ヤンキーのパンチに認識論は無意味、というか出る暇さえなかった。

デカルトが「我思う、ゆえに我あり」とかなんとか言ってたが、あの瞬間の俺に言わせれば「我殴られる、ゆえに我は地に伏す」だ。そこに「思う」が入り込む余地はミクロンもなかった。目の前で握られた拳が、次の瞬間には俺の頬でその存在を証明していた。主観がどうとか、客観がどうとか、そんな議論は、時速50キロで迫りくる現実の硬度と質量(おそらく彼の体重の数パーセントが乗っていたであろう)の前では、あまりに無力だった。

事の発端は、駅前のコンビニで俺が発した一言にある。深夜、夜食のカップ麺を選んでいた俺の目に、金髪に紫のメッシュを入れ、派手なジャージを着こなした彼が飛び込んできた。その完璧な様式美に、俺の脳内に住む知的好奇心の悪魔が囁いたのだ。

「そのヘアスタイル、ある種のブリコラージュっすね。既存の要素を組み合わせて、新しい意味を生み出してる感じが」

自分でも何を言っているのか分からなかった。多分、最近かじった現代思想の用語を使ってみたかっただけなのだ。彼はきょとんとした顔でこちらを向き、手に持っていたアメリカンドッグをゆっくりと置いた。

「あ? ブロッコリーがどうしたって?」

違う。そうじゃない。だが、彼の眉間に刻まれた皺の深さが、これ以上の対話が生命の危機に直結することを示唆していた。しかし、俺の口は止まらない。ああ、これがいわゆる「現象学的還元」ってやつか? 目の前のヤンキーという存在から、あらゆる意味を一旦カッコに入れて、純粋な意識だけを取り出そうと…している場合か!

「いや、なんでもないです。独り言です」

そう言って俺はそそくさと会計を済ませようとした。だが、彼は俺の肩を掴んだ。その握力は、カントが提唱した「物自体」のように、決して認識できないが、確かにそこに「在る」ことを俺に教えた。

「にいちゃん、さっきからブツブツ言ってっけどよ。俺のことバカにしてんのか?」

「滅相もございません! むしろリスペクトです! あなたのその圧倒的な存在感は、まさに『絶対的な他者』とでも言うべきもので…」

その瞬間だった。彼の右ストレートが、俺の左頬にクリーンヒットしたのは。

世界がスローモーションになった。殴られた衝撃で吹き飛ぶ俺のメガネ。蛍光灯の光が網膜に焼き付く。頬に走る、焼けるような痛み。ああ、これが「クオリア」か。この「痛み」という質感は、俺だけが感じている主観的な体験であり、他者には決して共有できない…。

いや、待て。

地面に倒れ込み、じわじわと広がる痛みの中で、俺はある種の「コペルニクス的転回」を迎えていた。これまで俺は、自分の頭の中、つまり主観的な認識こそが世界の中心だと思っていた。だが、違う。この「痛み」こそが、俺という存在と、このどうしようもない現実世界を繋ぎ止める、唯一絶対のアンカーなのではないか?

頭でっかちにこねくり回した認識論なんて、この拳一つで軽く吹っ飛んでしまう。だが、この痛みだけは、疑いようのない「事実」として俺の頬に存在している。殴られたという事実。痛いという事実。俺は今、紛れもなく「現実」とやらを、身をもって認識している。

「…いってぇ」

思わず漏れた声は、あまりに哲学的でなく、あまりに人間的だった。

顔を上げると、拳を握った彼が俺を見下ろしていた。その顔は、怒りというより、何かをやり遂げたような、不思議な達成感に満ちているように見えた。

「にいちゃん、よくわかんねえけどよ。なんかスッキリした顔してんな」

そう言うと、彼は「釣りはいらねえ」とばかりにアメリカンドッグ代の小銭をレジカウンターに置き、去っていった。

残されたのは、じんじんと痛む頬と、床に散らばったカップ麺、そして一つの確信だった。

認識とは、頭の中で完結するゲームじゃない。それは、時として拳で語られ、痛みによって刻まれる、極めてフィジカルな営みなのである。俺は床に転がったまま、妙に晴れやかな気分で、今夜の夜食は醬油味にしよう、などと考えていた。頬の痛みが、その醬油の塩辛さを、きっといつもよりリアルに感じさせてくれるだろうから。


哲学入門 総集編
うしP
2025-03-18