内容紹介
記憶の曖昧な「男」が、灰色に染まる不条理な街をさまよい続ける。狂った時計やぼんやり光る街灯、謎めいたカフェ、そして崩れ落ちる建物が繰り返し現れる中、出口のないループに囚われた世界はときに歪み、ときに静まり返る。この不可思議な街で、自分とは何者なのか、なぜここにいるのかを問い続ける男は、わずかな光を求めて扉を開き、また閉じる。重なり合う亀裂と影の狭間で、見え隠れする真実とは――果たして、その先に光はあるのだろうか。

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第一章:灰色の街

 窓から差し込むわずかな光をたよりに、男は部屋の内部を見回した。古びた壁紙はところどころ剥がれ落ち、床板の軋む音が絶えず聞こえる。電灯があるのかどうかさえ判別できないほど、室内は薄暗かった。外の景色も同様に陰鬱で、灰色の空が建物の間に息苦しく張りついている。時刻を知ろうと時計を探してみるが、壁に掛けられていたはずの時計は針も数字も欠け、役目を放棄したようにただ空虚な円盤を見せているだけだった。

 男は、ふと窓際に近づき、ガラス越しに街を見下ろす。そこには古めかしい建物の数々が連なり、そのすべてがくすんだ灰色を帯びていた。まるで長い年月を経て色彩が抜け落ちてしまったかのように、生命感の乏しい景観が広がっている。ところどころに立つ街灯さえ、ぼんやりとした白熱灯のようで、昼か夜かを問わず一定の薄暗い光を放つだけである。どの街灯も互いに照射範囲を争うかのように微妙に光量が異なり、見ていると目の焦点がずれてくるような不快感を覚えた。

 さらに視線を遠くにやると、あちこちに時計台のようなものが立っているのが見える。しかし、そのすべてが別々の時間を示しているらしく、あるものは二時二十分、別のものは十時三十五分、といった具合に、都市全体で時刻がまったく統一されていないのだ。そもそも正常に動いているのかさえ疑わしい。秒針の動きをじっと見つめてみると、急に止まり、しばらくしてから不自然な速さで動き出すときもあった。まるでこの街自体が“時間”という概念からこぼれ落ちているように思える。

 建物の形状にもどこか歪んだところがあった。まっすぐに立っているはずの壁が微妙に傾き、窓の大きさや形もまちまちで、統一感がない。石畳の路地もところどころに亀裂が走り、そこからはわずかに湯気のようなものが立ち上っている。まるで街の下には別の空間があって、不気味な熱がゆっくりと地表へ漏れ出しているかのように感じられる。

 そして、空。雲が重苦しく垂れこめ、色は限りなく灰色に近い。ときおり空全体が微妙に明るんだかと思うと、すぐに再び薄暗くなる。雨が降りだしそうで降りはしない、その曖昧さがずっと続いているらしい。時間の感覚を忘れさせるほどに、同じ天候が際限なく繰り返されているのだろうか。男には、この街において夜と昼の区別が本当に存在するのかどうかさえ疑わしく思えた。

 そんな景色の中でも、ときおり自動車のような乗り物が通り過ぎるのが見える。だが、エンジン音は妙に小さく、まるで遠くのラジオの雑音を聞いているかのように微弱だ。車体の色は濁った銀色か黒。ナンバープレートらしいものも確認できるが、文字が奇妙に歪み、まるで言語として成り立っていないように見えた。通り過ぎていく車の動きは一定で、加減速らしき変化もなく、ただ機械的に道路をなぞっているだけのようだ。

 さらに通行人の姿を追うと、彼らは皆、灰色や黒の服を着て、まるでロボットのように同じ速度で歩いている。傘もささずにうつむきがちに前進しては、ある地点まで行くとまた戻ってくる。その動きには秩序というよりもむしろ“プログラム”された繰り返しのような、不可解な規則性が感じられた。男は思わず窓ガラスに手をつき、そこに映る自分の顔を見つめる。どこかで見たことのある顔――しかし、その顔が自分のものだという確証すらいまいち持てずにいた。

 部屋の奥に目を戻すと、床に一枚の紙切れが落ちているのを見つける。拾い上げてみると、何やら文字が書かれているが、ところどころインクがにじんで読みにくい。それでも判読可能な部分には「……いつも曇りの……時計……すべて……帰れない……」といった単語らしきものが見える。まるでこの街の状況を表した走り書きのようだが、書いたのは誰なのだろう。あるいは、男自身が書いたのかもしれない。それすら分からないほど、男の記憶は曖昧だった。

 男は再び窓に視線を戻す。ガラスには薄いヒビが走っていて、指先でそっと触れるとガラス全体がかすかに振動する。そのヒビは窓枠の下から上へと真っすぐ伸び、そこから細かな線が放射状に広がっていた。まるでこの街の不条理が、一枚のガラスを通じて男に迫ってくるかのような感覚。ヒビ越しに見る街の景色は、さらに歪んで見えた。

 気づけば男は、ここがどこかも知らないまま、ただ自分が「この窓から街を見下ろしている」という事実だけをたよりに時間をやり過ごしている。いつからここにいるのか。なぜこの部屋にいるのか。そもそも自分は誰なのか。疑問は次々と湧いてくるが、そのどれにも答えが得られない。まるでこの街と同じく、男自身の存在が曖昧なまま宙づりにされているようだった。





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