ヘーゲルとニーチェは、十九世紀ドイツ思想の両極をなす哲学者である。両者はともに「近代」を徹底的に思考したという点で共通しているが、その結論はまったく逆方向に向かっている。ヘーゲルは理性と歴史の総合をめざし、世界のあらゆる矛盾を「精神の自己展開」として統合しようとした。一方でニーチェは、理性や体系化そのものを病理として批判し、「生の力」や「価値創造」といった非体系的な動的原理を重視した。二人の思想を比較すると、まるで巨大な大聖堂と爆弾のような対比をなす。前者が世界の秩序を築こうとした建築家なら、後者はその秩序を爆破して自由を取り戻そうとした破壊者である。

ヘーゲルの哲学は「弁証法」と呼ばれる運動の理論に支えられている。彼にとって世界は固定的なものではなく、常に矛盾と対立を内包しながら発展していく。たとえば、個人の自由と社会の秩序、主観と客観、感性と理性といった対立は、単なる衝突ではなく、より高い次元での統合へと導かれる「止揚(アウフヘーベン)」の契機である。ヘーゲルはこの運動を通じて、歴史全体が「絶対精神」の自己認識へ向かう過程であると考えた。つまり、ナポレオンの戦争も市民革命も宗教改革も、最終的には人間精神が自らを理解するための段階にすぎない。人類史は、神が自分自身を知るための壮大なドラマであり、ヘーゲルはその脚本を哲学の言葉で描いたのだ。

これに対してニーチェは、ヘーゲルのこの「全体性」への信仰を徹底的に拒否する。彼にとって歴史や理性の運動は、人間の生のエネルギーを奪い、弱者の道徳を正当化するための仮面にすぎなかった。ニーチェが「神は死んだ」と宣告したとき、それは単に宗教批判ではなく、ヘーゲル的な「理性の神化」への死刑宣告でもあった。世界にはもはや「全体」は存在しない。あるのは多様な力と欲望の闘争であり、その渦中で新しい価値を創造する「超人」こそが生の本質を体現する。ニーチェにとって哲学とは体系ではなく芸術であり、論理ではなく詩であり、真理ではなく力である。

しかし、両者は意外にも深い共通点を持っている。第一に、どちらも「現代人の自己理解」を中心に据えている点だ。ヘーゲルは「精神の発展史」を描くことで、自己が歴史の産物であることを明らかにした。ニーチェもまた、道徳や価値がどのように形成されたかを「系譜学」として追跡し、我々の思考や感情が歴史的に構築されたものであることを示した。両者とも「自明と思われているものを疑う」という点で、近代の自己意識を深く掘り下げた思想家である。彼らの哲学はどちらも、「いま私たちはどこに立っているのか」という問いを突きつける。

第二に、両者は「否定」の哲学者である。ヘーゲルにおいて否定は、発展の駆動力だ。あらゆる存在は自らの矛盾によって自己を超え、より高次の形態へと移行する。ニーチェにおいても否定は重要だが、その方向は異なる。彼は既存の価値を「破壊」することで、新しい生の肯定を実現しようとする。つまり、ヘーゲルにとって否定は統合への契機であり、ニーチェにとっては創造への契機である。どちらも「否定を恐れない」という点で、きわめて能動的な哲学を展開している。

だが、両者の決定的な違いは、「全体」と「個」の扱いにある。ヘーゲルは個人を全体の中で理解する。彼にとって個は全体精神の部分であり、その意義は歴史的運動の中に溶け込む。個人の自由も、国家や倫理共同体という全体的枠組みの中で初めて実現される。これに対しニーチェは、全体を拒否して個を極限まで肯定する。彼にとって真の人間は「群れ」から離れ、自らの力を信じて生きる孤高の存在だ。超人は社会や道徳の枠組みを越え、自分自身の法を創造する存在である。ヘーゲルが「理性的国家」において自由を見たのに対し、ニーチェは「国家の彼岸」において自由を見たのである。

また、時間と歴史に対する感覚も正反対だ。ヘーゲルの時間は線的で、歴史は段階的に進歩していく。人間の精神は必然的に自由へと向かう。その運動は弁証法によって保証されている。一方、ニーチェの時間は円環的である。彼の「永劫回帰」は、歴史が進歩ではなく反復であるという徹底した逆説であり、進歩信仰そのものへの挑戦だ。ヘーゲルが「理性の勝利」を信じたのに対し、ニーチェは「運命の反復」を笑う。世界は意味を持たないからこそ、我々が意味を創造しなければならないのだ。

この違いは、文体にも明確に表れている。ヘーゲルの文章は重厚で抽象的、まるで論理そのものが自ら思考しているかのような荘厳さを持つ。彼の文体には一行ごとに世界史が詰まっている。一方、ニーチェの文体は稲妻のようだ。彼の言葉は断片的で詩的であり、哲学書というより預言書に近い。ヘーゲルが「理性のオーケストラ」であるなら、ニーチェは「孤独なヴァイオリン」だ。だがその旋律は、時にオーケストラ全体よりも強く響く。

ヘーゲルとニーチェは「哲学とは何か」という問いに対して異なる答えを出した。ヘーゲルにとって哲学は「世界の理性を知ること」であり、ニーチェにとって哲学は「世界を再創造すること」である。ヘーゲルの哲学は「理解の哲学」であり、ニーチェの哲学は「生成の哲学」だ。前者は「知る」ことによって世界を救おうとし、後者は「変える」ことによって世界を救おうとする。両者の間には百八十度の差があるが、そのどちらも近代の宿命を背負っていた。すなわち、神なき時代において人間が自らをどう理解し、どう生きるかという問題である。

もしヘーゲルが「理性の建築家」だとすれば、ニーチェは「魂の爆破者」である。しかし、この爆破は無意味な破壊ではない。彼は瓦礫の中から新しい神殿を建てることを望んでいた。理性の廃墟の上に、生の芸術としての哲学を築くこと。そこにニーチェの真の目的があった。したがって、ヘーゲルとニーチェは、敵対する二人の思想家であると同時に、同じ山の異なる斜面を登った兄弟でもある。彼らの思索は、いまもなお「人間とは何か」という問いの頂上で交差し続けている。