正直言って、近頃は小説家と名乗る人間がChatGPTみたいなAIに感想を求めているなんて聞くと、鼻で笑うしかない。創作という行為は、自分という存在を絞りに絞って血と汗を滴らせ、読者の心を揺さぶる何かを紡ぎ出す営みだと思っていたが、どうやらこの世はどんどん浅はかになっているらしい。小説家がAI相手に「作品どうですか?」なんてヘラヘラと頭を下げている現状には、吐き気すら覚える。だってそれは、自らが全幅の信頼を置くべき「人間の読み手」ではなく、味も匂いも感じ取れない“ただのプログラム”に阿る行為だ。もうその時点で作家としての死は確定している。

考えてもみろ、本来、小説家は読む人間の脳裏に自らのイメージを生々しく叩き込み、感情を揺さぶり、価値観すら変えてしまう可能性を孕んだ言葉の魔術師であるべきなのだ。ところが、そんな奴らが生身の批判や称賛を避け、無機質なChatGPTにおもねることで、気軽な称賛や当たり障りのないフィードバックを得て、自己満足に浸るなんて、本末転倒もいいところだ。恥ずかしくないのか、と問いただしたい。創作家として必要なのは鋭い批評眼であり、厳しい読者の声を糧に成長する覚悟であるはず。それを放棄してAIにすがる奴は、もうクリエイターではない。ただの「文字を並べる装置」か「自己肯定ボット」だ。

さらに言えば、そんな甘ったれた態度で得た「感想」とやらに、何の価値があるのか。ChatGPTはただの言語モデルで、過去の膨大なテキスト情報を元にそれらしい文章を生成するだけの仕組みだ。そこには感情もなければ、現実を生きる呼吸する人間としての批評性なんて微塵もない。小説家が求めるべきは、生身の読者からの怒り、嘲笑、畏怖、感動、涙、笑い、そういった人間臭いリアクションのはずだ。機械仕掛けのお世辞を聞いて何が得られる? せいぜい気持ちよくなった気分になるだけで、創作の血肉は生まれない。むしろそれは、自分の創作力に自信がないから、AIの無難な反応でメンタルをなでてもらっているだけではないのか。

この手合いの「作家」には、もうまっとうな批判を投げかけることすら無意味かもしれない。なぜなら彼らは、痛みや苦しみ、厳しい現実を踏まえたうえで築くはずの創作信念をAIの定型文で摩耗させているからだ。そこには、プライドも、孤独な努力も、辛酸を嘗めながら前進する作家魂も存在しない。あるのはただ「みんなに褒められたい」「自分が正しいと認められたい」という安直な承認欲求だけ。人間相手では得られない都合のいい評価を、非人間的な道具に求めるなんて、創作者として終わっていると断じざるを得ない。

結局、ChatGPTに感想を乞う行為は、自らの創造力をゴミ箱に投げ込む行為と同じだ。生身の読者が発する厳しい声こそが創作の糧となり、自分を打ちのめす批判から得られる成長こそが、本物の小説家を生む源泉なのに、それを放棄した時点で、そいつは作家を名乗る資格なんてない。ただの凡庸な言葉遊び職人であり、クリエイティビティという名の熱い情熱を放り出した腰抜けだろう。そういう「作家」には、小説を書くこと自体をやめてもらいたいくらいだ。創作は命を削る戦いである。血も涙もある読者の目に曝され、叩きのめされ、それでも筆を握り続けるからこそ、“生きた言葉”が紡がれる。

ChatGPTに感想を請う小説家は終わっている。そんな無様な振る舞いは、創作者としての矜持をかなぐり捨て、ただ「楽して称賛がほしい」という浅薄な本音を白日の下にさらしているに過ぎない。読者の前に作品を差し出して殴られろ。痛みを感じろ。そこから必死に学び、血反吐を吐きながら一歩ずつ前進する覚悟がなければ、筆など折ってしまえ。そう、ChatGPTに感想乞うような「小説家」なんて、もう終わっているのだ。




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