとって、近代とは「デカルト以降の理性の過信」に支配された時代だった。善悪を二項で分け、上と下、理性と感情、男と女、主体と客体とを切り分ける構造の中で、人間の生は細かく管理されていく。彼はその構造を「奴隷道徳」と呼んだ。弱者が自らの無力を正当化するために、強さや欲望を悪とし、従順や禁欲を善とする。その結果、人間は生命の根源的なエネルギー──「力への意志」──を否定し、自らを萎縮させる。ニーチェはこの抑圧の構造を突き破る存在として「超人」を構想した。超人とは、価値の根拠を外部(神や道徳)に求めず、自ら創造する者である。彼の笑いは、世界を肯定し直す力であり、悲劇を含めて「生をイエスと言う」力であった。
一方のバタイユは、ニーチェの「超人」的肯定を、20世紀的な破局の中で受け継ぎつつ、より暗く、より肉体的な方向へと展開した。彼は哲学を「経験の極限」へと導こうとした。理性の限界を突き破るには、思考だけでは足りない。身体、性、死、暴力、笑い、狂気──それらこそが人間を理性の外側へ連れ出す力を持っている。彼はそれを「エロティシズム」と呼んだ。エロスとは単なる性欲ではなく、生の過剰が死と交わる地点、禁忌を侵犯する瞬間の総体である。人間は生きるために秩序をつくるが、同時にその秩序を壊さずにはいられない。「禁忌と侵犯」という緊張の往復こそが、人間存在の根源的な運動であるとバタイユは考えた。
ニーチェの「力への意志」と、バタイユの「過剰のエネルギー(呪われた部分)」は、同じ源を持つ。両者はともに、生命の本質を生産ではなく浪費に見ている。ニーチェは芸術家の創造行為を「豊穣な力の放出」として描いたが、バタイユはさらにその浪費を徹底させ、経済や宗教、国家の秩序に抗う「無駄の哲学」を築いた。『呪われた部分』で彼は、太陽を「純粋な浪費の象徴」と呼んだ。太陽は見返りを求めず、光と熱を放ち続ける。それこそが生命の真理である、と。ニーチェにおける「永劫回帰」は、生を繰り返す歓喜の象徴だったが、バタイユにおいてそれは「消費の循環」であり、エネルギーが生まれ、使われ、死へ還る運動そのものだった。
しかし、二人のあいだには決定的な違いもある。ニーチェが「肯定」に向かったのに対し、バタイユは「断絶」と「崩壊」に向かった。ニーチェの哲学は、神の死の後に新しい価値を創造するための力を探す。彼は破壊ののちに「創造」を見た。しかしバタイユは、創造そのものを疑う。創造もまた秩序であり、生の過剰を閉じ込める檻になりうる。彼が求めたのは、価値が崩壊し、主体が解体される「無の快楽」だった。だからこそ彼は神秘主義者や殉教者、エロスの陶酔者に惹かれた。彼にとって理性の外側とは、「神の不在を恐れず、死と快楽のうちに溶けること」だった。ニーチェが「神なき者の歓喜」を語ったのに対し、バタイユは「神なき者の狂気」を語った。
また、ニーチェにおいて笑いは「超人の表情」であり、悲劇を超えて世界を再び肯定する力だったが、バタイユにおいて笑いは「崩壊の徴候」だった。彼の描く笑いは、理性が砕け、言葉が無意味になり、存在が耐えきれないほどの無限に触れる瞬間に噴き出すものだ。そこには救いはない。ただ、「生きている」という感覚の極限がある。彼の文学的実践──『眼球譚』や『マダム・エドワルダ』──は、まさにその極限を体験するための儀式であった。そこでは、エロス、血、排泄、死が混ざり合い、主体は崩壊し、読者もまた巻き込まれていく。哲学はここで文学と区別がつかなくなる。理性を超えるということは、言葉の秩序さえも越えることだからである。
とはいえ、バタイユはニーチェを単に「越えよう」としたわけではない。むしろ彼は、ニーチェの思想が近代以降の哲学の中で「安全に消化されてしまった」ことに危機感を抱いていた。アカデミックな倫理や文化理論の中で、「ニヒリズムの克服」としてのニーチェが再構成されていくとき、そこから抜け落ちるもの──すなわち血、死、涙、笑い──を回復しようとしたのだ。彼の言葉で言えば、「哲学は生の裂け目を見なければならない」。この姿勢こそ、彼を哲学の外縁に立つ思想家たらしめた。
ニーチェが神の死を告げたとき、それは人間の誕生を意味した。人間が神の代わりに価値を創る時代の始まりである。しかしバタイユは、その「人間中心の世界」をも壊そうとした。彼にとって、神の死のあとに現れるべきは「人間」ではなく、「人間を超えた無名の生」だった。だから彼は、人間を中心に据える人文主義にも背を向けた。彼の思想の終点には、「主体なき体験」──すなわち、死においてしか完全になれない自己超越──がある。そこではもう、超人も神も存在しない。あるのはただ、燃え尽きる光のような「無の祝祭」だけだ。
ニーチェとバタイユはともに「生の哲学者」でありながら、その生を見つめる視線の深度が異なる。ニーチェは生を肯定するために、価値の創造という高みへ向かった。バタイユは生を燃やし尽くすために、底なしの深みへ沈んだ。前者は力への意志、後者は死への意志。だが、その両者のあいだには、同じ熱が流れている──理性の秩序を越えて、生命そのものの奔流に身をさらすという熱である。もし哲学がこの二人によって根本から変わったとすれば、それは彼らが「思考とは、生を生きることそのものである」と証明してしまったからだ。









