内容紹介
数学や工学を学んだ異色の哲学者ウィトゲンシュタイン。彼の言語哲学は日常を一変させる鋭い思考実験に満ち、語りえぬものに挑む驚きの連続が待つ。難解そうでいて、実は人生観を変える大きな刺激に満ちている。この冒険へ、ぜひ一歩を踏み出してください。人生観を揺さぶる衝撃、哲学の新しい視界が同時に開けるでしょう。
他の小説を見る
1. どんな人?
生い立ちと家庭環境
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、オーストリア=ハンガリー帝国(現オーストリア)のウィーンに生まれました。父カールは大規模な鉄鋼事業で巨額の富を築いた実業家であり、ウィーンの文化サロンの中心的人物として知られていました。この家庭環境により、ウィトゲンシュタインは幼少の頃から音楽家や芸術家との深い交流の中で成長し、豊かな芸術的素養を身につけます。一方で、父カールの厳格な教育方針は子どもたちに大きなプレッシャーを与え、兄弟たちの中には自殺者も出るほどの重苦しい空気が漂っていました。こうした環境がウィトゲンシュタインの内面に影を落とし、のちに哲学的問題へと向かう強い内省力を育んだと言われています。幼少期から数学や工学に興味を示していたウィトゲンシュタインは、複雑な機械の仕組みや理論に触れることで、論理的な思考力と発明への探究心を育てていきました。このように、厳しい教育や芸術文化の刺激が混在する家庭環境こそが、後年の彼の独創的な哲学の原点となったのです。
青年期の思想の芽生え
ウィトゲンシュタインの青年期は、工学分野での学びと哲学への関心が交錯する時期でした。1906年、ベルリン工科大学に入学し、のちにマンチェスター大学でも航空工学を学びますが、当時の彼は飛行機のプロペラやエンジンの構造など、具体的な技術面に強い興味を持っていました。しかし、一方で数学の基礎付けや論理学の問題に心を惹かれ、ゴットロープ・フレーゲやバートランド・ラッセルの著作に触れることで、徐々に哲学への関心を深めるようになります。特に「数の本質」や「論理と言語の問題」に強い興味を抱き、それらを解き明かすために数学から哲学へと軸足を移していく様子がうかがえます。若きウィトゲンシュタインは、世界がどのように構成され、いかなる論理によって成立するのかを掘り下げようとする純粋な探求心を強く抱いていたのです。彼がこの時期に培った理工系の視点と論理への関心は、『論理哲学論考』をはじめとするその後の哲学的業績の基盤となります。
ケンブリッジ時代
1911年にウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学を訪れ、当時イギリスで名声を得ていた哲学者バートランド・ラッセルに弟子入りする形で哲学研究を本格化させます。ラッセルとウィトゲンシュタインは当初、数学基礎論や論理学の話題で活発に議論を交わしましたが、次第にウィトゲンシュタインの思索の深さと独創性がラッセルを驚嘆させるようになります。実際、ラッセルは「ウィトゲンシュタインは自分の学生の中で最も天才的な人物である」と評したほどです。このケンブリッジ時代に彼は「言語と世界の関係」を論理的に突き詰めることに情熱を注ぎ、その成果が『論理哲学論考』へと結実していきます。また、イギリスの学界は当時、経験論や分析哲学を中心とする風潮が支配的でしたが、ウィトゲンシュタインはその中で独自のスタイルを育み、哲学が抱える根源的な問いを斬新な仕方で示す手法を身につけました。この時期の師弟関係と学術的環境が、ウィトゲンシュタインの初期思想を形成する上で決定的な役割を果たしたといえます。
第一次世界大戦とその影響
ウィトゲンシュタインの人生に大きな転機をもたらしたのが、1914年に勃発した第一次世界大戦です。彼はオーストリア軍に志願兵として従軍し、激戦地を転々とする危険な任務をこなしました。前線の塹壕で常に死と隣り合わせの状況に置かれながらも、手帳には哲学的断想を書き続け、後の『論理哲学論考』の草稿としてまとめられていきます。戦場での死の恐怖や生の儚さに直面する体験は、彼の哲学に「語りえぬもの」や倫理的次元への深い洞察を付与し、単なる論理の枠組みを越えた存在論的な思索を深めるきっかけとなりました。実際に、彼は前線での手当てに感謝された際、自身の財産を寄付して慈善活動に充てることを検討するなど、精神的にも大きく変容していきます。こうして生死の境で練り上げられた思索が、戦後のヨーロッパ思想界に衝撃を与える名著誕生の布石となっていったのです。
他の小説を見る

コメント