内容紹介
なぜ人は苦しみの渦に巻き込まれるのか?ドイツの鬼才ショーペンハウアーが明かす、世界を駆動する盲目的“意志”の正体。その絶望的なはずの哲学が示す“芸術”や“禁欲”、“慈悲”による驚きの解放への道とは?苦悩と欲望の連鎖から脱け出すヒントを得たいなら、本書のページをめくる手が止まらないはず。さあ、苦しみを見つめ、その先にある一瞬の安らぎを探りにいこう。挑発的な思索の深みが、あなたの人生観を根底から揺るがすかもしれない。

他の本を見る


試し読み 

Ⅰ.表象とは

ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788–1860)は、ドイツ観念論の流れをくみつつも、独自の悲観主義的哲学を打ち立てた思想家として知られている。彼の主著『世界としての意志と表象』(原題:Die Welt als Wille und Vorstellung)において、もっとも中心的な概念の一つが「表象(Vorstellung)」である。ここでいう「表象」とは、私たちが外界を認識するときに形成する主観的なイメージや観念、あるいは感性的な知覚を総称する概念であり、ショーペンハウアーはカントの「現象(Erscheinung)/物自体(Ding an sich)」の区別を踏まえて、私たちが認識できるのは「表象としての世界」にすぎないと説いた。

しかし、ショーペンハウアーはカントと異なり、「物自体」を「意志」と呼び、世界の根源原理と位置づける点に独創性を持つ。すなわち、世界をありのままに把握することは不可能であり、私たちが接触できるのは主体と客体の相互関係のなかで成立する「表象」だけである、と考えたのだ。表象とは、決して主観の内部にとどまる幻影などではなく、私(認識主体)と外界(認識客体)のあいだに生起する構造そのものである。この構造において、空間や時間、そして因果律といった先天的な枠組みが働いており、私たちはそれらを通じて初めて世界を認識可能なものとして捉える。

こうした認識形態を踏まえると、「私が見る世界」は常に「表象としての世界」であり、それ以外の仕方で世界を直接知ることはできないことになる。ショーペンハウアーは、この考え方を「世界は私の表象である」という有名な一命題にまとめた。これによれば、現実とは客観的に「そこ」にあるものというより、私たちの認識能力によって構成された相対的な実在として成り立つ。主観の枠組みを通じて初めて成り立つ世界、という視点はデカルト的な近代哲学の伝統をさらに推し進めたものであり、同時に主観と客観の厳密な切り分けに疑問を投げかける契機ともなった。

また、ショーペンハウアーは「表象」という概念を芸術論や美的体験とも密接に結びつけている。日常生活では、人間は欲望や利害に根ざした見方をしがちであるが、美的直観においては対象を「純粋な表象」として鑑賞することが可能になる。そのとき、意志の要求から一時的に解放され、純粋に客体そのものを楽しむ状態に入るとされた。これによって、世界に苦悩をもたらす「意志」から解放される瞬間が得られるのだ。いわば「表象の純粋な観照」は、ショーペンハウアーが「意志からの一時的逃避」として高く評価した芸術の本質的な営みを指し示している。

「表象」の概念が、単なる認識論上の用語にとどまらず、ショーペンハウアーの存在論や芸術観、さらには倫理観までも貫く鍵概念となっている点は注目に値する。彼は、世界の真の実在を「意志」と捉えながらも、私たちが実際に経験し得るのは「表象としての世界」だけであると繰り返し強調する。言い換えれば、人間は自分の認識形式をとおしてしか世界に触れられないという洞察が、彼の哲学の根本にあるのだ。




他の本を見る



イラスト3